こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

風水都市

広島城施主の毛利輝元は1563-11歳のとき、父隆元を亡くし、家督を継ぐが幼く、祖父毛利元就が後見として差配してきた。18歳のとき元就が1571年に死去する。彼は吉田、郡山城そばに元就の墓所と菩提寺の洞春寺を建設している。


自分が23歳で父を亡くし家業を継いでから、フラフラの人生だったから、18歳の輝元の西国一の武将の家の家督相続の重みの凄さはとても測れない。きっと大変であっただろう、とだけ、おもってしまう。少しだけ身近なのだ。


1589年、城普請の見立、1591年 輝元は、まだ未完であった城へ入城。そして完成1599年。

入城すぐの1592年に吉田・郡山から洞春寺を広瀬神社の位置に移築している。この場所が元就厳島合戦戦勝祈願の己斐旭山神社(己斐松山)と天守閣を結んだラインにある。元就の拝み墓所に思える。天守閣から己斐松山を俯瞰すし、そのまま目線を落とせば、大クスの木の繁る広瀬神社と祖父のある洞春寺が見分けられる。それは、懐かしい気持ちか、すがりたい-なにか、か。


広瀬神社HPにはここに広瀬弁財天社があったとある。城に西の本川河畔に中津宮社(宗像三女神の二女・湍津姫神(たぎつひめのかみ))東の京橋川河畔に厳島神社(市杵島姫神)と宗像の陰が濃い。ここが田心姫神(たごりひめのかみ)であったら、そろい踏みなどと妄想する。毛利氏が戦国屈指の勢力となった合戦の厳島の女神がちりばめてある。ちなみに日本三大弁財天は厳島(宗像)、琵琶湖・竹生島(弁財天)、鎌倉そば・江の島(弁財天)とされている。


宮本常一が尾道沖の百島を歩いた時「墓がいろいろのところにある。畑の中に、ブタ小屋のうしろに、家の軒下に、渚近くに。どうしてこんなところに墓をたてたのか、きいてみると、死者のあったとき、その人の年齢やその年の干支など見合わせて、その方向をきめるのだという。時間があれば僧にもあってくわしく聞いてみればよいのだが、そういうことはしなかった。瀬戸内の島々はずいぶん歩いて見た。そかし墓がこんなに方々にバラバラにあるのもめずらしい。私の日本地図6 昭和44年発刊」


25年ものちに百島に渡って走ってみた。小さな島で何とか海岸線は一周できる。島中央の茶臼山にも登ってみた。注意して見てみたが宮本のいうバラバラな墓は見られなくて、きっと集められて集合墓地になったのだろう。集合では方角は選べない。

ただ猫の多い島の印象が残っている。


「墓所・墳墓・古墳の築造の際に主軸の方向を揃えず、はなはだしいのは隣同士で逆方向になったりしているのは、風水思想にとって築造されたからだと思う。家宅を建てるにも都市を建設するのにも、この道家的な神仙思想からの風水思想を法則としている。 松本清張・日本書紀を読む」


広瀬神社(洞春寺)の位置は掩蔽・エンペイ(occultation):陰に隠れる:になる。日食、月食などの天文学用語 特別な位置関係がそこにある。


「風水は、前もって良い土地(脈により気が集まる場所)を、こまごまとしてわずらわしく複雑なノウハウの蓄積で指定できるというシステムである。中国では伝統的に“術数”とよんできた。また“地理”とも。  風水講義・文春新書488


先日将棋のコンピュターシステム“ボザンナ”の製作者の山本一成さんがTVでの話の中で、「システムのメンテナンス作業は工夫と失敗との連続作業で、うまくいった場合、それができた訳はわからないのだ。結果オーラーなのだ。それはヨーロッパの中世の黒呪術と同じように感じる。」と話されていた。“風水”と“ボザンナ”とは、似ている!。


“上洛”という言葉はなぜか京都に入ることだが、平安京が建設されるとき、京の東半分を中国の都市“洛陽”とよび、よって洛陽に上ることで上洛となった。西半分を“長安”とよんだが、のち西半分、右京は湿地が多く荒廃して忘れられた。地下水脈が移動したともいわれる。中国の都市のコピーは風水思想のコピーになっている。


双ケ丘の南山麓に鎮座する木嶋神社(蚕の社)の森を元糺の森といい、鴨川と高野川の合流地点の下鴨神社そばの鴨河合神社と下鴨神社の境内の森を糺森とよばれる。元糺の森が枯れたのだろうか。今はただの鎮守の森です。この二つの森は朱雀大路を中心線にしてそれぞれ900丈、5里の地点にある。古代の都市計画が浮かび上がってくる(足利 健亮・NHK人間大学)。

が、現在はその中心線の朱雀大路のほとんどは路地になり、大内裏は家並みに沈んでしまって、走ってみても大きな感動はなかった。京都は結構新しいと思ったりした。



直線で構成された区画に構築物をシンメトリーに配置した“平安京内外の計画 (足利健亮・京大元教授)”です。

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1993年台湾からの大阪大学留学生の黄永融氏が京都府立大学で発表した『風水思想における・・・平安京・・・日本古代宮都計画の分析研究』が最初といわれるぐらいあたらしく、風水の研究はただの占いの扱いだったようだ。


黄氏のレポートは読めなかったが、「風水と天皇陵 講談社現代新書・来村多加史」に“東アジア最高の風水の宝地”のページがあった。ほかに学教授などの著作は見つからなかった。


『平安京は理想的な風水の宝地に営まれた都である。堪興家・カンヨカ(風水師)が重視するすべての要素を兼ね備えている。背もたれとなる“大帳”は鞍馬山・貴船山 両脇を抱える“左砂”は比叡山・東山、“右砂”は愛宕山・嵐山、南の“案山”は男山、“水法”は賀茂川・桂川』と書く。まぁよくわからない。決めつけれ、それを飲み込まされる不快感がある。


平清盛時代の平安京の想像図に風水都市京都のいくつかの風水たるところを記入してみた。右京はすでに失われている様子。が、書いている自分はどうしてそこが風水の場所なのか、わかっていない。のだけど。

松本清張先生は「直線で結ぶ方位論を見かけるが、図上の遊戯でしかない。」とおっしゃっていますが。これみてください。遊戯は面白くなくっちゃ。


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都市中央の最北部にまつりごとの場所大内裏を置く。その背景に天の回転の中心、北辰・北極星を頂く。この星を太一とも太極ともいい、また天皇大帝とよばれる(風水講義・中公新書488)。南を向き、まつりごとを発する。指南とされる。それらがデザインされた都市が風水都市といわれる。

船岡山と木津川の向こうにある甘南備山とのラインは東経135.44にあって、平安京の中心軸とされている。京都の水は鞍馬山と貴船山を水源とされていた。飛鳥、藤原京の記憶により、船岡山が耳成山、畝傍山が双ケ丘、天香久山が吉田山に比定され、古代飛鳥に発祥した朝廷を復活させている。


大内裏が消失したのちの京都御所は双ケ丘と吉田山の東西線を踏襲し、明治28年(1895年)に平安遷都1100年記念事業として建設された平安神宮は、京都荒廃のおり、仮御所に刻まれた今朱雀大路をその中心ラインとしている。

風水思想による都建設の企ては、のちの世にも踏襲されたのだろう。



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# by forumhiroshima | 2017-06-17 09:31

星宿海

龍は山脈に流れる「気」を示す。その「気」をうまく受ける、得ることで、その地、また人生の良いことが起きる、と風水の解説書はいう(はかる科学・中公新書)。その山脈とは、どうも普通に思う山のことだけでなく、すこしでも高い所も「山脈」であり、雨が降って現れる水路は「山脈」がつくっている、という。(風水講義 文春新書)イメージがわいてこない。

