こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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メモ帳

「出雲」の発生

平田にある小さな宿屋をたずねたかった。数年前にツーリングのブログで出雲・平田に素泊まりの古い宿の記事に出会って、行きたい気持ちがチクチク刺激していて、やっと出雲へ向かった。

一畑電鉄の平田駅そば路地奥にその宿があった。素泊まりの宿をツーリングで選択することは、宿の夕食を頼んでないことで“遅れてすみません、”のストレスがない。が、飯は用意されてない。そのハザマは微妙である。

翌朝、宿から南へ斐川町の築地松の景色に入ってゆく。東へ向かえば斐伊川の河口とその沖の宍道湖にでる。有名な湖畔の東の松江から西へ見る夕日の宍道湖より、湖の西の斐川町から東へ見る朝日の上る宍道湖の景色を朝日の時間に見たかった。松江でなく平田にいるのだから。

斐伊川土手に上がると南の尾根の切れ間から雲が湧き出ている。モクモク、モクモク。押し出されて白い長い流れが朝日に照り返されていっそう白さを増している。宍道湖面の朝日を忘れて、這うように伸びる姿にひきつけられた。この季節にどこでも見る朝霧よりも、もっと濃い白。宍道湖の朝の景色のことを忘れていた。
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翌朝の平田の町並みが白に沈んでしまった。
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「きり」と「もや」の違いを考えたことがある。どうでもいいのに!と思いながら。正規、気象庁によれば、1km以下の視程(視界)が「きり」それ以上の視界があれば「もや」、なんだそうでした。
視程は100mもないホワイトアウト。正規「きり」。いきなりに対面して自転車は現われる。
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「きり」を抜けて宍道湖の北河岸へ。高く上った日差しの中の湖面は水鳥が一面に浮かんで静か。その先の松江の海岸から、湖面を滑るように白い霧が走ってくる。西からも東からも、湖面を舞台に「きり」が登場してくる。
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「出雲とはどういう意味か。風土記には出雲郡に出雲郷の名がみえる。斐川町の西部、斐伊川が大きく湾曲するところがそこに相当する。八束郡の東出雲町にも出雲郷があるが、これは出雲国府がそこにできてから、余部・アマルベ(古代行政区分)を郷(古代行政区分)にして平安時代以後につけた名前で、本来の出雲郷はやはり斐伊川の下流を指した。古代の国名というのは、もともと一国内の小地域の名であったものが、しだいに大きくなって国名になるという経過をたどってできたものである。出雲の場合もそうである。 谷川健一・出雲の神々」

どうしてそこの地名が「出雲」になったのか、は語られない。

記紀は“立ち上る雲の国”とされ、またイズクモ、イデクモから、厳雲・イツモではないとか、吾妻・アズマに対して“夕つ方・ユウツマ”由来とかがある。厳藻・イツモ、イツという美称を付けた藻だという説も出てきて、かしましい。

地元郷土史家で出雲国風土記研究の第一人者の加藤義成の説がある。
斐伊川が出雲平野へ山中からでるところの西河畔に三谷と呼ばれるちいさな谷筋があり、そこは特異に霧が沸きやすい所で、地元では三谷霧とよばれる。この場所あたりから斐伊川右岸が古代出雲郷で、この谷から霧が広がって、雲になることで、八雲立つ出雲となったという。雲の湧くことが印象的な国だという。三谷には出雲型といわれる四隅突出型古墳の上に三谷神社が鎮座している。古代の聖地だろう。古代出雲人はここから生まれる雲に聖なるもの、かれらの国土のプライドを感じたのかもしれない。加藤氏は三谷の斐伊川の対岸の加茂の人で、幼年期からこの景色を見ておられたのではないだろうか。
いま、ホワイトアウトの中にいると、彼の確信を感じる。

霧をふきだしていた古代出雲郷の中心に鎮座する神は、出雲国風土記で“国引き”を歌った“八束水臣津野命・ヤツカミズオミノミコト”という。「出雲と名づくる所以・ユエは、八束水臣津野命・ヤツカミズオミノミコト 詔・ノ りたまひしく“八雲立つ”と詔・ノ りたまひき。故に 八雲立つ出雲という 出雲国風土記」
鎮座する社・ヤシロは出雲国風土記にある「出雲社」、現在の斐川の富村の富(トビ)神社とされる。
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が、この神社は加藤義成・出雲風土記校注で、風土記には記載ないとしている。江戸時代の国学者、本居宣長の古事記伝では、八束水臣津野命・ヤツカミズオミノミコトは「いたく功績ありし神なのに、その御社の見えぬは、如何なるにか、」という。ゆれる富神社の祭神。

司馬遼太郎の「街道をゆく、夜話、1961中央公論」に“生きている出雲王朝”がある。
新聞記者時代の同僚のW氏が、ある日、司馬さんに自分は出雲の語り部だと打ち明ける。出雲の国譲りをオオクニヌシに迫ったのが“進駐軍司令官・アメノホヒノ命”。大和朝廷は大国主命を断罪し天日隅宮へ送った。「おそらく、大国主命は殺されたという意味であろう。朝廷はアメノホヒ命とその子孫に永久に宮司になることを命じた。W氏が当主であるW家は出雲大社の社家である。と言った。あなたのご祖先はなんという名のミコトですか。大国主の一族はすでに神代の時代に出雲から一掃されたはずではないか。ある事情により一系列だけが残った。私の祖先の神がそうです。 司馬遼太郎」
司馬遼太郎らしくないスキャンダラスな一遍だが、それだけに司馬さんだからこそ、引き込まれる。

週刊誌・女性自身のシリーズ人間に「4000年のタイムトンネルに生きる男」が掲載された。その雑誌は探せなかったが、1980年に発刊された「謎の出雲帝国・天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 吉田大洋」がその概要を伝えている。そこには司馬さんの「夜話」に書かれた内容がもっと詳しく記載されている。W氏の氏名が明かされていて、富富雄・トミマサオとされている。W氏が富氏、司馬随筆との違いの説明はそこになかった。

富家の祖先を祀った神社が富神社だという。

富富雄は16才のとき、富家の本家である叔父 富曉若・トミニギワカの養子に入りその冬、出雲大社の東、天平古道沿いにある出雲井神社へ身を清め、白い服にはだしで向かい、語り部となるスタートを切ったと語る。さくらに囲まれ数段に作られた土地の上に小さな祠が鎮座する出雲井神社は岐神(久那土・クナド)を祀る。クナドはここにくるな!来な処、と叫ぶ神だといい、フツヌシノ神(国譲りを迫った神)に従い、逆命者・シタガワヌモノを切り殺した。その帰順・マツロワヌ者の首領がオオクニヌシとコトシロヌシで、彼らは八十万・ヤオヨロズの神々をつれ天に上ったという(日本書紀第二巻)。
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出雲大社の北の海岸の鷺浦から日御碕へぬけるルートの峠にも岐神の小さな祠に道に向かわず西の海に向いて鎮座してあった。出雲の在所の大社を守っているのだろうか。
オオクニヌシの子孫が進駐軍の側に付き従うという役割は、ドラマですね。出雲井神社は昨年出雲大社によって、屋根などが修復されている。いまもその役割が期待されているのだろう。

富神社の今は斐伊川から離れて鎮座している。過去に移転があったともいう。その境内は斐川町の神々と同じく砂地に松の間にある。鎮守の森は持っていない。川の砂州にあるからだろう。斐川町の古道は以前の川の流れに従っているようで、たとえば出雲空港は以前の放水路に建設されている。
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富神社そばからR9国道と富村信号の交差点を越え斐川町中央をはしる古道は、緩やかに斐伊川に沿って走り、昔堤防をおもわせる。富神社は川の氾濫を遮る神が鎮座していたのではなかろうか、と思ったりする。または、出雲大社の防御の神か、とも。

出雲国造出雲治郎の三男出雲信俊が715年出雲郷に分家された。713年、古事記の出来た翌年、各国に風土記編纂の指令があったころ、なにかが連動したか。「我が御祖神合祀祭神をもってこの里人氏神として富大明神といい・・・」信俊はここに我が神アメノホヒを勧請している。
富神社の周囲に神氷、神立などの地名を囲むように出雲大社の社家の千家、北島両家の名の地名がみえる。ここに両家の別邸があったという。
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富富雄は富神社の神紋は「矛」を交差させていたが、ある時「矛」から「大根」に替える圧力があったと語る。神社の東の荒神谷で発掘された銅剣に「×」が刻まれていた。このバツ印が神社神紋だともいう。
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今、神社の由来は「きり」の中。神紋の大根は可愛いくて、オシャレにおもえるのだが。

1300年の時間の累積の「きり」は深い。

 “答えは風に吹かれている   Bob Dylan” 。
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# by forumhiroshima | 2016-11-28 04:56 | Trackback

