こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
カテゴリ
以前の記事
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
フォロー中のブログ
最新のコメント
You ought to..
by parajumper at 15:36
Latin shema..
by williamyb4 at 13:25
louboutin pu..
by christian at 10:00
I blog frequ..
by ray ban ne at 13:12
Heya i'm for..
by canada goo at 09:04
http://silde..
by sildenafil buy at 23:40
Laterget htt..
by oripsojo at 20:23
http://www.g..
by nike roshe at 00:14
http://www.w..
by nike mercu at 11:58
Indelicate ..
by allanjy4 at 08:37
メモ帳

<   2007年 11月 ( 5 )   > この月の画像一覧

出雲古代王朝

熊野大社で古代出雲の国造が世継ぎの儀式をおこなっていて、今もその儀式はつづけられていることが、いかにも出雲だと思わされる。

がこの国造・クニノミヤッコ(コクゾウ)は熊野大社にいたわけではない。熊野大社下流の大庭の神魂神社(大庭神社)に居住していた。いまも国造住居跡という表示がされている。

アシハラノナカツクニ・出雲の王であったオオクニヌシは、そのとき「高天ケ原」にいたアマテラスオオミカミが孫のニニギノミコトをこの国・アシハラノナカツクニに降臨させるにあたって、先発隊を送ってきた。タケミカズチとフツヌシがその先発隊の大将だ。国を譲れとせまった。その場所が出雲大社の西の海岸・稲佐浜。否、然、イナサ。

オオクニヌシは長男のコトシロヌシに相談、国譲りをきめる。その後コトシロヌシは海へしずんでしまう。
「高天ケ原」から進駐軍が大庭へ駐留する。その司令官がアメノホヒ。彼が出雲国造の祖先になる。そうしてニニギノミコトの降臨のタイミングの報告をまつが、なかなか報告してこない。アメノホヒの長男タケノクマノウシも送り込むがうまくゆかない。そこで「高天ケ原」は決断する。オオクニヌシを「天日隈宮・アメノヒスミノミヤ」に住め!これはオオクニヌシを殺害して、神に祭り上げたといわれている。出雲大社では神殿の正面でなく西向きに祭られていて、西の国・あの世へと向かっているという。

コトシロヌシの子孫が千家、北島家となって出雲の進駐軍の永遠の支配者になることになった。神魂神社では大祖アメノホヒは東にむかってあるという。ただこの司令官の一族は出雲のオオクニヌシを祭ることだけを使命とされた。「高天ケ原」政権の指令をまもることが掟となった。

司馬遼太郎が新聞記者のころ、この現代の国造の千家に祖先を語るという記事を頼んだことをかいている。千家からの返事は「わが家は古来、大和民族の政治にふれることはできない」であったという。

出雲の進駐軍は、いつか出雲に祖先が報告できないでいたように、同化してしまった。アメノホヒの後、後日大和朝廷が出雲の神宝を奪取している。このときイズモノフルネは神宝を大和へ提出した弟・イイイリネを殺し、逆に大和から派遣されたキビツヒコに殺害されている。司馬さんはこのことを、出雲王朝はアメノホヒが支配していても、オオクニヌシの支配下に精神はあったと述べている。

そのオオクニヌシの支配する出雲古代王国が、いまも出雲人には現存していて、片道3時間もかけて、そこらかしこを走っている自分も、その王国の住人になりつつあるのか。
それって、べつに問題ないじゃん!
d0089494_15333022.jpg

神魂神社の拝殿は、木漏れ日に映されていました。
[PR]
by forumhiroshima | 2007-11-30 15:36

熊野大社

出雲国庁のある大庭から川をさかのぼるところに、出雲一宮・熊野大社がある。出雲では出雲大社が一番のようで、このたびできた出雲古代歴史博物館は出雲大社横に設置されている。

出雲大社の国造が死去されると、その遺骸を生きているように座らせておいて、その後継者は松江市の南近郊の熊野大社まではせ参じる。いまも熊野大社の境内にある鑚火殿・キリビデンでウスとキネで火をおこす。その火を出雲大社へ運び、一生その火をたやさないとした。そのとことによって、あたらしい国造が誕生し。先代の遺骸は古代赤い牛にのせられ、出雲大社の東にあったという池に沈められた。

その後、その神事は大庭の神魂神社・カモスジンジャにうつり、そして出雲大社へと移転されているという。この火起しの神事は形をかえて、いまも鑚火祭として10月にとりおこなわれている。出雲大社はその建立はさだかではないようだが、熊野大社がこの出雲の主たる神であったことは、その建立より前であったことは、この新しい国造の誕生儀式でも推し量られる。古代かた熊野大社は一宮であったことになり、出雲の古代歴史博物館は、ほんとうはこの熊野大社に設置されてもおかしくはなかっただろう。
が、熊野大社の前にこの神社の由来の表示があって、そこに初詣の参拝の数は出雲大社に告ぐとあった。

