こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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メモ帳

信長の苦心

「今日の交通条件のうえを走っているかぎりは、信長の苦心などは、まことに実感をうしなう 司馬遼太郎 街道をゆく 1」
信長が37歳、越前の朝倉氏を攻略したとき、琵琶湖、信長の妹・お市を嫁にやっていた湖北の浅井氏が背後から攻撃を仕掛けてきた。慌てた信長は主従数駒で戦場から脱出した。このときの脱出ルートは朽木渓谷を南下し京都大原へ逃げ込んだ。小浜から都への鯖街道にあたる。この道の険しさを“信長の苦心”と司馬さんは表現している。

“今日の交通条件のうえ”を自転車で移動していて、それだけで、この国の最初の開拓者・パイオニアの気分を探そうなどと、考えている “妄想持ち”には、反論もできそうにない、司馬さんの言葉。だが、人の生活は地球を離れて暮らせない、その地球は長い時間を抱いて車輪の下にあると、ふと、自分の人生よりも遠い遠い過ぎ去った時間を感じることがあって、老体を転がしてしまう。こんなの○○って言うね。

出雲・熊野大社の谷は南北に開いていて、日陰がない好地で、家々が散らばってあって、明るくて、そして緩やかなのびやかに時間に包まれている。この谷から分け入る尾根への道は九十九で古い景色の中を高さをかせぐ。八雲山の山村の峠を越えての下りも九十九にあるが、そこはいきなりのガードレールの幹線道路で“自動車の空間”にぶつかる。そこで、「我に」かえされる。

熊野大社から、川沿いに下り、右からの来た幹線道路にのって、川を渡ると出会う登りに「神納・カンナ峠」との表示があった。そばに、宮内庁「岩坂陵墓参考地」の森がある。明治33年宮内庁指定陵墓参考地、イザナミの陵墓だという。神納!の名に妄想が反応して、急ブレーキ!。“カンナ”は神無月のカンナと頭の中で共鳴する。ナゼ?ここに神はいるのか、いないのか。と、

神はいます。峠を下るとそこは大草町“有”です。そこの神魂神社の神紋が「有」なんです。
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松江藩が江戸時代 上巻・1653年と下巻・1661年に編纂した地誌「雲陽誌」に「古事記いわく、イザナミ神は母里郷日波村(比婆)に葬と書く。後に大庭に遷し祭て、神魂大明神という。故に日波村に社なし・・・」と書かれて、遷して神を納めたことで、神納峠となったという。が、今その母里・比婆山に久米神社があり奥宮はいまも御陵とされている。ま、問題ない!

熊野大神のいます谷へ幾度か走ってきた。谷の西の大東には海潮温泉、熊野大社の境内にも温泉がある。温泉からスタートしそこかしこへ、夕刻のフィニッシュの温泉三昧出来る出雲を楽しんできた。そして古道を探して。幾つか古道の鼓動にであえた。

熊野大社から国府の大庭へ幹線道をさけてウロウロとさまよっていて、いつも振り返り止まって、ナゼ?とおもう場所があった。なぜか、そこに四次元にワープするドアーがある、と。

大社前を緩やかに流れてきた意宇川にそって下ると、川底が一枚の凹凸の岩になり、流れが白く落ちて渦巻いている。ここまでの穏やかな川面が、荒々しい流れの特異な景色に変わり、轟いて、また穏やかな川面に戻ってゆく。
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ここ、江戸初期の1650年にそれまで西から神納山の尾根が伸びて、川の流れは大きく蛇行していた場所が幾度も洪水をおこすことの対策で、この地の一軒の農家・周藤家の三代が50年にわたって、幅30m高さ20mを槌とノミで開削した跡だという。日吉切通しと呼ばれる。
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神納山から切り離された尾根の残りの上に剣神社が鎮座している。由来はイザナミとイザナギの黄泉の国の出来事でイザナギが剣を振るって窮地を脱出したことだという説明が「雲陽誌」にあるが、意味不明です。祭神はイザナミ・イザナギ。屋根の千木が縦と横に切られ男神、女神の二柱が鎮座することを示す珍しい形式だという。(千木のENDを男神は垂直に、女神は水平に切られる)
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すぐそばの神魂神社の参道が東西を女坂、境内への石段を男坂と特別に言われることと、共鳴してくる。なにか一つ気になっていることが、解けたようだ。神魂神社も祭神はイザナミ・イザナギとされている。
北の大橋川を越えて松江城の北に孫の佐太の御子神、叔母のキサカイヒメ、母のウムカイヒメが鎮座し、その親がカミムスビと風土記はいっているのだが、カミムスビを漢字では神魂と書く、神魂神社の祭神ではない。さみしいね。

日吉の切通しが完成する以前の景色は、出雲東部の八雲・天狗・星上山の山塊からの豊かな水流が尾根に受け止められ、留まり、谷奥へと広がり、そこは淀んで、鳥が飛び交い、幾つもの池に舞い降りて、行き止まりになる谷は、そそり立った尾根で、閉じられていた。

古代、川に阻まれた谷に入りこんだパイオニアがいた。それまで入れなかった谷に神の降臨を感じ、結界を造り、膝まづいた。この空間は神の庭で、出雲の国の支配者はその川下に遥拝場所を置き、後に国府をつくり、大庭と呼んで彼らの御祖のパイオノアを伝承のページにいれた。その歴史を祝詞としてかたり継いだ。
“四次元にワープするドアー”から見えた景色です。

谷の西に八雲山の山塊があり、尾根のヒダにいくつもの山村があり、その幾つかに風土記時代からの神社がある。その中心は、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに・・・」の須賀神社。スサノオの新婚新居だ。宇留布神社、ウルフですよ、祭神はイザナミ。坂本神社はスサノオ。除川神社の祭神もスサノオ、河原神社はイザナギ・イザナミ。志多備神社はイザナミ・イザナギ。須賀神社の陪神は新妻のイナダヒメと、ファミリーでかこんでいる。大元の熊野大社の祭神はイザナギノヒマナゴで「イザナギが可愛がる御子=スサノオ」の意味だとウイクペディアは書いている。オヤジ・イザナギの海の神になれという言いつけを聞かずに、スサノオはイザナミを髭が胸まで伸びるほどの時間をすぎても、恋しがって泣き続けたというマザコン野郎だ。

だが、お姉さん・アマテラスが鎮まっている伊勢神宮には、スサノオの居場所はない。イザナギ・イザナミと兄弟の月読とがいっしょの摂社があるだけ。ファミリーは崩壊している。さみしいね。

ところで、ラッカディオ ハーンが国籍を取得した名、小泉八雲の「八雲」はどんな動機からなのだろうか。

八雲山の北山麓の熊野大社の谷に続く尾根に、日本一小さな公立劇場の「しいの実シアター」がある。車道からは、見逃しそうに、森の中にこの劇場はしずんでいる。
「108席しかない日本で一番小さなこの劇場は、演じている人のエネルギーを日本で一番に感じることのできる劇場です。しいの実シアターは、運営を行う劇団あしぶえの夢「100人劇場の建設」に、旧八雲村長が賛同したことで、あしぶえの預金、そして、全国のファンからの寄付が元手となって建てられました。しずかな森の中に佇む小さな木づくりの劇場は、訪れた人が“こころの食べもの”に出会える空間です。」劇団HPより
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古代から人々の心を刺激しつづけるこの森の“空間”には、いまも神々が鎮座している。神は森がつくる、と修正しなくては、ならないだろう。

「信長の苦心」を今も感じられる、そんな場所だとこの谷を思っとるのですが、司馬さん。
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# by forumhiroshima | 2016-09-21 03:46 | Trackback

神々の変遷

島根半島・佐太の御子神を祭る佐太神社には三つの本殿があって、中央・正殿にイザナミ・イザナ、北殿アマテラスとツキヨミ、南殿にスサノオと江戸時代初期の記録にある。いつのまにか、御子神がきえてしまった。そうなったのは中世からだろうと言われる(日本の神々7)。明治になって維新政府から正殿にサルタヒコとせよ、と命令が下ったが、神社は抵抗して佐太御子神としたが、このことで社格は低くきめられた。出雲二の宮に昇格したのは50年後だった。現在の祭神は13柱もおられる。神々が時代に洗われる。

