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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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石工たち

琵琶湖、湖西という美しい名のある土地に坂本がある。この「坂」は比叡山の延暦寺へ向う道のことで、比叡山の正門にあたっていて、比叡山へは京都から登ると思っていた自分には、京都は裏口になっていていることで、アレッ!という違和感がある。坂本は延暦寺の玄関だ。そこに美しい石垣が残っている。
石工たち_d0089494_9433728.jpg

司馬遼太郎の街道をゆく1 湖西のみちに、坂本に入って「豪壮な石垣があらわれる。代々の天台座主の住まいであった志賀院である。
重苦しいほどの堅牢な門が石段の上にそびえ、仰ぐ者に威圧感をあたえる。・・それにしても、滋賀院の石垣こそ穴太衆・アノウシュウの傑作のひとつではないかと思える。ただ実用を超えて、権威の表情として組まれているあたり、こういう里坊に住むにはよほど神経を鈍感にしておく必要があるかもしれない。 司馬遼太郎 街道をゆく16比叡の諸道」
街道をゆくのシリーズでこの坂本と穴太衆のことは、「街道をゆく1湖西のみち」とで、二度登場している。めずらしい。司馬さんの著作の製作年次暦をたどってみた。というのは比叡山の天台宗の最澄と、高野山の真言宗の空海との対立が書かれた「空海の風景」が街道をゆくの1巻と16巻の間の作品ではないかとおもったからだ。「空海の風景」が1975年、街道をゆくの湖西のみちは1971年、叡山の諸道は1979-80年。当たっていた。司馬さんの平安時代に成立したこの巨大二宗派へ理解はすさまじい奥行きがあると思う。とても熱い資料との戦いだったと思う。その資料調べの拡がりの中で、「街道をゆく」で、二度も登場する、坂本の石垣と、それを作った穴太衆という坂本の南の湖西の集落の人々の記載となったのはどうしてだろうか。
「空海の風景」のあとがきの中で、
「その人物を見たこともないはるかな後世の人間が、あたかも見たようにして書くなどはできそうにないし、結局は、空海が生存した時代の事情、その身辺、その思想などといったものに外光をあててその起伏を浮かびあがらせ、筆者自身のための風景にしてゆくにつれてあるいは空海という実体に偶会できはしないかと期待した。・・結局はどうやら筆者の錯覚かもしれないが、空海の姿がこの稿の最後あたりで垣間見えたような、感じがするのだが、・・あるいはそれは筆者の幻視だろうということになるのかもしれない。」

坂本にある比叡山の守護神といわれる日枝神社への湖畔から直線ののぼる広い参道の両側に、近世、延暦寺の座主の住居ができ、また比叡山山頂の延暦寺で60歳を越えた僧たちが、許しを得て「ふもとに降りて里坊に住むという風ができた。 街道をゆく16」その里坊とよばれる寺院が豪壮な石垣の上につくられ、その多くの寺院の建物は今は失われ、その石垣だけが残っている。普通には石垣だけがのこった寺院の跡はさびしいものだが、ここの石垣の前に立つと、その感傷のような感情はうまれない。ギリシャの神殿が屋根や壁を失っても、その神殿の誇りは失わないように、この石垣もそれ自体で存在している。「穴太の里の歴史はおそろしく古い。千年以上前に成立した“延喜式”にも重要な駅として指定され、駅馬五頭がおかれていたというが、これでもまだ記録はあたらしい。それより古く、成務帝というその存在さえ、さだからぬ帝のころ、ここに都があり、“志賀高穴穂の宮・シガノタカアナホノミヤ”と称せられていたという。・・この宮をつくる土木技術は穴太人が担当しただろうし、のちの天智帝の滋賀大津宮がつくられるときも活躍したにちがいなく、その技術は農業灌漑にも活かされ、・・この古色を帯びた湖西・北小松の漁港施設た溝に生かされている。司馬遼太郎 街道をゆく-1」

