こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
カテゴリ
以前の記事
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
フォロー中のブログ
最新のコメント
You ought to..
by parajumper at 15:36
Latin shema..
by williamyb4 at 13:25
louboutin pu..
by christian at 10:00
I blog frequ..
by ray ban ne at 13:12
Heya i'm for..
by canada goo at 09:04
http://silde..
by sildenafil buy at 23:40
Laterget htt..
by oripsojo at 20:23
http://www.g..
by nike roshe at 00:14
http://www.w..
by nike mercu at 11:58
Indelicate ..
by allanjy4 at 08:37
メモ帳

<   2006年 10月 ( 13 )   > この月の画像一覧

神の依り代

神様が天上から地上に降臨するとき,その物を依り代というのだけど,その物は岩であったり,山であったり,またおおきな樹木だあったりする。
津野津の古道が直角にまがる場所に二本の松の大樹があったと標示されている。一つは大年神社の前にあった。もう一つが柿本神社の人麻呂松。
大年神社の松はこの松を矢でいるという的となった神事の木であり,人麻呂松はここで急病になった人麻呂が回復したという口伝がある。ふたつともいまは枯れてしまって,説明文があるだけだ。

多鳩神社への道をまちがえて神社のある谷の尾根に入り込んだ。そこに石碑で多鳩神社遥拝の松跡と草の中に埋もれて石碑があった。ここで神社が見えていれば,すぐに引き返したのだけど,潅木の中で見通しはきかなかった。

12月の後半に奈良の春日神社で境内の松の下おこなわれるお祭りは,ここに翁となった神が出現したことから,だという。この伝説から能の舞台には背景として松が画かれる。それは神の降臨の依り代の松と。
この松も枯れてしまっているのだろうか。出雲ファンとしては,国譲りを強要した春日の神はあまりふれたくないのだけど。

多鳩神社の周辺一帯から海岸まで(もちろん昔の海岸線を予想して)なにか,不思議な空間をかんじた。そうして地図をみているうちに,あの津野津の二つの松はいまは角をまがって出会うのだけど,道はそうはついていなくて,松の並びに一直線であったのでは?とおもいだした。そうなると,山中の遥拝松もその直線にならぶのだ!!

丹後半島で丹後一宮の籠神社に参拝して門をでると,そこに海を割って天の橋立がのびて,まるで参詣道の並木のようだと,ふとその奥にそびえる山の山頂がこの真中にあることに気付いた。その山はヤマトタケルが命を亡くす原因となった伊吹山。伊吹山山頂から天の橋立をみてその直線の半島にあたる場所に籠神社があると。さてどちらが??

松はまつり木だという。神事の松も人麻呂松も多鳩神社の神様,コトシロヌシがこの海岸に降臨し,谷奧に鎮座する,そのことを示してきたのだ。
現実には,この津野津に上陸してここを開拓した人々はこの巨大な松を目印にした。そうして,この海岸を潤す水を吐き出す谷奧に自分たちの神様を祀った。そのうすれた記憶のなかでいまもお祭りがつづけられているのだ。
多鳩神社の神文も大元神社のそれも同じマークだった。
d0089494_19544898.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2006-10-28 19:55

人麻呂対決

江津の和木から津野津へ。和木は山口県岩国にも同じ地名がある。どんな秘密があるのだろうか?と。山陰道は地図では破線になっている。すこし不安と石見ではこんな道がけっこう生きてるというこれまでの感ですこし草が茂っている入口へ。

すぐに小さな祠,またすぐ祠と鳥居。こりゃ生きている。すっごくうれしい。やっと山陰道古道。

ブルドザーでひろげられている山肌がまだあたらしい工場横にでた。こちらから探しても,みつけられないだろうと,少しの幸運。民家のなかに細い路地となって山陰道があのゆるやかな曲線をつけて伸びている。すぐに大年神社。その前に枯れてしまった神事につかわれた松の説明があり,そばに地蔵堂。その隣の民家の壁にこの神社を基点とした巡礼ルートを掲示されている。

日本海の岬には八十八ヶ所めぐりのお地蔵さんをならべた巡礼道がたくさんある。ここまで海がきていて,この巡礼コースがいまにのこっているのだろうか。ここで山陰道は二つに分かれて山ルートと海ルートになる。
山ルートに路地を直角にまがると,つのつの里とかかれた標識。そこがひろい広場になって,祠が二つとその横に拝殿のような建物。柿本神社とあって,ここにあった人麻呂松の切り株が,神社横にちいさな小屋に大事に保管されている。この松は高さが13mもあったという。
なぜ枯れた松をわざわざ小屋や石碑までたてたのだろうか?

