こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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8.6 2017

原爆ドームと慰霊碑のラインを地図に落としてみた。広島城築城のおける町割りのライン、天守閣と阿武山の連結線に平行に北へ延びると、阿武山に至ることに気づいた。天守閣からのラインは国土地理院1/25000の示す山頂よりわずかに北東へずれている。ドームからのラインは正に山頂に到達する。阿武山のピークの400年前は違っているかもしれない。だからこの二つのラインはパラレルにある。と決める。つまり、天守閣の建築の南北-東西の設計線は平和記念公園の慰霊碑、資料館及び東館、会議場とまったくパラレルだということになる。

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この結果にはすこし引いてしまった。そして笑った。参った。ありえん。いや、まさに広島を背負っているラインだ!(極北をいだかない基本ラインがあっても、いいか!。と妥協したくなる)丹下健三が認定した基軸ラインなのだから、と。

丹下神が降臨する。すると公園の道路が気になりだす。

ドームのラインの基点の資料館ピロティから、左右へ二本のラインが中心線に対象に北上する。ラインは慰霊碑よこから道となって現れ、左は相生橋の連結部に届かず手前の道路に。右は元安橋の西端に届かず、手前の川岸道に合流する。道路としては、すこしおかしいと思う。設計としては、道は橋へ直接連結する、その合理性が見られない。何か?ある。この設計では人々は必ず直接に連結する踏み跡をつくろうとする。

左のラインは南北に設計されていて、東経132.4522の子午線となっている。右のラインが広島城の陸軍大本営跡へ向かっている。

ドーム中心軸ラインに左右対称に引かれたラインが一つは南北の子午線で、一つは明治の広島の中核へと通る。その起点は資料館の中心にある。

設計に子午線、ドーム、広島城を左右対称にした意図ではできない。基点を通る子午線と原爆ドームラインはたやすく決められる。が、原爆ドームのライン中心に子午線と左右対称に引かれるラインが広島城の中心点に通るのは偶然でしかない。三つの要素は公園の設計以前にある要素だからだ。なのに一つの秩序で完成させられている。宇宙の調和を形成している。無理なのにできてしまう。奇跡とよぼうか。

資料館のピロティから慰霊碑に向かって狭まる台形に彫り込まれた芝生が美しい広場は小さな傾斜をもって慰霊碑へのまるで瀬戸内のガンギのような石段にむかって沈んでゆく。まるで海で沐浴潔斎しているようだ。その思いを慰霊碑を囲む水が強調する。

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慰霊碑の向こうのドームとの間に、厳島の弥山の消えず火をうつした炎が立ち上がりドームを陽炎のなかに揺らす。鈴木博之のいう厳島が再現される。


今資料館は工事の白いフェンスにかこまれて、そのピロティの眺望は遮られている。

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慰霊碑前の台形の広場の東西の道を地図上で南方向へ伸ばしてみた。

東は広島湾に円錐形に浮かぶ似島へ、西は江波山の元気象台へ到達する。

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1959年江波山の東の皿山のあった火薬庫の爆発事故があった。中学生だった。すぐに相生橋へ走った。まだ木々もまばらな平和公園の向こうに黒煙が上がっていた。そのころ広島の町は見通し良かった。

黒煙の景色を思い出して、丹下健三が公園設計の着想にこの地に立って眺めまわした風景に見通しできる山々へ、それもドーム中心線に左右対称に南下するラインが現れたのだろうか。


1949年(昭和24年)に制定された平和都市建設法による平和記念公園のエリアに原爆ドームは入っていなかった。


そのころ原爆ドームは台風が襲来の度ごとに、特に南のラセン階段あたりが崩れ落ちていた。子供たちの遊び場だったドームを囲んでいた、さびて切れている鉄条網の柵を撤去し鉄製フェンスが設置されたのは1960年代の初頭ではなかったか。それでも子供たちはフェンスをよじ登っていた。そののちの1966年に市議会が決議し原爆ドーム保全の寄付金募集がはじまった。被爆の記憶のドームの保存か否か、広島の人々の思いは揺れていたのだろう。


広島平和記念公園完成式のあった1954年昭和30年から11年目の保全決定。丹下健三の設計基本線のポイントの原爆ドームはすこしずつ崩れながら、それでも爆風に耐えたように被爆から21年を耐えていたことになる。丹下健三もドーム保全決定まで耐えていたのだろうか。イヤ、ドームは“ヒロシマ”を背負って立ち尽くすと予見していたのだろう。あの宇宙秩序を呼び込む北上するVライン、山を走る龍の風水の知恵を思い起こす南下する∧ライン、この奇跡とも思える着想は、のち、宮島とセットされた世界遺産として実現した、と美しく語るほかナイのだろうな。


ふと、丹下健三はドームが失われても、平和記念公園の基軸ラインは原爆ドームを人々にいつでも再現させるだろうと、確信していたのかもしれない、と思いだした。うしなわれたものほど、大きいのだと。


※この基軸ラインを平和道りとの直角になる交差で求めたといわれる。が米軍の原爆投下直前のS45.7の航空写真ではまだ百メートル道路とよばれた軍による強制立退きで計画された平和大道の基本線は現れてはいない。この道は空襲に際の防火帯として考えられたものだという。軍は平和道路などつくらない。防火効果のある広さはいるが、直線として管理するほどではないのだから。帯であって道ではない。いまも幾分曲線をもっていて、広島城下基軸ライン(大手通り)に直角に交差してはいない。自転車で東から西の山を目印に走ってみればわかる。

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この国は、中心の広場から同心円にまた放射線状に道が広がる町はお好きでないようだ。この円心状の道は町を囲み、放射状の道はその囲みの外の異界・周縁に切り込む。町は城壁で内向きに固定される。このような壁の区分は造られてすぐに伏見城へ解体された京都・聚楽第の土手のほかまだ見ていない。

部屋を障子やドアで区分していても開けば一体化する生活のように、いくつもの多様なものがつらなって、それらの一つ一つの障子をあけて尋ねるように、道は開放されて家と道との区別を失い“庭”となってしまう。路地は花壇となる。

この国の旅の一つに三十三か所、八十八か所、百景、と個別だが連なりとして括ってしまう事がある。東海道五十三次のように「次ぎながら」旅は直線状につらなっている。聖地の巡礼が輪になって連結する旅となるのは、そこが辺地・ヘチ・遍路、この世と冥界との境界を回ることのためで、それゆえ無限に連結させる。地の果て“偏、辺”であるから直線は境界を越えられず、戻されるから連結するのだと、認識するからだろう。死をもってしか越えられない。円は空である。

広島と長崎の平和記念公園は平和都市建設法によって、その成立はつながっている、が個別である。この間を走ればそれは平和行進や巡礼とよばれるだろう。その旅は連なる町の障子を一つ一つ開きながら訪ねるものにしたい。その道は車に占有されず、人の道路であった江戸期山陽道や小倉からの長崎街道の古道を走るものになるほかないだろう。そこには、きっとその町の障子があるのだから。その旅の中で広島の基軸と尋ねた町の基軸との違いに広島を自分の中に再現出来るかもしれない。

201786の朝の公園は早朝から人の群れで埋まっていた。皆カジュアルな軽装で集まってくる。いつも、この日に、ここに、平和への一体感が生まれる。だれも平和を守ろうとしている。公園の木陰に置かれたTVのモニターからの黒い正装の声はいつものようにその人々の遥かに上をすべってきえる。ボーイスカウトの少年と、彼が配る片手いっぱいの献花用の束が朝日の中で輝いて、アットの間に人々に渡され、受け取る外国人たちに、仏たちのような微笑が口元にこぼれた。

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広島城天守閣の位置を見立てしたという己斐旭山と尾長山とのラインの中央公園に一つの慰霊碑がある。8.6早朝に訪れた。

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「爆心地から、南に向かってまっすぐ二里の海上にある島にいた挺身隊の少女が、放射能の閃光の一瞬後、ガラスの破片で片方の乳房をえぐり取られたという話を作品の中に描こうとしても、容易には描き得ない。」原爆にかかわる作品を残した大田洋子の碑だ。