ダブル ブッキンク

古麻原の谷奥の寛田家の墓所から、谷間の底の川沿いにある車道とパラレルにすこし高い位置を尾根の斜面でたどる細い道がゆっくりと高度を落として下っている。数軒の民家玄関をぬう集落内のその道そばにミツバチ巣箱が置かれていた。庭先にいくつもの巣箱が行儀よく並んで、昼前の太陽の光を待っている。
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みつばちは太陽を基準に尻振りダンスで花の密の在場を仲間に教えるという。だからか、巣箱は必ず陽当りの良い場所に置かれる。「どんな花の蜜を蜂たちは集めているのだろうか?」と、巣箱を見るたびに思う。周辺に花園をさがしてしまう。これまでに出会った巣箱の辺りはいつも日差しがあふれていた。

部屋に紛れ込んだ一匹のハチを殺虫剤のスプレーを持って追い回している生活と、蜂たちと共存する生活のその差は計り知れない。すっかり遠くへきたものだ。

下りの先に鳥居が尾根に溶け込んでいる鎮守の深い森の端っこに現われた。
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長くて細くて、幅のせまい石段が鳥居から見上げるほどの傾斜で登っている。鳥居の神額は八幡社。
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けっこう怖い石段を上がると、そこにも鳥居がある。心細い足元から視線を上げると、その神額には厳島神社とある。鳥居が下より新しい様に見えなくもない。
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14世紀初頭に厳島神社社領から毛利氏に横領されたと広島県史にある時間の流れが逆になっているように、二つの鳥居に思えた。どちらが、どうなん?。ダブルブッキング??

石段の参道が建物にさえぎられていて、脇へ導かれる。本殿とこの建物の間の空間へ入る。
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建物は本殿へ向かって開かれていて、舞台に見える。
広場は「神の庭」と呼ばれるのだろうか?神々はここで舞ったのだろうか。建物は人々が神をまねた神楽の舞台だろうか?杉の巨木の周囲は苔むして、午後の日差しが差し込んで、神々しい雰囲気も漂う。
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石垣はこの谷間どこも古びていて、境内も負けず古びている。
ほの暗い境内横の明るい谷間の奥に墓所がみえる。尾根の斜面に小さく開かれて、墓標が肩をよせている。

「「も・う・い・い・カ— い」
「ま・ア・だ・だ・よ— オ」
坂口安吾の“高麗神社の祭の笛”にある古代の半島からの渡来人・高麗の人たちは後世に“高倉”と呼ばれ、駒井、新井、高麗井、新、などに分かれたという(古代日本と渡来文化・金任仲)。高倉健さんを連想してしまう。健さんは九州出身で、妄想にちがいないのだが。健さんはどこかこの国に侵入したインベーダーに思える。”高倉“と名を替えたこの一族の家紋は根笹という。
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家紋が墓に刻まれていたりしてないかと、とほのかに期待。

その墓所へむかった。「高倉、だったら・・・」‘と。墓所は「宮脇家」累代の墓所だった。お宮の下の民家の表札には宮脇とあった。
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お宮のそばで“宮脇”はわかりやすすぎる。宮本常一はお宮の下の家が実家だから“宮本”だと書いている。明治になって苗字を付けた家だともいっている。この谷じゅう“高倉”を探してみようか?と思ったりしたが、大体、表札がないのが普通だ。それに、脚力、大丈夫???。
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神社の西に肘屋谷の地名がある。ヒジ・ヒビなどは湿地、水場などを示す地名といわれ広島では比治山、東京では日比谷などが該当するといわれる。丹後半島、峰山の南にある比治の山には天女伝説が残っていて、この言葉に古代の夢のような雰囲気を感じる。水場が水の女神の所在であることは、水場のある土地を古代のパイオニア達が見つけた歓喜のモニュメントだとおもう。その記憶をなくしてしまったように思える広島の比治山の古代の姿への手がかりがこの小山の肘屋谷で感じることができるかも、などと期待もあった。比治山も昔、墓標にうずもれていた。

肘屋谷は数軒の民家が尾根の麓に点在していた景色だった。湿地のなごりのため池も神社もなくて静かなというより無音の谷間が広がっていた。ただ、車道の側溝の流れは、たゆみなく強い水量が下っていた。

この国の多くの神社の祭神は中世には不明になったといい、江戸期になって世の中が落ち着いてから、神社が再建され、祭りが復活したといわれる。どの神様でも、有難いのがこの国だろうか。神社リストのある出雲国風土記の出雲でも祭神が動いている。ダブルブッキングされてきた。

Google MAPは凄い。神社が名前で写真付き。すごい、です。ありがたい、です。が、ここ小山の砂田八幡神社とグーグルが表示する境内が厳島神社エリアとは、・・・。複雑すぎ、でしょうね。官製・国土地理院の地図にもあるんです。

出雲・朝山神社の神在月は旧暦の10月10日まで、ですからこのごろですね。祭神はマタマツクタマノムラヒメ命、由緒正しい出雲国風土記記載の神社。が、この神社が国土地理院の1/25000地図には、朝山八幡神社と記入されている。この間違いはけっこう話題になる。間違いで、いつか訂正されるのだろうが、じつは国土地理院にも間違いと申し立てられない歴史がある。

源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮の建立時に“一国八社八幡宮”勧請を指令した。1192年あのイイクニの年のことらしい。その指令にある出雲八幡八社の一つに朝山神社が指定されている。

朝山神社の神主の朝山氏は佐太神社のいまの神主の朝山氏だという。9世紀に朝山一帯を領土とした一族で、大和朝廷から下向したとも、地元の豪族からともいわれる。ヤマト朝廷との関係が深かったのだろうか。

後になって、朝山八幡宮として出雲大社の参道の南端に鎮座する神社ができる。松林の広い境内に静かにポツネンと鎮座している。出雲大社のご威光にどこか意義あり!と言っているような・・・。だからか、出雲人はご機嫌良くなくて、参拝する人が少ないような、が訪れるといつも静かで、いい感じの境内なのだが。

風土記でスサノオがサセのシイの木の葉を髪に止めて踊ったという記述の大東町の佐世神社の境内にも白神八幡宮が建立された。尾根の北にある石の祠が風土記社佐世神社で、南に八幡宮の社殿があった。この二社は200Mほどもあろうか、尾根道で結ばれて、流鏑馬の神事でも行われたのかとおもうほど、まっすぐで印象深かった。シイの木の葉かんざしのスサノオの社が広い土台中央にここでは風土記社がポツネンと鎮座していた。参道の石段は崩れかかっていて、怖かった、な。
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都に鎮守する八坂神社のスサノオと祇園の舞子の髪飾り、そんな連想をさせる出雲・佐世のスサノオは八幡の神々にむかって、かくれんぼ、していない。時代でまわる、回り舞台で踊っているだけ、ですよね、古麻原の宮島さん。

谷を出ると、また鹿にであった。今この谷の神は厳島の神様ですよ。
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# by forumhiroshima | 2016-11-15 05:42 | Trackback

古麻原のこと

宮本常一「私の日本地図」、司馬遼太郎」街道をゆく」、そして坂口安吾の「安吾の新日本地図」これらの紀行文をテクストに、そこにある気分をいつもトレースして走っています。古麻原のコマに反応したのは、坂口安吾の気分を思い出したからです。

『「明日がお祭りだそうです。今日はその練習だそうです。」
社殿の下に人が群れている。笛の音だ、太鼓の音だ、ああ、獅子が舞いみだれている。
笛本来の音のせいか、音律のせいか、遠くはるばるとハラワタにしみるような悲しさ切なさである。日本の音律に一番これによく似たものが、ただ一ツだけあるようだ。それは子供たちの
「も・う・い・い・カ— い」
「ま・ア・だ・だ・よ— オ」    という隠れんぼの声だ。それを遠く木魂にしてきくと、この単調な繰り返しに、かなり似るようである。すぐ耳もとで笛をききながら、タソガレの山中はるかにカナカナをきくような遠さを覚えた。』

坂口安吾の新日本地理 高麗神社の祭の笛、からの抜粋です。安吾って音楽の才能があったのでしょうね。彼の歴史への視点が特異です。モウイイカイ、マーダダヨ、がすごく印象深い。歴史書では語られない、人々の情景が浮かんでくる自分に、すごく驚いた。自分にとって、安吾のNO1です。読んでから以後、“コマ”にひどく反応してしまう。抜粋を続けます。

『続日本紀元正天皇霊亀2年(716)5月の条に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置くとある。これが今の高麗村、または高麗郡(現入間郡)発祥を語る官選国史の記事なのである。この高麗は新羅滅亡後に半島の主権を握った高麗ではなくて、高句麗をさすものである。高句麗は扶余族という。
扶余族の発祥地はハッキリしないが満州から朝鮮へと南下して、高句麗、百済の二国をおこしたもので、大陸を移動してきた民族であることは確かなようです。この民族の一部はすでに古くから安住の地をもとめて海を越え、列島の諸方に住み着いていたとかんがえられます
もとより、新羅人や百済人の来朝移住も多かった。南朝鮮と九州もしくは中国地方の裏日本側とを結ぶ航海が千周百年に於いても易々たるものであったことは想像にかたくない』