万葉集に柿本人麻呂は石見国鴨山で死亡したとかかれている。歌聖とまでいわれ,万葉集の中心にいるという人麻呂が死去した石見・鴨山はどこかと?論争がつづいている。
益田市沖の地震で沈んだという鴨島説,江津市神村・カムラからカモ連想説,湯抱温泉亀山説,奈良県葛城山説といろいろ。益田には柿本人麻呂神社と郊外の小野の柿本神社がある。

人麻呂の「石見のや高角山の木の際より,我が振る袖を妹見つらむか」の歌の高角山が津野津の高い山で,島の星山がそれだということも根拠になっている。益田では高津川そばの山,鴨山に柿本神社があって,そこが高津の山でもあると。

湯抱温泉の亀山と鴨を唱えた斉藤茂吉の説は梅原猛の水底の歌でコッテンパにやっつけられた。どうも形勢不利。

いろいろと江戸時代からの論争なんだけど,どれも確証なし。で,石見でも決ったわけじゃない。がそおうもいっておれなくて,津野津の柿本神社は人麻呂が袖を振った相手,依羅娘子ヨサミノオトメの生誕地だと。その祖先もおられて井上さんというのだ。
この江津にもう一つ人麻呂神社がある。
問題になる島の星山。地元では高角山の中腹にその神社がある。そこへは南をグルーっと回って,そこに入る谷間の古道をたどることにして,コース最後の登り。
神村から谷を巻いてのびる道は古道と民家の庭に柿木とで秋がせまってきて,ほんに満足して気分もグー。新しい車道の工事が中断している場所から,すこし道幅もせばまって,イヤな予感。これが当たりました。すこし入ってブッシュ。そして木立いっぱい。
ほかに迂回路はとさがしても,石見の特徴。一本道の設定だ。

くやしいけど,帰り予定の有福温泉直行か?も,イヤイヤ,完走せよと,不思議な気分が湧いてきた。ままよと,一度江津市内へくだる。そこから新しい車道の登り。自動車道路は,自動車でこそ,道路。自転車で斜度7%を続けられると・・・。
小さな標識で人麻呂神社をすぎているほど,集中???。
人麻呂神社は小さな祠。そのそばに高く柿本人麻呂,そのてまえの平地に依羅娘子と銅像。人麻呂さんは袖ふってなかったけど。

人麻呂神社はいくつか出会ってきた。人麻呂人気なのか,古代に柿本族が漂泊したのか?とおもっていた。ある人曰く。「ヒトマロ,は火止まる,火事災難予防」エー,ただのおやじギャグ!!
d0089494_1817997.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2006-10-27 18:17

祈りの領域

石見も江津までやっときました。もう半年以上も通ってますからね。
島根県の歴史街道というガイドブックをたよりに古道をトレースしてきたのですが,ほとんど古道らしい風景には出会えてません。古道の上に道路がのっかったか,廃道になってるか,です。
そんな失望は地図の細い道や破線の道へはいることで,もう充分に石見の古道を満足してます。

山陰道で江戸時代にルートが変わったところがあって,パンフにはその両方やまぞいと海ぞいが記載されている江津から波子までをみつけました。ならば,山。(登りおっそいくせに)。

江津市二宮町神主って所です。江津の西隣の都野津の山際から小高い丘にあるりっぱな寺院,太平寺へあがって墓所のみちから高速道の横をくだると,小高い丘にポツネンと神社。その境内にはこれでもかと幟と吹流し。道端は注連縄。お祭りのようです。ここからは,田んぼの中に祠のように,古道やしき道は分断されています。
その田んぼに直径2mほどの笠が開いて,その笠にはあか,きい,あお,ぴんくととりどりのリボンがびっちし。島根半島で神社境内でみたこのような花笠には造花でした。ちがってるのはこの笠みたいなものがあちこちの田んぼに立てられています。