余談。明治のこのころ、博物館の所蔵品は国の宝とされ宝物館に名称変更され、多くの宝の所有は皇室となった。以後国宝は宝物館に運び込まれたという。そんなこともあったようだ。昔話としても、忘れたい話です。

佐太神社裏山の「萩の一本・ハジノヒトモト」の社はイザナミの御陵といわれ、佐太神社のHPによると、中世・陰陽道の卜部家の説によって、八百万の神々は陰暦の10月になると、「当社にお集まりになり、母神を偲ばれるのだとされ、この祭りを「お忌祭」と呼び、」とある。海蛇との関係は分からない。
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平清盛が太政大臣になった1167年ごろ、京都の賀茂神社の賀茂明神が都から遁走する事件が起きる。朝廷は大騒ぎになる。その事件よりずっと前の944年に奈良・長谷寺で長谷観音が女人の身に変じ、京都・広隆寺の薬師如来に、当分不在になるから、あとは宜しくと願にきたという。(“未来記”より。)遁走する神もあるから、集まる神もある?ってことか。

出雲大社の神在祭11月11-17日は荘厳な絵巻物としておこなわれる。佐太神社では5月20-25日に裏神在祭11月20-25日に神在祭と二重に行われる。このほか朝山神社(旧暦10/1-10)、万九千神社(11/17-26)、神原神社(11/10-26)、神魂神社(11/11)、朝酌下神社(11/25)、日御碕神社(旧暦10/11-17)熊野大社(旧暦10/11)に行われている。調べた限りで一応参拝してみたが、出雲大社、佐太神社のほかは、“お忌み”どおりに、しずかな境内であった。来訪する神々は客殿に鎮まって、各々の神名も見せない。
出雲大社
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佐太神社
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だからといって、過ぎ去った中世の名残香をもたのしまない手はないよ。神在り、神去る、季節がもう出雲にやってくる。神魂神社の神紋の「有」がカッコいい。

佐太神社の御子神のお母さんのキサカイヒメ(キサカヒメ・風土記での名)の御祖カミムスビは「神魂」とかかれるが、この名の神社、神魂神社は今、イザナミ、イザナギを祭神としていて、なぜか、カミムスビ神ではない。イザナミ・イザナギの神々は神在祭に松江JR駅から南正面に直線でのびる道の行き当たりに鎮座する売豆紀・メヅキ神社を経由して佐太神社へ巡行したといわれる。
このルートを探して走ったことがある。売豆紀神社横は石段で参った。ただこの神社は昔に東からの移設だという。風土記時代のルート探しを中断していて、今も気がかりなのだ。
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ルート予想を伸ばすと、大橋川を渡れば、風土記時代の法吉郷の庁舎であった摩利支神社を通り佐太神社へゆく古道がある。法吉郷の「法吉」は風土記にウミカイヒメが法吉鳥・ウグイスとなってここに来たとある。法吉・ホウキは伯耆の国のことだろうか。法吉神社そばにうぐいす団地があるのは、出雲らしい、オシャレだ。伯耆の国が鳥取県と呼ばれる一つのその訳かも。
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ウミカイヒメは佐太の御子神の母・キサカイヒメと、オオクニヌシが八十神に騙されて坂道を転げ落ちてきた真っ赤に焼けた大岩を抱きとめで瀕死の怪我をしたとき、オオクニヌシの母親に頼まれて治療し、完治させた。この姫神二柱はカモスの神の子供たちだ。この治療した場所は伯耆の国の今の鳥取県南部町の赤猪岩神社で、焼けた大岩は赤い猪とされ、きっと「もののけ姫」の腐れ神となった巨大猪のモデルだろう、と思っている。
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その赤猪岩神社が麓にある母塚山はイザナミの陵墓がある場所の伝承がある。出雲と伯耆の国境になる山、出雲の東部の母里の東にあって、「母里」という地名にひかれて訪れたとき、地図の母塚山の名を見つけて、面白いとむかったことがある。米子と母里とに昭和初期に結んだ電車道が残っていて、雰囲気がいいのだが、峠にトンネルがある。暗くて怖くて入っていない。そこからは丘は連なり国境らしい景色もない田園地帯が続いて、自転車に走らされる景色のなかで、米子の市街地に引き込まれた。地名のことはどこかに忘れてしまっていた。そして国境も気づかなかった。あのトンネルが国境だった。

イザナミもイザナギも神様だから死去するなんてことが、不思議なんだが、この兄妹は夫婦でもある、アマテラスもツキヨミもそしてスサノオもその子供たちだ。神様だけに許される関係という不思議さだから、不思議なんだろう。

「かれその神避りしイザナミの神は、出雲の国と伯耆の国の境、比婆の山に葬りき 古事記」とあり、明治33年に政府内務省は「出雲母里郷日波山の比婆山は、古事記所載の出雲伯耆の堺、比婆山にして即ちイザナミ命の神陵なり」としている。
赤猪岩神社から10km南の伯太町横屋の久米神社の所在する比婆山は母里の町から5kmほど。伯耆の国境からすこし離れている。中国山地へ南下する高度をあげる道は尾根に撥ね返され北上するルートをいつの間にか走っている。そのうち今の位置を失った感覚に覆われる。松本清張の「砂の器」で放浪する親子が現れるシーンがそのうち自分にダブッてきた。これからは“力走り”になるぞ!。ダイジョウブ?

備後の国から出雲の国へ山地の峠を越える。西城からイザナミの神陵遥拝所の比婆山山麓の熊野神社を通り、西の吾妻山の西へ回り出雲へ下る。“大峠”と呼ばれる。下り終えた大馬木は牧・マキで、夏に出雲各地から集まってくる牛、馬を吾妻山山麓へ放牧させる牛馬道を車道に拡張された道路で、標高991mからの坂とは思えないほど緩やかさを持っている。大馬木の入口の背の高い一本のポプラがここから出雲とトウセンボするようだ。

広い田園の景色に道は山麓に沿って伸びて緩やかにくだる快適さに、ゴキゲンさんだったとき、プスッときた。パンク修理に田んぼ向うにある鳥居の神社の手洗い水をめざして、歩いた。雨模様で南の空を振り返ると、ポプラのような比婆山の烏帽子が起立して雲を分けていた。
イザナミの神陵の所在にふさわしい景色だった。
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明治政府は比婆山御陵を認めなかった。その御陵は烏帽子の向うになる。備後の国と出雲の国との国境ではあるが、古事記のいう伯耆の国との国境はもっと東の三国山になる。那智の滝まで用意されて、「日本書紀」の紀伊の熊野の有馬の花窟とよく似た設定も、維新政府を動かせなかった。
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# by forumhiroshima | 2016-09-17 09:57 | Trackback

藻汐汲み・竜蛇・ミサキ

松江市内の大内谷の住吉神社の氏子たちが、島根半島の出雲七浦参拝で訪れる集落を宮本常一が昭和14年にフィールドワークしたレポートがある。冬12月の訪問だった。
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宮本は七浦の東の笠浦で松江からのバスを降り、北の野波へむけて歩き始める。宮本は野波から西の加賀を通り、江角、古浦へぬける途中の片句、手結の集落をめざした。今は島根原発にならんである漁村だ。
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このコースを150年前、江戸時代1866年に歩いた小村和四郎ののこした紀行文に、「野波より加賀に超えるには、御坂という大なる山あり。船路が宜し」といわれ、船で加賀へむかっている。今は旧車道のチェリーロードか、新しく造られた詰坂トンナルをぬけている。