悲惨さの繰り返しはもうたくさんだ!との自分の思いに、だからもっと伝えなきゃいけないのよ!との大田の声がかぶってくる。だから、あなたは・・・、ドームは立ちつくしているのよ。

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by forumhiroshima | 2017-08-06 17:29

聖地創造

2世紀ごろに大陸からもたらされた鏡に刻まれた銘文は、紀元前2世紀ごろに成立した「淮南子」から引用されたものが多いという。(鏡が語る古代史・岡村 秀典)

「円なる天を頭に戴き、方なる地を踏み、正しく東西南北の方向を体すれば、内は身を治め、外には人を得、天下に号令してみなその風に従わせることができる。淮南子・本経訓」の

意味が銘文される。卑弥呼由来の渡来の百の鏡にもこの言葉の意味が刻まれている。

この国の古代からの統治者たちが従った、極北方位への理解が広島城築城における町割りの都市設計にそぐわないこと。それ故に、この町に正しく東西する、春分・秋分の冥土信仰が土地に刻まれてないこと。が不思議だった。西国の王者の毛利輝元が望み、下って明治の緊急であったとしても首都とされたこの町に、・・・である。

「広島というところは、死んだ人のゆくところであったようだ。人が死ぬと“あの爺さんは広島へたばこを買いにいったげな”と噂するものがあった。広島という土地は一つの幻想の世界だったのである。宮本常一・私の日本地図」宮本の故郷・周防大島での話。

「広島へ煙草買ひに行くというのは、伊予の内海側では“死ぬ”という代わりに使われる忌み言葉になっている 柳田国男・夏山雑談」

伊予の内海側の町・今治の旧制中学を1930年に卒業し、広島の旧制高校・広島高校(現広島大学)の図書館で閲覧した海外建築雑誌に掲載されていた、ル・コルビュジェに傾倒し建築家を志望すると決めた青年がいた。東京帝国大学の工学部建築学科大学院を1946年卒業ののち、平和記念都市建設法の1949年成立に際して行われた広島平和記念公園設計コンペでル・コルビュジェが提唱したピロティ(独立柱)で二階に持ち上げられた広島平和記念資料館の設計などに評価をうけ、入賞し1954年にその設計による公園は完成した。

(ドームの北側そばに暮らしていて、小学二年生のころの1954年、公園の北の位置に大きな木製の卒塔婆なのか、建ててあり、そこはいつも線香の煙が立ち昇っている場所だった。たしか、そのころの8/6の慰霊祭の会場だった。慈仙寺という寺があった場所で、いまは無縁の遺骨が収められた原爆供養塔になった。細い立木がバラバラと植えられている周囲の町並みとは別格の景色の公園だった。むき出しのコンクリート壁の建物はどこか廃墟におもえた。)

このコンペの作品は1951年のNO8近代建築国際会議・CIAMで発表され、日本建築学会の戦後世界へのデビュー作品となり、戦後の日本建築設計の世界への出発点となった。(鈴木博之)

こう紹介する鈴木博之は1945年生まれ、東大建築科の教授(2014年歿)。かれの著作・日本の地霊・聖地創造で「丹下健三の広島」と題して“彼の平和記念公園”を紹介している。

「平和記念公園の中心である原爆慰霊碑は、HPシェルという数学的な曲線でできている。HPシェルとは放物線を双曲線に沿って移動してできるカーブである。・・・考えてみればこうしたかたちの碑というのも変なものである。屋根のようなかたちを採用しているから中空のトンネル型をしている。向こう側にぬけるような記念碑というのは、あまり例がない。意図的にこうしたかたちを選んだとしか考えられない形態なのだ。・・・祈りのために集まった人々は、このHPシェルのトンネルを通してその先に建っている原爆ドームを見ることになる。すべての焦点は原爆ドームなのであり、そこに向かって計画は周到に練り上げられている。 日本の地霊・聖地創造」

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「広島平和記念公園の計画は原爆ドームをすべての中心に置き、この一種聖性を帯びた廃墟に捧げられた場所を造り出すための計画なのである。日本の地霊・聖地創造」

※ドームの聖性(原爆ドームとよばれる廃墟は、鉄骨の骨組みの上に銅板で葺かれたドームが原爆の熱線で溶け、鉄骨がむき出しになり、続いて襲った原爆の衝撃波は、隙間だらけになった鉄骨の間を通り抜けて、下の床や窓を吹き飛ばした。この理由で衝撃波に破壊され跡かたなく消え去ることを免れた)この存在の奇跡を“聖性”といっている。

「原爆ドームをピロティの反対側からも印象的に眺められるようにし、原爆ドームと慰霊碑を結ぶ軸線を建物に遮られることなく延長させ、通過させる。こうした場所のデザインは、ただちに厳島神社の境内配置を想起させる。日本の地霊・聖地創造」

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「神社が島を避けて海上に設けられたため、その構成は地形によって制約されることがなく、じつに整然としたものになった。基本的に左右対称の構成をもつ建築物配置がなされ、中央に海上の鳥居から神の山にいたる軸線がまっすぐに通る

こうした構成が広島平和記念公園の計画に影を落としていることは明らかであろう。原爆ドームから慰霊碑を経て平和記念資料館のピロティの間を貫いて延びる軸線は、厳島神社の弥山から本殿を経て海中の鳥居にいたる一本の軸線とまったく同じ性格を秘めているからである。厳島神社の本殿が弥山を背負い、さらに厳島全体を背負っているのと同様に、慰霊碑は原爆ドームを背負い そのドームはさらに広島の町全体を負っているのである。日本の地霊・聖地創造」「慰霊碑のモニュメントは水を張った掘割のようなものによって囲われている。・・・厳島神社の大鳥居が海上に立てられていることを想起させるものでもあるのだ。日本の地霊・聖地創造」


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by forumhiroshima | 2017-08-05 18:12

広島・阿武山の貴船の神

広島城下の町の風水による設計基本ラインは太田川の河畔の山・阿武山を基点としている。(曽我 とも子)

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広島城天守閣に登ってみた。最上階の北方面の景色の写真が掲げてあった。

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天守閣から阿武山への設計基本ラインが河畔に出る場所を地図で確認すると北大橋東詰。ここなら阿武山が展望できる。ここへ走った。広い河の岸辺の向こうに円錐形に天守閣の写真と同じ阿武山あった。GoogleMap、地理院地図よりも裸眼の景色は、なにかに誘ってくれる。阿武山、この山になにか特別な何かがある、 。

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阿武山の南の尾根のピーク・権現山山麓に武田信玄の守護神・毘沙門天が祀られている。銀山城の武田氏の鬼門の神としても置かれたという。甲斐の武田には金山衆とよばれる山師集団があった。“風林火山”の騎馬軍団を支えたのが「武田の金山」という。軍隊には金がかかる。甲斐の武田にはそのための特別な技術者集団・金山衆とよばれる山師たちがいた。江戸幕府は彼らを佐渡金山、石見銀山開発に携わせている。採掘量は飛躍的に増大した。(山師 松本清張)。

ここ阿武山には金ならぬ銅鉱山があった。毘沙門天が鎮座するもう一つの訳か?しれない。

阿武山頂には貴船神社が鎮座している。京都、三原、広島と都市設計の基本ライン上に貴船神が現れる。阿武山の貴船神社は巨石を組んでつくられた祠で、古墳の石棺を思わせる。

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阿武山の土石流災害のあと、祠の上部の巨石が落ちていることが知られた。20148月の土石流災害の雨量の凄さは8月に入って災害発生の18日まで平年の3倍といわれることが、実態の恐ろしさを写真で実感できる。(以前の祠はGoogleMapでみられるが、落ちた写真はMy Fabarite HobbyさんのHPにあった。)

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「鳴」の地名が阿武山の北の山麓、河畔の太田川漁協のレンガの事務所の対岸にある。そこそばの谷を登った頂上のピークの小山が犬戻鳴山と呼ばれる。この谷が20148月に大崩落をおこした。ほかに66か所、全山の谷が崩壊している。犬戻鳴山の崩壊現場のピークから阿武山頂にかけて鉱山採掘が行われた廃坑道が残されている。この災害の調査報告に、これらの廃坑にたまった水を豪雨がさらに押し込んで、地下水を圧迫して谷斜面に噴出させ崩壊の発生原因の引き金であったと報告している。

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犬戻の名は、急坂をいう「戻り」(出雲に駒戻峠がある)。「鳴」は、貴船神社の祭神は高龗神・タカオカミはカミナリ様だ。鳴神もカミナリ様。和歌山の紀ノ川河口にこの名がある。「八木」には地名は海人の匂いがあるという。

では「犬」とは?

