こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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芋代官

石見銀山の代官で,江戸中期に赴任したとき,天候不順による飢餓をみて,代官所の米を放出。そしてサツマイモの栽培を奨励して,飢饉から住民を救ったという井戸正明をたたえる碑を最初に気付いたのは,江の川から南に入った山中の峠だった。

それから,井戸碑とよばれる石碑は,時に泰雲院義岳良忠居士という井戸正明の戒名となったりして,そこらじゅうで見かけることに気付いた。大森には井戸神社まである。

水田の凶作にもかかわらず,かけがえのないサツマイモの供給が,井戸正明に芋代官の尊称をおくって,ながくその遺徳をたたえているのである。と,島根の案内には記載されている。

そのうち,その遺徳の石碑が天領だった地域をこえて,浜田藩や出雲であった地域でも見られることから,なにか「案内」に記載されていることだけじゃないように感じてきた。

大田の鶴岡南八幡神社に,瀬戸内,伊予大三島でいまも芋地蔵としてたたえられる下見吉十郎が,訪れているときいた。彼は信仰から全国をめぐる旅にでて,薩摩藩のおきてをやぶって,故郷の瀬戸内にサツマイモをひろめたことで,いまに記憶されている。

井戸代官が石見にサツマイモを広めたのが,歴史でサツマイモをひろめたことで知られる青木昆陽の作付けより2年早い時期で,下見が大田をおとずれたのが1723年ごろ。井戸代官がサツマイモを奨励したのが1733年後になる。代官は旅の僧侶からサツマイモのことを聞いたという。

サツマイモが南米からジャガイモやトウモロコシ,タバコと同じくヨーロッパに新大陸発見として1502年以降に伝わり,1580年ごろ中国へつたわっている。1605年に中国から琉球へつたわり,1612年ごろには鹿児島につたわり,数年で栽培が広がっていたという。

これから約一世紀のちの石見にも瀬戸内にもサツマイモが栽培されだすことになる。新大陸発見から二世紀をすぎている。このころのグローバル化はこんな時間で,このごろが早すぎるとおもってしまう。サツマイモひとつの伝播に幾人もの人物があらわれて,歴史ダナーと。

井戸碑は島根県全域だけでなく鳥取,広島,岡山にもみられ全体では500以上になろうかといわれる。が,これだけの石碑は井戸代官が赴任後3年ののち,岡山・笠岡で切腹したことで,立てられたのではないようで,この石碑は江戸時代後期から明治維新の約100年後のことらしい。

新しい時代へむけて全国でおおきな変動があった時代だけに,この遺徳をたたえる石碑は,どこか政治へのプラカードのようにおもえる。
石見銀山が栄えたのは1750年ごろまでで,それ以降は赤字続きであったという研究もある。井戸正明が赴任したとき,前任の代官は病気で不在であったという。いまだったら銀山は
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民営化の対象だっただろう。
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by forumhiroshima | 2007-03-22 12:52

市場と武士

大田市の喜多八幡の参道の石段はひろくて,その前の道も広い。その向うに家並みが続いている。大田は城下町でもなく(ただ城山という地名があるから豪族がいたのかもしれない)市がたつことで町になったときいている。

参道の正面の小山に鶴岡八幡神社もある。南八幡神社ともよばれるらしい。町はこの鶴岡八幡のある本町から発展してきたろうで,いまは寂れているのだが,郵便局と寺院の昔中心パターンはいまものこっている。

宮本常一が市の発展でこんなことをいっていた。「中南米あたりでは,ごく最近まで無言交易がおこなわれていたという。塩その他高地の住人がほしがるものをリヤマ(山羊みたいな動物)につみこんで,海岸地方から登ってきて,道端の約束された木,石の上などに品物を置いておく。かえりにそこにゆくと毛皮や織物のような高地でつくられたものが置いてあり,それを集めて帰ってゆく。取引しあう相手の顔をみることもないのだけど,それで間違いがおこることはない」