中国では風水を地理ともいう。五行や易によって判断する方法と、「脈」を地形判断から立地を見る方法とがある。広島城築城立地の判断は風水による地形判断があったとすれば、後者になる。七つの川の三角州といわれた広島のケースなら、水脈の判断があった痕跡を探してみることになる。はたして?迷宮に入り込んだ、ね。

中国にながれる長江、淮水、黄河を「三大幹龍」とされ、平原に大山脈のないかわりに、水が「脈」として「気」を導くとされる(風水講義)。とあったが、どうして山が川なのか?と、モヤモヤしている。説明しずらいから、占いで決着なのだろうか。“中国三大幹龍総覧図”が挿絵があって、ホットして覗き込んだ。

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「黄河はなァ、この星宿海で生まれて、五千四百六十四キロも流れていって、渤海で終わるんや。ちょっとでも暴れたら、村や町どころか、ちっちゃな国でも流してしまうほどの凄い河やのに、それが始まることは、星宿海っちゅう、星の数ほど小さな湖が集まっているところなんや 

・・・・中国では二千年近く、黄河の源流がどこなのかわからなくて、さまざまな伝説が生まれたが、なぜか星宿海は、瓢箪・ヒョウタンの形をして、絵地図に描かれるようになった・・・・宮本輝 星宿海」

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「三才絵図の星宿海の形が、ひょうたんが選ばれたのは、この植物はあたかも子宮のように万物の種を宿すとする伝承にもとづいているのであろう。黄河の源流には、小さな無数の沼沢が星屑のように考えられていたとしても、まさかおおきなヒョウタンがコロリと横たわっていると当時の人々にイマージされていたわけではあるまい。(差し当たり宮本輝氏の『星宿海への道』を読まれよ) 風水講義 三浦圀雄」

で、『星宿海への道』を開いたわけです。

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広島城築城に東の尾根に現れた「龍」が、太田川の源流に440年のちに現れた。

昭和1411月 民俗学者・宮本常一は島根半島の旅から島根県の江の川に郷土史家たちを訪ね、そこから芸北町にバスでやってきている。そのころ奥三段峡にまだ聖湖(樽床)ダムはできていない。今のダムの建設地あたりにあった峡北館という宿に宿泊し、主人の後藤吾妻さんにより聞いた話を「村里を行く・土と共に」に残している。

「『古事記』の大蛇退治はこの芸北・八幡村のできごとであろう、と説こうとしている人があるという。国学院大学をでたという相当の人物のようであるが、講演にきて土地の古い話を聞き、苅尾山は臥龍山、樽床は八つの酒樽を並べたところ等々と解釈し、この地方の屋根に千木をうちちがえているのは、神代様式の建築であったという。本気で言ったのであれば、いささかどうしているのであり、冗談半分の仕草であるとすれば罪が深い。土地の人は学者の言葉として、これを信じようとしている。 宮本常一」

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「苅尾山は、龍が臥していたところとして臥龍山。掛津山は龍が頭をもたせかけた場所として掛頭山となり、比尻山は聖なる場所として、聖山にしてしまったと思われる。

それにしても苅尾山または刈尾山という山名をカリュウあるいはカリオという名称が、山麓の雄鹿原、橋山、小坂、八幡、樽床で現在も使われていることはまぎれもない事実である。

“カリウ”の初見は1663年芸備国郡志である。“苅尾山”という字の初見は“八幡村御建山野山腰林帳1716年”である。・・・・戦前の陸地測量部発行の旧5万分の一図には苅尾山とあった・・・・千五の昭和二十二年版より“臥龍山”に改められているので唖然としてしまった。 

西中国山地 桑原良敏」

戦後にあらわれた「龍」に唖然としたのは広島女学院大学の先生だ。(掛頭山東斜面が芸北国際スキー場です)

宮本常一は樽床をでて三段峡の中間地点の餅ノ木峠をぬけ、水越峠の十方山西山麓の林道横川峠を雪の中一人でぬけて匹見へでた。この年十方山の東の打梨川沿いに立岩ダムが建設され、ダム湖は龍神湖と名付けられた。宮本はこのダム湖の名称をきいただろうか。他にも三段峡の入口に龍ノ口、樽床ダムへでた場所に龍門と名付けられている。山を枕に「龍」はよっぱらって酒樽を枕に寝そべっているのが、聖湖。いやいや、もっと意味深いものがあって、村人がひきつけられたナニカが「龍」にあったのではないか。などと思っていて、思い出した土地があった。

「龍」が天に登るすがた、「飛龍に観える-飛龍観」の日本三景の一つ・京都・天橋立。枕詞の「瓢葛・ヒサカタの天の梯建・ハシダテ」のヒサカタは“ひさごの形=ヒサゴのカタ”で、ヒョウタンの蔓がのびて、天にのぼる梯子であるという意味。そのころ、天がヒサゴであると想像されていた。 (谷川健一 古代人のコスモロジー)

丹後国風土記逸文にイザナギがイザナミの住む天上の地に地上から架けたハシゴが倒れた形が天橋立とある。このハシゴの素材がヒョウタンの蔓。東アジアの神話の広がりを瓢箪は感じさせる。

前方後円墳を横から見ると瓢箪を二つに割った形だといった民俗学者の三品彰英の説がある。

奈良、天理から東へ笠置山地に登るいくつかの峠に頭上に勧請縄というしめ縄がかけられ、時間の扉のように感じられる。境をこえる。深い森の中に鳥居が白く浮き上がっている。その多くに、九頭龍神社とあった。必ずそばに小川が流れていた。

「九」という奇数の極数と「龍」との組合せは、偶数の極数「八」と「大蛇」の組み合わせとどこかにている。龍はイザナミ・イザナギとの組み合わせのようだ。大蛇は当然スサノオとの組合せだ。京都守護神・スサノオの神社が八坂社であることも、そんなところかもしれない。


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# by forumhiroshima | 2017-06-12 10:35

龍の登場

広瀬神社から空鞘橋を渡って中央公園の芝生のマウントに着いた。己斐をスタートして、やっと広島城が現れた。

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お城の背景に二葉山の尾根が円錐形に見える。そのトップあたりに旧陸軍高射砲あとがあってそのすぐ下に金光稲荷神社奥宮が鎮座しているのだが、当然判別できない。芝生を踏んで進むと、二葉山の後背にある尾長山が天守閣と稲荷奥宮の尾根に重なってきそうになる。が高層アパートが己斐と二葉山のラインの見通しをさえぎってしまう。

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お堀端にでて、尾長山と二葉山と天守閣の不透明な三角関係を確かめたくなって、天守閣へ登ってみた。尾根山の山頂は二葉山の仏舎利塔の先っぽの向こうに隠れているようにみえる。ゆっくりと移動すると二つの山が重なるポイントはその二つがつくるラインを保持してくれる。航海者たちはこれを“山たて”という。

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己斐と二葉山とのラインは国土地理院デジタル版やGoogle Mapで面白く描き出される。かつ、正確な情報に基づいている。しかし、毛利輝元の城普請の設計図のできた時代はそうはいかない、だろう。

「地図の話 武藤勝彦 昭和17年発行 岩波書店」巻末に“父兄ならびに先生方に”と編集部から解説があって小学校上級生と中学生向けとある。最適なテキスト。

「まず日本全国5万分1地図製作のスタートに当たって原点を東京、麻布の旧天文台の場所と決め、そののちに基線を測量する。そしてその距離を測る。明治43年東京で始まった。基線は神奈川県相模野での5210mだった。

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作業は地表に杭をたて行われもした。そしてその向こうの測量地点は、多くは見通しのある山に置かれた。そのポイントの三角点は地中深く埋め込まれた石柱として残された。

