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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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メモ帳

イカの海

ずっと以前の夏、日本海海岸の民宿に夕刻、予定時間を過ぎてとうちゃくした。宿のお母さんがえらく無愛想で、ここまで公衆電話も見当たらず遅れる連絡も入れられなかったことが原因かと。


熱気のこもった二階の小部屋の窓をあけると、下の空地はイカが干されて、ヒラヒラしていた。お母さんが上がってきて、てんこ盛りの一夜干しのするめを短冊に切って醤油がかかった一皿に、これもてんこ盛りの丼ご飯がお盆にあって、夕食だ、と言われた。ビールを頼むと、返事がない一瞬がながれて、息子が船でケガして、病院にいくから、とことわられた。すぐに宿賃を用意して、ビール代金をたずねると、いきなり、冷蔵庫にある、!。

留守に客を置いておく不安と息子の容態の不安が彼女を混乱させ、遅れてきた客へのいきどおりもあったのだろう。

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風呂に水を張ってあるから、沸かしてはいれ、と言い残して飛び出していった。風呂を焚きつけて、ぬるく沸かして、飯はむすびにして、風呂上りに畳の上のお盆の前に座った。冷蔵庫にあった漬物に冷えたビール、柔らかいするめ、いや 少し風があぶったイカ刺し、がまたうまかった。リラックス、リラックスで、もう我が家気分。食い足りない分は空地のヒラヒラをとってきて、勝手な追加をして、翌朝話すと、サービス!。息子さんもかえってきていた。


鳥取・境港の出身のノンヒィクション作家・足立倫行の「日本海のイカ」はイカ漁を十一回漁船に船員として乗り込んで書かれている。

夏の日本海の漁火は水平線に浮かぶ。水平線までの距離はたかだか45kmだそうだ。

「西日本近海から東シナ海にかけての広い海域で生まれたスルメイカは、水温の上昇とともに対馬海流に乗って北上し、北海道沖からサハリン沖(一部は黒潮にのって太平洋)へ向かう。グループごとに時期をずらして北の海に到達すると、今度は反転して産卵のために南下を開始する。成長のためのエサ取りの北上、産卵のための南下、このことで沖合の潮境や離島周辺にいくつもの漁場が形成される。 日本海のイカ」


対馬周辺と隠岐周辺が北上するイカの最大の漁場で、南下は本土よりのコースをとるため、夏には海岸からイカ釣りの漁火がみられる。イカの反転と、サンマ漁の始まりが、季語の「初汐」なのだろう。毎朝に海藻を海岸から引き揚げ、神への奉納とすることは、海へ伸ばした手のひらが感じる海温や海藻の鮮度の手触り、引き揚げた海藻の種類で感じること、かもしれない。海人たちの海の変化への気遣いを感じる。


「古代の出雲びとの意識の奥には、隠岐の島の存在がかくされている。千酌から隠岐へは通い船がいたことは出雲国風土記にもみえているが、隠岐は沖であり、また身を隠すところでもある。   谷川健一 出雲の神々」


“河船の もそろもそろに 国来・クニコ、国来・クニコと引きすえ 縫える国は、”と国引きを歌ったヤツカミヅオミヅノ命を祭る神社、富神社や長浜神社などに海藻が供えられることを、出雲人がずっと昔、地球規模の温暖化による海進で離れてしまった国々への記憶の確認のようにも思う。

「クニコ、クニコ」、離別した恋人への叫びにかんじるのは、演歌すぎようか、クニコ!。


海の季節の冬への移ろいを「出雲は、“お忌み荒れ”といいならわしてきている。この烈風吹き荒ぶことを、サダンサン風、サダンサン荒れ(佐太様)とも呼んでいる。対馬海流に運ばれてきた南方産のセグロウミヘビが岸に打ち上げられる。そのヘビを玉藻・ホンダワラの上にのせ、神におさめる。 谷川健一」


千酌の海岸の四角な小屋ほどの巨石が座って、そばに爾佐神社(出雲風土記社)が海の正面真東の円錐形の麻仁曾山と対峙している。ここに都久豆美命が祀られる。クツズミじゃない、ツクツミからチクミという地名が発生ともいえなくはない。が、「沖縄言葉がわかりにくいのは、母音のエとオがかけてしまって、星をフシ、馬をンマ、夏をナチ、月をチチといったりする。街道をゆく 6」この祭神・ツクツミの「ツク」は月のことだといわれる。チチクミがチクミに。月が黒潮に乗って沖縄からやってきたような。隠岐の島も対馬海流に囲まれている。

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隠岐の島からの船が月夜千酌湾へ入ってくる。船は登ってきた月と麻仁曾山を合わせた方向に船首を向けて、右岸の月明りに照らされた鳥居へむけて、船首をターンする。・・・・。

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千酌から北上すると野井の集落にでるが、そこに風土記では「戌・マモリ」沿岸警備施設があったと記述している。弥佐加志能為神社そばに巨石があり、後の世に、隠岐に流された後醍醐天皇

が島を脱出した際にここに接岸した伝承があつたりする。メインの港、千酌をさけたのだろうか、それとも兵舎へなぐりこんだか?


西へむかうと野波の集落へ入る。整備された二車線の車道は「まっすぐな 道で さみしい 山頭火」がぴったり。集落にも山影にも、かかえきれない時間の思い出がうずくまっているだろうが、車道はただただ急がせる。


それでも走ることが、喜びになる道が現れる。野波の集落から峠越えにはいるとすぐに、チェリーロードの標識のある分岐にであう。きっと旧県道の道が、桜の並木で整備されていたのをリメイクして売り込みを図っている。その姿勢、買った!。

新しく隣の町との連絡道ができると、桜でかざられる時代があったようで、道幅の拡張はのがれたが、どこも静かな、車の往来も少ない「桜が散って さみしいが 車こなくてうれしい コヒチ」。すぐに新しいトンネルのある道に合流する。トオンネルを避ける旧道がない道は新しいはず。集落の連絡は船でしかなかったのだろう、か、海岸の波打ちぎわと高みをはい登る道なのか、そのころを想像する。日本海海岸で岬に遊歩道がたくさん整備されているが、集落の連絡道でなかったか、とおもっている。


加賀の潜戸のある瀬戸の鼻に灯台があり、そこへメンテナンスの道が伸びている。ここで生まれた佐太の大神が鎮座した佐太神社のある朝日山の尾根が見える。屏風のように横長な、当て山でもなさそうな山に鎮座させようとした古代の人々の思いには近づけなかった。

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# by forumhiroshima | 2016-08-05 10:10 | Trackback

海藻・汐汲み・産土

佐太神社本殿への石段の右に海藻をかける竹棒の棚がある。海藻だけでなく竹筒がさがっていることがある。

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周防大島の久賀町の八田八幡宮の鳥居に小さな汐汲みタゴがくくられてあったのが、最初の出会いだった。澄んだ海のきらめきの朝に潮をくみ、参拝するその時間の豊かさが、望ましかったし、この町のそんな時間を見つけられたことがうれしかった。


「千年もまえにほろんだかもしれない古代が、このあたりでは民俗のなかにいきいきと息づいて、神々がなお暮らしの文化のなかで舞い立ったり舞いおりたりしているような----

