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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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海霧

能美島へフェリーで宇品から三高へ。

島の集落は尾根にあったものが江戸時代の中期、長い戦乱が終わって、新田開発が盛んになり、海岸線へ降りてきたといわれる。それは今から300年ほど前のことになる。今の田舎の田んぼの景色の年齢は300歳。里山のある日本の原風景も新田開発にともなった、尾根と田んぼとの境界に作られた居住地の景色なのだろう。長いこの国の歴史のなかでは、まだ新しい景色に含まれるものかもしれない。

江戸時代の新田開発も古代の居住地開拓も必須な条件は自然の水流の利用だった。
「水田に変えられる沼地、湿地を意味する地形語が一度境を超えると変化している。東日本の谷を示す「ヤチ」は箱根を超えて使用されなくなる。九州で使われる、谷をしめす「ムダ」は東へ進むと、長門では「ウダ」土佐でも「ウダ」京都近くにも「宇多」という語は古くから多く、武蔵と甲斐の一部ではそれがヌタともノタともいう。おれを九州でニタという。開けば田になる湿地をいい、クテともいい鍬の字をあてる。島根では、シノトと呼び、特異である。 柳田国男」
「我々の祖先の農業は当初自然の水流を利用するために好んで傾斜のある山添いを利用し、しかも背後に拠る(立てこもる)所のある最少の盆地を求めた故に、上代の開拓は常に川上にむかって進む傾向をもっていた。それが人多く智巧が進み、のちに平和の保障が得られるようになって、始めて立ち戻って低湿広漠の地を経営することになったので、今日の農地の主要部分をもって目せられるものは、どこへいっても皆300年この方の新田であった。 柳田国男・地名の研究」
新田開発対象地の呼び方が各地で異なっていることが、新田開発好適地を人々が探し始めた時期が新しいことを示していると、柳田が語るところだ。「ウタ」は尾道、向島の歌、「ニタ」は島根の仁多がそうなのだろう。

一方で埋め立てできる海岸や、技術力で困難であった荒野伐採などの開発対象地帯をもたなかった地帯では、いまだに尾根の上部にある集落も残っている。焼山農業地帯だった地名だと云われる、ソラ、ソヤ、ソイ、ソリ、サス、キナを見つけると、尾根中腹に小さな民家の固まりが点在する広い空の下の景色が浮かんでくる。小さな水の流れを囲んで抱きしめるようにつづらに誘導し、ため池も配置して、その間に家々が隣接する。
小さな家々の固まりを、自動車道が何とか路地を拡張して、たどっている。

能美島の西海岸の尾根の中腹をトラバースしてバス道が伸びている。沖美バス通りと自分は呼んでいる。
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小石の野積みの石垣のみかんの畑が山側に続き、海へ邪魔者なしの展望。宮島の北海岸との間の奈佐美瀬戸に昼前なのに霧が流れている。
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気温30度を超すだろうが朝にお天気予報だったが、風が冷たくなってきた。少々寒い。

宮島の神様の使いは鹿になるのだろう。カラスではないようだ。青空色の海面に白い霧が海岸へ向かってきている。バス通りの下の海岸は入鹿の浜と呼ばれていた。鹿川という地名の鹿との連想で気になる。今サンビーチというレジャー施設に代わって、ソテツも植えられてすっかりビーチ気分。ここに入鹿神社が鎮座して、神社裏から湧水が出ている。ビーチが出来る前は砂浜と神社と流れ出る疎水の流れだけの、いかにも神聖な場所だった。海霧がビーチの景色を崇高なものに変えないか?と、帰りが辛い急坂をおりた。

