こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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島根半島

出雲国風土記で、半島は三箇所から「くにこ、くにこ」とでっかい縄で引き寄せられた。その縄が出雲の神社の注連縄で、だからでっかい!と聞いたことがある。いまの出雲大社のあのでっかい注連縄を作っているのが、頓原の人たちだそうで、ここの油揚げもでっかい。

今年も、店の注連縄は頓原産を用意した。稲が青々して、清浄なものだ。

この半島の中央、古代秋鹿郡の中央の本宮山周辺へ入ってみた。高野宮の谷から西へ尾根を越えると大野の小さな集落。郵便局と学校があって、小学校にはインフルエンザの影響か、子供たちが遊んでいた。島根半島の特に、北海岸の険しい斜面にある集落には子供たちた多い。大野の学校も沢山の子供たちがいる。備後の国の廃校ばかり見てきたから、なんだかホットするし、どうしてか?なんて詮索する気分もでてくる。この子供たちは遠くからでもおおきな声で挨拶してくれて、ことらが戸惑ったりする。
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風土記にこの谷で狩をしていたワカフツヌシ命が追っていたイノシイを見失った。そこで「イノシシの跡失せぬ」とおっしゃった。でここをウセヌからウチヌと呼んでいた。が然るに、誤ってオホヌと名つけた、とある。いつもの風土記の地名談。

東隣の高野宮に祀られる神様がワカフツヌシ命だったが、風土記にはその神は西の神様になっている。フツニシ命はタケミカズチ命とオオクニヌシへ国譲りをせまった神様で、出雲ファンとしては、あまり好きでないのだけど。

島根半島のの北海岸へは九十九の坂から魚津へ、東へ回って、六部と、冬とは思えない海をみて、また尾根越えで本宮山の北斜面へはいる。広い斜面にひろがる畑の様子に驚いた。斜面の上から下へ畝が作ってある。ダイコンも白菜も一列に下って日差しのなかで光っている。この斜面が広く尾根までひろがって、パッチワークになっている。
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耕して天にいたる、といわれた瀬戸内海の島々の畑は、等高線にくぎられて、そこに石組みされ、段々畑になって、いまはみかんの木々でおおわれている。畑はすくなくとも水平に開かれる。
ここの畑は斜面そのまま。どうみても農業の仕方がちがっている。大野の西へ二つ尾根越えすると一畑薬師の尾根になる。この周辺には畑という地名が多い。
古代秦という氏の人々が、朝鮮半島の新羅から渡来して、畑作や養蚕をこの国に教えたという。絹織物をつくる人々で古代の換金作物。この人たちに錦織と名がつけられた。出雲でこの名をよく眼にする。集落の家の表札をさがしてみたが、名札などみあたらない。なにせ屋号でよぶ所だから。

この半島の西、いまの出雲大社のある一角は、国引きで新羅からひきよせられたとある。東は越、いまの北陸から、そして中央は「北門・キタドの佐伎・サキの国」からとあって、隠岐だともいうし、わからない、とも。

高野宮の本殿は大社造りのりっぱなものだけど、そのまた奥、正面に小さなお稲荷さんがあった。たくさんのキツネにかこまれていた。お稲荷さんは秦氏の神様。
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大野の谷の東の谷はワカフツヌシ命の谷でなくて、高野の神が杜におられた。そこに秦氏が渡来して開拓していた。畑を田に変える作業にお稲荷さんの力をかりていた。後にここに山城がつくられ、本宮山と名を変え、風土記の神、ワカフツヌシ命をここに鎮座させた。神の支配地が広がったのだろう。・・なんて妄想の中をくだっていると、棚田に出逢った。圃場整備事業ですっかり石組みの棚田はみられなくなっていたから、残ってることがうれしかった。
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でも、畑から田への長い時間を守ったお稲荷さん、いま車両の入る広い四角の田園には、神様はおられない。これって??
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by forumhiroshima | 2009-12-27 13:15

このごろ山中ばかり走っていたので、海が見たくなった。

考えれば、この国の祖先は縄文人だろうが弥生人だろうが、みなさん海を渡ってきている。明石原人だってナウマンゾウにまたがって、大陸からやってきたに違いない。だからといって、海がなつかしい自分のDNAがさわいだってことでもないけど。

その祖先たちは、神をもっていた。これがこのごろ妙に、うらやましい。これだけ神社をまわっていても、そこに信仰がうまれるわけだはない。が、かれらの信仰の場には拝殿や本殿もなくて、ただ森があるだけだった、ということらしい。