現実なのかロマンなのか、空と海の境のようにびょうびょうとしてさだかでない----感じがある。 司馬遼太郎 街道をゆく6 沖縄・先島への道」

司馬さんが琉球文化について、こう語っている。自分に、”出雲”に同じ思いをもって走ったことがある。


松江市内の東の岡のふもと、島根大学そばの朝酌川の対岸の小さな谷にある集落大内谷へ走った。朝酌の多賀神社から島根半島の千酌へ、「朝酒を酌んで、海でしっかりまた酒を酌む」などと風土記時代の道を想像しながら、むかっている途中の寄り道だった。


出雲国府そばに古代山陰道に佰阡・チマタと呼ばれた十字交差点があり、山陰道は正西道とよばれ、石見へ向かい、北へは枉北道・キタエマガレルミチと呼ばれ、北へ正面の風土記では女岳山とある和久羅山へ向かっている。古代道は郡家とよばれる役所を連絡する道で、役所はだいたい神社の場所に想定されていて、地図にその間を今の道に落とし込むしか想像できない。この予想と現実に、走ってそこで発生する落差がいつも混乱を運んでくる。その落差はとんでもなく勾配にある道に入ったとき発生する。古代の人たちはとんでもなく強健な脚をもち、目的地へは基本ストレートに向かう。その理解を忘れて彼らのルートに入ると、自動車走行に馴れきった自分の道に対する認識が、混乱をもってくる。オレは古代には対応できてない。そしてそのシンプルでストレートさが、古代道だという確信をひきだす。

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大内谷の集落は古代の幹線道からはずれて、三方を尾根囲まれて、朝酌川にむかって西向きに家々がかたまって、北側の尾根に住吉神社と薬師堂が路地の奥にある。家々の玄関先の木立に汐汲みの竹筒がぶら下がってないか、キョロキョロと路地をまわってみた。

「この集落には江戸時代から、春3月に潜戸の加賀へゆき大芦、御津、片句、手結、恵曇、古浦の出雲七浦を汐を酌みながら回り、秋9月は、この逆にまわり汐を汲み、手結・タユで海藻をとって持ち帰り、住吉神社に塩草を奉納する。竹筒は庭の立ち木に下げる。」との記事があった。大内谷の庭先の竹筒は見つからなかった。

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出雲では奉納する海藻を“塩草”とか“ジンバ”といって、島根半島の四十二浦の汐汲み遍路の神社でもみられる。特に海藻を掛ける棚を“出雲掛け”といって特別に「出」のデザインも長浜神社に設置してあるし、斐川町の富神社では出雲注連縄に掛けられる。

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海藻の奉納を考えてしまう。潮による穢れの洗浄ということだろうが、潮は神様にならないが宮本常一の言葉だが、店先のしろい円錐形の盛塩は魔除けの神々しさだと思う。


俳句の世界で、”初汐”は仲秋の名月の季語だと聞いた。秋に”初汐”って、どうなん?だろう。

海藻は秋に海水温がさがると、胞子が放出され(遊走子)岩に着床する。生命の交代がはじまる。海水温の低下は外気の季節変化によるより、寒流の南下によっての影響が大きい。この列島に南下してくる寒流を親潮というのは、海の生物の基本の食糧の海藻の着床やプランクトンの成長が寒流の南下によるからだ、といわれる。”親潮”たる所以。


海の人々のサイクルのスタートが秋に始まるということ、それも仲秋の名月の夜の大潮からということが、俳句の季語になったのだろうか。稲作の人々の山の神の水に匹敵すること、かもしれない。


枉北道・キタエマガレルミチは、島根半島の稜線の山々にとりつく。すぐそばに”折絶”とよばれた地溝帯があっても、ストレートに千酌へ向かいたい様子。半島の南北の連絡でもっとも短い手角から北浦--千酌の5km標高30mよりも、4km標高160m忠山(風土記では墓野山)が枉北道・キタエマガレルミチになる。今は林道と整備されて勾配が蛇行ルートで軽減されている。目の前のピークに迂回しながら登る歩行者はいないだろう。昔は直登が基本だ。移動することが、まるで無駄のように、急いでいる。彼らに「旅」は感じられない。


バリアフリーのスロープの斜度は1/12もしくは1/18に設計される。手角からコースはこの斜度に近い。昔、大先生から、緩やかな斜面を、ペダルを踏まない感覚で走行することができれば、登りを体得できると教わった。そんな昔をこの坂で思い出したが、今もって体得できていない。むろんMTBの世界の話ではないが。


多くの島根半島にある小さな岬は断崖と岩場で上から覗き込むこともできない。灯台のある岬へ灯台のメンテナンス用のルートで突端にでることでやっと海にあえる。

ラクチンルートで着く北浦・稲積は半島の中でトップクラスの景観があり、岬と浜に神が、穏やかにひそやかに鎮座しておられる。幾度か訪れたのだが、集落の景色の記憶はない。海しか見ていたい。


出雲大社の本殿奥の曾我社には砂を参拝に持参する。福岡の海ノ中道の先っぽの志賀島の海神社もこの砂を持参する。古代の最大の海人集団の中核の神社。なぜ、砂なのか?

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よく分からない、といったのは柳田国男。総合雑誌「太陽」の初代編集長だった民俗学者、谷川健一が敦賀湾の西側、立石半島の海岸に西浦七浦と呼ばれる部落がある。集落の海岸に産屋が以前はあった。その産屋に砂がひかれているのと土間になっているのがあった。集落の老人の話として、お産が終わった母親は新しい砂をひいて小屋を去らねばならない。その砂を「ウブスナ」と呼んだという。

ウブスナは、「産土」と書かれる。それは砂から三和土にかわって「産砂」が「産土」になったからだという。


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# by forumhiroshima | 2016-08-03 21:53 | Trackback

破魔矢-5 出雲の黄金の弓矢

くにびき神話が歌う“童女の胸鉏ムナスキ取らして、”が気になっていた。まだ膨らんで・・・

NHKスペシャル 日本人はるかな旅4

4500年前に中国で稲作を始めた人々は、あるとき、イネは湿地でうまく育てると、米粒が飛躍的に大きくなっていることに気づいた。そして、自分たちでコントロールできる人工的な湿地、つまり“水田”を作るという発想にいたった。

農具ひとつ見てもすごい。これまでの動物の骨でできた申し訳程度の鍬に比べ、100倍以上の威力があると思われる「石犁・セキリ」(鍬)。一辺が50cm以上もある三角形をした巨大な石の農具である。周辺部が切れんばかりに研かれている。水牛に引かせて田起こし作業に使ったものらしい。」

この「石犁・セキリ」(鍬)が、鉄製に代わって、くにびき神話のある“鉏”となったのではないかと。童女は早乙女たちではなかろか?と“胸」”の高尚な結論らしいものを見つけた。幻想、だろうか。水流を導くのが「畝」で田を区分するのが「畔」、これらの文字が水田の発生を感じさせる。4500年前、この列島では縄文時代、土偶を彼らは造っていた。縄文の匠たちの作品。国宝製作中です!。

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くにびき神話の島根半島に「矢」の神話が語られる。

出雲国風土記の加賀郷の項目、「加賀・カカの郷、佐田の大神、生まれししなり。御祖神魂命、ミオヤカミムスビの御子、支佐加比売命キサカヒメ、“闇き・クラキ 岩屋なるかも”と詔りたまひて、金弓もて射給ふ時に、光かかやきぬ。かれ、加加と云う。(島根郡の項)」

