こひちろうの独り言 |
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東大寺のお水取りの関連を走っている。約1300年の途切れない連続が、なにかひきつける。その秘密は奈良盆地の東の切り立った標高500mから600mのきりたった斜面「東山」を東南へ斜行する峠道からいっきに下った「山中」のいくつもの伝承にありそうだと、ねらいをつけてる。
その斜行する峠道の中で、天理市の中央から山中へ登る行程で途中に出来た天理ダムの堰堤をこえるコースへ走った。平地から登りにあたる場所のすこし南に石上神社がある場所。そこに布留川が西に流れていて、その河畔にふるい木造のあけっぴろげの店内におおきなオデン鍋と、揚げたてのテンプラをつくる鍋が鎮座する鍋ばかりおおきな、ちいさな食堂がある。一度訪れてから、なんとかまた!と強くおもっているんです。 そんなことは、さておき、「石上布留の早田・サワタを秀でずとも、縄だに延へよ守りつつ居やむ 万葉集7巻。・・早田は湿田に早稲・ワセを植える実際の反映であろう。・・石上神社拝殿の背後、斧も入ったこともなさそうな森の後には今はコンクリートの3,40cmほどの水路がとりまいて、川に向かう棚田を潤いしているが、これもかってはその地に湧くだけの水を用いる天水田・テンスイダであったであろう。・・・水路ぞいに森にむかって1mほど掘り下げた湧水がある。・・川にむかって開かれたゆるやかな沢田へ水が引かれていたのであろう。このような沢田を弥生時代の水田であるとおもう。 古島敏雄/土地に刻まれた歴史」 この景色はダムが作られ古道のそばに平行して建設用の道路がつくられ、すっかり「沢田」なる景色はなくなっている。この土地に海を渡ってきて、だいじにかかえてきた壺から米の種をつかみ出して、泉からの流水でしめった地面に撒いた人々の痕跡はみあたらないけど、この森の中に、注連縄でかこまれた結界があって、そこが石上の神の降臨するところと、いまも守られている。石上布留神社には本殿はいまもない。 古道を登れば自動車に気遣うこともなく、ダム堰堤にたどりつける。堰堤へおおきく迂回してダム湖畔で3つに分岐して、それぞれ「東山」トップを道を引っかくようにして越える。そのひとつが尾根筋を南にトラバースしてひろい平地に入る。そこが都祁・ツゲとよばれる。 ツゲの名から、漫画家のつげ義春を思い出していた。わたし、“ガロ”世代なんです。リアリズムの旅、なんか読み直したいです。これもさておき、都祁に向かって尾根のトラバースしてきた道が広い平地から南へぬける道との交差点が地図では高塚とある。高く、塚ですから積み上げた場所って意味かと、古墳みたいなもの探して見回したのだが、当然わかりません。なら見るな!。平地へ入ると左手に森がみえます。そこへむかう。都祁水分神社・ツゲミクマリ。 ミクマリは水配り・ミクバリ、だといわれる。「大和はいわゆる青垣山の傾斜面に、ほどよく分配せられた八箇所の水分神社なども・・田水配分の信仰を、思い浮かべることが出来るであろう。・・水を豊かに分かち与えたまう神を、年毎に祭り続けていくことが、全国普通の例であった。 柳田國男/海上の道」豊富な水が供給されれば、水争いなどは起こらない。神様たくさん水ください!って神社が水分神社ってこと、多すぎてもこまります、と都合のいいお願いをするってこともあっただろう。 長い参道とひろい境内が杉の森の中にあって、聖武天皇がここに400名もひきつれて行幸されたと、教育委員会のりっぱな案内がデーンとある。由緒正しい森閑とした神の降臨の場所。とても、とても百姓たちの水争いの仲介をされるようには思えない。拝殿の横の壁面に表示のカンバンがかかっている。そこには、この神社は此処より南の場所から移されたものとあった。 そこはこの神社から真南の谷がせばまった尾根と平地の際にある。都祁山口神社とよばれる。山口神社は、大和にはいくつもある。この神社の平安時代の祝詞がのこされて、その祝詞を分析されている。「神々のいられる山々から下し落とされる水を、田畑がありがたくお受けさせていただき、われわれが稲を天候にまどわされることなく稔らせる幸いをお与えください。とか、宮殿の建設用材を切り出す山の口に祭られる。とも 青木紀元/祝詞全評釈」宮殿建設の促進と、稲による納税促進の神様みたいだ。祝詞は天皇・貴族の専任事項だったのだろうから。 「社殿の奥はため池になっていて、田に安定した水の供給をはかっているようである。ここから流れ出る水の音をききながら、社頭にたつと、なだらかな谷、田の眺望がわずか俯瞰気味にひらける。この景色は“古い土着の名残を留めた昔懐かしい景色”、 樋口忠彦/日本の景観」都祁山口神社からすぐ前の田の中に、一本の立ち木がのこされて、その足元にちいさな鳥居と祠がみえる。 宮本常一が広島県芸北・八幡村について「石見の那賀郡の狩人がこのあたりにやってきて、試みに籾をまいておいてその冬やってきてみると立派に実っていた。これは稲をつくる人も住めるといって、家をたてて住んだ。その最初に籾をまいたところをサビラキ田といった。 宮本常一/中国山地民俗採訪録」 この話を田の中の鳥居をみて、思い出した。芸北ではそこに枝垂桜がうえてあった。 都祁から南の長谷方面に。先ほど通過した高塚をすぎると、道沿いに急流があらわれた。これだけの強い流れなら、すぐに上流を浸蝕する。都祁山口神社は北の木津川へ入る布目川のひとつの源流。そして現れた急流は南へながれ大和川に入る。 急流が都祁の平地に浸蝕すれば、都祁の北側の集落ての流れがなくなる。溺れ谷になる。そこで古代人は高塚というダムを作った。水をためるのでなく、流れを阻止する堤だ。そのとき都祁水分神社は平地中央の小山に移転したのだ。水分神社は分水嶺の神社なのだ。と、妄想しながら、その思いつきに満足しながら、いっきに下りに入った。その堰堤の建設力が東大寺には必要だったのでは。そして、東大寺1300年の連続のお水取りより、稲作の田園風景が、もっともっと古くて、連続している、と。
by forumhiroshima
| 2012-02-13 11:00
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