出雲風土記の神社を回り続けた。小さな谷や尾根でひそやかに、風土記の神々とであってきた。
そのうちこの国を連続して、通して通過して、あの谷に鎮座された神、あの尾根におられた神、その神を祭ってきた集落をつきぬけたくなった。
出雲はきっと古代にここに命をはぐくんだ、その有り様を、たとえその住人は移動していたとしても、今に痕跡を残して、残す努力を積み重ねて、いつまでも変わらないよう、シラーっとそしらぬ顔で集落がつづいていたとおもった。田畑で豊かな村、鉄をうみだした集落、古代入植するに焼畑を手段として、畑を切り開いた人々。訪れる集落それぞれが、ほのかに、そんな匂いをのこしている。
自転車は上代からの岩への信仰にであったとおもったら、古墳の上に鎮座するお宮に行き着くと、そばに廃校が子供たちの保育園であったり、おや、似合わないとよけいなお世話の感覚のプレハブの新しい団地へでくわす。
さまざまな時間のフィルターをつぎつぎにつきぬけてて自転車は走る。これを見逃さないゾ!と感性の受容器を総動員。これが楽しくなくて、なにがあるのだ。
そうして出雲はこの時間の重なりが、はてしなく大きい。風土記の記述が新しいのでは?なんて銅鐸の丘では、銅剣の谷ではおもわせる。神話のスサノオはいまも十二分にこの国の主人公。
島根半島を海の向こうから引きよせた、斐伊川・神戸川の洪水や地球温暖化、寒冷化の国引きの神話にいたっては縄文時代以前からの記憶だという。
三次を早朝にスタート。出雲今市駅を終点に古出雲街道を走る。
自転車はつくずく牛馬と同じだとおもう。細い橋は渡れない。暗いトンネルもだめ。ガソリンがなくなって、牛馬に頼ろうって、アサハカ。今の車道じゃだめなんだ。なんてかってに思い込んで、旧道ざんまいのコースです。
昼過ぎに頓原の町へ入った。コンビニなんてないのだけど、旧道なんて、商店も、もちろんこのご時勢では開いてない。帰りはバスの予定で荷物はない。弁当も持ってない。ただ、朝はたくさんいれておいたのだけど。頓原では、飯は無理と。
集落の路地をぐるぐる。往年の賑わいは佇まいにあふれていても、・・・。が、ちいさな路地で営業中のちいさな札!!!。当たり、大当たり。きれいでうまくて親切で、お水が冷たい。今日はハイオク入れてしまった。あと90km。大丈夫!???