「山陰道は当初,南,山側におおきく迂回していたが,寛政年間に直進する,浜街道,に変えられた。かっては砂浜で道筋にするのが難しかったため,山そでを通したのだろう。歴史街道より」
いや,山そでなら大平寺へあがらずに,その前の丘すそも充分に高度がある,それに高速道まであがって,いきなりヘヤピンUターンな道が街道なんてこと・・・。おかしいよ。

山陰道をパンフでトレースして,そこから江津への周回のために有福,跡市と走って,跡市から古道に。ここはよかった!よかった。うねうねと登り下り。その間にいくつものお地蔵様。すこし多すぎやしないかい,ってほど。軽四いっぱいの幅が数キロ。農家,柿木,青い野菊とロケーションも満足。ここらをニ宮町神村。うーん仏村??
この山奥に石見・ニ宮の多鳩神社がある。だからニ宮の神村なんだろうけど。

多鳩神社への道は細線で一本。ここを曲ればと古道に入る。いくら登っても,石見・ニ宮の貫禄をしめすだろう鳥居や灯篭もでてこない。道が舗装から地道に変わるところにお堂。そこに仏教伝来伝承地の石柱。そばに万葉道。
どうもこの道は地図にない。折り返して,ほんの少しで神社への道標。まいったね!
一,ニとおおきな鳥居をすぎると,巨木のなかに苔むした神門。その奥にりっぱな拝殿・本殿。たしかにニ宮。

谷口にかえると,海がみえ,すぐ下に高速道。あれ,さきほどの笠林立の田んぼたち。

山陰道はこの多鳩神社の参道でもあったのか。
でも先ほどの仏教伝来伝承地は?とうりがかりのおばあさんに聞いてみた。お堂は弘法大師のお堂だそうだ。それに,ここには面白い伝説がある。仏教を国是とした聖徳太子の一族は蘇我氏に根絶やしほどに滅ぼされる。が,太子の長男の嫁とその息子,石見王はこの地にのがれて,生きのびたと。

それで伝来伝承の地なんだろうか。
d0089494_14482812.jpg

ちいさな谷に,いっぱい神様と仏様がつまっている。神領だと思った。
[PR]
by forumhiroshima | 2006-10-26 14:50

笹・佐々

石見の山中で旧家とか庄屋とか,でっかい,古い家屋に出会うと,百姓屋でなく鉱山関係とおもってもまちがいないようだ。それにササがつく。

石見・久佐に峠をこえてくだった小川そばに嶋村抱月の家跡というおおきな標識をみた。少し谷をあがると掲示板が「抱月生育の地」とある。
島村抱月は東京専門学校,いまの早稲田の出身で演劇の芸術座をおこした人だと。ある。松井須磨子という当代第一の女優さんとのスキャンダルや劇中歌のカチュシャの歌が大ヒットやとか,聴いたことがある,程度の知識。

生育の地から久佐の中心地にくだって,また標示をみつけた。久佐八幡宮にある。神社そばの小学校に抱月は通ったとあって,本名・佐々山滝太郎。実家は鉄山師であったと。
そういえば都茂で記念館もある泰佐八郎博士は泰家へ養子になる前の名は笹利家。ここも鉄山師の家。
久佐八幡宮から少しのところの家並みがつづく丘におおきな屋敷がたっている。そばの寺院の大屋根にもひけをとっていない。石見・中通りの中にある庄屋さんの旧家。佐々田家。ここも鉄山師で後に酒造家。並んでいた蔵はいまは打ち壊してしまったとそばのおじいさん。

石見の鉄山・砂鉄は江戸時代に盛況になり,有名な鋼も出荷していたのだそうで,それが明治になって一挙に輸入の鉄におされて衰退したという。そんな時代がいまもかすかに垣間見られる。