後のページ、加賀神埼・カカカムサキでさらにわしく追加説明される。「佐太の大神が加賀の潜戸の岩屋で生まれようとしたとき、御祖のカミムスビの弓矢がなくなった。キサカヒメ命はこの子の父親が麻須羅夫マスラオなら失った弓矢出てこい、と祈願。すると角の弓矢が流れてきた。キサカヒメがこれは違うと投げ捨てると、こんどは金の弓矢がながれついたので、矢をつがえて洞穴を射通した。」

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キサカヒムは古事記にも登場している。オオナムチ(大国主・オオクニヌシの別称)が八十神に焼けた大石を抱かされ瀕死の際に、オオナムチの御祖・ミオヤ(母親)がカミムスビに救助を懇願し派遣されたのが

古事記ではキサカイヒメ、とウムカイヒメの2女神。女神たちが体から生み出した乳汁で完治させる。

キサカイは赤貝、ウムガイは蛤で“浜栗”。

御祖神魂命、ミオヤカミムスビの娘の子、カミムスビの孫になる。おやじさんがマスラオというショザイ不明で、山城の賀茂神社の祭神の設定ににている。が、佐太の大神誕生説話では、角の弓矢、黄金の弓矢と二重の矢が登場する。この複数の矢の登場が佐太の大神誕生の舞台の複雑さを感じさせる。

地球温暖化による縄文時代の海進は現在より24mほども高い海面だった。それが、人々に貝塚をつくらせるほど、豊富なたんぱく質を提供した。

御祖神魂命、ミオヤカミムスビの御子、支佐加比売命キサカヒメの子・佐太の大神が鎮座した、そのそばに佐太講武貝塚かある。ここを江戸期に割って佐太運河が宍道湖から日本海へ通された。

運河の河口、恵曇の集落から佐太神社周辺は九州で水田耕作をはじまた人々が使用した遠賀川土器が縄文土器とともに発掘され、古墳も点在している。神社前まで佐陀水海があったと、風土記に記載されている。湖水に点在する農民たちの小屋のかたまりはわらぶきで、赤い蟹ではなかったろうが、きっと美しい景色だったろう。

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松江のアウトダアーショップの
HPに出雲各地の水彩画がアップされる。恵曇へ宍道湖から流れ出す佐太運河のスケッチから古代の景色の音色が漂っているようにおもえた。出雲のそこかしこの、あの音色が。

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出雲の音色のひとつ、いや異音の一つに、佐太神社の境内南奥からのぼる母儀人基社がある。磐座があり、そこに広島県との県境の比婆山から神陵を移したとの伝説がある。佐太神社の江戸期の祭神は正面にイザナミ、イオザナギ、右側にアマテラス、ツキヨミ、左側にスサノオと秘説4座という。風土記にあらわれた佐太の大神は鎮座していない。現在の神社のHPでは猿田彦と同神とあった。一方この磐座は「萩の一本・社」と江戸期にはいわれ、ここが元宮でいまの社殿は物置であったという。土地神に渡来の神が覆いかぶさる異音が響いている。

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風土記では聖地・甘南備山の神社北西の朝日山麓とかかれており、いまの社地とはかけ離れている。朝日山山麓から銅剣・銅鐸が発掘されていている。恵曇の佐太運河の西側の尾根の谷の古墳時代の木工所が発掘され、丸木舟の船べりにつける舷側板が発掘されている。海岸の砂浜と運河にかこまれた古浦は古道そばに祠のような小さな神社が海を見ている。浜辺で発掘された頭蓋骨には銅製の鉢巻きが食い込んでいた。シャーマンだといわれる。海士の岩戸でアマノウズメは天の日影と呼ばれたタスキをかけ、天の眞折・マサキというハチマキをして踊った。これが発祥だという。この国のわからない飾りは古代の神話・伝承からが多い。

恵曇の海岸の町は砂丘の上にできた縄文時代からの古風が埋まっている、などと思うと、砂で埃っぽい古道も、出雲のそこかしこのあの音色の音響装置にかわってくる。松風に波音、係留された船の軋み、と、どこかに引きずり込まれるシャーマンの祈りにも思える。

佐太運河そばに恵曇神社が二社ある。風土記では三社が見える。神々の庭で人々が暮らしている、そう見える。祭神の磐坂日子命は神社奥の磐座イワクラに座って(だから磐座)「ここは国雅くうるわし」とのたまいわが宮をここにつくることになったと風土記にある。神々の庭は寿ぎされていたのか、監視されていたのか。地名をつけたりする神々は侵入してきた人々の神だ、との話も聞く。夏の日本海は穏やかに波を送ってくる。ここを過ぎ去った喧騒の時間の波動もやってくる。濃い時間に包まれてしまいそうだ。こうなると、

駆け込む先は海岸通りのみなと食堂。ガラーと戸を引くと、一斉に視線があつまり、一瞬の間があって、男たちはビール瓶へと興味がかわって、解放される。ビールと煮魚ください!。もうエスケープルートを走るしかない。ならば、とはりだされたメニューを丹念に読むことになる。次の注文はドッチ!

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# by forumhiroshima | 2016-07-30 19:07 | Trackback

8千年の夢

夏には、島根半島のライトブルーな海色と白い波頭に囲まれる濃い緑の小さな島々の浮かぶ景色へ走りこみたい、その気分が落ち着かせない。

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「断崖の岬をまわるごとに、小さな漁師部落の光沢をもった赤い石見瓦が、群れかたまった赤い蟹のように現れてくる。平凡社新書
86 古代の旅・出雲の神々 谷川健一」

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出雲半島を幾度か周回したのだが、一度で回り切った記憶がない。景色も古社も足止めする引力つよい魅力といえば、時間がかかった言い訳になるが、実はコースカットできるエスケープルートが用意されてあることで、いつでも完走放棄の軟弱さの性格が、そこを選択させる。4,50kmで冷えたビールと大満足な景色と神々の佇まいが手に入る。

東西に長い半島を南北に輪切りにするエスケープコースは古代人たちが折絶・オリタエと呼ぶ地溝帯にあたる。この区分が出雲国風土記・くにびき神話の国ざかいになる。東西に走る周回ルートは山中や海岸線やらと変化にとんでいるが、この地溝帯は比べれば、高度差がちいさい。この区分を出雲風土記時代の郡の区分に用いている。

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くにびき神話で引かれた国々は西から「杵築」「狭田」「闇見」「三穂」と呼ばれた。

「古代の出雲人が風土の性質を見抜いて、その上に政治的境界線をさだめ、さらには信仰の領域までもそれに合わせて伝承をつくりあげていたことに驚かされる。出雲のひとびとはその風土をデザインするにたくみであった。国引きの伝承の中のすぐれた比喩によって一層確かめられる。  谷川健一」

くにびき神話   「国の余り有やと見れば、“国の余りが有る”と詔りたまいて・・・」「童女の胸鉏(おとめの胸のように広いすき)取らして 大魚(おおうお)の支太(きだ、鰓・エラ)衝・ツき刎りて」「国来、国来(クニコクニコ)と引き来」引いてきた土地は朝鮮半島の新羅、隠岐の島から二つ、そして越の国(北陸、珠洲)からの四つ。

