こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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再生へ

出雲・玉造温泉から大谷というひろい谷間に走っていると、山際の森に一本のおおきなのぼりがたっていた。ちょうど秋祭りの時分、そんな目でみていた。いつものクセで神社の名を知りたくて、のぼってみて、驚いた。「一人女神社」とある。こんな名ははじめて。演歌みたいだと、小さな境内のちいさな祠をおがんで立ち去った。が、どうしても気になっている。

熊野大社の谷を山へと詰めて走ると、熊野大社の上宮という、いまは石の標柱だけが大木のしたにある広場へでる。そこは熊野の神が古代鎮座されていた天狗山への分岐があるだけのところ。神が鎮座されていたのだから、と、天宮山・テングウとでも読むのかその標識がたっていた。民家も数軒。その場所に市場と地図にあった。

島根半島の中央の佐多神社そば、そこが行き止まりになる谷にも市場という名をみた。

通常市場とよばれる場所なら、交通の要所だとか、賑わいの場所だとかになろか?がこれに該当してるとはおもえなかった。

世界遺産登録でにぎわっているときく大森の石見銀山からはなれて市という場所があった。ここは古道も銀山街道もとおくはなれていた。
鉱山夫たちの買い物の場所ともおもえない。そんなところで地名なんて、いろいろ。と頭のどこかにおいておいた。

古代処女が神の子を宿す話は多い。その神は蛇であったり、雷だったりしている。神は女性に宿ると信じていたようだ。その神の信託がその女性にくだる。
男たちも負けてはいない。不老不死を願って修行する行者は女人禁制の場所をもうける。時分が神になろうとすると女性は邪魔なんだろうか。

青森の恐山のイタコや沖縄の巫女はあの世からの言葉を伝え、病気を治したりできるという。それは死者の再生であったり、健康への帰還であったりする。ちょうどあの世や元気だった、若かったあのころからのテレビ中継のようなものなんだろう。今のテレビ局の女子アナにも近いものがあるのかもしれない。
そんな巫女たちをイチコと呼ぶと出雲できいた。

単に妄想なんだろうが、イチコのいる場を市場ってしていたのじゃないか?一人女神社の神はそんなイチコたちであったのじゃ????と思い始めた。

今からの人生の展開をきっと良い方向に再生したい。その手がかりを聞きたい。死しても再生して声をこの世に伝えたい。そんなとんでもないことをしてくれる人・・だったのだろう。
ちょうど万能細胞をつくりあげた教授の存在を受け入れる今と同じ気持ちではないだろうか。いらんことだけど、万能細胞はガンになるDNAを細胞に入れることによりできるとあった。さて、うまく働くのか?

お正月は、そんな巫女や細胞の手を借りることなく、人生を再生し再び活動するターニングポイントになる。年が再生す。私の脚力もあの昔へと再生してくれると、信じてみよう。一人女神社のお祭りにでくわしたのだから。
みなさんにもそののぼりの写真をおとどけします。もっと速くなりましょうね。
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よい年をお迎えください。
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by forumhiroshima | 2007-12-30 17:13

山上の人・展望をもとめて

稲作をこの国にもたらした人々から弥生という時代が生まれてきたという。がその時代に人々が一斉に標高200mもあろうかという山の中に移動をはじめたときがあるのだそうだ。高地性集落と呼ばれる。

五日市にそびえる極楽寺山の南の斜面、お寺の西の尾根の高いところから、先般の台風で崩落した場所から、たくさんの弥生時代の土器がみつかったりしている。居住していたことになるのだろう。西日本のそこらじゅうからこのような集落跡がみつかっている。

稲作がまさか尾根でできることはないのだから、この現象がどうして起きたか?いろいろ見解があるようだ。
ちょうど戦乱の時代だったということで、見張りとか、いや聖地だとか、ある。その見解に新しい意見が加わった。
それは高く上がって、眺望をしなければ、という欲求がでてくる時代だからだという。それは交易やそれに付随する諍いが、生活の領域に発生してきたことにあるのだという。耕して、日々の営みを考えていればよかった時代からの転換の不安を人々が高地にあがることによって、その展望を持とうとした、という見解らしい。

出雲だけでなはないのだけど、山頂に神社や仏閣があるところがある。そこに自転車であがろうと、年甲斐もなく挑戦したくなるのだけど、このとき、自動車はまさにこの国の道を平坦にした機械だとよーくわかる。そして歩いて高地に日常あがったり下ったりする集落って、昔は大変だったと実感する。
いま出雲の宍道湖・中海の南の山ろくに谷をつめて走っている。出雲風土記で、そんな場所にある神社を列記してあるからだけど。