九州の宗像神社の本殿の奥に高殿という場所がある。そこは森のなかの一角を注連縄で四角に区分されただけの場所で、それが神の所在だという。スピリチュアルな空間で、さすが、と思った。「杜」が神社を示すように、その神々の森の空間が朝鮮半島から西日本の沖縄まで、それも家々ごとに、集落ごとにあるのだという。宗像で感じたあの感覚は、もしかして宗教なんだろうか?と思い始めている。これがいま一番興味ある。もっと、その「杜」を見つけてみたい。

丁度、出雲国風土記のなかに、そのような記述があることを見つけた。国引き神話で出雲に引き寄せられた3つの土地の真ん中になる「北門の良波の国」の中央、島根半島・秋鹿郡にそれがある。「女心高野。・・・土地豊かに肥えて、百姓のうるおいの園なり。樹林(ハヤシ)なし。ただ、峰に樹林あり。ここは即ち神の社なり」。その社を地図で探してみた。
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ここにはマークが二つ。風土記にでてくる神社は、ほとんど比定されている。でもその神社を地図にしたものはまだ知らない。いってみるほかない。それにすぐ日本海がある。

うるおいの園とうわれたところの神社は「内神社」に比定されて、松江市大垣町だという。そこへ。大きな鳥居が宍道湖のすぐ北にある。これは正面の尾根中腹の高野宮の鳥居。その神社は大社、佐田、神魂につぐおおきな社がある立派な神社で、そこには風土記社とは記載がなくて、もちろん「内神社・宇智神社」ともなかったと以前訪れたとき思った。だから、地図のもう一つの神社へ。それは教会のある場所の奥まった田のすみにあった。本殿もおおきな木々に囲まれて、そなに結界が張られている。本殿に神額に「奴多社」とあった。これも風土記に記載があって、「残念」

高野宮の登りへ入った。神社へは複数の道が入って、ここの昔の賑わいがつたわってくる。本殿へ。
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そばに禁足地「いらずの森」のカンバン。拝殿のために平地を作った斜面がそうだとあった。
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ここの神様はワカフツヌシ命と下照姫だと表示してある。ともにオオクニヌシ命の子供だという。715年にこの尾根に夜よ光り輝くものがあって、神の降臨として神垣を設けたのがはじまりとある。風土記は730年にできているから、わずか15年前のできごとで、記載されるのかな?と、以前おもっていたけど。

日本海にでて、鳥居に帰ると、その前に大きな石碑があって、そこには高野宮とかかれているのだけど、その下に消えそうに内神社通称高野宮とある。
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下照姫は風土記には出場されてないようにおもえるのだけど。アマテラスが天照とあるから、その妹が下照だとどこかで書いてあったような。
風土記に古事記や書紀の神話が出雲では重なってくる。神の変遷だろうが、「杜」をのこしてほしかった。
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by forumhiroshima | 2009-12-25 16:42

山女・山神

もう、しっかり冬になったと、思い知らされる粉雪が時々おりてきます。

谷間は日陰と日向がこれほど違いがあるって、教えてくれます。見上げる尾根が、ベールがかかったように白くにじんでくると、もう白いものが風にまざってくるのは、雨の足音とはちがって、別の場所にワープするようです。そのあと、いきなり日差しの中に入って、青い空に真っ白な雲が走ってるのに、釘づけになります。「冬」にまた、出会います。

備後の国の中央、吉舎の周囲の尾根へ。北の山中の盆地・安田から南下しました。上下川の流域から、九十九な急坂を越すと、あたらしい流れに出会い、馬洗川の流域へはいりました。上下川も馬洗川も三次で江川に合流します。沢山の川を合わせた川だから、ゴウノカワですかね。千代田や大朝の安芸の国から流れる可愛川も合流しますが、この「可愛川」をゴウノカワと呼ぶことも、なにか訳がありそう。
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馬洗川への流れに入る谷口に「山ノ神」の地名をみつけて、昔、春に山から里におりてこられた神様が収穫の後にまた山へ帰られると信じられていたようで、ならば、この山の神には、きっとなにかありそう、と。
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谷へ入る入り口に、山女の養魚場があり、そのそばに山女供養と刻まれた石がありました。山の神はなんとなく女性では?とおもってますので、山女は神の使いでもあるはず。それを供養するのは、神を仏にしてしまって、永久の存在でなくすようで、さびしいと。
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「山の神」へは、落ち葉が広がったほそい道が登っています。すこしで一軒の農家にでて、
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そこでみちはダートになって消えてしまってます。ちょうどその家の主人がでてこられて、ここが「山の神」かと尋ねたら、それはここから尾根を上がったところのことで、廃屋しかないよ。といっておられます。主人はその尾根を越えて、世羅の学校へ通ったそうで、もとは世羅だったが、今は三次になってしまったと、すこし残念そうです。