幻想

「およそ8000年前のこと、氷河期から温暖化が進み、九州と朝鮮半島の間が解けた氷の流入による海面上昇で大きく開いた。そこを沖縄付近から黒潮の暖流が分岐し対馬暖流が流れ込むことになった。暖流の上を覆う大陸の寒気団が、冬の日本海側に大雪を降らせるという気候が生まれ、雪は水となって地下に蓄えられた。温暖湿潤で水の豊かな日本列島の風土がこのときできあがった。 NHK 日本人遥かな旅3

最終氷期(役2万年前)には隠岐の島ともつながっていた。半島とも陸地で接近している。坂口安吾は、古代の語りべたちは事実の反対を語るといっているが、地球規模の気候変化での海進は、隠岐も海上の“沖”へ置かれ、半島の新羅国遠くなった。“くにはなれ”をもたらしたと。逆説日本史。

“くにひき”をおこなった八束水臣津野命・ヤツカミズオニは「今は国は引きをへつ」といって、意宇・オウの杜に御杖つきたてて「意恵・オエ」と詔りたまひき。かれ、意宇と云ふ。

出雲半島を引き寄せた基点がここ意宇になる。パワースポットとよばれる所以だが、「オエ」が終える、だったらサム!オエ。

そのくにびく終了の杖突き立てた伝承地が出雲国国府跡ちかくの田の中にある。杖はなくて小さな繁みがポツンとある。

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「杖」はまだあった。水田の中に古民家が孤立して三軒屋とよばれ、そこから国分寺跡へ直線ニ北上する道は、天平期に出雲国府からつけられたといわれる「天平古道」だという。いまは田のなかの道だが、当時は幅6mと発掘調査されている。今は面影もないけど。もったいない。

そこから天平の田園の中にそぐわない安来道路の高架へ向かってすすみ、意宇川にそって右岸を川下へと進むと小さな須田川の合流点、そこに小さな森がある。ここも「杖」の伝承地で、そこに阿太加夜神社がある。

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境内の古木周囲に御幣をつけた棒が幾重にも囲んで差し込まれ、藁の龍・蛇?が幹にどくろまいている。ジブリの「コダマ」たちが迎えてくれている。

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このあたりの集落は古名・出雲郷で読みは「アダカエ」。特異な地名の読みの家並みも、ふるびた山陰の小さなどこにもある集落だが、12年に一度、川は着飾った大船団で埋め尽くされる。

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この神社は松江城からお稲荷さんのご神体が運ばれる12年ごと開催される「ホウランエンヤ」でここにご神体が運ばれ、また帰ってゆく。「杖」伝承地としての厚みはこの神社にあるように思うな。

この神社の神紋は「亀甲に有」。ダルビッシュ、有!ではない(ダル、ゆっくり)。

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この神紋は“神在月”にかかわる神社に多いとおもう。“神”がお稲荷さんのホーランエンヤ、とはどこか違和感がないこともない。松江のお殿様が始めたお祭りと由来をいわれるが、出雲は・・・そうはいかない!でしょう。神々が雲がわくように現れる出雲ですから。


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# by forumhiroshima | 2016-07-28 21:10 | Trackback

破魔矢-4  信濃、洲羽・諏訪湖の神々の変遷

長野・信濃、諏訪神社

NHKで諏訪神社の御柱祭が放映された。一人の女性が御柱を曳く綱をもって、行列の人々の中を歩かれている映像に、とても驚いた。“守矢家”当主とテロップが流されたからだ。

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古事記にある出雲国譲の話。父の大国主・オオクニヌシも兄の事代主・コトシロヌシも天孫に国譲りをきめているのに一人、建御名方・タケミナカタだけが抵抗し、敗北し信州・諏訪に逃走した。諏訪には土地神の洩矢・モリヤ神がいたが、モリヤ神は抵抗戦したが、敗北し、タケミナカタは明神とされて、諏訪社本宮に鎮座し、その祭祀は「神・シン氏」がとりおこなった。「その神氏はこの地に乗り込んできた大神氏であろう、といわれる。西郷信綱」モリヤ神を祀る守矢家は神長官・ジンチョウカンと呼ばれ、“現人神”となった大神氏を補佐した。

この洩矢・モリヤ神がTVにでていた守矢家の守護神で、守矢家は御左口神・ミシャグチを祭祀している。

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地元の考古学者の藤森栄一は、信濃は全国でもっとも古墳の出現が遅れた地方だが、古墳と乗馬がこの地に現れたころが、神氏の諏訪神社大祝が顕現した時期だという。 

※藤森栄一氏は新田次郎著の小説「霧の子孫たち」で紹介されている。

早春、諏訪上宮で「大御立座神事」が行われる。神使が神領を巡回する。この神使は守矢家の子が、旧暦3月後ろ手に藤ツルでくくって乗せられ7日間巡行する。古くは「馬場を曳きまわし、棒で打たれ、巡行中に不明になるものもあった。藤森栄一」

守矢家が祭祀する御左口神は石棒で、「縄文期から弥生期にかけての祭政の神であった。 藤森栄一」という。

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「上宮の御正躰を不用、神託云う、吾れに神躰無し、祝を以て躰と為すなり 諏訪神道縁上」諏訪上社のご神体としては大祝の「神」氏であり、山では無いとされてきた。が、社殿の背景の奥にある守屋山がご神体とひそかにいわれてきたという。“守矢氏”も守屋であったかもしれない。「矢」が放たれ、入れ替わった?。隼人の「石体宮・シャクタイグウ」を連想する。

平安期の都では、「坂上田村麻呂の蝦夷平定には、諏訪明神の霊験によると歌われ」とか「関より東のいくさ神、鹿島香取、諏訪の宮」と、うたわれた・西郷信綱。

ヤマトタケルが甲斐の国に至った時に、アズマの蝦夷の首領たちはことむけた(従った)が信濃と越はまだ王化に従わぬ、といっている。「神」氏就任により、諏訪の王化が始まった。


出雲で戦いに敗北したタケミナカタは諏訪へ入ったときに、「諏訪を除きて他処に行かじ」と誓っている。その時、タケミナカタはすでに出雲の守護者ではなく、朝廷の守護神としてあったのだろう。出雲では大国主は隠れ、事代主は青芝垣の向うに沈んでいた。次男の彼は、孤立無援 ということだろうか。彼はヤマトの使者の神の仮面となった、のか。


タケミナカタ、いや「神氏」に追われ、祭りには、後ろ手にくくられ、馬に乗せられ、死することがあったという。長い時間であった瀬戸際の時間をしのぎ切った守矢家の当主が、TV映像であっても見られたこと、が感動だった。その当主はまだ「矢」が刺さったままのように見えた。



その時、ジブリの“もののけ姫”のシシ神に守矢家当主が似ていると思った。

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縄文の神を天津   神々の中で祭祀し、想像もできないその時間の長さで続けられていること、そのために築き上げられた気品、規律、力、忍耐のそれらが、。



「大御立座神事」の神への神饌の写真にある鹿・シシの首がジブリの映像のシシ神のラストシーンの美しさにかわった。

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NHK・スペシャルの御柱祭りの放映をみて、神社の破魔矢への思いが沸いてきて、すっかりこれまで尋ね走った神々の庭を思い出した。