古代の街道を開いた人々の記憶も残っている。
「約1600年前、元明天皇の和銅年間に、初めて木曽街道が開かれた。この街道の開削のとき、クマソギ・隈削という特殊土工がいた。後日この人々が木曽街道に捨て置かれた。のち彼らの出没があり、彼らをクモスケと呼んだ。ものと人間の歴史」道路建設の工人たちの歴史は岩を「削ぐ」石工の歴史でもある。「私は以前、中世後半にできた普請(土木)という言葉が流布するまでは、“土木”を“穴太”と呼んだのではないかと想像していた。が、どう詮索しても、その証拠がでてこない。司馬遼太郎」
古代に寺院建設がはじまったとき、その建築の土台を石組みでおこなった。それまでのこの国の家屋は掘立て、つまり地面に穴を掘って、そこに柱を埋め立てていた。新しい寺院の建設にその土台の製作の工人が必要で、彼らは渡来の技術者であることが当然に予想される。司馬さんは街道をゆくを始める訳の一つに、朝鮮半島からの渡来してきた人々の存在が、この国の創建にかかわった事実をさがしたいと、渡来人の集中して居住した「この紀行の手はじめに、日本列島の中央部にあたる近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである。」と書いている。穴太衆が渡来の技術者であることも、当然の予想になろう。湖西の西の比叡山の山中にある延暦寺の建設は、その土台の石垣を組むことでつくられる。平安時代この作業を穴太の人々が担っていた。そののちの時代のに、この人々が注目される事件がおこる。それは信長が琵琶湖湖畔に安土城の建設を始めたときのこと。この城は巨大な石垣の上に計画され、石垣の上の城の建設も史上初めての企てだった。城の建設の現場監督は羽柴秀吉で、彼は地元のこの穴太の人々に注目した。穴太の人々は、初めての大工事のために、この作業の協力者をさがした。

石工には、「石採・イシドリ」「石彫(石削)・イシホリ」と「石積・イシツミ」の三種の石工があり、良い花崗岩を産出し、船という運搬手段もある瀬戸内の石工たちが「石積」の技術者として知られていた。穴太はこの石積石工を「浜筋の者」とよんで、多くを瀬戸内海から呼び寄せ、その監督になったという。周防、安芸の国の者が多かったという。この人々にも渡来技術の伝承の影がある。「田渕実男 石垣」

「山口県大島の久賀というところも石工の多いところである。ここの石工は山口県から北九州の海岸を稼ぎ場にしていたが、このごろ、高知県の山中を歩いてみると、あの山間部にも出向いて仕事をしている。宮本常一」いまも久賀の南の尾根には鎌倉時代の水道用疎水の石組みがある。久賀は常一さんの故郷の隣町だ。

穴太の人々はこの安土城の建設の際武士に取り立てられた。これ以降穴太の人々は石垣取りになり、「江戸時代になり、城普請は沙汰やみになったばかりか、多くの城が取り潰された。穴太石垣師の配下の石工たちは、里廻りの石垣師になって、地方の石垣師になるほかなかったが、親方たちはそれぞれ武家に雇われたという。彼らの石垣は、その石垣を上り詰めたとき、頭上に多いかぶさっって空が見えないほどの勾配をもっているような技術だった。武士となった彼らは、「下野、草野、野本、水野」など穴太・アノウの「野」の字をもって家名とした。「およそ名門名流の由緒については伝説がつきまとう。石垣・田渕実夫」
彼らは藩の領下の治水事業をになってゆくことになる。江戸時代の河川工事などの大工事は武士によっておこなわれている。水田を取れば、増やせば兵を食わせられる。藩の趨勢をになっていた。岡山藩は「備前積」という特殊な石組みの技術者を抱えていたし、熊本藩の臣下だった石組みの技術者の下野光俊は千石の高録で水戸藩にスカウトされている。現代のサッカーや野球のプロみたいだ。この人々は明治の時代になって、ゼネコンの創設にかかわる。ツールドフランス2010の繰上げられたチャンピオンのシュレック選手もツール出場選手二世だったっけ。ライディングスキルも伝承するのかな?
司馬さんはこのゼネコンがきらいなようだ。ビルを石灰岩の塊といい、この石灰岩をもって日本を覆い尽くす勢力と思っているふしがある。彼らに君たちの祖先がこの国をつくった精神の一端をこの坂本の石垣にみよ!と激を送ってるようにもおもえる。
動いて後にながれる景色の中で石垣はなにか異彩な光を放つことがある。
「故郷の米はうまいというが、送られてきた米を炊いても故郷の飯ほどの味わいはないという気がする。米はそれを産み出した土地の水で炊くとき、米と水とはよく思いあって風味をかもしだすのである。村の石垣にしても、村の山から切り取り、村の川から拾い上げた石で畳んでこそ、はじめて村の風土と調和するのである。田渕実夫」
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by forumhiroshima | 2012-08-27 09:50
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