空海の高野山に道場開設を許した土地神の狩場明神は白黒の犬を連れてあらわれている。山伏たちは鉱山師でもある。黄銅鉱の結晶に銅牙石があって、小さな双六のサイコロに似ている。この石を子犬丸とも呼び、武石ともいう。(谷川健一)。

「犬とは、鉄を求めて山野を跋渉する一群の人々の呼称であった。つまり製鉄の部民にほかならない。 真弓常忠 古代の鉄と神々」

極めつけは、“花咲か爺さん”の裏の畑のポチが発見した小判の話がある。

この山に大蛇伝承がある。龍がまるで狂ったように暴れた山に、大蛇が潜んでいると人々は昔から話していた。

大蛇が人里に下り害を与える。その大蛇を祇園・銀山城の武田氏の家臣、香川勝男が退治した。切り刻まれた頭が山頂に胴体は中腹に尾っぽは地元の池に葬られた。山頂の貴船神社の岩の祠のような祠が中腹にもあった。今も池は残されている。「蛇王池物語」といわれる1。土石流の災害を、“谷抜け”とか“蛇抜け”という。

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龍がいた伝承はお城の南の白神神社横の愛宕池にもあった。

自分は神社の近くの袋町小学校へ通っていた。原爆ドームの北にあった家からの通学路は本通り商店街を抜けていたので、白神社へは、神社のお祭りにやってくる芝居小屋の昼間の建設作業を見に行ったりするぐらいで、あまり近寄らなかった。というのは、ここの池に蛇がいると、子供たちは噂していて、軟弱な自分には怖い処だった。

今、空になっている池のそばに教育委員会の説明板には、池の岩に彫られた龍が満潮時に遊泳とある。この彫られた龍を探したが、見つけてはいない。ちょっと怖いからか。

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「聚水」水の流れが集まれば、そこで龍の勢いがしっかり止まり、気がもれることはない。また潮水の来し方により波頭が高く白くなるのは龍勢がつよい (風水講義 三浦圀雄)

阿武山は太田川、根の谷川、三篠川を集めとどめる「聚水」の場所。白神社は城下建設時の渚だった。岩に白い紙をはって海難事故を防ぐという神社の所在が、霧の海ではどうなん?って思ってました。

太田川河口への築城の“安心・安全”に“龍”を機嫌よくすごして頂く、主人公の位置に置くということで、阿武山-天守閣を基本線としたのだろうか。


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by forumhiroshima | 2017-07-24 14:25

貴船の神も、鍛冶の神も

「宮廷を中心とした祖先の一族がこの土地に住みつく前から、この土地すんでいたもの、また後に渡ってきたものであろう、すなわち、海部であった。彼らは蕃人(先住民)で、祖先(大和人)たちと非常に関係が深かった。宮廷と隣接して生活していたからである。 折口信夫 」

「海部は、安曇連の支配のもとで朝廷に海産物を貢能した集団で、・・・ 河岡武春 海の民」

“貢”はみつぎで三原の土地の郡名、御調になる。御調の名は朝廷に奉仕した古代の人たちにつながる。

自転車で訪れた地に、ここに最初に現れたパイオニアの人々の痕跡を探がそうとする。自分の足でここまでたどってきたという高揚感を、きっとパオイオニアたちに重ねて「大変だったね」と彼らにも、そして自分にも語り掛けるナルシストでしかないのだろうが。精神科医は“ナルシズム”をパーソナリティー障害と呼ぶらしい。ホット、イ、て。


三原の海に「浮鯛妙」という古文書を持ち歩く漁民らがいた。その古文書は、八幡宮の祭神・神功皇后がこの海を通過中に多くの鯛が船そばに寄ってきて、そこへ皇后が酒を注ぐと鯛は酔って浮いてしまった。その魚を漁民が網で上げて献上した。皇后は喜ばれて“この浦の海人に永く日本中の漁場を許す”と文書にして下され古代から伝えられた「浮鯛妙」。国の境を超えられる通行手形を彼らはいつも船に置いていた。瀬戸内海ばかりか、長崎・大分・対馬まで枝村をつくった。そんな彼ら自身の出目は紀伊の国と伝承している(河岡武春 海の民)。

奈良時代末期ここ御調八幡宮そばに流された和気広虫姫が斎戒沐浴した清流の源流の谷を詰めて龍王山へ登るコースは、中国自然歩道として整備されている。

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このルートに御調八幡宮の奥宮として貴船神社がある。あの京都の水を差配する神、風水の神がここに鎮座している。
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よしだっち.com HPにその写真が掲載されている。筆影山遠望でしっかり見えている写真もある。

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貴船神社は木船とか紀船と書く神社もある。この神社に最も強い印象があったのは、九州の豊前から豊後・宇佐の中津平野でだった。田園に多数点在する小さいが立派なとても古びた本殿の神社の多くに貴船の神額が掲げられていた。行くとこ、ゆくとこが“貴船”さん、だった。


古代に西九州からの租税を積んだ船はいったん瀬戸内海を西へ向かい、大宰府にあつめられた租税とも合わせて瀬戸内海を東進し、飛鳥の朝廷へ紀ノ川をさかのぼって運ばれた。三原の市街地の東端の糸崎神社あたりが古代の重要な港であった長井の浦があった。海人たちが古く集う港だった。


古代の摂津・川尻湊(尼崎)に貴船の神がここに上陸したという貴布禰神社が二つある。第二阪神国道高架下のほこりっぽい分家とその北の旧市街の民家の間に沈んで建っている本家。分家の社殿のほうが立派でお殿様が建てたとあった。


貴船(貴布禰)神は豊前から瀬戸内海を東へここにいったん上陸。和気清麻呂が摂津国の長官時代、長岡京遷都に際して開削した神崎川(三国川)を上ったという。のち京都・鴨川をのぼり鞍馬山の西、貴船山の東の谷に鎮座した。京・貴船神社の神は“黄船”に乗ってきたと由緒にある。神を運んだ海人たちは、紀の人だったろうか。貴船の神は船に祭る船玉の神にもなる。


瀬戸内海の古代航路は本州沿岸よりの北航路と四国沿岸の南航路があった。二つの航路は周防の祝島のある熊毛浦で合流する。ここから西の航路には「島が少なく、逆風漲浪に遭遇する。・・・紀氏たちは周防・玖珂、佐波と豊前・上毛、下毛に濃く分布する。 古代政治研究・岸俊男」・・・だから中津平野の貴船神社群なのか?ただ周防は賀茂社が多い様子。

歴史はまあ、いろいろあるし・・・。と、シまらないな。


備後・府中からほぼ直線に西へ。御調八幡から、急坂を下ると現れる仏通寺(今も若い修行僧が掃除している)に出会う。吉備台地の西端を下り終えた沼田川河畔の本郷へと古代西国道ルートが走っている(西国道は西の高坂パーキンエリアから下るともいう)。この西国とは九州のこと、鎮西・大宰府への道。本郷の町で沼田川にでる。この辺りを舟木という。小早川氏の山城が新旧小高い山にある。小早川在城のころは海岸線だという。のち小早川氏はここをでて、三原城にうつる。

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「 クスというのは“奇し・クシ”からきたことばだろう。この常緑樹は、何百年の苔にまみれた老樹であっても、季節になればさかんに若葉を吹きだす。それも、あふれるようにである。その若葉がまことに奇しい。・・・さらには、根と幹や枝、葉にいたるまで樟脳をふくみ、それが木にとって虫よけになっているのも奇しい。古代人にとって、丸木舟の財だったのである。 司馬遼太郎 紀ノ川流域・街道をゆく32