ヨーロッパで始まった地図作りでは教会の塔が目標にされた。“ゴシックの教会は町とその周辺をつばさでおおうようにおさめよと建てられた。遠い道にまよう巡礼者の集まる地点になれ、避難所になれ、かれらの燈明台になれと建てられた。教会の鐘の音が夜人々の耳にはいるとおなじく、搭は昼、人々の目になれ”と彫刻家ロダンは教会の美しさについてこう書いている。この搭は地図作りの目標とされ、ある曇った日に搭のステンドグラスの反射でその位置を確認できてから、日光を鏡で反射させる器具ヘリオトロープがつくられ、精度が飛躍した。」

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己斐。旭山八幡神社の御神体の鏡を光らせ、二葉山の金光稲荷神社の鏡をその名の通り金色に光らせ、そのラインを確認することは、できるのではないだろうか、など、とおもった。

Google Mapに己斐-二葉山のラインを東に延ばせばどこにたどり着くだろうか?と遊んでいた。長尾山のトップを通って呉沙々宇山の尾根へ抜ける。呉沙々宇山からは城は目視できない。地図を拡大したとき長尾山の尾根にマークが現れて「龍の頭」のテロップが書かれていた。

己斐の旭山、牛田の見立て山と昔の言葉や伝承の中に、毛利輝元という武将が首府を新しく作る、その思いや指針がユラユラしていた。そこに「龍」が登場した。

尾長山から続く牛田山への尾根の西斜面に真言宗・龍蔵院が地図にある。その龍へむかった。急斜面の上にテーブル状に広がる住宅地の谷筋に赤い鳥居があらわれ、階段の参道が森の中の静かな山道になって、そこに読経がこぼれて聞こえる。

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ダライ・ラマ14世のインドの拠点、デプン・ゴマン学堂からやってきたチベット仏教僧侶が絶え間なく読経している。そのお堂前に寺創建の縁起が掲げてあった。「この寺のご本尊・歓喜天は天正171589226日毛利輝元公が築城にあたり二葉山より牛田山に地勢を見る際、清水こんこんと湧く泉の中から見つかった。この吉兆を悦び築城を決意し、以て毛利家代々の守り本尊とされた。」

寺のある谷は清水谷とよばれ、ここから縮景園に送水された場所になる。清水とうおばれる所以だろう。いまは住宅街に沈んで、清水谷と呼ばれた余韻もない。

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風水は「山はひとかたまりの土くれと石の小山ではなく、風、雲の調和をもたらす“龍”にみえてくるのである。次に風水師たちは、この龍をさがしに出る。風が山に当たり水を吐き出す。風が立つ方位とで大地の吉兆を占う。これらが生み出すエネルギーを“脈”という。山脈・水脈はこれをさす。人にあっては、血液の流れを読むことを“脈”をとるという。 風水地理入門 崔昌祚 チェチャンジュ」

Google Mapで現れた“龍の頭”のある尾長山へ向かった。山根町第3公園そばの石段から細尾根を踏む。落ち葉がすごい。あまり歩かれていない様子、急坂。岩場が次々現れる。Google Mapに写真で掲載された岩場に着いた。ここが「龍の頭」とあった場所だろうか。お城の天守閣はビルの陰、その向こうの体育館が見える。己斐は判別できない。鏡の反射光があったら。

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山の名で「頭」につくのは、自分の知っているかぎりでは、吉和の十方山の丸子ノ頭と三段峡のサバノ頭、どちらも内黒峠からの尾根のピーク。ならばここの「頭」もピークでは。尾根を登ってトップに向かった。体育館を探し確認しながらのぼる。トップは茂みの中になった。木立の中から二葉山の南斜面を接するような視線でやっと体育館を見つけた。己斐-天守閣のラインはここに集結するようだ。Google Mapにある龍の頭には違った意味があるのだろうか。

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尾長山トップの木立の中に西広島飛行場との標識のあるアンテナらしきものがフェンスに囲まれている。そばに小さな古い石垣が残されている。これって、見立て場の証拠!きっと、その時ドヤ顔だっただろうね、妄想を強化した。

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毛利輝元一行の見立ての人々が見ていた景色は、いくつもの砂州が海に洗われ、川は自由気ままにルートを変えながら海へ入っている太田川(佐東川)の河口だった。龍たちの遊び場に見えたかもしれない。

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# by forumhiroshima | 2017-06-04 09:59

旭山

大内氏の内紛ののちクーデターを成功させた陶晴賢との厳島での対決が迫った15559月 毛利元就は先に滅亡させた武田氏の居城であった銀山城にいた。そして兵士たちの待つ草津へ向かった。(新編広島市)その途中、己斐の八幡社で早朝に昇る朝日に戦勝祈願をしている。後に神社の名に旭山が付けられた。と、言われる。

厳島の合戦は101日早朝始まった。旧暦の晦日、929日夜の月は月齢0.3の新月、大潮の夜を元就は、はやる戦士に待つようにと抑えていた。その夜は闇夜の暴風であった。のち合戦の勝利を己斐八幡社は旭山八幡社と名をかえて元就参拝祈願を記憶した、という。

この合戦は陶軍を島に引き付ける作戦がすでに始動しており、決戦の日を元就は決定していた。

しかし、です。朝日への祈願、戦勝としても、旭山と記憶させる強い何かがあるように感じる。

己斐には、古代港であったこの地に伝承の人、神功皇后が立ち寄った伝説があって、その際に鯉を献上したことも地名由来といわれる。古代この辺りは己斐氏が起こっており、また厳島神社の祭神の宗像三神が鎮座する九州筑前・宗像の宗像氏一族・許斐氏のここへの到来も考えており、「鯉・カープ」の陰が薄くなる話もある。

元就が兵站基地とした草津はこの戦いの軍港であったことから、イクサツからの地名だといわれるが、九州国東豊後の宇佐神宮が、古くは宗像三神を祀っており、のちこの女神が厳島に現われ、ここにも渡ってきたことがあって宇佐津と呼ばれたこと、ともいう。宇佐の女神はのちに神功皇后にかえられて、宇佐八幡とよばれる。

宗像の神々に由来する神社が厳島だけにかかわらず、この海一帯に繁栄している。宗像「海人」のざわめきが聞こえてくる。

古代の己斐津に淡水魚の鯉の神話が見られることが、すでに港の機能は失われていた、のではと思わす。元就は朝日参拝に、砂州に太田川、そのころの佐東川が幾筋にも流れる景色をみたのではなかろうか。

924日には陶軍はすでに厳島に上陸し展開している。朝日にきらめく流れの先に厳島をを見ていた元就の姿が浮かんでくる。

この神社に孫の輝元36才が現れたのは、厳島合戦ののちの34年後、元就の死去から18年後だった。広がる砂州と干潟の海に城を築く場所を決めるためにやって来た。

古代の朝鮮半島では、「百済の始祖である温祖王が漢山に登り、地勢を観望し、天剣地利の形局であるので首都に定め、また高句麗の流瑠王は、周囲が険しく土地が肥えていることで、尉那城を置いた。風水地理入門・崔昌祚」などと風水の術で調べる大地の活力の如何が国家、国土に重大な影響を及ぼすという考え方を大切した。風水の調査指定の手順の中に、朝日山(旭山)がその起点になるという記述がある。

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織田信長が長良・木曽・揖斐川が集まる井之口であった集落を城下町に再編成する際、風水により求められた中国・周王朝・発祥の地の岐山を引き、岐阜(阜は丘の意味)と新しい地名にした(風水講義 三浦國雄)。風水は深く武将たちに支持されていたのではないか?。毛利輝元にも。

旭山八幡神社を毛利輝元が物見・国見のスタート地点にしたのは、祖父毛利元就の故事によるばかりか、風水の影響があったのではないか?だから城下設計の主軸が東へ傾いでいることの訳ではない、などと、思い始めた。が、風水はとてもとても理解できるような頭がない事ぐらいしかいくつかの解説書をみたが、サッパリわからなかった。手に負えない。そこで、広島城天守閣の位置決定のラインの一つを地図に落としてライン上から天守閣とそのラインを点々でしかないが、走ってみた。

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毛利元就が隠居所は祇園の銀山城にするといったが、新しく作るつもりもあったともいわれる。決戦の前にみた景色に中にその場所があったとしたら、その景色は砂州と干潟とそこに突き出た岩礁や砂山ではなかったか?。楠や松がまばらにその土地に枝を拡げていたのではないか?。岩礁や砂山が神社として残っているのではなか?

