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マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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メモ帳
旧京めぐり-信楽京、大津宮③
恭仁京のある加茂から、信楽へ向かい長野とよばれる集落に入った。そこが信楽焼きの町だった。
「山道を降りて、やがて信楽の盆地に出た。“ここがあの信楽ですか”須田さんが、多少の不快さと戸惑いをみせていった。信楽焼の古陶をもって世間のイメージができあがっている、あの古拙(古風で素朴な味わい/ドイ)な気分というものはいまない。町の半ばは建築用や工業用の陶器をつくり、半ばは・・たぬき、がま、ほていさんといったものを焼き、・・観賞用の壺なども焼かれている。その壺に竜などがくねっていて、土地成金などに喜ばれるらしいが、およそ、室町期の茶人に愛されたような気分から程遠い。司馬遼太郎/街道をゆく7」
「はじめて信楽を訪ねたのは・・あの美しい壺がどんな所で生まれたのか知りたかった・・ちょうど秋の暮れのことで、山は紅葉に染まり、その間を陶土そのままの真白な道が、冴え冴えと通っていた・・いつしか信楽の焼き物と景色は重なり合い、鮮やかな紅葉の色も、自然釉の緑も、灰をかぶった所まで、なんとあの白々とした野中の道に似ていることか。それは信楽でしか生まれ得なかった焼き物であり、自然が造り出した傑作・・ 白州正子/紫香楽の宮」
このお二人とも、むかしの、きっと室町時代のころの信楽の焼き物を見ておられて、今の信楽がそこから遠く離れたように感じる司馬遼太郎と、そのころがきっと復活するだろうと、信楽をたずねる白州正子との違いがあるのだろうか。そのころの焼き物も今の焼き物も知らない自分は、この文にとまどって記憶していた。

長野の町はけっこう大きな集落で狸が整列する店のそば、町の中央に神社があって、陶器の狛犬が鎮座して、その後背地が丘になってそこにいくつものレンガ造りの煙突がたっている。


坂道はすこしうねって登っている。そのそばにいくつものの窯がならんでいる。落ち着いた時間がひろがっていた。この時間のリズム、たとえば日曜日の正午の喉自慢のラジオの声ような気分のある場所は、どこもそこそこの豊かさの暮らし向きがあるようにおもっている。このままの営みで、それだけだ、子供たちが安心して成長できるという確信のある生活があるようにおもえた。



「先日京都の骨董屋さんで、入江泰吉氏にお会いした。壺の写真を撮っておられた。入江さんは、仏像とか風景が主で、陶器の類はあまり手がけていられない。“はじめてやってみたんですが、日本の壺は風景とまったく同じです。そういうことがわかりました。焼きものを形容するのに『景色』ということをいいますね。あれは実にいい言葉だ。ほんとうに景色とちっとも変わりはないんで、今はおもしろくて仕方ない・・・” 白州正子/紫香楽の宮」

長野の集落の旧道が町外れで幹線道路に入るところの向うに橋がみえた。そこに細い道が河畔に伸びている。ここまでつきあった天平の東北古道のにおいがしてきた。まったく人家もなく、田の畔と川の間をゆくような道が、おおきな古木と弘法大師伝承の泉の寺が孤立する所をすぎ、急に現れた電車の軌道にそうように川下へのびて、ペダルもふまないラクチンルートが鳥居にぶつかる。日雲神社の神額が読める。古代、アマテラスの神を背負って、奈良から放浪の旅にでた皇女がいて、倭姫伝説になっている。甲賀、伊賀をめぐり伊勢のいまの神宮に鎮座するまでの物語。いつかはめぐり走りたい話の、その倭姫の、ある時、とどまった場所がここだと掲示してある。

そこから赤松の森の丘に道ははいって、そこに紫香楽宮址の石柱があった。ちいさな広場にトイレがあった。「紫香楽宮址は赤土の台上にあり、まわりは森である。雨のせいか、森の中の小径にも宮址にも人影はなかった。・・礎石が点々と残っている。整理されているわりには、木々などすべて自生のままらしく、変に公園化されていないところがよかった。・・・台地のまわりには物寂びた田園の風景がよく残っていて、この土地に千二百年前、たとえ一時にせよ日本の帝都があったとはとても思えない。 司馬遼太郎/街道を行く7」


この司馬さんの観察眼は証明されていて、ここにあるのは間違った紫香楽宮址の石碑だということになっている。北上して森をぬけると正面に高速道路の高い高架橋が真横の走っている。その下の、水を張ったばかりの田の中、杉が整列したようにならんだ、周囲にはっきりと隔絶されている繁み中央に隠れるように、小さな祠がある場所にでた。

その繁みにここがあたらしく発掘された紫香楽宮とその都城の一画だと説明の表示板がしろく浮かび上がっていた。

その標示にあった地形図にそって北上すると、高架下をぬけて、正面に三角形の独立峰がぞびえて、その尾根にかこまれた田園と中央を割ってながれる真直ぐの川の景色にぶつかった。高速道路建設の際に発見発掘された遺跡だそうで、その存在はだれも予想していなかったようだ。その全容を推測する地図に、正面の山の右手にまた独立峰がみえて、そこが飯道山とその前に峰にある飯道神社あると記載されていた。左にも独立峰があって、そこには金鐘寺が山頂あたりにあるとあった。



東大寺のお水取りのおこなわれる二月堂の後ろに飯道神社があって、紫香楽からの勧請だという。金鐘寺は東大寺創設の責任者、良弁和尚の寺。大仏はここに造られようとして、その鋳造施設も発掘されている。
「このあたりにかけては“美し松”と呼ばれる原生林があり、みごとな赤松林がつづいている。土にめぐまれただけでなく、焚き物にも事欠かなかったのが、陶器を発達させたゆえんであろう。白州正子/紫香楽の宮」
松は燃える温度がずばぬけて高い。ここにながれる信楽川(大戸川)の川砂もきめ細かく鋳物の型造りに適していたともいわれる。良弁和尚の寺である、彼も金鐘、金青行者とも呼ばれる。「金青とよばれる鉱石は孔雀石、マラカイトともいい、銅鉱床の上部酸化帯または二次富鉱帯に産し、孔雀の尾のようなあざやかな緑青色を呈する。谷川健一/鷲にさらわれた子、良弁」彼が銅の鉱脈、その使用を知っていたともいえる。

良弁和尚は朝鮮半島からの渡来人に関係しているといわれる。「シガラキのキは、カキ(垣)、サキ(崎)、ノキ(軒)などからうかがわれるが、キは外敵から守るための防御を城(キ)、柵(キ)といって、キによって守られる土地もキといった。シガはその一帯では良く知られた場所のことでアソコほどの意味があって、アラはまが開拓されていない荒々しい、キは場所、土地で、“そこが未開拓の神々にまもられた土地”という意味であったが、聖武天皇のここへの紫香楽宮造営によって、天智天皇の大津宮の後に次ぐ、新しい砦という抱負の意味もこめられてシガ(志賀)アラキ(新城)の意味になっている。古田金彦/古代地名を歩く」