このあたりは江の川の流域と瀬戸内海へ流れる沼田川の分水嶺で、坂を下っていても、北へ降りるのか、南かわからなくなる場所です。いくども地図で確認しても。判らなくなるのです。ご主人の祖先は、きっと南からここへ、こられたのだろうと思ってしまいました。山ノ神が春に降りられる地は、沼田川の流域なんだろうと、田もみつからない谷を下りました。

※当店のユニホーム
今日は自分の数十回目の誕生日で、メカニックの二人他から、当店のユニホームの前掛けをいただきました。親父の会社の名がはいって、すごく懐かしいものでした。先日新聞に半世紀も前のオヤジの店と写真が掲載されたので、彼らはそれで知ったのでしょう。この前掛けをして、なんとか元気で仕事してゆきたいものです。
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by forumhiroshima | 2009-12-18 18:27

神々は流転するか?

古い道は長い間人や牛や馬という生き物に踏み固められてきた。往来が多い道は、自動車の出現で拡張されたり、峠はトンネルにかわったりしてはいるが、拡張するには、家々の移転や所有の問題からバイパスとして新しく整備され、そこには古道が、河川の三日月湖のように残っていたり、車道のそばに、ふくらみとして残ったりしてる。自動車は道を変えて、高速道は空へのぼって、地上からはなれていっている。

残された、置いておかれた時間がそこにある。自転車はその残された時間が、ゆったりとした勾配や急坂やらがつたえてくる生き物の息使いとして感じさせてくれる。

この息つかい、心臓の鼓動が早くなっても、つぎにゆったりと荒々しい鼓動を鎮めてくれる勾配を用意して、あるリズムとおもえる時間がやってきたりする。その呼吸になかから、なにげない景色が強く印象をもって現れることがある。

三良坂の北の尾根を越える場所に、上下川がおおきく蛇行して、その蛇行のあとに残された平地の数軒の集落の中央に、ちいさな、が盛り上がった茂みがあった。その周辺に古墓が傾斜して群れをつくり、茂みの中央に朽ち果てた小さな祠があって、そこへはちいさな枯れた木が横たわって、そこへ入るには、その木を取り除くしたないようにある。が、朽ち果てようとする祠には新しい御幣とサカキが、いきいきと風にゆれている。
この景色は、いくども見てきて、そして通り過ぎた。
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庄原の七塚ケ原の丘陵がとぎれて馬洗川へなだれこむ斜面に数軒の民家があつまるそばの、刈り取られた田の中央に、残さなくてはならないかのように、一本の木がちいさな丸い盛り土にあって、そこに小さな祠が田に入って、今年最後の農作業をしている耕運機のじゃまをしていた。田の神と、名だけはしっているが、なぜそこにあるのかと、考えることはなかった。
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甲奴の町から北上した道と西へはいる道の交差点に、旧道がのこされて、そこに、晩秋の落ち葉がかさなって、薄汚れたように茂みをぬける弱い日差しの森に数個の石がころがされて、灰色になった御幣が竹のさきでゆらいでいた。交差点は車の往来もある場所で、このままにするより、自販機でもあるのが自然のように思えた。

この小さな森が、じつは、対馬暖流の洗う九州・山陰、北陸に名を変えてあるという。
対馬の天道山、壱岐・西九州のヤボサ、鹿児島のモイドン、種子島のガロー山、奄美の神山。山口県蓋井島の森山、石見の荒神森、福井のニソの森がその森になるのだそうだ。「森そのものが神なのだ・岡谷公二」
この森の起源はもちろんわからない。