残念にも、信濃は学生時代に菅平でのラグビーの試合と山々と峠の幾つかしか知らない。信濃の峠は登り半日、と聞くが、峠好きの自分が、年を理由に“出来そうもない”と撤退する姿をみたくない。が、「御左口神」と小さな祠にも、どこにも、あるという四隅の御柱が心残りだ。いってみたい、サア、どうしようか。


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# by forumhiroshima | 2016-07-19 08:44 | Trackback

破魔矢-3 京・山城の塗矢

京都・賀茂の神、カモワケイカズチ


タマヨリヒ(下鴨神社・祭神)メが石川の瀬見の小川に川遊びしたとき、「丹塗矢」が川上からながれてきた。これを床の間におくと、懐妊し男子がうまれた。その子がカモワケイカズチ(上賀茂神社祭神)。

京都・山城の賀茂神社は奈良・葛城山麓の高鴨神社から移住してきた神といわれるが、奈良の祭神はアジスキタカヒコネで大国主の子。「葛木の鴨のアジスキタカヒコネは蛇身の面影を有していた。古事記の歌にそれを思わせるものがある・・西郷信綱・古代人と死」という。

京都・山城の住人たちが古く住む所が賀茂神社の神域で、出雲郷の地名が残っている。古事記にはオオタタネコが「神君・ミワ君、鴨君の祖」とある。

のちになってこの山城を開拓した秦氏が賀茂神社を祀り山城の地主神とされた。


葛城山麓の高鴨神社にはアジスキタカヒコネの祭神と陪神のアメノワカヒコがある。

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ワカヒコは高天原から出雲に派遣された神で、アジスキタカネヒコのそっくりさんの神話がある。なにか、そこに潜んでいそう。

春には各種のサクラソウの鉢いっぱいの境内は、華やかになる。

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サクラソウの説明が書いてあって、サクラソウは京都の賀茂神社から、とあった。これって、京都の下鴨社の摂社扱いってことで、こちらが古いことはドウナン!と訳知り顔で口をとがらす。不思議は京都の賀茂神社二社の祭神と葛城の鴨社とは祭神が違うことにもある。

葛城から木津川河畔の加茂に鎮座した岡田鴨神社は京都、下鴨神社の元宮といわれ、祭神は八咫烏になっている。

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葛城➡木津川・加茂➡山城・京都、賀茂神と、移動の軌跡は山城国風土記に記載がある。

下鴨神社の伝承に、祭神タマヨリヒメは、比叡山鉄道の八瀬駅ちかく御陰神社が所在する比叡山の尾根の続く御陰山に降臨するとされて、葵祭の前夜ここから神が遷御される。御陰祭とよばれる。「御陰」は太陽のただすところという。出雲・大国主命の幽冥界が「御陰」にピッタリだと思うけど。奈良、初瀬・ハセと、京都、八瀬・ヤセと、なんだか似てない?

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八瀬を流れる高野川・川上は頭で物を運ぶ習慣が残った、大原女の里、どこか、なにかを感じさせる。大原から川をさかのぼる花折峠は、野の花を手向けた名残の名という。こころに漂うものがある。下鴨神社も峠も千日回峰の修験者が立ち寄る。

上賀茂神社の祭神カモワケイカズチは、神社の北、賀茂山(神山)の山頂に降臨する。御阿礼。オミアレエ所とよばれ、いまは麓に作られているそうだ。神社の馬場でもある広い参道は神山にまっ直ぐに向かっている。

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11月をすぎると北西からアナジと名付けられた風が烈しく吹きつのり、海面は泡立つ。波がドーンと浜に落ちだす。出雲の「お忌み荒れ」である。出雲大社の神在祭は別名“お忌み祭”だと聞いた。下鴨社の鴨川の西岸あたりは出雲という地名だ。

ただし、賀茂社の御阿礼については、初夏であり、「霖斎み・ナガアメイミ」に相当するといわれる。祭りで斎王が水の中から神をすくう所作をする。

「時に霖・ナガアメ降る。スサノオ青草を束ね蓑、傘とし・・・日本書紀」にある。山の神が里に降臨する姿は蓑・ミノ、傘・カサを着ているが、これだという。(上田正明)

春を待つ出雲、実りの秋を待つ山城、静かに、待つことを潔斎する、「物忌」という響きに、惹かれる。

この鴨・賀茂の神の降臨地、二か所へは神社から走ってみた。どちらも時間の重さに耐えかねてか、密やかで、消え入りそうな風情で、祭りのたびに思い出される場、という感じがした。神様と触れ合うような、気分がされて、よかった。神々の降臨の庭の入口をただの細い古道であっても、その庭の領域を感じた。汗だして走って登ってきたからだと、楽しく勘違いしている。

賀茂社と呼ばれる二社が、上、下と区分されるだけでなく、賀茂と鴨と書き分け、また祭神が葵祭に降臨する場所が違っている、という不思議が気になって仕方なかった。走って訪ねても、勿論わからないのですが、その走りの時間は充実していましたね。少し“ヤセ”ました。


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# by forumhiroshima | 2016-07-17 09:30 | Trackback

破魔矢ー2 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし

奈良・三輪の神、大物主・オオモノヌシ

奈良盆地の東の出雲郷に拝殿がある三輪山の神、オオモノヌシ(出雲・オオクニヌシの別名)が大阪・茨木のセヤダタタラヒメに惚れ込んで、彼女が厠に入っているとき、「丹塗矢」となって陰・ホトをついた。その矢はオオモノヌシが変身したイケメンになって、ヒメはすっかりまいってしまって、生まれた娘はホトタタライススキヒメという。のち神武天皇の妻となる。初代天皇は大物主の孫となた。

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天照大神の孫で九州に降臨したニニギ尊から3代目の神武天皇は九州から東征にでる。安芸国埃宮に7年滞在したという。大物主は出雲の神、国津系の嫁から天孫系の天皇が生まれている。

地方の支配者がヤマト朝廷の支配下に入ることになって、ヤマト朝廷を守る兵力となる。神々しい武器「矢」を受け取るのは、その承諾の証だ。天皇を寿ぐ歌・君が代を聞き、氏神の神社で破魔矢をうけとる現代の正月の景色は、古代の再生の演劇でもある。「安心・安全」も「ゆだねる混迷」もそこにある・・・。


「矢の神話」の大物主だが、「蛇」の神話もある。「矢」の神話より古い、らしい。

大阪・河内のイクタマヨリヒメという美女の寝室に真夜中フッとイケメンがあらわれ、“相見るやすなわち”契りをかわし、美女は身籠った。父母がその正体を心配するので、その素性を知ろうとした姫は、赤土・ハニを床周辺にまき、針に麻糸をつけイクメンの袖に縫い付けた。その糸は戸の小さな鍵穴をぬけ三輪山に到っていた。糸巻きに残った糸は三回りほど(ミワ・とシャレてます)。小さな鍵穴をぬけることができるのは小さな蛇しかいない。