目の前の旧都の址の痕跡は掲げられた表示板だけにある。旧都はいまは東大寺にぬりこめられているのだろう。東大寺の戒壇院への参道に面しての、東大寺旧境内の一角に入江泰吉さんの家が残っている。東大寺の中で生活した彼に紫香楽宮の址の写真はあるのだろうか?彼はどんな“景色”をみただろうか?高速道路に塗りこめられた天平の時間をとりだしただろうか。
# by forumhiroshima | 2012-05-18 11:59 | Trackback | Comments(0)
旧京めぐり-信楽京へ②
恭仁京遺跡の草むらのそばの疎水の河上へむけて古道を走り始めた。少しずつ高度をかせいで木津川の流れがキラキラ光ってくる。古道は傾斜をすこしおおきくしだした。疎水は古道と離れて、すこし下の先にみえる幹線道路とならぶ和束川から引かれているようで、尾根を巻いて視線から消える。その水路には細い土手道が続いて、その幹線道路に入る様子だが、急坂にみえる古道を選んだ。お茶畑に囲まれて、登ってゆく。「冗談は抜きにして、峠越えのない旅行は、正に餡のない饅頭である。昇りは苦しいと言っても、曲がり角から先の路の付け方を、想像するだけでも楽しみがある。 柳田國男/秋風帖」ましてや、耕して天まで届いたお茶の畑の幾何学模様のなかとなれば、昇りはいっそう楽しみになる、わきゃないけど。

でもここからはじまった、幾つもの尾根をできるだけ同じ高度で越えてゆく道は、尾根越えの度にモザイク模様の茶畑が万華鏡の中といっても、大げさではないといえる。新茶の畑は若緑が光って、ある場所では刈り入れられたカッターの刃の角度ですこし黒ずんでラインになっていたり、刈り入れがこれからの畑だろうか、シートでおおわれていたり、景色は新緑一色ではない。

天平14年(744年)に恭仁京から信楽京へ道が定められたと日本書紀にあるそうで、その道がもしかすると、あの恭仁京跡からこのルートへのつながり方の自然さからすると、この道が、もしかする。尾根から道は下りだすところから、広く新しくなる。和束の町へくだってゆく。

ここに安積親王墓・アサカノミコがある。「紫香楽の宮の造営ははかどらず、しばしば火災に見舞われた。安積親王が亡くなったのはそのころである。藤原仲麻呂が毒殺したともいうが、聖武天皇の長子で十七歳であった。・・恭仁京と信楽との往復の途上、天皇はどのような思いで眺められたことか。 白州正子/紫香楽の宮」
大伴家持の皇子への挽歌がこの墓を歌っているとその本にあるが、この古道が天平の古道であるようだ。
和束川は細い谷間をながれる。幾つもの支流が流れ込む。それだけ氾濫も起こりそうだ。古道はまた尾根へむかい、その尾根の集落は茶畑を営んでいる。その事業の最大の稼ぎ時が、この新茶の季節。コメはKg単位だが、お茶は100g単位だ。どこもかしこもお茶の畑に造られて、緑に光っている。道はいったん河畔へおりると、湯船という集落に入った。
信楽への道路標識にしたがって、すこしの昇りの車道を走る。自転車にもちょいちょい出逢う。後からの自転車にスーと抜かれる。
小さな分岐があって、そこに標識がある。車道をはずれて谷間へはいるコンクリートで舗装された道が、古道だとあって、この先の峠が「柞峠」だとあった。フリガナはついてない。


白州正子/紫香楽の宮にこの読めない字の峠が書かれていて、「はじまていった時は、恭仁京かた木津川伝いに入り、和束と朝宮の間で迷ってしまい、信楽へついたのは夕方になった。今から思うと、そこが廃道となった天平時代の信楽道で、柞峠・ハハソトウゲというらしい。柞という木を私は知らないが、柏の別名であるようで、紅葉の美しい山道であった。昔はここに柞の大木があって、志賀・栗太・甲賀の土民が、畑に日が当たらなくて困ったので、伐ることにしたという伝説も残っている。それにしても聖武天皇は、なぜこんな辺鄙な所に都を造ろうとされたのか。」

古道は沢沿いに伸びて、尾根にかかり急登坂になる。

あたりはここも茶畑。展望のある尾根のピークをぬけてくだりはじめて、また高度をとりだした。峠道には表と裏があると、峠が好き?らしい柳田國男が書いている。「麓から頂上までの路は色々屈折していても、結局甲乙に二種類に分類することができる。甲種は水の音に近い山道、乙種は水の音に遠い山路である。前者は頂上に近くなって急に険しくなる路、後者は麓に近い部分がより険しい路である。 柳田國男/峠の裏と表」「表口は登りに開いた路で、裏口というのは降りに開いた乙類の路である。初めて山越えを企てる者は、眼界の展望すべき相応の高さに達する迄は、川筋に離れては路に迷うは故に、出来るだけその岸を行くわけであるが、いざ此処から降りとなれば、麓の平地に目標を付けて置いて、それを見ながら下りる方が便利である。」
つまり、登りは直登で鞍部へ。降りはつづらに沢筋を避けて。ということになる。
自転車での登りはマジ路面しか見てない。ホッとしてもその道先ほどの展望だろう。降りはただただ、曲がりのアウトサイドのペダルを踏みつけるだけだ。路はまず意志を持ったものによって、始められる。そこは荒野だ。車輪は回らないのだ。
しかし、路面しか見てない登坂の時間に、自分はこの道をつけた先人はどちらからのぼったのだろうか?などと、この峠の裏表の説を読んで以来考える。そうして、耐えしのぶ。
それでも、峠のないサイクは餡子のない御座候なのだ。

峠の下りは茶畑のあぜ道になってしまった。廃道は、畔となっていた。

峠から集落へ着く。朝宮という場所。そこに古道の地図があった。そこには、峠はホソ峠と記入されていた。芭蕉の奥のホソ道は細でなくこのホソで、このホソにはもっとちがった意味があるような。そう思う峠だった。はて、どちらが表だっけ?

東北道と記載されている。先日登ったオトギ峠への道が、東海道とあった。天平の幹線道が復活している。
# by forumhiroshima | 2012-05-16 12:37 | Trackback | Comments(0)
旧京めぐり-恭仁京/クニ京へ
7世紀、畿内と定められたその四方へ。北の果ては琵琶湖の湖畔、逢坂山。
そこへのルートを奈良・平城京から奈良坂を下った場所、加茂に聖武天皇がつくった恭仁京を経由して、その次に信楽京、そして琵琶湖の大津京へと決めて走り出す。

聖武天皇は741年に加茂へ恭仁京を作り出し、すぐの743年に加茂から和束の川をさかのぼった信楽に紫香楽京を計画し建設開始。ここで大仏建造をはじめるが、中止して744年灘波宮へ移動。その翌年平城京に帰還し東大寺建設とめまぐるしい。
逢坂山の山麓の大津宮は聖武天皇のおばあさん、元明天皇のお父さん天智天皇が667年につくった場所。672年に焼け落ちている。そのあたりをグルリと回ってみようか、という計画。

加茂の恭仁京跡あたりは、ふるびて、ちいさくかたまりになった集落が緑の野原におおわれて、其の中を流れる疎水は日差しを底までうけてきらめいている。春の野はおもいきり背伸びして、家々に屋根をかくしている。うららかさに、ふと、自転車なんぞいらない!弁当があったら、冷えたカンビールがあったら、・・。



背伸びした緑の中の木津川の堤防のそばに黒い繁みがある。鎮守の森にちがいない。
スタート前、このルートを地図で見ているうち、この神社は木津川の対岸にある勝手神社と同じ南北線の上に鎮座することに気付いた。そうすると、恭仁京の大極殿といわれる場所とそのそばの小学校の校門から南下する、恭仁京朱雀大路跡の道は北側の海住山寺とJR加茂駅の南の中山の集落とをむすぶ南北線の上にあることに気付いた。中山って地名は境界のある場所であることが多いそうだが、ここでは大和と山背の国境??
そうなると、いつもの病気で、地図上の神社や古墳をバリバリ直線でむすびたくなる。



