こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

向洋-3 向洋の男

平清盛の天女姫伝説にある赤旗をかかげた山を赤旗山という、情報を発見してしまった。天女姫の疱瘡神社の小山からは西側に住宅が建っていて猿侯川河口が見えない。神社の場所から、すこし西位置にピークがあって、そこに墓所がある。伝承では疱瘡神社の手前のピークが赤旗山とある。墓所のあるそこが赤旗山かな?と。発見してしまった情報の確認に再度向洋へでかけた。
墓所は疱瘡神社への案内のプレートの反対へ入る住宅の中の道から墓所へ出られそうだが、墓へのルートが見つからなくてうろうろ、だった。崖っぷちぎりぎりに細い道が入っていて、そこから墓地にでた。眼下にマツダの工場群が川沿いにならんで、本社ビルが西正面にあった。
この墓所にマツダの創設者・松田重次郎の墓標がある。墓所のもっとも高い場所に御影石の塀で囲まれた重次郎の墓が西をむいてたてられていた。まるで赤旗が立っているような墓標だ。西にひろがるマツダの工場群を見守っているように。
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向洋の対馬出漁は明治中期ごろには対岸の仁保・渕崎の漁民とあわせて200隻の釣船に漁夫1000人が操業していた記録がある。向洋の小さな集落の男どもは皆出張中?。
そのころの明治8年(1875年)8月6日、国内に廃藩置県がおこなわれ西郷隆盛、鹿児島帰郷のころに、松田重次郎は生まれた。

「戸数は百戸ばかり。ここ向洋浦は貧しくさびしい漁村であった。土地は狭く、村人たちは海にでるほかなく、それも瀬戸内海を通り越して、遠く壱岐・対馬のあたりへ、烏賊釣りにでかけたものである。・・松田和吉とヨリの間にひとりの男の子が生まれた。この夫婦はなかなかの子福者で、その子は十二番目の末っ子にあたった。夫婦は“十二郎”と名づけ、役場に届け出た。ところが役場の書記は無造作に“重次郎”ですな、と勘違いして戸籍簿に記入してしまった。 梶山季之“松田重次郎”から」
「重次郎が満三歳のとき、父はコレラでなくなり、長兄松之助をたよりに生計をたててゆかねばならない。・・松田家には学問をさせる余裕はなく、重次郎は学校に行かなかった・・十歳になったとき、母は“対馬に行ってみるかね”と・・四、五日かかって対馬着くと、早速、兄たちの烏賊釣り船に乗せられた。 梶山季之“松田重次郎”から」

明治31年の地図(広島・海田)をのぞくと猿侯川の川幅は広くひろがっている。河口は露霞渡の鼻で狭まって川の流れは潮の干満も加わって、川の流れは留まってしまう。向洋は「灘」で書かれていた。「灘」は流れが淀み、急流がはこんできた土砂をはきだし、海底が浅くなる。日差しが海底にとどけば、そこが海草の繁みになり、海の生物の棲みかになる。しかし、深い船底は航行が難しい。「灘」しい場所。
仁保島と向洋の前は広いラグーンだった。“にほの海”と呼ばれた。それは海水と川の淡水がよどむ汽水湖だ。川でうまれ海へむかった魚が産卵にまた川を登る、そのために汽水があって、そこが川上へは淡水に、また河口から海へは海水に身体を慣らす必要な大切な場所になる。広々とした湖面に比治山と黄金山が映っていて、その魚たちを捕獲する、にほ鳥が浮かんでいただろう、群れをなして。   こんな妄想はどんどん膨らむ。
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関西で正月は鯛だ。焼かれて店頭にならんでいる。広島の正月の祝魚は出世魚のブリだ、刺身だ。このブリが始めて広島に日本海からはこばれたのは、向洋の漁民たちが塩ブリを持ち帰ったことから、といわれる。