「野波の村で日が暮れた。宿をとりたかったが、少しでも先へ行っておきたくて、それからまた次の加賀村まであるくことを決めた。野波から加賀へは詰坂という峠を越える。相当な急坂で、さすがにリュックサックの重みを感じた。峠の上で月が光始めた。眼下に加賀の港が見える。いくつもの島が黄昏のうつろう海に黒く見える。峠を下りて谷にでるとハザにかけた稲の匂いがなつかしい。行きずりの女が「おしまいんされたの」と挨拶してくれる。
途中で旅館を一つ見つけたが、この先にもまだあるだろうとおもって歩いていると村はずれになった。道端にいる人に宿を聞くと、すぐ隣が宿であった。障子をあけて、泊めてくれと頼むと、支度ができぬという。しかたないので他の宿をきくと、さきほど見かけたほかにこの村にはないとのこと、ひきかえすのも無駄に思えて、次の村まで歩くことにした。どこか近くで風呂を焚いているらしい、煙の匂い、湯の匂い、人の笑い声がきこえる。道は海岸の上についている。月に青い海のかなたに鯛をつる船の火が美しい。潮騒がゆるやかにきこえる。 宮本常一・出雲八束郡片句浦民俗聞書。」
今もこの風景はかわらず見られる。そこらが島根半島だ。

宮本常一の旅はいつも前のめりだ。宿は民家を狙っている。旅館はフィールドワークとは相いれない、と考えているようだ。観光にきてない。
漁火と潮騒の夕刻のあと、加賀の村でなんとか民家に泊めてもらっている。“さすが!”というほかない。昼夜続けて200~300kmいやもっと走るツーリングイベントの参加者にも似て、常一さんはアスリートだと思える。こちらは宿舎に予約どおりに入る脚力はいつもなく、到着遅れますの言い訳電話のツーリングばかり。到着して風呂もらってビールやっている。常一さんの旅は、いつも理想なのだ。そう遠い“理想”なのだ。心がいつも萎れてしまう常一さんには
、やはり惹かれる。時短を作る、走力という武器を磨く、しかないのだが、な?

宮本常一は西へ向かい、御津からさらに西の片句の集落へ向かう。「御津から片句までの近道は山の尾根を通る。・・・尾根へあがると松原で、左手には宍道湖がけぶるように光っているのが見える。右は日本海、今日も隠岐の島が見える。途中で弁当を食べた。」
今この道の宍道湖側はゴルフ場になり日本海側は島根原発になっている。この道は原発に建設で作られたとおもっていたが昭和初期にあったことが不思議な道で、古道にある急坂直登の道はなく、ゆったりと高度をあげる。下りにある、民家もない深い谷に大師堂と四国巡礼の地蔵たちがある。

尾根であった老婆に片句で聞ける昔話の語り手を教えてもらい探す。そこで魯迅全集を翻訳した増田渉氏の岳父に出会い集落の歴史から暮らしを聞き出して、翌日も滞在し問聞きを続けている。

「室町時代ここの岬に奥州白石から片倉という武士一族が現れ城を築いたことから、カタクラからカタクになったと聞く。一説にはまた尼子氏滅亡の時、その武将の一人が逃れ来てここに住んだのではなかろうか、といわれる。当時は戦いに敗北した武士たちが、深い山中ばかりでなく、海岸の辺鄙なところに逃げた者が相当多かった。 宮本常一」

村の八幡神社の修復や災害時の造立は棟札によってだいたい20年ごとに修復がったことが知られ、それは「屋根をたぶん茅で葺いたためと思われる」。伊勢神宮の式年遷宮もこのあたりにその理由がありそうだ。この列島の気候では20年が建物修理の一つの節目になるのかもしれない。宮本常一らしく、遷宮を由来や伝承からその訳を語らない。だから納得する。

出雲半島で舟屋が見える集落が幾つかある。丹後半島の伊根の景色ほどの特徴はないが、それでも瀬戸内にはないので印象深い。日本海の干満の差は最大20cmで、集落も海岸そばに連なっている。片句では舟屋を作る場所がないため、石畳を海岸に傾斜につくりそこへ船を引き上げる。ここを“フナチ”と呼ぶ。瀬戸内では石段のガンギになり船は海に係留される。このフナチに採取した海藻を干したりしている。片句のフナチは半島の多くの集落に新しく作られた広い車道も狭い集落には入り込めなかった。懐かしい景色がまだ息づいている。
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それにくらべ墓地の家々の祖先の墓石はすべて新しい。大師堂でであった宮本常一が訪問した時代を知っていた老人は、墓石は原発の建設以後、地域に下されたお金で、各家で争って行われたとはなしていた。

「“リュージャサマ・竜蛇様”海が荒れるとき沖から竜蛇が漂うてくる。竜宮からのお使いだという。それを見つけると、これを社務所に持ってゆく。昔は非常に歓待して米一俵を下げわたしたといい、見つけた人や船は運が良いといって喜んだ。竜蛇の上るのは佐太神社だけでなく、日御碕神社・出雲大社でもあがる。大社のは大きく、日御碕のは白いのを特長とする。ただし日御碕にはたいした祭はない。宮本常一」
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ウミヘビを竜蛇様とよび、神社に奉献する人々を、運がいいネ!と笑っている宮本常一。宮本常一を雑誌・太陽の編集長として世にしらしめた民俗学者・谷川健一は「佐太神社の朝山神主の話では、夜に海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉にみえるので、漁師たちはその火の玉を網ですくって捕えるという。この南方産の海蛇は背が黒く、それによってセグロウミヘビの名を持つが平べったい尾には黄色の地に黒の斑点があって、人目を引く。」といい、「御祖のカミムスビの子キサカヒメが“くらき岩屋なるかも”といって金の矢で射たとき、光輝いたから、カカ(加賀)というとある。」と金の矢と金色の海蛇とをだぶらせて考えているようだ。漁火の海に輝くセグロウミヘビが神と到来を告げる景色が浮かんでくる。谷川健一は小説も書いている。ロマンチックな評論がすきだ。

竜蛇が海から奉献されるころ、出雲のいくつかの神社で神在祭か執り行われる。出雲大社の稲佐浜の荘厳な祭典にくらべ、佐太神社では本殿を注連縄で結界され立ち寄れなくなる。そして「最終日の夜の十一月二十五日に、神社から二キロはなれた神目の山の頂にある小さな池に小舟をうかべて、それを西北方の海にむかって送り出す儀式をする。佐太神社はこのように海とのむすびつきが大きかった。そしてそれは極めて古くからであったことが推定される。谷川健一」

この神事は深夜行われ、神目山もそこにある池も探すことをあきらめていた。が、
2010から2011年に通算10か月をかけて国内の各地の祭りに参列されたブログ“お祭り日記” (http://blog.livedoorjp/nadia420-travel)を見つけ、佐太神社の春、昼に行われる“裏神在祭神事”の記事に場所と貴重な写真がありました。
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神目山は恵曇へ入る運河を見下ろす尾根の先端ことで、古代栄えた場所を見下ろす位置にある。恵曇の古浦の浜で発掘された人たちは、大陸か半島からの渡来した人々と、その骨の分析から言われる。この人々は加賀の潜戸の伝承の角の弓矢を持った人々なのか、金色の弓矢の人々なのか。

佐太神社の祭神が、佐太御子神でなく、猿田彦(神武天皇を伊勢から道案内した神)とされてきた。明治政府は佐太御子神でなく猿田彦を祭れといってきたが、神社は拒否したという。

「猿田はミサキと同じ言葉ではないかと思う。佐太神社は現在島根半島の中央部にあり、ミサキではないが半島は狭田の国とよばれ、西の日御碕、東の美保ミ岬とミサキがある。
ミサキをサダという場所は伊予の佐田岬、九州・大隅の佐多岬があり、土佐の足摺岬も元は蹉陀岬であったが、船人が大隅と区別のためにアシズリといった。
渡来した人々にとってミサキは初めてこの列島に入る道しるべ・嚮導キョウドウであり、列島に鎮まりしのちにはすなわち境、外域、外側との区分をさしてミサキとなった。 柳田国男」
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# by forumhiroshima | 2016-08-30 18:36 | Trackback

イカの海

ずっと以前の夏、日本海海岸の民宿に夕刻、予定時間を過ぎてとうちゃくした。宿のお母さんがえらく無愛想で、ここまで公衆電話も見当たらず遅れる連絡も入れられなかったことが原因かと。