が、この森が沖縄の御嶽へと続くという。それは琉球国を作った第一尚氏がこの御嶽を作ったということがあると知って、俄然この景色に引き寄せられた。

備後・神石高原町の油木の中央に鶴亀八幡宮があって、そこに南北朝期に隠岐にながされた後醍醐天皇を擁立して都にのぼった、名和年長の植えた杉があった。
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名和年長はその後戦死する。名和一族は伯耆大山の尾根が日本海に流れ込む名和の人で武装した商人であったろうといわれる。その一族が主人を亡くして、熊本の佐敷に逃れ、そこも追われて沖縄・知念半島に海賊同然で上陸、そこをやはり佐敷となずけ、そこに御嶽をつくり、琉球王国を創立したという。森の神をお連れしたことになる。

この説がどうかは、わからいのが当たり前なのだが、聖地を森としてつくったひとびとが、古くここ備後国にもあって、そして、朽ちながらも、いまに残す人々があって、それを町でしか暮らしたことのない自分がのる自転車が呼び起こしてくれるとしたら、幸せと思うしかない。これから走る国々は、ついに沖縄までになってしまった。ヘッヘッヘ。
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by forumhiroshima | 2009-12-12 19:45

後向け、後ろ!

甲奴の町の北側の山中の尾根が交錯するところに交差点があった。もう空って場所。そこに、朽ちているおおきな二階建ての木造があった。これ、なに?
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郷とこのあたりを一括して呼ぶようだけど、民家は点在して、この建物は集会所でもなかった。ふと、この甲奴の町の南にある上下の町の翁座を連想した。翁座は修復されたようだけど、先日はなにもおこなわれてはいなかった。
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郷と上下の中間の山中に福田の町がある。新しい車道の交差点のそばに、旧道がすこし残っていて、そこに隠れるように簡易郵便局をみつけた。民家の玄関にガラス戸をひいただけの郵便局、これって好きな景色だ。
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わざわざ、といってもいいほど、古道に入りたがるこのサイクリングは、どうしてこうなったの?と、自分でも実は不思議だ。

戦後すぐに生まれて、テレビ、洗濯機、掃除機によろこんで、マイカー、ステレオ、ビデオと重ねてきて、その生活からみる遠くの景色はニューヨークのマンハッタン。だった。

老いてくると、こうなるのかもしれないけど、所得倍増のスローガンがBGMだった人生は、この国の歴史の中でもめずらしいことだったろう。よく団塊のおかげで、冷や飯くったと、聞かされる。いいとこどり、とも聞かされるが、そうかな?と思うほかない。

それが、いま古景色に引かれる。マンハッタンは東京にも大阪にも出現している。だったら、この次の景色が、古景色ってわけにはいかないだろう。いいかげんにしないと、いいとこ取りの言葉には反論できやしないだろう。そう思うけど、これになってしまったのだ。
でも、いつから、振り返って、古い光景を探し始めたのだろうか?
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by forumhiroshima | 2009-12-11 19:37

打鐘・古道の巣

総領・上下・三良坂をつなぐトライアングルの幹線道に囲まれた山中に点在する山村がある。
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地図の集落をつなぐ道はうねりながら、上下動をしている。ここは、きっと古道にちがいない。と。

総領の道の駅に車を置いて、曇り空を気にしながら走り始めた。庄原からの幹線はおおきく東へまわるが、きれいな羊羹屋と酒蔵が、凛としてたっている。
道は南へ登り始めると、すぐに「大型車通行困難」の標識。ありがたい。日差しも落ちてこない谷間はせせらぎに近づくと、寒気に覆われている。蛇行しながらゆっくりと斜面をあがると、すこしひらけた、もう空がちかい明るさのなかに、白壁のおおきな民家が道よりも高い。その側に高く打鐘が建っている。
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くだって、また登り返しがつづいて、すこし広がった尾根まじかに民家があらわれ、ここも打鐘がある。

逆光にならない場所で振替って写真をとった。また走りはじめると分岐にであう。
道の端にある白線は公道のしるしで、手元の25000/1国土地理院版は基本この公道を記載されている。が、ここは白線もさだかでない。尾根のかくれたおおきな民家へはいる私道は、公道よりもひろいことだってあって、判断にまよう。この分岐も迷ってしまった。いきなりの急勾配で尾根へあがってるが、公道とも私道とも判別できない。この朝はマックしかいれてない。なんてエネルギー貯蔵量のせいにして、真直ぐの道をえらんだ。尾根からいっきの下りをすませると、また登りがやってくる。地図での距離は4cmが1km。2500/1をグルーとまわって40km、と地図の距離感はしっかりあると思っていても、下りはいくら走ったか、すぐにわからなくなる。メーターをこまめにチェックする性格でないし、だいたいメーターつけてない。
ままよ!と尾根をこえると数軒の民家の塊がみえ、そこにも打鐘のはしごがたっている。