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まずは、岩礁の上に鎮座する白神神社へ向かった。お参りの多いお宮さんで、拝殿左の奥の常盤稲荷にも参拝者は切れない。その祠の右横の拝殿の下、奥の暗い岩礁の岩がこぼれ出ているその一つに翁が座っておられる。それはいつのころからか、参拝の機会にお会いするのが楽しい。竿があれば、まるで釣り姿。ここが城建設当時の波打ち際、渚であることは、神社横の由来説明にもある。

真西にある、己斐の社の尾根のすそもそのころの渚にあらわれていたのだろう。

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旭山神社から踏切をぬけ西国街道をとって東へ、己斐橋を渡り西郵便局の裏へ左へ。ここが昔のことだが、福島川が埋められてできた道。少しくねった道筋でも川の姿の痕跡は感じられない。大通り(相生通り)を東へ広瀬橋を渡って川土手の遊歩道から広瀬小学校の南側へ。広瀬神社の大きな楠の境内があらわれる。己斐の社から天守閣の直線ラインにこの神社がある。

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大楠の木は神社のHPによると樹齢300年以上とある。小山の端にへばりつくようにして、繁っている。400年前ここに毛利輝元が廣瀬市杵島大明神として社領を寄進したとある。

毛利元就の郡山の墓所の場所に吉田時代の洞春寺が元就によって建立されていた。築城に際して吉田・郡山からここへ毛利家菩提寺の洞春寺が移された歴史があって、毛利氏が萩へ移った時、洞春寺は萩からそして山口へと移転している。旭山から天守閣へのライン上に毛利家菩提寺が置かれたことに、感慨がわいた。

このラインに元就の菩提の寺を置いたことには、旭山で祈願した元就の夢は戦勝だけでなく、城の建立もあったのかもしれない。輝元にはその思いが深くあったのだろう。

奈良・山辺の道が通る崇神天皇陵(行燈山古墳)の中心線が大和川が奈良盆地から大阪へ流れ出るところに鎮座する広瀬神社を指している。飛鳥時代に天武天皇が厚く信仰した「広瀬」の名と、ここの広瀬神社とが、どこか気分の中で交差した。

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「前方後円墳の並び方は乱雑に見える。主軸の方向が揃ってなく、はなはだしいのは隣どうしで逆方向になったりしている。これは風水思想によって築造されたからだと思う。 松本清張・日本書紀を読む」

広島城築城の主軸が風水によっているのでは?、の思いに力強い意見だ。が、続いて「主軸のブレについて、直線で結ぶ方位論を見かけるが、図上の遊戯でしかないと思う。」

ガッツン!です。・・・・でも、でも・・・。


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# by forumhiroshima | 2017-05-27 10:33

広島城普請・測量道具の行方

出雲国風土記(733年)に「神名火山、郡家の東北のかた九里四十歩なり。高さ二百三十丈、周り十四里なり」などやまの高さが記載されている。古代の測量技術のプロは行基だけではないようだ。出雲生まれの開拓地普請のプロ、平田屋惣右衛門(日本人物風土誌)には出雲の歴史織り込まれている。

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602年半島の百済から観勒・カンロクが天文学、陰陽道の経典をもって渡来、聖徳太子が604年に彼のよった歴が採用されている。測量技術の伝播は古い。

納税金額を決める検地測量は武士にとって重要で、毛利氏も厳島合戦ののち獲得した大内氏の領地を検地している。毛利氏にとって測量技術は生存条件だったはず。

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としても、最も効率の良い南北ラインを広島普請に導入せずに、東へ傾けた複雑な設計基準線を採用したのだろうか。

広島普請以前に毛利氏の重鎮、元就の三男の小早川隆景はその領地の三原の海に砦を築いていた。1580年から始まっており、1590年ごろには広島城より早く、三原城は完成していたといわれる。三原城の基本線をさがすと、やはり東にかしいでいると見える。

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毛利家の祖・大江広元は下級貴族であっても都をのがれ鎌倉幕府の重鎮となった由来から、鎌倉の町の傾きも見てみた。鶴岡八幡神社の参道は海へむかって直線だった。若宮大路とよばれ京の朱雀大路をまねたという。が、東に傾いでいる。広島・三原と共通する何か秘密が?

八丁堀、福屋の西から今の金座街となった埋められた平田屋川。北へ向かう広電白島線が広島城の東堀のラインは、城普請のころ既に集落があり寺院があった白島(そのころ箱島)の、この海でもっとも古い歴史といわれる碇神社に延びる。そばにある宝勝院は城普請奉行の二宮就辰の子孫が広島城の鬼門守護として開基された。城に深い縁があるようだ。

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広島城完成時に測量につかった縄をここに集め、大繩に編んで大綱引き大会を開催したらしい。碇神社に大太鼓の祭りが開催されるが、その由来かもしれない。縄はここに収められたという。

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ビルや寺社、埋立地の突端、開削された掘割などに稲荷神社が勧請される。建築を縄張りいう。湿地に土盛りしてつくる道を畷(縄て)という。それらの守護の神として招来された神に収める縄張りにつかった縄を収めた倉庫が稲荷社となる。小さな道端の真っ赤な鳥居に出会うと、周りを見渡して、この土地の“きしかた”を思う。碇神社のクスの林に小さな祠が丹後だったか丹波か、〇〇稲荷社があった。

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碇神社の境内に箱島だったころの地図が掲示されていて、五箇ノ庄と周囲の地名が書かれて、その地名は所有者不明の湿地などの場所の一般名詞だという。広島はこの上にかぶさった地名で、城の南の海岸線の砂州はどんどん成長していたことだろう。曖昧な広さを言っているようにおもえる。広がる島!。

江戸時代・北斎の富嶽三十六景が売り出されたころ、江波島の漁師と仁保島の大河の漁師の海苔ヒビを置き栽培する干潟の領域争いが勃発。浅野藩が調停し、本川河口の“西袖の鼻”(砂州の突端だろうか)から真っ直ぐに見通し、“向こう沼田郡八木村の内 あぶ山を目標に”を境界線と決め、またこのラインが安芸郡と佐伯郡の新しい境とされた。(新修広島市史)

千田町は生まれていたが、吉島町は拘置所までが埋め立てられて先は海だった。宇品も出島も出現してはいない。のちに安芸・佐伯を合わせて、安佐郡が生まれ、のちのちに広島とかわる。

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海の新しいラインの基点の“西袖の鼻”は所在が分からないが、吉島の広島市環境局中工場へ向かうバス通りのラインは、広島城南の大手通りを北上しエディオン広島の西側から広島城天守閣を抜け阿武山へ到達する。天守閣と阿武山とのラインで漁場の境界を見分ける。見立ては漁師の重要なわざだ。違反は申し訳できない。

これが広島城の普請の基本線だろうか。厳島合戦を勝利した毛利元就は、水軍として戦ってくれたここの住人たちに、堤を築いて土地をつくれ!といい造った土地の所有を認めている。

今も広島市街地を東西に抜けるには時間か高速料金がかかる。城普請は海へ開かれて、上流から下流への縦にされ、横には直線で抜けるルートはない。城は海だけをみているようだ。

毛利元就は厳島合戦ののち、銀山城を隠居とし、地域の年貢の約二分の一を所有したいといい、代々の隠居所にするといっている。(新修広島市史)元就が水軍たちに土地を造らせる。それは、褒賞なのか、隠居所の守りの固めのための方便か。

戦国時代の屈指の武将の毛利元就の、その心がここに設計されて、それは道としていまに、ほとんど変わらず、ある。その上を自転車は走る。道の表情を伺い、走る。元就を伺う。


