こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

ストリート・ストーリィ 俺は権現

福島正則の広島は1601年から1619年広島在住とされているが、彼は留守がちだった。「1607年江戸城修築、1611年丹波篠山築城、1612年から名古屋城築城の直接参着、工事督励を勤め、1612年から1616年江戸参勤滞在を余儀なく」と 図説広島市史にはある。

名古屋築城では海からの導入線の堀を開設し、その堀は福島左衛門太夫正則の名から“太夫堀”とよばれている。

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先般のNHKブラタモリ・名古屋で正則さん、見直され来年銅像ができるという。

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その正則は広島では東西に横断する西国街道を導入し、北への雲石(出雲・石見)街道を整備した(広島県史)。広島でも忙しい。浅野藩となっての江戸期1633年に幕府から国々へ巡見使という観察役が派遣され、それによって道が整備。

雲石街道の道幅は7尺の2.12mほど。道は馬と牛と人とが使えればよかった。ちなみに古代飛鳥の西国街道の幅は二十数mという。奈良・平城京の中央の朱雀大路は70m、道じゃない、まるで天安門広場や金日成広場とイメージです。

古代西国街道の痕跡は一番近くて西条町の東・土与丸交差点辺りにその痕跡があるときいて、その気配を嗅ぎに走ったことがある。十数メートルの道幅の痕跡ぐらい匂うだろうと。そこは古西国街道でもあって山中に一里塚の痕跡が残っている。古代街道は直線に建設されたというのだが。交差点東の広い谷間と直線の道路はそれなのだろうか。大変な工事だろう。でも巨大古墳造った時代なのだ。古今、為政者にとって道の建設は最重要事項なのだ。

広島築城の毛利輝元の元城下・吉田―広島のルートは「慶長以後往還土橋通り五竜山南麓下小原往還筋広島より三次へ本海道に相成 高田郡村々由来記」に書かれたのが最初とされている。関ケ原の合戦のころの記録とされている。往還と呼ばれるのはいまの国道とか県道とかのように役所に指定された公用道だという。たしかに江戸期の街道とされたコースがそう呼ばれる。また、各地の御坂とよばれる峠は京へのルート上にあること、とも言われる。古代に税は個人で運んだころがあったという。故郷へ帰れなくなった、イヤ帰りたくなくなった人々が奈良一体に国別に町をつくり、古里の名で今も呼ばれる。故郷へのルートはのちのちまでも記憶されただろう。

正則によって整備されたとされる雲石街道は可部の町で分岐して石見へは西へ南原ダムを登る。登り口に一里塚遺跡が整備されている。出雲へは北の上根峠へむかう。

「村々由来記」にある五竜山はJR甲立駅前からR54へ向かった道路が江の川を渡ったところで、小原の地名がこのあたりにある。JR芸備線とR54が広島をでて初めて出会いそこに江の川がある、という交通の要所だ。東へ世羅台地、西へ高宮との交差点でもある。安芸高田市の古代からの郡名の高田はこのあたり高田原をいう。中世の領主・宍戸氏の名が五竜山ふもとの宍戸神社とのこされていて、領主の屋敷をいう「館・ヤカタ、タチ・タテ」が甲立の地名の由来か、と妄想している。

戦国の道のスタートが土橋とある。安芸府中の町から尾長へ府中大川を渡る橋は少し前まで府中土橋と呼ばれていた。「村々由来記」のルートはR54でなく旧高田郡の交通の要所-甲立へのJR芸備線ルートではないか?との疑問があった。可部の奥の崖を登る上根峠、吉田の入口になる土師ダムからの流れの可愛川と南からの斐川が合流する地点の入江・石原・久保などの氾濫原の地名が思わせる湿原の通行困難さ(ここはR54ほか通過ルートがない。明治政府の木戸孝行充・またの名・桂小五郎の祖先はここに城を築き通行監視と通行料徴収)などが疑問だった。

だが福島正則の雲石街道整備伝承ルートと「村々由来記」ルートとの関係は浅野藩広島入城時の地図を見ていて、「これか!」と気付いた。西国街道から分岐する地点は堺町になるがそばに土橋町がある。そのあたりに地図に堀がみえた。そこを渡る土橋が地名で今にのこっている。

