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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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プロバンスの路地より-4   海苔

仁保島を一周する細い古風な、路地よりは広いが車の離合は難しい道を、本通りと昔はよんでいたらしい。その道の外側はその昔は瀬戸内の波にあらわれていた。
 道沿いに家々は、蔵付きの白壁の家や、あたらしいプレハブと混ざり合って続く。その中にバラックの作業場のような、軒の低いクモリガラス戸の作業小屋らしい、ちいさな空き地のある家のちいさな白いカンバンが眼にはいってきた、海苔をあつかっていた家らしい。
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 そのカンバンが出雲の平田から北上し、峠を越え短いトンネルを抜けると、断崖の上に飛びだし、日本海に飛び込む景色につつまれる場所の神社を思い出させた。その峠を越す手前に暗いスギの林の鎮守のなかに野呂志神社と、その隣に出雲では「横屋」とよばれる神職の自宅、それは玄関に張られた注連縄でわかるのだけど、があった。横屋は低い生垣で縁側の籐椅子に坐る老人がみえる。会釈をすると、白髪がゆれた。
 ノロシと読める神社のおおきな石柱から、その奥の森の上の山並みを見上げた。そこのどこかで、ノロシを焚いたことが、この神社の由来かと。
 が、後で「出雲国風土記・注釈」をみると、風土記には乃利斬・ノリシ社と書かれていて、それは海苔石からの名とあった。峠の向うの海岸は海苔の生産地であったという。風土記では海苔を「紫菜」と書く。中国語やしいが、古代8世紀には海苔は神様であった、となる。海苔からの出雲への連想。
 白い海苔のカンバンは出雲の島根半島のサイクリングの時間を呼び戻してくれた。あれ、楽しかった!

 カンバンの作業場のある場所の南は、日宇那という集落で、古い家並みの頭上の尾根に団地ができて、クロサワの天国と地獄の景色。この仁保島を歩いた宮本常一は、こう書き残す。「そこで見たものは、漁村らしからぬ部落であった。家は密集していたし、道は狭かったけれども、一戸一戸の家は大きく堂々としたものが多かった。そして白壁を持っていた。白壁の家というのは富裕であることを示しているようなものであった。白壁の家ばかりでなく土蔵も多かった。決してまずしい漁村ではない。そしてかってこの浦々がめざましい活動をしたことを物語っている。 宮本常一/私の日本地図」このあと仁保島の漁民たちが壱岐対馬へ出かけていたことを述べている。“天国と地獄”の構図ではないのだ。

日宇那は、というより仁保島の周囲は海苔養殖の干潟であった。広島の海苔屋さんのHPに、明治時代にはここでの海苔の生産量は日本一であったとあり、味付け海苔の量産化は仁保の海苔屋によって開発されたとあった。東京の日比谷の日比はこの海苔養殖の竹を埋めるヒビだという。日宇那の日宇はどこかひびににてないかな。
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仁保島の西の大河の集落の奥に黄幡神社が巨木の楠を繁らせて鎮座している。本殿の隣に石碑がある。江戸時代19世紀初頭の江戸で将軍のお出ましのある相撲の御前試合で勝利した広島藩の三代十郎という力士が、その勝利により広島湾の干潟での海苔等の海上権を授与された。その功績碑が、それだ。
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 後にこの海上権は江波の漁民との争論が起こった。そのころから海苔養殖が漁民活動にひろがったのだろう。大河郷土史会によると、幾度も係争になって、広島藩により裁定がでたことで、落着したとあった。
その裁定で、新しく江波と仁保との境界の設定が行われ、その境界線が新しく佐伯郡と安芸郡との境界になったとある。その境界線が「六番の八重ひび西袖の鼻より潟上のまゝ真っ直ぐに見通し、向う沼田郡八木村の内、あぶ山峠を目標に刺し、それにより西手は明潟としておき」とあった。
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朝恒例の自転車散歩、これをプロバンスのプロムナードサイクリングと呼ぶ。ゆらゆらと黄金山を時計回りに走って日宇那に入ったとき、この海人たちの争いから陸地に刻まれた彼らの境界線を確認しようか!と思い立った。そして、思い立ってすぐに体が動くようになったのか!と。気付いた。うれしかった。ここ一ヶ月たくさんの物が壊れたけれど、この自転車以外はもう壊れる物はないことにも気付いた。自転車ガンバ!!。

海人たちの山アテとか山標とかは、山頂を指すのかとおもっていた。が峠は山頂より確定しやすい目印にちがいない。境界線となる本川にかかる橋の欄干から、あぶ山の峠をさがした。期待していたほど明確ではない。この場所ではないのかもしれない。あぶ山をみていて、この山が象山とよばれていても、象に似てないとおもっていたが、橋の欄干からは、峠のちいさなくぼみが象の耳の端にみえる。花祭りのお釈迦様の乗った象の置物が想像できた。漁人たちの係争の裁きは神様でなく、仏様にお願いしたのだろうか。
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出雲の白髪の老人のお守りする野呂志神社も“海苔のついた石”とうような難解なことでなくて、日本海の海人たちの魚場の境界ののろし山カモシレンナー!と思いつきにほくそ笑んだ。
by forumhiroshima | 2013-09-11 06:02
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