こひちろうの独り言 |
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風土記で出雲大河が、いま斐伊川となったのは?
風土記は出雲国の9郡のお役人が調べた情報をまとめたもので、斐伊川は上流から室原川、横田川、温泉川(漆仁川)、斐伊川、出雲大河と記載されてるのは、今と同じで、その土地の名を記載したのだろうが、豊かですばらしいと出雲人が誇った出雲大河って名がなくなってしまってる。 それは古事記では簸川・ヒノカワとよばれていることが原因だと考えている。それほど古事記・日本書紀の出雲神話はおおきな影響を地元へあたえたのだろう。 その斐伊川はもともと斐川で、政府が一字を二字にかえるように命令してからの表現だそうで、ヒカワがもともとの呼び名だそうだ。 その斐伊郷の斐伊神社へ走った。風土記では樋社とあって、二つが記載してある。それを平安時代に合祀してひとつになったと、神社前の新しい表示板にあった。もうひとつの樋社はいまは八本杉とよばれる、その名のとおりの八本の杉がある場所にあったという。 神社すぐ側のJR踏切をこえると、すぐに森がみえた。そこは四角に八本の杉が茂っていた。そこにも表示板がデーンとあった。「スサノオ命はヤマタのオロチ退治後、再び生きかえらないように、八つの頭を埋め、そこに八本の杉を植えた。それがここで、吾頼む人の恵みの杉を植え、八重垣かこみ守る末の世。と歌った」そうだ。風土記の樋社の話は??でもそんあことどうでもいいのだ。でもこの歌へただよな。 オロチからスサノオがとりだした草薙剣の話をしよう。 江戸時代に草薙剣が御神体で見ることあたわず、と名古屋・熱田神宮は決めているのみ、その宮司たちがこっそりと剣をみたことがある。そこには85cmもある銅剣があった。 神話ではオロチからこの剣をとりだしたスサノオは姉のアマテラスに贈った。アマテラスはその孫のニニギノミコトが高天原から降臨するとき、鏡と玉とともにこの剣を与えた。すこし下って10代天皇スジンは剣と鏡を御所からはなれた場所に祭った。その際、コピーを作って御所においておいた。次の11代スイニン天皇のとき、いまの伊勢神宮をつくりそこに祭った。だから玉はコピーと本物の二つは御所にある。 12代ケイコウ天皇のとき、ヤマトタケルが東国へ遠征するとき、伊勢神宮のヤマトヒメはこの剣をヤマトタケルへ渡した。タケルは東国からかえって、伊吹山を征服しようとしたとき、この剣を名古屋のミヤスヒメのところに置き忘れた。そのためかタケルは亡くなって白い鳥になって、飛び去った。のこされた剣は名古屋におかれた。小さなお宮に放置された状態であったようで、38代テンチ天皇のとき、この剣を盗み出して韓国へ逃亡しようとした僧侶がつかまって、剣は御所にもどってきた。40代テンム天皇のとき、剣が御所にあるとタタリがあるとなって、名古屋の熱田神宮へ置かれた。 御所に残ったコぴーの剣は源平の合戦の際、持ち出され、壇ノ浦へしずんでしまった。それから25年がすぎて、コピーの代替として御所におかれた昼御座御剣・ヒノオマシノギョケンが物足りないと伊勢神宮から一本の剣を御所へ献上した。そして今になっている。 草薙剣が銅製であるという。この八本杉から斐伊川を1kmも下った愛宕という小高い丘に固まって集落がある。そこの神社は草薙剣を鍛えたといっている。銅剣だから鋳造だろう!なんて無粋なことはいわないで、銅剣、銅矛、銅鐸を日本一もっている、出雲では85cmの剣をつくるなんぞ、当たり前だい!ってことなんだろうな。
by forumhiroshima
| 2008-01-26 19:13
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