こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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夏走り/神の領域

 立岩ダムサイドで、雨が強くなってきた。ここには十方山へと瀬戸の滝への登山口が並んであって、登山の人気スポットになってる。きれいなトイレがあたらしく設置されてる。ここの軒先へ逃げ込んだ。カミナリが近い。といってもカミナリさまが怖いだけでなく、だれもいないダム湖藩がガスに煙って、雨音とカミナリの世界にいるのが怖くなった。
 瀬戸の滝は60m以上もあろうかという県内一の瀑布だときく。瀬戸は瀬戸際のことで、神々の魔界との境界線ってことだろう。そう思うほどここの森は深い。いつもならダムの湖面をまうサギたちも姿がみえない。そのうち待ってっても雨脚はかわらないから、飛び出した。というより、早くここを去りたかった。
 ダムへの吉和川の入口の橋から傾斜がついて杉の森の中の道になる。暗い。川は白濁してゴウとながれている。
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マムシ注意のカンバンのキャンプ場をすぎると、道は蛇行しながら高度をかえぎ、パーンとあかるい場所へとびだす。吉和の駄荷がその場所。地名はここで駄馬を休憩させ、積荷を締めなおしたからだという。すぐに道の右の茂み奥に神社がみえる。温泉神社。ここに温泉場があるが、すっかりすぐ前に出来た女鹿平スキー場の施設の名が凌駕してしまった。でもここいい。
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ここまでくると、温泉にはいらなくても、ホッとする。神々の魔界から逃れたって場所で、あの森の重圧が懐かしくなる場所でもある。
吉和川をトレースして南下すると、国道R186にでる。そこに大きな標識がそびえている。「八郎杉」
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今は村でなく廿日市市になったが、ここの名産だという。国道ぞいにスギの宣伝っても、ってことは、きっと誰もわからないとおもう。この村の出身でおおきな材木会社をつくりここにスキー場をつくった社長さんの遺言で、「八郎杉を絶やすな!」といわれた。といつか新聞にあった。この村の人たちが、これをみて、うなずけばいいのだろう。

八郎杉はこの豪雪地帯で、その葉が雪をうけることが少ない構造で、枝の雪折れがすくなく、おおきく成長するここだけのスギだという。
 吉和から県境へ中津谷にながれる主川、太田川支流へはいる。入口からうっそうたるスギの森がつづく。これが八郎スギなんだろうか。この先に主川から分岐した八郎川があって、その流域が八郎杉の生産地になってる。ここの県境をこえる場所にはトンネルがあって、そこから三郎谷とい名になって、島根県の匹見へ降りてゆく。下った場所から東へ行けば、三葛の集落がある。「三葛は匹見上村の南隅にあるささやかな部落で盆地をなしている。・・百姓で生活をたてている所だが、山もひろく生活は豊かである。つい近頃まではどこえ出るにも歩くほかなく、まったく人里はなれた隠里であった。家はいま45軒ある。昔は家は7軒であったとも100軒あったという。どちらも本当だったにちがいない。というのは、土地を拓いたのは7軒であったらしい。それが100軒にまで増えた。しかるに天保7年の飢饉でやられてしまった。ずいぶんひどいガシンで一軒の家のものが死に絶えたのは珍しくなかったという。・・そうして家が減ってしまった。その後昔のようには回復しないというのである。宮本常一昭和14年」魔境の集落はいま、どうなってるのだろうか。人々はきっと神々に追い出されたにちがいなかろう。いや、オレとちがってがんばってるかな。
 三葛から西へ下ってゆくと七村に入る。三郎谷の大神ケ岳には神社があって秋祭り七村はここで神楽を舞う。八郎川の北には十方山、その西に五里山と。ないのは1、2、4、6、・・なんて、地図を探してしまう。なんでここはナンバース好きなんだ。
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 八郎川との分岐に通行止のカンバン。県境から匹見へはぬけられない様子。これって峠までの走りにはありがたいね。車まずこないもの。十方林道の分岐をすぎて、エーって登りで県境へ、ここの峠を「御境」と確定したのは、この西中国山地をあるいた桑原良敏氏。宮本常一との双璧の人と自分は思っている。両人とにかく歩いて、そして話してくれる。

ここで自分の時計を見た。
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横川のアンダーパスから7時間半。競技やってる選手たちはきっと4時間かからんだろうね。でも、オレ言い訳なしです。楽しかった。

 ずーっと、ずーっと昔、広島の大学のサキクリング部ってのがあって(いまもあるらしいけど)そこの連中がある日、目を輝かせてはなしてくれた。ある女子部員が、一人で市内から戸河内をぬけ、恐羅漢山の前山の内黒峠(標高990m)を往復したという。そのころ内黒峠の道はいまとちがって直登坂があって、ダートだった。もちろん戸河内も未舗装がいっぱいあった。「スゴ、快挙」だとおもった。それにはなしする学生の目がキラキラしていて、彼女、かなりの美女?と想像したのがを鮮明に記憶している。そのあと、自分もランドナーで挑戦してみた。もう三十年もまえの話だが。そんな昔話思い出した。
 帰りは吉和の中国道のインター横をぬけて、ずるする登る石原峠ごえ、アットの間で戸河内インター。R191を下って、飯室から太田川橋経由。これがいちばん早いとおもう。が、午後なら向かい風にちがいないです。
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by forumhiroshima | 2010-08-29 20:10