三瓶山,日本海海岸,そして静間川流域とたずねてきて,稲をつくってきた人々,海岸で漁業を営む集落,山で畑や鉱業のいとなみと,それぞれの神々にであってきた。稲をつくる人々はここでは海岸に上陸した神話をそれぞれにいまにつたえていた。

その人々は昔々には言葉もちがっていたかもしれない。三瓶川がながれこみ,小山でかこまれ,ラグーンの波根湖,そのむこうの日本海と豊な自然の恵みの交換がここではじまってきたのだろうと実感があった。

そんなこの土地の住人と石見銀山とは,まったくまざりあっていないような,そんな思いも,銀山へ入る谷をくまなく走ってみて,田んぼや集落には銀山の思い出もないような観想をもった。

江戸幕府は全国の主要な鉱山を天領として管理し,「たとえ名城の下たりとも掘り取り苦しからず」と鉱山師や山伏を野武士とし苗字帯刀を許し,関所もフリーパスにしている。
宮本常一は武士についてこんなことをいっている。「畑作や林業にたずさわっている人たちは,古い縄文文化を伝えてきた人たちです。それがのちに武士階級をつくりあげていった。と私はみています。というのは,平地からでた強い武将は織田信長と豊臣秀吉ぐらいで,彼らが天下をとったのは鉄砲をもったからです。それ以外は徳川家康をはじめ全部が山岳民族です。」

どこの城でも鉱山の鉱脈があるとわかったら,掘ってよい,なんて命令は,ふつうじゃない。こんなヤカラとは無言交易しかないかも。

石見銀山の山中央に山神社がある。サヒメ神社なんだけど,この神社は益田のサヒメ神社から勧請されたという。サヒメを信仰する鉱山師たちの移動がおもわれる。そしてサヒメ神社はサヒメ山・三瓶山とその川下,鳥井に鎮座している。
大田市周辺はそんな山岳民族の痕跡も多い。
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常一さんのような眼があったら,走っててももっと面白いだろうな。
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by forumhiroshima | 2007-03-20 14:48

石見銀山と大田

鉱山には落盤,出水,ガス爆発等々,危険がいっぱい。石見銀山にはこの暗い話が世界遺産登録まじかでも,まじかだからか?こぼれて自分のとろまでとどいてこない。

鉱山の坑道の入口はそこらじゅうに銀山の道のはたにみられる。これが?・ってほどの遺構。だからこそ,崩落なんぞ日常だったのでは。なんせ一年に銀14トンとまでいわれているすごさだから。

事故死の鉱夫たちの慰霊はどんな形でのこっているのか?そんな気分は,走るって動機にはなりにくいのだけど,石見でこれまで中世までの埋葬地といわれるところは,どこも日当たりがよくて,水はけもいい。風もあたらいよい所だった。それに,なにかおちついた雰囲気をかんじていた。そんな慰霊の場所が鉱山にも用意してあるとしたら,そこはこころおだやかにしてくれるかも?と,でかけた。

先日水上の集落をまわっていて,谷の一番奥に寺院のマークをチェックすることを忘れていて,まずそこをたずねてみた。地図と,てりあわせてもお寺らしきものはみつからない。ちょうどおばあさんがでてこられた。たずねると高みにある民家にみえる家が,いまは無住で,この18日に仏さんを下の寺にうつすところだと。
石見で無住になった寺院は数知れない。屋根が落ちてる建物もみた。写真はとらなかった。

無住の寺にあがってみると,外からはみえなかったけど,裏にりっぱな鐘もある。が,墓所はみつからなかった。前庭から水上の田園が眼下にひろがって,悠久の時間が流れているようにもみえるのだけど,変化が押し寄せているのだろう。