ササという名から。古代朝廷が四方に派遣した軍隊の親分のうち近江から越へとはいった大彦命に平定された豪族で佐々貴山君という一族があった。この一族に小野や柿本の名がある。
鎌倉になって,守護として因幡から出雲,石見,周防と支配したとある佐々木氏。その一族になる尼子氏。この尼子氏が毛利氏に負けた戦国。かれらが石見各地にちって,ササとい名をのこしたと。長い歴史のそこの流れを感じる。
石見を走っていて,佐々とつく表札をみつけるたびに,ニンマリとしているのだ。
だから・・・どうした!!
d0089494_12105597.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2006-10-24 12:11

温泉

温泉というイメージがこのごろ変わってきたようで,りっぱな施設がたくさんある。
が,石見では温泉は温泉。って,ちょっと突き放した感じ。湯がよければええじゃろー。ごもっとも。
車で自転車もって,どこかにパークして,周回するってケースでは,自分はとにかく温泉をさがす。終わって入浴もサイクのうち,だもんね。

先日そんなパークにはしなかったけど,古道をうねうねやってると,ちいさな道路標識で伊木温泉ってのをみつけた。浜田ダムの東になる。民家もない川沿いの道をくだって,いきなり明るい農村に入った。そこにも道路標識。これを入るまえに集落一周ときめた。数軒が円の中心を田んぼにしてその外周にならんでいる。その家のつづきのなかに大元神社があった。石見でもっとも普通の神様で必ずどこにも鎮座されるか,八幡宮へ合祀されている。土地を開いた祖先を祭る神社だそうで,御神体はおおきな樹木とその傍の墓標ってことの様子。それが神社の裏に見られることが多い。

ここ伊木でも神社そばに大木・たしかイチイだった記憶。でもこのごろアルツっぽいからちがってるかも。集落を周回できるとおもっていたけど,道が山へと入りだして,引き返し。さっきの標識から温泉へとはいった。

民家のそばの沢のそのおくの少し高い場所に集会所のようなたてもの。そこが伊木温泉。営業日は水曜と土日。入浴料300円。2時から8時までの開業時間。冬期は早仕舞い。とある。
老人がおられて,ここは集落でやっているのだそうで,そのうち当番がくるから,ゆっくりしてゆけ。とバイクで去って行った。まだ昼過ぎで水曜日だけど営業までは待てないし。

見渡す風景は周囲をかこまれて空がまるい。コスモスがゆれて,そこし沢の音がしてくる。たしかイチイの落ち葉を燃やすと良い匂いがして,古代その匂いが占いにつかわれていた。という説をおもいだした。山村の生活も悪くないだろうと,おじいさんが田んぼの向うの神社のよこの家に入るのをみていた。

またの日,美又温泉にパークしたのだけど,近くに湯屋温泉のカンバン。あたらしい施設のキンタの里ではないようだった。帰りの車を美又に入らず,この標示へとすすめる。川沿いの古道へはいり,あたらしくつけられたようなのぼりからちいさな丘へあがった。子安華湯館とあって,400円。湯船から稲刈りがおわった景色だった。石見にはまだまだ温泉たくさんありそう。
d0089494_1654338.jpg


温泉はどこも川沿い。地下水が地中で温められるのだから,水が豊富なところがいいのだろう。
島根半島の温泉もそんな立地だった。火山帯のはいる土地の川沿いってことになるのかな。
そういえば気になる発見があった。平田から出雲大社へゆく古道で山塊が平田平野へおちるキワに「要石」という丸い石を積んだ祠があって,出雲風土記ともかかわりがあるほど古いものだ。そのカナメイシは鹿島神宮にも諏訪大社にもあるんだそうで,出雲神話の戦いの神様の御里がそうだ。その要とは土地が動かないようにする重石なんだそうで,国引き神話とかかわっている。土地が流れないよう。そしてそばに温泉地帯があるのだそうだ。平田の温泉はだいすき。