それほどの神の社がある場所を走ってみようと。
大社からすこしさかのぼり、古代この神が鎮座されていたという天狗山の登山口付近までくると、イチョウの大木の下に軽四トラックがとめてあった。大木は数本もあって、その一面が黄色の落ち葉で埋め尽くされている。どこにでもある景色なのだけど、それを発見すると、ドキドキとする。落ち葉の中をご夫婦とおもわれる、トラックの持ち主がしきりに落ち葉のなかからキンナンを集められていた。その奥に石組みと石段があって、そこは以前明治まで熊野大社の上宮であったところだそうで、そう知らなくても神々しい。

その前の川をさかのぼると、道は急坂となって山中へ登っていた。今回はその峠に入らず、すこし戻って、この谷の西側の尾根に点在する集落えおたどる古道へと入った。

この熊野大社の谷は一番奥の引き返した峠以外に谷を抜ける古道は両側にないのだ。尾根から流れる小さな支流のある谷も行き止まりに地図で確認できる。
この谷はすごく強く地形に閉鎖されていて、そうしてそこにこの神がおられる。それがナニを示しているのかはわからないが、古代ここに神を感じた人たちがみた光景がいまもつめこめれていて、自分がその心象をわからないだけなのだろう。

尾根の道は結構な急坂ですこし冷たくなった風もしみだす汗を寒いとは感じさせない。道がやっと下り始める真正面に杉の濃い緑の間にまっ黄色の壁がみえた。その黄色へ飛び込んでゆく。これがこの季節の醍醐味なんだ。

一軒屋にならんで、上宮でみたイチョウよりももっとでっかいイチョウが、タワワに色づいて、晴れた空にそびえていた。イチョウをすぎ展望が南へと広がる。その正面にちいさな三角のピークを持つ天狗山。その奥に山々がつらなっている。
この閉鎖された谷のその奥にそびえる山。そうでなくて、谷をながれる川の果てしない川上。水がながれくるその奥深く、どこまでも伸びてゆく水脈をみたような気がした。
d0089494_197796.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2007-11-29 19:07

社会科の時間

出雲国庁跡周辺は遺跡の集合地帯で、古墳が子供たちの遊び場になってるようなところだ。
その遺跡はひろい平地の田んぼの拡がりをかこむようにある山すそに点在している。遺跡に表示の案内板がつけられて、自転車ころがしてるより、とまっている時間が多いほど。

中央の田んぼは古代条里制のままだそうで、天平古道とか、枉北道・キタニマガレルミチとかそのすこし大きなあぜ道ほどのまっすぐな道も表示してある。古代の道を走ってるのか!と、不思議な気分にひたってしまう。

この道たちは、現在の地図にはなくて、現地にいってしることができた。出かける前に25000分の地図に走ろうってコースかきこんでると、春日と日吉という地名をみつけた。古代の豪族たちの名で、出雲が国譲りされて、ここにやってきた大和朝廷の人たちって感じだ。そこにおのおの神社マークがある。日吉は小野氏の神社・日枝神社ともおもえる。ここに神納という場所もあって、神々に仕える人々の名残・・なんて妄想もひろがっていた。

国庁跡へ入る前にこの土地と神社へ。春日には春日神社。日吉では長い急な石段の奥に剣社があって、ガッカリしたのだけど、そばに日吉神社の祠。そうだろう!豪族たちの今なんだ、なんておもって喜んでみた。
集落は路地がくねくねとまがって、もつれた網のよう。・・・・まてよ?ひろい中央の田んぼそばでなくて、片隅にまとまって集落がある。

宮本常一さんが、古代条里制では土地の所有が個人でなかったため、条里制ののこる土地には集合した集落がのこるのだといっていた。古代からの住人たちの集落ってことになるのだろうか?晩秋の昼下がり、庭では大豆を干して、それを叩いて豆にされてる老婦が、そこかしこにおられた。
国庁跡に入ってみる。丸太をずらりと並べてあって、それが建物の柱の跡だとある。その跡地の入り口に沢山の箱とそのなかに欠けた食器がずらり。その向こうに数人の人たちが、地面を掘っている。発掘調査がおこなわれている。

おそるおそる近づいてみた。みなさん、忙しそう。写真をとっていると、若いやせたメガネさんが話しかけてくれた。国庁の親分・国司の住居跡の発掘だそうで、全体はすごく広いものだが、調査は一部、ほんの少しで行なわれていると。社会科の見学みたになったね。
d0089494_1953550.jpg

そうして、国庁全体の広さを指差しで教えてくてた。すっごくひろい。出雲の霞ヶ関って感じ。ここに赴任した高級官僚たちが、いま走って見た、入り組んだ集落に関係してるわけない。自分の所得をつくる土地だったのだろうな。いまも昔も!!!
[PR]
by forumhiroshima | 2007-11-16 19:54

出雲風土記・記

風土記をトレースしているのだが、出雲国はひろい。
訪れた土地に風土記の記述ある所を見逃していたり、とたいへん!