銀山周辺の谷筋でまだはしっていないルートは二つ。丁度大田市街地へながれている。それを周回することにした。

大田市には二つの八幡神社があって,喜多と南と呼ばれる。南は鶴岡八幡で,当然鎌倉からの勧請。神社の祭神にタケミナカタが最後に書いてある。諏訪神社の神様で,宮のある土地を諏訪といまも呼ぶから,鶴岡八幡がのっとり??
もう一つの八幡は,上代石見へ上陸したスサノオと息子や娘たちとわかれて,北上して百済海岸からこの大田へやってきてこの喜多八幡におられるという。

この百済海岸から神社への道は旧9号線と古道・石見中通りになるのだろう。それは戦前まであった波根の湖の南を通って,刺鹿を経由する。信州の諏訪神社ではお供えが鹿の頭だそうで,狩猟の人たちとスサノオと,どこか重なってくる。
また喜多八幡のお祭に高野聖がでてくる。この聖は中世人々で寺院の檀家となれなかった人々が埋葬地などに放置されていることから,その遺髪や遺骨をもって,高野山に登って供養した僧侶たちだという。神社と僧侶とは面白いが,神社そばのお寺がその結びつきになっている。銀山は戦国から江戸の時代のことだから,高野聖とは結びつかないのだろうが,この土地の人々の在り様を感じる。

喜多八幡の石段から市街地をながめて一服。そこにやはり喫煙する人が登ってきた。大田はよくわからないけど,グルーっと路地遊覧してもお茶,メシできる店をまだみつけていない。そんなうちに石見ツアーも終盤だと話したら,そうですか,だけだった。

銀山には久利から城上神社までの古道をとってみた。どこもきれいな田園がつづいて,鉱山の景色はみつからない。銀山は銀山周辺だけのことのようだ。

鶴岡八幡と喜多八幡がここも見事に南北のライン・同じ経度にある。石見ってこのパターンがすきだね。
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by forumhiroshima | 2007-03-15 17:41

石見銀山妄想続き

銀山の発見者・神谷寿偵の神谷という氏がおかしな事件にあらわれる。

銀山開発から100年ののちのこと。出雲・日御碕倹校という小野というひとが,隠岐にながされて数年のち現地で死去する。その原因は小野氏の奥方が松江藩の藩主の養女であったことでその後ろ盾をたよりにわがままほうだい。みな困って,これを島流しにした。
それだけなら,後世に話は伝わらないのだろうが,死去をしった松江藩がうごいた。やはり日御碕の上官であった日置肥冨が隠岐にわたり,その墓所に祠をたて,また松江城のそばに祠をたてた。
その手厚い死後の処置がうわさをよぶ。「じつは藩主の養女とされていた奥方は,家老神谷備後の娘で,その美しさに藩主が懸想して,主人小野を島流しにし,奥方を城内に寄せたのが真相だ。」という。

家老神谷氏と銀山の神谷氏がつながっているのかどうか,ははからないのだが,父系一致がその時代の氏なのだから・・・。はたして??
神谷寿偵と石見銀山を開発した出雲・鷺銅山の三島は日御碕のすぐ東に位置している。松江藩とこの銅山との関係はいかに??

銀山が徳川家康の支配下におかれて,その奉行として辣腕をふるったのが大久保石見守長安。彼は坑道を横堀にかえ,備中の国の出身・安原伝兵衛をつかって,すさまじい銀を産出する。あるとき大久保と安原は家康にお目どうりして,一間四方に銀を蓬莱山の形に積んで献上した。家康は喜び,安原にその出身の備中の称号をおくっている。そのとき家康が安原に自分の陣羽織を贈っているが,それが大森の清水寺にいまに伝えられている。

大久保がその鉱山開発能力から佐渡・伊豆などの奉行も兼任して,大森でなくなっている。その墓所は清水寺の南にたてられている。
地図の仙山の南に安原備中墓と山中に記載されているのもが安原伝兵衛の墓所になるのだろう。
後日談に大久保石見守長安の死後,その一族はみな家康の命令で切腹。一族はいなくなっている。なぜ!