司馬遼太郎が和歌山市の日前神社の森を訪れた時の情景。


舟木の入手場所が造船所だろう。

三原・糸崎の長井浦を出て東へ進むと古代の港は鞆の浦になる。ここにある天目一箇神社の神は鍛冶屋の神・製鉄の神という。それも砂鉄でなく岩鉄・鉄鉱石の溶解製鉄の神だという。この神は三原からやってきたと由来にあった。

御調八幡宮から西へ進んで右手に垣内郵便局を見る田園の左の山陽道の高架の工事の調査から、弥生とも(確定されていない)いわれる小丸製鉄遺跡が見つかっている。古墳時代以前の製鉄遺跡はまだなく、朝鮮半島からの鉄の輸入以外の国産の鉄はないとされているから“弥生とも?”になる。

半島からの技術者の渡来は、外洋の航海を経験している紀ノ國の海人の関わり他、考えにくい、という。

「船を作るには道具としての金属製の斧の類が必要であり、また釘も要求される。船材を切り出す仕事をつかさどる舟木氏と船大工たちの鉄の神である天目一箇神社は密接な関係をもっている。 谷川健一」


ここが、古代 最先端技術を持ち、古代西国道の水陸どちらにもコミットでいた、といえないだろうか。和気清麻呂の姉の逃亡先は、この最先端技術をもち豪族の家でなかったか。この豪族の財力が和気清麻呂の摂津の長官、平安京建設主任の要職についている。

御調八幡は”宮”で神社であるこのステータスの謎は、ここらに。


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by forumhiroshima | 2017-07-15 12:10

要塞の伝説

関ヶ原の戦いが終わり、江戸幕府の統治が始まると石垣を持つ城が築城されるブームが到来。徳川の大阪城1620-1629年、名古屋城1610年、熊本城 1606年、丸亀城 1615年。

それに比べ広島城1592-1599年 それに先行した三原城1582年と毛利氏の築城は早い。強力な武力と権力を思わせる。

普通に築城は台地や小山、尾根の崎などを立地としている。砂州や岩礁などの軟弱な基盤への毛利一族の築城は、海へ進出のためにその困難さを乗り越えてようとした。

全国に地方空港が建設された“航空機の時代到来”のように、大型船の時代到来を迎えていた。秀吉の1592年築城の伏見城(指月山)は淀川から引き込まれた水路と船溜が造られている。山から川へ海へ、水路(澪標・ミオツクシ)を求めて城が動いていく。

早く築城していた三原城を見本にしたような秀吉の伏見の城だ。

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三原城は海の中に浮かぶ城といわれている。海に向かっての城下に市街地はつくられていない。明治27年(1894)城郭は駅になった。そのころの駅の写真の海に市街地はない。

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そこは要塞だった。秀吉が伏見城に入城したのは三原城完成の12年も後の1594年だった。小早川隆景への秀吉の評価は高い。

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広島城は、西搭川・川幅17.5m/河岸9m,平田屋川・川幅26.7m/河岸寸法11mの海からの運河があった。西搭川埋立地が紙屋町南向の電車通り、平田屋川の埋立地が並木通りになった。本川左岸に住吉神社が置かれた船溜と水主町という、港の施設となる町もあった(日本建築学会中国史部研究報告 第32H21/3)。

二つの運河(平田屋川、西搭川)を渡る橋は少なく、町の賑わいは配慮されていないように見える。城塞として築かれている。

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海が洗う荒野に設計された二つの城塞はその設計に制限を加えるストレスは、膨大な石、砂、木材、人力ほかなく、その意味、力があれば、自由だった。自由だからこそ都市設計に、「いつの時代にもわれわれが求めているのは意匠の“普遍性”ではなく、そこに神話的なものが付与された“固有性”ではないだろうか。鈴木博之・建築家」という思いはなかったのか。

神秘的な固有性、その都市伝説・レジェンド、トラディション。できるだけ密やかに息を潜めてうずくまっている幾つかの伝説が、ときにクロニクル・年代記としてふきだしてくる風。それに向かってアゲンストに向かって行く神話への旅。それが自分のクロニクルのページ。なんて、いい!


地球は南北と呼ばれる軸を芯として回転する。その回転方向を東西と呼ぶ。この宇宙の運動を小さなピースにして土地に引き込む。そのピースで化粧された土地は宇宙・神の差配する場所となり、人を集め、レジェンドが芽を出す。はず、が、なぜに毛利一族は、都市設計の中軸を南北からはずしたのか?。南北中軸の都市伝説が彼らの支配を強化してくれるのではなかろうか。

スポーツのトップスターに自社のマークを付けるだけで、“レジェンド”にしようとする今の意図は彼らの思いの前では砕けちるしかないだろう。


「近世の城郭立地に関する風水思想からの考察 岡山大学・曽我とも子」を見つけた。

「“北東の阿武山を玄武(北方面の守り神)として、そこから南西方向に朱雀大路がとられている。・・・四神相応の地といえる”。そして西の茶臼山が白虎、東の府中町の茶臼山が青龍、南の海が朱雀。見立てした三滝山・比治山・黄金山・二葉山・己斐松山の交差地点に天守閣を置いた」とある。朱雀大路は紙屋町家電量販エディオンの西から南へ抜ける築城当時大手門からでてくる大手通り(白神通り、とも)になる。

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三滝山、比治山、黄金山、二葉山、己斐松山に牛田見立山、宮島・弥山とは、地図上で広島城天守閣で交差する。これだけで、都市伝説資格あるかも。が、朱雀大路が東に傾いて宇宙の運動に竿さしている。“阿武”が“玄武”とは、どうなのだろうか。ゆるくはないか。

三原城の南に筆影山がある。GoogleMapに山頂の筆影山公園から南斜面に降りてゆく建造物が薄っすらと見える。国土地理院の三原1/25000図にここに鳥居のマークがある。そして三原城と同じ子午線東経133.083の位置にある。三原城は宇宙の運動のピースが埋め込まれているのか。

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こうなれば、大好きなラインごっこ遊びだ!筆影山から南へラインを下す。瀬戸田港を見下ろす向上寺の国宝三重塔のそばを抜け、しまなみ海道多々羅大橋東詰めの観音山山頂を通る。向上寺の秘仏は聖観音菩薩という。

振り返れば三原城の真北にある金毘羅神社を抜け三原城北面の最高峰・龍王山665mにたどり着く。

筆影山の名は江戸期の歴史学者・頼山陽が名付けたといわれる。書家でもあることから、「筆影」と呼ばせたことでもあろうが、筆で残した文章を隠した、とは読めないだろうか。  などと・・・・。

三原市観光協会HP「筆影山の南西に位置する竜王山445mは北にある龍王山665mと区別し、1185年に屋島の合戦で敗れた平家の泰四郎圀重がここを開いたという伝承があり葉田竜王山と呼ばれる」とあった。三原城北の龍王山が特別扱いされている。

龍王山から北へ子午線をのばすと、どうしたことか、御調八幡宮に当たる。

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769年称徳女帝の下で臣下の身で帝位を望んだ道鏡の野心を、宇佐八幡宮の信託によって退けた和気清麻呂がそのことで罪となり大隅(鹿児島)に流されたとき、清麻呂の姉・和気広虫姫は備後に流され、この地に身をとどめ、斎戒沐浴し円鏡をご神体として宇佐八幡大神を勧請し(三原市観光課)」神社は古代の表通り西国街道に面する。備後と安芸の国境に座る「龍」の山。国境の分水嶺。

天皇家の伝承にかかわった神社の神の所在の龍王山が、天皇家の血統、「一品」を誇る毛利家の海の要塞の守護となった。

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1592年ごろ、朝鮮出兵の為に九州・名護屋へ向かう途中、豊臣秀吉が三原城を訪れ、御調八幡宮に桜の木を手植えしている。三原城と御調八幡宮との深い関係がここにあるような話。頼山陽が筆を隠した何かが、ここに。南北の軸心は宇宙運動を安芸・備後の国境と生口島観音山の伊予・安芸の国境に引き込んでいる。


筆影山の公園に走った。三菱前の和田の信号から3.6km標高差300m。いい勾配角度ですね。足つきを何回も重ねてしまう。山頂公園から石段を下った。

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そこにある海に落ちそうな場所の広場と休憩所は、まだ新しい。神社らしき雰囲気を探した。

