こひちろうの独り言 |
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京街道が守口の駅から北上して淀川にでる。ここから現在の堤防と重なって登ってゆく。その堤防の上から街道がはなれて集落に入ると、すぐに大きな寺院にでた。
お寺の屋根はでかくてランドマークになるが、それも真宗のお寺がそのように思っている。その屋根がこの寺は半端なくデカイ。大きな楠の木が幾本もあってやはり大きな銀杏の木の紅葉はおわっている。この寺は1475年に蓮如上人が北陸から丹波をぬけてこの攝津の出口へ京都に帰る途中たちよった。 京街道は1596年からの完成だから、上人がここにやってきたときには堤はなかったことになる。この寺は「淵埋山、善光寺」ここに伝説がある。上人がここに立ち寄り幾日かの説法がおこなわれた。その説法をきいていた人々のなかに一人の美しい娘がいた。その娘は上人に「私はこの川の淵に住む竜だが、説法のおかげで成仏できた。お礼にこの淵を差し上げるから、ここを埋てお寺を建立してほしい、」といって、大蛇のすがたで雲にのってきえてしまった。 上人は京都へ向かわず、ここに堂を建てた。川と戦うことで、自分のあり場をつくることができた。 布教の基地の創設はいつもその場所の選定で結果がきまることをこの蓮如上人はしっていた。 この蓮如上人が晩年に以前より「この所在を見そめしより・・」といって1496年にいまの大阪城の場所(かNHKだろう?といわれる)に石山本願寺(大阪御防)を建立した。 大阪について司馬遼太郎は「このあたりはよし・あしのはえるにまかせたただの磯臭い田舎で、近畿の他の地帯にくらべても人家が多かったわけではなかった。平安から鎌倉期にかけては現在の大阪市の都心あたりはワタナベとよばれていた。大阪のもとのよびなは渡辺であった。・・河口で網をうったり、湿田をはいずりまわって田植えをしていた半農半漁の地帯で、どういう権力者もここを天下統治の根拠地として考えたことはない。そういう種類の地政的頭脳はまだ歴史に出現してなかった。 最初に出現するのは中世末期である。本願寺興隆の基礎をひらいた蓮如がそれであった。・・親鸞から数えて八世の孫にあたり、貧窮のなかで成人した。 ・・・蓮如のころ「大阪」という地名はあったらしいが、どの記録にも見えないほど微小であった。ちなみに蓮如は「大坂」と書いたが、本来なら小坂という文字があたえられるべきであった。となれば大坂という地名は蓮如ということになる。(歴史を紀行する)」 オオサカが「大阪」に統一されたのは明治になってからのことらしい。 蓮如が陸路、摂津を抜け京へ帰ろうとしていて、この出口にナゼ立ち寄ったのだろうか・なんて考えた。大阪の渡辺は海に南から北へつきでた半島でその東西は海であったと思われる。出口の対岸には三島江という砂州ができていて、そこに三嶋鴨神社が鎮座していた。三嶋神社はここと伊豆の三嶋と瀬戸内海の伊予大三島にあって三・三嶋と「伊予国風土記」にあるから8世紀には出現していたことになる。伊豆の三嶋は伊豆諸島の大島との渡しの神、伊予大三島は朝鮮半島との渡しの神だという。 出口のすぐ南には香里丘陵がある。この写真は対岸の三島江からのもの。ここが奈良への街道にもなる。 ここに渡し場があった。 昔の渡し場は淀川にはのこってはいないが、その痕跡は旧街道とおなじようにある。集落から川へでた場所には道が行き止っている。そして土手にあがる石段た歩道がのこる。渡し場が消滅していても。 この三島江と出口にも。 三島江の土手の風景 その土手から神社の杜をみる。 出口の集落の風景。一番奥に階段がみえる。 蓮如上人が三島江でみた丘陵にふと、渡ろうと思って、そしてのちの、大阪・石山本願寺御堂ができて、さらに、そののちにできた中心部の南北御堂がある御堂筋が残されたとしたら・・・。それが大坂の動脈になってる。この水におおかぶさられる大阪の地霊の爆発のさけびのような・・爆発、そのことを蓮如上人は確信していた、としたら。ここから「大坂」が始まったのだから、ここはすごい。
by forumhiroshima
| 2010-12-08 18:30
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