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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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かくれ里-高尾

畿内の範囲は北は大津の京の西、逢坂までといわれる。奈良・平城京の出現する前の時代(646年。飛鳥時代)の政令で定められた範囲のことだけど。その畿内を自転車でめぐって、西の明石、東の名張、北の大津に到達した。《「畿内」はウチツクニであってナカツクニではない。「内」に対するのは「外」。「中」は「上」と「下」に対する語である。したがって「葦原中国」は天上の高天の原、地下の黄泉の国や根の国に対しその中間にある国を指す名とする説に従うべきである。西郷信綱》垂直の神話の時代から水平な国造りの時代への変わる様子が、畿内という言葉に残っているように感じる。畿内の畿は京、城ともいわれる。畿内はこの時代の天皇たちが頻繁に京を移動して定めたウチツクニの範囲であるようだ。

奈良時代 総理大臣が皇族にたいしてクーデターを企て、ばれて逃亡するとい事件がおこった。その首謀者は恵美押勝という藤原家の長男。その逃亡劇は大和から山代、そして近江の大津へのルートだった。それを追う軍勢は逃亡者が宇治を経由するのに対し、手前の山岳コースの宇治田原経由をとったという。「昔から大和と近江、そして京都をむすぶ要害の地であった。壬申の乱に、天武天皇が、大津から逃れて吉野へ落ちて行かれたのも、田原道であったし、恵美押勝の乱に、官軍がいち早く先回りして、勢多(瀬田)で迎え撃ったのも、この近江路の間道であった。すこし下って、南北朝の戦いに、後醍醐天皇が笠置へ入る道も、やはり宇治田原を経て、南下されたのである。それはまさに歴史が交錯する地点であり、落ち人が潜む絶好の場所であった。本能寺の変に、徳川家康があわてて国(三河)へ帰った時も、ここを通ったといい、 白州正子/田原の古道」
667年に天智天皇は畿内の北端、逢坂山の東の大津に京を定めている。この京が畿内をとびこえて造られていることになる。古代の間道を通って、王城の域を飛び越えた大津京に走るのもおもしろい?

平城京址から北上して歌姫街道を下る。この道は平城京建設の資材とくに大木を木津川から運び上げたルートだという。歌姫坂の東にある奈良坂は東大寺の建設資材運搬路、恵美押勝の乱は丁度東大寺建設途中で、この建設従業員も動員されたという。
巨大な団地を抜ける街道は古道の装いをはがされてしまっていて広い車道、木津の町周辺までくだると、周囲は水を引かれた田園風景の中に、高速道路が頭上に延びてくる。
木津で木津川を渡ると、道路そばに「山城の文化財」の標示のカンバンが設置されて、古道も記載されている。手元の地図にその古道を落とし込んでトレースして走る。幹線道路から離れ、古道らしく尾根と平地の接点に道はのびて、寺社が点在してある。
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「京都から奈良街道を南下すると、宇治をすぎるあたりから、左の方にあまり高くない岡がつづいている。これを綴喜の岡というが、麓には・・旧跡があり、木津川の右岸にも・・筒木の宮跡などがあり、非常に古くから開けていた地方である。
だが、綴喜の岡は、表から見るのと違って、実際にははるかに奥深い。・・一歩踏み込むと重畳とした山つづきで、宇治田原の町はその真中にぽっかり開けた盆地の中にある。白州正子」山城の文化財のルートを満喫し、山城町域をると、道路は新しくなって車も多く往来し、新しい住宅地をに入った。この変わり方に自分に位置をうしなって、道路標識を探したが、どこにも大津とも宇治田原とも記載されていない。街は同じような景色の連続で、しかたなくJRの路線にそって走って、駅をさがした。見つけた駅は「じょうよう」。もうすぐ宇治の町ちかくに来ている。引返して間違った分岐点にむかう。そこは川沿いなのだけど土手がひどく高くて、橋であるより坂道だと、どうも思ったらしい。景色より路面をみていた。その高い土手路の県道を東へ登る。川面なぞ見えない。道の勾配はそれほどでもないが、真直ぐで、しんどい。対抗してくる車のナンバープレートが路面より下になると峠のトップだからと、そのシーンを探しながら、ペダルをふむ。時々スーっと自転車に抜かれる。声掛けもない。彼も対向車のナンバープレートの位置を見つめてるにちがいない。