太田川の河口での牡蠣の養殖は国内で最も古い歴史がある。江戸時代、徳川家光の時代1630年ごろ(寛永年間)に吉和屋平次郎という者によって仁保島渕崎(仁保1丁目あたり)で、家綱の時代(延宝年間)に草津の小林五郎左衛門によって、中世に貝田と書かれた海田では1660年ごろ(万治年間)に始まっている。築城されて広島に町が生まれていたころに始まっている。向洋の両側をはさむ東西の海の豊な漁獲は、市場がうまれた広島の町人に大歓迎されたことだろう。

がしかし、広島湾東部の段原・東雲は1600年代に海田湾は1700年代に干拓されて海はすっかりせばまってきていた。
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牡蠣やのりの養殖は猿侯川河口の沖にうつされてしまっている。向洋の大原神社の石灯籠を寄進した人々が“かき仲間”と刻まれていた。養殖する海も、もっと遠くになっている。
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境内に「ある老人と海・橋本米松の話」の橋本の名の寄進の玉垣があった。米松さんの子孫だろうか・・?
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大正6年第一次大戦・ロシア革命のころ、大阪でロシアから砲弾の信管を大量受注していた松田重次郎の「松田製作所」を広島に移転する計画がはじまっていた。場所は府中の鹿籠から堀越あたり。50万坪購入しようとしていた。そこは「狐がでたり、兔狩りができたり、敷地の水田に鶴が二羽降りたことで“松田製作所”の移転が吉兆と大喜びして、新聞にその記事が掲載された。梶山季之“松田重次郎”から」
取得した土地は工場用地をさがしていた日本精鋼に譲渡し、その中に松田製作所を設立。府中に移転し昭和2年に社名が東洋工業に換わり、昭和6年に三輪トラックの生産をはじめている。

対馬で昭和25年ごろ、宮本常一にその生涯をはなした橋本米松老人は90歳を越えていると書かれているから1860年ごろの生まれになろうか。昭和26年松田重次郎の東洋工業は昭和天皇・皇后の工場参観がおこなわれた。社長は長男の松田恒次が就任している。
重次郎が居た対馬に米松は二十代後半だっただろう。対馬でおなじ時間をすごしていた。

自分は仁保島の南の楠那町に一年をこえて住んでいる。近くの海には府中町からずーっと宇品までマツダの工場が広がっている。でも楠那にはどこか海の感じがただよっているのだ。幹線道路からコンビニの信号を山へ向うと、正面に立ち広がる森が、海をかこんで海面から反射する光を受けているように深い緑で、その上の山頂にあるTV塔が灯台に思えたりする。
仁保島が島だった記憶は薄れてはいない。
その海への視線を遮る工場群をこの地元の人々はどう、受け入れているのか?と、新参もののうすっぺらい感覚だと思うが、すこし探していた。
宮本常一の視線はいつも海を失った人々を思う感じで、その視線に自分は影響をうけていた。唯一、工場が途切れ、波打ち際のちいさな漁港そばに居られる“テントのうどん屋”の水際のテーブルが、海を感じさせてくれて、とてもいいにおいがあるようで好きだ(というっても、脳神経障害で匂いがうまくとれないのだが、だからいっそうに!)。

松田重次郎は向洋の人々、仁保島のひとびとに、海を取り戻させた?、のかは、橋本米松老人に聞いてみたかった。二人が出会えば、高性能の回転式烏賊乾燥機をマツダがつくることになっていたかもしれないな。

マツダはMazdaと書かれる。「松田重次郎の姓をとった“マツダ“のローマ字での商標登録は個人の名は登録制限にひっかかるという。そこで”光の神 アウラ・マツダ“を借りて”Mazda“という文字にすることに  梶山季之“松田重次郎”から」

「広島は私の郷里だが、広島が松田重太郎を産み、東洋工業というい偉大な会社を産んだ事をわたしは大いに誇りに思っている。また私がこの仕事を引き受けたのは、郷土にたいする愛着心からである。梶山李之S41/1」
梶山李之は広島文理大の出身で、このS41年の所得は小説家で一位であったとの報道を覚えている。流行作家か!などと、後輩が思ったことを想い出した。
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by forumhiroshima | 2014-10-22 14:03
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