季節外れの海水浴場は、ただそれだけ。誰もいない海、の情緒もながれていない。神社拝殿もベタと油っぽく雑然として、昨夏の喧騒の疲れが漂っている。霧も沖へ流れてしまった。
ふと、鳥居に“山野井 忠八”と彫り込んである。墨も入れてある。ここにも“山野井”ですか。
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由来が掲示してある。祭神はワダツミの神。福岡の海の中道の突端の志賀島、志賀海神社に鎮座する。広島、白島の碇神社にも祀られている。志賀が鹿なのか、志賀海神社には大量の鹿の角が納められている。“太占・フトマニ”骨を焼いての占い用なのか。
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古代の朝廷から任命された海人の統率者集団の安曇族は、7世紀朝鮮半島への出兵の将軍の族だ。出兵を命じた中大兄皇子は瀬戸内海で三か月の滞在中に海民の徴兵をしたという。この徴兵に伊予の越智一族も徴兵されている。
朝鮮半島で敗北したのち、安曇たちは陸上がりしたのでは、と云われる。琵琶湖畔の高島市安曇の開拓者、その西の大津の地名から県名になった滋賀も彼等に由来する。信州の安曇野の名も彼等の移住開拓による。

入鹿浜から、情けなくも、自転車押し上でバス通りへ。通りは、時々軽四トラック、そして郵便屋さんが日曜日のような時間の中を走ってゆく。遠くの海霧が沖で踊り出して宮島の裾をゆっくり隠しだした。

バス通りがサエギル・コス・トウゲの才越峠で二車線の車道に替って終わり、鹿川の交差点にでた。
旧道に入る横のJAの前の銅像がある。プレートに曽根田弥太郎翁とある。
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曽根田の名に記憶があった。HP“山野井家・探索、探訪”に、「祖先は山野井氏よりでて、小字・曽根田の地を受けて現在の地に居住すること15代農家なり。寛永15年(1640年)の地主名簿に記載あり。ある夜井戸に光るもの在り。御神体なり。上の山に神社作り祭る。天将軍社という。」を思い出した。鹿川の開拓者として記録にのこる最初の人々を祖先とする方からの投稿だった。  ボケてないぞ。!

広島藩の歴史書「芸藩通史」に「鹿川村に同族あり。その祖八太夫、朝鮮の役に従い、帰朝ののち別家す。その家、朝鮮飯器を蔵す。」とある。「山野井の系図は曽根田家にあるのでは?曾根田も蔵など解体し、いまでは分かりません。“山野井家・探索、探訪”より抜粋。

ソネは表土の下に岩、礫、砂のあるところ。旧河床なり。との説明もある。河床は地下水が地表に現れた場所のこと。日照りが続いても川は枯れないのは、地下水が流れるからだ。
井戸を掘れば水は入手できるが、山崩れの危険地帯でもある。それがソネという地名の意味。。

旧道から細い路地を抜け、勝善寺の山門の前から将軍社へぬける。神社横から軽四の幅の道路が現れ、空地に新しい墓所にでる。そばの民家の表札を探すけど、表示していない。神社横に自転車を置いて、曽根田の表札を探しながら、道を歩く。

小石を野面に積んだ石垣の角が新しい切石で補修され家が石垣の上におおいかぶさって、、道の反対側の石垣の野面の間に花が咲いている。
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そこに突き出す軒先の瓦屋根は傾いて、鍬などの農具がさびて投げ出されている。

とても懐かしい景色に思えた。納屋の奥に小さな川が流れている。道をもう少し登ると、空地の墨に墓所があった。墓所はその地域でもっとも風通しの良い、災害の少ない、できれば住居を見守ってくれる場所が選ばれた。出雲では墓所を朝にニワトリを離して、トキの声をあげた場所にしたとデンショウされる。朝日のあたる見通しのよい場所が墓所となった証に思える。

見渡せる鹿川の海上とその向うの才越峠の鞍部に海霧が流れ込んでいく。正午前の日差しに白い霧が青い海と空とに際立つ。寛永15年と記録される彼等のここからのスタートは、浅野藩が島嶼部の検地をはじめて、この島の支配者の地位から、浅野藩への納税者に転落した年だ。そうであっても、この曽根田はきっと満足できる、未来への勇気をもたらした土地だったのだろう。ここを本貫として、家名を曽根田としたのだから。
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by forumhiroshima | 2015-06-13 21:13
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