ヤマトトトビモモソヒメはオオモノヌシの妻となったが、昼は見えず夜にだけ姿をみせた。暗くて見えないので、朝の明るさの中であいたいと頼むと、そうなら、朝に小さな櫛の箱に入っているから驚かないように、といった。朝、櫛の箱を開けるとそこに小さな蛇がいて、驚いて腰をおとしたはずみで、そこにあった箸で陰・ホトを突いて他界した。彼女を埋葬したのが箸墓。生まれた子がオオタタネコで、宇佐神宮の神主に朝廷から派遣された大神氏の祖とされる。


三輪山の南を流れる初瀬川をさかのぼる道は狭い谷間を鉄道の路線と平行して東へむかう。旧道も新道と交差しながら残されている。出雲という名の集落をぬけて、路線は峠へ右に登りだすところから初瀬川は峠をつくる尾根から分岐して、くだってきて小さな尾根が北側に道を分ける。そこで江戸期の伊勢街道、いまの国道から外れる。初瀬の流れが鋭角に変わる正面に興喜天満神社、その川向うに長谷寺の有名な登り回廊が現れる。

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長谷寺の本殿は舞台造りで、観音さんのお寺は京都・清水寺もそうだけど、観音霊場には、この建築様式が多い。
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舞台造りであれば、どこも観音さんがおられ、そこは必ず景色がいい。観音と舞台造りの取り合わせ、なぜだろうか?崖に木組みして、鎮座の場をつくろうとする人々に、思いをめぐらすことになる。自転車の登りに入る時のあのため息が、この人々にはなかったのだろうか。鳥取・投げ入れ堂が究極の舞台造りで、究極の“登り”かもしれないか?と山陰最強の登坂コースをおもった。

長谷寺をでてからの上流はダムを越え急坂になって、谷間の壁を縫うようにのぼってゆき、やっとの平地で数戸の集落にでる。その集落の小道をたどると「出雲の大国主の娘、下照姫」を祭るという瀧蔵神社が尾根の先っぽに高い石組みの上に鎮座している。

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出雲神話によると、天照大神から派遣された天稚彦・アメノワカヒコは大国主命の娘・下照姫・シタテルヒメとの恋に溺れて報告をしなかった。天照大神はその訳を尋ねさすために、“雉の泣女”を派遣した。この雉の泣女を稚彦は、天から持参してきた天鹿児矢アマノカゴヤで打ち抜いた。その矢が高天原にとどき、そこで神々に投げ返された矢が天稚彦にあたり死んだ、と神話がある。(天稚彦は恋に溺れる男、俳優の津川雅彦の雅彦はここから、などと・・・アホ!)


ここに出雲神話舞台に出演するオオクニヌシの娘シタテルヒメが鎮座するという。三輪山の主人・オオモノヌシにはシタテルヒメの話はない。大国主・オオクニヌシと、大物主・オオモノヌシは同一の神だという。不思議が包む神話たち。その不思議へ走りこむこと。「今」のすべてがマスキングされて、夢の時間に突入する。神話世界にのぞき込む。


大物主鎮座の三輪山の奈良盆地からみれば背後、高い尾根に囲まれた地、ここは隠り国とよばれる。出雲では大国主がこもった幽冥界は西の海の果てといわれるが、奈良の幽冥界を走りたかった。出雲の海では走れない。瀧蔵神社から数kmの初瀬川の源流域に伊勢神宮の斎宮となった大来皇女が旅立ちの前の禊をしたという滝つぼの伝承地がある。

大来皇女は673年拍瀬斎宮入宮の記録があり、その禊の伝承地近くはすっかり開発されて広い農地に整備されていた。初瀬川へ落ち込むいくつもの尾根の背にある道は古代伊勢街道になるのだが、その道がぬう小さな集落は過疎の景色もなくて古びている。7世紀にはあったのだろうと、古道を思った。宮本常一は最初に開かれた道は尾根をぬう道だといっているが、それを確信した。ここを大来皇女が旅した!。そこを走っている、のだ。

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隠り国にオオクニヌシの娘の鎮座しているということ、そのことが、隠り国の証なのかもしれない。JRの列車が長谷寺そばから、峠を抜けて下りだすところに名張川の流れが現れ、列車はそれにそって走り出す。この峠は墨坂と呼ばれ、”隅っこ”でやまとの東端にあたり、そこから始まる隠り国の”隠”は“なばり”と読むという。名張をぬけると川は左にU字に大きく迂回する。そこから、古くは“泉川”いまは木津川とよばれるように名を変える。迂回するポイントが隠り国の国境なのだろうか。迂回ポイントを川からはなれて東へ向かうと伊勢神宮への道になる。このルートが“太陽の道”。

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名張は奈良・東大寺のお水取りの松明の奉納の地。水は北の日本海・小浜から。火は伊勢を背景とする隠り国から。その山中に女高野・室生寺がある。ここも、舞台造りに、観音さまがおられ、隠り国の盟主のようだ。

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# by forumhiroshima | 2016-07-14 09:38 | Trackback

破魔矢-1 正八幡社

爾保姫神社の石段横の由来書きに、9世紀「正八幡神社」になった、という由来が気になった。八幡神に由来する人々が仁保島に到来して、爾保姫信仰に覆いかぶさった。となってとしても、「正」が八幡神になぜ、つけられるたか?と。

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以前に周防大島の東端、北海岸・伊保田から南海岸・由宇へ尾根越えをたどっていて、坂の戸口に「正八幡神社」のカンバンがあった。初めて出会った「正」が気になって、伊保田郵便局の局員さんに“伊保田八幡神社”ではないのか、と配達先情報を聞き出そうとした。自分の神社フェチの魂が確かめろと!うるさくて尋ねてみた。返事は“イヤ、正八幡ですよ”。


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8世紀初頭に九州南部大隅郡で隼人の叛乱が連続して勃発した。朝廷は大伴旅人を将軍として鎮圧に派遣し、宇佐八幡神を辛島氏が巫女としても付帯派遣され、ゆえに神軍といわれた。この企ては、大和からきた大神氏がおこなった。(大和 岩雄)

(余談・お父さんが旅人、息子は家持、ユーモアある一族ですネ!)

辛島氏は大隅に八幡神を鹿児島とよばれた場所に勧請した。その場所には隼人の守護神の「石体宮・シャクタイグウ」があり、その上に社殿が建立された。708年和同元年といわれる。そこは記憶を残して、今も隼人町とよばれる。

この討伐戦の前、隼人の居住地の大隅に、新羅から豊前国に渡来していた「秦氏」を約5000人を強制移住させていた。討伐される側の隼人、移住さされて、征服する側の泰・辛島氏、(韓島を連想?)そのプロデューサーが大神氏、の構図。大神氏は奈良・三輪山の大物主の祭祀権を新しく(といっても紀元前2世紀ごろ、神代の時代の話)獲得したといわれる。

辛島氏はいつのまにか、宇佐八幡の神の祭祀権を大神氏にのっとられ、それなら、と大隅の八幡神こそ本物「正」と付けた。大隅正八幡宮が創建された。まさに、本家、宗家争い。

「正」家側は祭神を「震旦国・中国の陳大王の娘が、夢の中で朝日を受けて身籠った。王は空船・ウツボフネにのせ、海にながした。漂着したのが大隅で太子を八幡といったと由来を語った。宇佐のウもでてこない。この伝承が鹿児島という地名をうみだした、という