大久保の墓をとおって降路坂にとりついたとき,ふと,もしかしたら??と変な予感。
銀山周辺の地図をつないで,五十猛神社,大屋姫神社とこの大久保の墓所,安原の墓所がおなじ南北の一直線にならんでいることを見つけた。
安原伝兵衛の故郷・備中速島がどこかみつけて,そこにスサノオやイソタケの痕跡をみつけたら,・・・おもしろいと,また神々への妄想がひろがってきた。
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by forumhiroshima | 2007-03-12 12:52

石見銀山

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石見銀山の発見と開発は1526年仁摩沖を航行していた博多の商人,神谷寿偵がはるかな山があかるくあきらかな霊光を発しているのを見つけ,温泉津まで引き返して,そこから上陸して深山をかき分け,大森の清水寺にたどりつき,そこの観音さまをおがんでいると,足元におおきな銀塊をみつけ,その銀塊を出雲・鷺浦にあった銅山の三島清右ヱ門に見せ,二人で採掘を決意した。と,だいたいのパンフにある。

この経緯にすこし疑問があった。大森の清水寺の前から小さな峠をのぼる廃路があって,峠をくだると川沿いに仁摩まで直行できる。清水寺があったほどだから,その以前から人は入っていたのだろう。それなのに,わざわざ温泉津までもどって,大森へはいったのだろうか?
仁摩への峠道は標高200mほど,清水寺が標高120mにあるから,優しい山道だろう。その峠をゆかなくても仁摩へは複数の古道がある。

といっても大森から温泉津への降路坂を入ってみないと,と中国自然歩道に。ゴウロと名づけられるほど,川沿いには石がごろごろ。トップは急坂の階段になっていた。とてもメインルートには・・?

先般,仁摩をはしっていて,ここが石見の国府が最初に設置されのち浜田郊外に移されたという説が国分寺霹靂神社で知った。この霹靂神社はまたスサノオやイソタケ,オオヤ姫などの神々が上陸したという五十猛の五十猛神社から大屋姫神社へ登ってる途中で国分尼寺霹靂神社があると標示してあった。地元の郷土史家の設置のようだった。
そうしてこの難しい「霹」という漢字をさがしていて,これがヘキ,日置とでてきた。日置は出雲大社の設立にかかわった人々だといわれて,山口から島根に日置は二つ,日がつく地名はいくらでも見出せる。古代の信仰の道具や建物の担当者の一族だという。とうぜん金属製品もつくれたのだろう。その日置氏がこの仁摩に関わって,その痕跡が霹靂神社だとしたら?
仁摩は古代の中央集権の国家の曙の条里制があったという。

この中央国家の監視が神谷寿偵にはじゃまであったのでは?彼はすでに大森に銀があることを知っていた。そうして,仁摩をさけて大森の山中にはいりこむルート,いまの中国自然歩道・石見銀山コースを開いた。彼は朝鮮半島からもたらされたという,新しい精錬技術を知っていたのだ。

温泉津の港が外洋にでる場所に櫛島がある。キャンプ場もあって,ひろい岩場に波がかむ美しい場所だ。この櫛島に城の跡があって,めずらしい海賊の城だという。そのころ朝鮮半島を荒らしていた倭寇の親分が神谷寿偵だとしたら・・・。
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by forumhiroshima | 2007-03-11 11:22

大江高山

石見銀山が石見の国のサイクリングの終盤に残ってしまっていた。

銀山街道とよばれる温泉津から降路峠から大森までは中国自然歩道になっている。自転車での通行はカツギになるので,降路峠はオシときめて,温泉津からスタート。国道9号線を交差して山道にはいった。中国自然歩道だからと,そしてちょうど地図ではルートがすこし切れているだけなので,温泉津と仁万だけを携帯。

