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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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八十神・ヤソカミ

出雲風土記の来次郷・キスキノサトはオオクニヌシが「八十神は青垣山の裏に置かじ」といって、追い払う時に、この処にキスき坐しき。故、来次という。という記述がある。

キスキは追いつくという意味と校正に注がある。青垣山は森にかこまれた山とでも意味するのか、久野川をさかのぼって、北に広がる宇谷から佐世、西阿用あたりだという。古事記ではオオクニヌシは八十神にいじめられる。そんな連中は、どんなヤツなのかと、思ってしまって、走り出した。

わかる訳はない行為なんだとは、わかってるが、「過去のどこかで、迷い子なってる」って歌謡曲の歌詞のように、ふと、迷い子になった過去の八十神たちの痕跡だと、勝手におもえる、迷い子にであえたような場所に迷いこんだりして、うなずいたりできることがあったりする。

無鉄砲な試みに、今回、、ひとつ手がかりがあった。

風土記には村という地名がざっと7箇所ある。この時代の行政単位は郷と里(どちらもサト)だけで、村は使用されないのだそうで、でも、たとえば紫香楽京、長岡京、平安京という首都がおかれた場所は、紫香楽村、長岡村、宇太村であったという。
考古学者の森浩一さんは、村は行政区分をこえた地域の、それも渡来の人々や蝦夷の人々が居住した場所を指しているのだは?といっている。別の人種の居住地って感覚なんだろうか。

風土記の村の記述は、斐伊川が平野にでるところの河口付近と、神戸川の中流域と、そして木次の町から北東にあった。それも、引沼村・ヒキヌ、辛谷村・ヒノタニ、比比理村・ヒヒリとヒがつく。佐世に蝦夷の人々が居住した痕跡だという別所も、それは風土記の書かれた時代からのちのことなんだけど、出雲にたくさんの蝦夷のひとたちがいて、朝廷はその人々を大切にしていたということも日本書紀にはあって、彼らが八十神たちってことでもないようだけど、この蝦夷の人たちは、防人という海岸の警護ではなくて、どうも製鉄の関係者でありそうだという。

そんなことを考えながら製鉄の古くの中心地であったという久野で、風土記の編者の名、発見でびっくりした。その神社は鎌倉神社。そこに由来が書かれていた。武御名方大神を祀るとあった。そう、オオクニヌシの息子さん。その後にこの神を祭るものが、吾勝金山辺兄彦・アカツカナヤマベエヒコノミコト。この子孫五代目が佐世からここにやってきたとあった。もしかして、別所にいた人々??

金山彦とあって、ウーン。乏しい知識でもこの神様はイザナミが火の神、カグツチを生もうとしたとき、熱にうなされて嘔吐した。それが神となって金山彦になった。ここまでなら、製鉄が炎の芸術・だって木と土と火から素手で鉄をつくる人々の神様なんだから。

イザナミはとうとう熱で黄泉の国へいってしまう。怒った主人のイザナギが生まれたカグツチを刀で切断する。剣から滴り落ちる血がミカノハヤヒという神様になって、その息子が武ミカヅチ命。武ミカズチはオオクニヌシに国譲りをせまった神。ミカズチとミナカタはあらそって、ミナカタは諏訪へのがれた。そのミナカタが故郷に里帰りして鎌倉神社(諏訪神社でなくて、ってこともおもしろい)となったが、その神主はミカズチのひいじいさんの末裔ってことなんだ。

どうしてこんな面白いことがおきるのだろうか?過去のどこかで迷い子になった、なにかがここに、現れてきた。

集落から出雲のまだ奥へと続く道は積雪で通行止め。迷い子さがしは、どうも春の雪解けまで待たなければいけないようだ。
八十神・ヤソカミ_d0089494_17471364.jpg

by forumhiroshima | 2008-02-05 17:53
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