でも島根半島はけっこう動きそうなところ??
[PR]
by forumhiroshima | 2006-10-23 16:57

塩の道

「海と山間をつなぐ大事な道は塩の道であったといえる。人が生きてゆくためには塩はなくてはならぬものであり,どのような山の中に住んでいても塩だけは確保しなければならない。・・・山中の者が海岸まで塩をもとめて出る場合は,私の思いつきによる推定では,その山中に住む人たちがもと海の方からはいりこんできたものではないかと思う。これに対して塩売りが海岸から入り込んでいくような所は,非常に早く海から絶縁した人々がそこに住んでいるか,または一方の海岸斜面から他方の斜面の山中に移り住み,その斜面の山麓地方の人々と接触の少ない場合ではないかと思われる。・・塩が山中の一つ一つの村へ持ち込まれていく経路や,・・塩の交易のありかたによって,人がその山中にどのような過去をもちつつ住み着いたのであろうかということをさぐりあてることができるように思う。宮本常一」

山中の森や山に仕事をもとめた木こりやそこからつくる紙すきや薬草,また狩をするマタギ,鉄をもとめ,炭を焼く人達の定住した村,山中に隠れ住むしかなかった落人と呼ばれる隠里。
そんな集落の歴史はどこにも書きとめられているわけではない。

山中の山道を走るとき,こんな場所へも昔から住み着き暮らした人たちがおられるのだから,これが苦しいなって思うことはイケナイと,どうしてか意味不明に確信する。暗い森の湿った落ち葉がちらばる道をやりすごして,ひらけた田とそれを取り巻くようにある家々の景色が,すばらしいと思えるからかもしれない。

常一さんは,「塩が専売制になって,塩の交易を調べられるような風習はぷっつりと消えただけでなく,伝承もまた当時を知る老人たちの死によって急速にきえてしまいつつある。そして私の塩の道についての聞き取りも,まだいとぐちについたばかりなのにもう行き詰まってしまった」といっている。1964年に発行された山にきる人々から。

江の川が海から運びあがった物に瀬戸内でつくられた塩があって,川沿いに点々とある集落には,その荷揚上の記録がある。井沢とよばれたひろい山中の人々は市山,そして瀬尻がそんな拠点だったろうとおもう。瀬尻から山中へ一直線にのぼる道沿いの集落は小さな田畑しかなかった。井沢・山中でみつけた八幡宮の米神事のほか,シシなどの霊を神にかえす神事もあるという。その神事は鹿児島でおこなわれる柴祭りと酷似しているのだそうだ。狩猟の人々であったろうか。

そんな学問的な難しいことではないけど,走っていて気付くこともある。
◎この夏は暑かった。そうしてここらの山中にはコンビニどころか,自販機もない。食料品店もない。困るのは水。学校も廃校となっていて簡便な蛇口もない。家々は留守。そのうち沢にいれられている黒いホースがここらの水道だと気付いた。それからペットボトルが空になっていることはなくなった。
◎集落のメインになっている車道にはいってくる林道に電信柱があると,地図で行き止まりであっても,いまも民家の生活がある。だから上がってみても失望することはない。
◎郵便ポストも簡易郵便局もない山中,だいたい午後になると配達員さんのカブが走ってくる。から,おっかけてルートをたずねる。この石見は通行止は予告する場所がだいたい通行止。入口に告知してない。でも強行突破でOKの確率90%。
◎思いもよらなかったけど,この地方はヤクルトおばさんが元気。よく走っている。が,バイクじゃなくて,軽四。それもマイカーらしい。民家に配達している時が狙い目。ジュースあります。
◎神社の手洗い水は危険。1回腹くだしあり。
d0089494_17142013.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2006-10-22 17:14

神楽

秋祭りの真っ最中のこのごろ。
石見のサイクで神社本殿を覗き込むと、たくさんの神楽の衣装がいっぱいに干してある。市山から八戸川の今田の水神さんのおおきなケヤキのそばをぬけて谷に入る入口にあった大山祇神社がそうだった。ここの神様は谷川をわたって木立の中に木漏れ日をうけて真っ白な立てられた御幣だった。その前にある拝殿はあけっぱなしで衣装が風にゆれていた。
江の川ぞいの川平のは八幡宮の拝殿も衣装でいっぱいになっていた。
どこかのお祭りに呼ばれて舞った後始末になるのだろう。

