こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

ストリートストーリィ 二葉山・牛田山あたり

ストリート・ストーリー  二葉山・牛田山あたり

「関ヶ原の敗北で一朝にして没落した。幕府によってわずか防長ニ州に閉じ込められ、・・・“城も山陽道は好ましくない”といわれ日本海岸へ追いやられた。・・・持ち高を四分の一に減らされたため、家臣の員数を大量に整理しなければならなかったが、多くの者は無禄でも殿様についてゆくと泣き叫び・・・広島から萩へとつづく街道は、家財道具を運ぶも人のむれで混雑し、・・・どの家臣も、食えぬほどにまで家禄をへらされた。 歴史を紀行する・司馬遼太郎」

広島へ入城してきた福島正則は尾張・清州の20万石、毛利輝元は120万石、その家臣の数の違いもその石高ほどちがっていただろう。福島家家臣数は14766人と詳しく広島市史にあったが、毛利家の家臣数は分からない。毛利が去った城下はひどく殺風景なまばらな街並みではなかったのではないだろうか。寺院や屋敷は解体され運び去られていただろう。

宮本常一が古里・周防大島の実家付近の庄屋で毛利家元家臣で帯刀を許されていた家の老人が、竹光の刀を腰にさして畑で鍬をふっていたと書き残している。広島退城から400年の景色があった。

「江戸時代の武士たちは拝領屋敷というのに住み、諸国の江戸詰めの藩士たちはそれぞれ各藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷などに住んでいた。こうした屋敷は幕府によって与えられたものだからいわば官舎のようなものである。 東京の地霊 鈴木博之

幕府の滅亡とともに、武士たちはその屋敷を出て国元へ帰されたのであり、旗本たちの多くも、将軍が新しく一大名となって住むことになった静岡へと下っていった。

こうして主を失った武家屋敷は明治政府によって没収されてゆく。これが“上地・ジョウチ”である。これらの土地が新しく再配分されてゆくことになるが、それまでそこら中が“原っぱ”であった。 鈴木博之 東京の地霊」

関ケ原ののち、広島城下そこら中が“原っぱ”の地に福島正則は「家中侍町を縮小させ、町人町の占める割合を拡大する方向をとり、二葉山・牛田山の山麓を通っていたルートを城下町に引き入れ東西に貫通させた。図説広島市史」

福島正則は尾張・清州から船で入城している。ここでは軍を陸路で動かせない!とでも先ずおもったのだろうか。毛利氏の水軍たちは防府へ集結して、福島正則の海の制覇の手段はなかった。

「二葉山・牛田山の山麓を通っていたルート」とは?

古代官道は都から長い道のりで西条町、府中町と安芸の国に入る。古代平安以降の国府があったといわれる古代の安芸国の首都・府中町から中山峠越えで戸坂へ抜け、沼田川河畔を上り五日市へ抜けていた。府中町でその官道から分岐して二葉山や牛田へ、つながる道があり毛利築城以前にこの海岸線を支配していた武田氏へ山口から大内氏がこの道で東から侵入している。府中町の武田氏家臣の白井氏支配のための進軍ルートに尾長の尾根を越える大内越と大内の名を残した峠がある。「戦い」「越え」の地名に源義経のヒヨドリ越を連想していた。厳しい登りか?と。

大内越の西側からの登りは 瀬戸内高校を右にすぎて、左にフェンスでかこまれた山根町第二公園の北の三叉路を左にはいる。どこか古道の趣に引き込まれる。進むと三叉路の分岐に、中央の細い路地へ入る。この道は表道のバスやこの峠にある斎場への車の車列を避けられる。「越え」とは言えない緩やかな登り道だ。斎場のある場所は元の旧陸軍演習場だった。

東からの登り中間でフラットになる。ここに池があった。埋め立てられ住宅が建て込んできている。「ここは沼だったのですよ 虫しぐれ」先日のNHK俳句で聞いた歌。そうそう数年前までは草っぱらで、きっと“虫時雨”が聞こえただろう。

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「道」という漢字は敗者の首を掲げ行進し、邪霊を払う場所のことという。「路」は邪霊が払われ清められた場所だという。古代から幹線道路は軍が移動し、支配するためにあった。大内進軍の馬の蹄鉄の音や明治帝国陸軍の軍靴の足音が響いた「ころ」を思う。が、ここの路地には狭い、がかくれんぼの遊びのような興奮があって、うれしい。

大正14年版の地図に大内越の西に東練兵場が広がり、その中央に尾長天満宮の長い参道がみえる。練兵場を別けるような立派なその参道に驚く。二葉山に参道がかかるとそばに谷沿いに破線で示されたルートがある。ルートが尾根を越えると九十九に下る。

今、破線が車道になった道で尾根を越える住宅地をぬけて市民農園の畑にでる。ここに掲げられた標識でこの道が「天神通」と呼ぶことをしった。この市民菜園は菅原道真宿舎地伝承の清水屋敷跡でここの石清水井戸から川向うの縮景園にパイプで水を送ったと説明板がある。小さなポンプがその井戸だとある。ここに古山陽道で通ったと掲示されている。 菅原道真と弘法大師の伝承は古道とどこも結びつく。都の風、新しい文化も道を流れくる。

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この天神通は天神さまには申し訳ないが、走るにはあまり面白くない!。細い急坂の車道を住宅が覆い被る暗さと湿気が体を固くする。尾長から牛田と古集落を結び、府中と祇園という古い中心地に延びる古道が二葉山を割って超えるのは、二葉山の西端の饒津神社の先は猿猴川に洗われて通るには安定していなかったからだろうか。今も饒津神社の東の小道を登るとグラウンドのフェンス横から下りに入り桜土手にでる。川沿いを避ける小さな地元の抜け道の様子だ。

猿猴川はここ饒津神社で分流し、二葉山南山麓に古川という分流をつくっていたといわれる。明治には古川村という集落もあった。広島駅になったあたりになる。二葉山の南山麓の古風景は砂州を示す大須賀、大洲、その上に生える松原などの地名でしか知り得ないのだが、これら川原に関わる地名たちが、その地が埋め立てられ今フラットな地面に変貌したのだと自転車は教えてくる。

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「信長の苦心などは、こんにちの交通条件の上を走っているかぎりは、まことに実感をうしなう。 街道をゆく9」とは播州攻略に苦心した信長に贈られた司馬遼太郎の言葉だが、今の道々にも、どこかに自転車のハンドルから伝わってくる、昔の苦心を見つけることがある。

砂州が広がり芦原であったろう東西3kmは、元寇以来のロシアのアジア進出、外来勢力の襲来の恐怖の時に、海と山に守られ北方から首都から遠くなる穏やかな土地に兵士が集められ、大急ぎで首都からの鉄道が引き込まれ仮の首都となった。

今、高速道路の連結道路トンネルが掘られ、高速鉄道、列車、市電、バスを集結させようとしている。交通の要所とは、大阪梅田がそうであるように、埋立(ウメタ)された場所にうまれるのだろう、と二葉山山麓の歴史の道をながしてみた。大内越の西の取りつきから瀬戸内高校を左にみて江戸期西国街道・大内越通りで愛宕の踏切へむかった。

福島正則の西国街道は、尾長の尾根の西端から砂州に土盛して畷とよばれる直線道としてつくられている。それを府中と牛田とをつなぐ天神道に連結させて城下へ引きこまれた。その直線の人工さが、信号や踏切や新しい幹線道路に分断されていても、ハンドルから伝わってくる。

司馬さんに自転車乗らせたかった、なぁ。福島正則の苦心が路面から伝わってきます。


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by forumhiroshima | 2017-09-22 09:39
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