熱気のこもった二階の小部屋の窓をあけると、下の空地はイカが干されて、ヒラヒラしていた。お母さんが上がってきて、てんこ盛りの一夜干しのするめを短冊に切って醤油がかかった一皿に、これもてんこ盛りの丼ご飯がお盆にあって、夕食だ、と言われた。ビールを頼むと、返事がない一瞬がながれて、息子が船でケガして、病院にいくから、とことわられた。すぐに宿賃を用意して、ビール代金をたずねると、いきなり、冷蔵庫にある、!。

留守に客を置いておく不安と息子の容態の不安が彼女を混乱させ、遅れてきた客へのいきどおりもあったのだろう。

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風呂に水を張ってあるから、沸かしてはいれ、と言い残して飛び出していった。風呂を焚きつけて、ぬるく沸かして、飯はむすびにして、風呂上りに畳の上のお盆の前に座った。冷蔵庫にあった漬物に冷えたビール、柔らかいするめ、いや 少し風があぶったイカ刺し、がまたうまかった。リラックス、リラックスで、もう我が家気分。食い足りない分は空地のヒラヒラをとってきて、勝手な追加をして、翌朝話すと、サービス!。息子さんもかえってきていた。


鳥取・境港の出身のノンヒィクション作家・足立倫行の「日本海のイカ」はイカ漁を十一回漁船に船員として乗り込んで書かれている。

夏の日本海の漁火は水平線に浮かぶ。水平線までの距離はたかだか45kmだそうだ。

「西日本近海から東シナ海にかけての広い海域で生まれたスルメイカは、水温の上昇とともに対馬海流に乗って北上し、北海道沖からサハリン沖(一部は黒潮にのって太平洋)へ向かう。グループごとに時期をずらして北の海に到達すると、今度は反転して産卵のために南下を開始する。成長のためのエサ取りの北上、産卵のための南下、このことで沖合の潮境や離島周辺にいくつもの漁場が形成される。 日本海のイカ」


対馬周辺と隠岐周辺が北上するイカの最大の漁場で、南下は本土よりのコースをとるため、夏には海岸からイカ釣りの漁火がみられる。イカの反転と、サンマ漁の始まりが、季語の「初汐」なのだろう。毎朝に海藻を海岸から引き揚げ、神への奉納とすることは、海へ伸ばした手のひらが感じる海温や海藻の鮮度の手触り、引き揚げた海藻の種類で感じること、かもしれない。海人たちの海の変化への気遣いを感じる。


「古代の出雲びとの意識の奥には、隠岐の島の存在がかくされている。千酌から隠岐へは通い船がいたことは出雲国風土記にもみえているが、隠岐は沖であり、また身を隠すところでもある。   谷川健一 出雲の神々」


“河船の もそろもそろに 国来・クニコ、国来・クニコと引きすえ 縫える国は、”と国引きを歌ったヤツカミヅオミヅノ命を祭る神社、富神社や長浜神社などに海藻が供えられることを、出雲人がずっと昔、地球規模の温暖化による海進で離れてしまった国々への記憶の確認のようにも思う。

「クニコ、クニコ」、離別した恋人への叫びにかんじるのは、演歌すぎようか、クニコ!。


海の季節の冬への移ろいを「出雲は、“お忌み荒れ”といいならわしてきている。この烈風吹き荒ぶことを、サダンサン風、サダンサン荒れ(佐太様)とも呼んでいる。対馬海流に運ばれてきた南方産のセグロウミヘビが岸に打ち上げられる。そのヘビを玉藻・ホンダワラの上にのせ、神におさめる。 谷川健一」


千酌の海岸の四角な小屋ほどの巨石が座って、そばに爾佐神社(出雲風土記社)が海の正面真東の円錐形の麻仁曾山と対峙している。ここに都久豆美命が祀られる。クツズミじゃない、ツクツミからチクミという地名が発生ともいえなくはない。が、「沖縄言葉がわかりにくいのは、母音のエとオがかけてしまって、星をフシ、馬をンマ、夏をナチ、月をチチといったりする。街道をゆく 6」この祭神・ツクツミの「ツク」は月のことだといわれる。チチクミがチクミに。月が黒潮に乗って沖縄からやってきたような。隠岐の島も対馬海流に囲まれている。

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隠岐の島からの船が月夜千酌湾へ入ってくる。船は登ってきた月と麻仁曾山を合わせた方向に船首を向けて、右岸の月明りに照らされた鳥居へむけて、船首をターンする。・・・・。

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千酌から北上すると野井の集落にでるが、そこに風土記では「戌・マモリ」沿岸警備施設があったと記述している。弥佐加志能為神社そばに巨石があり、後の世に、隠岐に流された後醍醐天皇

が島を脱出した際にここに接岸した伝承があつたりする。メインの港、千酌をさけたのだろうか、それとも兵舎へなぐりこんだか?


西へむかうと野波の集落へ入る。整備された二車線の車道は「まっすぐな 道で さみしい 山頭火」がぴったり。集落にも山影にも、かかえきれない時間の思い出がうずくまっているだろうが、車道はただただ急がせる。


それでも走ることが、喜びになる道が現れる。野波の集落から峠越えにはいるとすぐに、チェリーロードの標識のある分岐にであう。きっと旧県道の道が、桜の並木で整備されていたのをリメイクして売り込みを図っている。その姿勢、買った!。

新しく隣の町との連絡道ができると、桜でかざられる時代があったようで、道幅の拡張はのがれたが、どこも静かな、車の往来も少ない「桜が散って さみしいが 車こなくてうれしい コヒチ」。すぐに新しいトンネルのある道に合流する。トオンネルを避ける旧道がない道は新しいはず。集落の連絡は船でしかなかったのだろう、か、海岸の波打ちぎわと高みをはい登る道なのか、そのころを想像する。日本海海岸で岬に遊歩道がたくさん整備されているが、集落の連絡道でなかったか、とおもっている。


加賀の潜戸のある瀬戸の鼻に灯台があり、そこへメンテナンスの道が伸びている。ここで生まれた佐太の大神が鎮座した佐太神社のある朝日山の尾根が見える。屏風のように横長な、当て山でもなさそうな山に鎮座させようとした古代の人々の思いには近づけなかった。

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# by forumhiroshima | 2016-08-05 10:10 | Trackback

海藻・汐汲み・産土

佐太神社本殿への石段の右に海藻をかける竹棒の棚がある。海藻だけでなく竹筒がさがっていることがある。

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周防大島の久賀町の八田八幡宮の鳥居に小さな汐汲みタゴがくくられてあったのが、最初の出会いだった。澄んだ海のきらめきの朝に潮をくみ、参拝するその時間の豊かさが、望ましかったし、この町のそんな時間を見つけられたことがうれしかった。


「千年もまえにほろんだかもしれない古代が、このあたりでは民俗のなかにいきいきと息づいて、神々がなお暮らしの文化のなかで舞い立ったり舞いおりたりしているような----

現実なのかロマンなのか、空と海の境のようにびょうびょうとしてさだかでない----感じがある。 司馬遼太郎 街道をゆく6 沖縄・先島への道」

司馬さんが琉球文化について、こう語っている。自分に、”出雲”に同じ思いをもって走ったことがある。


松江市内の東の岡のふもと、島根大学そばの朝酌川の対岸の小さな谷にある集落大内谷へ走った。朝酌の多賀神社から島根半島の千酌へ、「朝酒を酌んで、海でしっかりまた酒を酌む」などと風土記時代の道を想像しながら、むかっている途中の寄り道だった。


出雲国府そばに古代山陰道に佰阡・チマタと呼ばれた十字交差点があり、山陰道は正西道とよばれ、石見へ向かい、北へは枉北道・キタエマガレルミチと呼ばれ、北へ正面の風土記では女岳山とある和久羅山へ向かっている。古代道は郡家とよばれる役所を連絡する道で、役所はだいたい神社の場所に想定されていて、地図にその間を今の道に落とし込むしか想像できない。この予想と現実に、走ってそこで発生する落差がいつも混乱を運んでくる。その落差はとんでもなく勾配にある道に入ったとき発生する。古代の人たちはとんでもなく強健な脚をもち、目的地へは基本ストレートに向かう。その理解を忘れて彼らのルートに入ると、自動車走行に馴れきった自分の道に対する認識が、混乱をもってくる。オレは古代には対応できてない。そしてそのシンプルでストレートさが、古代道だという確信をひきだす。