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打ち捨てられて、朽ち果てた小さな祠を広場の裏に見つけた。神額もなかった、が神の在り方は“あった!”。

やはり、ここがただならぬ場所に思えた。

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御調八幡宮が守護する龍王山から生口島観音山へ、いやもっと南の四国までつながるこの子午線を測った天文台の跡ではないのか。狼煙山なら同じ子午線を選ぶことはない。磁石では偏角が場所、場所で違い、磁鉄鉱などと反応する。子午線E133.083の精度は半端ではない。地球に緯度経度の番地をつける時代はもっと先の18世紀になるのだから。(ここに記した緯度はGoogleMapによるGPSからの成果)

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観測の結果でないとすると、奇跡でしかない。


三原城はこの経線と東の最高峰・鉢ケ峰山と西の小さな尾根に鎮座する三原八幡神社とのラインの交点に所在する。

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by forumhiroshima | 2017-07-08 03:08

風水都市

広島城施主の毛利輝元は1563-11歳のとき、父隆元を亡くし、家督を継ぐが幼く、祖父毛利元就が後見として差配してきた。18歳のとき元就が1571年に死去する。彼は吉田、郡山城そばに元就の墓所と菩提寺の洞春寺を建設している。


自分が23歳で父を亡くし家業を継いでから、フラフラの人生だったから、18歳の輝元の西国一の武将の家の家督相続の重みの凄さはとても測れない。きっと大変であっただろう、とだけ、おもってしまう。少しだけ身近なのだ。


1589年、城普請の見立、1591年 輝元は、まだ未完であった城へ入城。そして完成1599年。

入城すぐの1592年に吉田・郡山から洞春寺を広瀬神社の位置に移築している。この場所が元就厳島合戦戦勝祈願の己斐旭山神社(己斐松山)と天守閣を結んだラインにある。元就の拝み墓所に思える。天守閣から己斐松山を俯瞰すし、そのまま目線を落とせば、大クスの木の繁る広瀬神社と祖父のある洞春寺が見分けられる。それは、懐かしい気持ちか、すがりたい-なにか、か。


広瀬神社HPにはここに広瀬弁財天社があったとある。城に西の本川河畔に中津宮社(宗像三女神の二女・湍津姫神(たぎつひめのかみ))東の京橋川河畔に厳島神社(市杵島姫神)と宗像の陰が濃い。ここが田心姫神(たごりひめのかみ)であったら、そろい踏みなどと妄想する。毛利氏が戦国屈指の勢力となった合戦の厳島の女神がちりばめてある。ちなみに日本三大弁財天は厳島(宗像)、琵琶湖・竹生島(弁財天)、鎌倉そば・江の島(弁財天)とされている。


宮本常一が尾道沖の百島を歩いた時「墓がいろいろのところにある。畑の中に、ブタ小屋のうしろに、家の軒下に、渚近くに。どうしてこんなところに墓をたてたのか、きいてみると、死者のあったとき、その人の年齢やその年の干支など見合わせて、その方向をきめるのだという。時間があれば僧にもあってくわしく聞いてみればよいのだが、そういうことはしなかった。瀬戸内の島々はずいぶん歩いて見た。そかし墓がこんなに方々にバラバラにあるのもめずらしい。私の日本地図6 昭和44年発刊」


25年ものちに百島に渡って走ってみた。小さな島で何とか海岸線は一周できる。島中央の茶臼山にも登ってみた。注意して見てみたが宮本のいうバラバラな墓は見られなくて、きっと集められて集合墓地になったのだろう。集合では方角は選べない。

ただ猫の多い島の印象が残っている。


「墓所・墳墓・古墳の築造の際に主軸の方向を揃えず、はなはだしいのは隣同士で逆方向になったりしているのは、風水思想にとって築造されたからだと思う。家宅を建てるにも都市を建設するのにも、この道家的な神仙思想からの風水思想を法則としている。 松本清張・日本書紀を読む」


広瀬神社(洞春寺)の位置は掩蔽・エンペイ(occultation):陰に隠れる:になる。日食、月食などの天文学用語 特別な位置関係がそこにある。


「風水は、前もって良い土地(脈により気が集まる場所)を、こまごまとしてわずらわしく複雑なノウハウの蓄積で指定できるというシステムである。中国では伝統的に“術数”とよんできた。また“地理”とも。  風水講義・文春新書488


先日将棋のコンピュターシステム“ボザンナ”の製作者の山本一成さんがTVでの話の中で、「システムのメンテナンス作業は工夫と失敗との連続作業で、うまくいった場合、それができた訳はわからないのだ。結果オーラーなのだ。それはヨーロッパの中世の黒呪術と同じように感じる。」と話されていた。“風水”と“ボザンナ”とは、似ている!。


“上洛”という言葉はなぜか京都に入ることだが、平安京が建設されるとき、京の東半分を中国の都市“洛陽”とよび、よって洛陽に上ることで上洛となった。西半分を“長安”とよんだが、のち西半分、右京は湿地が多く荒廃して忘れられた。地下水脈が移動したともいわれる。中国の都市のコピーは風水思想のコピーになっている。


双ケ丘の南山麓に鎮座する木嶋神社(蚕の社)の森を元糺の森といい、鴨川と高野川の合流地点の下鴨神社そばの鴨河合神社と下鴨神社の境内の森を糺森とよばれる。元糺の森が枯れたのだろうか。今はただの鎮守の森です。この二つの森は朱雀大路を中心線にしてそれぞれ900丈、5里の地点にある。古代の都市計画が浮かび上がってくる(足利 健亮・NHK人間大学)。

が、現在はその中心線の朱雀大路のほとんどは路地になり、大内裏は家並みに沈んでしまって、走ってみても大きな感動はなかった。京都は結構新しいと思ったりした。



直線で構成された区画に構築物をシンメトリーに配置した“平安京内外の計画 (足利健亮・京大元教授)”です。

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1993年台湾からの大阪大学留学生の黄永融氏が京都府立大学で発表した『風水思想における・・・平安京・・・日本古代宮都計画の分析研究』が最初といわれるぐらいあたらしく、風水の研究はただの占いの扱いだったようだ。


黄氏のレポートは読めなかったが、「風水と天皇陵 講談社現代新書・来村多加史」に“東アジア最高の風水の宝地”のページがあった。ほかに学教授などの著作は見つからなかった。


『平安京は理想的な風水の宝地に営まれた都である。堪興家・カンヨカ(風水師)が重視するすべての要素を兼ね備えている。背もたれとなる“大帳”は鞍馬山・貴船山 両脇を抱える“左砂”は比叡山・東山、“右砂”は愛宕山・嵐山、南の“案山”は男山、“水法”は賀茂川・桂川』と書く。まぁよくわからない。決めつけれ、それを飲み込まされる不快感がある。


平清盛時代の平安京の想像図に風水都市京都のいくつかの風水たるところを記入してみた。右京はすでに失われている様子。が、書いている自分はどうしてそこが風水の場所なのか、わかっていない。のだけど。

松本清張先生は「直線で結ぶ方位論を見かけるが、図上の遊戯でしかない。」とおっしゃっていますが。これみてください。遊戯は面白くなくっちゃ。


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都市中央の最北部にまつりごとの場所大内裏を置く。その背景に天の回転の中心、北辰・北極星を頂く。この星を太一とも太極ともいい、また天皇大帝とよばれる(風水講義・中公新書488)。南を向き、まつりごとを発する。指南とされる。それらがデザインされた都市が風水都市といわれる。

船岡山と木津川の向こうにある甘南備山とのラインは東経135.44にあって、平安京の中心軸とされている。京都の水は鞍馬山と貴船山を水源とされていた。飛鳥、藤原京の記憶により、船岡山が耳成山、畝傍山が双ケ丘、天香久山が吉田山に比定され、古代飛鳥に発祥した朝廷を復活させている。


大内裏が消失したのちの京都御所は双ケ丘と吉田山の東西線を踏襲し、明治28年(1895年)に平安遷都1100年記念事業として建設された平安神宮は、京都荒廃のおり、仮御所に刻まれた今朱雀大路をその中心ラインとしている。

