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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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広島を設計する-8

海人の記憶

碇ということ
広島城の設計の基本ラインが真南北ラインからずれていて、その訳が判らん。

太田川の砂洲が砂を溜めて海から浮き上がってきた大地らしき存在に、もっとも早くに足跡を残したのは海人たちだから、砂洲のなかで最初に海神が鎮座した筥島(白島)の碇神社を訪ねた。
記録では太田川の砂洲に早くに記録された神社は打越の八幡、比治山の黄幡があるが、打越の八幡は横川の最南端で砂洲の上ではない。比治山の黄幡は、いまは移転して比治山神社になっているが、もとは比治山の南の縄文時代の貝塚の発見された谷にあった。古代の痕跡ちかくに神社は建立されてることが多い。比治山の谷に鎮座していたから砂洲の上ではない。砂洲上の古い神社は碇神社だけになる。

筥島の碇神社へ紙屋町から牛田へのバス通りを北上して左にすこし折れて白島の電停につく。JR高架の向うの神社あたりへ車道はやはり左に折れるが、バス通りの真正面にあるように思えた。地図で確認すると、直線ラインの上にありそう。バス通りは広島城の東堀から平田屋川になる。いまの金座街から並木通り、地蔵通り。すでに埋め立てられた道ではあるが。
この平田屋川が広島城の縦のラインにちがいない。とすると碇神社と城、天守閣(これは山から見立てられた)が基点だとなる。と、妄想すると平田屋川の南端の基点があれば、広島城下の街並の縦横が方形であることから、設計全体が浮かび上がってくる。しかし、その南端の基点がみつからないから、“訳が判らん”となった。

“碇”という神社の名も基点らし。が由緒にあるように船の錨であるとはないはず。それはここが砂洲で常に砂が運ばれる浅い海であることから、錨は必要ないとおもっていた。碇を“怒り”と読み替えて、川の流れが岩礁にぶつかる状態、水流の怒りだと、自分をナットクさせていた。が、もっと状況証拠がほしい。

古代の“海人”を歌う万葉集の山部赤人の歌を見つけた。「・・海人アマの 海ワタの底 奥つ海石イクリに鰒アワビ珠タマ・・」   海石=いくり、発音がイカリに近い。これ、いいじゃん。奈良盆地の東の長谷から南の名張への谷道から、途中から山腹にあがった場所の赤人の墓へ走ったことが、きっとこの歌との出会いが生まれたと、満足、満足!!。

やはり碇神社は岩礁の上に鎮座されていた。このイクリが流れをせきとめ、ここから砂洲が生まれたのだ。舟の錨とは関係ない。
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碇神社の祭神は大綿津見神と神社正面の標示にある。
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この神は三神のまとまりの神様集団で、底津大綿津見、中津大綿津見、表津大綿津見。イザナミ神が黄泉国から帰還して祓えをしたとき住吉の神とともに生まれたと語られる。九州・博多湾の海の中道の先のある志賀島に鎮座する安曇氏が祭った志賀海神社の神。海の底、中、表面に神を置くのは住吉の神もおなじく底筒、中筒、表筒神の集団を祭っている。
志賀海神社に奉納されるのは海草と鹿の角。鹿角は漁具とくに釣針の材料で海人の県連する神社と鹿との関係はふかい。志賀海の志賀は鹿、と。この海神社は占いに鹿角を使ったといわれる。

神を三様に区分して集団として祭ること、大阪の住吉神社では本殿も姫神を加えて四つの本殿を田の字に境内に置いている。小さな家は並んでいて参拝にとまどう。どこから始めるか?この海の中での上、中、下の区分が不思議だった。赤人も“海ワタの底 奥つ”と歌う。どうしてか。