それでもいよいよ風土記が書かれた場所だろう出雲国庁跡へ。この場所は特定できなかったのだけど、古い地面図にコクテイという記載をみつけて、発掘されたのだという。出雲風土記は有名であり続けたのに、場所ってわからなくなるもののようだ。

風土記で神様ヤツカミヅオミミヅヌノミコトが韓国や北陸、などから引き寄せたことからこの出雲ができあがったと、有名な国引き神話を記載している。この国引きで引き寄せられた土地は、自分が理解するかぎり島根半島になる。出雲全体ではないようだ。
その神様がその国引きを終わったとき、国庁のあった大草・サクサ(神様の時代に国庁なないだろうけど)で「今は国引きおえつ」とのたまいて、意宇・オウの杜に御杖つきたてて「意恵・オエ」とのたまいき。故、意宇・オウという。続けて風土記は{いわゆる意宇杜は郡家の東北のほとり、田の中にある小山なり。めぐりて八歩ばかり、その上に木ありて茂れり。}と記述してあり、とある。この杜は現存しているという。

出雲国庁がわからなかったのに、この神様の杖のある杜が現存しているのは、風土記にもかかれてないヤマタノオロチのいた場所がそこらじゅうに散らばっている出雲らしい。国引きを風土記の巻頭にかかれた著者・出雲廣嶋さんの勤務する場所そばにある杜を見なきゃけない!

風土記の丘公園の東にひろがる田園の中央に天平古道とか、その隣に十字街・チマタと推定される、田んぼの中の交差点とかのそばに、小さな茂みがあって、また小さな祠がその茂みにかくれて、そこに表示がなければこれが??になっただろう。そばに駐車した計四で見逃すところだった。

出雲の人々は不思議な人たちだと、この風にちぎられそうな御幣をもどしながらつくづく感じる。国中をあげて、今と風土記の時代、いやもっと古い銅剣や銅鐸の時代、いや神話の時代をむすびつける証拠をさがしつづけている。
それが、きっと明日への予言であり、安心であるかのようだ。1300年もたった神話の杜が田んぼの中で晩秋の風となったなかに、現存していると疑っていない。負けますね。

表示にその杜の中心の木がタブの木だとあった。この国に漂着した祖先が彼の旅立った国の海岸にあった木・タブを、いまにこの場所においている。おおきな精神だとおもった。
d0089494_1828850.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2007-11-15 18:28

天満宮

来待川。源流は和名佐山より出て、西に流れて山田村に至り、更に折れて北に流れ入海に入る。年魚あり。と出雲風土記にある。アユがいたらしい。
風土記にでる山の名がいまの地図にあることはめずらしい。それほど地名というものは変わる物でもあるようだ。川がまがる山田という地名もいまは無くて、菅原という地名に変わっている。

そこは民家もまばらなところだったが、えらく幟がたっていて、週末と祝日が開店の出雲ソバのお店があったりする。そこに天満宮があった。

もちろん菅原道真がまつられている。玉造温泉の端にあった天満宮とはえらい違いに参拝してみた。

菅原道真の祖先は土師氏といって、大阪の河内にいまも土師ノ里というところがある。ここが故郷になっている。この土師氏は名のとうりに土師器をつくることができた人々だったという。古代この人々は古墳のハニワをつくっていたり、その祖先の・野見宿禰ノミノクスネはそのハニワの考案者であったり、相撲をとった最初の人物だとも。ノミとかノウミとかの地名の場所には陶器の材料になる土があるのだそうだ。能美島も関係してるのだろうか?

この菅原の天満宮に略歴がかかげてある。その野見宿禰は播磨の国竜野で亡くなったと書記にあるのだけど、宿禰は出雲の人でその墓を出雲墓と呼んだとある。出雲の出身であったようだ。その宿禰の分骨がこの神社に祭られており、菅原道真のお父さんが出雲大社にきたとき、ここにその墓参りにやってきて、この里の乙女をみそめたのだそうだ。乙女は懐妊したのだけどお父さんは都にかえってしまった。生まれた男の子はすばらしく出来がよくて、あるとき都にのぼって父子ご対面があって、その子は成長して道真となのった。で、この菅原が本当の誕生の地になる。とあった。

古代に分骨という習慣があったとはおもえないが、出雲の人々は古代そんな人生にかかわる能力のある人々であったという思いにはなった。この菅原の天満宮は松江のお殿様になった松平藩主からの保護が特別にあったようで、そのころの本殿がいまにのこっている。

古事記より二十年後に書かれた風土記にない事が、いまの出雲では当たり前にあることが多いのだけど、ほほえましいというか、この地の誇りなんだというか、そんな古代の香りを感じさせてくれる。とってもイイ!

天満宮はその土地の境になるところに多いと宮本常一さんはいってる。この菅原が境にした奥に和名佐の人々の土地があって、そのまた山奥に人々がある。古代からある。この境界はどんな区分であったか?も興味がある。田んぼなんて、細い谷あいにあるだけのところだから。
d0089494_17464077.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2007-11-05 17:47


最新のトラックバック
presiden jok..
from plus.google.com
venuscozy.com
from venuscozy.com
whilelimitle..
from whilelimitless..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
fashion mich..
from www.mikaelkors..
biber hapi
from biberhapisipar..
iphone 7 cas..
from myiphone7cases..
máy xay cầm ..
from goo.gl
ultimate testo
from ultimate testo
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