こひちろうの独り言 |
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播磨国の中央をながれる加古川へ東から流れこむ支流・東条川の流域が古代の播磨国賀茂郡であったと聞いた。東条川の源流部は賀茂川と呼ばれている。
東条川に一羽の鵜が流れの中の岩の上でたたずんでいる。 東大寺のお水取りにはまって昨年は通った。夜半の二月堂で講堂の格子越しに、くばられる若狭井からくまれた香水を手のひらで受けたとき、ビックと身体に電気がはしった。若狭井に日本海の若狭から水が送られ、それを汲み取る「行」がお水取り。その水は地中を黒白の鵜によって運ばれる伝承。そしてその水の送り主の遠敷明神は若狭彦命であり、また山城国に鎮座する上賀茂神社の祭神だという。 賀茂の神々を祭る人々は大和盆地の南の葛城山麓から山城国いまの京都の賀茂川のそばに移ったと8世紀にかかれた山城風土記にある。その移住は4世紀ごろであり、賀茂一族は山城国だけでなく、四方へ散って、各地にその痕跡をのこしたというのだ。 それから、賀茂一族の居住地探しを始めてしまった。調べるとあるはあるは、各地に賀茂族の地がある。すっかり、大変なことになってしまった!と、川面を見るでなく、なにか遠くをみている鵜につぶやいてしまった。賀茂族は遠いよ。 って訳で、播磨の最北端の鴨川へ。まず摂津国の西端の三田の加茂の加茂神社へ。 地名はその場所へいってしまえば、足元ってことで消えてしまう。それどころか、新しい住宅地に命名されたりする。どうして開発業者に地名の命名権がいってしまったのか?と疑問におもっているが。 賀茂族たちがここにある訳って、なんだろうか?若狭から奈良盆地の北端の東大寺まで地中経由で水を送るなんて、けっこうマジカルな作業をする人々だから、そこに落ち着いた訳はその土地にあるのだろうからと、周囲を見わたす。これまでの経験から円錐形の低山がかれらのお気に入りらしいことは、強く思っている。 三田の加茂神社は丘陵の上にあるのだけど、そばの家々で見通しをよくない。加茂神社から播磨国との国境の三本峠を抜けると水源地に降りる。次の尾根を越えると鴨川の谷に入る。郵便局は社賀茂局とあった。 緩やかな流れのそばを川上へゆくと、円錐形の山が正面に現れ、そこに住吉神社が鎮座していた。 椿の花が足元にちらばっている石段をのぼると、朝日のなかに茅葺屋根の建物が二軒現れた。その奥に朱の彩りも鮮やかな桧皮葺の重要文化財とかかれた掲示のある本殿が鎮座していて、茅葺の拝殿や神楽殿とも溶け込んで、異次元の世界に入っていた。 なにせ日本海から奈良盆地へ地中をとおして水を送るという連中だから、ここに古代とも中世ともと感じさせる景色を出現させても、可笑しくはない。が、この神社は住吉神社。海の神様がこの山中までおいでになっている。 このことは、このあたりが古代から舟の材料を送りだした場所で住吉神社との関連がいわれる。のだが、面白くない。この境内の佇まいは・・というより、そばの円錐のあの山は住吉の神のお好みなのか?どうか。と機嫌よくない。先日大阪の住吉神社の宮司さんの書かれた古代の鉄の本が面白くなかったことで、いま住吉って言葉に反応よくないのだ。 目の前の鴨川が東条川と名を変え流れ込む加古川の加古は昔の言葉の船乗りを示す言葉からだと思っていた。その川の西にあるのが加西市。そして東の滝野と社とが合併してついた地名が加東市。まあ安易な命名だけど○○ウッディタウンなどと横文字でないのが幸いとおもっていた。播磨・鴨川を走るまえに資料パラパラしてると、加西・加東は昔からの郡の名で、賀茂郡が分けられて付けられたという。加古川も河口付近にある小山が鹿の子供に見えるので(これってわからないです。見にいったけど、鹿には・・とても)鹿児の丘でカコ。それを賀古となって、後の江戸時代に加古と書かれたそうだ。7世紀ごろの日本語って、各部族の集合体のコミュニケーションだったため、今では判別できないのがあたりまえ。だそうです。 住吉神社の佇まいがすっかりお気に入りです。石垣もいいですよ。森もつばきの花をさかせて、いいですよ。と合祀してある祠も巡回。すると、上、中、下筒男の祠。いま修理中でビニールシートのかけられて祠を明けてみると、神功皇后の祠。これって住吉神社の祭神の四柱です。ってことは本殿の中にはいったいだれ?それとも祠は陰の内閣? もしやもしや?賀茂の神々が・・・ 神社をでると、日差しがあったかい。緩やかな流れはキラキラ。春の小川の歌詞そのもの。賀茂神は川のゆるやかなところがそういえば好きなご様子でもあったっけ。と下賀茂川の集落の神社へ。ここも住吉さん。合祀の祠もチェックしてみたが祭神の名はかかれてなかった。 ゆらゆらと下る川の小さな谷間はとても気分にいい景色。おじいさんが川遊びしている。見ていると目があった。カメラだしておじいさん狙っていたのに、おじいさん「よう咲いてるだろう」と丘の桜を見あげた。「いいですね」と、おじいさんの佇まいを、桜のかわりに伝えた。 東条湖湖畔の別荘地帯のなんともいてない、油っぽさをぬけると、秋津という広い田園の場所にでた。葛城の鴨族の古代の痕跡が発掘された場所が秋津。神武天皇が喜んだという葛城山麓の秋津国・アキツシマの秋津だ。ここの神社に鴨神社の期待をふくらませて走った。稲荷神社だとはしらべていたが、上鴨川の住吉神社のように、なにか!。なかった。
by forumhiroshima
| 2013-04-05 15:20
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