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大内谷の集落は古代の幹線道からはずれて、三方を尾根囲まれて、朝酌川にむかって西向きに家々がかたまって、北側の尾根に住吉神社と薬師堂が路地の奥にある。家々の玄関先の木立に汐汲みの竹筒がぶら下がってないか、キョロキョロと路地をまわってみた。

「この集落には江戸時代から、春3月に潜戸の加賀へゆき大芦、御津、片句、手結、恵曇、古浦の出雲七浦を汐を酌みながら回り、秋9月は、この逆にまわり汐を汲み、手結・タユで海藻をとって持ち帰り、住吉神社に塩草を奉納する。竹筒は庭の立ち木に下げる。」との記事があった。大内谷の庭先の竹筒は見つからなかった。

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出雲では奉納する海藻を“塩草”とか“ジンバ”といって、島根半島の四十二浦の汐汲み遍路の神社でもみられる。特に海藻を掛ける棚を“出雲掛け”といって特別に「出」のデザインも長浜神社に設置してあるし、斐川町の富神社では出雲注連縄に掛けられる。

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海藻の奉納を考えてしまう。潮による穢れの洗浄ということだろうが、潮は神様にならないが宮本常一の言葉だが、店先のしろい円錐形の盛塩は魔除けの神々しさだと思う。


俳句の世界で、”初汐”は仲秋の名月の季語だと聞いた。秋に”初汐”って、どうなん?だろう。

海藻は秋に海水温がさがると、胞子が放出され(遊走子)岩に着床する。生命の交代がはじまる。海水温の低下は外気の季節変化によるより、寒流の南下によっての影響が大きい。この列島に南下してくる寒流を親潮というのは、海の生物の基本の食糧の海藻の着床やプランクトンの成長が寒流の南下によるからだ、といわれる。”親潮”たる所以。


海の人々のサイクルのスタートが秋に始まるということ、それも仲秋の名月の夜の大潮からということが、俳句の季語になったのだろうか。稲作の人々の山の神の水に匹敵すること、かもしれない。


枉北道・キタエマガレルミチは、島根半島の稜線の山々にとりつく。すぐそばに”折絶”とよばれた地溝帯があっても、ストレートに千酌へ向かいたい様子。半島の南北の連絡でもっとも短い手角から北浦--千酌の5km標高30mよりも、4km標高160m忠山(風土記では墓野山)が枉北道・キタエマガレルミチになる。今は林道と整備されて勾配が蛇行ルートで軽減されている。目の前のピークに迂回しながら登る歩行者はいないだろう。昔は直登が基本だ。移動することが、まるで無駄のように、急いでいる。彼らに「旅」は感じられない。


バリアフリーのスロープの斜度は1/12もしくは1/18に設計される。手角からコースはこの斜度に近い。昔、大先生から、緩やかな斜面を、ペダルを踏まない感覚で走行することができれば、登りを体得できると教わった。そんな昔をこの坂で思い出したが、今もって体得できていない。むろんMTBの世界の話ではないが。


多くの島根半島にある小さな岬は断崖と岩場で上から覗き込むこともできない。灯台のある岬へ灯台のメンテナンス用のルートで突端にでることでやっと海にあえる。

ラクチンルートで着く北浦・稲積は半島の中でトップクラスの景観があり、岬と浜に神が、穏やかにひそやかに鎮座しておられる。幾度か訪れたのだが、集落の景色の記憶はない。海しか見ていたい。


出雲大社の本殿奥の曾我社には砂を参拝に持参する。福岡の海ノ中道の先っぽの志賀島の海神社もこの砂を持参する。古代の最大の海人集団の中核の神社。なぜ、砂なのか?

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よく分からない、といったのは柳田国男。総合雑誌「太陽」の初代編集長だった民俗学者、谷川健一が敦賀湾の西側、立石半島の海岸に西浦七浦と呼ばれる部落がある。集落の海岸に産屋が以前はあった。その産屋に砂がひかれているのと土間になっているのがあった。集落の老人の話として、お産が終わった母親は新しい砂をひいて小屋を去らねばならない。その砂を「ウブスナ」と呼んだという。

ウブスナは、「産土」と書かれる。それは砂から三和土にかわって「産砂」が「産土」になったからだという。


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# by forumhiroshima | 2016-08-03 21:53 | Trackback

破魔矢-5 出雲の黄金の弓矢

くにびき神話が歌う“童女の胸鉏ムナスキ取らして、”が気になっていた。まだ膨らんで・・・

NHKスペシャル 日本人はるかな旅4

4500年前に中国で稲作を始めた人々は、あるとき、イネは湿地でうまく育てると、米粒が飛躍的に大きくなっていることに気づいた。そして、自分たちでコントロールできる人工的な湿地、つまり“水田”を作るという発想にいたった。

農具ひとつ見てもすごい。これまでの動物の骨でできた申し訳程度の鍬に比べ、100倍以上の威力があると思われる「石犁・セキリ」(鍬)。一辺が50cm以上もある三角形をした巨大な石の農具である。周辺部が切れんばかりに研かれている。水牛に引かせて田起こし作業に使ったものらしい。」

この「石犁・セキリ」(鍬)が、鉄製に代わって、くにびき神話のある“鉏”となったのではないかと。童女は早乙女たちではなかろか?と“胸」”の高尚な結論らしいものを見つけた。幻想、だろうか。水流を導くのが「畝」で田を区分するのが「畔」、これらの文字が水田の発生を感じさせる。4500年前、この列島では縄文時代、土偶を彼らは造っていた。縄文の匠たちの作品。国宝製作中です!。

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くにびき神話の島根半島に「矢」の神話が語られる。

出雲国風土記の加賀郷の項目、「加賀・カカの郷、佐田の大神、生まれししなり。御祖神魂命、ミオヤカミムスビの御子、支佐加比売命キサカヒメ、“闇き・クラキ 岩屋なるかも”と詔りたまひて、金弓もて射給ふ時に、光かかやきぬ。かれ、加加と云う。(島根郡の項)」

後のページ、加賀神埼・カカカムサキでさらにわしく追加説明される。「佐太の大神が加賀の潜戸の岩屋で生まれようとしたとき、御祖のカミムスビの弓矢がなくなった。キサカヒメ命はこの子の父親が麻須羅夫マスラオなら失った弓矢出てこい、と祈願。すると角の弓矢が流れてきた。キサカヒメがこれは違うと投げ捨てると、こんどは金の弓矢がながれついたので、矢をつがえて洞穴を射通した。」

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キサカヒムは古事記にも登場している。オオナムチ(大国主・オオクニヌシの別称)が八十神に焼けた大石を抱かされ瀕死の際に、オオナムチの御祖・ミオヤ(母親)がカミムスビに救助を懇願し派遣されたのが

古事記ではキサカイヒメ、とウムカイヒメの2女神。女神たちが体から生み出した乳汁で完治させる。

キサカイは赤貝、ウムガイは蛤で“浜栗”。

御祖神魂命、ミオヤカミムスビの娘の子、カミムスビの孫になる。おやじさんがマスラオというショザイ不明で、山城の賀茂神社の祭神の設定ににている。が、佐太の大神誕生説話では、角の弓矢、黄金の弓矢と二重の矢が登場する。この複数の矢の登場が佐太の大神誕生の舞台の複雑さを感じさせる。

地球温暖化による縄文時代の海進は現在より24mほども高い海面だった。それが、人々に貝塚をつくらせるほど、豊富なたんぱく質を提供した。

御祖神魂命、ミオヤカミムスビの御子、支佐加比売命キサカヒメの子・佐太の大神が鎮座した、そのそばに佐太講武貝塚かある。ここを江戸期に割って佐太運河が宍道湖から日本海へ通された。

運河の河口、恵曇の集落から佐太神社周辺は九州で水田耕作をはじまた人々が使用した遠賀川土器が縄文土器とともに発掘され、古墳も点在している。神社前まで佐陀水海があったと、風土記に記載されている。湖水に点在する農民たちの小屋のかたまりはわらぶきで、赤い蟹ではなかったろうが、きっと美しい景色だったろう。