熊野大社のある八雲村の谷をつめて、尾根を東に越えて、また谷を下る。桑並川の谷から東岩坂川の谷へ、のルートの折り返し地点に星上山という、山頂に神社と寺がある。そこは松江の東の広瀬との分水嶺で、これをこえる峠に駒返峠のトンネルがあって、古来馬でも越えられないって名がのこってるほどの急坂がまっている。が、そのルートぞいに幾つもの集落が、ほとんど数軒でしかなのだけど、点在していて、軽四がブンブン走っていた。山頂へは車道があがっていて、集落から山頂までの2kmの長かったこと、トホホ。

星上山は風土記では荻山・オギヤマと記載されて、そこに那富乃夜社という社ものっている。夏だけの営業のロッジもあって、山頂から松江と中海が展望できる。その向こうの島根半島をふくめて、手元の地図どおうりの地形がみえた。曇り空で、スッカとはしてない。が、なぜか気分はよい。神社も風土記とおなじ名で、風土記のかかれた、そんな昔からあったってことが、風土記トレースのサイクでは、うれしいのだ。

日常の繰り返しの中で、今までどうりでは、イケナイ!って、どこからか聞こえてくるような、そんなプレッシャーのある今、たしかに高いところにでもあがって、これからの先がみえたらいい。弥生時代にもそんな時があったのだろうか?同じじゃないか!
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なんとかヒルズの高層ビルの住人のみなさんも、同じなんだろうか?

新しい年、くぎりの時間がまたやってくる。山上の人に、なってみるのもいいのでは!!
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by forumhiroshima | 2007-12-28 13:40

出雲の宝

加茂・神原は出雲風土記で神財・カムタカラを神原・カンバラと呼んだとある場所で、そこにある神原神社の古墳の発掘から鏡が出土していて、これが風土記のいう神宝か!ともいわれている。

この神社正面の赤川の対岸のすぐ奥の山中で銅鐸がたくさん発掘された、加茂岩倉遺跡があるし、その尾根を越えて宍道湖へ下るところに、銅剣と銅鐸が日本最多で発掘された荒神谷遺跡があって、そこは神庭という地名になっている。この遺跡を結ぶ歩道ができていて、ウオーキングイベントの案内が遺跡にはってあったりする。この一帯は出雲の神宝の宝庫って感じがする。

八口神社からでて、赤川と斐伊川の合流する川原にいってみたくなって、赤川河口をさがしてみた。そこに尾留明神とかかれたカンバン。ひろがった田のなかに小山がひろがっていて、そこに上る。表示にそって小山の斜面に民家がつらなって、その間に道がのびあがってゆく。道端の雑木の間から斐伊川のひろい、川底の砂がのびているのが見える。季節を見るような、初冬の日差しがその砂をしろく黒くゆるい陰影をつけている。風が気持ちいい。あたたかい冬って・・。

斐伊川の川原をみくだす丘にその神社があった。留尾明神は御代神社の別名だった。このあたりを三代という。神社の表示に主神から説明があって、その欄外に天叢雲剣・アメノムラクモノケン発祥の地とある。あの三種の神器、天皇家の象徴の剣、ヤマトタケルの草薙剣のことだ。
スサノオがオロチを切ったとき尾で自分の刀が刃こぼれをした。切り裂くとそこに剣があって、スサノオはそれを姉のアマテラスに贈ったという。この剣と鏡と勾玉が神器になる。
その剣の発祥の地とはどういったことか、その剣を作ってそれをオロチにとられたのか、スサノオがその剣を見つけておいて置いたって場所なのか?

まさに出雲の神社は個性豊かだ。

確か源平の合戦の際、この神器は安徳天皇と下関の海に沈んだはず。源頼朝にとどいた報告に神鏡・神璽ハオワストイエドモ、宝剣ハ紛失、愚慮ノオヨブ所、コレヲ探シ求メ奉ル、とあったはず。が、いまは名古屋の熱田神宮に納められている。そこらのことはわからない。

この剣は神宮の御神体であって、見ることあたわず、なのだそうだけど、江戸時代にこの宮の神官が覗いたという。それは三重の箱にその箱の間を粘土でうめてある、その中にしろくあったという。箱は五尺だという。こんな文章を発見してくる学者もおもしろいが、そこから考古学者の森浩一氏は銅剣ではないか?といっている。
森氏は出雲荒神谷遺跡の銅剣について、1991年に発表された東京国立文化財研究所の報告でこの荒神谷の銅剣は谷かその近くで鋳造されている。とあって、出雲での生産、それも荒神谷に近い場所であることをしめしているという。また大きさも荒神谷の銅剣に木の柄をつけると、草薙剣ににてくると。また荒神谷での銅剣の埋葬方法も特殊で草薙剣のありようと関連がありそうだとも。

草薙剣がオロチの尾っぽにあったことも、海に沈んで行方不明になったことも、それが今名古屋の熱田神宮にあることも、そんなことは、たとえ天皇である象徴の三種の神器であっても、その剣はわれ等がここで作ったのだよ!!なんて聞こえてくるようだった。

赤は銅で黒が黒がねの鉄、いまいる場所が赤川の河口で風土記のいう、神宝の場所、です。
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by forumhiroshima | 2007-12-22 15:25

矢、八??