高麗の人々の痕跡が、吉田の古麻原(小山とも呼ばれた)にあるとする話をどこかにあるか、つたない努力をしてみた。室町幕府が成立したのが1336年、毛利氏が吉田に入ったのが1338年。南北朝の戦乱のなか、厳島神社荘園の横領があいついでいた。1350年ごろ古麻原を小山といい毛利氏の押領によって厳島神社荘園から毛利氏の領土となった、調べられたのはこのことぐらい、でした。でも、コマハラとコヤマとが、シンクしているような。コヤマの後ろにコマが“かくれんぼ”していそうな・・・。

江の川河畔を離れて山中へのルートに入ると、一直線に広い谷間が南に伸びて田園が広がっていた。
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700年も前、室町幕府成立のころの景色が目の前に広がっている、と妄想が湧き上がってくる。京都の室町幕府発祥の地とある石碑より、なんだか実感もある。勘違いだと、おもっていても。この谷中央を流れる小川のそばに何かが動いた。バンビがこちらを見ている、とピョッコンとおしりをあげて走って、また振り返った。
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山裾から真北に向かって開かれて、江の川でその出口を密閉されたような谷間を、“宮本常一”なら、この谷がいかほどの米の収量があり、よって幾人の人々が飢えずに暮らせて、尚且つ余剰があれば、人々のなかからリーダーが生まれ、集落が継続される時間があればあるほど、支配する家は成長し、屋敷が作られた、と一見して見積もるだろう。それは自分の妄想とはかけ離れたものだろうが、できれば、それを知りたいと登りに入った。

真北に開かれた土地はもっとも均等に永い時間の日照の力を受け止められる土地で、水があれば、それは豊かな田園に変えられる未来がある。土地の未来へ差配した家はその水をコントロールできる谷間の水口に根をはる。水の配分が権力を生む。豊かさがそこに主の屋敷を造る。

尾根の麓に民家が点在してある。川沿いに道は緩やかで、久しぶりの谷間に、明るい日差しにも、まずトップへ、と気分が浮きだって、神社の鎮守の森を横目に、そんな選択をしてしまった。宮本常一先生!はまず高みから谷を眺め、墓所を覗けとおっしゃる。フィールドワークなどといったものじゃなく、せっかくの時間、そこの成り立ちにつながる時間をさがせば、そこの人たちの生業・ナリワイを感じることができる、という。暖かい眼差しがある。宮本常一は主の屋敷ではなく、土地に格闘してきた人々のすべてを見ようとしている。「自分だったら、ここで、どう生きただろうか?」などと思ったりもする。

田んぼの畦も家の敷地も美しく積み上げられた石垣で覆っている。その石垣の裾に細いテーブル状にまた石垣の袴が回っている。どっしりとしていて、それでも軽やかなのは一つ一つの積石が割り石のままで、手仕事を感じさせるから。
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トップの屋敷のまえに小高い背丈の橙とも八朔ともわからないが黄色く色づいた実がたわわにぶらさがって、その下の玄関の前のネットで囲まれた畑の中に老婆が見えた。
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道の先は尾根に向かっていて、標高差は100m程か、このままで越えられるか?と尋ねようと声をかけた。
振り向かれたが、無口にネットの出口にむかって歩かれる。しばし待たれぃ!なのか。
出てこられると細身の背がたかい、きれいなおばあさん、どこか法隆寺の百済観音ににていなくもない。百済じゃなくて、・・・高句麗なのですが??。
「耳が遠いのよ、その道は行けませんよ、戦後にはそこを通ってヤミ米買いに沢山来られたものですがね。今もう通れませんよ。その先から左に道があって下へ帰れます」「あのみかんは高くて採れないですよ。鳥さんのえさですよ」と、くっると背中を向けられて、ネットに入られた。
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先の道に高く切り残した切り株のある墓所があって、きっとあのおばあさんの家の墓所だろうと、のぞき込んだ。「寛田家」と刻まれた墓標がいくつもあって、その中に自然石の墓標、そして玉の石があった。
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「玉」は古代朝鮮半島の国家創成伝説に出てくる。女が日光を受けて卵を産む“卵生神話”は、高句麗の始祖・東明聖王、新羅の始祖・赫居世、金官国の始祖・首露王など多い。
新羅で女が虹によって妊娠し生んだ赤い玉から生まれた阿加流姫が日本に逃走した。その姫神は北九州・鹿春神社、国東半島の姫島・比売許曽神社、呉の亀山神社、大阪・比売許曽神社や赤留比売神社など瀬戸内海を北上する伝承もある。

「玉」子の石は見つけるとドッキとし触りたくなる。生命の誕生を玉に象徴させ国家創成伝説神話にするという人々は、民族という一つの塊・カタマリの証明ではないか。墓所に玉を置くことに、海峡を越えた人々を感じないでもないのだが。妄想に過ぎないのだけど。

おがあさんが行けないと話した道のほかに、もう一つ尾根奥に向かう道が地図のあったけど、おばあさんの足元にそこへの分岐があって、行きづらく、通り過ごした神社へ下り始めた。
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# by forumhiroshima | 2016-11-11 11:47 | Trackback

渡来の人の里?

出雲街道も国道R-54も南から土師ダムを見たあたりから合流して河畔の道になる。上根の峠から北上してきた簸川にダムからの可愛川と合流する氾濫原になる。この辺りが佐々井から桂と呼ばれる。佐々井のササは川の堤で井はここでは川。早くから堤防があったことになるのか。そうなら、堤の上に道が造られた。それがR54になっている。

「桂」は明治維新の桂小五郎のち木戸の祖先がその地の名を名乗った場所で、それだけで何か特別に思ってしまうから、可笑しい。「カツラ」地名は小五郎活躍の京都の桂川と同じで「“徒歩渡り・カチ渡り”の浦」で“カツウラ”からだと言われる。浦は裏とおなじことで、表と裏の境界をいい、山では平地と山場とか集落と尾根の境界をいう。歩いて渡れる湿地。都の桂川は浅い。土佐・桂浜は遠浅か?。古代には田園開発の好適地だったかもしれない。が、洪水もやって来る。

この湿地はけっこう大きかったのだろ、今の平地を北上して出会う小山の上のある埃の宮・エノミヤまでR54しかルートがないことがそう思わせる。不安定な土地にはいくつものルートは存在できない。やっと足が前に運べるこの場所であった昔からのルートにあたるのだろうか、国道は狭くて東側の歩道しか自転車・歩行者に安心安全はない。ドロップハンドルに付けて後ろをケヤーするバックミラーは鏡面が小さくて、それをのぞき込むときが不安定になる。自分は使ってないのだが、年からか振り向く幅が小さくなってきたなぁ。

埃の宮・エノミヤは安芸郡府中町にもあって、神武天皇東征伝承があり、ここにもその伝承がある。神社が鎮座するこの辺りから川名が江の川・エノカワになるのだろうか。不安定な場所、故に神が鎮座したのか。
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毛利氏はここに桂城を築城し、南からの侵入を監視した。川もが湿原も守ってくれる。

今、川は同じ名でよばれるように誰かに決められた。昔、川の名は場所、場所でちがって呼ばれてきた。その名の区分に神が鎮座する。“誰か”は神を見ていない。
ここは人々の記憶に“難所”として残る場所になろうか。埃の宮の神がいかに水抑えの神威を期待されたかが、実感で、つたわってきた。「エノミヤ」は江、の神と、どこからか伝わってくる。そう!神の声。

江の川の堤防も兼ねている小山に鎮座する埃の宮の参道の脇に川への細い未舗装の場所が川側へあった。空いているけど、誰も使えない場所。未所有な空間、不可侵な空間、神の所有地。神の境内。たどると水門があってここも氾濫原の跡だ。その先に堤防の上の道が吉田の市街地へ伸びている。川面は広々とした展望に拡がる。毛利氏の里の大きさに驚いた。

桂の氾濫原は吉田の南の守りには最適でここに桂氏の居城がおかれていた。城と吉田とのルートの痕跡がないか、と国土地理院のそれも1:25000でもっとも古い版を求めた。が戦後の版がもっとも古いものだった。そこに、この氾濫原の西端だったろうルートをみつけたが、やはり埃の宮に吸い込まれた。
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地図を覗いていて、視線を東へむけると、山中に不思議!と、感動した(オオゲサ?)地名を発見。ここへ走らずして、オレではない。

江の川の右岸、山中に南北に直線に開けた谷の奥まったところに、古麻原の地名が見えた。

出雲街道が太田川を離れるところを可部と呼ぶ。古代安芸郡漢弁郷・カラベと呼ばれそのこらカベの呼び名が生まれた。この郷のほか、祇園西原・東原、戸坂は古代の幡良郷・ハタラは古代に半島にあった新羅からの渡来の人々の居住地だったという。新羅から白木山の名を連想する。