それが判ったとおもえる資料にぶつかった。赤人の歌といい、よく今日は資料がでてくる。その資料の水産資源の分類表をみていると、海の資源はネキトン(表面遊泳生物)プランクトン(海中遊泳生物)ベストン(底生生物)に区分されている。海人は潜って狩猟する。彼らにとって底、中、表面の各々の生物への対処の区分は当然の認識だったのだ。いま開催中の東大寺のお水取りの井戸の“鵜”はこの海中を自由に移動し狩猟する。そして地上から空中まで自由だ。人々の狩猟採取の鏡みたいな鳥ってことなんだろう。人様は地表をフラフラしていては海の神様のことの実感はもてないよ。
海を細分化して各々の神を置くとする人々は、ずっと古くから狩猟の生活をしてきた人々であろう。石器、縄文、弥生、古墳そして有史をこえている。そのことを強く感じた。

海人たち
厳島にVistaラインがあると、「神社の系譜 宮元健次」がいっている。
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このラインを弥山から通すと本殿、大鳥居が地図に落すと入らない。このラインは破綻している。しかし弥山・大聖院(宮島本殿西)・極楽寺・地御前神社のラインはあるようだ。地御前神社の成り立ちに仏教の真言宗へのかかわりがあるのだろうか。
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旧暦6月17日の満月の夜に行われる管絃祭に本殿から出発したご神体の乗る御座船が対岸の御地前に渡り、満潮時に帰還する。地御前神社は厳島神社からは対岸のフェリー乗場から北3kmの場所にある。この距離の訳を考えてみる。
この地御前は古代には安芸国佐伯郡海郷と呼ばれた場所で、海人たちが領有していた場所で彼らは厳島神社への神饌を貢納する人々であったといわれる。
ここに海郷があったという文献証拠よりも、海人たちの居住した地名が面白い。地御前の西の明石峠や峠の入口の明石はこの人たちの記憶だという。綿津見の綿、ワタの読みは、古代の海をいうハタやパタでもあるといって、八や幡、畑、波多、和田などもその記憶だという。ここに畑口の地名がみられる。地御前神社の北に住吉の地名もある。
広島湾は海人たちの痕跡といわれる地名の有数の集積地。
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海人の地名は黛弘道さんが提唱されている。私は走るときこの幾つかの地名を覚えていて、それにぶつかると、いきなり目の前の風景が消え去って、陸に上がった人々の痕跡、たとえば神社を探しだす。以前にであった海人の地名の場所と、今とのなにかの繋がり、共通点など探しはじめる。そこに何か見つかると・・・!。やめられませんよ。自転車の旅は。

旧暦6月17日 満月の大潮の日の管絃祭。大地が引力でもっともゆがむパワーエネルギーの日。そして夏至がちかい。空中は熱エネルギーがあふれかえっている。瀬戸内海では魚たちの産卵の日。クサフグの集団産卵は有名だ。海亀の産卵も月歴にかかわる。新月、満月のタイミング。生物たちの鼓動を引力の強さの感覚が押し込んでくるのだろう。そして熱エネルギーが持続力をはこんでくる。
パワーと持続をうける感受性、「熱すぎる」など言ってる自分達が失った感性だろう。まだ有るのなら、引き出せないのだろうか。自力走行してる自転車の上の自分はなにか感じてるように、おもえるのだけど。

月の周期は生物へ、だけでなく、大地へも力を押し込む。阪神大震災の朝は満月だったことはよく知られている。東日本大震災の日は三日月だったというが、なにかあるように思えるのだけど。

海人たちは陸の山を見立てして、位置を把握してゆく。夜の星空も見立てして移動してゆく。北極星の位置の重要さに加えて、機能的に位置をみたてしてゆくすべがあったのだろう。管絃祭では午前の満潮時に本殿をでて、夜半の満潮時に帰還する。海のパワーが祭りを動かしている。
太陽から方向は引き出せない夜の海での位置決めの方法を広島城の設計に取りいれたのではないか?。天守閣の位置を決めた神田山を見立山とよぶ記録がある。

碇神社の南方に見立てとなる岩礁があったにちがいない。天守閣の地盤も岩礁であったのではなかろうか・。と考えてしまう。なにせ基点が“海石”だから。
by forumhiroshima | 2014-03-06 11:07
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