地図が直線で真っ赤になると、混乱を鎮めるために専門家の資料を漁りだす。恭仁京についての話はその存在期間が短いからか、すくなくて、岸俊夫、足立健亮お二人の話がみつかった。
古代の測量技術は、それはそれは、すばらしいもので、条里制などの田園の区分や都の大道の設計など、そのレベルへの賛辞はことかかない。その設計の基準点は、いまの三角点の標石ではなくて、神社と古墳などの宗教施設であることが多くて、この土地設計のために神社がおかれ、その土地神への敬意を表すようで、奥深い。あたりまえなんだけど、神社は人が設置したもの。そう思うと、ありがたみが・・・。

「ここ加茂に恭仁京がおかれたのは、天平12年(741年)から15年までの短い期間で、海住山寺もそのころ造られたようである。寺伝によると、天平7年、良弁僧正の建立で、はじめは藤尾山観音寺と称した。 木津川にそって/白州正子」東大寺の建設責任者の良弁和尚がここに顔をだしている。
恭仁京の配置については、岸、足立両氏の見解はその中心線でことなっているようだ。岸先生は設計基準のラインを加茂の南、平城山のある元明、聖武天皇の陵墓基点として南北にひく。足立先生は椿井大塚山古墳をその基準点にされているようにおもえる。ただ岸説では宗教的な意味合い、元明天皇がこの恭仁京をつくった聖武天皇のおばあさん、そして聖武天皇はその発願者で、説得力あるのだけど、じつは木津の町からは陵墓は見えない。GPSがあったのか?。

鎮守の森の中へとはいってゆくと、先客がおられ境内を掃除されている。神額に恵比須神社とあった。すぐにカメラと三脚をもった方が入られてくる。境内がざわめいているようだ。境内に標示がある。
「当社はいちど流され、西宮に流れ着いた。そのとき住民にエビス様から、向かえにくるようにご信託があり、舟をだして西宮へ行き、まず対岸の勝手神社について、そののちここに鎮座された。」とある。いまも御座船の神事がおこなわれているという。


「海住山寺には補陀落山と山号がある。本尊の両側には補陀落渡海の図が描かれている。時代はずっと降って室町中期の作であるが、この寺の信仰がうかがわれて興味がある。・・補陀落山とは、いうまでもなく観音の住む浄土で、入水することによって成仏するという信仰は、熊野の那智の海で起こった。こういう壁画が描かれたのは、この山号と無関係ではあるまい。してみると木津川を熊野の海になぞらえたのであろうか。 白州正子」

引き返して、対岸の勝手神社に走った。道路と平行にある参道の入口は数台の軽四トラックでうまっている。鳥居のそばの社務所に礼服のおじいさんが座っていて、そのそばをこれも正装の数人が三方をささげて、神社本殿への石段をのぼっている。参拝は遠慮した。というより、社務所前を通り抜ける勇気がでなかった。勝手は後ろ側、とか弓を引く右手とか、補助の言葉だろうが、その呼び名が神社に付いていて、そこに正装の男どもが静々と進む場面があって、見てるだけでも、迫力ありましたよ。彼らはまごうことなき恭仁京の住人で、廃墟の番人で、あろうよ。勝手神社は観音寺という土地にあります。
# by forumhiroshima | 2012-05-15 11:57 | Trackback | Comments(0)
鵜とねずみ
3月13日東大寺・二月堂の目の前の格子の向う、お堂の中で大きな松明が燃え盛る。格子越しにだした手のひらに冷たい水がそそがれて、いそいでこぼさぬように、口へ持っていった。“冷たい”。


3月12日に二月堂の前にある閼伽井屋の中の若狭井から汲む水の行法が、クライマックスとされ、お水取りといわれる。

修行僧の朝の休憩の景色です。おつかれさま。
「言い伝えによると、昔々、岩盤が割れて白と黒の鵜が飛びだし、そこから水が湧き出した。それが若狭の鵜の瀬からきた水だそうです。坂本龍一/縄文聖地巡礼」「若狭・遠敷川に面した岩の上で、・・和上は、たぶん「奈良へ水を送ります。」といっているのであろう。祭文を読み終えると、それを川に流す。奈良へ流れ着くには一年かかるということだが。気の長い話である。 白州正子/若狭のお水おくり」「地下水の流れは非常に遅く、浅い地下水でも一日1m、深い地下水ともなれば年に1mの速度であり、降水が地下に浸透してから再び地表へ湧き出してくるその周期は、三百年、五百年とみられている。それゆえ私たちの使う水には、江戸時代の水も混ざっている。 富山和子/水の文化史」



3月12日にまわりのシキミ?が交換される。

若狭と奈良との地下水の関係は東大寺の若狭井だけではないようだ。「西鶴の“水の抜け道”という題で、・・越後屋という分限者の店にいた女中のヒサが親方の女房に恋愛を邪魔され、顔に焼け火箸をあてる折檻をうけたすえ、小浜の海に身を投げた。その事件があったころ奈良の秋篠の里で井戸を掘っていたが、いっこうに水脈にあたらない。それでもほり続けると、突然轟音とともに大量の水がふきあがった。水が落ち着くと、その池の中に遺骸が浮かんだ。そこへ東大寺のお水取りに参籠した旅人が通りかかり、その遺骸が若狭のものらしいと、持ち物をしらべると越後屋の女中のものだとわかり、丁重に弔って、若狭へ帰っていった。ヒサの恋人はこのことを知り出家して菩提を弔った。墓の前で読経していると二人の女が現れ、両人は争っていた。ヒサと越後屋の女房であった。ヒサが争いに勝ち女房に焼けた金をおしあて、“我が思いをかえした”と叫んで消えた。その日若狭で、越後屋の女房が、一声叫んで悶絶したという。 白州正子/若狭のお水送り」
秋篠の里の秋篠寺にも閼伽井がある。

中沢新一  「 諏訪は蛇の国。蛇は生と死、再生の象徴。」
坂本龍一  「あちこちにどくろが巻いてあった。葛井神社にいったとき、池に向かって女の人が何か唱えながら熱心に拝んでましたけど、あれも日頃から蛇神を目にしているからこそでしょう。」
中沢「あの池と遠州の池がつながっていて、龍神の通路になっているという伝承がある。その感覚をじつに素直に受け入れてますね。」
坂本「彼女の世界観になかに、それがはっきりと入っていることが外からみていてもわかる。現代の日本からみたら不思議だけど、そういう世界観のリアリティを感じます。」
中沢「漫画家のつげ義春さんんもこのあたり(諏訪)が好きで、よく温泉めぐりをしてましたねえ。つげさんの想像力のなかでは、温泉は地下でつながっていて、ひとつの温泉に入ると別の温泉に潜っていける。その想像力は同じですよね。」
坂本「温泉というのは、地球のマグマ、巨大な火のエネルギーが、僕たちにも触れられるかたちでそこにあるもので、温泉に浸かることは、その土地のエネルギーに直接肌で触れること。地下のエネルギーが根茎のようにつながっている。」
中沢「昔の貴族は温泉に入るとき、天皇の許可をとらなければいけなかった。温泉地にこもることは、死の世界からエネルギーをたくわえることで、反逆の疑いをもたれるとこまるから」    縄文聖地巡礼

長谷寺から登る初瀬に笠山の山頂の荒神にも、閼伽井がある。ここは東大寺創建の
責任者だった良弁和尚のやはり創建の伝承があり、この閼伽井は東大寺のそれと
水脈はつながっているという。

東大寺・二月堂へむかっていると、県庁の前の池で輝く光モノに気づいた。丸いガラス
玉がステンレスでできている。しばらく見ていて、気付いた。これはお松明のうちの籠
松明のモニュメントなんだと。商店街にも籠松明のモニュメントが竹でつくられてぶら下がって
いた。

