こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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ソラ

備後の国をうろうろしている。最初の予定では岡山の倉敷へながれる高梁川流域をまずはうろうろと思っていたのだけど、ニホツヒメ命さま追っかけで西城や高野へ。

初心のもどって、江の川と高梁川の分水嶺、中山峠へはいろうか?と。中山は古代吉備の国の中心の吉備津彦が鎮座します備中中山を連想するが、峠にかかる庄原よりに蘇羅比古神社がその幹約6mという二本のスギを門柱に鎮座いたしている。ソラヒコのソラはいろいろのところで出会う地名で、出雲にも二つならんだ空山がある。
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「ソラス」というが、あの流川の飲み屋のお姉さんが使う手で、苦い思いしかない言葉だ。引っかかる未熟者ってことだけだったのだろうが。これは一説に焼畑農業でいったん畑を野に返すことをいう。そうなると畑は草地になって、時代が下って牛の放牧や飼料とりの場所となったのだそうだ。

が、蘇という字が気になる。蘇は古代のチーズで当然牛にかかわる。まだある。スサノオは挑戦半島でソシモリに降臨したという。古事記のソは蘇とは書かれていないけど、そのソシモリはソの村、町ということだともいう。

蘇羅比古神社は7世紀後期にはここにあったと教育委員会の表示した説明文がある。二本の大杉はそのときに移植されたのかも?と説明文が読める。神社横一帯は古墳群の集積地でここがそれだけ神聖な場所であったし、古墳時代に自分が今立ってるってことでもあるのか。出雲風土記より古い。

蘇塗というものが朝鮮半島にはあって、鳥の形のものを竿のてっぺんにつけて立てておく魔よけがいまでもあるのだそうだけど、このでかいスギをそんなおまじないにつかったのかも?神社は国道からすこし登った場所にある。聖地らしい雰囲気もただよって、これから車の多い国道をヨタヨタあがってゆくすこし勇気がでてきた。
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by forumhiroshima | 2008-11-27 18:00

源泉かけ流し・200円

寒いサイクリングができるのは、終わったあとの温泉がセットされていることが必要です。

散々に雪道をうろうろして、やっと大東の町並みに入ったとき、さて”どこに行こうか?と思案はじめた。お風呂の雰囲気が出雲湯村。すこし遠い。

出雲風土記にこのあたりは海潮郷。二つの源泉が記載されている。その一つがいまの海潮温泉。ここに町営のかじか荘がある。「ここにしなさい」と神様がいってるようだ。

ここは「温泉」です。という、キッパリとした温泉。長い湯船にがんがんお湯が流れ込んで、洗い場の蛇口は一つだったか二つあったか。いつも湯船から直接お湯くんでる。
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入り口に料金箱があって、大人200円子供100円地元価格100円で、入れたらそばのノートに◎のはんこをおして入場。
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湯船から直接お湯くむスタイルは九州っぽくて、ただ九州では入り口のお地蔵様にお賽銭あげるのが料金箱。石見でも出雲でも源泉かけ流しはけこうあるが、国道ぞいにあるのもめずらしい。
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ちょうど先客の一人と入れ替わりで、湯船にはお一人様。挨拶しても返してくれない若い人。なにか気まずい。長湯のようで出たい入ったり。といっても湯船のふちにかけるしかないのだけど。こちらはあったまっていると、カメラをもってこられて景色写してる。それから退散された。やっと一人とおもったら、新しいお客さん。アア、なるほど、一人湯したかったのだと。自分もあたらしい侵入者うとおしかった。
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by forumhiroshima | 2008-11-24 18:35

スサノオの変身

高野の町から出雲への王貫峠へは、小高い丘を越える。そのトップに社がある。亀山神社と石碑があるが、鳥居には祇園社の額がかかり、拝殿には八幡の神文の巴がかかっている。祇園社がここにあったことになるし、八幡神社もあったのだろうか。この丘に上り口に新しい石碑が出雲と芸備の境だといっている。今の県境はもっと北の王貫峠だ。不思議な空間がある。
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出雲神話の主人公のスサノオは、京都・祇園の八坂神社では妻のクシイナダヒメとその主神になる。山鉾巡行の祇園祭りはスサノオの祭りということになる。

出雲から瀬戸内へ、スサノオが移動してきたなら、この国境では、祇園社の神に変わってしまったことになるのだが?と思ったとき、この高野の王居峠や王貫峠の王は伝説の天皇を示すのでなく、スサノオを示しているのでは?と思った。祇園社は天王、山王としてまつるというのだ。スサノオは天の王であり地の王であった。
では、峠の名の王はスサノオではなかったか?と思いだした。