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松江のアウトダアーショップの
HPに出雲各地の水彩画がアップされる。恵曇へ宍道湖から流れ出す佐太運河のスケッチから古代の景色の音色が漂っているようにおもえた。出雲のそこかしこの、あの音色が。

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出雲の音色のひとつ、いや異音の一つに、佐太神社の境内南奥からのぼる母儀人基社がある。磐座があり、そこに広島県との県境の比婆山から神陵を移したとの伝説がある。佐太神社の江戸期の祭神は正面にイザナミ、イオザナギ、右側にアマテラス、ツキヨミ、左側にスサノオと秘説4座という。風土記にあらわれた佐太の大神は鎮座していない。現在の神社のHPでは猿田彦と同神とあった。一方この磐座は「萩の一本・社」と江戸期にはいわれ、ここが元宮でいまの社殿は物置であったという。土地神に渡来の神が覆いかぶさる異音が響いている。

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風土記では聖地・甘南備山の神社北西の朝日山麓とかかれており、いまの社地とはかけ離れている。朝日山山麓から銅剣・銅鐸が発掘されていている。恵曇の佐太運河の西側の尾根の谷の古墳時代の木工所が発掘され、丸木舟の船べりにつける舷側板が発掘されている。海岸の砂浜と運河にかこまれた古浦は古道そばに祠のような小さな神社が海を見ている。浜辺で発掘された頭蓋骨には銅製の鉢巻きが食い込んでいた。シャーマンだといわれる。海士の岩戸でアマノウズメは天の日影と呼ばれたタスキをかけ、天の眞折・マサキというハチマキをして踊った。これが発祥だという。この国のわからない飾りは古代の神話・伝承からが多い。

恵曇の海岸の町は砂丘の上にできた縄文時代からの古風が埋まっている、などと思うと、砂で埃っぽい古道も、出雲のそこかしこのあの音色の音響装置にかわってくる。松風に波音、係留された船の軋み、と、どこかに引きずり込まれるシャーマンの祈りにも思える。

佐太運河そばに恵曇神社が二社ある。風土記では三社が見える。神々の庭で人々が暮らしている、そう見える。祭神の磐坂日子命は神社奥の磐座イワクラに座って(だから磐座)「ここは国雅くうるわし」とのたまいわが宮をここにつくることになったと風土記にある。神々の庭は寿ぎされていたのか、監視されていたのか。地名をつけたりする神々は侵入してきた人々の神だ、との話も聞く。夏の日本海は穏やかに波を送ってくる。ここを過ぎ去った喧騒の時間の波動もやってくる。濃い時間に包まれてしまいそうだ。こうなると、

駆け込む先は海岸通りのみなと食堂。ガラーと戸を引くと、一斉に視線があつまり、一瞬の間があって、男たちはビール瓶へと興味がかわって、解放される。ビールと煮魚ください!。もうエスケープルートを走るしかない。ならば、とはりだされたメニューを丹念に読むことになる。次の注文はドッチ!

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# by forumhiroshima | 2016-07-30 19:07 | Trackback

8千年の夢

夏には、島根半島のライトブルーな海色と白い波頭に囲まれる濃い緑の小さな島々の浮かぶ景色へ走りこみたい、その気分が落ち着かせない。

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「断崖の岬をまわるごとに、小さな漁師部落の光沢をもった赤い石見瓦が、群れかたまった赤い蟹のように現れてくる。平凡社新書
86 古代の旅・出雲の神々 谷川健一」

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出雲半島を幾度か周回したのだが、一度で回り切った記憶がない。景色も古社も足止めする引力つよい魅力といえば、時間がかかった言い訳になるが、実はコースカットできるエスケープルートが用意されてあることで、いつでも完走放棄の軟弱さの性格が、そこを選択させる。4,50kmで冷えたビールと大満足な景色と神々の佇まいが手に入る。

東西に長い半島を南北に輪切りにするエスケープコースは古代人たちが折絶・オリタエと呼ぶ地溝帯にあたる。この区分が出雲国風土記・くにびき神話の国ざかいになる。東西に走る周回ルートは山中や海岸線やらと変化にとんでいるが、この地溝帯は比べれば、高度差がちいさい。この区分を出雲風土記時代の郡の区分に用いている。

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くにびき神話で引かれた国々は西から「杵築」「狭田」「闇見」「三穂」と呼ばれた。

「古代の出雲人が風土の性質を見抜いて、その上に政治的境界線をさだめ、さらには信仰の領域までもそれに合わせて伝承をつくりあげていたことに驚かされる。出雲のひとびとはその風土をデザインするにたくみであった。国引きの伝承の中のすぐれた比喩によって一層確かめられる。  谷川健一」

くにびき神話   「国の余り有やと見れば、“国の余りが有る”と詔りたまいて・・・」「童女の胸鉏(おとめの胸のように広いすき)取らして 大魚(おおうお)の支太(きだ、鰓・エラ)衝・ツき刎りて」「国来、国来(クニコクニコ)と引き来」引いてきた土地は朝鮮半島の新羅、隠岐の島から二つ、そして越の国(北陸、珠洲)からの四つ。

幻想

「およそ8000年前のこと、氷河期から温暖化が進み、九州と朝鮮半島の間が解けた氷の流入による海面上昇で大きく開いた。そこを沖縄付近から黒潮の暖流が分岐し対馬暖流が流れ込むことになった。暖流の上を覆う大陸の寒気団が、冬の日本海側に大雪を降らせるという気候が生まれ、雪は水となって地下に蓄えられた。温暖湿潤で水の豊かな日本列島の風土がこのときできあがった。 NHK 日本人遥かな旅3

最終氷期(役2万年前)には隠岐の島ともつながっていた。半島とも陸地で接近している。坂口安吾は、古代の語りべたちは事実の反対を語るといっているが、地球規模の気候変化での海進は、隠岐も海上の“沖”へ置かれ、半島の新羅国遠くなった。“くにはなれ”をもたらしたと。逆説日本史。

“くにひき”をおこなった八束水臣津野命・ヤツカミズオニは「今は国は引きをへつ」といって、意宇・オウの杜に御杖つきたてて「意恵・オエ」と詔りたまひき。かれ、意宇と云ふ。

出雲半島を引き寄せた基点がここ意宇になる。パワースポットとよばれる所以だが、「オエ」が終える、だったらサム!オエ。

そのくにびく終了の杖突き立てた伝承地が出雲国国府跡ちかくの田の中にある。杖はなくて小さな繁みがポツンとある。

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「杖」はまだあった。水田の中に古民家が孤立して三軒屋とよばれ、そこから国分寺跡へ直線ニ北上する道は、天平期に出雲国府からつけられたといわれる「天平古道」だという。いまは田のなかの道だが、当時は幅6mと発掘調査されている。今は面影もないけど。もったいない。

そこから天平の田園の中にそぐわない安来道路の高架へ向かってすすみ、意宇川にそって右岸を川下へと進むと小さな須田川の合流点、そこに小さな森がある。ここも「杖」の伝承地で、そこに阿太加夜神社がある。

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境内の古木周囲に御幣をつけた棒が幾重にも囲んで差し込まれ、藁の龍・蛇?が幹にどくろまいている。ジブリの「コダマ」たちが迎えてくれている。

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このあたりの集落は古名・出雲郷で読みは「アダカエ」。特異な地名の読みの家並みも、ふるびた山陰の小さなどこにもある集落だが、12年に一度、川は着飾った大船団で埋め尽くされる。

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この神社は松江城からお稲荷さんのご神体が運ばれる12年ごと開催される「ホウランエンヤ」でここにご神体が運ばれ、また帰ってゆく。「杖」伝承地としての厚みはこの神社にあるように思うな。

この神社の神紋は「亀甲に有」。ダルビッシュ、有!ではない(ダル、ゆっくり)。

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この神紋は“神在月”にかかわる神社に多いとおもう。“神”がお稲荷さんのホーランエンヤ、とはどこか違和感がないこともない。松江のお殿様が始めたお祭りと由来をいわれるが、出雲は・・・そうはいかない!でしょう。神々が雲がわくように現れる出雲ですから。