若狭井をつくった地中から飛び出した「鵜」。その鵜をいれる籠、と、鵜飼いとた
いまつと連想ゲーム。
「能登の七尾市に鵜浦町がある。・・ここは能登一ノ宮の気多神社の鵜祭につかう
鵜をとる場所である。・・鵜を捕らえて気多神社に送るために、鵜浦には古代から
二十一人の鵜取部がもうけられていた。当番にあたった鵜取部は毎年12月8日に
なると、マルいかごをつくって鵜浦の小西家にやってきて、鵜を取ってくれとたの
む。鵜祭のための荒鵜をとる役目は小西家に代々受け継がれ、その技術も一子相伝
である。 続 日本の地名/谷川健一」「鵜は滄溟の神の使者である。海底にある常
世の消息を反映していることを暗示する。こういった推定を証拠だてるものとして
山口県豊浦郡豊北町土井が浜で発掘された弥生の少女が鵜の骨をだいていたとい
うことを・・谷川健一/日本の地名」

地下のことを考えることなど日常にはない。が、あの閼伽井の水の甘く冷たかった
ことが、刺激してならない。オオナムチが野に入っているとき、スサノオはその野に火をは
なつ。オオナムチが火に囲まれたとき、野鼠が現れ「内はホラホラ、外はスブスブ」といって
地中にさそう。穴でオオナムチは野火をやりすごす。ねずみは「根棲み」だという。
地下のことはねずみに聞くのがいいのだろう。
# by forumhiroshima | 2012-04-23 11:55 | Trackback | Comments(0)
室生
午後から雨模様の予報でも、どうしても今じゃなきゃ!と室生寺へ向かった。町では桜はすっかり散ってしまって、桜前線は北へ、そして高い山々へむかっている。山々のひろい展望の中、桜の白味がかったピンクが緑のなかから、ヌッ立ち上がっている、と見える日々は今しかない!。すぐに新緑のなかに同化してしまう。桜たちの晴れ舞台の季節は今、しかない。

「帰りがけに私は、お寺の南側の山へ登ってみた。室生村の一部で、段々畠がつづいており、そこからは室生の山の全景が手に取るように見わたされた。・・この大きな景色は、無言の中に室生の歴史を語っていた。そのなかに、室生山を日本の中心とする、広大な世界観が打ち立てられていった。昔の人のそういう想像力には驚くべきものがある。・・“自然は芸術を模倣する”というが、室生を軸として四方を取り巻く山々は、曼荼羅に描かれた須弥山の景色を彷彿とさせる。それは決して圧倒されるような風景ではなかったが、深く心打つものがあった。・・室生の周囲に、・・四至を定める寺が存在している・・ 白州正子/水神の里」

室生の四至は東西南北にそれぞれ門として寺が置かれている。そのうちの仏隆寺を経由してゆくことにした。榛原から伊勢本街道という標識がつづく。それに加えて仏隆寺の標示が加わって、道は細くなってくる。それに登りだ。車の往来が多い。離合できなくて、渋滞も出来てきた。道沿いに「桜祭り」のピンクののぼり。

駐車場をさがして、車が右往左往している。そのむこうにでかい桜の木と、ほそい石段の上にお寺。有名な桜の木で「千年桜」だと表示があって、カメラの三脚がそこかしこに立っている。ここが仏隆寺。今日やっと満開です!とお寺の受付で話されていた。

寺から室生寺への標識にしたがって地図にはない新しい車道をのぼる。というより押しで唐戸峠のお地蔵様へ。おおきな枝垂桜のお堂から展望が開ける。

室生寺はかなり低い河原にあって、桜の木々に埋もれていた。これが“曼荼羅”ですか、と白州正子に聞く。深い山中の峠をこえて出逢う集落は、どこも桃源郷のようにみえる春の季節。室生の集落も美しい。室生は室生火山群とよばれる1500万年前頃活動していた火山の噴出物だという場所。集落を尾根が円く囲んでいる。これって、1500万年前の火口ではないのか?

集落におりて室生寺へ。寺で配布するパンフレットの地図をみていて、室生寺の四至の寺々の位置の東西南北がちがっていることに気付いた。「東は田口の長楽寺、南は赤埴の仏隆寺、西は大野寺、北は名張の丈六寺を四門とよび、それぞれ峻険な山を越え、谷を渉って奥深い室生寺へと辿っていた。 パンフより」。これは寺の間違いではない。パンフにはしっかり北の方向も示されている。これは明治中期にかかれた大和志料の資料集からの引用で、この資料集からの引用をいろいろな文章のなかに、たくさんみる。信頼される資料のようだ。そこには「所謂東以田口長楽寺為大門、西以大野阿弥陀寺為大門、南以赤埴仏隆寺為大門、北以名張常勒寺為大門」とある。が、赤埴の仏隆寺はどう見ても西の位置。

室生寺の参道の橋からの周囲の眺めはまるでおおきな穴の底にいるようだ。「日本書紀では、室、房、窟、館などの字をムロと訓んでいる。本来ムロは石器時代の棲みかとしての岩窟や洞穴のことをいっていたのが、さらにひろく家屋形式の部屋のことをもさすようになった語であるらしいこと・・さらに、洞窟は、人がそこからもう一度生まれてくるための母胎であり、修行者がそこを行場としてこもるのは、あらたな宗教的・霊的再生を期するためだあった。この洞窟信仰は、おそらく石器時代以来の古い伝説に根ざすもので、しかも日本にかぎらず世界の多くの民族の共有するところ   西郷信綱/古代人の夢」
仏隆寺に、9世紀、寺の創設の僧、堅恵が入定したという石室がのこされている。

「室生寺の金堂へ登る右手の木立の中に、ささやかな鎮守社が建っている。人は気付かづにすぎてゆくが、これこそ室生の寺の前身で、その方角を東へ遡った室生川のほとりに“龍穴神社”が鎮座している。・・がこの神社も後に造られたもので、ほんとうの“龍穴”は、さらにその奥の谷間にある。・・みるからに龍が棲んでいそうな恐ろしげな洞窟で、室生の山の奥の院といった感じがする。・・土地の人々は、室生のことをムロと呼んでおり、昔から神がこもるミムロとして畏敬されていた。龍は東方の守護神とされ、・・ 白州正子/水神の里」

室生寺から龍穴神社が東方だと、宗教的な理由でなるなら、大和志料がいう所の方位は東は田口・長楽寺になるだろう。そこが基点で四方が定まってくる。

室生は古代、まだ人が地球に出現する前の1500万年前のできた火山帯だという。「この火山帯は1500万年前頃、西南日本・瀬戸内海が急速な時計回りの回転をおこし、それに伴って日本海が大きく拡大した。このことは西南日本内帯で1500万年前を境として、古地磁気方向が著しく変化することから確かめられた。・・西南日本の回転によって日本海が拡大し、同時に日本列島の部分は隆起し、古瀬戸内海が消滅したと考えられる。 日本の地形 6」

室生寺の大門の方向は、またこの古代の日本の湾曲する土地の力とそこにおきたという磁力方向の変化とも考えると、白州正子氏のいう「室生山を日本の中心とする、広大な世界観」を石器時代の人々の記憶として、ここに伝承され、その場は室生火山帯の一つの火口であった記憶かもしれない。「火山活動をしていた時代が、人類さえ誕生していない約1500万年も前のことですし、長い間の浸食作用で地面が削り取られてしまったために、火口がどこにあったのかさえわかりません。ただ現在日本で活動中の火山よりも激しい火山活動であったことは間違いないことなのです。 室生火山群の魅力をもとめて/国立曽爾少年自然の家」