古事記・日本書紀にオロチ退治のあと、クシイナダヒメとの新居を、出雲・大東町の須賀にスガスガスガしいところと決めた記述があって、そこにある須賀神社は「八雲立つ、出雲八重垣つまごめに、八重垣つくるその八重垣を」とスサノオが呼んだ和歌の発祥地だといっている。ところが、この神社は江戸時代は諏訪神社とも祇園社ともいわれる。
出雲でもスサノオはすでに祇園の神と変身していたのだろうか?
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東京に八雲神社が江戸三天王神社として三箇所ある。八雲と天王とは?江戸時代に東北を旅した菅江真澄が平泉の社の祭りの始まりに、そこの山伏が「八雲たつ、出雲八重垣・・・」と歌うと書き残している。出雲風土記には須賀の地にスサノオの記載はない。なにか起こっている!

急に須賀神社を見下ろす山中に山王寺という集落があって、登ってみたけど、なぜか方向を失って、とんでもない場所へくだってしまって、まだ訪れていないことを思い出した。地図にはお寺マークはないけど、神社マークがある。

雪のなか、なぜかあらく熱くなって、車のワタチをたどって、積もった雪の中、山王寺へ。広く開けた谷間に棚田がひろがって、その周りにりっぱな屋敷とおもえる家々が並ぶ。道は幾つも交差してそこに地図がたててある。やっと神社マークが山地神社と表示されている交差点にやってきた。でも手元の地図と重ならない。細かく示された案内と二万五千の地図が合わないのだ。路地はひろいのに車道は同じか細いのだ。

ままよ!と案内にそって神社をめざすが、どうもゆきすぎと、また引返す。繰り返すうちに、自分の場所がわからなくなる。見えないはずの宍道湖が雪のなか、にぶく光っている。南へ行こうってのみ北へ走ってる。こうなると、強い。急坂をエイエイとあがって、急坂を下る。ところどころに大東へとカンバン。また急坂。なにかから逃げるように坂をのぼる。下る。
天の助け、郵便のバイクを見つけた。追っかける。大東へは?。けげんな表情。そこの家のところを右へ登って、川へでるまで走りなさい!。

おぼろになったスサノオを探しているうち、ボロボロになりそう。
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by forumhiroshima | 2008-11-23 12:00

マキの墓

江戸時代の文化という時代、俵原に餅の実破静・モチノミハシヅメというおおきなタタラの親方の家があった。沢山の人夫が諸国からあつまっており、人馬の往来も大変な賑わいだったという。その親方の娘で近郷きっての美女といわれた17歳になったマキが、付近深山に棲息する大蛇の襲われ、あろうことか恋仲になた。それを心配した乳母のシナ女が、マキにかよってくる大蛇を松明をともして追い詰め、黒石山で殴打して殺した。マキは程なく蛇子をタライいっぱいに生んで死んだという。その墓が今も残っている。と芸通藩誌に記載されている。

この話もあって、再度俵原を訪れることになった。カラマツの道を谷奥へとつめると、広い場所に一軒の農家とその倉庫らしきものに出会った。トタン屋根がブルーにぬられて、いっそう紅葉に映えている。無人のようで、裏へ回ってみた。
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地図には道はまだ奥へと記載されているが、ススキの真っ白な原が広がって道をみつけることができない。ちいさな水路がうねるように延びていて、それをたどってみた。林にはいってそこにちいさな泉がわきでていた。

大蛇は古来水の神だという。ずーっと昔、子供が神に召されることを喜びとした時代があって、いつしか「家々の愛情は人の子が神の御用に召されることを、怖ろしくもまた不安に感じるようになった」また「神のありかを突き止めたということは幾千年の昔からすこしも断ち切れずに伝わっている絵姿である」そうして「神を殴打して殺すということは、それが水の神の信仰の絶縁を意味している」というのは柳田國男だ。

無人の農家は荒木と表札がある。ハシズメという家はなく、新しく来たというアラキさんかもしれない。泉からは木立の間をぬけてゆく幅もない。マキの墓をさがすことはできそうにない。

神の子として、自分の生い立ちを誇る伝説はそこかしこにある。九州・大分の緒方家に生まれた三郎は源氏をたすけた英雄だが、彼は背中に蛇のうろこをつけて誕生したという。
マキが生んだたくさんの神の子である蛇子は、ハシズメの家を隆盛にみちびくことはできなかったようだ。

俵原に朽ち果てた牧場の小屋らしきもののそばに、牛を祭った小さな石柱がまだ緑こい草むらにポツンとあるのを見つけた。
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by forumhiroshima | 2008-11-14 15:55

