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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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音戸開削伝承の証拠

能美島の大原をでて早瀬大橋を渡り、倉橋島へ渡った。

倉橋島は万葉集に長門島と詠まれている。歌に詠まれた時代がすぎ、島の名は倉橋とかわった。倉橋は古代の朝廷の支配地の部民の名称だという。古代に江田島と対岸の矢野を含めて安満郡、能美島と対岸の地御前を含めて海郷と記録されて、このあたりは、飛鳥時代に中央支配の重要な地域であったようだ。瀬戸内海でこのように朝廷直結の地域は多くない。

江田島市は東、西、能美島と江田島と呼ばれた島の集合体だ。倉橋島も北部は音戸島と渡子島に東西に分割して呼ばれ、南部が倉橋島だ。
国々が九州は九つの国の集まりとして、四国も四つの国の集まりと時間の經過があって認識されて全体の島の地名ができてきたのだろうか。それまでは、九州は西海といわれ、四国は南海であったようだ。ぼんやりとした集合地帯の呼び名におもえる。中国・道教の影響による呼び名だといわれる。中央の認識でおおきな地域が区分されて呼び名が発生するのだろう。国土地理院の古代版役所があったにちがいない。
アメリカが合衆国とよばれるのは、Stateを中国語の州と翻訳したのが後に”衆”にかわったからという。明治ごろは、合州国であったという。例としては日本、本州の州が示している。

しかしこの地域のおおきな能美、江田、倉橋の島が部分で呼ばれることが今にのこり、島の全体としての地名を持たないことはなぜだろう。
音戸開削伝承の証拠_d0089494_11151938.jpg

四国の伊予から江田島や能美、倉橋などこの島々一帯を古代支配していたのは、中世の河野氏、その祖先になる古代の越智氏といわれる。越智は8世紀に一字を好字の二字で表す流行があって、もとは「越」であったという。「古代の越智氏のながれをくむ河野家の家伝“予章記”には、当主の越智守興が、朝鮮半島であった白村江の戦い663年に派兵されて中国・唐の捕虜になり抑留されているとき、現地妻を娶ったという。守興の子の玉興が“常に唐船なども着く”海で唐船の主と問答をした。“我ハ唐土越ノ国ノ者也”で話は始まり、昔中国へ渡ってきた伊予の大領守興の子供が私だと話になり、我が弟なり、ということになった。 森 浩一」

倉橋といわれる古代氏族は倉椅、椋橋、椋椅と漢字表記は違うが各地にあって、朝廷が支配した地域の豪族といわれる。これは、平安時代初期につくられた「新撰姓氏録」という古代氏名名鑑の資料から導かれている。このめんどうな史料整理作業をする人がいることが不思議なのだけど。

その倉橋に摂津の椋橋部連氏という一族が記載されていて、物部氏の同族とある。その記述を丹念に調べ上げ、物部氏が大和に入るまでの道筋をしらべたのが、大阪教育大教授であった鳥越 憲三郎で、物部氏一族が卑弥呼の邪馬台国であると発表している。邪馬台国は九州で発生し、東征して大和へ入ったとしている。その移動の過程で、伊予に残留した人々を伊予物部、越智氏という。古代卑弥呼の国の御一行がこの海の沖を航海したと、彼は新しい神話を語っている。そしてその一派・河野氏の古代氏名の越智の「越」の、この列島への拡がりも注目されている。

同志社大学教授の故、森浩一は、「越」は日本海沿岸の福井・石川・新潟・富山と同じ広い地域の人々の暮らしが中国や半島との繋がりを濃くもっている場所だという。「越」をオチか、エツかだが、森は福井県丹生の越智山をオチと読むことなどに関連して、古代の日本海と瀬戸内海の海人たちを連想している。

古代は越智、のちの河野氏の伝承を伝える「予章記」に、中国に抑留された越智守興は、帰国してから、それまで使い捨てされた土器(素焼き土器)から、唐土茶碗を使うようになった。中国・越から越の陶器(釉薬使用の陶器)を使いだしたことで、彼らの磁器輸入と流通への関わりが、いまの我々の日常の磁器食器の使用の習慣の発生だといわれる。国産で奈良三彩が後につくられる要因の一つが河野氏の海上運輸業にかかわっている。