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# by forumhiroshima | 2016-07-28 21:10 | Trackback

破魔矢-4  信濃、洲羽・諏訪湖の神々の変遷

長野・信濃、諏訪神社

NHKで諏訪神社の御柱祭が放映された。一人の女性が御柱を曳く綱をもって、行列の人々の中を歩かれている映像に、とても驚いた。“守矢家”当主とテロップが流されたからだ。

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古事記にある出雲国譲の話。父の大国主・オオクニヌシも兄の事代主・コトシロヌシも天孫に国譲りをきめているのに一人、建御名方・タケミナカタだけが抵抗し、敗北し信州・諏訪に逃走した。諏訪には土地神の洩矢・モリヤ神がいたが、モリヤ神は抵抗戦したが、敗北し、タケミナカタは明神とされて、諏訪社本宮に鎮座し、その祭祀は「神・シン氏」がとりおこなった。「その神氏はこの地に乗り込んできた大神氏であろう、といわれる。西郷信綱」モリヤ神を祀る守矢家は神長官・ジンチョウカンと呼ばれ、“現人神”となった大神氏を補佐した。

この洩矢・モリヤ神がTVにでていた守矢家の守護神で、守矢家は御左口神・ミシャグチを祭祀している。

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地元の考古学者の藤森栄一は、信濃は全国でもっとも古墳の出現が遅れた地方だが、古墳と乗馬がこの地に現れたころが、神氏の諏訪神社大祝が顕現した時期だという。 

※藤森栄一氏は新田次郎著の小説「霧の子孫たち」で紹介されている。

早春、諏訪上宮で「大御立座神事」が行われる。神使が神領を巡回する。この神使は守矢家の子が、旧暦3月後ろ手に藤ツルでくくって乗せられ7日間巡行する。古くは「馬場を曳きまわし、棒で打たれ、巡行中に不明になるものもあった。藤森栄一」

守矢家が祭祀する御左口神は石棒で、「縄文期から弥生期にかけての祭政の神であった。 藤森栄一」という。

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「上宮の御正躰を不用、神託云う、吾れに神躰無し、祝を以て躰と為すなり 諏訪神道縁上」諏訪上社のご神体としては大祝の「神」氏であり、山では無いとされてきた。が、社殿の背景の奥にある守屋山がご神体とひそかにいわれてきたという。“守矢氏”も守屋であったかもしれない。「矢」が放たれ、入れ替わった?。隼人の「石体宮・シャクタイグウ」を連想する。

平安期の都では、「坂上田村麻呂の蝦夷平定には、諏訪明神の霊験によると歌われ」とか「関より東のいくさ神、鹿島香取、諏訪の宮」と、うたわれた・西郷信綱。

ヤマトタケルが甲斐の国に至った時に、アズマの蝦夷の首領たちはことむけた(従った)が信濃と越はまだ王化に従わぬ、といっている。「神」氏就任により、諏訪の王化が始まった。


出雲で戦いに敗北したタケミナカタは諏訪へ入ったときに、「諏訪を除きて他処に行かじ」と誓っている。その時、タケミナカタはすでに出雲の守護者ではなく、朝廷の守護神としてあったのだろう。出雲では大国主は隠れ、事代主は青芝垣の向うに沈んでいた。次男の彼は、孤立無援 ということだろうか。彼はヤマトの使者の神の仮面となった、のか。


タケミナカタ、いや「神氏」に追われ、祭りには、後ろ手にくくられ、馬に乗せられ、死することがあったという。長い時間であった瀬戸際の時間をしのぎ切った守矢家の当主が、TV映像であっても見られたこと、が感動だった。その当主はまだ「矢」が刺さったままのように見えた。



その時、ジブリの“もののけ姫”のシシ神に守矢家当主が似ていると思った。

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縄文の神を天津   神々の中で祭祀し、想像もできないその時間の長さで続けられていること、そのために築き上げられた気品、規律、力、忍耐のそれらが、。



「大御立座神事」の神への神饌の写真にある鹿・シシの首がジブリの映像のシシ神のラストシーンの美しさにかわった。

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NHK・スペシャルの御柱祭りの放映をみて、神社の破魔矢への思いが沸いてきて、すっかりこれまで尋ね走った神々の庭を思い出した。

残念にも、信濃は学生時代に菅平でのラグビーの試合と山々と峠の幾つかしか知らない。信濃の峠は登り半日、と聞くが、峠好きの自分が、年を理由に“出来そうもない”と撤退する姿をみたくない。が、「御左口神」と小さな祠にも、どこにも、あるという四隅の御柱が心残りだ。いってみたい、サア、どうしようか。


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# by forumhiroshima | 2016-07-19 08:44 | Trackback

破魔矢-3 京・山城の塗矢

京都・賀茂の神、カモワケイカズチ


タマヨリヒ(下鴨神社・祭神)メが石川の瀬見の小川に川遊びしたとき、「丹塗矢」が川上からながれてきた。これを床の間におくと、懐妊し男子がうまれた。その子がカモワケイカズチ(上賀茂神社祭神)。

京都・山城の賀茂神社は奈良・葛城山麓の高鴨神社から移住してきた神といわれるが、奈良の祭神はアジスキタカヒコネで大国主の子。「葛木の鴨のアジスキタカヒコネは蛇身の面影を有していた。古事記の歌にそれを思わせるものがある・・西郷信綱・古代人と死」という。

京都・山城の住人たちが古く住む所が賀茂神社の神域で、出雲郷の地名が残っている。古事記にはオオタタネコが「神君・ミワ君、鴨君の祖」とある。

のちになってこの山城を開拓した秦氏が賀茂神社を祀り山城の地主神とされた。


葛城山麓の高鴨神社にはアジスキタカヒコネの祭神と陪神のアメノワカヒコがある。

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ワカヒコは高天原から出雲に派遣された神で、アジスキタカネヒコのそっくりさんの神話がある。なにか、そこに潜んでいそう。

春には各種のサクラソウの鉢いっぱいの境内は、華やかになる。

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サクラソウの説明が書いてあって、サクラソウは京都の賀茂神社から、とあった。これって、京都の下鴨社の摂社扱いってことで、こちらが古いことはドウナン!と訳知り顔で口をとがらす。不思議は京都の賀茂神社二社の祭神と葛城の鴨社とは祭神が違うことにもある。

葛城から木津川河畔の加茂に鎮座した岡田鴨神社は京都、下鴨神社の元宮といわれ、祭神は八咫烏になっている。

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葛城➡木津川・加茂➡山城・京都、賀茂神と、移動の軌跡は山城国風土記に記載がある。

下鴨神社の伝承に、祭神タマヨリヒメは、比叡山鉄道の八瀬駅ちかく御陰神社が所在する比叡山の尾根の続く御陰山に降臨するとされて、葵祭の前夜ここから神が遷御される。御陰祭とよばれる。「御陰」は太陽のただすところという。出雲・大国主命の幽冥界が「御陰」にピッタリだと思うけど。奈良、初瀬・ハセと、京都、八瀬・ヤセと、なんだか似てない?