複雑に交錯する尾根にある一軒屋になにかあったら、この打鐘をきっと叩くのだろう。おなじような高さの尾根は、その音をひろくひろがらせて、すわ鎌倉と集まってくれる人々がいるのだろう。
尾根にはいくつものお地蔵様が立てられている。
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お地蔵様は尾根をこえてくる災いを防いでくれるものだそうだけど、そこには行き倒れた他国の人の鎮魂でもあるときいた。

電信柱にうちつけられた標識には、その土地の名が記載されていて、大体の場所はわかるのだけど、ここは沢山の名が谷ごとにあるようで、その名が手元の地図にはない。
なんだか、お地蔵様になりそうな、たよりなさが漂ってきた。こうなると、あとは走るしかない。下って幹線道路を探すか?と、古道の巣を放棄しそうになった。やれやれ、とみあげた曇り空に高圧線があるじゃないですか。地図にラッキーに一本の高圧線が記載されている。
それじゃ、ここは、ここらしい。ってことは、さきほどの分岐で間違ってる。でも古道の巣はすぐにこの先をまわった分岐で修正できるのだ。
ハンドルを指ではじいて、チーンと打鐘がわりに。これでお地蔵様にならないでよいようだ。
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by forumhiroshima | 2009-12-10 13:09

引那岐

熊野神社の谷をつめて大東町へはいる峠を越えるところが、小河内。ここに引那岐という集落が道をはずた行き止まりの場所にあることを地図でみていた。峠を越えた場所に出雲国風土記社の除川社・ヨキカワシャがある。すこし下ると分岐があって、そこに赤川源流のカンバン。寄り道と引那岐へ走った。
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「なぎの里」とあたらしいカンバンがある。
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以前丹後半島を走ったとき、ここに天女伝説があることをしった。丹後・峰山に磯砂山、昔は比治山と呼ばれた竹野川の源流の山頂にある池におりた天女がここの老夫婦に衣をとられ、養女になった。お酒をつくると評判で、お金持ちになると、老夫婦は天女をじゃけんにしだした。天女はその家から逃げ出した、という伝説。
それだけでは、よくある伝説だが、ここには山頂に丸い池があって、天女がわが身の上をなげいてよりそった木があったという。その所がナギキになっている。

引那岐の集落は数軒があつまっていて、めずらしい。
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その中央に川原神社があった。
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ここも出雲国風土記のでてくる神社だという。その周辺は、えらく整備されている。源流になる山が公園化されているようだ。大出日山・オオシビサンと読むのだそうだ。

川原神社は沢山はないけど各地にあるようで、古い記録にある川原社は名古屋市内にある。ここの神様は日神・埴山姫ハニヤマヒメ・ミツハノメカミだという。日は太陽、埴は土、そして水、命の神々ということになる。

公園の整備が真新しくて、そして案内版には駐車場しかでていない。もちろんこの季節に来る人もない。集落は静まり返っていた。ふと、丹後・峰山の比治山は日出山とも書かれる。ここの山の名はそれを逆さにした名だともいえる。

丹後に天女伝説をつくった人々は、四国・徳島、阿波の国からやってkたという。その人たちが大東町から玉造へぬける山中にアワキヘシナ神社をのこしたという。アワからいくつかの場所をヘシテここにやってきた神だという。海から登ってきて、出逢った赤川をさかのぼれば、この引那岐へつく。そこの山を丹後とは反対の名を置いたとしたら???
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by forumhiroshima | 2009-12-08 19:52

生きてる小学校

塩の道って?たしかに絶対必要なもので、山奥では現地調達できないもの。だからといって、商売になるほどの売り上げは期待できないし、パッケージのない昔は、すぐに湿気てしまうし。

必要とされるものを、迅速にとどけるってこと、を昔はあたりまえにしてきた、のだろう、塩の道は荷揚げされたところから、山中の市場へ一直線。それが塩の道。

出雲・大東の南はしの塩田の集落はきっとその塩の市場があったなごりの名だと、かってに決めて、海潮からむかった。ここは広域農道のひろい車道で、峠は九十九になっている。塩を運ぶのなら、きっと直線に尾根を越えたにちがいない。その尾根を降りるところに神社マークが地図にある。えべっさんかな?
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尾根越えの車道は均一に勾配をかせぐ。古道は胸突き八丁の急坂もあるが、ゆっくりの勾配もあって、心臓の鼓動を落ち着かせたりしてくれる。息してる坂道。