瀬戸内海で暮らし、航海する人々は、海からの展望によって海岸の山や岬、浜などの区別で地名が付けられた。のち陸上がりし、海の暮らしと離れた人々の陸地に情報の地名が優勢になり、そこが島か陸地か、とを区分され、「島」として発見され認識された、となるのだろうか。「島であること」の発見者は、ヒマな旅人、ちょっとおかしい冒険家、支配者の都合で派遣されたお役人か。その発見の經過がこの海域にはなかったから、切れ切れに一つの島が区分されて、いまに続いているのだろうか。海上から判別できる地形の理解さえあれば、それでいい海人たちの領域であることが、いまも続いているからか。

音戸大橋がみえると、そのむこうに新しい車専用橋が空を渡っている。出来たこと、知らなかった。陸の車がなだれ込んでいる。瀬戸を渡る渡船はまだあるのだろうか、と心配になった。すっかり瀬戸内の渡船はすがたを消してしまっているから。海岸に出ると、海面に浮いている船着場が波にゆれていた。
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渡船乗場のそばを松山航路のファリーがとおりすぎた。
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乗場が震えるように大きく揺れている。詰襟の学生服の高校生が、ひとり揺れている乗り場で向う岸を眺めていた。
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フェリーの波がまだ静まらないうちに、海上自衛隊のキャチャーボートが波を切り開いていった。海の匂いがたちのぼってきて、空気をこくしているようだ。

清盛の音戸の瀬戸の開削伝説は、とかく、事実でないといわれる。昭和26年に運輸省による開削工事が行われていて、航路の拡張と堀削-5mがおこなわれた。運輸省のお役人でこの工事関係者の長野正孝は、著作・広島湾発展史で、この工事の困難さから、古代の開削伝承に疑問を投げかけている。
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瀬戸の西にある航海安全の納経の清盛塚に客船がH14年衝突事故をおこした。音戸の瀬戸の北と南の入口に浮き灯台があって、それを目印に航路ができているようだ。清盛塚は瀬戸の一番狭い位置につくられている。清盛はこの難所の航路の要点に塚をいたのだろう。彼らは、とても海に近い人々なのだから。
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渡船を降りると、そこは警固屋の家並みが現れる。
音戸の本土側の三津峰山半島の警固屋の地名は開削伝説からの発生だという。警固屋は開削工事の人夫小屋を食小屋・ケゴヤを置いた場所がのち、毛利氏が音戸の瀬戸の警固の武士をここに置いてから警固屋に変わったという。いまも作業小屋を飯場という。

宮本常一は「日本残酷物語2」禁じられた海“瀬戸をひらく”
「海人が海面近くの岩を割り、そこに穴を掘り、火薬をつめて割る。その岩をロープで括り
引き潮をまって、その岩の真上に舟を置き、丸太を二本舟に並べロープをこの丸太にひっかけ、潮が満ちてくると、舟はしだいに浮き上がる。すると岩が海の底からはなれ釣りあげられる。それをソロリソロリと海の深いところまでもっていって落とす。」と仁保の向洋から対馬に漁にいった橋本米松老人が語った話を残している。向島の集落に橋本の表札をさがしたことがある。その向島の漁師たちが、個人で対馬の入江を開削した話があるほど、ならば、清盛の土木力をもってすれば、できないはずない。
ただ食小屋の人夫を使ったのは清盛の異母弟の平頼盛ではないかと、角川・地名辞典はいっている。

音戸の警固屋で作業した海人たちは、中国系渡来の経歴を匂わす河野氏たちより、もっと古くこの海で漁労生活をしていた、海人の人たち、縄文時代にまで遡れる時間を生きてきた人々だろう。それは、彼らが、その痕跡として今に伝承させる「カラス」が、警固屋の東、高烏山の山頂に八咫烏として鎮座しているからだ。
by forumhiroshima | 2015-04-30 11:20
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