西の大門・大野寺の枝垂れです。
# by forumhiroshima | 2012-04-20 18:55 | Trackback | Comments(0)
御斎峠/オトギトウゲ
島ケ原のJRの駅周囲は倉庫と材木置き場で、閑散としている。列車は一時間に一本。倉庫は地元の窯業の会社のもので、昔、国鉄の貨物列車に製品を積み込んでいた、といった風情だ。
窯業の会社のカンバンをみて回りの山並みを見回した。どこでも訪れた鄙びた土地に窯元などを見つけると、その素材の土はこの近くなのだろう、と思う。登り窯などがあると、もうそこの土地がすきになる。土地のにおいが濃くただよってるように思ってしまう。地図をみて皿山とあったりすると、そこに窯元があって、その土は磁器用の特別なものにちがいない、などと想像する。皿はうすくて硬い。その皿を焼く土があるから皿山という。その素材の粘土はカオリン粘土で、これはどこにでもあるものではないと聞いている。カオリンの名は中国・景徳鎮のそばの高峰・カオリンの名をとって呼ばれた。景徳鎮は世界的な磁器の産地だ。ヨーロッパでは高級食器は銀だったのだが、磁器の食器が景徳鎮から入ってきて、美くしい絵つけと、スープは冷めないこととで、磁器は大ブレイクしたのだけど、現地では18世紀までつくれなかった。原料が見つからなくて、ドイツ・マイセンで18世紀初頭にやっと、みつかっている。
カオリン粘土が島ケ原から産出される。カオリン粘土は風化作用でつくられ、水の動きで層に形成される。そして大地の造山運動で地表に現れ、それを“誰か”がみつけ、窯がそこにつくられ、その製品がどこかに運ばれる。その動きの中心になる場所の一つが島ヶ原だ。
島ヶ原から、やはり窯業で有名な山むこうの信楽へむかうルートのある峠が「御斎峠/オトギトウゲ」。

司馬遼太郎「街道をゆく/甲賀と伊賀みち」の中でこの峠が書かれる。司馬さんは実際にこの峠を歩いた様子。司馬さんが峠を歩くのって、「街道をゆく」の中ではめずらしい。そのことが印象に残って、「ここ、ぜったいに走らなきゃいけん、峠」になった。日本最古の道しるべ、町石(丁石)重要文化財が、のぼり応援するよと、まってるらしい。

奈良から伊賀へはいる景色を司馬さんがこう書いている。「地形は太古に無数の小噴火がおこなわれてできたものらしく、その無数の小噴火の火口が谷になり、火口壁が山になり、山から水がながれ、大小の渓々が相連なって、複雑な景色をつくっている。 街道をゆく/甲賀と伊賀みち」
カオリン粘土は火山活動で形成される花崗岩が造山活動で地上面に現れ風化したものだという。その土に微生物の活動によって有機酸が土地に加わり、さらに水によるイオン交換があって・・等々・・カオリン粘土が組成される。この火山活動が島ヶ原の窯業を存在させたか?

不思議なことに、司馬さんはこの「街道を行く、甲賀と伊賀みち」の表題にかかわらず、伊賀から直接甲賀へむかわずに、この峠にむかっている。峠の入口の分岐を右が伊賀市、左が峠を経由して信楽へ。この不思議な選択を、どうしてだろうと考えた。もちろんわかる訳ない。司馬さんの書くものは、どこか歴史の秘密が隠されていて、深読みしたくなる人だ。面影とは表/オモに隠れた後/カゲだと、どこかでいっていた。ここでは、なにがカゲなのか。
島ヶ原は奈良から入ると行き止まりのような場所で、古道としてあげられる和銅の道は、峠越えで甲賀へ。大和街道とよばれる伊賀への道は島ヶ原から木津川をはずれて南下する。
その向うに伊賀盆地・甲賀丘陵とつながって琵琶湖の東湖畔へなだらかな平地がつづく。
琵琶湖は古代に伊賀の盆地にあって、その後甲賀へ移り、そして琵琶湖になったという。伊賀から甲賀がその古代琵琶湖の通った跡ってことだ。琵琶湖が、ちょうどハスの葉の上にころがる水玉のイメージが浮かぶ。ハスの葉は東からゆっくりとめくれて、その上の水玉の移動速度は年間2cm。いつか日本海へ転がり落ちるというのだ。○○原発、あぶない!?


この古代琵琶湖の周囲にカオリン粘土が見つかる。火山と琵琶湖の作品ということになる。
この古代琵琶湖の隣、いまの名古屋を中心としたあたりに古代東海湖があり、カオリン粘土層がその古代湖の湖畔の位置になる瀬戸の町に露出する。大地と水との深い関係がみえる。
「街道をゆく 甲賀と伊賀のみち」のルートはこの古代琵琶湖の湖畔の丘陵をぬけている。

御斎峠を登っている。つらい。振り返ると時々見えるこれまで来た坂道に、一台の自転車が登ってきている。ハーハー息吐きながら、どうしようなか?と悩む。悩みは、抜かれるときの自分の反応のこと。ヨッ!、とこちらから挨拶かな。ムツ!!で、下向いて無視、かな。なんて思っているうちになんと街道をゆくの中にあった「御斎峠跡」の大きな碑にでた。司馬さんこの○○跡が気に入っていた。跡なんてふつう書かないと感心していた。後方の自転車、ここまでくれば、トップまでこのまま、かな?。

「伊賀の御斎峠のむこう側の道がゆるやかな降りになりはじめると、そこは近江国甲賀である。・・峰すそにはシダなどがびっしり生え、その下を水が湧くように流れている。・・この山水の豊富さが、中世この甲賀郡に数多くの小豪族を発生させた。・・忍術などでは伊賀流、甲賀流などというが、・・中世末期のころ武家としての規模がもともと甲賀衆のほうが大きかったのか、それともたまたま将器をもつ人物が伊賀衆より多くでたのか、・・甲賀衆と伊賀衆とははっきり明暗がある。甲賀衆のほうが伊賀衆よりもはるかに時勢の中での立ち回りが上手のようであった。・・時勢のなかでうまく立ち回わるにしても、ある程度の規模がなければ泳ぎきれるものではなかったらしいことが、・・この峠を越えてみると、わかるような気がした。   街道をゆく 甲賀と伊賀のみち」

伊賀にあった古代琵琶湖(大山田湖)から、奈良盆地に水か供給されていてたという説もある。峠を下りだすと「ゆるやかな降り」で、ヒマ。ペダルも回さずに、伊賀の古代湖から奈良盆地への川のルートを考え始めた。これは楽しい。あそこだろか?あそこしかない。なにせ大地はハスの葉だから。
“オッス、オツカレ”と、ピユーと自転車が追い越していった。
# by forumhiroshima | 2012-04-17 17:03 | Trackback | Comments(4)
奈良から東へ山中という笠置山地をぬけて木津川にでると、正面に壁のような尾根が川向こうにあらわれる。その壁は南へ木津川と平行にさかのぼって、島ケ原の集落で木津川を止めるように回り込んできて、おおいかぶさる。尾根で行きとまった集落、島ケ原に正月堂と呼ばれる戦前は国宝で、現在は重要文化財というりっぱな寺院がある。

東大寺の創建時代のスタッフで東大寺二月堂のお水取りをはじめた実忠和尚がつくったというここ正月堂との関連の伝承と、また聖武天皇の行宮としてつくられたという伝承もある。