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# by forumhiroshima | 2017-05-18 08:19

広島、本川開削運河説

八丁堀、福屋の西、中の棚の入口の地面に平田屋川のここに流れていたという証のプレートが埋め込まれている。

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「平田屋」は広島城とその城下の普請に関わった人物で出雲の商人・平田屋惣右衛門の屋号をいう。広島城普請に雲州から招かれたという重要人物。彼が主軸を東に傾げる町の設計者なのだろうか。

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中公新書で2005年に「古代出雲への旅・関和彦」が出版され、出雲国風土記の世界に引き込まれた。江戸末期に風土記をもって記載される神社を訪ねる旅した平田の商家の主人の日記を今にトレースする旅が紹介するルートを自転車でトレースした。とても楽しかった。

日記をのこした小村和四郎の祖先・小村長政(近江商人)が近江・米原から1313年に出雲大社に参詣したおり「沢沼荒野の開墾を決意し、一族で開拓した。 古代出雲への旅」と伝わる。(石川 良一島根建築士会)

和四郎は旅立ちに袋町にあった自宅をでて氏神の熊野神社に参拝し出立した。和四郎の祖先が和歌山・熊野から1394年に勧請したと伝えられている和四郎の日記にある。が、風土記を調べる風潮が江戸末期に盛んになり、明治5年政府によって、出雲風土記記載の“宇美神社”とされた。神社創建の歴史は650年以上も古くなった。

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1588年にこの神社は改築されている。その棟札が残っていて、小村氏の名と共に平田屋惣右衛門が掲げられている。

惣右衛門は尼子氏がここを支配した時代に佐渡と名乗っていた。この開発・開拓により新田を“平田”と名付け「平田」を名乗った。(県立広島大学・神山伸隆)

「斐伊川河口部に発達した平田では“平田衆”と呼ばれた町衆がその町づくりを担ったこともあって、その筆頭の平田屋佐渡守は・・・中世の港町・浜田市教育委員会」

尼子氏滅亡ののち、平田は毛利氏吉川広家の所領となり1588年佐渡守は惣右衛門と名を改め平田の代官を務める。惣右衛門は毛利氏の“御蔵本・年貢米の管理をする特権商人”となっており、吉川広家は広島城の普請には広島堀川普請の責任者となっている。吉川氏に請われた惣右衛門は城普請・町割などに工・タクミであったからで、このことにもっぱらに従事させられた。(秋山 伸隆)。


平田の町は複雑に川と道が交差している。古い町並みに新しい道路が侵入している。平田は「市制」であったがいま出雲市に編入し平田町になった。道には動脈と静脈があって、酸素を運んでくれるか、取り去ってしまうか。が山陰の曇りがちな重い空でなく、それに負けない空が広い。川は澱んでしまったが、嫌いじゃない。それに広い開放してくれる湯船の温泉がある。

宇美神社が鎮座し木綿街道のある川に囲まれた船泊そばに木綿の集積地をつくり、平田の古い町並みを囲む川の流れの島になった。おなじ景色が広島にもあった?ような。

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「建築に際して、西搭川、平田屋川の2本の水路が開削され、その後流川などの水路も開削された。城の南西に位置する本川は毛利期の絵図では直線で描かれ、水路として掘削され、流量が多いため現在では河川となったと考えられる。 水路に見る近世都市 広島大学、工学部、山田辰猪・杉本俊多・2009年」

「これらの水路は、船を城下まで引き込むためにすべて城下町の長辺(海へ)方向に掘削されており、それらを結ぶ短辺方向の水路は掘削されていない。」

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子供の頃、こんな都市伝説を聞いていた。“繁華街は中島(いまの平和公園)から東へ移って行って、広島駅までゆくのだ。”だれが言っていたか、わからないが、本通りそばの袋町小学校に通っていたから、強い印象で残っている。

広島城の建築資材の多くは中島に筏で運ばれたという。集荷場としてスタートした場はのち材木町とよばれた。この周辺に商人町が生まれ、賑わいが産業奨励館・原爆ドームが、だからここに造られた???です。戦前中島がこの町一番の賑わいの町であったようだ。

そのころ物資は人か船で運ばれた。この条件が船の係留地・中島に城普請で出来上がった中心地として、太田川を西瀬戸内海を幹線ラインの焦点に成長させ、五ケ庄の寒村を“広島”に成長させた。


築城から十数年のち、堀川の流れが中島の南の海岸線の西端に砂州を伸ばした場所がうまれ、その内側にできた内海・ウチウミが船泊に利用されだし、砂州に住吉の神が勧請された。堀川は岸を削り、川幅を広げた。堀川からほんとの川、本川へ呼び名もかわった、というのはオレの妄想です。本川が幹線ラインであったころ、そのころを捕まえて住吉神社が今踏ん張っているようです。

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ところで、平田屋惣右衛門さんの設計プランの主軸線は東へ傾いでいるのだろうか。

宇美神社の真北に極楽寺、その北の小山に消防神社とラインが引ける。消防、火消しは愛宕神社だったのでは。愛宕は鎮火の神様ですから。平田の町の主軸は真南北です。

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相生橋南詰から平和大道までキッチリ500mの大型バスの駐車場にされるほこりっぽい直線道は、ダタモノではないのかも。なのか言いたげなのだが。


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# by forumhiroshima | 2017-05-07 15:04

広島、都城の設計

8世紀、今の大阪は淀川と大和川の氾濫原で、幾つもの三角州がみられる湿地帯だったという。梅田は埋め田で干拓地の名残の地名という。この氾濫原に古代二つの国名、河内国と摂津国がある。その国の境は税金を取る場所かどうか、で決められていた。

三角州が海の干満に現れたり、沈んだりする場所を汀線・渚というが、そこに生える芦の地帯の上部になる乾いた砂場に農耕が行われだすと、納税の対象となり河内国に併合される。摂津は港のことである津を摂・執り行うエリアを示すこと。洪水の度に新しい土地が誕生していた氾濫原は、神の創造の地と人々は感じていたのか、大阪城の南にある生国魂神社は生國足國イククニタルクニ、八十島ヤソシマの神で難波総社といわれる。生まれたばかりの土地、芦・アシの生える土地を創造する神に思える。自然の営みへの敬意がみえる。この神社は神武天皇の上陸地だとの国家創設の基点の伝承をもっている。太田川河口の景色もおなじような八十島の地であった。

納税地ではないが、なかなか使えない所有不明な場所を五家荘と呼んだと柳田国男は語っている。広島城はそのような、五家荘(五ケ浦)の地に設計された。

五家荘と呼ばれていた三角州に、広島の町を造る設計作業の基点が広島城天守閣の位置にある、と思える。

古代最初の国家は大阪の氾濫原を離れて、東の奈良盆地の南隅の飛鳥に藤原京として作られた。その都城はのち北上して平城京や平安京などになる。

京都の三条から東へR143で峠越しに込み合った住宅地の山科へ入ると天智天皇御陵の石柱を見つけた。4車線の込み合った国道と御陵参道の緑との対比が印象深い。もっと印象深いのはここから約60km南になる兄弟といわれる天武・持統天皇御陵と135.80分の子午線上にあるのだということだった。この1/100分の誤差もないラインは聖なるラインと呼ばれることもあるようだ。

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真北と真南を結ぶ子午線を古代の都城の設計者たちは重要視していて飛鳥から平安まで作られた都は真北を中心線にしている。磁石で測る磁北は各地で幾分か西へかたむく。広島では約7°西へかしいでいる。子午線は太陽と星、宇宙の運行により計測されたという。