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堺町から街道は寺町をぬけ、天満川は渡し舟での渡りだったという。分岐から渡し場まで直線に延びている。いかにも計画されたルートに見える。道に連なるお寺は正則が武田氏城下の祇園にあった寺や牛田からも移設さしている。直線のルートを地図で伸ばし、北上すると、阿武山の南の双耳峰の権現山山頂へぶつかった。権現の地名はそこら中にころがっている。神も仏も習合して権現と呼ぶ。どこにもある名だが、ここでは道先の案内で道の鎮守の権現さま。ではと、南へと直線を伸ばすと、残念にも舟入南で本川へ落ちた。

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この直線ルートを見ていて、平安京の西の風水といわれる、都の西にわざにおかれたという木嶋大路(現・周山街道)を思い出した。この大路の北の基点の双ケ岡と権現山・阿武山のありようが似ている。

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この権現山に毘沙門天を鎮座させた武田氏の一派、甲斐武田氏が支配していた長野・飯田市の飯田城が広島城築城のころの豊臣時代に、あたらしく城下の都市計画がすすめられた。飯田市美術館の発刊した飯田と京都の風水・四神相応概念図に、飯田城下の中央主軸に権現山がおかれている。この設計者の京都の儒学者・光増右衛門は飯田を「京都にならいて之を正す」といい木嶋大路が西の白虎だといっている。
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そして小京都が誕生している。「小京都」が各地に増産された訳に“風水”があるのかも。福島正則にとっても、無視できなかったし、採用したのがこの雲石街道ではないか。

正則が「直接参着」したという名古屋城はその中心軸を磁石の極北線を採用していて、西に街道が北上している。都市設計に風水は戦国大名のトレンドなのか、などと、おもってしまう。

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正則が整備した西国街道の東は尾長の才蔵寺の才蔵峠からだろう。その道も愛宕明神前から猿猴橋までの直線をもっている。

「芸州福島左衛門太夫正則の家中で、七百石可児才蔵吉良・カジサイゾウヨシナガといえば、太閤存生のころから世に知られた豪族だったが、奇癖があった。この男はしんぞこから自分は人間ではない、と思いこんでいるようであった。山城愛宕の勝軍地蔵が、かりに人間の姿に現じてこの世にあらわれているのが、とりもなおさず可児才蔵である、と信じているらしい。勝軍地蔵とは、愛宕権現ともいい、軍神として諸国の武士から尊崇をうけている仏霊である。「うそではない」と才蔵はいうのだ。「わしは愛宕の勝軍地蔵の縁日である二十四日にしぬるぞ」その予言が証拠だという。愚にもつかない。 司馬遼太郎 “おれは権現”」

「元和5年(1619年)、福島正則の広島藩は些細な落ち度が発端で改易処分となる。その幕府のやり方を理不尽として、可児才蔵は数十名の同士と共に小城に立て籠もって抵抗を始めた。新たに広島藩主となった浅野家は城を攻めるが、石垣を登る兵に煮えたぎる味噌汁を掛けて撃退するなどして降伏しない。ついに浅野家は兵糧攻めを始めるが、ここで才蔵は対抗策を立てた。城山にあった地蔵さんに笹の葉を供え、さらにその上に米と味噌を乗せて祈ると願いが叶うという噂を広めた。多くの者はそれを信じて多くの米と味噌が集まった。これによって兵糧を確保した才蔵らは存分に抵抗を続け、いつの間にか小城から姿をくらましてしまったという。日本伝承大監」

日本伝承大監は解説で、才蔵は1613年に死去、福島正則の改易は1619年と史実と違うとある。この道も権現を守護神としている。

※司馬さんは才蔵が広島城南の猿楽町に屋敷を持っていたと書く。その町で自分は生まれた。コバイイ。

福島の名の川は埋め立てられたが、町名で残っている。「明治39年、もと国守福島正則の三男八助を祀った小祠を同村木村氏の庭内に発見し、村民これを追慕し福島を以って町名としようと願い求め、翌年323日ついに福島町となった。 新広島市史」

「八助は正則の夭折した嫡男の正友か、養子の正之か、ともいわれる。家康の養女が妻の正之は正則から「乱行だ」とされて幽閉、餓死」ウイキペディア。

幽閉・餓死の記述に驚いた。

1619年改易となり信州・川中島へ498千石から45千石まで減転封となったが、ここにも堀をつくり太夫堀の名をのこしている。

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by forumhiroshima | 2017-10-31 09:54
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