「私はこの十余年、日本各地の神社を訪ね歩いているが、出雲ほど個性豊かな神社があるところをしらない。そうした個性ゆたかな神社を作り上げるために出雲の人たちが長い時間かかって積み重ねた努力、それを出雲の文化と私は呼ぶ。」谷川健一。

平凡社から1978年、もう三十年も前に古代の旅第1巻として発行された「出雲の神々」にある文で、自分が一番なっとくできた文章だ。

先日出雲加茂でそこに流れる赤川と、斐伊川と合流する地点を走ってみた。銅鐸がたくさん発掘された、加茂岩倉遺跡のそば、神原の西にはずれに八口神社を訪れた。古代国府のあった出雲大庭へ熊野大社のある谷をでてくる意宇川が大庭の平野にでる場所にその流れをとめる小山があり、干潟ができ、そのため洪水などの災害があった場所が、その干潟に古代の最初の集落が稲作をはじめた場所になることを感じた。この様な河口にできる干潟は、たとえば石見大田の波根も、出雲の神西湖も。大阪だって大阪城のある場所は湖の中だったというし、奈良も湖だったし、京都もそうだという。

そんな場所が小さいけど、出雲加茂にあったときいた。八口神社の名はてっきり河口がたくさんでてくる場所ってことかと、期待していた。杉の大木の中にその神社はちょうど赤川を背にして、その向こうに小山が二つ。この間を川がながれていた。神社にカンバンがたっていて、正面の小山はつながっていたが、川の流れをさえぎって氾濫を起すため、江戸時代にその間を開削したとあった。氾濫の危険のある場所での稲作の営みは、水の神様を祭ることになるのだろう。

神社の掲示があった。そこには、スサノオが八つの頭を落としたことから八口という。また出雲風土記では矢口社とあって、やはりスサノオが酒に酔ったオロチが寝ているところへ矢を放ったことからともいう。とあった。

アレー!!。頭おとしたのだから八頭だろうが!なんて。
ほんと出雲の神社は個性豊かだ。
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by forumhiroshima | 2007-12-21 19:24

ありがたいイノシイ

「弥生時代の始まりは、うっそうたる森林におおわれていたこの国の海岸が、海の後退によってできたひろい平野に、長身の人々が幾艘かの舟から降り立ち、その海岸砂丘の後ろにせき止められた干潟や湖の湿地に稲の種をまき、営みに入ったことから始まる。佐原真」

その光景から2500年とも2300年とも時間は経過してきたのだが、そうしてその森は失われ、海岸はコンクリートでかためられてきたのだけど、その土地にながれた時間はそのときから綿々とつながっている。

出雲風土記に記載された土地として、島根の方々を走ってみるのだけど、そこに風土記に景色があるではない。が、神西湖と斐伊川、中海がその昔、弥生時代に人々にとって、求めていた土地であったこと、その土地を500年もくだった奈良時代にかかれた風土記も、この地におきた歴史をさがしてかかれたことは、なんだか伝わってくる。

ちいさな社に登って、そこが風土記に記載された神社であったりするとき、時間はワープしてしまう。

風土記には、またその土地の地名が記載される。

出雲は温泉の国だ。その中で宍道湖の北海岸の西端の平田のおおきな温泉施設がきにいっている。夕刻その湯は地元の人たちでにぎやかになる。走り終えて湯に飛び込む。ジーンと筋肉が伸び始めると、人たちに話し声が耳にとどいてくる。
が、じつはほとんど判別できない。出雲人は、「平田は出雲弁が一番ひどいよ」とわらっている。こちらのイメージを、松本清張の小説のイメージからか、出雲弁は海岸線でなく、中国山地の山懐にあるのかと持っている。

風土記の地名の由来は、へたなシャレ以下でこじつけにおもえる。

宍道湖の南海岸の来待川の尾根を西に越えると白石という場所になる。ゆるく上る田園と、そこに入り込む尾根と、その境に点在する民家。道は新しい農道とその境の家々をたどる古道とが交差して、「自転車しかない!」ルートが続く。そこに鳥居が大きな岩にはさまれて石宮神社がある。風土記では「オオクニヌシが追った猪・シシの像が二つある。またそれを追った犬の像もある。今もある。故に宍道・シシジという」。宍はシシ、イノシイってことかと、納得するでなく、納得するのが、由緒ただしい風土記だからこそ。
が、この美しい湖がシシの道って名とは。ちょっとセンス疑うな。シシジがシンジなんてシンジれん。