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八瀬を流れる高野川・川上は頭で物を運ぶ習慣が残った、大原女の里、どこか、なにかを感じさせる。大原から川をさかのぼる花折峠は、野の花を手向けた名残の名という。こころに漂うものがある。下鴨神社も峠も千日回峰の修験者が立ち寄る。

上賀茂神社の祭神カモワケイカズチは、神社の北、賀茂山(神山)の山頂に降臨する。御阿礼。オミアレエ所とよばれ、いまは麓に作られているそうだ。神社の馬場でもある広い参道は神山にまっ直ぐに向かっている。

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11月をすぎると北西からアナジと名付けられた風が烈しく吹きつのり、海面は泡立つ。波がドーンと浜に落ちだす。出雲の「お忌み荒れ」である。出雲大社の神在祭は別名“お忌み祭”だと聞いた。下鴨社の鴨川の西岸あたりは出雲という地名だ。

ただし、賀茂社の御阿礼については、初夏であり、「霖斎み・ナガアメイミ」に相当するといわれる。祭りで斎王が水の中から神をすくう所作をする。

「時に霖・ナガアメ降る。スサノオ青草を束ね蓑、傘とし・・・日本書紀」にある。山の神が里に降臨する姿は蓑・ミノ、傘・カサを着ているが、これだという。(上田正明)

春を待つ出雲、実りの秋を待つ山城、静かに、待つことを潔斎する、「物忌」という響きに、惹かれる。

この鴨・賀茂の神の降臨地、二か所へは神社から走ってみた。どちらも時間の重さに耐えかねてか、密やかで、消え入りそうな風情で、祭りのたびに思い出される場、という感じがした。神様と触れ合うような、気分がされて、よかった。神々の降臨の庭の入口をただの細い古道であっても、その庭の領域を感じた。汗だして走って登ってきたからだと、楽しく勘違いしている。

賀茂社と呼ばれる二社が、上、下と区分されるだけでなく、賀茂と鴨と書き分け、また祭神が葵祭に降臨する場所が違っている、という不思議が気になって仕方なかった。走って訪ねても、勿論わからないのですが、その走りの時間は充実していましたね。少し“ヤセ”ました。


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# by forumhiroshima | 2016-07-17 09:30 | Trackback

破魔矢ー2 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし

奈良・三輪の神、大物主・オオモノヌシ

奈良盆地の東の出雲郷に拝殿がある三輪山の神、オオモノヌシ(出雲・オオクニヌシの別名)が大阪・茨木のセヤダタタラヒメに惚れ込んで、彼女が厠に入っているとき、「丹塗矢」となって陰・ホトをついた。その矢はオオモノヌシが変身したイケメンになって、ヒメはすっかりまいってしまって、生まれた娘はホトタタライススキヒメという。のち神武天皇の妻となる。初代天皇は大物主の孫となた。

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天照大神の孫で九州に降臨したニニギ尊から3代目の神武天皇は九州から東征にでる。安芸国埃宮に7年滞在したという。大物主は出雲の神、国津系の嫁から天孫系の天皇が生まれている。

地方の支配者がヤマト朝廷の支配下に入ることになって、ヤマト朝廷を守る兵力となる。神々しい武器「矢」を受け取るのは、その承諾の証だ。天皇を寿ぐ歌・君が代を聞き、氏神の神社で破魔矢をうけとる現代の正月の景色は、古代の再生の演劇でもある。「安心・安全」も「ゆだねる混迷」もそこにある・・・。


「矢の神話」の大物主だが、「蛇」の神話もある。「矢」の神話より古い、らしい。

大阪・河内のイクタマヨリヒメという美女の寝室に真夜中フッとイケメンがあらわれ、“相見るやすなわち”契りをかわし、美女は身籠った。父母がその正体を心配するので、その素性を知ろうとした姫は、赤土・ハニを床周辺にまき、針に麻糸をつけイクメンの袖に縫い付けた。その糸は戸の小さな鍵穴をぬけ三輪山に到っていた。糸巻きに残った糸は三回りほど(ミワ・とシャレてます)。小さな鍵穴をぬけることができるのは小さな蛇しかいない。


ヤマトトトビモモソヒメはオオモノヌシの妻となったが、昼は見えず夜にだけ姿をみせた。暗くて見えないので、朝の明るさの中であいたいと頼むと、そうなら、朝に小さな櫛の箱に入っているから驚かないように、といった。朝、櫛の箱を開けるとそこに小さな蛇がいて、驚いて腰をおとしたはずみで、そこにあった箸で陰・ホトを突いて他界した。彼女を埋葬したのが箸墓。生まれた子がオオタタネコで、宇佐神宮の神主に朝廷から派遣された大神氏の祖とされる。


三輪山の南を流れる初瀬川をさかのぼる道は狭い谷間を鉄道の路線と平行して東へむかう。旧道も新道と交差しながら残されている。出雲という名の集落をぬけて、路線は峠へ右に登りだすところから初瀬川は峠をつくる尾根から分岐して、くだってきて小さな尾根が北側に道を分ける。そこで江戸期の伊勢街道、いまの国道から外れる。初瀬の流れが鋭角に変わる正面に興喜天満神社、その川向うに長谷寺の有名な登り回廊が現れる。

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長谷寺の本殿は舞台造りで、観音さんのお寺は京都・清水寺もそうだけど、観音霊場には、この建築様式が多い。
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舞台造りであれば、どこも観音さんがおられ、そこは必ず景色がいい。観音と舞台造りの取り合わせ、なぜだろうか?崖に木組みして、鎮座の場をつくろうとする人々に、思いをめぐらすことになる。自転車の登りに入る時のあのため息が、この人々にはなかったのだろうか。鳥取・投げ入れ堂が究極の舞台造りで、究極の“登り”かもしれないか?と山陰最強の登坂コースをおもった。

長谷寺をでてからの上流はダムを越え急坂になって、谷間の壁を縫うようにのぼってゆき、やっとの平地で数戸の集落にでる。その集落の小道をたどると「出雲の大国主の娘、下照姫」を祭るという瀧蔵神社が尾根の先っぽに高い石組みの上に鎮座している。

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出雲神話によると、天照大神から派遣された天稚彦・アメノワカヒコは大国主命の娘・下照姫・シタテルヒメとの恋に溺れて報告をしなかった。天照大神はその訳を尋ねさすために、“雉の泣女”を派遣した。この雉の泣女を稚彦は、天から持参してきた天鹿児矢アマノカゴヤで打ち抜いた。その矢が高天原にとどき、そこで神々に投げ返された矢が天稚彦にあたり死んだ、と神話がある。(天稚彦は恋に溺れる男、俳優の津川雅彦の雅彦はここから、などと・・・アホ!)


ここに出雲神話舞台に出演するオオクニヌシの娘シタテルヒメが鎮座するという。三輪山の主人・オオモノヌシにはシタテルヒメの話はない。大国主・オオクニヌシと、大物主・オオモノヌシは同一の神だという。不思議が包む神話たち。その不思議へ走りこむこと。「今」のすべてがマスキングされて、夢の時間に突入する。神話世界にのぞき込む。


大物主鎮座の三輪山の奈良盆地からみれば背後、高い尾根に囲まれた地、ここは隠り国とよばれる。出雲では大国主がこもった幽冥界は西の海の果てといわれるが、奈良の幽冥界を走りたかった。出雲の海では走れない。瀧蔵神社から数kmの初瀬川の源流域に伊勢神宮の斎宮となった大来皇女が旅立ちの前の禊をしたという滝つぼの伝承地がある。

大来皇女は673年拍瀬斎宮入宮の記録があり、その禊の伝承地近くはすっかり開発されて広い農地に整備されていた。初瀬川へ落ち込むいくつもの尾根の背にある道は古代伊勢街道になるのだが、その道がぬう小さな集落は過疎の景色もなくて古びている。7世紀にはあったのだろうと、古道を思った。宮本常一は最初に開かれた道は尾根をぬう道だといっているが、それを確信した。ここを大来皇女が旅した!。そこを走っている、のだ。

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隠り国にオオクニヌシの娘の鎮座しているということ、そのことが、隠り国の証なのかもしれない。JRの列車が長谷寺そばから、峠を抜けて下りだすところに名張川の流れが現れ、列車はそれにそって走り出す。この峠は墨坂と呼ばれ、”隅っこ”でやまとの東端にあたり、そこから始まる隠り国の”隠”は“なばり”と読むという。名張をぬけると川は左にU字に大きく迂回する。そこから、古くは“泉川”いまは木津川とよばれるように名を変える。迂回するポイントが隠り国の国境なのだろうか。迂回ポイントを川からはなれて東へ向かうと伊勢神宮への道になる。このルートが“太陽の道”。

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名張は奈良・東大寺のお水取りの松明の奉納の地。水は北の日本海・小浜から。火は伊勢を背景とする隠り国から。その山中に女高野・室生寺がある。ここも、舞台造りに、観音さまがおられ、隠り国の盟主のようだ。

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# by forumhiroshima | 2016-07-14 09:38 | Trackback


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