木津川は急流になって川底をけずり深くなって、その山と河との細い隙間の場所に、一時間に一本の列車の走る単線のJR関西本線と、一本の国道だけが外部との連絡ルートという鄙びた集落の輝かしい古代のそれは記憶だと、そこかしこに「正月堂へ」の表示が立てかけてある。
山際の西斜面の裾地の集落をぬう古道に、ちいさな真新しい「和銅の道」とある標識をみつけた。都が飛鳥の藤原京から奈良・平城京に遷都された和銅年間に、島ケ原をぬけて伊勢へ向かう奈良時代のあたらしく設置された、「東海道」だと書かれてあった。集落の名は島ケ原・大道。「大道」はそこの道が都へつながる官製ルートである、由緒正しい正規ルートという場所の地名だという。「大道」の地名は大阪・四天王寺の西にもある。古代難波京の朱雀大路の痕跡がそこにみつかっている。


「和銅の道」の標識を追って走ってみると、民家の軒先から金網のフェンスにさえぎられる。そこに標識も立っている。はて?と立ち止まると、民家から駆け足でおじいさんが現れて、しばし待て!という。なにごと?と成り行きを見る。おじいさんヒョッコイとフェンスを引っ張り出した。さあ、お待たせ!猪がでよるから。フェンスの向こうには細い地道が竹藪の中に入っていた。ここが「奈良時代・東海道」らしい。おじいさん、「気をつけろ」と、胸張って見送ってくれた。おじいさん「和銅の道」の関守さん?ですか。古代「東海道」もここの新しい“古代の誇り”に追加されているようだ。

「基本の方向を示す東西南北のうち「東」という漢字にだけアズマとヒガシの訓読みがある。だからといって、アズマとヒガシが同義語であるわけでは、むろんない。太陽がアズマから昇るなどというもののいいかたは、どだいなりたたぬ。・・ではなぜ「東」と書いてアズマと訓んだりヒガシと訓だりするのかといえば、古代にアズマと呼ばれた地方が、たまたま大和からみて東方にあっていたからであって、それ以上でもなければ以下でもない。 西郷信綱/古代の声」
西もニシの訓よみのほかにイリがあることは、西郷先生ご承知だが、イリは沖縄の言葉だといってる。西表島のイリオモテだ。四方向のうち「東」のみが二つの訓がある。
古代から、飛鳥・藤原・平城・平安などと同じ南北軸で北上してきた近畿のこの国の中枢軸からすると、東京は東北の方向になる。明治政府以後に京都から東京に遷都したという法律的な処置はされてなくて、京都からすれば、天皇はまだ出先におられるという感覚があると聞く。東京は、アズマの武士どもの都であって、この国の中枢の都は、京の都にまだあるらしい。東京は、アズマの都で、東海道は奈良、京都から伊勢の海へむかう道をさすことになる。となると、和銅の道が「東海道」ならヒガシカイドウと訓むことになる。京都から琵琶湖の湖畔を北上し米原から東へ、関が原を越え、箱根の峠をこえた場所が、関東はセキのむこうのアズマであり、坂東は箱根の坂のむこうのアズマだとなる。なるほど、だから宮崎県前知事、東国原さんはアズマコクバルとは訓まないわけだ。

「東海道」はどうしても東北方向へむかってる。東じゃない、と思うんだよね。アズマへ向かってる。方向感覚ではなくて、政治感覚なんだろう。そこらが、私には難しい。つい、東じゃないだろう!と。だって、方向間違えると、自転車で急坂くだって、これちがう!って、登り返す、なんて怖ろしいことおきかねないのだよ。
# by forumhiroshima | 2012-04-14 10:00 | Trackback | Comments(0)
旧道の登りで自分を追い越せない車がブーンと、すこし広くなった場所で追い越していった。こちらは、まるで深海にもぐってしまったように、息苦しいばかりで酸素がほしい。そんなとき、自転車に乗っていた、ある人が、2輪の自転車は転倒するから、安定した4輪に、そしてブレーキングも倍にして、苦しい登りには酸素をエンジンにお渡しして、ガンバ!と、お願いって、考えて作ったにちがいないと、いつも確信するのだ。それに比べて、自転車って、キツイ!もんだ。自転車もタイヤ細くして、抵抗を軽減とか、フレームを軽量化とか、細部にわたって工夫もされたのだけど、車はブーンと、追い抜いてスケジュールどうりに走ってゆく。
 自転車は、ヌタヌタの路面からピカピカの舗装路になるからといって、タイヤを履き替えたりはできない。どこまでも道具でしかない。その道具をなだめすかして転がすと、時代のいちばん後の交通機関であることを知る。そうだけど、そのことが、なぜかうれしい。身体を動かしてたずねる土地の神々とであえる資格をもったように思える。その思いは、人の古代の生活の時間までさかのぼろうとする。

東大寺のお水取りが終わっても、気分の中に、まとわりつくモノがある。松明が二月堂で振られるのを二回もみた。二月堂にこもったお坊さんの祈りもみた。二月堂の格子戸から出した手のひらに“香水”もそそいでもらった。それで十分なのに、まだなにかまとわりつく。ゴリゴリ頭の中を引っ掻かれる、あの感じ。

「お堂のなかでおこなわれる儀式は、すごく音楽的、演劇的に構成されていて、相当できる人間が演出したんだろうという感じですよ。・・そんなお祭りが1200年以上一度も途切れることなく毎年続いていることにも驚いたんですけど、一番印象的だったのは、縄文に通じる土着信仰と、整備されつつあった神道、それから外来の仏教、その三つがキメラのように合体して、そのまま「凍結」されて千何百年も残っているということですね。古代の信仰が野生的なかたちのまま保存されている。・・いろんな要素が複雑に接ぎ木されているんだけど、融合はしていないんですよ。・・上から漆を塗ったり、金箔を貼るようにして。・・坂本龍一。  縄文聖地巡礼/VA中沢新一」

坂本龍一さんがいう“塗りこめられたモノ”が、まとわりつくのです。塗りこめられた縄文の時代が、お水取りの儀式に見えるっておっしゃっている。自転車で走ると感じることのある“土地の神々との出逢いの資格の獲得”が、本物なら、この東大寺で、縄文や古代神道や、奈良の土地に訪れたばかりの仏様たちをば、発見するかも??

自力で走り、のぼる、くだるって作業を、お水取りを始めた実忠和尚の足跡がのこる奈良の東山中、笠置山地にすすめて、お水取りを待っていました。お水取りは実忠和尚が東大寺の東へむかっていき、木津川と出会う位置にある笠置山の正月堂で見た観音浄土の再現だそうで、笠置山の奥の島ヶ原の正月堂がその浄土の位置にあたるのだといいます。この山中の縄文時代からの巨木、土地神が所有する鉱物、銅や水銀、黄金にメッキされた大仏をみがく酸は梅や山桃から、山中の柳生や月ヶ瀬には梅林や楊(ヤマモモ)があったといい、そのみがく道具の布は鹿の皮だと。それらすべてと人々が東大寺建設へむけられたのでしょう。笠置山地では、木津川にでる道は笠置の集落へすべて集まります。そこから物資を川へ流して、加茂から陸揚げして奈良坂をこえると、東大寺です。奈良坂は楽勝な坂道ですよ。時代はその後、東大寺の補修や再建の際に東大寺の物資調達のエリアである、板蝿杣が東へ広げられ、そこからの物資は笠置の東の島ヶ原へ集まります。あとはおなじく、加茂から奈良坂へのルートです。
笠置山地を走り回って、感じる東大寺建設の息吹を感じることはたのしいものでした。柳生の里は剣豪の里ですが、古代の楊/ヤマモモの里であったからでは?楊はヤナギって読めますよね。なんてこと空想したりして。が、坂本龍一のいう“塗りこめられたモノ”は、姿をあらわしませんね。まあ、当然といえば当然で、感性も知性もその能力が桁違いにちがっているのですから。でも、お水取りの儀式で、目の前に縄文の景色が繰り広げられているのなら、それを判りたいです。