坂を下って阿用川をすこしのぼった場所の尾根がすこしつきでた小山の杉の木のあいだに鳥居がみえる。熊野神社だった。
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えべっさんの予想はみごとに裏切られた。神社周辺には民家もすくない。どうもこの塩田の中心はここでなくて、川下かな?
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道幅はほそくなってうねりだす。二階建てが両側にある。小学校と公民館。集落はここでもまばら。でも公民館とは。だいたい集落の集会所とか、農村センターとかの平屋が普通なんだけど。小学校に数台の車が泊めてあって。二階の部屋には明かりがついている。この小学校は生きてるのだ。

広島で大東町の出身の人に、塩田の学校は生きてる!って話したら、あの学校は十数年まえからか?学年ごとのクラスはできなくて、複学年のクラス編成だったよ。あるのかな?
ホームページで塩田小学校を検索。ありました。そのHPから写真転写してみます。許可もらってないのですが、おこられないと、おもってます。
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ここが、もしあったとしたら、塩の市場なんだろう。でも、すぐ川下にトドロキ神社という、出雲国風土記社もある。そこかな?
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by forumhiroshima | 2009-12-07 20:18

仕分けされたら?

雲南・大東の須賀神社へ。出雲国風土記にはここにはスガネノ命が鎮座するとあるが、古事記でスサノオがヤマタノオロチ退治のあと稲田姫と暮らした「スガシイ」場所とあって、須賀神社は、スサノオを祭る神社となっている。風土記にある須賀山はいまは八雲山とよばれる。
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風土記の神から古事記の神へと変遷することは、時代で決まることなんだろう。この須賀神社がある海潮は、スガネノ命が日本海から津波のように潮をあげた神話がある。神社から中国山地へ南下したところに塩田という地名があった。ここはまだ訪れてなくて、中国脊梁の道が凍るまでには、ゆきたかった。

先日の小童の須佐神社から上下川をくだると、三次市塩町があった。「塩の道」は山中の暮らしで生産できないけど不可欠な物であるだけに、海岸から塩を運ぶ道は古代からの道となる。それも塩がしっけをとりやすいことから、山中へ海から直線に入る道で、いまは一部にしかのこされていない。塩は命に不可欠なものなのだけど、塩が神になることはない。不思議だとおもう。

出雲・須賀のある海潮は山中での地名で、それは風土記にはスガネノ命が、日本海から津波のように潮をあげたという神話からと記載される。大地震の記憶かともおもえるが、そこから真直ぐに南下する場所に塩の名ががあることで、塩の道ではないか?とかんぐっている。また偶然だけど、スサノオが鎮座するとされた場所から、海へ向かうみちに塩の名が備後でも、出雲でもあることで、走ってみることにした。

須賀神社はその横にはいると八所というひらけた斜面に集落があって、八雲山の頂上の下をぬけると、熊野大社の谷にでる。大社の谷はこの須賀神社へぬけるか、谷をつめて峠を越して大東へでるルートしかなくて、どれも古道になっている。閉鎖された谷は、それだけで神秘的だとおもう。
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神社から南下する道をはずして、八所経由で走った。峠の入り口に「大型車通行止」の表示があって、つづらにのぼってゆく。自動車はまず「通行止」出会うと、はいってこない。地元の車だけだろうと、けっこう一生懸命に登ってみた。だれも居ない道に、12月とはおもえない暖かさで、気分良好。
くだると、一部道の拡張工事がおこなわれて、そこにスサノオの人形がたっていた。
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どうも、この工事が熊野大社までの計画が頓挫しそうなことらしく、スサノオのオロチ退治をここでもやってください!ってことで。オロチは今登ってきたつづらの道らしい。道端にスサノオ道とのカンバンまで設置されている。
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スサノオの威力は、今もありがたいもののようだ。が、大型車通行止は、かなり前からのようで、路肩が崩れた場所は補修されて、道幅はせまいが、ガードレールまで設置されていた。

このごろの話題の仕分け人だったら、通行止に長くしていても、たいした影響もない道を拡張するのか?といわれるにちがいない。ここではさすがのスサノオ命の神通力もいかがなものだろうか。
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by forumhiroshima | 2009-12-04 18:28


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