風水思想による都建設の企ては、のちの世にも踏襲されたのだろう。



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by forumhiroshima | 2017-06-17 09:31

星宿海

龍は山脈に流れる「気」を示す。その「気」をうまく受ける、得ることで、その地、また人生の良いことが起きる、と風水の解説書はいう(はかる科学・中公新書)。その山脈とは、どうも普通に思う山のことだけでなく、すこしでも高い所も「山脈」であり、雨が降って現れる水路は「山脈」がつくっている、という。(風水講義 文春新書)イメージがわいてこない。

中国では風水を地理ともいう。五行や易によって判断する方法と、「脈」を地形判断から立地を見る方法とがある。広島城築城立地の判断は風水による地形判断があったとすれば、後者になる。七つの川の三角州といわれた広島のケースなら、水脈の判断があった痕跡を探してみることになる。はたして?迷宮に入り込んだ、ね。

中国にながれる長江、淮水、黄河を「三大幹龍」とされ、平原に大山脈のないかわりに、水が「脈」として「気」を導くとされる(風水講義)。とあったが、どうして山が川なのか?と、モヤモヤしている。説明しずらいから、占いで決着なのだろうか。“中国三大幹龍総覧図”が挿絵があって、ホットして覗き込んだ。

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「黄河はなァ、この星宿海で生まれて、五千四百六十四キロも流れていって、渤海で終わるんや。ちょっとでも暴れたら、村や町どころか、ちっちゃな国でも流してしまうほどの凄い河やのに、それが始まることは、星宿海っちゅう、星の数ほど小さな湖が集まっているところなんや 

・・・・中国では二千年近く、黄河の源流がどこなのかわからなくて、さまざまな伝説が生まれたが、なぜか星宿海は、瓢箪・ヒョウタンの形をして、絵地図に描かれるようになった・・・・宮本輝 星宿海」

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「三才絵図の星宿海の形が、ひょうたんが選ばれたのは、この植物はあたかも子宮のように万物の種を宿すとする伝承にもとづいているのであろう。黄河の源流には、小さな無数の沼沢が星屑のように考えられていたとしても、まさかおおきなヒョウタンがコロリと横たわっていると当時の人々にイマージされていたわけではあるまい。(差し当たり宮本輝氏の『星宿海への道』を読まれよ) 風水講義 三浦圀雄」

で、『星宿海への道』を開いたわけです。

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広島城築城に東の尾根に現れた「龍」が、太田川の源流に440年のちに現れた。

昭和1411月 民俗学者・宮本常一は島根半島の旅から島根県の江の川に郷土史家たちを訪ね、そこから芸北町にバスでやってきている。そのころ奥三段峡にまだ聖湖(樽床)ダムはできていない。今のダムの建設地あたりにあった峡北館という宿に宿泊し、主人の後藤吾妻さんにより聞いた話を「村里を行く・土と共に」に残している。

「『古事記』の大蛇退治はこの芸北・八幡村のできごとであろう、と説こうとしている人があるという。国学院大学をでたという相当の人物のようであるが、講演にきて土地の古い話を聞き、苅尾山は臥龍山、樽床は八つの酒樽を並べたところ等々と解釈し、この地方の屋根に千木をうちちがえているのは、神代様式の建築であったという。本気で言ったのであれば、いささかどうしているのであり、冗談半分の仕草であるとすれば罪が深い。土地の人は学者の言葉として、これを信じようとしている。 宮本常一」

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「苅尾山は、龍が臥していたところとして臥龍山。掛津山は龍が頭をもたせかけた場所として掛頭山となり、比尻山は聖なる場所として、聖山にしてしまったと思われる。

それにしても苅尾山または刈尾山という山名をカリュウあるいはカリオという名称が、山麓の雄鹿原、橋山、小坂、八幡、樽床で現在も使われていることはまぎれもない事実である。

“カリウ”の初見は1663年芸備国郡志である。“苅尾山”という字の初見は“八幡村御建山野山腰林帳1716年”である。・・・・戦前の陸地測量部発行の旧5万分の一図には苅尾山とあった・・・・千五の昭和二十二年版より“臥龍山”に改められているので唖然としてしまった。 

西中国山地 桑原良敏」

戦後にあらわれた「龍」に唖然としたのは広島女学院大学の先生だ。(掛頭山東斜面が芸北国際スキー場です)

宮本常一は樽床をでて三段峡の中間地点の餅ノ木峠をぬけ、水越峠の十方山西山麓の林道横川峠を雪の中一人でぬけて匹見へでた。この年十方山の東の打梨川沿いに立岩ダムが建設され、ダム湖は龍神湖と名付けられた。宮本はこのダム湖の名称をきいただろうか。他にも三段峡の入口に龍ノ口、樽床ダムへでた場所に龍門と名付けられている。山を枕に「龍」はよっぱらって酒樽を枕に寝そべっているのが、聖湖。いやいや、もっと意味深いものがあって、村人がひきつけられたナニカが「龍」にあったのではないか。などと思っていて、思い出した土地があった。

「龍」が天に登るすがた、「飛龍に観える-飛龍観」の日本三景の一つ・京都・天橋立。枕詞の「瓢葛・ヒサカタの天の梯建・ハシダテ」のヒサカタは“ひさごの形=ヒサゴのカタ”で、ヒョウタンの蔓がのびて、天にのぼる梯子であるという意味。そのころ、天がヒサゴであると想像されていた。 (谷川健一 古代人のコスモロジー)

丹後国風土記逸文にイザナギがイザナミの住む天上の地に地上から架けたハシゴが倒れた形が天橋立とある。このハシゴの素材がヒョウタンの蔓。東アジアの神話の広がりを瓢箪は感じさせる。

前方後円墳を横から見ると瓢箪を二つに割った形だといった民俗学者の三品彰英の説がある。

奈良、天理から東へ笠置山地に登るいくつかの峠に頭上に勧請縄というしめ縄がかけられ、時間の扉のように感じられる。境をこえる。深い森の中に鳥居が白く浮き上がっている。その多くに、九頭龍神社とあった。必ずそばに小川が流れていた。

「九」という奇数の極数と「龍」との組合せは、偶数の極数「八」と「大蛇」の組み合わせとどこかにている。龍はイザナミ・イザナギとの組み合わせのようだ。大蛇は当然スサノオとの組合せだ。京都守護神・スサノオの神社が八坂社であることも、そんなところかもしれない。


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by forumhiroshima | 2017-06-12 10:35

龍の登場

広瀬神社から空鞘橋を渡って中央公園の芝生のマウントに着いた。己斐をスタートして、やっと広島城が現れた。

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お城の背景に二葉山の尾根が円錐形に見える。そのトップあたりに旧陸軍高射砲あとがあってそのすぐ下に金光稲荷神社奥宮が鎮座しているのだが、当然判別できない。芝生を踏んで進むと、二葉山の後背にある尾長山が天守閣と稲荷奥宮の尾根に重なってきそうになる。が高層アパートが己斐と二葉山のラインの見通しをさえぎってしまう。

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お堀端にでて、尾長山と二葉山と天守閣の不透明な三角関係を確かめたくなって、天守閣へ登ってみた。尾根山の山頂は二葉山の仏舎利塔の先っぽの向こうに隠れているようにみえる。ゆっくりと移動すると二つの山が重なるポイントはその二つがつくるラインを保持してくれる。航海者たちはこれを“山たて”という。

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己斐と二葉山とのラインは国土地理院デジタル版やGoogle Mapで面白く描き出される。かつ、正確な情報に基づいている。しかし、毛利輝元の城普請の設計図のできた時代はそうはいかない、だろう。

「地図の話 武藤勝彦 昭和17年発行 岩波書店」巻末に“父兄ならびに先生方に”と編集部から解説があって小学校上級生と中学生向けとある。最適なテキスト。

「まず日本全国5万分1地図製作のスタートに当たって原点を東京、麻布の旧天文台の場所と決め、そののちに基線を測量する。そしてその距離を測る。明治43年東京で始まった。基線は神奈川県相模野での5210mだった。

