こひちろうの独り言 |
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海の王者の地位を築いた毛利の城が、王道の北辰・真南北のラインをはずしている。そのことに、こだわっている。地上の城の設計図からは、手がかりがみつからない。
中沢新一の“アースダイバー”から。 「はじめ世界には陸地がなかった。地上は一面の水に覆われていたのである。そこで勇敢な動物達がつぎつぎと、水中に潜って陸地をつくる材料を探してくる困難な任務に挑んだ。ビーバーもカモメも挑戦して失敗した。こうしてみんなが失敗したあと、最後にカイツブリが勢いよく水に潜っていった。水はとても深かったので、カイツブリは苦しんだ。それでも水かきにこめる力をふりしぼって潜って、ようやく水底にたどりついた。そこで一握りの泥をつかむと、一息で浮上した。このとき勇敢なカイツブリが水かきの間にはさんで持ってきた一握りの泥を材料として、私たちの住む陸地はつくられた。北アメリカ先住人が語り継ぐ“アースダイバー”」 アースダイバー・カイツブリは潜って獲物を獲得する。その潜る時間がとても長いから“息長鳥・オキナガドリ”ともいわれる。ウイキィすると(※標準「カイツブリ」は、水を「掻いて潜る(掻きつ潜りつ)」が転じたか、「カイ」は、たちまちの意で、潜る時の水音が「ツブリ」に転じたとする説が有力。)とあった。 カイツブリは、鳰“ニヲドリ”とも呼ばれ、水に入る鳥で“鳰”の国字が使われる。夏に首あたりが赤い羽になるから、丹(タン・朱砂)を背負う(ヲ)鳥ともいわれ、仁保島の海をニヲ海、島南の丹那という地名,邇保姫神社のニヲ姫と連想される。ニヲの連想から本浦を香浦ニヲウラともよんだ。 “息長・オキナガ”のイメージから古代の女帝、神功皇后・オキナガタラシヒメを示す説があり、古代の息長族の居住地、琵琶湖の鳥とされている。オキナガタラシヒメは、海の神様、住吉三神との関係がふかく、大阪の住吉神社は皇后を加えて四柱が祭られている。 アメリカの先住民の伝説に、この国の古代伝承が、かさなってくる。悠久の時は大地の地中、海の中を流れアジアとアメリカをアースダイブしている。 「人間の心のおおもとをなしている泥のような“無意識”を抑制して、・・泥臭い(ドンくさい)“無意識”の介入なしに、スマートな合理的な文明を築きことをしてきた。しかしそうやって抑制してきた“無意識”が、いまさまざまな形のテロのよって、コンピューターに管理されたグローバル経済の社会に、挑みかかろうとしている。・・ぼくは自分もカイツブリにならなければ、と思ったのである。・・もういちど水の中に潜って、・・一握りの泥をつかんで・・それを材料として・・心を泥からこね直すのである。・・そんな気持ちで東京を見回してみると、・・そこには大昔に水中から引上げられた泥の堆積が、そこここに散らばっている・・スマートさの極限をいくような場所のすぐ裏手に、とてつもなく古い時代に心の底から引上げられた泥の堆積が残してある。この不徹底でぶかっこうなところが、私たちの暮すこの社会の魅力なのだ。」と中沢先生はママチャリでトキョウへ走りでて、「TOKYO一万年の夢、アースダイバー」を発表している。本に添付されているEarth Diving Mapには石器時代、縄文時代、弥生時代の遺跡に古代横穴墓、古墳、現状墓地と神社が洪積台地と沖積低地に色分けされている。町名・大学・寺の名がそこに重なって書かれる。カイツブリの中沢先生は地中へダイブ!だ。 マア、おすきにしてください。 広島のアースダイビング 広島城の建設、町づくりから400年の時間の経過がいまの街。まだまだお城はあたらしい。太田川の三角州に石器時代はない。“スマートさのすぐ裏手にある古い時代”はこの町には望めない。しかし、大地は大地だ。広島のアースダイブのMAPを探してみた。 2万年前に瀬戸内海は陸地で1万年前ごろは今より100mほど海水面は低く、縄文時代にむけて上昇を続け、6000年前に4mほどいまより高い位置に海水面があがっており、それから現在の海水面になっている。瀬戸内海が陸地の時代、太田川は大分と佐田岬の間から太平洋に流れていた。 最終氷河期の予想水系図の川の流れをえどった黄色のラインは中国地方の河川の方向がある角度でパラレルであることと、直交することを強調したもので、これはリニアメントとよばれるライン。関東平野の印旛沼のリニアメントを書き込んだ図をみてもらおう。 「関東地方ではこの直交する方向性が4000mの深部の岩盤中に存在している。地上に表れるリニアメントは基盤岩盤中の構造的割れ目を反映している。同じ走行のリニアメントは佐渡に現れている。その成因はプレート運動の際に働いた力だろう。 地下水と地形の科学・榧根勇」 このプレート運動を中国地方に置き換えた図はプレートの作用が中央構造線に対して約30°の角度で表出するとある。※日本の地形6 プレート運動が、吉和からはじまり、戸河内で直角に曲がり、可部で再度直角にまがる太田川のコ字の流線への作用を示しており、太田川のリニアメントとして現れている。 広島のカイツブリが潜って掴んだ泥は、とても熱いマグマだった。 もっと細部をみてみよう。福島以降よくでてくる断層帯だが、広島市周辺の断層帯の図がある。可部から南下する太田川の流線を延ばして中国山地へむけるラインより府中大川のラインがストレートにのびて理解しやすい。 地中に潜るつもりで、実は空高く昇ってランドサットの気分になってしまっている。広島城下の設計図が書かれた時代の景色がわかるもの、それも地中のもの、を探してみた。 なんと「広島平野の沖積層下の埋没地形図 広島県史」を発見! 「花崗岩からなる基盤の地形は大芝町から草津をむすぶ線が最も深く、ここから東へむかって次第に浅くなり、白神社の旧顕礁をはじめとする三角州内の丘陵として、基盤が地表に現れるようになる。・・埋没地形 広島県史」 平田屋川、西堂川、これらは基盤にそった“キズ”のようである、埋没谷の存在が予想されている。そして白神社(神社の東の水のない池の同じ基盤であるそうだ)、そして広島城天守閣は基盤の地表への表出にほかならない。 太田川は横川に扇状地を基盤の上につくり、基盤に書き込まれたリニアメントにそって陸地であった瀬戸内海へ流れ込こみ太平洋へつながっていた。これが広島アースダイバーMapです。 ここまでは、述べたことは、もちろん我が妄想である。それは学問的に証明されてないからではない。なぜ広島城の設計図はプレートのパワーにそったセンターラインを持っていたか、そしてそれを知っていたのは?が証明されてないからだ。 それでも浮かんでくる一つの回答がある。それは海の底、中、海面を熟知して、鮎の遡上、メバルの群れ、チヌの溜り場、海老や貝の運動場、などなどを日常に見ている人である。海神の人々である。その人々の長い経験の伝承であるとすれば。 と語るのは、きれいごとのまとめにすぎない。だろうな。 実際に広島城のセンターラインをどうして決めたのだ!その人の情報をだれか教えてくれ!! 予談ですが。府中大川からニヲの海にながれこむリニアメントのラインは比治山の東の基盤をもっとも深くえぐる。大河の地名はこの溝の流れによる、と。すれば6000年前の記憶だ。比治山の貝塚は大河の対岸になる。予想してました。 予談です。
by forumhiroshima
| 2014-03-17 22:56
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