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広島の都市構想は太田川の砂州の上にされた、その分自由な設計図が描かれただろう。その設計基準は天守閣の位置に向かってそのころの汀線であったいまの平和大道から引かれた、そのころの白神通り。紙屋町そごう前の紙屋町西電停からエディオン広島本店側へ延びる道、いまはホテルで視線は遮断されるが、天守閣がランドマークだった。西紙屋町電停の位置あたりに大手門への門が置かれていた。このラインは東へ15°程も傾いている。真北を設計ラインにしないことは、どうしたことだろうか。天守閣のポイントと何かを結ぶことで地表にラインが現れる。そのもう一つの基点をさがしてみる。

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広島の都市設計に三本のパラレルなラインがあったようで、西から広島城天守閣の南の大手町通りとよばれた道、紙屋町交差点から白神社前電停への電車道、西搭川であった道、そして東に広島城東堀だった八丁堀の南詰めの八丁堀福屋の西にある金座街の西側から並木通りへあった平田屋川を埋めた道になる。

浅野藩時代広島古図に挿絵で書かれた神社が三つあって、白神神社ともう一つは白島の碇神社、そして浅野藩のよって創建された二葉山の東照宮。白神社は西搭川の設計基点とすれば岩に張った白紙伝承も航行の目印というより、都市計画のマークとかんがえたほうが、汀線の内側になってそばには平地が出現していただろう岩礁の使い方にそうのじゃないだろうか。が、神社と天守閣のラインは基本ラインにならない。聖なるラインがあらわれてこない。設計図を現実に建設するとなると、極北を基準にすることは測定技術があれば進めやすいのではないのか?とおもったりする。

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古代都城の聖ラインは西へ0.4°傾く。150歩真北へ歩いて1歩横にすすむほど、(tan23‘≒1/500)の誤差。磁石では針が短いことで西偏を計算しても精度はでない。北極星は真北から古代には10°ちかく振れる。

その為太陽が最も短い日、夕刻・酉の時刻(午後6)、明け方・卯の時刻(午前6自)に垂直に立てた棒によってできる影をはかる。この測定を数か月後にまた観察し極北を導いた。(日本古代の位置と方位 宮原健吾、臼井正)

古代遺跡・ストーンサークルから導かれる冬至の日、手のひらの線が薄明りに浮かぶことで時が見つけられた「たそがれ」「かわたれ」時。古代人の時間が自分を包みだす。

子午線ラインが広島にもある。

厳島神社大鳥居の極北に極楽寺があり、南に大聖院が鎮座する。厳島神社の本殿の真南に弥山山頂がある。極楽寺は東大寺建立大僧正・行基創建と千手観音像制作の伝承がある。後日弥山で唐から帰国して弥山で修行した空海は行基の刻んだ観音の開眼法要をとりおこなったという。

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牛田・不動院も行基創建伝承があるが、行儀が制作した伝承の毘沙門天を祀っている毘沙門堂のある緑井・権現山が極北にあたる。初虎祭はとても賑やかですね。

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行基は和泉の国いまの堺市の生まれ、仁徳天皇陵古墳のそば、計測設計はお手の物の古墳建造者たちの子孫かもしれない。

子午線を山からを基点に、土地からに浮かび上がらせ神仏を、また祖先をそこに置く。変わることのない不滅の宇宙から引き込むライン。このラインをなぜ、新しい都城に毛利の人々は置かなかったのだろう。白神大手町東リ、西搭川、平田屋川、流川、薬研掘、美しくパラレルに海へ向かって開削されている。これほどの土木技術をもってして、何故に子午線を無視したのか。

聖なるラインなどと人々が語りだすと、正に「聖」なる行いとしてレジェントとなる。この人々の心を動かす宗教的な、また政治的なエネルギーを必要としない毛利という一族のそのわけをしりたい。


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# by forumhiroshima | 2017-05-02 18:25

コヒチロウの走り方-1 広島”の起点

桜ってほんとうに凄い。満開に、すっかり気分変わって、なんだか、オ、オレにも春がきた。

花は桜木、人は武士。それも悪くないが、素直に散りたくないナ。花は桜木、ウバ桜。ソメイヨシノは古木がいい。並木の桜より森がいい。それも姥たちがあつまってカシマシイのがすきだ。白島九軒町の河川敷の桜の森には姥たちが林立、お喋りに夢中に飛び込んだ。
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地面はホワイトピンクに染まっていた。ホワイトピンクの中に小さな祠が川にむかって鎮座している。1613年太田川氾濫で広島城に被害がうまれたその年にここに鎮座したとある。川面へ桜吹雪が乱れ散っている。
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神田橋を渡り西へ向かうとすぐに川を渡る水道管がある。水道管から車道の反対側に路地が牛田山へ向かっている。水道管が設置された小路のようだ。大きな交差点のスーパーの横に小路は伸びている。道が行き詰まると住宅の屋根の向こうにおおきな寺院がみつかる。そこ左に入って路地と石段にかわった路面から山肌の雑木林へ取りついた。右へは水道局貯水池へ向かっている。Google Mapで寺院奥に登山路の跡のようなラインがあったが、現地はブッシュで見つけられなかった。寺にもどって麓の住宅の道を西にとって、牛田総合公園へ向かった。そこに広島城誕生の神話の山がある。そこには寺院奥から取りつきたかった。寺と神話とが山でつながっていたりしても、解ることはないのだが。車道は車のための道。人はきつくても最短な距離のルートをさがす。

公園のおおきなトイレそばに小道が登っている。すぐに見立山記念碑が金網フェンスに囲まれてあらわれる。その奥に踏み跡程の登山道をたどると尾根のトップの展望所・といってもそこに景色の写真がおかれている、それだけ。展望はすばらしく、ビルの隙間に県立体育館前にチョコッと天守閣の頭がでている。その奥むこうに宮島がかすんでいる。海に小さな三角帽子がチョコット。津久根島らしい。ここへ天守閣の頭を通る視線がむかっている。弥山とはずれている、なぁ。
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中央公園の芝生のマウントが地図では天守閣と旭山八幡社とを結ぶラインが端を通っている。二葉山のトップのすこし下の金光稲荷社の奥宮とも結んでいる。
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毛利元就の孫、輝元は1589年2月20日地元の福島元長を案内に二葉山、新山(神田山尾根 見立山)、己斐松山(旭山八幡神社)に登り、築城を決し、4月15日築城鍬入れを行った(新修広島市史)。
己斐松山と二葉山、見立山と宮島・弥山をの二つのラインの交差点が広島城の設立地点とされた。実際に地図では、このラインの交点がピッタリ天守閣の位置になる。驚きました。神話を確認した。
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1555年の厳島合戦に勝利した翌年、毛利元就は太田川河口の五固村の砂州に堤を築いて開拓すれば、その地を納税や使役なしに所有できると、合戦に加わった家臣にいっている(新編広島市史)。合戦の前、毛利元就は己斐松山の八幡社に戦勝祈願におとずれている。朝の陽のなかの参拝であった事からそれからそこを旭山八幡社という。ここに古代の神話で神功皇后が半島への出征の前にここに立ち寄った時、地元の人から鯉を献上されたことを喜んだことで鯉村とされたが、のちに二字に代わり己斐となったという。広島城が鯉城なのはこの逸話によっている。城の縄張りの見極めの起点に元就との関係のある厳島と己斐松山の旭山八幡社が選ばれている。この神社は急坂でたどる小さな平地に鎮座している。元就が早朝戦勝祈願し、眼前にひろがる砂州の浮かぶ海を感じると、毛利元就の後ろに並んでいるような、じかんがある。船の代わりに自転車でその海へ漕ぎ出すとき、そう妄想する。

毛利元就は1557年隠居宣言をしている。隠居所は武田氏の銀山城と希望していたといわれ、吉田・郡山城の西にあった幼年時代に過ごした多治比城からの家臣と、安芸武田氏滅亡により残された五箇村の河内警護衆とよばれる人々に、ここの給地を与え元就の親衛隊としていた。かれらには元就の名の元が就の一字が与えられている。この地への元就の思いは強いようだ。1571年元就75歳で吉田・郡山城で死去。そのとき、まだ広島は出現していない。

