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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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能美島・鹿川集落の山側

先日の江田島市訪問で、鹿川の集落に入り込んで、跳ね返された。急坂もその理由なのだが、込み合った家の間を縫う路地が行き止まりの連続で、それにも疲れてしまった。
でも、路地の途切れたところの民家の小さな庭ごしから見えた、谷の向うの尾根に並ぶ家々のところまで行きたい未練が残っていた。あの尾根にこの集落の始まりの中世からの歴史があるはずなのだ。
その気分が、再度宇品からのフェリーへ向かわせた。

「あの。谷の奥にずっと目をやると、休耕田に植えた若い杉林は途中で終わって、その先は雑木林になっているよね。あの道は谷の田をつくりに行く道で、外に抜ける道じゃないだろうな。外に抜ける道なら途中から尾根筋にのぼって、尾根伝いに続いて、山の鞍部を通って向うに行っているだろう。ここからの視線の角度なら道の通り具合は、木々の間から途切れ途切れでもあらかた見えるだろう。 
尾根伝いに外へ抜ける道ってのは、古いんよ。尾根と言ってもそれほど高い山の尾根じゃない。さらにその上、山の七合目あたりのところは二十くらいにきちんと分割されているよね。あのあたりがもとの共有林で、それを分割したんだろうな。共有の草刈山か茅場だったのかなか。区画の境のあちこちに山桜らしい木が見えるけど、あれ、境木かもしれんよ。 宮本常一」宮本がフィールドワークの時語った景色の読み方を弟子の香月洋一郎が記載している。(景観写真論ノートより)

「鹿川付近の畑は、軍用地の払下げをうけたとき均分されたためか、段畑が、たてに区切られているのが美しかったが、それが昭和41年12月、ヘリコプターで飛んだとき、早く植えたところは畑をミカンのみどりでうずめ、おそいものも、畑の中に点々とみどりが絣模様のようにならんで、イモ・ムギ畑とはちがったはつらつとした美しさをつくりだしていた。
こうして、島が次第にイモ・ムギからミカンにかわりはじめたのである。そしてそのことが、島の生活を大きくかえていくことになるであろうとおもわれる。  宮本常一、私の日本地図4」
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鹿川の周囲はすっかり濃い緑色のミカンに囲まれて、ところどころに黄緑色の竹林がみえる。とても綺麗だ。竹は早春の灰色の雑木林でいち早く緑色を濃くし、タケノコの季節を終えると、黄緑色の葉を落としだしすっかり枯れたように夏の日差に萎れてしまう。季節のうつろいとこの国で呼ばれる言葉を逆展開させてあがなっている。山際に拡がる若草色の繁みは以前には草刈の場だった。“草肥”にされたり、飼われていた牛馬の飼料であった。その役目が終わり、畑もミカン山となって、草場は竹林にかわり、“みどりの絣模様”も消えてしまう。
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鹿川の集落は宮本の残した昭和の写真より増加した多くの民家が段畑だった場所に出来ている。前回の失敗にこりて、今回はGoogle MAPをプリントしを継ぎ接ぎさせて不恰好な地図にして用意してきた。出来るかぎりに路地をウロウロしながら、Google MAPにある郷土資料館を探した。それだけ用意しても、Googleでは目印にしやすい、お寺がわからない。国土地理院の地図とちがってGoogleでは道の幅も忠実に区分されている。石段も記載される。すばらしいのだが、等高線が集落では消えてしまう。高低差がつかみにくい。などブツブツ。
ランドマークになる、でかい寺院の屋根が見つからない。自転車のハンドルの幅ほどの道幅の路地で、通行の邪魔をしてしまったお婆さんに道をきくはめになった。「この道を進んで出会う四つ角を左に、すぐ右の路地を登ると大きな木の後ろがお寺だよ、尾根の向う側だよ、ここから見えん」

みつけたお寺の正面の民家に江田島カヌークラブのカンバンが掲げてある。海までは遠いのだが?。
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丁度お寺さんのご夫婦が山門におられ、探している「郷土資料館」を聞くと、南面している寺門正面向うの尾根の上のこんもりとした繁みを指して、あそこの神社の境内にあるけど閉まっているよ。Googleには神社マークはない。神社も探していた。