トップには団地の標示があって、下りの先にちいさなビルとちいさくかたまってる屋根の街がみえた。下り始めてすぐに大きな交差点に。ここから大津へのルートを外れて、登りのコースへ入った。
「宇治川に支流の田原川にぶつかり、その川にそって山へ入る。とたんに山国の景色となり、とても京都から車で二、三十分で来られるところとは思えない。そこはもう宇治田原の入口で、川をへだてた山の天辺を高尾/コウノオといい、それこそ正真正銘の[かくれ里]であることを、私は人からきいて知っていた。最近は辛うじて車も通うらしいが、・・・織田信長に攻められた近江の佐々木氏も田原の奥へ逃げ込んだ。先に書いた高尾という村は、その佐々木氏一族が住んだかくれ里で、平家の落人部落として知られるが、実は源氏の末裔だったのである。・・人家は十四、五軒しかなく、みな佐々木の子孫と称しているが、寒村であるのに、生活はわりあい豊かであるらしい。 白州正子/田原の古道」
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その高尾へ。白州正子がこのかくれ里を書いたのは1969年だとあるからもう四十年も昔の紀行になる。車道は広くて谷間を九十九に登ってゆく。けっこう足にくるけど、まあ、いつもの自転車押しのぼりでもするかい!と、ヒーヒーいっていると、チリチリと妙な音が降りてくる。路面から顔をあげると、九十九の向うのコーナーからママチャリが飛んできた。少女がとばして降りてくる。アリャ!!。チョット、横目でガンつけられて、おもわず会釈なんぞしてしまったけど、その時少女はもう後姿だった。ピンクの自転車がすごく印象的で目に焼きついた。アッとの間の時間からまた路面との対話の登りへ。まだかいな!と人家をさがす。けっこうの登りとおもった時間で分岐に到着。正面にきれいな井戸が現れる。「村の入口には[一ツ井、黄金井]といって、まんまんと水をたたえた泉があり、例によって弘法大師が掘ったと伝えている。これは高尾唯一の飲料水ということだが、わたしには弘法大師よりはるかに古い霊泉のように思えた。場所もちょうど宇治川と田原川が落ち合う地点にあり、はじめは旅人たちのみそぎの場であったのではないか。高尾は神尾と書くのが正しいような気もする。白州正子」
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その井戸のある三叉路はじつは四つ角であった。というのは、井戸の正面に標識がたててあって、林の中へ下る登山道のような道がズッと下の宇治川と田原川の合流地点にあるバス停への標示だった。
ピンクのママチャリ少女はもしかすると、この村の鎮守社の巫女では?と、集落をぬける道をこりずにのぼりはじめた。道の先にスポーツランドがあるようにカンバンがあって、二台のバイクの騒音に追い抜かれた。杉の森がはじまって、巨木のたちなかに鳥居をみつけた。明神社とあった。神社の参道を自転車を担いで、くだりへ歩く。家々の表札をのぞきこむ。佐々木って家はなかった。
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井戸の分岐まで帰って、また自転車かついでバス停へ下る。「最高頂上に人家見えて高の尾村といふ。汲鮎を業とするやよし。茅屋雲に架し、段橋水にのぞむ。かかる絶地にもすむ人ありやと、そぞろに客魂をひやす。鮎落ちていよいよ高き尾上かな 蕪村」
1783年に蕪村がここをたずねた紀行にある。汲鮎という言葉がわからなくて、調べると鮎を採ることで、この高尾の人々は井戸からこの道を往復して宇治川で鮎をとることを生業としていたことになる。すべりそうな路面と枝にひっかかる自転車でもって、まったく、参ってしまった。森の中で立ち止まって、オレ!何してるの?なんて思ったとき、ママチャリ少女を思い出した。彼女帰り、登ってくるのか?きっと、ダンシングで上がるのだろうな。鮎をビクいっぱいにして、ここを通った祖先のように、ね。
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by forumhiroshima | 2012-06-05 10:35
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