「市はもと、冬に立ったもので、この日が山の神女が市神であった。・・山人は、山の神であり、山の巫女は山姥となって、市日には市にでて舞うた。・・山人が携えて来るものが、山づとと呼ばれて、市で里人と交易せられた。折口信夫」

江の川から4kmの登りで入った芦山谷であったおばあさんは大声で歌っていた。日陰がこくなった午後の森にひびいていた。一山越えてちいさな交差点のお地蔵さんの祠からコンクリートで舗装されていても草がそのすきまにひろがって巾は自転車がやっとの、これが杣道かいな?とおもった道がいっきに下りだして、ロードのタイヤにごつごつコンクリが当たる。神様パンクなして、お願いとくだって、やっと車道におもえた道も巾は軽四トラックいっぱい。そこが清見・セイミ。人里らしくなって登りつめると井沢・イソウ。
古代八戸川から江の川、そして西にある島の星山までを、この井沢と呼んでいたという。近頃までといっても、戦後すぐぐらいまで、この土地では焼畑が行なわれていたという。
たしかに深い山里。途中で幾度もであった川平の郵便局員さんのバイクでしか、やっつけられないと、自転車がすこしかわいそうだった。上代に、市山へと山人がで
d0089494_17463687.jpg
てきて踊ったら、それは異国の人たちに里人は思えたかもしれない。

風の国に戻るつもりが長谷から八戸川岸へと下ってしまった。くだりながら、はたして帰れるのかいな?と不安だった。それでも下ったのは、以前通っていた居酒屋の老夫婦のおばあさんがこの川岸の八戸の出だと聞いていたから。
ひろびろとした河原のそばから、すぐに引き返して、風の国で温泉しても、ご時世ビールは飲めない。それなら広島であの老夫婦の居酒屋でふるさと話を聞いてやろうと。
それに川戸は川の入口、八戸は谷戸で谷の入口、その真ん中が市。そこにでてくる人たちが山人を、わからん話でけむにまいて、なかなかサービスしてくれない大盛のつけものを、ねらっていた。これが自家製でうまいんだ。

かえってすぐに居酒屋へ。でビール。案の定八戸のはなし。地名といえば、とミニ知識お披露目してた。そういえば風の国は昔は湯谷っていうのだったよね。温泉昔からあったの。なにいってるの、風の国の温泉は左に入るけど、右へはいった池のほとりに宿があるよ。入浴料はたしか風の国の半分ぐらい。エー!!
でも漬物は大盛りでした。
[PR]
by forumhiroshima | 2006-10-21 17:50

民俗学者たち

風の国にパークして江の川へ。
幕府の代官さまの巡回コース、石見中通りは長谷で新しい車道のもう一つ山の中の旧道のそのまた上にある。旧道を入る。
谷にそってつづらの折り返しで市山の集落へ降りついた。

日本中を歩いた宮本常一さんが先生をやめて、民俗資料を集める目的ではじめて歩き始めたところがこの石見。川平から清見・セイミに宿泊して、市山へ。きっとこの道筋をゆかれたのだろう。

市山には清見にいた民俗研究者とつれだって、ここの研究者をたずねている。牛尾三千夫という人。
「《島根民俗》という雑誌をだしている人で、折口信夫博士門下の俊才であり、この地方の大田植の事に深い関心をもち調査にかかっていた。・・宮本常一」昭和14年のこと。この時と翌15年に石見を歩いてその資料を、石見サイクの参考にとひっぱりだしていたので、この牛尾さんのおられた町だとブラブラしようと思っていた。

島根県歴史街道にある石見中通りをトレースして走ってるのだけど、そこにこの市山と川戸のルートが掲載されている。
「四回も連続する川越え・大森銀山をスタートした代官様は、川戸へ江の川を渡り、川戸から隣の小田へ。集落をぬけ川を渡り今田へ。さらにもう一度今田水神のある大ケヤキのそばから渡川で市山へ。市山は諸国巡検使・代官さまが宿泊地としたところで、伊能忠敬の測量隊も宿泊している。往還に沿って家並みが続いており、宿場町の雰囲気をかすかに留めている。島根県の歴史街道より」

川面より少しだけ高地になっているこの宿場町の中央に小高い丘がみえた。地図には鳥居。小高い潅木が赤い屋根をかこんでそこへの石段に鳥居。八幡宮。石見では鳥居の足6本が多い。宮島の鳥居と同じに見えて、厳島神社かとおもってしまう。瀬戸内海の八幡宮にはこんな形の鳥居はみてないのだ。なにか?ある?