風土記ではこの手の地名解明がつづく。吉本興業も相手にしてくれない編集者の出雲廣嶋さんです。でも、あの平田の温泉で聞いた出雲弁は、きっとそんな解釈になるのかな?と。
そうなると出雲国造家は、やはり、出雲へやってきた新参者ってことになるな。でもこの道を最初に開いたのが宍なら、それはそれで、認められるよ。なんと楽しい上り下りなんだろう。
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この写真は石宮そばでみつけました。シシ岩の候補はまだあるそうです。
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by forumhiroshima | 2007-12-10 18:17

稲穂

広島駅の横・あいゆう市場の交差点に露天で、早朝から小いわしの刺身をうっているおじさんがおられる。旬には大量にさばいてある。広島の小いわし文化はこの人で支えられているとおもおうほど。このおじさんが年末には注連縄かざり売りになる。いわしもあがらないのかもしれない。ここで注連縄かざりを買う。そのかざりに稲穂がついていて、年明けに店頭につけたかざりからこの稲穂がなくなっていて、きっとすずめ達のしわざだろうとおもっている。

すずめが店ちかくにけっこういて、店先に台をつくって稲穂をおいてやったら、楽しいか?とおもってるのだが、稲穂は手にはいらない。

稲穂を神様に飾ることで、伊勢神宮で玉垣にかけてあるのをみたことがある。これをクマカケと呼ぶのだそうで、稲をクマともよんでいたのだそうだ。稲刈りが終わると、神様も熊も山にこもることからだという。なんだかアイヌの神様と同じにおもえる。

出雲の熊野大社は稲の神様であるそうだが。その神様はスサノオになっている。これには訳があって、古事記や日本書紀で出雲の神様はスサノオとその子供になるオオクニヌシノミコトだとなって、出雲風土記を編纂した出雲国造の廣嶋さんのお父さん、果安さんのころだと。お父さんは古事記が編纂されてすぐ、大和朝廷にでむき、神賀詞・カムヨゴトを天皇に奏上したという。この中で、古事記では出雲に派遣されたのに、国譲りを成功させずさぼっていたと書かれた祖先アメノホヒはちゃんといろいろ苦労しました、なんていってるのだそうだ。が、反抗するのでなく、古事記に記載されているとうり、出雲の神々はスサノオさんの息子たちですよ、現地報告もしている。そうして出雲大社が大和朝廷の力でできた際にはそのお祭りの主になったと。

しかし、その息子の廣嶋さんは、風土記にスサノオのオロチ退治なぞこれっぽっちも記載していない。ナンデ!だろう。

話は飛ぶ。出雲平野をはしっていて、大社から平田へ向かうと、そばの川は西の大社方向へながれる。目の前には斐伊川のおおきな堤防がすぐさき。斐伊川は平田へとながれて、ちょうど西へ流れる流れと東へながれる斐伊川に挟まれて走っていた。
斐伊川をこえるとそこは東へながれる疎水。斐伊川の西側の疎水は西へ。その中央に斐伊川。川が高い。出雲の人々の水との付き合い方にすっかり感心してしまった。

先日の忌部の集落の川はその山間からの出口が狭まっていて、今は千本貯水池となってとどまっていた。もっと西に神西湖も差海川で日本海に流れ込むがこの川は江戸時代に開かれていて、洪水の危険がなくなったという。
出雲国庁のある大草・大庭の風土記の丘から神納という場所が川上になるのだけど、神納峠というちいさな幟から日吉の集落にはいる。その下った場所に、宮内庁認定のここが古事記記載の比婆山でそこに葬られたというイザナミの墓がある。ただ比婆山とイザナミの墓は全国十数か所にあって、だからここが由緒正しい宮内庁認定。鉄柵でかこまれていた。

その前に日吉切通しがある。江戸時代にここは川の出口であったが狭くて、大雨のたびにそこらが水没するので、周藤という町人が高さ20m幅30mにわたって個人で掘削したのだと表示板がたっていた。そうなると、ここから川上はおおきな湿地帯だったことになるのかな。

柳田國男はこの国での最初の稲作は水溜りに稲をそだてることから始まっていて、そこでは雨を当てにする以外術はなかったという。

そうならこの神納から川上はおおきなため池を自然にもった稲作適地であったのだろうか。切通しから川上に広い水田がひろがっていた。そのもっと川上に熊野大社が鎮座されてある。

出雲国庁も出雲国造もその切通しの下にあって、米の神様を閉じ込めるように、見張っているようにおもえた。熊野の神様はアイヌの神様につながるのだろうか?
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by forumhiroshima | 2007-12-07 17:10


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