輝元案内の福島元長は古代安芸国の在庁官人の家系、武田家家臣になり滅亡ののち毛利家に臣従した福島親長の娘婿で養子。五箇村の村長さんの様に思える。土地に詳しい人選だ。彼はわが土地に城が現れる!ことをどう受け止めていたのだろうか。マツダスタジアム30個分の建築物が出現するのだ。

輝元にも祖父元就の思いはしっかりと伝えられていたとおもえる。築城の奉行職に元就の四男の穂井田元清、妊娠している母とともに家臣に払い下げられたが、実子と元就も認めた二宮就辰が指名されている。元就の思いはこのあ二人には届いていたと感じる。毛利元就はここが好きだった、と。両人とも側室の子である。(三矢の教えの三兄弟は正室の子供である。)

神田橋から東へ川土手をゆき信号の三叉路を左に。ちいさな川がある。ここは桜土手とよばれてずっと昔に桜の並木があった。女学院大学へ向かう桜並木を伐採してできたバス通りをゆき、道が二股に別れたあたり、右の川向うに公園がある分岐へ入って東園団地へ向かう車道そばの市民菜園に出会う。ちいさな案内板がある。「天神石清水、またの名清水谷井戸」とあり手押しポンプがその清水らしい。1807年この清水は竹樋を通して縮景園まで引かれていた。猿猴川には木造の潜り樋がそこに埋設されていた。
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この水には鶴の傷口伝説があるという。江戸期京橋町にあった平野屋がこの水で醸造し藩へ酒を納めた。石清水に天神とついてよばれるのは菅原道真がここにたちより、この水を愛でた故事による。えらばれた水は神の存在を証明していた。
日清戦争に宇品に入る船への水の供給にこまった軍部はここに水道の施設をつくり、軍事施設への給水をはじめている。

浅野藩は二葉山中央に東照宮をつくり、西端に浅野藩主が祭神になる饒津神社、牛田山の西尾根に浅野藩墓所をつくっている。墓所のある新山の南麓、いまの水道局の中に神田神社を武田氏が勧請している。この神社は水道設置の際に宇品に移転された。
新山・シンヤマは神山であったと、考えたくもなる。神田神社も神の所在という神社だろう。神々があふれているようだ。命の水を生み出してくれる山々は神の所在地なのだ。

武田、毛利、浅野と日本史にラインナップされる武士たちの神へ、仏への加護の希求は細部に至っている。そんな景色がここにあるように思えた。
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# by forumhiroshima | 2017-04-18 11:45

庚申堂

先日、海田町から西国街道をたどって船越へはいった。狭い車道で、車に追われる。海田から府中へぬけるにはこの県道151をだれも選択する。狭くてもここが早いし、車には怖いものない。

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ずっと昔この県道は国道2号で、渋滞はすごかった。カープのプレーボールをラジオで聞いて、ゲームセットになっても、まだ広島駅には届いていない、そんな道だった。だから、自分の拒否反応がここにある。ここを走るとき、いそいで通り抜けようとして、疲れる。船越郵便局をすぎて、石灯籠が手招きする路地の次を右折して県道から離脱した。この先に路地の交差点があって、そこに、ちいさな空間があった。

飛鳥時代の奈良に八街と呼ばれ、いまもそう呼ばれる交差点は集まってくる道の幅より広い小さな空間があって、あと道が分散する。

「ヤチマタ」の響きが心に残っていて、入り込んだ路地に似た空間があると、古代の響きがそこにある、ようにおもってしまう。黄金山西麓の大河にもこの空間があって、そこで盆踊りが開催される。神と人の舞台に変貌する空間だ、と妄想する。

右折した古道が二股に分岐、そこに保育園のちびっ子たちがお散歩している。かれらの保育園は正専寺が運営するめぐみ園、船越の「ヤチマタ」のちょっと先にある。

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寺の保育園の門の向こうの石垣の間の路地から、いきなり原チャリがおばさんをのせて飛び出てきた。代わりにそこへ飛び込む。細い!バイク、ギリの幅の道。

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薄暗い空間に目がなれると、路地奥に祠がみえる。庚申堂とある。いろいろ路地にはいりこむが、この辺りでは初めてのお目見え。いや、広島周辺ではお目にかかってない。お堂の向こうにも古びた白壁の納屋らしき建物が歪んで、たっている。昭和を通り越して、明治いや江戸へ景色の時間がワープしてしまった。

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「自転車にのると、絶妙な距離で。地上からフワッと浮き上がることができる。ペダルをひと漕ぎすると、軽快に走り出し、まわりの景色は、どんどん後ろに流れてゆく。こうして自転車に乗った人は、歩いている人々の生態やまわりの景色を地上からすこし浮き上がった場所から、フワフワと浮遊する状態を保って、空中から傍観することができる。人は地上の生活から遊離した感覚を味わうことができる。完全に地上から離脱してしまうと、本物の死者になってしまう。ところが自転車にのることで、人は生きたまま「プチ離脱」を果たす快感を味わうのである。 中沢新一 大阪アースダイバー」

チベットで仏教修行してきた中沢先生は東京も自転車で走って、「アースダイバイー」を書き上げている。

ベトイナム戦で指揮をとったベトイナム・ホーチミンは、戦車や装甲車で現れる敵に、重機が入り込めない路地やトンネルで戦いを進めた。路地には、「アジール・現世からの待避所」に変貌する能力がある。アジールは、通常の距離感・支配を霧散させる、そんな場所。

納屋のマダラな灰色の壁の向こうからおばあさんの自転車が現れた。路地、けっこう繁栄している。おばあさん一瞬立ち止まった。が狭くて自転車の方向転換が面倒で、しかたなく向かってきた。そばまでくると、お互い知り合いのように、会釈し挨拶ができた。狭いってことは、何かを心に起こす。お互いを認めないことには、進めない。例え、誤解であっても。

大阪のミナミではこの距離感を「愛隣」と呼んでいた。

天王寺、地下鉄の谷町線駅そばの居酒屋の並ぶ路地をぬけ、緩やかな坂道が下り終え上りに変わる場所にある清水井戸地蔵の祠をみつけると、北側の道の奥に四天王寺の五重塔が現れる。そこに右手白壁に囲まれた庚申堂に出会う。このコース大好き。

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門柱に「本邦最初庚申尊」。(京都、八坂庚申堂では「日本最初庚申まいり」ののぼりがひらめいている)

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「人の体中に「三尸・サンシ」の虫が住んでいる。姿は見えない。霊魂、鬼神のたぐいという。宿主がなくなると、死者へのお供えを食べることができる。そのため宿主が亡くなることを願って、宿主を抜け出す機会である庚申の夜を待っていて、宿主の命をつかさどる神に告げ口に出かける。宿主が目を覚ましていると抜け出れない。そこで、宿主は庚申の夜にはごちそうお堂に籠っておしゃべりしてすごす。   日本の道教遺跡を歩く 福永光司」

桂三枝さんのいらっしゃい!がきこえるような、楽しい言い訳のあるお祭りである。庚申堂におかれる三猿、(見ざる、言わざる、聞かざる)の像が三尸へのインパクト、そうしておけ!の怒号に思える。

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清少納言・枕草子に夜うちふくる程に、・・・歌読詠ませ給うとあったりして、その歴史古いようだ。

四天王寺の庚申堂南門の石段に地位小さな祠があって、この祠は閉門されても外にある。そこには小さなお供えが置かれていて、“のっぴきならない事情おもちなら 堂守へ相談だ!”とお供えをかっさらった誰かへの連絡のメモが張り付けてある。

このお供え泥棒は、宿主がなくなると、そのお供えを食べたがっている【三尸】にちがいない。

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四天王寺の庚申祭りのお札が全国に散らばって、庚申堂が造られた。夜には「爪を切るな」「髪をきるな」のように、「夜更かししろ」という解放感のあるお祭りはすぐに受け入れられたのだろう。