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作業は地表に杭をたて行われもした。そしてその向こうの測量地点は、多くは見通しのある山に置かれた。そのポイントの三角点は地中深く埋め込まれた石柱として残された。

ヨーロッパで始まった地図作りでは教会の塔が目標にされた。“ゴシックの教会は町とその周辺をつばさでおおうようにおさめよと建てられた。遠い道にまよう巡礼者の集まる地点になれ、避難所になれ、かれらの燈明台になれと建てられた。教会の鐘の音が夜人々の耳にはいるとおなじく、搭は昼、人々の目になれ”と彫刻家ロダンは教会の美しさについてこう書いている。この搭は地図作りの目標とされ、ある曇った日に搭のステンドグラスの反射でその位置を確認できてから、日光を鏡で反射させる器具ヘリオトロープがつくられ、精度が飛躍した。」

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己斐。旭山八幡神社の御神体の鏡を光らせ、二葉山の金光稲荷神社の鏡をその名の通り金色に光らせ、そのラインを確認することは、できるのではないだろうか、など、とおもった。

Google Mapに己斐-二葉山のラインを東に延ばせばどこにたどり着くだろうか?と遊んでいた。長尾山のトップを通って呉沙々宇山の尾根へ抜ける。呉沙々宇山からは城は目視できない。地図を拡大したとき長尾山の尾根にマークが現れて「龍の頭」のテロップが書かれていた。

己斐の旭山、牛田の見立て山と昔の言葉や伝承の中に、毛利輝元という武将が首府を新しく作る、その思いや指針がユラユラしていた。そこに「龍」が登場した。

尾長山から続く牛田山への尾根の西斜面に真言宗・龍蔵院が地図にある。その龍へむかった。急斜面の上にテーブル状に広がる住宅地の谷筋に赤い鳥居があらわれ、階段の参道が森の中の静かな山道になって、そこに読経がこぼれて聞こえる。

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ダライ・ラマ14世のインドの拠点、デプン・ゴマン学堂からやってきたチベット仏教僧侶が絶え間なく読経している。そのお堂前に寺創建の縁起が掲げてあった。「この寺のご本尊・歓喜天は天正171589226日毛利輝元公が築城にあたり二葉山より牛田山に地勢を見る際、清水こんこんと湧く泉の中から見つかった。この吉兆を悦び築城を決意し、以て毛利家代々の守り本尊とされた。」

寺のある谷は清水谷とよばれ、ここから縮景園に送水された場所になる。清水とうおばれる所以だろう。いまは住宅街に沈んで、清水谷と呼ばれた余韻もない。

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風水は「山はひとかたまりの土くれと石の小山ではなく、風、雲の調和をもたらす“龍”にみえてくるのである。次に風水師たちは、この龍をさがしに出る。風が山に当たり水を吐き出す。風が立つ方位とで大地の吉兆を占う。これらが生み出すエネルギーを“脈”という。山脈・水脈はこれをさす。人にあっては、血液の流れを読むことを“脈”をとるという。 風水地理入門 崔昌祚 チェチャンジュ」

Google Mapで現れた“龍の頭”のある尾長山へ向かった。山根町第3公園そばの石段から細尾根を踏む。落ち葉がすごい。あまり歩かれていない様子、急坂。岩場が次々現れる。Google Mapに写真で掲載された岩場に着いた。ここが「龍の頭」とあった場所だろうか。お城の天守閣はビルの陰、その向こうの体育館が見える。己斐は判別できない。鏡の反射光があったら。

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山の名で「頭」につくのは、自分の知っているかぎりでは、吉和の十方山の丸子ノ頭と三段峡のサバノ頭、どちらも内黒峠からの尾根のピーク。ならばここの「頭」もピークでは。尾根を登ってトップに向かった。体育館を探し確認しながらのぼる。トップは茂みの中になった。木立の中から二葉山の南斜面を接するような視線でやっと体育館を見つけた。己斐-天守閣のラインはここに集結するようだ。Google Mapにある龍の頭には違った意味があるのだろうか。

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尾長山トップの木立の中に西広島飛行場との標識のあるアンテナらしきものがフェンスに囲まれている。そばに小さな古い石垣が残されている。これって、見立て場の証拠!きっと、その時ドヤ顔だっただろうね、妄想を強化した。

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毛利輝元一行の見立ての人々が見ていた景色は、いくつもの砂州が海に洗われ、川は自由気ままにルートを変えながら海へ入っている太田川(佐東川)の河口だった。龍たちの遊び場に見えたかもしれない。

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by forumhiroshima | 2017-06-04 09:59

旭山

大内氏の内紛ののちクーデターを成功させた陶晴賢との厳島での対決が迫った15559月 毛利元就は先に滅亡させた武田氏の居城であった銀山城にいた。そして兵士たちの待つ草津へ向かった。(新編広島市)その途中、己斐の八幡社で早朝に昇る朝日に戦勝祈願をしている。後に神社の名に旭山が付けられた。と、言われる。

厳島の合戦は101日早朝始まった。旧暦の晦日、929日夜の月は月齢0.3の新月、大潮の夜を元就は、はやる戦士に待つようにと抑えていた。その夜は闇夜の暴風であった。のち合戦の勝利を己斐八幡社は旭山八幡社と名をかえて元就参拝祈願を記憶した、という。

この合戦は陶軍を島に引き付ける作戦がすでに始動しており、決戦の日を元就は決定していた。

しかし、です。朝日への祈願、戦勝としても、旭山と記憶させる強い何かがあるように感じる。

己斐には、古代港であったこの地に伝承の人、神功皇后が立ち寄った伝説があって、その際に鯉を献上したことも地名由来といわれる。古代この辺りは己斐氏が起こっており、また厳島神社の祭神の宗像三神が鎮座する九州筑前・宗像の宗像氏一族・許斐氏のここへの到来も考えており、「鯉・カープ」の陰が薄くなる話もある。

元就が兵站基地とした草津はこの戦いの軍港であったことから、イクサツからの地名だといわれるが、九州国東豊後の宇佐神宮が、古くは宗像三神を祀っており、のちこの女神が厳島に現われ、ここにも渡ってきたことがあって宇佐津と呼ばれたこと、ともいう。宇佐の女神はのちに神功皇后にかえられて、宇佐八幡とよばれる。

宗像の神々に由来する神社が厳島だけにかかわらず、この海一帯に繁栄している。宗像「海人」のざわめきが聞こえてくる。

古代の己斐津に淡水魚の鯉の神話が見られることが、すでに港の機能は失われていた、のではと思わす。元就は朝日参拝に、砂州に太田川、そのころの佐東川が幾筋にも流れる景色をみたのではなかろうか。

924日には陶軍はすでに厳島に上陸し展開している。朝日にきらめく流れの先に厳島をを見ていた元就の姿が浮かんでくる。

この神社に孫の輝元36才が現れたのは、厳島合戦ののちの34年後、元就の死去から18年後だった。広がる砂州と干潟の海に城を築く場所を決めるためにやって来た。

古代の朝鮮半島では、「百済の始祖である温祖王が漢山に登り、地勢を観望し、天剣地利の形局であるので首都に定め、また高句麗の流瑠王は、周囲が険しく土地が肥えていることで、尉那城を置いた。風水地理入門・崔昌祚」などと風水の術で調べる大地の活力の如何が国家、国土に重大な影響を及ぼすという考え方を大切した。風水の調査指定の手順の中に、朝日山(旭山)がその起点になるという記述がある。

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織田信長が長良・木曽・揖斐川が集まる井之口であった集落を城下町に再編成する際、風水により求められた中国・周王朝・発祥の地の岐山を引き、岐阜(阜は丘の意味)と新しい地名にした(風水講義 三浦國雄)。風水は深く武将たちに支持されていたのではないか?。毛利輝元にも。

旭山八幡神社を毛利輝元が物見・国見のスタート地点にしたのは、祖父毛利元就の故事によるばかりか、風水の影響があったのではないか?だから城下設計の主軸が東へ傾いでいることの訳ではない、などと、思い始めた。が、風水はとてもとても理解できるような頭がない事ぐらいしかいくつかの解説書をみたが、サッパリわからなかった。手に負えない。そこで、広島城天守閣の位置決定のラインの一つを地図に落としてライン上から天守閣とそのラインを点々でしかないが、走ってみた。

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毛利元就が隠居所は祇園の銀山城にするといったが、新しく作るつもりもあったともいわれる。決戦の前にみた景色に中にその場所があったとしたら、その景色は砂州と干潟とそこに突き出た岩礁や砂山ではなかったか?。楠や松がまばらにその土地に枝を拡げていたのではないか?。岩礁や砂山が神社として残っているのではなか?