そこの広場をぬけて、民家の横をすり抜けると早い!と、お教えてくれたのは、お寺の大黒様だ。このあたり、通り抜けるのに、個人の庭と広場と路地の区別はないようだ。解放区・カルチェラタン!!  たどり着いた神社は鹿川将軍社。
境内の神社改修記念碑 「瀬戸内海に於いて海賊との戦いに武勲をたて武人として祭る」とある。勇ましい!これってこの島に海軍さんの学校があったから、同調したのではないようだ。
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HPに伊予の歴史をブログしているサイト・「湯築城への招待」があって、大変詳しくて、“伊予・河野氏”から派生したといわれる、能美氏、山野井家についても語られている。そこには、「能美の鹿川将軍社浦少し登と墓地あり中央に山野井の大きな墓石・・」と投稿掲載されていた。その墓所と神社・将軍社との関係にひかれて、ウロウロしてきた。

広島・浅野藩の歴史書「芸藩通誌」に、「大原の山野井氏、先祖河野清景、伊予の河野秀清の子、この国に来たり能美島を開き松尾城に居す。十世河野景重 朝鮮役より帰り十一世重久より農間に降り里正となる。鹿川村に同族あり、その祖八太夫、朝鮮役に従い帰朝ののち別家す。その家朝鮮飯器を蔵す。」とあるから、伊予・越智氏、大三島の大山祇神社の神官家、古代の伊予・物部氏と長い経歴を幾重にも語られる人々の痕跡がここにあることになる。神社の急な石段の参道から海が見える。彼等もみた景色が見える。
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神社をでてからの登りは尾根上に伸びていて、寺のあった谷間から少しつづらに神社に登って背後の真道山の南の鞍部へのルートには、広い林道から鹿川貯水池を経由して山越えて、東の海岸の飛渡瀬へ、南の古古江にと走れる。宮本の語る“外へ抜ける道”はこの感じなのだろう。

「田んぼや畑のなかからいきなり立ち上がっているような家は、視線から消して。大体新しくでた分家だろう。それから新しい車道沿いの家も車道こと消して無いものとして見ると、少し前のむらがイメージできる。 宮本常一」
なかなか技がいる宮本流、景観観察方法だが、路地を区切る石垣は、ダイレクトに“すこし前”を感じさせる。
「中国地方だと、宮座のある地域の旧家の石組みはよく見ておけ。(神社維持継承の取り組みの集団で、集落の管理支配組織にもなることが多い、といわれる。鹿川将軍社はここの開拓パイオニアの信仰の中心であろうから、ここに宮座があったかもしれない。土井)石組みそれがそこのひとつの基準になる。石積みの石は、自然石そのままの野面石・ノズライシ、割石、切石となり、もっとも加工されたのが切石ということになる。その組み合わせが歴史でもあり、他との比較資料にもなる。墓地も歴史そのものだ。宮本常一」

路地にお石組みにセメントを差し込んでいる老人のそばに、ベコニアの花壇があった。傾斜地に家を作る、田んぼをつくる、その為に石垣をつく。それが土地も区分の境界になる。それが基準となって、動かせないものとなる。だから残る。時間がそこに溜まる。
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ここ鹿川の傾斜地の石垣に区切られた路地はむき出しの時間の重層、時間のミルフィーユケーキだ。石垣と石垣との間隔が狭くなる場所は、石垣が支えきれる圧力を小さくさせるため。地下水がその下で溜まって、重い土壌が石垣を内側からメリメリと押している場所。この崩壊しやすいところが、辛うじて支えられている場所こそが、パワースポット。微妙なバランスが、人の体に信号を送ってくる場所。寺社や墓地は置かれなかった場所だ。寺社は観光パワースポットとされるが、そこが面白くない訳は、このあたりにあると、思う。石垣はあやうさをせき止めている、とても頼れるヤツでなきゃいけない、ヤツなのだ。
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by forumhiroshima | 2015-06-06 10:32
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