出雲の国譲りに最初に降臨したアメノホヒ・出雲千家の祖先が報告しないので、その偵察に下されたアメノワカヒコも大国主の娘シタテルヒメに溺れてしまった。そのアメノワカヒコにあたえられたのが「真鹿兒・マカゴ矢」、銅製矢じりの矢という。時代は銅鐸、銅剣、銅矛、の銅、アカガネは神聖なものとされていた。った。伊保田の正八幡神社があるそばに日向泊がある。南九州からの波動の軌跡を感じる。

爾保姫神社が正八幡社であったこと・・・、本家でなく宗家がやってきたこと・・・、ここに白い羽根の神話があるということ・・・。

やはり、謎は謎で・・・。

所用で福山へ車で行くことになって、帰りに忠海の岩風呂へ寄ることにした。海岸の岩肌をくりぬいて、海藻を敷き詰め、枯れ木を焼いて洞内をものすごく熱い空気で満たしたところへもぐりこむ。大きなピザの竈みたい。

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この岩風呂は以前瀬戸内の島々には見られたといわれるが、知っている限りではこの忠海の風呂だけになっていると思ていた。その風呂が8月末で廃業と聞いていて、尋ねたかった。アツアツの体を海辺に投げ出して、潮風ってこれか!と感動する。その時間の確認だった。

沖の船の速度のように、進まないが、その時間がいとおしい。その時間の在処の廃業、残念です。

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# by forumhiroshima | 2016-07-12 14:22 | Trackback

ついたちまいり

月初め、1日の爾保姫神社の早朝からの参拝者の数におどろく。この朝、拝殿では参拝者に御幣でのお祓いが行われ、神様へのお供えが下りものとされ参拝者に配られる。

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宮司さんも挨拶される。いつもは10円のさい銭を100円にした。朝日にシルバー色にキラリひかって、さびしそう。1/2キリンラガーカンビール円、さよなら!!

不審火で全焼した本殿は伊勢神宮の外幣殿を移設して再建された。立て替えても、変わらず本殿は北の空にむかっている。常陸国・茨城の鹿島神宮も北面している。神社は普通南面し、神の指南をうけとる。その中で、不思議な配置だが、国東・宇佐神宮も聖なる山を本殿は対面し参拝はその間で行われる。

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熊本地震でひどい被害をうけた阿蘇神社の横参道がよく知られている。参道は阿蘇の中岳に向かって拝殿は横になる。これらには、きっと、なにか“訳”がある?

(自転車の余談)横参道を抜けて阿蘇山中岳へ入る仙酔峡道路をとらず、東に移動して九州自然歩道で日ノ尾峠、外輪山の九十九曲と凄い景色に沈められるのは幸せです。外輪山の尾根ピークそれぞれに、神が鎮座され、へたり走りを覗いています。

境内に、黄金山へ向かう場所に小さな神社がつくられだして、かなりの時間がたった。拝殿で御幣振る老人に、まだ未完成の神社にはどんな神さまが鎮まれるのか?ときいてみたら、おられません、とキッパリ。   空き家? きっと、なにかある。

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おさがりの小さな羊羹は、地元の和菓子店の製造者ステッカー、氏子優先!当たり前、が気分を晴れやかにしてくれた。

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爾保姫神社がここに鎮座したのは、神功皇后が半島へ出兵し、戦勝した帰りに立ち寄って、戦勝を爾保姫神に報告し、邪気払いの白羽の矢を放ったところここに止まったことによるのが由来。今神社参道と拝殿前に白羽の矢のモニュメントがあるのは、この為だろう。京都の石清水八幡宮にもあった。それは黄金色の羽だった。

神功皇后は占い・神懸かりで半島によき国があるから遠征しろという神託を得た。夫の仲哀天皇はそんな国はどこにも見えないと反対したが、天罰からか死去してしまった。皇后は妊娠していたが、石を抱いて出産を遅らせ遠征し、成功したという。九州にはこの石が御神体の神社がいくつかある。      一部で夫殺しの嫌疑が語られる。


「コメというのは、妙なものである。

コメの生産技術(弥生式農耕)を身につけた生産集団が、北九州の一角に出現したのは、いまからどれほど古い時代にさかのぼるかについては、ここでは触れない。彼らは、神々と巫女と巫人・カンナギとをもっていることによって集団の精神を形成し、さらにはそれによって共通の文化をもっていた。 司馬遼太郎/街道をゆく3


「八幡の比売神は女性の中の最も尊い方で、天つ神の霊をうけて神の子を生みたまい、その御子を伴いて此の国に臨み降りられ、共に神として祭られたまう御方である。即ち巫女の開祖である。 柳田国男 妹の力」と神功皇后に語られる。

八幡神は半島から渡来し、この列島の守護となると宣言して鎮座したといわれる。古代の安保条約みたい。北九州の香春町で宇佐神宮の神宝の鏡を製作納品している古宮八幡神社の祭神に辛国息長大姫大目命があり、辛国は韓国、大姫は神と人をとりもつ巫女のことで、息長は金属精錬につかう“ふいご”をいい、神功皇后の別名だという(谷川健一・四天王寺の鷹)。

神功皇后の半島遠征も実家のもめごとでもあって、里帰りかもしれない(これジョーク)。

神功皇后の懐妊は、不倫か!と疑惑も語られる。


天つ神の霊をうけて生む神の子が、神功皇后の息子・ホムダワケで、八幡神の霊をうけて懐妊したと。八幡神宮は初期には王、王子と姫との三柱を祀っていた。応神・オウシンと王子・オウジの発音から、王子が応神とされ、それゆえ応神の母親の神功皇后が姫神となったという。

「古代宮廷の采女・ウネメのことにもふれておく。采女とは地方豪族のもとから宮廷に貢上された女のことだが、郡少領以上、つまり地方豪族の姉妹および子女の顔のよきものを貢すと規定されている。

地方豪族のいくつかの固有な神々との伝統的紐帯の中で生きている女を宮廷信仰に同化しようとするものであった。それだけにとどまらない。采女は王の妻でもあった。かくして王は制度的に、地方豪族、つまり敵たちの「普遍的な義理の兄弟」になったのである。 西郷信綱 古事記研究」     義理は重たい・・・


爾保姫神社の急な石段を下るとき、年を感じる。ゆっくりの下りになる。鳥居につけられた白い羽の矢のモミュメントの羽が眼にはいってくる。羽、すこし肥えてないかい?