パスハン

もうずーっと昔、広島の県境の峠を選んで走っていたことが或る。峠のトップで折り返すとヒルクライムで向こう側へおりてもどってくるのがパスハン。という勝手な決め事だった。峠ハンティングってことなんだろう。

そんな大それたサイクリングをこの年で考えるなんて思ってもみなかったのが、先日出雲と備後の県境の俵原峠を備後・高野から出雲へ下った際、この道、もしかすると「奇跡ののぼり」じゃなかろうか?と。

「奇跡ののぼり」とは、いつも間にか、急坂もなく上がって、来た道のそばにあった集落の屋根がちいさい!って坂をいうのだ。それなら、折り返しのサイクをしなくてはいけん!
が、問題がある。先日下りやってるから、同じことせずに登りだけ。となると、俵原峠の東の吾妻山の峠を経由して、この峠へってことにした。
吾妻山の西尾根をこえ馬木の集落へ下りる峠の名はしらないが、標高900mだそうで、マーイイカ?。

どこまでも青い空で紅葉は油絵。木屋谷の集落から俵原峠へ。「奇跡ののぼり」はそこにあった。
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トップから路面が黄色一色に染められている。落葉する針葉樹・カラマツの林をぬけてゆく。
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シベリアのタイガの森はこのカラマツだそうで、唐・カラがつくのは輸入された外来種ってこと。それが自生するのは長野や山梨の中央部の山岳地帯だけだそうだ。このカラマツの紅葉が自分は大好きで、吉和や芸北のカラマツ林をこの時期おとずれることが多かった。そこより、ここはズーットすごい。
シベリアでは夏に溶け出す永久凍土のわずかな水で成長するそうで、荒地・寒地・乾燥に強い木だそうだ。この俵原も荒地になるのだろうか。広がるススキの原にカラマツが林立して、その向こうの尾根の紅葉とその上の青空。
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中国地方のカラマツは人の手で植えられたものしかないのだそうで、そうしてくれた誰かに感謝しかない。
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by forumhiroshima | 2008-11-13 14:57

峠は境界をしめすためなのか、通り過ぎた人々の話が残るし、その話は感慨をともなう。ただ通過したにすぎないのだけど。

高野町と島根県仁多との境界の王貫峠は日差しも入って、風も自転車がつくる程なのに、どこか底冷えがしてきた。首に防風用のタオルをまいて、ウインドブレカーのジッパーを引き上げた。

1221年に後鳥羽上皇が王居峠から王貫峠をすぎ隠岐へ流される。その一行を警護したかはわからないけど、この高野に鎌倉・山内から地頭として首藤山内氏がちょうどやってきたころになる。この地の多賀という場所へ落ち着いた。ここから多賀の山内と名乗り、それがタカノヤマとなり高野町となったという説もあるほど、長くこの地を支配した人々であったようだ。上皇は源氏・北条氏の武士に追放されて隠岐に流されているからこそ駈抜けて、王貫峠ってことならわかるが、この地の寺に逗留したという。またオオヨロギという刀鍛冶の刀をほめたともいう。どんな旅であったかはわからないね。
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それから約100年また天皇が隠岐へながされる。1332年の後鳥羽天皇がその人。翌年隠岐の島を脱出して京へ帰還し復権。隠岐で天皇を監視していた隠岐の守護佐々木氏は地位をうばわれ、島を二人の家臣だけで脱出する。出雲・周防と漂白し安芸に。山県・加計で帰農する。墨屋と屋号していて、銀山を発見!そののち鉄山師となって、吉水園をいまに加計にのこす。

墨屋佐々木氏がやっと安芸の国で落ち着いたころ、高野の山内氏の家臣田部氏が武士廃業。出雲・吉田で帰農する。この人々も鉄山師となって田部家として出雲・吉田にいまもある。

もう少し後江戸時代初期に、加計から大田川をくだった可部にいた武士がリストラ。この高野へ。わけありのリストラで母方の桜井となのって、ここで鉄山師に。この一族は王貫峠を下った場所へ移動。その後出雲・横田に定住。いま桜井家住宅が観光地になっているし、峠の場所は可部屋集成館という博物館になっている。

神社の石段に座って、高野の町をぼんやり眺めていると、深い森のなかから、炭焼きの白い煙がたちのぼり、それがいつしか黒くなってゆくような、炭俵を満載した牛が引かれてゆくような、夢が流れていく。そろそろ出発しなきゃ、秋の谷間はすぐに暗くなるよ。
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by forumhiroshima | 2008-11-10 14:32