江の川の右岸、吉田の町の対岸にみつけた地名、古麻原は高句麗(コマとも読む)古代半島の国家の名が残っているのではないか?この地名は現在の地図からは消えているが。
古代の渡来の人々への幻想に浸れる場所って、そんなに出会っていない。いいね!いいね!
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# by forumhiroshima | 2016-11-05 17:49 | Trackback

えびす

11月20日の広島胡子祭りはとても寒かった記憶が小学生のころにある。本通りだけが参道になり、路地はロープ規制され、人々は革屋町の電停(いま本通り)を越えて西へ伸びていた。みなオーバイの襟を狭めて小さく足踏みして寒さをやり過ごした。このころ、出雲の佐太神社で後半の神在祭りが開始されている。広島の胡子神には出雲行きのスケジュールはないようだ。
この胡子神は県中央部の安芸高田市吉田から毛利の広島築城のおり移って来られたという『urban legend・都市伝説』を持っている。旅を嫌っておられる訳ではない。
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エビス神の最も古い記録は、「厳島古文書」の1168年に“江比須”社の存在が記載されており、兵庫の西宮神社の記載の1172年よりも古い。ギネスに申請できそうだ。朱色に漆で仕上げられた美しい江比須の社が塔の岡下に鎮座している。
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大晦日の紅白が終わると直ぐに身支度して満員すし詰めの広電宮島口行路面電車にもぐりこむ初詣の光景もこのごろは見られなくなった。

ヤマトタケルは景行紀43年に虜にした蝦夷等を伊勢神宮に献上したとされ、景行紀51年には蝦夷等は昼夜喧嘩をして、出入りに礼を欠いたので三諸山のほとりに置いたが神山の木をことごとく伐ってしまう。里に出ては大声で叫び人民を脅かすので景行天皇はその本のところに獣心があって、中国(うちつくに)には住まわせがたい。それゆえに邦畿之国(とつくに畿外)に分かち住まわせよとして、これが今、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五国にいる佐伯部の祖である。と日本書紀にいわれている。仮定すれば?だが景行時代は4世紀の事になる。蝦夷はまず西宮神社の播磨にうつされ、後に安芸などに分散配置されている。今、ヨーロッパでおきている出来事を思ってしまう。

871年の文書に”キニコベノ佐津古、キニコベノ軍麻呂”などの蝦夷ともわれる人々が朝廷から位を授与された記録は安芸国にある。この人々を祖先とするのは、アナタかもしれない。

「厳島古文書」にある1168年ころ厳島神社の神主佐伯景弘はこれら蝦夷を管理した一族と考えられる。エビス神は古代蝦夷の神であるとする考え方もある(日本古代の精神・横田健一)。
吉田の胡神社から出雲街道を南下すると、可愛川を渡る手前の桂に桂恵比寿神社、土師ダムとの分岐の南の下佐々井に勝田恵比寿神社、可部に胡神社、古市橋の北に中須・胡子神社、祇園のは恵比寿、胡子社と二つ、十日市交差点の西路地に榎町・恵比寿神社と連なっている。その流れが厳島へ、いや厳島から吉田へ、なのだろうか。

出雲街道は出雲大社への参拝だけでなく、一畑薬師への巡礼道であったという。
「一畑薬師は眼病に霊験ありとして、庶民のあいだに広く尊崇されているが、貧しいものをしてきわめて親しみやすからしめるようなつつしみ深さをもっている。そして今もなお、すでに盲いたもので、汽車やバスに乗らないで、30里、50里の道を歩き続けてこの寺に参るものが多い。このような信仰の底にはいかにも民衆の哀愁がこもっているが、その哀愁をきいてくれるものは、宿をこえば、こころよくとめてくれる道ばたの百姓であり、安い宿賃で迎える寺、静かな思いにひたらせてきれる、うすぐらい本堂の中でものいわぬ御仏であった。このような信仰は出雲臣が政治からはなれ、ただひたすらに祖神に仕えた日から民衆全体のものになっていった。宮本常一・風土記日本2」昭和20~30年代までの景色になろうか。

吉田から出雲街道を北上すると、三次から県境をこえて斐伊川に出会う三刀屋、木次までエビスと名のつく神社には出会ってない。この出雲街道の不思議におもえる。
もちろん島根半島東端の美保神社の事代主神もエビス神とされる土地柄で沢山鎮座されている。

出雲街道に比定して走っている旧道は旧国道であったり、県・町道であったりして、民衆の哀愁”がふと転がっていたりする。このかすかな古出雲街道での出会うとは走り続けるゲンキがでてくる。

それら古道が、どうしてもいまの車の幹線道に吸い込まれるポイントがある。そこは河川との出会いで通り抜けるには狭い場所や橋、河川の合流地点で歴史的に災害の発生ポイントであることを思うと、その共通性に対応してきたこれまでの歴史を感じる。八木・中島・佐々井・桂・吉田・青河・三次・頓原・掛合等々。すべて災害の記憶をもっている。

広島~一畑薬師 約170km・43里を二泊三日、もう町に一軒しかない宿をねぐらに「しずかな思い」でも味わいながら走ってみたいものだ。
吉田・いろは家、
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頓原・南天、
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木次・畑旅館、
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など、古びた宿が待っている。どこも、汗だらけ、を気にしなくていい感じです。一泊二食7500円以下でOK。

行き届いたホテルや高級旅館は、自分を委ねる宿であろうが、ただ今夜の宿をお願いする感覚も持てる商人宿とよばれるカテゴリーは、自転車の旅に気持ちを集中させられる。明日も自分で何があっても切り開く、のです。
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# by forumhiroshima | 2016-11-03 06:46 | Trackback

神の表札

10月の第二の土曜日曜の広島、南区丹那町の穴神社秋祭を手伝っていた。
神輿が、東の町はずれにある、御旅所の恵比須神社への巡行が始まって、人影も少なくなった境内にいると、お婆さんに声をかけられた。
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この町で生まれ、四十数年ぶりに祭りにきたと話されて、神社には100段の石段があったが?とその顛末を尋ねられた。人聞きに以前に整備されて広場がつくられたようだと答えると、南の高架の自動車道で遮られ見えなくなった海の景色が高台からよく見えたと懐かしがっておられた。

神社拝殿の背後のその海の景色正面に円錐形にとんがった山が小さくのぞいて見えた。これって、この神社と正対面しているのじゃないか?。海にむかって本殿がある神社は背後の山の神でなく、対面する島に関連しているように思えることがある。そして“円錐形”は賀茂の神、八咫烏の神の表札で、この穴神社となにか関係があるのか?と妄想が湧き出てきた。
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広島湾の南部、呉・休山、宮島、大野と烏伝承が点在し、山口の室津半島の賀茂神社、周防大島の三蒲は“御賀茂”からの地名だといわれ、大島大橋のそばの飯の山の容姿、
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岩国沖の柱島の賀茂神社と柱が神を数える単位であることやその島影
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、呉・休山の東の広から竹原、西条のある旧賀茂郡と賀茂神の痕跡が濃い。

穴神社の妄想は日本海へ走り出た。島根半島の北浦にある麻仁曾山は円錐形の秀麗な独立峰で古代の外港とされた千酌港へ目標の当山だといわれる。
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その麓の伊奈頭美神社の正月三日の祭礼、御的神事は海岸に緑豊かな枝を立て、そこに三本足の八咫烏がかかれた的を置き、矢を射るもので、ここにはるかな昔の賀茂神の到来を思わせる。
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穴神社にも賀茂の神がのぞいたことがあって、穴の神との饗宴でもあったのだろう、か。

麻仁曾山を囲む菅浦、稲積、北浦、千酌、の海岸は出雲国風土記の時代そのままの景色を残しているように思える美しいルートで、海岸のどこを覗いても、石神や祠が松に守られて鎮まってある。それらは、とても懐かしい者たちだ。これらの海岸の西の加賀からうまれた佐太の御子神の鎮座する佐太神社のすぐ南に風土記記載の加茂志神社があるが、祭神はイザナミ・イザナギとされていて、賀茂神ではないようだ。無念!なぜ、加茂なの。

京都・上賀茂神社の“立砂”はもっともシンプルに、都で上等にデザインされた象徴だろう。自分には都会のセンスでも“立砂”は砂山、いろいろな場所をうろついて見る円錐形の山に神々を見る。へそがまがってるから?
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円錐形の発見その都度、その傍へと引き込まれる。神社を探して、賀茂神を探す。賀茂は“神”だと語られることがあるが、円錐形って心の奥底までしみとおる「ナニカ」がある。それが “賀茂神”の正体だ。ただ、まだ不明さの中のナニカなのだけど。

出雲に出現した賀茂神はアジスキタカヒコネとよばれ、その名はアジ・すごい、スキ・鍬/農具という農耕の神とも鉄器の神ともいわれる。奥出雲の三沢に鎮座している。その妻、アメノミカジヒメの名」にあるカジ・梶も鍛冶がちらつく。この二人の間にタキツヒコノミコトができた、と風土記は語っている。このタキツヒコノミコトは島根半島中央部の神名樋山・カンナビとされる大船山にある石神とされる。烏帽子岩とも呼ばれる。円錐形がここにも表れる。
“カンナ”ビは、神隠び、つまり神が隠り鎮座します・ヨリチンザの意味、森林をさすことが多い。また出雲系といわれる神々の鎮座所に限るともいわれる(横田健一 飛鳥の神々)。

