こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

風水都市

広島城施主の毛利輝元は1563-11歳のとき、父隆元を亡くし、家督を継ぐが幼く、祖父毛利元就が後見として差配してきた。18歳のとき元就が1571年に死去する。彼は吉田、郡山城そばに元就の墓所と菩提寺の洞春寺を建設している。


自分が23歳で父を亡くし家業を継いでから、フラフラの人生だったから、18歳の輝元の西国一の武将の家の家督相続の重みの凄さはとても測れない。きっと大変であっただろう、とだけ、おもってしまう。少しだけ身近なのだ。


1589年、城普請の見立、1591年 輝元は、まだ未完であった城へ入城。そして完成1599年。

入城すぐの1592年に吉田・郡山から洞春寺を広瀬神社の位置に移築している。この場所が元就厳島合戦戦勝祈願の己斐旭山神社(己斐松山)と天守閣を結んだラインにある。元就の拝み墓所に思える。天守閣から己斐松山を俯瞰すし、そのまま目線を落とせば、大クスの木の繁る広瀬神社と祖父のある洞春寺が見分けられる。それは、懐かしい気持ちか、すがりたい-なにか、か。


広瀬神社HPにはここに広瀬弁財天社があったとある。城に西の本川河畔に中津宮社(宗像三女神の二女・湍津姫神(たぎつひめのかみ))東の京橋川河畔に厳島神社(市杵島姫神)と宗像の陰が濃い。ここが田心姫神(たごりひめのかみ)であったら、そろい踏みなどと妄想する。毛利氏が戦国屈指の勢力となった合戦の厳島の女神がちりばめてある。ちなみに日本三大弁財天は厳島(宗像)、琵琶湖・竹生島(弁財天)、鎌倉そば・江の島(弁財天)とされている。


宮本常一が尾道沖の百島を歩いた時「墓がいろいろのところにある。畑の中に、ブタ小屋のうしろに、家の軒下に、渚近くに。どうしてこんなところに墓をたてたのか、きいてみると、死者のあったとき、その人の年齢やその年の干支など見合わせて、その方向をきめるのだという。時間があれば僧にもあってくわしく聞いてみればよいのだが、そういうことはしなかった。瀬戸内の島々はずいぶん歩いて見た。そかし墓がこんなに方々にバラバラにあるのもめずらしい。私の日本地図6 昭和44年発刊」


25年ものちに百島に渡って走ってみた。小さな島で何とか海岸線は一周できる。島中央の茶臼山にも登ってみた。注意して見てみたが宮本のいうバラバラな墓は見られなくて、きっと集められて集合墓地になったのだろう。集合では方角は選べない。

ただ猫の多い島の印象が残っている。


「墓所・墳墓・古墳の築造の際に主軸の方向を揃えず、はなはだしいのは隣同士で逆方向になったりしているのは、風水思想にとって築造されたからだと思う。家宅を建てるにも都市を建設するのにも、この道家的な神仙思想からの風水思想を法則としている。 松本清張・日本書紀を読む」


広瀬神社(洞春寺)の位置は掩蔽・エンペイ(occultation):陰に隠れる:になる。日食、月食などの天文学用語 特別な位置関係がそこにある。


「風水は、前もって良い土地(脈により気が集まる場所)を、こまごまとしてわずらわしく複雑なノウハウの蓄積で指定できるというシステムである。中国では伝統的に“術数”とよんできた。また“地理”とも。  風水講義・文春新書488


先日将棋のコンピュターシステム“ボザンナ”の製作者の山本一成さんがTVでの話の中で、「システムのメンテナンス作業は工夫と失敗との連続作業で、うまくいった場合、それができた訳はわからないのだ。結果オーラーなのだ。それはヨーロッパの中世の黒呪術と同じように感じる。」と話されていた。“風水”と“ボザンナ”とは、似ている!。


“上洛”という言葉はなぜか京都に入ることだが、平安京が建設されるとき、京の東半分を中国の都市“洛陽”とよび、よって洛陽に上ることで上洛となった。西半分を“長安”とよんだが、のち西半分、右京は湿地が多く荒廃して忘れられた。地下水脈が移動したともいわれる。中国の都市のコピーは風水思想のコピーになっている。


双ケ丘の南山麓に鎮座する木嶋神社(蚕の社)の森を元糺の森といい、鴨川と高野川の合流地点の下鴨神社そばの鴨河合神社と下鴨神社の境内の森を糺森とよばれる。元糺の森が枯れたのだろうか。今はただの鎮守の森です。この二つの森は朱雀大路を中心線にしてそれぞれ900丈、5里の地点にある。古代の都市計画が浮かび上がってくる(足利 健亮・NHK人間大学)。

が、現在はその中心線の朱雀大路のほとんどは路地になり、大内裏は家並みに沈んでしまって、走ってみても大きな感動はなかった。京都は結構新しいと思ったりした。



直線で構成された区画に構築物をシンメトリーに配置した“平安京内外の計画 (足利健亮・京大元教授)”です。

d0089494_09165532.jpg



1993年台湾からの大阪大学留学生の黄永融氏が京都府立大学で発表した『風水思想における・・・平安京・・・日本古代宮都計画の分析研究』が最初といわれるぐらいあたらしく、風水の研究はただの占いの扱いだったようだ。


黄氏のレポートは読めなかったが、「風水と天皇陵 講談社現代新書・来村多加史」に“東アジア最高の風水の宝地”のページがあった。ほかに学教授などの著作は見つからなかった。


『平安京は理想的な風水の宝地に営まれた都である。堪興家・カンヨカ(風水師)が重視するすべての要素を兼ね備えている。背もたれとなる“大帳”は鞍馬山・貴船山 両脇を抱える“左砂”は比叡山・東山、“右砂”は愛宕山・嵐山、南の“案山”は男山、“水法”は賀茂川・桂川』と書く。まぁよくわからない。決めつけれ、それを飲み込まされる不快感がある。


平清盛時代の平安京の想像図に風水都市京都のいくつかの風水たるところを記入してみた。右京はすでに失われている様子。が、書いている自分はどうしてそこが風水の場所なのか、わかっていない。のだけど。

松本清張先生は「直線で結ぶ方位論を見かけるが、図上の遊戯でしかない。」とおっしゃっていますが。これみてください。遊戯は面白くなくっちゃ。


d0089494_09184463.jpg


都市中央の最北部にまつりごとの場所大内裏を置く。その背景に天の回転の中心、北辰・北極星を頂く。この星を太一とも太極ともいい、また天皇大帝とよばれる(風水講義・中公新書488)。南を向き、まつりごとを発する。指南とされる。それらがデザインされた都市が風水都市といわれる。

船岡山と木津川の向こうにある甘南備山とのラインは東経135.44にあって、平安京の中心軸とされている。京都の水は鞍馬山と貴船山を水源とされていた。飛鳥、藤原京の記憶により、船岡山が耳成山、畝傍山が双ケ丘、天香久山が吉田山に比定され、古代飛鳥に発祥した朝廷を復活させている。


大内裏が消失したのちの京都御所は双ケ丘と吉田山の東西線を踏襲し、明治28年(1895年)に平安遷都1100年記念事業として建設された平安神宮は、京都荒廃のおり、仮御所に刻まれた今朱雀大路をその中心ラインとしている。

風水思想による都建設の企ては、のちの世にも踏襲されたのだろう。



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by forumhiroshima | 2017-06-17 09:31
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