こんな文章にであいました。
「参籠とは、身体と魂との関係を逆転させ、身体の重みを次第に取り除き、魂のはたらきを旺盛ならしめようとする祭式である。一般に寝たとき夢や幻が訪れるのも、体を水平によこたえる結果、身体の重みが最小限になることと関係するはずである。そして参籠生活はむしろそのような状態を恒常化しようとするもので、したがってそれは夢幻をよびよせるのにこよなく適した心的状態であったといえる。この最小限という条件を逸してはなるまい。もし眠りやtranceにおいて身体の重みになってしまうなら、人はふたたび目覚めることができず、つまり死ぬことになる。眠りやtranceの状態が死とちがうのは、世界や現実との接触がなお失われずに保たれていることにあり、一方、それが覚醒や昼間の時間とちがうのは、その接触が最小限にしか保たれていない点にある。・・つまり祭式的にそのようなtranceの状態に入って他界を訪れ、そしてふたたびこの世にもどってきた、という夢幻を見ることがまさに修行のしるし、いいかえれば、身にあらたかな験のついたしるしであったのだ。他界への旅は死であり、帰還は文字どうりヨミガエリ、蘇生を意味した。」
「まるで見てきたような話が、たんなる観念でもって作られるはずがない。祭式的“頓死”という夢幻においてではあるけど、とにかくそれが“見てきた”話、古代人のそういった経験にもとづくところの話であることは、間違いあるまい。」西郷信綱/古代人と夢。

さきほど追い抜いた車に下りで追いつきました。ガードレールのないくねった古道は、車ではね!追い抜いて、フリーランです。右左とペダルを踏みかえるだけ。きっとすっごく自己満足な高速??ダウンヒル。でも、これって、どこか“tranceの状態”になってませんか。怖ろしくて、覚醒してるけど、夢見てる!。実忠和尚の夢幻とは比べられないけど、同じ時間がそこにあるような。もしかして、これって!○○、坂本教授!
# by forumhiroshima | 2012-03-31 10:15 | Trackback | Comments(0)
古代からの道
霊亀元年/715年 6月10日大倭国都祁山ノ道ヲ開ク「続日本紀」 コノ道ハ今ノ櫟本ヨリ福住ニ達スル路ナルベシ「大和志料」

大阪の河内から法隆寺を通り、東で直行する“北ノ横大路”が奈良盆地の東の山中にある都祁へ向かう道として官営とされた記事だ。この道は都祁村の小倉から室生村上笠間をとおり深野にぬけて、東大寺の領地であった板蝿杣という森林の南の境界ともなって、名張へ下る。伊勢神宮の斎宮となった女性たちの道、“斎宮登大道”にもなっている。東大寺のお水取りに使う松明を古代から調進する名張の人々のルートとも重なっている。古代から続く道だといえる。

聖武天皇が、関東行幸を始めた740年に奈良・平城京から都祁村にあったという堀越頓宮に着いた記事では10月29日。その翌日に名張に入っている。総勢400名とも記録にあるご一行は約20kmを一日の行程としている。天皇は輿に担がれての移動であったろう。輿を担ぐ人々はその仕事に定められた人々であったようで、時代は下って1336年に京都を脱出し比叡山に登った後醍醐天皇の輿を担いだ人々の記憶があって、彼らは歴代の天皇の葬送の棺を担ぐひとびとでもあった。この人々は現在、八瀬童子会として組織されており、大正天皇の葬送にあたっても棺を担いだのだが、昭和天皇の葬送には、彼らは代表者のみの参加となったという。彼らは古代の比叡山の杣人であるという。奈良の聖武天皇の輿もこの東大寺の板蝿杣の杣人が担いだのであろうか。松明調進のルートに杣ノ川という集落がある。

都祁山ノ道は、都祁から南へのルートは今も松明調進の道であるとか伊勢街道であるとかと、表示も立ててあったりして、わかりやすい。都祁山ノ道は櫟本から福住といまもある集落をつなげているのだから、そのルートは決まっているように思っていたのだけど、都祁山口神社は、櫟本より南の天理の石上神社のそばにあることがややこしい。都祁にも都祁山口神社がある。杣人が山での作業の際に行なうのが“山口祭”だという。石上から都祁へのルートも福住を経由する。715年ごろ、この山々は巨木に覆われて、平城京の巨大建築物の資材を生み出していた。板蝿杣は板が生える森という意味に思える。
古代の街道と現代の高速道路はよく重なっているといわれる。古代の官道は直線をその設計思想としていて、その工事は巨大で大規模なものであったようだ。しだいに忘れられ、現代の高速道路としてルートが復活している。この古代“都祁山ノ道”と名阪国道とが重なっているとしたら、石上でなくて天理からのルートが都祁山ノ道となる。このルートには二つのルートがある。天理のすこし北の虚空蔵から山に取り付くルートとその南の岩屋をとおるルート。
さて、どれが、古代の“都祁山ノ道”であろうか?   ヒマなもんで、全部走ってみる。

走ってわかるのか?
古代よりもっともっと古く、この地球という惑星の海から陸へ上陸する生物たちが生まれてきた。その中に我々の祖先から五億年もかけて今の人間につながる生物もいた。その生物は自らの生命を維持するために、獲物をもとめて動かなくてはいけない。そして動くために働かせる筋肉などの運動機関を働かせる、エネルギーの燃焼はどうしても必要になる。そのうえこの燃焼をうまくすすめるために、団扇の手を休めることなく、あたらしい空気(酸素)を送り、けむり(炭酸ガス)を追い出す、自分のいのちのカマドにしっかりと息をさせてやらねばならない。このようなガス交換は下等な動物では個々の細胞がおのおの行なっているが、身体の構造がいりくんでくると、ひとつの秩序をもった動きが要求されてくる。それはまず口からすいこまれた酸素が、特定の身体の壁を通して血液に吸収され、そこから身体に運ばれる二段ロケット方式になっている。この特定の壁は魚では口からはいったすぐの大広間(エラあな)であるが、陸上にあがって空気を吸い込むようになると、エラはたちまち役立たなくなって、エラあなはつぶれてしまう。そのかわり一対の風船があらわれ、すいこまれた空気は漏れることなく風船をふくらませ、こんどはこの壁でガス交換がおこなわれる。
呼吸の場がエラから肺へ移ったとき、エラを動かしていた筋肉はバラバラに開散して、そのかわりこれまで呼吸とはなんの関係もなかった「胸の筋肉」が肺をうごかす筋肉として登場する。エラの筋肉は「内臓筋」とか「植物性筋肉」とよばれ、呼吸―循環―排出という流れ作業をおこなう。この筋肉の運動はのろいが、しかし疲れることをまったくしらない。心臓や血管、腸管、さらに膀胱や子宮壁の筋肉がこの仲間である。いっぽう肺呼吸を行なう筋肉は「骨格筋」とか「動物性筋肉」とか呼ばれ、その運動はすばやいが、しかしはなはだ疲れやすいものである。たえず休息を必要とする五体の筋肉とおなじものである。
水中で泳ぐことだけに専念してきた筋肉が、陸上では「肺の運動」すなわち「息の役目」まで引き受けねばならぬはめとなった。空中でははるかに水中より息がしやすいとはいえ、しかしそれは、心臓のような休みのない働きが要求されるもので、まして疲れやすいこの筋肉にとっては、およそ片手間にできる仕事ではない。つまり身体を動かす動作と呼吸とかけっして両立しえないもので、呼吸に専念しているときは、動作はすきだらけになっている。われわれが“一息つく”のはひとつの動作からつぎの動作へ移るその「間」だけにかぎられる。「動作」と「呼吸」とのリズム、つまり息があわなければ、「間」ちがいになってしまう。「間」があわなければ、「動作」か「呼吸」かにどちらかに合わせようとする。文字どおり“「間」にあわせ”るのである。  海・呼吸・古代形象/三木成夫。