烏帽子岩の麓の多久谷あたりは、東に一幡薬師の谷、鹿園寺谷と北海岸へぬける道筋に田園風景がひろがっていて、稲刈りあとの田の野焼きに出会ったことがあった。谷、谷が煙に巻かれて車はヘッドライトしていた。集落そばの野火はとても珍しくどこか自然な営みに思えてか、懐かしい景色だった。自転車を置いて登った石神への尾根から見た、たなびく野焼きの煙が、野火をまだ許されるこの地を幻想に中で神々しいものだった。
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先日発刊された岩波新書“古代出雲を歩く”に「アメノミカジヒメは出雲市塩谷町に鎮座されていたアジスキタカヒコネに向かった位置で出産した、それを“向位・ムカイグラ”という。」とあった。
著者は出雲荒神谷博物館にお勤め。「ムカイグラ」は初めて聞く言葉だった。
生まれたタキツヒコノミコトのタキは多伎都比古と漢字されるが、タキは瀧だろうか。石神そばに滝がある。

アジスキタカヒコネがいたという塩谷の町で賀茂の神は出会っていないが、そのあたりはとても古い場所で、風土記時代の地図では出雲国の西の最も大きな平地。
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そこに流れ込む神戸川河畔には不連続だが、河畔に伸びるR184の対岸にスサノオの須佐神社方面に古道が残っている。一部は中国自然歩道にも指定されて須佐の上流から三瓶山の東側へ回り込み、またその支流にそれぞれに古道が残っている。ここの面白さは深い尾根底の道は午後には早くから暗くなり、民家も目印になる施設もなくて、自分の位置を失うことがあって、ホワイトアウトならぬブルーアウトしそう。日本海を背負う中国山地の山々や三瓶山、大山などの東側や南側には豊かな水流が多く、大きな滝もこの斜面に発達している。冷たい湿気のある風は夏走るにはもってこいだ。神戸川中流域に縄文の遺跡がみつかっている。その時代といまも渓谷の景色は同じではと、思うほど森が濃い。

神戸川河畔の古道の一つが出雲市塩冶で神戸川が平地にでる場所にある。その朝山には風土記記載の朝山郷庁舎のあったと推定される場所を通る道で、ホールドする時間が滲む出色の出来栄えコース。風土記時代の道だといえないか、いえる。この辺りは朝山郷六神山と呼ばれる山があると風土記に記載されているが、その場所の比定ができていない。このなかに稲積山の名があり、麻仁曾山のある島根半島の稲積をおもいだし、周防大島の飯の山をも、思った。

この古道から六神山の一つといわれる朝山神社の鎮座する宇比多伎山への登坂の途中に、風土記時代の古道のあった山が円錐形に見える。
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いきなりビックリ、ブレーキした。姉山と地図にあるが、六神山にある“稲積”ではないのか?イヤ、コレ、コレ、オレ見つけたゾ!と勝手に喜んだ。
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# by forumhiroshima | 2016-10-13 10:19 | Trackback

砂の器

「昨夜の雨で、うずたかく積まれた鉄の切り屑は、一夜のうちに赤錆びていて、なま暖かい風が窓から工場の中に躍り込むと、久しく忘れていた匂いを嗅いだように、深い息をした。春は鉄までが匂った。 小関智弘・錆色の町」
エッセイストで旋盤工の作者の語る“鉄の匂い”。芸北の鍛冶屋、のちに自転車店であった老人が、砂鉄には匂いがあると話していた。

「今西栄太郎は、署長の好意で出してくれたジープに乗って亀嵩に向かった。道は絶えず線路に沿っている。両方から谷が迫って、ほとんど田畑というものはなかった。そのせいか、ところどころに見かける部落は貧しそうだった。
・・・仁多の町はこの地方の中心らしく、商店街も並んでいた。・・・眠ったような商店街の店先には、電気器具や、雑貨や、呉服物などがあった。「銘酒、八千代」の看板が目に付くのは、たぶん、この辺りで醸造される酒なのであろう。」
『松本清張“砂の器”』 亀高の巡査であった殺人事件の被害者を調べに奥出雲の仁多から亀高にむかった情景。栄太郎は刑事、映画では丹波哲郎が演じた。
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ここで書かれた鉄道、いまのJR木次線は出雲大川と古代呼ばれた斐伊川沿いではなく、まるで八岐大蛇のように大きく蛇行して、斐伊川に接するとすぐに山中へ向きをかえる。路線に沿って備後落合から宍道まで、太い、細い様々な道を走った。オロチルートと密かに命名している。
亀高の駅に東、横田から入った路線は反転して南下し仁多へ向かう。銘酒・八千代の醸造元の八千代酒造は廃業されて、奥出雲町出資の第三セクター・奥出雲酒造に変わり、銘酒・仁多米と名を替え、会社は亀高の町はずれで道の駅を併設し、以前TVドラマとして放映された「砂の器」のセットが店内に置いてあった。いまはどうなっているのだろうか。

JR亀高の駅は町はずれで、集落は駅の北3kmにあって“貧しそう”な町ではない。“道の駅”も駅から離れて集落そばにある。
亀高の南の仁多、東の横田、西の八代、北の比田と小さい盆地や川沿いの平地が点在して、どこも田園で静かで奥出雲の穀倉といわれる。

亀高の北になる比田に伝説がある。「播磨の北西部、伯耆の国(鳥取県)と県境に近い岩鍋、今の千草町岩野辺から金屋子神が白鷺になって、西へ向かい、出雲の黒田の比田のカツラの木に止まった。白鷺を見つけたアベ氏に『金屋子神である、ここで鉄を沸かす、鉄を吹く』と神託があり、地元の朝日長者といわれる者がアベ氏を神主として鉄生産を始めた。
それは、天明4年の“鉄山秘書”に書かれている。 谷川健一・地名と民俗学そして日本」
比田・黒田には金屋子神社が鎮座している。この神社が出雲のたたら製鉄の神・金屋子神の本拠だという。谷奥で民家も途切れた高い杉の森に流れが淀む池を配置した、重厚な雰囲気の境内奥に金屋子の神が鎮座している。カツラの古木も点在している。

奥出雲にはたくさんのたたら製鉄の遺構が残っていて、それどころか横田の大呂では、今もたたらの炉が稼働している。大“ろ”と呼ばれる所以かもしれない。遺構の羽内谷鉄穴流が山の神神社そばに残されている。広島・県民の森比婆山の鉄穴流遺構よりも大きい。
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砂鉄は花崗岩の砂を水流で強く流し、もっとも重い比重の砂鉄が残ることで採取される。この砂を流すとき、石垣で囲った水流の受け皿を用意し、後にここを田として作り替える“流し込み田”がつくられ、奥出雲の棚田の景色を出現させた。
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これらの田で作られる米は美味しいとの評判がある。「土壌がアルカリ性である場合、鉄がほとんど溶けていないため、植物は鉄を吸収できずに鉄欠乏になります。土壌中の溶けにくい鉄を吸収するために、イネ、ムギ、トウモロコシなど主要な穀物が属するイネ科の植物は、キレート物質の「ムギネ酸類」を根から分泌し、土壌中の鉄を溶かして「ムギネ酸類・鉄」として吸収しますが、これはキレート戦略と呼ばれます。 東京大学 農学生命科学研究科 プレスリリース」

砂鉄を含む酸性土壌では、この戦略を起こすことなく稲は必要な鉄分を吸収できる生育条件に恵まれて、鉄分のつくるうまみを多く感じられるといわれる。亀高の銘酒・仁多米にもそのうまみが詰まっているというのが、ここの戦略なのだろう。
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低い尾根に囲まれた小さな谷あいの盆地の棚田の底の川そばの車道から見上げる尾根の森と田との境界線に鎮守の森がポツンとみられる。どんな神様がおられるのか?と思っても、圃場整備された直線の急坂は敬遠しがちだった。ある時、広島の備北・庄原の中山峠脇の集落に登って、さらに見上げた尾根に神社の森が見えた。そこにおられた老人に神社の名を聞いてみた。「神社はこの谷の最初に造られた田そばに鎮座されたもので、そばからこの村で使う谷水がながれ出る。この村創設の場所だ。」と話してくれた。その時から、尾根に見つけた神社へ登り、その尾根を越えて、向うの斜面の村へと、ルートをつくることにした。草深い山村の創設神話に出会える気分が、きつい上りにあっても、ゲンキがでる。