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まずは、岩礁の上に鎮座する白神神社へ向かった。お参りの多いお宮さんで、拝殿左の奥の常盤稲荷にも参拝者は切れない。その祠の右横の拝殿の下、奥の暗い岩礁の岩がこぼれ出ているその一つに翁が座っておられる。それはいつのころからか、参拝の機会にお会いするのが楽しい。竿があれば、まるで釣り姿。ここが城建設当時の波打ち際、渚であることは、神社横の由来説明にもある。

真西にある、己斐の社の尾根のすそもそのころの渚にあらわれていたのだろう。

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旭山神社から踏切をぬけ西国街道をとって東へ、己斐橋を渡り西郵便局の裏へ左へ。ここが昔のことだが、福島川が埋められてできた道。少しくねった道筋でも川の姿の痕跡は感じられない。大通り(相生通り)を東へ広瀬橋を渡って川土手の遊歩道から広瀬小学校の南側へ。広瀬神社の大きな楠の境内があらわれる。己斐の社から天守閣の直線ラインにこの神社がある。

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大楠の木は神社のHPによると樹齢300年以上とある。小山の端にへばりつくようにして、繁っている。400年前ここに毛利輝元が廣瀬市杵島大明神として社領を寄進したとある。

毛利元就の郡山の墓所の場所に吉田時代の洞春寺が元就によって建立されていた。築城に際して吉田・郡山からここへ毛利家菩提寺の洞春寺が移された歴史があって、毛利氏が萩へ移った時、洞春寺は萩からそして山口へと移転している。旭山から天守閣へのライン上に毛利家菩提寺が置かれたことに、感慨がわいた。

このラインに元就の菩提の寺を置いたことには、旭山で祈願した元就の夢は戦勝だけでなく、城の建立もあったのかもしれない。輝元にはその思いが深くあったのだろう。

奈良・山辺の道が通る崇神天皇陵(行燈山古墳)の中心線が大和川が奈良盆地から大阪へ流れ出るところに鎮座する広瀬神社を指している。飛鳥時代に天武天皇が厚く信仰した「広瀬」の名と、ここの広瀬神社とが、どこか気分の中で交差した。

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「前方後円墳の並び方は乱雑に見える。主軸の方向が揃ってなく、はなはだしいのは隣どうしで逆方向になったりしている。これは風水思想によって築造されたからだと思う。 松本清張・日本書紀を読む」

広島城築城の主軸が風水によっているのでは?、の思いに力強い意見だ。が、続いて「主軸のブレについて、直線で結ぶ方位論を見かけるが、図上の遊戯でしかないと思う。」

ガッツン!です。・・・・でも、でも・・・。


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by forumhiroshima | 2017-05-27 10:33

広島城普請・測量道具の行方

出雲国風土記(733年)に「神名火山、郡家の東北のかた九里四十歩なり。高さ二百三十丈、周り十四里なり」などやまの高さが記載されている。古代の測量技術のプロは行基だけではないようだ。出雲生まれの開拓地普請のプロ、平田屋惣右衛門(日本人物風土誌)には出雲の歴史織り込まれている。

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602年半島の百済から観勒・カンロクが天文学、陰陽道の経典をもって渡来、聖徳太子が604年に彼のよった歴が採用されている。測量技術の伝播は古い。

納税金額を決める検地測量は武士にとって重要で、毛利氏も厳島合戦ののち獲得した大内氏の領地を検地している。毛利氏にとって測量技術は生存条件だったはず。

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としても、最も効率の良い南北ラインを広島普請に導入せずに、東へ傾けた複雑な設計基準線を採用したのだろうか。

広島普請以前に毛利氏の重鎮、元就の三男の小早川隆景はその領地の三原の海に砦を築いていた。1580年から始まっており、1590年ごろには広島城より早く、三原城は完成していたといわれる。三原城の基本線をさがすと、やはり東にかしいでいると見える。

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毛利家の祖・大江広元は下級貴族であっても都をのがれ鎌倉幕府の重鎮となった由来から、鎌倉の町の傾きも見てみた。鶴岡八幡神社の参道は海へむかって直線だった。若宮大路とよばれ京の朱雀大路をまねたという。が、東に傾いでいる。広島・三原と共通する何か秘密が?

八丁堀、福屋の西から今の金座街となった埋められた平田屋川。北へ向かう広電白島線が広島城の東堀のラインは、城普請のころ既に集落があり寺院があった白島(そのころ箱島)の、この海でもっとも古い歴史といわれる碇神社に延びる。そばにある宝勝院は城普請奉行の二宮就辰の子孫が広島城の鬼門守護として開基された。城に深い縁があるようだ。

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広島城完成時に測量につかった縄をここに集め、大繩に編んで大綱引き大会を開催したらしい。碇神社に大太鼓の祭りが開催されるが、その由来かもしれない。縄はここに収められたという。

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ビルや寺社、埋立地の突端、開削された掘割などに稲荷神社が勧請される。建築を縄張りいう。湿地に土盛りしてつくる道を畷(縄て)という。それらの守護の神として招来された神に収める縄張りにつかった縄を収めた倉庫が稲荷社となる。小さな道端の真っ赤な鳥居に出会うと、周りを見渡して、この土地の“きしかた”を思う。碇神社のクスの林に小さな祠が丹後だったか丹波か、〇〇稲荷社があった。

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碇神社の境内に箱島だったころの地図が掲示されていて、五箇ノ庄と周囲の地名が書かれて、その地名は所有者不明の湿地などの場所の一般名詞だという。広島はこの上にかぶさった地名で、城の南の海岸線の砂州はどんどん成長していたことだろう。曖昧な広さを言っているようにおもえる。広がる島!。

江戸時代・北斎の富嶽三十六景が売り出されたころ、江波島の漁師と仁保島の大河の漁師の海苔ヒビを置き栽培する干潟の領域争いが勃発。浅野藩が調停し、本川河口の“西袖の鼻”(砂州の突端だろうか)から真っ直ぐに見通し、“向こう沼田郡八木村の内 あぶ山を目標に”を境界線と決め、またこのラインが安芸郡と佐伯郡の新しい境とされた。(新修広島市史)

千田町は生まれていたが、吉島町は拘置所までが埋め立てられて先は海だった。宇品も出島も出現してはいない。のちに安芸・佐伯を合わせて、安佐郡が生まれ、のちのちに広島とかわる。

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海の新しいラインの基点の“西袖の鼻”は所在が分からないが、吉島の広島市環境局中工場へ向かうバス通りのラインは、広島城南の大手通りを北上しエディオン広島の西側から広島城天守閣を抜け阿武山へ到達する。天守閣と阿武山とのラインで漁場の境界を見分ける。見立ては漁師の重要なわざだ。違反は申し訳できない。

これが広島城の普請の基本線だろうか。厳島合戦を勝利した毛利元就は、水軍として戦ってくれたここの住人たちに、堤を築いて土地をつくれ!といい造った土地の所有を認めている。

今も広島市街地を東西に抜けるには時間か高速料金がかかる。城普請は海へ開かれて、上流から下流への縦にされ、横には直線で抜けるルートはない。城は海だけをみているようだ。

毛利元就は厳島合戦ののち、銀山城を隠居とし、地域の年貢の約二分の一を所有したいといい、代々の隠居所にするといっている。(新修広島市史)元就が水軍たちに土地を造らせる。それは、褒賞なのか、隠居所の守りの固めのための方便か。

戦国時代の屈指の武将の毛利元就の、その心がここに設計されて、それは道としていまに、ほとんど変わらず、ある。その上を自転車は走る。道の表情を伺い、走る。元就を伺う。


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by forumhiroshima | 2017-05-18 08:19


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