自然歩道の標示をみつけられずに,舗装路をくだってしまって,位置をうしなってしまった。こうなると,いつものママヨ!と方向だけをきめてドンドンすすんでいく。すっごい登りからくだると,たくさんのフキノトウが道端に咲いている。今年はツクシをみつけられずに,スギナばかり。山中をすすんでゆくと,どこかでここは・・ときずいた。

先日苦労した峠にむかっていた。ここは大家だ。正面の山が大江高山。大家はオオエ。山はこの集落の名になるのだろう。そうするとこの山を一周して銀山・大森に。高山の女神・八代姫神社をとうりすぎて祖式の集落。

銀山はその銀を掘り出して,精錬するのに鉛とともに溶かす方法だったとあった。すごい鉱毒がまき散らされたにちがいない。その犠牲者の痕跡を記載したものは見ていない。銀山南に集落もない地域がある。どうもそのあたりにそんな歴史がのこっていないか?と水上という集落にはしってみた。

川の流れにそってひらかれたちいさな盆地と,その山際にならぶ民家はどこでもみられる山村の景色。伸びやかで静か。くらい歴史の痕跡などみつけようもなかった。
学校は小高い丘につくられていて,そのそばに神社がある。おおきな鳥居のおくに水上神社があった。その鳥居からみる拝殿の奧に大江高山がそびえている。標高808m。お椀をふせたと形容されるふるい火山。

銀山からは中国自然歩道ははっきりと標示されて,温泉津へむかう降路峠から湯里へとでた。そこに地域の案内がある。
「温泉津の日祖という集落に上陸した二人の神様は温泉津・小浜から峠をこえて老原をぬけて水上神社に落ち着かれた」とある。ちょうど間違ってはしってしまった大江高山周回コースになっている。その案内に水上山がきにいってそこに落ち着かれたから水上神社ともある。

ボタン雪が降り注いで,正面の大江高山をけみらせている。この山が水上山なんだと気付いた。そうなると南斜面は八代姫の女神。東西は水上神社のお二人。ふたつの集団がこの山を信仰していたことになるのだろうか?
案内にその二人の神様は海でつかう網を干すように,刈りいれた稲を四角にくんだハデで干すようにと教えられ,いまもこの地ではそんなハデをつくっているとあった。ちょうど巨大なフクロウがいるように見えるからヨズクハデとよぶのだと。

銀山というおおきな存在で,ふしぎな形にみえる大江高山をワキにおいていたのだが,銀山の仙山は,この高山の一つの尾根のピークでしかない。

すこし雪が止まって,稜線がくっきりとしてきた高山がこの地方の神様は,銀山とさわぐ人間共をきっとうざったくおもっていると感じた。
山村に和紙の原料のコウゾとミツマタが干してあった。これも山の神様の贈り物なんだろう。掘り尽くした銀もお金なら,お札になる和紙も,お金なんだよな。コウゾの干してある集会所に一万円札の会とカンバンしてあった。
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by forumhiroshima | 2007-03-09 16:23

郵便局

田舎と古道をふらふら走ってると,昔景色とでもいったらいいのか?あるパターンの光景にであう。その景色はなつかしいのだけど,どこからか立ち尽くしてしまうような,なつかしくて消え入りそうな,そんな感覚をもつことがある。

古道がきっと以前は幹線だったなごりのように,その道が交差するところにお寺と郵便局がある。その景色のずっとむこうにあたらしい車道が走っている。そんな場所が立ち尽くすところだ。

石見の田舎でそんなふるびた郵便局の筆頭は江津の本町の日本最古の建物と標示されている郵便局だろうが,ここはいまはつかわれていない。現役のものとしては,邑南町・日和の郵便局にそんな懐かしさをもっている。

先日その日和に二度目のサイクをかけてみた。江の川側から5kmで500mアップののぼり,谷峠をアップアップ。日和は砂鉄精錬の盛んな所だったそうで,集落の神社にたたら師の信仰をあつめた金屋子神社も合祀されていた。
郵便制度は明治政府により全国一斉に整備されたもので,数ヶ月でできあがったという。各地の名士が自宅で郵便局をひらいたものだそうで,そのスピードもすごいけど,お金を動かす信用がある人々がそれだけいたという明治の時代にも敬服する。