そんな尾根を超える峠の道はどこも走る車もたまであるように、落ち葉や枯れ枝におおわれている。そのとき“砂鉄の匂い”を、効けない臭覚を目いっぱい活動しようとする。また、砂鉄のある場所に群生するという“ヘビノネゴザ”と呼ばれる金山草・カナヤマシダを探したりする。
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今も残る流し込み用の水路跡(例えば芸北・雲月山)の記憶から、そこの斜面にカンナ流しの水路を空想する。まるで鉄山師気分。いや、金屋子神気分。奥出雲や備北の道沿いに、箒を逆さに植えたようなカツラの高さ十数mもある大木にであったりすると、鉄山師たちの亡霊が現れる。もう空想は確信にかわり、「よぉ!」。ご機嫌さま、になれる。
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古代出雲の中心地の国府所在の大庭に鎮座する神魂神社の参道は黒田畦にある。黒田は鉄のクロガネの黒にかかわっているのだろうか。祭神はイザナミ・イザナギで、神社そばにこの神を納めたという神納に剣神社がある。

古代出雲神話には、この国創設場面に登場する「三大神剣」がすべて揃っている。
一にスサノオが八岐大蛇を切り刻んだ天羽々斬剣・アメニハバキリ。大蛇の尾から出てきた天叢雲剣・アメノムラクモ。この剣は伊勢神宮に置かれ、ヤマトヒメからヤマトタケルに渡され、草薙剣・クサナギケンと名を替えいまは熱田神宮の神宝になっている。
オオクニヌシに国譲りを迫ったタケミカズチが稲佐浜で突き立てた剣先に空中に座った剣布都御魂剣・フツミタマは高天原に帰り、神武天皇が熊野で苦戦しているとき、高倉下・タカクラジの倉庫に投げ込まれ、神武天皇にわたり、戦勝した。この剣は奈良・天理の布留神社の神宝になっている。ヤマト朝廷創建の神話は、古代出雲を経由してしか存在出来なかったのか、と。華麗なる古代出雲の剣の軌跡を見る。
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イザナミは火の神カグツチを産み、火傷で苦しむなか嘔吐を繰り返す。その嘔吐物・タグリから金山比古神・金山比売神が出現している。奥出雲の金屋子の神も金山比古神だとされる。イザナミは火の神を産む神としても記憶されていたのだろう。

「古代の製鉄は、古代規模においては信じがたいほどに大きな自然破壊をした。一山を丸裸にして木炭をつくり、その火で砂鉄を溶かす。そのため地球の半乾燥地帯で興った文明の多くがほろんだ。樹木をうしない、再生できず、それまでの盛大な冶金が衰退してしまう。
その点、日本は多雨な地帯であるため、森林の復元力がつよい。大陸の古代文明からみるとはるかに遅れていた日本列島が、いったん製鉄がつたわると、数世紀後には鉄器が豊富になり、他のアジアとはちがった社会が構成され、歴史の発展形態もべつな形をとった。その底には、その問題があるのではないか。そう思いたつと、出雲へいってしまう。そんなのが、私の旅である。 司馬遼太郎 1983・11 街道をゆく 西日本編」

出雲は山を削り、砂を流して、国を創った。その国を「砂の器」と
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# by forumhiroshima | 2016-10-02 11:47 | Trackback

信長の苦心

「今日の交通条件のうえを走っているかぎりは、信長の苦心などは、まことに実感をうしなう 司馬遼太郎 街道をゆく 1」
信長が37歳、越前の朝倉氏を攻略したとき、琵琶湖、信長の妹・お市を嫁にやっていた湖北の浅井氏が背後から攻撃を仕掛けてきた。慌てた信長は主従数駒で戦場から脱出した。このときの脱出ルートは朽木渓谷を南下し京都大原へ逃げ込んだ。小浜から都への鯖街道にあたる。この道の険しさを“信長の苦心”と司馬さんは表現している。

“今日の交通条件のうえ”を自転車で移動していて、それだけで、この国の最初の開拓者・パイオニアの気分を探そうなどと、考えている “妄想持ち”には、反論もできそうにない、司馬さんの言葉。だが、人の生活は地球を離れて暮らせない、その地球は長い時間を抱いて車輪の下にあると、ふと、自分の人生よりも遠い遠い過ぎ去った時間を感じることがあって、老体を転がしてしまう。こんなの○○って言うね。

出雲・熊野大社の谷は南北に開いていて、日陰がない好地で、家々が散らばってあって、明るくて、そして緩やかなのびやかに時間に包まれている。この谷から分け入る尾根への道は九十九で古い景色の中を高さをかせぐ。八雲山の山村の峠を越えての下りも九十九にあるが、そこはいきなりのガードレールの幹線道路で“自動車の空間”にぶつかる。そこで、「我に」かえされる。

熊野大社から、川沿いに下り、右からの来た幹線道路にのって、川を渡ると出会う登りに「神納・カンナ峠」との表示があった。そばに、宮内庁「岩坂陵墓参考地」の森がある。明治33年宮内庁指定陵墓参考地、イザナミの陵墓だという。神納!の名に妄想が反応して、急ブレーキ!。“カンナ”は神無月のカンナと頭の中で共鳴する。ナゼ?ここに神はいるのか、いないのか。と、

神はいます。峠を下るとそこは大草町“有”です。そこの神魂神社の神紋が「有」なんです。
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松江藩が江戸時代 上巻・1653年と下巻・1661年に編纂した地誌「雲陽誌」に「古事記いわく、イザナミ神は母里郷日波村(比婆)に葬と書く。後に大庭に遷し祭て、神魂大明神という。故に日波村に社なし・・・」と書かれて、遷して神を納めたことで、神納峠となったという。が、今その母里・比婆山に久米神社があり奥宮はいまも御陵とされている。ま、問題ない!

熊野大神のいます谷へ幾度か走ってきた。谷の西の大東には海潮温泉、熊野大社の境内にも温泉がある。温泉からスタートしそこかしこへ、夕刻のフィニッシュの温泉三昧出来る出雲を楽しんできた。そして古道を探して。幾つか古道の鼓動にであえた。

熊野大社から国府の大庭へ幹線道をさけてウロウロとさまよっていて、いつも振り返り止まって、ナゼ?とおもう場所があった。なぜか、そこに四次元にワープするドアーがある、と。

大社前を緩やかに流れてきた意宇川にそって下ると、川底が一枚の凹凸の岩になり、流れが白く落ちて渦巻いている。ここまでの穏やかな川面が、荒々しい流れの特異な景色に変わり、轟いて、また穏やかな川面に戻ってゆく。
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ここ、江戸初期の1650年にそれまで西から神納山の尾根が伸びて、川の流れは大きく蛇行していた場所が幾度も洪水をおこすことの対策で、この地の一軒の農家・周藤家の三代が50年にわたって、幅30m高さ20mを槌とノミで開削した跡だという。日吉切通しと呼ばれる。
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神納山から切り離された尾根の残りの上に剣神社が鎮座している。由来はイザナミとイザナギの黄泉の国の出来事でイザナギが剣を振るって窮地を脱出したことだという説明が「雲陽誌」にあるが、意味不明です。祭神はイザナミ・イザナギ。屋根の千木が縦と横に切られ男神、女神の二柱が鎮座することを示す珍しい形式だという。(千木のENDを男神は垂直に、女神は水平に切られる)
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すぐそばの神魂神社の参道が東西を女坂、境内への石段を男坂と特別に言われることと、共鳴してくる。なにか一つ気になっていることが、解けたようだ。神魂神社も祭神はイザナミ・イザナギとされている。
北の大橋川を越えて松江城の北に孫の佐太の御子神、叔母のキサカイヒメ、母のウムカイヒメが鎮座し、その親がカミムスビと風土記はいっているのだが、カミムスビを漢字では神魂と書く、神魂神社の祭神ではない。さみしいね。

日吉の切通しが完成する以前の景色は、出雲東部の八雲・天狗・星上山の山塊からの豊かな水流が尾根に受け止められ、留まり、谷奥へと広がり、そこは淀んで、鳥が飛び交い、幾つもの池に舞い降りて、行き止まりになる谷は、そそり立った尾根で、閉じられていた。

古代、川に阻まれた谷に入りこんだパイオニアがいた。それまで入れなかった谷に神の降臨を感じ、結界を造り、膝まづいた。この空間は神の庭で、出雲の国の支配者はその川下に遥拝場所を置き、後に国府をつくり、大庭と呼んで彼らの御祖のパイオノアを伝承のページにいれた。その歴史を祝詞としてかたり継いだ。
“四次元にワープするドアー”から見えた景色です。

谷の西に八雲山の山塊があり、尾根のヒダにいくつもの山村があり、その幾つかに風土記時代からの神社がある。その中心は、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに・・・」の須賀神社。スサノオの新婚新居だ。宇留布神社、ウルフですよ、祭神はイザナミ。坂本神社はスサノオ。除川神社の祭神もスサノオ、河原神社はイザナギ・イザナミ。志多備神社はイザナミ・イザナギ。須賀神社の陪神は新妻のイナダヒメと、ファミリーでかこんでいる。大元の熊野大社の祭神はイザナギノヒマナゴで「イザナギが可愛がる御子=スサノオ」の意味だとウイクペディアは書いている。オヤジ・イザナギの海の神になれという言いつけを聞かずに、スサノオはイザナミを髭が胸まで伸びるほどの時間をすぎても、恋しがって泣き続けたというマザコン野郎だ。