石段のそばに古い無住の民家があって、そこに牛尾家のムクという標識。ムクの木はクズのツルをまきつけて、古い民家をおおっていた。八幡宮に参拝し別の入口へ。そこに神社にはめずらしく墓地がそばにある。真新しい墓標に牛尾三千夫奥城とあった。あの牛尾さんがここに寝むられている。そうなると、もしかしてこのお宮の宮司さん?
石見でよくみる神社と保育園のセットのそばから入った鳥居に
d0089494_16421036.jpg
回って、さきほどのムクの木の家に。

亡くなった年にたてられた業績を刻んだ石碑が茂みにつくられていた。国学院大学卒とあるから折口信夫の生徒だったとわかった。そして石見神楽の神官舞の伝承者でもあったようだ。
入口から玄関へ。そのきは大元神楽伝承会事務局と消えかかった標示の板。表札に牛尾三千夫。
常一さんとの会話がどこか聞こえてきそうな陽だまりで一服しました。
[PR]
by forumhiroshima | 2006-10-20 16:44

江の川

西からはじめた石見詣でもいよいよ江の川に到着。
江の川は大河のしてはほんの一部が安芸の国との国境で,あとはゆうゆう石見の真中を流れている。川が交通の障害でななかった・・と。
石見中通り街道がこの江の川を渡るところが川戸。いまは桜江大橋がデーンとかかっている。その東端の堤防に一本の木があって,ここに江戸時代には番所があったとある。
その木と道をはさんだ山側に地蔵堂があって,朽ち欠けた標示板にこの渡航がまだ渡船にたよっていた昭和34年に事故があって一人の乗客がなくなったことが記されていた。そのころまで橋がなかったということになる。

江の川の地図でコースを決めているうちに,この川岸の集落で渡川するほか,そこに行く道がない集落をみつけた。瀬尻。集落にはJRの鉄道も通っているのに駅もない。

川戸からその集落の手前やく1kmほどか,道が入っている。いまJR三江線は普通になっていて,もしかしたら鉄道の線路伝いにいけるかもしれないと。
その行き止まりの集落への入口に3kmで行き止まりの標識がごていねいにも二つもあった。でも走りこむ。ちょうど大田川右岸道路のような気持ちよい。最後の民家からほどなく行き止まり。路線への踏み跡もあって線路にたった。ふとトンネルがあったら真っ黒。と思いつく。コワイ!

橋に引き返して川沿いにくだる。瀬尻の集落あたりは竹薮で対岸からは見えない。次の橋をわたると川平。橋のたもとに道を見つけて入るけど地道ですぐに行きとまる。

こじんまりとした,いまは列車もこない駅前に手作りの案内板をみていると,郵便やさんがとおりかかった。瀬尻には川沿いにはいけないことを教えてもらった。そして山側から入るルートを丁寧におしえていただく。左,左だよ!左。とホンダ・カブで走り去った。

川平は伸びやかなたたづまいで,神社やお寺をフラフラして集落のはずれの橋で地図をみていると,郵便やさんにすれちがった。橋を渡っても,渡らなくても,この谷をのぼることになる。そこで左。と念押し。そうしてきついよ!!
へなへな!でも,また郵便やさんに出会いそう。行ってないとハズカシイ,とスタート。

谷をつめるといっきに急坂になって,分岐。井戸君石碑。集落の端によくみかける。谷をつづらにおりる。路面は小枝と落ち葉。道に歌声が聞こえる。すぐにその声に追いついた。ちいさなおばあさん。こんにちは。あんたは誰?自転車乗り。えぇー。
おばあさんは歌をやめて道端のしげみの高い所に,そばにあった小枝でなにかを引っ掛けだした。ムカゴでもありますが?いや,あのハッパをとる。じゃあ,とその枝をひっこぬいて渡した。