上古、爾保姫神をお祭りしていた巫女は、ある時、朝廷に召し上げられる命令が白い羽の矢とともに届けられた。武力的な脅しがそこにあった。その白い羽は、速くて強いデザインだった、だろう、か。


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# by forumhiroshima | 2016-07-05 08:49 | Trackback

オックスフォード

英国の首相のデービット・キャメロンはオックスフォード州を選挙区にして、オックスフォード大学の出身。オックスフォードの地名はoxen・雄牛が渡るford・浅瀬の意味だという。キャメロンは連れている牛の半数にみたない数しかこの浅瀬を渡らすことができなかった、ことになった。

古代、狩猟者であった我々の遠い祖先は、だんだんに狩猟者が増え、衝突し狩場が少なくなってくると、新しい稲作という革新技術の伝播もあって、定住して農耕にいよいよ従事することになる。生きるための選択がそこにあった。が、彷徨の自由な生活を続けようとする男たちもいた。それは今も変わらないだろう。

出歩きたい彼らは、働かない代わりに、他人の労働によって生産されたものを遠くに運びその対価を受け取り生活の糧をえようとした。かれらが、農耕の始まった世界の旅人になった。

商品を担いだ旅人たちの経験が積み上げられ、クチコミで伝えられ、同じ峠をぬけ、同じ川の徒渉地点で渡った。そこは馬、牛の動物たちの徒渉地点だった。この国ではイノシシの獣道だといわれる。ウジ道とよばれた。鹿は岸壁を直登できるし、猿は木立をブランコするから。道の交点、古代大和人たちのいう衢・チマタという道と道の交点、川の徒渉地点と道の交点に、人々があつまってきた。

「ボスポロスは牛の徒渉地点のこと。オックスフォード、クラーゲンフルト、ハーフホード、ストラトフォード、ティーフルトすべて徒渉地点をあらわしている。ユーフラテスは立派な橋のかかった河、という名である。(道の文化史・シュライバー)」


古代中国・唐の首都・西安は黄河を渡川するもっとも安全な場所であった。中国はいつも西にむかっている国だという。シルクロードはこの西安をスタートフィニッシュポイントになる。正倉院までのルートは、中国ではシルクロードとはおもっていないのじゃないか。首都は西安!なのだから。


“橋”は端をつなぐこと、をいう。キャメロンさんはオックスフォードの橋の真ん中にひっかえして、座り込んでこれからを思案しているのだろうか。・・・・長崎・思案橋ブルース。

城を築き、広島と命名し戦闘基地を作った毛利一党が去って、変わって入城してきた福島一党は広島を徒渉地点と海への連絡地点として、商業都市に生まれ変わらせると信長の着眼点を模倣し、道でディベロップしようとし、それまで東の府中からは温品へ、戸坂へと抜けていて、広島に入っていなかった西国街道の引き込みを計り、城北にそのルートをつくった。信長の楽市楽座トレンドの導入だったか。いまのJR山陽線の南側にそれが生まれた。いま最も城北通りという。

この道と川との交点、城の西側の本川を渡るいまの空鞘橋はロープを渡した渡船だったのではという(確実な資料は見ていない)。東側、猿猴川を渡るに、常磐橋が造られた。

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土木事業において計測・くい打ちに使用される縄を作業終了ののち稲荷神へ奉納する。上古の書には、設計と書いて縄張り・ナワバリとルビをふっている。(893と書いてナワバリ、もあるかもしれない。)  縄は“稲”の穂がないもの“ワラ”から作られる。

古代渡来してきて、池を造り溝を切って水流をコントロールし、また堀で排水する田園の土木工事をした「秦」と名乗った集団の創建の守護神が稲荷神でもある。縄張りは建物にもおよび、そこに稲荷社を併設した。

島普請といわれた、湿地に広島城と町を建設する設計図に堅い地盤を探して、置かれいくつもの起点、その起点に稲荷社が置かれたのではないか?と思っている。白神社境内の稲荷社に築城時に六つの常盤稲荷が勧請されたという掲示が以前あった。ここもその起点になった稲荷社なのだろう。白神社を含めこの六稲荷社の場所はどこか?と探している。市内の多くの独立した祠の稲荷社に走ったが、まだ確信はもてていない。

ズバリ「常磐」は、力強いポイントを示している?とその場所の発見を期待している。島普請の設計のアイデアが伝わってくるかもしれない。そうして、広島の設計者がこの地に立ったときの、景色が見えるだろう。彼のファイトが伝わってくるかもしれない。

探している常磐の名がつく常盤橋に、その常盤稲荷社の一つが、橋そばの二葉の里の鶴羽神社にあるかと、訪ねた。

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境内の稲荷社の額(額束とも書かれる)に「椎木稲荷社」とある。神社のパンフレットに鶴羽神社は、古名ハ椎木八幡神社であったとある。

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椎木はシイノンキと読むのだろうか。播磨国風土記の尓保都比売命の記述の中で神功皇后が攻め込む半島の国、新羅を“比々良木”と書いている。椎木・シイノキとヒイラキと似てる、よな!と妄想がわき出す。八幡宮だったというし、ここに新羅の神の到来があった痕跡がこれになるのだろうか、上流の白木山を連想する。。

常磐橋の地点には今はない川の分岐があった。明治初期の古地図に古川村と記載される地域がそれで、いま天神川とその下流地域を含んで流れていた。ニギ津神社右よこに入り光町へ続くみちが、そのなごりだ。

このあたりに、植樹林での堤防補強の地名の「松原」、砂洲のあった「大洲」「大須賀」、氾濫原の鎮守神鎮座の「荒神」など、川の地形からの地名がちらばっている。

一方、常磐橋の西側には白島、中島、吉島(葦島)と、河口の堆積による微高地・三角州の地名が散らばっている。馬をも引き込むカッパの住む激しい流れを予想させる猿猴川の特異さとの大きな違いがみえる。

ここを南北に分岐させ、東の佐伯郡、西の安芸郡の境界ラインがひかれていた。のち川の氾濫原はずっと南下し沖に伸び続け、城ができ町が広がって、この二郡を合わせて、安佐となる。

太田川の古い河口で、違った二つの景色を分岐する地点に鎮座するこの鶴羽の神は八幡神だというが、・・・稲荷神であっても??いいかもしれない。川と道の交差点になり、そこの鎮守が望まれただろうから。

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ここにもう一つの姫神の伝承がある。

東広島市・八本松、原の自衛隊演習地の奥にMTB華やかりしころ、迷いに込んだ。姫池という美しい池、また松原に囲まれている七つの池が階段状にならぶ、ナナツ池と、里山の景色が広がっている所から西の尾根に向けて林道がはいっている。演習地を抜け登りの道がすっかり森にかこまれたころ、正面に幽霊屋敷のような立派な造りの神社が現れた。夕方の暗さがしのびよってくるころで、不気味な印象だった。そこに、広島市内の鶴羽神社との関係が掲示されて、この神社の名が小倉ということがわかった。その印象はとても深くて、それから他所の山中の森に囲まれた神社に出会うと、この小倉神社が浮かんでくる。

伝承によれば、源頼政(平安末期の武将)の側室、菖蒲ノ前の領地が西条にあった。頼政が戦いに敗れ自害したのち菖蒲ノ前は西条に住み始めたが、地元の豪族に追われ八本松の姫池でいよいよ捕えられるとなったとき、侍女の鶴姫が身代わりとなって菖蒲ノ前を逃がすことができた。菖蒲ノ前はこの地で生涯を終え、小倉神社の祭神となった。

鶴羽神社のHPでは菖蒲ノ前の遺言によって1204~1206年ごろに勧請されたとなっている。1192年鎌倉幕府開幕ののちになる。祭神は菖蒲ノ前となるのだろうか。HPでは八幡三神とイザナギ、イザナミで鶴羽根皇大神という。鶴羽は背景の双葉山が鶴が羽を広げた形ゆえ、それまでの椎木山から変更されたと。侍女の鶴姫の名が気になります。そのころは小倉神社だったかもしれない。

神社に併設されている結婚式場が騒めいて、歌が聞こえてきた。

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# by forumhiroshima | 2016-06-30 16:44 | Trackback


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