だが、お姉さん・アマテラスが鎮まっている伊勢神宮には、スサノオの居場所はない。イザナギ・イザナミと兄弟の月読とがいっしょの摂社があるだけ。ファミリーは崩壊している。さみしいね。

ところで、ラッカディオ ハーンが国籍を取得した名、小泉八雲の「八雲」はどんな動機からなのだろうか。

八雲山の北山麓の熊野大社の谷に続く尾根に、日本一小さな公立劇場の「しいの実シアター」がある。車道からは、見逃しそうに、森の中にこの劇場はしずんでいる。
「108席しかない日本で一番小さなこの劇場は、演じている人のエネルギーを日本で一番に感じることのできる劇場です。しいの実シアターは、運営を行う劇団あしぶえの夢「100人劇場の建設」に、旧八雲村長が賛同したことで、あしぶえの預金、そして、全国のファンからの寄付が元手となって建てられました。しずかな森の中に佇む小さな木づくりの劇場は、訪れた人が“こころの食べもの”に出会える空間です。」劇団HPより
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古代から人々の心を刺激しつづけるこの森の“空間”には、いまも神々が鎮座している。神は森がつくる、と修正しなくては、ならないだろう。

「信長の苦心」を今も感じられる、そんな場所だとこの谷を思っとるのですが、司馬さん。
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# by forumhiroshima | 2016-09-21 03:46 | Trackback

神々の変遷

島根半島・佐太の御子神を祭る佐太神社には三つの本殿があって、中央・正殿にイザナミ・イザナ、北殿アマテラスとツキヨミ、南殿にスサノオと江戸時代初期の記録にある。いつのまにか、御子神がきえてしまった。そうなったのは中世からだろうと言われる(日本の神々7)。明治になって維新政府から正殿にサルタヒコとせよ、と命令が下ったが、神社は抵抗して佐太御子神としたが、このことで社格は低くきめられた。出雲二の宮に昇格したのは50年後だった。現在の祭神は13柱もおられる。神々が時代に洗われる。

余談。明治のこのころ、博物館の所蔵品は国の宝とされ宝物館に名称変更され、多くの宝の所有は皇室となった。以後国宝は宝物館に運び込まれたという。そんなこともあったようだ。昔話としても、忘れたい話です。

佐太神社裏山の「萩の一本・ハジノヒトモト」の社はイザナミの御陵といわれ、佐太神社のHPによると、中世・陰陽道の卜部家の説によって、八百万の神々は陰暦の10月になると、「当社にお集まりになり、母神を偲ばれるのだとされ、この祭りを「お忌祭」と呼び、」とある。海蛇との関係は分からない。
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平清盛が太政大臣になった1167年ごろ、京都の賀茂神社の賀茂明神が都から遁走する事件が起きる。朝廷は大騒ぎになる。その事件よりずっと前の944年に奈良・長谷寺で長谷観音が女人の身に変じ、京都・広隆寺の薬師如来に、当分不在になるから、あとは宜しくと願にきたという。(“未来記”より。)遁走する神もあるから、集まる神もある?ってことか。

出雲大社の神在祭11月11-17日は荘厳な絵巻物としておこなわれる。佐太神社では5月20-25日に裏神在祭11月20-25日に神在祭と二重に行われる。このほか朝山神社(旧暦10/1-10)、万九千神社(11/17-26)、神原神社(11/10-26)、神魂神社(11/11)、朝酌下神社(11/25)、日御碕神社(旧暦10/11-17)熊野大社(旧暦10/11)に行われている。調べた限りで一応参拝してみたが、出雲大社、佐太神社のほかは、“お忌み”どおりに、しずかな境内であった。来訪する神々は客殿に鎮まって、各々の神名も見せない。
出雲大社
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佐太神社
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だからといって、過ぎ去った中世の名残香をもたのしまない手はないよ。神在り、神去る、季節がもう出雲にやってくる。神魂神社の神紋の「有」がカッコいい。

佐太神社の御子神のお母さんのキサカイヒメ(キサカヒメ・風土記での名)の御祖カミムスビは「神魂」とかかれるが、この名の神社、神魂神社は今、イザナミ、イザナギを祭神としていて、なぜか、カミムスビ神ではない。イザナミ・イザナギの神々は神在祭に松江JR駅から南正面に直線でのびる道の行き当たりに鎮座する売豆紀・メヅキ神社を経由して佐太神社へ巡行したといわれる。
このルートを探して走ったことがある。売豆紀神社横は石段で参った。ただこの神社は昔に東からの移設だという。風土記時代のルート探しを中断していて、今も気がかりなのだ。
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ルート予想を伸ばすと、大橋川を渡れば、風土記時代の法吉郷の庁舎であった摩利支神社を通り佐太神社へゆく古道がある。法吉郷の「法吉」は風土記にウミカイヒメが法吉鳥・ウグイスとなってここに来たとある。法吉・ホウキは伯耆の国のことだろうか。法吉神社そばにうぐいす団地があるのは、出雲らしい、オシャレだ。伯耆の国が鳥取県と呼ばれる一つのその訳かも。
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ウミカイヒメは佐太の御子神の母・キサカイヒメと、オオクニヌシが八十神に騙されて坂道を転げ落ちてきた真っ赤に焼けた大岩を抱きとめで瀕死の怪我をしたとき、オオクニヌシの母親に頼まれて治療し、完治させた。この姫神二柱はカモスの神の子供たちだ。この治療した場所は伯耆の国の今の鳥取県南部町の赤猪岩神社で、焼けた大岩は赤い猪とされ、きっと「もののけ姫」の腐れ神となった巨大猪のモデルだろう、と思っている。
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その赤猪岩神社が麓にある母塚山はイザナミの陵墓がある場所の伝承がある。出雲と伯耆の国境になる山、出雲の東部の母里の東にあって、「母里」という地名にひかれて訪れたとき、地図の母塚山の名を見つけて、面白いとむかったことがある。米子と母里とに昭和初期に結んだ電車道が残っていて、雰囲気がいいのだが、峠にトンネルがある。暗くて怖くて入っていない。そこからは丘は連なり国境らしい景色もない田園地帯が続いて、自転車に走らされる景色のなかで、米子の市街地に引き込まれた。地名のことはどこかに忘れてしまっていた。そして国境も気づかなかった。あのトンネルが国境だった。

イザナミもイザナギも神様だから死去するなんてことが、不思議なんだが、この兄妹は夫婦でもある、アマテラスもツキヨミもそしてスサノオもその子供たちだ。神様だけに許される関係という不思議さだから、不思議なんだろう。

「かれその神避りしイザナミの神は、出雲の国と伯耆の国の境、比婆の山に葬りき 古事記」とあり、明治33年に政府内務省は「出雲母里郷日波山の比婆山は、古事記所載の出雲伯耆の堺、比婆山にして即ちイザナミ命の神陵なり」としている。
赤猪岩神社から10km南の伯太町横屋の久米神社の所在する比婆山は母里の町から5kmほど。伯耆の国境からすこし離れている。中国山地へ南下する高度をあげる道は尾根に撥ね返され北上するルートをいつの間にか走っている。そのうち今の位置を失った感覚に覆われる。松本清張の「砂の器」で放浪する親子が現れるシーンがそのうち自分にダブッてきた。これからは“力走り”になるぞ!。ダイジョウブ?

備後の国から出雲の国へ山地の峠を越える。西城からイザナミの神陵遥拝所の比婆山山麓の熊野神社を通り、西の吾妻山の西へ回り出雲へ下る。“大峠”と呼ばれる。下り終えた大馬木は牧・マキで、夏に出雲各地から集まってくる牛、馬を吾妻山山麓へ放牧させる牛馬道を車道に拡張された道路で、標高991mからの坂とは思えないほど緩やかさを持っている。大馬木の入口の背の高い一本のポプラがここから出雲とトウセンボするようだ。

広い田園の景色に道は山麓に沿って伸びて緩やかにくだる快適さに、ゴキゲンさんだったとき、プスッときた。パンク修理に田んぼ向うにある鳥居の神社の手洗い水をめざして、歩いた。雨模様で南の空を振り返ると、ポプラのような比婆山の烏帽子が起立して雲を分けていた。
イザナミの神陵の所在にふさわしい景色だった。
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明治政府は比婆山御陵を認めなかった。その御陵は烏帽子の向うになる。備後の国と出雲の国との国境ではあるが、古事記のいう伯耆の国との国境はもっと東の三国山になる。那智の滝まで用意されて、「日本書紀」の紀伊の熊野の有馬の花窟とよく似た設定も、維新政府を動かせなかった。
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# by forumhiroshima | 2016-09-17 09:57 | Trackback