あんたは川平の公民館の人か?いや,自転車乗り。と話は絡まない。
この谷をくだった瀬尻へいきたい。そうかい,でも瀬尻の人四軒はこの春そろって,まちへでたよ。おばあさんのところは?今は自分ともう一軒。おばあさんは家族は?自分は一人。あとはイノシイとクマ。

瀬尻への急坂は道いっぱいの小枝とはっぱ。もう山へ帰り始めていた。
午後2時をまわると山々には日陰がどんどん広がってくる。あたたかい,霞がかった杉林にスポットライトのように陽射しがさしこんで,ここの,この冬は・・。
d0089494_14241747.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2006-10-19 14:31

木地師の痕跡は?

石見・六日市の深谷に木地師の墓があると観光パンフにあって,そこへの標識も設置してあるのだけど,まだ訪れてはいない。来年の新緑の季節に走ってみようか,とはおもってるけど。きっと急坂の連続なんだろう,とおそれている。

でも木地師という人たちの痕跡にはひかれている。
先日風の国森林公園の西南の木立の中の古道のそばの集落を通過していて,ふと谷をみると大きな杉の森に鳥居をみつけた。
道の下,谷に鳥居はつけられているから参道とは反対,神社裏からの参拝。ちょうど陽射しがさしこんで高い杉をとおりて光がそそいでくる。まさに,旅。こんな時間みなさんお働きになってるのだもの。八幡宮。

木地師たちは石見では江戸から明治はじめの飢餓でほとんど壊滅したという。森で木を切り,小さく刻んで,ロクロにかけてお盆や椀をつくる。そうして市で売る。その場所でそんな木製品をの材料の木々がなくなると,また移動して小屋をつくり営む。それを漂泊というのは,感傷だろう。
この山々を自由に移動することが許されたのには訳がある。
この人々,最盛期には全国で四万はいただろうとされる人々はどんな山でも七合目以上の高い場所の森で営みは一通の古文書の写しをもつことで行われた。
近江の小椋谷にある筒井八幡宮とその奥山にある高松御所の大皇大明神神社が,この木地師たちのとっての役所。ここの氏子となってこの古文書をの写しをいただく。その古文書は皇太子であった小野宮惟喬親王が天皇の後継争いにやぶれ,小椋谷に住まいしたとき,このロクロをつかって木器をつくることを住民に教え,また自由な移動の許可をあたえた。この古文書はニセモノだといわれるのだけど,豊臣秀吉はこの慣習を公式にみとめて,近江から全国へと木地師たちは拡がったという。東北のこけしも近江から移動した木地師たちの製作がその発端だという。
中国山地にもこの古文書をもって木地師たちが移動した。広島県戸河内から十方山へはいるとある那須の集落もそんな人たちの中心地であったという。先日NHKでこの集落の最後のマタギを紹介していた。

木漏れ日のなか,八幡宮の本殿のそばに小さな祠があって,表示板がつくってある。この祠は米を和紙でつつんだものが御神体で,一年に一度お祭りにその和紙を開き,保存された米の状態で新しい年の稲作を占うとある。その際すこしの新しい米を追加しておくのだそうだ。
木地師たちはそのうち漂泊をやめ,焼畑からすこしの田をつくりはじめたという。子供達の義務教育の制度がそんな時代をつくったようだ。日原の町に中学生の為の寄宿舎があったという。

鳥居から降りる道はすっかりブッシュになって,この時期寒くてフラフラとするまむしチャンがいそうで,つっきる勇気はなかった。
これじゃ木地師にはなれそうもない。
d0089494_1310186.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2006-10-17 13:10


最新のトラックバック
presiden jok..
from plus.google.com
venuscozy.com
from venuscozy.com
whilelimitle..
from whilelimitless..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
fashion mich..
from www.mikaelkors..
biber hapi
from biberhapisipar..
iphone 7 cas..
from myiphone7cases..
máy xay cầm ..
from goo.gl
ultimate testo
from ultimate testo
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