船越の庚申堂の建設もけっこうな歴史をもっているのではないだろうか。

古道に出会う祠にかんじる親しみやすさは、そのままでいてほしいとの思いを重なってまた訪れたくなる。

四天王寺庚申堂の住所が天王寺区堀越であることに、持ち帰った庚申まいりのスケジュールのビラを見ていて、いま気づいた。


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# by forumhiroshima | 2017-02-22 14:27

腰当・クサテの森

はや1月8日。 松の内は7日までか?15日までなのか。
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2016年の大晦日の午後、京都の東寺にいた。境内に西側の土塀に囲まれた小子房と案内のある門がしめ縄で囲まれている。小子房は天皇家の勅使を迎える施設で正月に行事が予定されているのだろうか。交通整理指示で使われるフェンスより、強く遮断されて、拒絶とも感じる。
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神在祭の島根・佐太神社では拝殿が囲まれてよりつけない。
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しめ縄にはその示した結界を越させない厳しさがある。

東寺のしめ縄は、先日の島根半島に尋ねた坂浦の南につらなる半島の脊梁の中腹にある石神のしめ縄を連想させた。
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木々と竹藪にかこまれた山中に巨大な岩が堂々と鎮座している。そのエリアが石神として信仰されている。そこには拝殿も勿論本殿も、賽銭箱もない。

この「石神」の存在は1995年に中国新聞・出版物の広告にあった「出雲風土記の旅・田川美穂」の“拝殿なく広場で祭りする立岩神社”のページだった。
“何でも、縄文時代に名残のあるお祭りをする神社だそうな、と坂浦の海岸に鎮座する鞆前神社の宮司さんの奥さんの紹介で、・・・場所をしっているという古老の農家の曽田さんの家をさがして、そのおじいさんに案内されて・・・”。
神主の妻、古老、そして出雲。出かける理由が揃っている。

島根半島美保関の女神の名をおもわせる、田川美穂さん、その著書を読んで早速に出かけて、長屋門の曽田家をやっと見つけた。なんと、案内をしていただいた。
「なにごとの おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」は西行法師だが、神にも仏にも 「かたじけなさ」を感じることが誰にもあるのではないだろうか。そんな発見がそこにあった。

それから数度ほど「石神」をたずねてから長くご無沙汰していた。先日出版された岩波新書「NO1612古代出雲を歩く 平野芳英」に、第三章狭田の国を歩く・立石さんが掲載されていた。著者は銅剣の荒神谷博物館副館長。2012年にこの「石神」を測量・発掘調査された報告をかねた案内が書かれていた。「かたじけなさ」をあたたかさと感じる自分と、“調査”という言葉にどうしてもすり合わせできないが、そこに書かれた報告には「石神は昭和30年代までは、陽がいっぱいに当たり、海を見渡せ、人々の往来する生活道路に面した鎮守の森の自然の神様であった」とある。古道の痕跡に興味があって再会に向かった。

長屋門の曽田さん家も新しく作り替えられていたが、「石神」さんへの道は変わってはいなかった。「石神」さんに以前より竹藪が拡がってきて、竹林と照葉樹とのせめぎあいの中に鎮座して、どこか明るくなっていた。竹林のキラメキがそうさせたのか、それとも往来に鎮座し、人々がそこでひざまずいた「温かさ」がここにあったのか!。最初にであった森の記憶とは違っているようだった。
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通り道の大きな岩の塊への礼拝、そんな景色を想像していたのだけど、前に立ったとき、入口の小さなしめ縄が目に入った。のんびりしていた気分が急に緊張してきて周囲が神々しくなったのに驚いた。しめ縄が記号化して、結界、侵すことのできない領域、を出現させた、と思えた。東寺のしめ縄が連想させたのは、この結界だ。
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「ケオサレル・気圧レル」何となく圧倒される(岩波・国語辞典)
しめ縄が造る結界から送られる・“何となく”さを自分は聖域と感じているのだろうか。

自転車を道連れに、愛犬でもいいのだけど、境内へ入る、が気にならない神社とそうでない神社があることに、ある日気づいた。自転車境内持ち込み禁止があればむろん、無くても持ち込みできないな!と思う神社と、境内でそばに置いて写真とっている神社があることに気づいた。

朱色が鮮やかで、大きな社殿を、あるとき厚化粧に思えたりする。綺麗だが、なじめない持ち込めない、ことがある。社殿は心よりも眼に訴えかける。神が鎮座しているはずなのに神がこない。そんな場所は、お気楽には自転車乗り入れには、ならない場所。
「涙こぼれる」眼は、ある意味見ることを必要としない、心が見ること、なのだから。

自転車と入るような、のびやかな境内の神社は、境内の景色に溶け込んだ大きな木々、巨大な神木がある、と、どうもそうするらしい。いつだったか?そのことに気づいた。小さくても木々がつややかに密生して木漏れ日がある森でも、自分は、そうするようだ。そこの写真は多くが手ぶれしていて、我が興奮が記録されたりする。記録しなくていい、らしい。記憶に置けばいい、らしい。

江戸時代初頭に薩摩藩が奄美大島を占領、直轄地したとき、奄美の信仰の中心地、神山の木々の伐採を命じ、サトウキビ畑にした。森のない神山への奄美の信仰は失われた(岡谷 公一)。神社の“社”はモリと読まれる。
“ざわわ ざわわ”さとうきび畑にうずもれた沖縄の戦争の記憶というが、南の島々でのサトウキビ畑の記憶は暗いものがあるのか。そこが基地に変わったのか。

お正月はしめ飾りでもって、我が家を結界の内側へ入れる。その結界を守護してくれる神とは・・・。初詣はその神へ出向く。が松がとれると、結界の外へと置かれる。しめ縄は外される。この面倒なやり取りは、どうなん?。われらを結界のそとに送り出す神とは。

「立石さんの前の広場へ9月1日村人があつまり、杜の中でお祭りが行われるのです。重箱にごちそうをたくさん詰めて、その杜に集まってきます。杜の中ではかがり火がたかれ、荘厳な雰囲気を醸し出しています。拝殿もテントもない自然の中で、立石さんお前で行われるおまつりです。祝詞が樹々にこだまして、鼓の音が響き渡ります。田川美穂」

「立石さん」への参道は40数年前にできた舗装車道から谷を下ってゆく。
「この頃の立石さんへの参拝者は、いまの参道となっている山道が生活道路であったなどと夢にも思わず、古くからの参道であり、その奥に荘厳な立石さんが鎮座していたと理解してここを離れるだろう。だが、それは違う。日常生活の中に溶け込んだ“山に坐す・マシマス巨岩の神様”であった。これこそ古代にあったと考えられる、自然信仰の姿そのものではないか。いま日常の神から非日常の神へとかわってしまっている。 平野芳英」

Googl Mapで出雲市坂浦を探すと石神神社がマークされて、写真がアップされている。荘厳な神聖な場所と受け止められている様子がみえる。ここで笛を吹く人もあるという。

「樹木は、その深い茂りによって、人の心を敬虔にする一方で、その優しい、繊細な緑や、高い香気でもって、人を落ち着かせ、なごませ、周囲に、つまり神に向かって心開かせる。 神の森 森の神 岡谷公二」
沖縄に腰当森・クサテと呼ばれる聖地がある。「“くさて”とは幼児が親の膝に座っている状態と同じく、神に抱かれ、膝に坐って腰を当て、なんの不安も感ぜずに安心しきって拠りかかっている状態 神と村 仲松弥秀」

しめ縄はアマテラスが岩戸へまた隠れないように戸を塞ぐためが発祥起源だそうだが、縄とくれば縄文人ではないか!。神が人をクサテする結界の発祥はきっとそうだよ。
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# by forumhiroshima | 2017-01-08 11:02


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