三沢・ミザワ

島根県との県境の王貫峠から南へ下り始めると、三沢の谷スジとであう。東へむかってひらいていて、紅葉のはじまった山が午前の陽光をうけていた。

王貫峠を北へ、仁多のそばに三沢という同じ名の場所があって、どちらもミザワと濁る。
島根の三沢は出雲風土記の神話の舞台。集落中央にその主人のアジスキタカネヒコ命が鎮座しており、沢とはなれた尾根に集落が集まっている。
川筋をここらでは「谷」とよぶし、東日本では「沢」とよぶようで、このあたりに「沢」とつく地名はすくない。同じ発音でもあって、ここにアジスキタカネヒコ命でも鎮座されていれば、古代ロマンじゃないかと、おもっていたりする。

この南の三沢のまだ奥まった谷に地図には記載されていない、奥三沢という地名があることを、宮本常一さんの著述でしった。「広島県比婆郡高野町の奥三沢という鍛冶屋の定住した村をしらべにいったことがあるが、その山中にはいくつものタタラの跡があり、また墓石ものこっているという。しかもタタラのカナクソのその上に二、三百年はたっているだろうと思われる巨木が生えているところもあるというから、そういうタタラは二、三百年前にすでに廃棄せられていたわけである。この部落には部落の中にも大きなカナクソ山があるが、それすら今の村人はいつごろ誰がきて作業したかを知らぬという。一つの部落の歴史が血のつながりによってつづいていくのではなく、断絶をくりかえしつづいていくところにタタラ村の特徴がある」

三沢は数軒と牛舎があった。そこから登ると尾根がせり出して、谷へ押し込められる。と、広い空の明るい空間にでた。正面の丘のトップに一本のスギがそそり。その下に古風な木つくりの鳥居がみえる。このシュチエイションは好きだ。
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道路から草刈のすんだアゼを神社へと入ると、だいこんをかかえたおばあさんにであった。社の名を聞く。「金屋子さん」と細い声でこたえられる。すこし間があって「どこからきなさった?」

金屋子さんはタタラ師の神様。その鎮守する尾根が常一さんのいうカナクソ山だろうか。
その奥は行き止まりだけど、ひろい。電柱もそこで終わるところに、大きな民家が数軒。いかにも、日本の景色すぎる。草刈機の音が、こだましてきた。
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タタラ師たちがここにくる前、出雲・三沢の人たちがいたとおもえるほど、住みたくなる景色の中にいた。
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by forumhiroshima | 2008-11-07 16:43

アメリカの大統領の決定にワシントンで20万もの人々があつまって、祝った映像を見た。
いまから800年も前、京都にやはり20万もの武士が騎乗してあつまってきたという。それは、時の上皇・後鳥羽院追放の兵士だった。

この後上皇は京都を追放され、日本海の隠岐の島へながされる。その際備後の高野町を経由した。そのとき人々が上皇がとおた道の峠に王居峠、王貫峠となずけたとあった。
天皇を王と呼ぶことは、今では考えられない。上皇の事件があった鎌倉時代には、この国で王とおもわれたことがあった。そして、その名が現存している。そうなら、きっと、「なにかある?」

出雲から備後へスサノオも通っている。いや、通ったという神話が語られている。上皇は翌年京都へ帰還している。

出雲・仁多の町から王貫峠へ。思っていたほど紅葉はすすんでいない。近年緑が消えて黄色や赤に森がうまるってことはなくなったようだ。緑のなかに点々と黄色や茶色が点在する。空は青く、そこにあらわれる峰の頂上は赤や黄色にうまってきている。

王貫峠は、いつも寒い。下って高野の町から南下して、国道がトンネルになる場所が王居峠。ここに地図で二つの神社がある。この社をさがした。トンネルを外れて山へ登る旧道の脇にその二つの社は広島県天然記念物の表示のあるスギの巨木の森の中、秋の木漏れ日を受けていた。二つの距離は300mもあろうか?同じ森であったのだろうと思える。トンネル上の社は王居峠神社と神額にある。
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そのころ、ここの人々にとって、上皇は最上の人に見えたのだろう。その記憶をせいいっぱいに表現すると、この森に二つの社を存在させることになったのか。明治時代の神社の統合にも潜り抜けてきたが、その参道は幹線道から今外れてしまった。
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が、鳥居につけられた御幣は真新しい。上皇が神となった事実は800年も受け継がれている。

ワシントンの画像の人々は「歴史的・・」と口々に話している。王の誕生なんだろう。
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by forumhiroshima | 2008-11-06 15:40


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