藻汐汲み・竜蛇・ミサキ

松江市内の大内谷の住吉神社の氏子たちが、島根半島の出雲七浦参拝で訪れる集落を宮本常一が昭和14年にフィールドワークしたレポートがある。冬12月の訪問だった。
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宮本は七浦の東の笠浦で松江からのバスを降り、北の野波へむけて歩き始める。宮本は野波から西の加賀を通り、江角、古浦へぬける途中の片句、手結の集落をめざした。今は島根原発にならんである漁村だ。
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このコースを150年前、江戸時代1866年に歩いた小村和四郎ののこした紀行文に、「野波より加賀に超えるには、御坂という大なる山あり。船路が宜し」といわれ、船で加賀へむかっている。今は旧車道のチェリーロードか、新しく造られた詰坂トンナルをぬけている。

「野波の村で日が暮れた。宿をとりたかったが、少しでも先へ行っておきたくて、それからまた次の加賀村まであるくことを決めた。野波から加賀へは詰坂という峠を越える。相当な急坂で、さすがにリュックサックの重みを感じた。峠の上で月が光始めた。眼下に加賀の港が見える。いくつもの島が黄昏のうつろう海に黒く見える。峠を下りて谷にでるとハザにかけた稲の匂いがなつかしい。行きずりの女が「おしまいんされたの」と挨拶してくれる。
途中で旅館を一つ見つけたが、この先にもまだあるだろうとおもって歩いていると村はずれになった。道端にいる人に宿を聞くと、すぐ隣が宿であった。障子をあけて、泊めてくれと頼むと、支度ができぬという。しかたないので他の宿をきくと、さきほど見かけたほかにこの村にはないとのこと、ひきかえすのも無駄に思えて、次の村まで歩くことにした。どこか近くで風呂を焚いているらしい、煙の匂い、湯の匂い、人の笑い声がきこえる。道は海岸の上についている。月に青い海のかなたに鯛をつる船の火が美しい。潮騒がゆるやかにきこえる。 宮本常一・出雲八束郡片句浦民俗聞書。」
今もこの風景はかわらず見られる。そこらが島根半島だ。

宮本常一の旅はいつも前のめりだ。宿は民家を狙っている。旅館はフィールドワークとは相いれない、と考えているようだ。観光にきてない。
漁火と潮騒の夕刻のあと、加賀の村でなんとか民家に泊めてもらっている。“さすが!”というほかない。昼夜続けて200~300kmいやもっと走るツーリングイベントの参加者にも似て、常一さんはアスリートだと思える。こちらは宿舎に予約どおりに入る脚力はいつもなく、到着遅れますの言い訳電話のツーリングばかり。到着して風呂もらってビールやっている。常一さんの旅は、いつも理想なのだ。そう遠い“理想”なのだ。心がいつも萎れてしまう常一さんには
、やはり惹かれる。時短を作る、走力という武器を磨く、しかないのだが、な?

宮本常一は西へ向かい、御津からさらに西の片句の集落へ向かう。「御津から片句までの近道は山の尾根を通る。・・・尾根へあがると松原で、左手には宍道湖がけぶるように光っているのが見える。右は日本海、今日も隠岐の島が見える。途中で弁当を食べた。」
今この道の宍道湖側はゴルフ場になり日本海側は島根原発になっている。この道は原発に建設で作られたとおもっていたが昭和初期にあったことが不思議な道で、古道にある急坂直登の道はなく、ゆったりと高度をあげる。下りにある、民家もない深い谷に大師堂と四国巡礼の地蔵たちがある。

尾根であった老婆に片句で聞ける昔話の語り手を教えてもらい探す。そこで魯迅全集を翻訳した増田渉氏の岳父に出会い集落の歴史から暮らしを聞き出して、翌日も滞在し問聞きを続けている。

「室町時代ここの岬に奥州白石から片倉という武士一族が現れ城を築いたことから、カタクラからカタクになったと聞く。一説にはまた尼子氏滅亡の時、その武将の一人が逃れ来てここに住んだのではなかろうか、といわれる。当時は戦いに敗北した武士たちが、深い山中ばかりでなく、海岸の辺鄙なところに逃げた者が相当多かった。 宮本常一」

村の八幡神社の修復や災害時の造立は棟札によってだいたい20年ごとに修復がったことが知られ、それは「屋根をたぶん茅で葺いたためと思われる」。伊勢神宮の式年遷宮もこのあたりにその理由がありそうだ。この列島の気候では20年が建物修理の一つの節目になるのかもしれない。宮本常一らしく、遷宮を由来や伝承からその訳を語らない。だから納得する。

出雲半島で舟屋が見える集落が幾つかある。丹後半島の伊根の景色ほどの特徴はないが、それでも瀬戸内にはないので印象深い。日本海の干満の差は最大20cmで、集落も海岸そばに連なっている。片句では舟屋を作る場所がないため、石畳を海岸に傾斜につくりそこへ船を引き上げる。ここを“フナチ”と呼ぶ。瀬戸内では石段のガンギになり船は海に係留される。このフナチに採取した海藻を干したりしている。片句のフナチは半島の多くの集落に新しく作られた広い車道も狭い集落には入り込めなかった。懐かしい景色がまだ息づいている。
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それにくらべ墓地の家々の祖先の墓石はすべて新しい。大師堂でであった宮本常一が訪問した時代を知っていた老人は、墓石は原発の建設以後、地域に下されたお金で、各家で争って行われたとはなしていた。

「“リュージャサマ・竜蛇様”海が荒れるとき沖から竜蛇が漂うてくる。竜宮からのお使いだという。それを見つけると、これを社務所に持ってゆく。昔は非常に歓待して米一俵を下げわたしたといい、見つけた人や船は運が良いといって喜んだ。竜蛇の上るのは佐太神社だけでなく、日御碕神社・出雲大社でもあがる。大社のは大きく、日御碕のは白いのを特長とする。ただし日御碕にはたいした祭はない。宮本常一」
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ウミヘビを竜蛇様とよび、神社に奉献する人々を、運がいいネ!と笑っている宮本常一。宮本常一を雑誌・太陽の編集長として世にしらしめた民俗学者・谷川健一は「佐太神社の朝山神主の話では、夜に海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉にみえるので、漁師たちはその火の玉を網ですくって捕えるという。この南方産の海蛇は背が黒く、それによってセグロウミヘビの名を持つが平べったい尾には黄色の地に黒の斑点があって、人目を引く。」といい、「御祖のカミムスビの子キサカヒメが“くらき岩屋なるかも”といって金の矢で射たとき、光輝いたから、カカ(加賀)というとある。」と金の矢と金色の海蛇とをだぶらせて考えているようだ。漁火の海に輝くセグロウミヘビが神と到来を告げる景色が浮かんでくる。谷川健一は小説も書いている。ロマンチックな評論がすきだ。

竜蛇が海から奉献されるころ、出雲のいくつかの神社で神在祭か執り行われる。出雲大社の稲佐浜の荘厳な祭典にくらべ、佐太神社では本殿を注連縄で結界され立ち寄れなくなる。そして「最終日の夜の十一月二十五日に、神社から二キロはなれた神目の山の頂にある小さな池に小舟をうかべて、それを西北方の海にむかって送り出す儀式をする。佐太神社はこのように海とのむすびつきが大きかった。そしてそれは極めて古くからであったことが推定される。谷川健一」

この神事は深夜行われ、神目山もそこにある池も探すことをあきらめていた。が、
2010から2011年に通算10か月をかけて国内の各地の祭りに参列されたブログ“お祭り日記” (http://blog.livedoorjp/nadia420-travel)を見つけ、佐太神社の春、昼に行われる“裏神在祭神事”の記事に場所と貴重な写真がありました。
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神目山は恵曇へ入る運河を見下ろす尾根の先端ことで、古代栄えた場所を見下ろす位置にある。恵曇の古浦の浜で発掘された人たちは、大陸か半島からの渡来した人々と、その骨の分析から言われる。この人々は加賀の潜戸の伝承の角の弓矢を持った人々なのか、金色の弓矢の人々なのか。

佐太神社の祭神が、佐太御子神でなく、猿田彦(神武天皇を伊勢から道案内した神)とされてきた。明治政府は佐太御子神でなく猿田彦を祭れといってきたが、神社は拒否したという。

「猿田はミサキと同じ言葉ではないかと思う。佐太神社は現在島根半島の中央部にあり、ミサキではないが半島は狭田の国とよばれ、西の日御碕、東の美保ミ岬とミサキがある。
ミサキをサダという場所は伊予の佐田岬、九州・大隅の佐多岬があり、土佐の足摺岬も元は蹉陀岬であったが、船人が大隅と区別のためにアシズリといった。
渡来した人々にとってミサキは初めてこの列島に入る道しるべ・嚮導キョウドウであり、列島に鎮まりしのちにはすなわち境、外域、外側との区分をさしてミサキとなった。 柳田国男」
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# by forumhiroshima | 2016-08-30 18:36 | Trackback


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