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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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太田川 自転車遡江記-2

太田川の洪水

厳島管弦祭の御座船をひく、江波の漕伝馬船は厳島管弦祭の前日に、元安川を空鞘稲荷神社の前まで遡ってここで大きく回船する。橋からの見物にはたまらない見せ場をつくって、海へと下ってゆく。
なぜ。ここで回船するのだろうか?江波は広島藩の加古だったというから、お城への挨拶だろうか。ここにあった空鞘渡しが関係しているのだろうか。それともここの空鞘稲荷神社との関係なのだろうか、と考えた。このすこし川上にメインルートであった「お台場渡し」が今の三篠橋にあったというから、渡し関係はなし。川面からお城は櫓しか見えない。お殿様はでてこないだろう。とすると、空鞘稲荷さんしかない。江波の港の波止場に海神社と向かい合って聖山稲荷神社がある。お稲荷さんと、江波の「おさんキツネ」とこれ怪しい感じ。
 空鞘渡しはお殿様専用の渡しだともいう。江戸時代市内には橋は多くは軍事的な理由で架けられてなかった。ここにあった鷹匠町の匠たちが、お殿様の鷹狩りにここを渡ったという。そののち、この渡しは払い下げられる。鷹狩りがなくなったのかな。この権利を買った人は「木屋太兵衛」で運賃をとっていたが、その料金はわからない。この空鞘の名はここで、古くからの藩の剣道指南役の吉岡一味斎とあたらしい指南役の京極内匠とが指南の主導権争いでここで試合をした。そのときどちらかの鞘が飛んで松ノ木にかかったからという。チョッと、といいたい地名誕生だ。このあたり、にぎやかな逸話がつまっている。
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図は江戸期の川船の発着場・浜で、主要な浜を記載してある。(広島市郷土資料館・川船)
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櫓の下はお城専用だったようで、空鞘が民間ってことなんだろうか。で、お稲荷さん鎮座。
 神社前に「不思議な道」の交差がある。神社前に南北に一本の道、その向こう上に太田川の岸の車道、それを結ぶ道。「エ」になっている。
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これは、船着場の跡だろうか?神社とすぐ隣の公園と、おおきな木々が立っていて、静かだ。境内は木漏れ日にゆれている。拝殿に神紋が刻まれていた。三ツ盛、二重亀甲、剣花角。これは厳島神社の神紋。稲荷ではない。
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すぐ側に広瀬神社がある。ここもこの厳島神社の神紋をもっている。河口の江波が宮島へむかって開いて、川の流れもおなじく宮島へ宮島へと流れているようだ。川舟でおくられた荷はいったんこの浜へあげられ、またここから海へ運ばれたということになろうか。川上からの荷をここで受け取って海を渡す船は江波の船であったのだろう。ここでの回船は、航路の安全と安心ってことなんだろう。イワクありそうな所作だ。
横川橋は広島城が出来る前には、すでにあったという。広島城は箱島の南に流れを隔てて広島という島を作る島普請の結果だという。隔てる川は埋め立てられ、今の基町高校と白島小学校と広島逓信病院があって、一番東の堀が白島線の電車道になる。この道は川だった。城北川という記録もある。
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明治31年1898年の広島城付近の地図
横川の南に流れの痕跡はお城の堀をふくめて見とる。これが横川といわれる川。広島湾は約2.5mほどの潮の干満が発生する。満ち潮は川の流れをせき止めてしまう。流れが含んでいた土砂が流れが緩むことで、そこに吐き出され積み上げてられてゆく。自然堤防ができあがってくる。川が横に流れるルートが生まれる。これが自然の力なんだろう。この川と海の接点、汽水帯の天満川はいまもしじみ漁の漁場になっている。
五箇荘とよばれたころ、神社は白島の碇神社と比治山の黄幡神社、仁保の仁保姫神社、江波の衣羽神社と横川の西の打越神社が古地図に記載されている。黄幡神社は山から下って比治山神社となった。神社があるってことは、人が住み着いていた証拠、その神社でいま地元にない神社が一つだけある。打越神社。(横川駅北の三篠神社に合祀されている)
広島城がつくられた1590年に白島とお城の堤防がつくられ、川は反対側へ横川をながれて押し出され、さらに1607年の大洪水で城が壊れた際に城主の福島正則は、さらにこの堤防を強化する。が、対岸は放置され、いつでも洪水、遊水地あつかい。広島藩は洪水の原因は、川上でおこなわれるカンナ流しだと1633年に禁止するにもかかわらず4~5年ごとに、洪水がおきている。城下町は川がないと成立しないという。それは川によって運ばれる薪炭材がすべての生活のエネルギーで、それは山の木を切り出し、家を建て、寺社をつくり、煮炊きをする。山が細り、とんがるっていたとまでいわれている。その土砂が一気に川下に運ばれる。
豪雨に増水し広島城の堤防にぶつかった濁流は、対岸の楠木、新庄、打越へ流れこむ。打越は北から安川の支流の新庄川、西に山手川、東が太田川で南が横川。四方を川で囲まれ、堤防があるため、水は出てゆけない。そこで一部の堤防を壊して、打ちこわしで、流すことからの地名だ。五箇荘時代に別府として記載され、土地の守り神も鎮座した。が、お城というばけものがあらわれ、地名までかわってしまった。
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洪水は明治になっても頻繁に発生した。大正13年に調査開始、計画完成が昭和2年といわれる。昭和7年帝国議会で国家事業として成立。昭和9年工事開始。
この計画では、打越は放水路に消えてしまうことになる。が、昭和16年、呉鎮守府から太田川の水を呉に送水する要請があり、これに答えることから、この計画は休止される。昭和19年戦局激化により中断された。 戦後またおおきな洪水が発生、この計画が実施されることになる。しかし戦前の工事は強制されたもので、用地の買収も戦後に価値のなくなった国債でおこなわれその賠償もおこなわれておらず、反対がおおきくあった。が昭和26年に再開され、昭和40年に完成した。打越の町は一部をのこし大半は消えてしまった。
打越神社も移転でなく、横川駅北の三篠神社に合祀されている。
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太田川改修計画の当初のプランの図-左太いラインが放水路。細いラインはそのころの川の流れ。
昭和初期に計画され、戦前に進められた、どうみても軍事施設保護の計画がそのまま戦後、原爆投下の町に実施されている。びっくりした。この計画に大芝、祇園の水門が加えられ、満ち潮の影響から戸坂の水道取水口をまもることもでき、さらに高瀬堰の高陽取水口からも安定した水道水が取水出来る。おおきな水害も発生していない。びっくりしたが、見事な完成だ。戦後の高度成長は、この戦前の計画とその戦後の実施によって達成されたのかもしれない、と思った。この国のプランは敗戦も変更なかったのだ。軍需への支出がないことで、成長がプランをいっそう強固にしたのだろう。成功したと思うがゆえに、それだけに、このごろ、失ったものが、はっきりと見えるのかもしれない。
今は埋め立てて中広大通りになった福島川は、もとは川田川で、その後、川添川と明治4年に改称し、その後明治14年に福島川となっている。広島城の石垣増強から流れが西に強くなって、あたらしい流れができて、城を改築した福島正則にちなんだ名と思っていたが、ちがった。残念。大洪水の後1609年にここ川田にあった仏護寺、いまの別院を広瀬町いまの寺町にうつしてのち、川田と呼んだという。ここは個人で開作されていて、名が残ってる。八郎兵衛開、源七開、平三郎開、九郎兵衛開、吉左衛門開、等々。これは、放水路で流されてしまったのだろう。福島川再来。ですか。
by forumhiroshima | 2010-08-05 17:42
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