都祁山ノ道を探して走っていると、岩屋から大きく左へターンして米谷の小さな集落をぬけていると、なんだかペダルが軽い。フッフと進んで、速くなったもんだ?なんて感じる。坂の登りであっても自転車の慣性モーメントは幾分かのこっているもので、ペダルを止めてもすぐには、自転車は止まらない。そのモーメントの減少カーブと、虚弱ではあってもペダリングのトルクのカーブとの呼吸「間」があうことがある。それは古道が人や牛に踏みしめられて出来た動く物に優しい斜度や曲面であったりすることからではないだろうか。杣人たちが輿を担いだ道は岩屋の道としよう。石上のダムコースにも虚空蔵の集落のコースにも、「間」は現れなかった、と、おもった。

古道のヒルクライムは、歴史を重ねた厚い時間の蓄積と、たえだえのわたしの心肺との、「間ごころ」の交流なんですね。
# by forumhiroshima | 2012-03-25 13:52 | Trackback | Comments(0)
化粧
三輪神社のある桜井から初瀬川(三輪川)をさかのぼると、初瀬の手前で北からの支流・白河川・シラガカワとの合流点にであう。白河川をさかのぼると分岐があってそこを左に入ると、頭上の向こうの奥の斜面に鎮守の森がみえて、そこに秉田・ヒキタ神社があった。見上げる場所だ。この神社は三輪山山頂の真東に鎮座するという。(ヤマト 古代祭祀の謎/小川光三)HPのカシミールの地図みてみると、まさに、同じ北緯のラインにある。

その神社は訪れる人は、まれだろうといった風情、集落とも離れている。神社の拝殿のよこに、引田部赤猪子の話がチラシにして、置いてあった。作者はこの神社の宮司と書かれていた。
雄略天皇が三輪川で洗濯していた引田部赤猪子・ヒキタベ・アカイコという美人に会い、“ちかいうちに宮中に召し上げてやる”といってその場を去った。赤猪子はいわれたとおりに待っていて80年がすぎた。赤猪子は“私はもう痩せしぼんでしまった。もはやお召しの希望もなくなった。しかし、それでは気がすまない”と宮中に参上した。天皇は約束をわすれていたことに気付いて、代わりに歌を詠んだ。この話が古事記にある。この赤猪子は三輪川の水神の巫女で、神の妻として、貞操を守ったことを讃えたという話だと解説されている。(黛弘道/古代人の謎)
水神の巫女の神社といわれても、そばには水の流れはない。背景の山中が初瀬川の一つの源流だろうけど。そこから離れ、初瀬川にむいてくだり、長谷寺の門前町の通りにはいった。「ふつう門前町はお寺に直接みちびいてくれるが、ここだけはちょっと違う。いったん与喜天満宮につきあたり、そこから左折して山門にいたる。・・天満宮は元からの天神と“天神様”の菅原道真信仰が結びついた・・この地はよき地よき山との瀧蔵権現(長谷寺から数キロさかのぼった瀧蔵にある)のお告げがあり、菅公に贈られたという。・・長谷寺の裏山から巻向、竜王へかけての全体を“初瀬山”と呼ぶ。・・一口に“初瀬”といっても、その歴史がこみあっているように、奥行は想像もつかぬほど広いのである。・・ 白州正子/こくもり 泊瀬」
「天満宮の石段の途中を右へ曲がると“化粧坂”という峠があり、登ってゆくと、与喜浦に出る。ここが初瀬から伊勢へ通じる古い街道で、峠の手前に雲をつくような巨巌がそびえて、泊瀬の斎宮跡と伝えている。・・倭姫はここに八年籠った後、伊勢へ向かわれた。白州正子/こくもり 泊瀬」「化粧・ケハイというのは大祭の日の舞女を意味する。化粧は普通の女は滅多にもしなかったのである。其の化粧すなわち白粉を塗り紅をつける女性の給興のために特に一区画の神田があったのであって、いかに昔は化粧が大切であったかが知れる。女郎免・傾城屋敷などというと人はすぐに艶かしい伝説を想像したがるが、これも本来はまた神に仕えて舞う女性の名であった。柳田國男/地名の研究」



“奥行は想像もつかぬほど広い”といわれる初瀬の山へ、ゆらゆらと登る。広い車道がダム湖へのぼっていくだけの道。つまらん!!。ダムの湖畔に新しい鳥居をみつけた。寄り道!!ダム湖にしずんだ祠が移転されている。天落神社と鳥居にあった。「大嵐があって、神の岩座が転落し、その留まったところ、泊ったところが“泊瀬”と呼ばれたのであろう。白州正子」とかかれるころがった岩座はダムの底に鎮座している。そのミニチアが御神体として祭られている。移すは“写す”ともいうから、これがいまは御神体なのだろう。などと、いっても納得できない気分がひろがる。

ダムをつめると旧道がでてきて、そのにはふるい石碑などがみえる。ここはきっとすごいマジカルな道だったのだろう、とおもう。長谷参りは瀧蔵参りをくわえて、ご利益があることになっていたのだという。ここを行き交った人は多かっただろう。
広い車道の横にとぎれながらある旧道の先の尾根に瓦屋根の祠が見えた。そこにはセメント舗装の急坂があって、その祠は鳥居地蔵とかかれて石のおじぞうさまが鎮座している。その奥に尾根をたどる道が暗がりにみえる。


これをつめる道が瀧蔵権現の参道になっている。自転車はカツギになる。一間幅のよく踏まれた道で、ところどころに塚や観音の説明板もおかれた、信仰の道。繁みをぬけると瀧蔵神社にでた。彩色された本殿はあたらしい。先年遷宮があったようだ。奈良東山中のお宮はどこも彩色されている。

いきなり「ゴーン」と鐘が聞こえた。ひとり参拝の人がそのあと現れた。鐘楼から初瀬の山の尾根道へむかうまえにすこし下って、小夫・オウブという集落にある天神へむかった。ここが大来皇女・オオクニヒメミコの斎宮跡だといわれる。天神の境内そばに“化粧淵”というカンバンを見つけた。矢印があってそこをたどると、薄雪がまだ解けずにシロジロとしている開拓地にはいって、ちいさな流れにいきついた。田んぼの横のどよみに結界の注連縄と、化粧淵のカンバンがすこし傾いてたっていた。


川沿いに細い農道をくだり、また瀧蔵神社のある尾根にとりついた。
ここから初瀬の山々へむかう。新しい標識に「伊勢街道」とある。

この街道は松坂市の斎宮へむかったという。斎宮の跡と、与喜天満宮のある与喜山とが北緯34.32の同じ緯度にあるという(小川光三,こんなこと調べるのはこの人しかいない)。斎宮伝説はみな東向・日出の方むきのようだ。


この伊勢街道をたどると、お地蔵様の見守る道を行き、都祁の葛神社で平地にでるが、初瀬の山中の集落を回る道をとった。



集落はある高さに家々が並ぶようにかたまっていて、神社はその入口、出口にある。道は杉の森の中の暗がりから集落にはいるといっきに明るくなって、ひろい展望がまっている。雲がながれ、光は風に混ぜかえされる。禊を終え、川の流れからあがった斎宮は、光の中で、神に舞うという、舞台がそこにあった。


山を詰めてゆくと道は細く荒れてきて、路面に枯れた杉の小枝がひろがる。交差した道は、もう自分の位置を教えてはくれない。道はほとんど地図にはないのだから。すすむには「神頼み」しかない。エィ!いってしまえ。
# by forumhiroshima | 2012-03-14 10:12 | Trackback | Comments(0)
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