先般の銀行の救済は国がはいることで収斂したようだけど,お金をあつかうってことには,だれでもってわけにはいかない。だって無くなったらっておもってしまう人が大半だろう。それを一挙に全国にネットワークできたのがすごい。いまそんな制度を一挙になんてできっこないだろう。すぐにライフドアを思い出してしまう。

日和の郵便局には,きっと鉄山師といわれた人々の冨がどんどん入ってきた時代もあったのだろうが,この山中のちいさな盆地はいまはおだやかなもので,陽だまりの道路にちんまりとすわっている。
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by forumhiroshima | 2007-03-05 12:18

温泉

地図で温泉マークはすごく小さいので,見つけにくいのですが,見つけると,「発見!!」って興奮してしまいます。入浴するわけじゃないのだけど,どこかうれしいのです。

秘湯,秘境って言葉に弱いのですが,昭和61年に発行された,中国地方の秘境と秘湯の旅という案内の本をもっていて,走れない時期には時々とりだします。
その中に石見の秘湯という案内があって,印象深い記事がありました。地図にも温泉マークがちゃんとついていたのですが,新しく買った昭和13年修正版ではなくなっています。その温泉は南山温泉といいます。

石見銀山の南にボコボコとした容姿が印象的な大江高山があり,その麓の八代姫命神社に白鳥伝説があって,このハクチョウの伝説を背負った人々がここに渡来していたと思ってしまうのです。このハクチョウ伝説は出雲三沢にもあります。車道の脇にその神社はあります。
先日その神社前をとおって北上していたら,大江高山の全景がみえる谷にはいりました。そこにちいさな案内がたっていて,八代姫の奥宮が大江高山の中腹にあるとあります。そこから沢が流れて,深い谷をつくって江の川へはいっています。
その谷に南山という数軒の集落があり,南山とは大江高山の南ってことでしょう。高山を信仰する人々の集落ともいえるのかもしれません。そこに温泉があったのです。

「秘境と秘湯の旅」に南山温泉は明治43年に創業。建物は代々の主人が思い思いの趣向をこらして建て増しされており,とりわけ丘の上の母屋と河畔の浴場をむすぶ階段状の渡り廊下は意匠にみちている。白壁に竹の格子をはめた丸窓が並ぶ。丸窓をとおして庭や薬師堂をのぞきながら54段の階段を踏んで浴場へ降りてゆけば,禅寺でもあるいているような深閑とおちついた気分になる。松材をつかった小さめの湯船も素朴でいい。現在は老夫婦二人だけできりもりしている。
この案内のあとに石見交通バス南山鉱泉前下車15分とある。このバス停も南山入口と名が変わっていました。

石見はたくさんの温泉があるところで,案内書にもでていない,ネットでも掲載されない場所をたくさんみつけました。
自転車ではしていて,その途中でザブンとはいかないので,せいぜい出発到着の地点に温泉をきめて,入るぐらいです。でもおおくの温泉は入浴のみの客用でなくて,料理と温泉とおもてなしというスタイルで昼間は開いてる様子はありません。

温泉施設はきれいで,露天もあって,自動発券機に料金をいれて,入浴して帰る。ときには誰とも話もしてない,って入浴パターンをやってるのですが,それはそれとして,うずろうしくなくて,いいのですが,そんな入浴では温泉はわからないのかも?と,この石見ではおもいました。

南山温泉の渡り廊下をゆかた姿で降りてこそ,温泉がすばらしい時間になるのでしょう。そんな温泉ライフが当然としているこの石見の生活が,望ましいようでも,すこし古臭いようでもあるとおもったサイクリングです。
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by forumhiroshima | 2007-03-02 10:58


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