夏走り/紀の国より

 戸河内のレストランは、造り酒屋を改装したものだそうで、民具なども展示してあるから、公的な運営なのだろう。早めの昼食も、すでに先客でいっぱいの盛況だった。ここでつくられた「三段峡」という清酒は加計の隅屋の経営だったそうで、江戸時代にこの戸河内だけで7000人がいたそうで(現在は加計、芸北をあわあせて8000人ほど)、その繁栄した時間はその家の砂鉄精錬家業で生まれた。そのころだったら、とても昼飯にはありつけないだろうな。その鉄精錬は鎌倉時代に、和歌山からきた地頭の栗栖氏も関わっていた。和歌山を古代支配した紀氏の一族だともいう。もっと古く、戸河内の入口に筒賀にある古墳には鉄製品がおおく埋葬されていて、さらに南海産の貝の腕輪のレプリカも見つかっている。紀氏は船つくりと航海の一族で、朝鮮半島へ遠征する大和朝廷の将軍を務めている。
神話では天の岩戸に隠れたアマテラスを引き出すとき、すこし岩陰から外をのぞいたアマテラスにみせた鏡が「三種の神器」の鏡だが、これが二つあって、最初につくった鏡は小さくて、それは紀氏に与えられ、もう一つが伊勢神宮にあるという。紀氏の鏡は和歌山の日前神社・国懸神社にある。ここの宮司は紀氏で、出雲大社の千家北島家にならぶ歴史をもっている。その神社のすぐ側に「栗栖」の郷がある。神社の西は名草という土地で、ナギサであろうといわれるが、ここに「太田」の郷があるのだ。
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 吉和川と名をかえた太田川本流へ走る。夏は山の森がかすんで、空とまざりあって、そこの川面もおなじ色になって、青いジュース。が、空が暗くなって、遠い雷の音が響きだした。夏のにわか雨は、初めにムウーっとした時間からいっきに涼しくなる。その落差が気持ちいい。はやくこっちにこい!
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 戸河内の山奥に伝承がある。「ここの山奥の炭焼きの男のところに、美しい女があらわれた。紀州・和歌山から探して来たという。夢のお告げがあって、安芸の国奥の山へいって嫁になれというお告げだという。あなたがそのお告げに男だから、嫁にしてくれと、持参した小判をみせると、炭焼きはそれなら裏山にたくさんあるといった。男は押しかけニョウボをもらうことにしたが、身体がとても冷たく、夜半にでかけてゆく。或る夜出かけるので、あとをつけると、川のヌクイの淵へはいっていく大蛇になっていた。「わしの正体は知られてしまった。わしは九州の日向から紀州へ行き、そこからここへきた。知られてしまったから、ここをでて出雲の斐伊川へゆく。わしの名はオロチという」
 古代けっこう戸河内って有名な場所であったようだ。「伝説はもとより史実にはあらず。史実以外の真実を語るものなり」だそうで、このヌクイの淵が気になってきた。
 西中国山地の山、谷の名をくまなく調べた「男前」さんがおられる。大学の先生でもちろん学術としての調査だが、三十数年も費やされたときく。
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その中にヌクイの池も淵のなかった。が眼前に立岩ダヌ湖が雨のガスにけむると、ここがそうだとおもえてくる。
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すべての谷に名があることを調査されたということは、その地名が必要だった時があって、いまではとても想像できないが、この山を動き回った人々の会話がきこえてきそうだ。黄金をさがしてやってきた人たちもそのなかにいたことだろう。
吉和川が吉和の里に入るまでに、地図に四箇所の集落の名が記載されている。大正時代まで、この川を木材を流して、いった筏師たちは、この点在する民家をかりて宿泊して作業を戸河内まで追っていったという。その家の名が記録にある。民家そばの墓標にその名を探したが、一つも見つからなかった。戸河内-吉和の間にはもう数軒ほどに、雨にぬれる洗濯物がみえた。
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by forumhiroshima | 2010-08-27 17:47

夏走り/心霊スポット

このごろはやりのパワースポットとか心霊スポットとは、面白そうだけど。自転車走っていて、ここ、「オカシイ!」って場所に入り込むことがある。

戸河内の町は吉和川と柴木川との合流地点に流れがはこんできた堆積地にあって、川にそって東西にのびてある。中世この地を領地として開拓しただろうといわれる「栗栖」氏一派は紀州・和歌山からとも山城・京都からともいわれる出生地の栗栖をなのった武士たちだという。厳島神社の神領であった。
「中世武士団の跡を訪ねてみますと、山を背負って、南に開けた台地に領主の館があり、その南斜面に家来たちを集めるという形になっています。そう思って見ますと、今までごく当たり前の、平凡な景色であったところに、幻のように領主の姿が浮かびます。・・・武士というと、つまり兜の緒をしめ、鎧をきてとか、華々しい姿を思い出します。しかし館跡にたってみますと、彼等はむしろ戦闘のプロとしての武士ではなく、農場経営者だったのだなあ、と思えてきます。それも不在地主でなく、土地に密着していて、”おまえ、このごろあんまり田んぼで働いてないではないか、などと言ったりするような一面を持っていた・・永井路子」
加計からここまで殿河内の集落も、土居という地名は堀をほった土を積み上げて、囲んだ館だという地名の集落も南の斜面のすこし高い場所から川を見ている。

しかし、戸河内は二本の川の合流地点に、北斜面にほとんど川面の高さで家並みを作っている。通りはまるで豪雨増水の際は水路です、となろうという「男前」な町だとおもう。
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でも、すこしの防御もしてある。南から通り真ん中にはいる川の川床はしっかりコンクリートで固められて、スイスイとサッサと流れる。留まらせない。
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戸河内には橋を渡って入り、橋を渡ってでる。その出口に心霊スポットがある。増水した流れが合流地点でぶつかり、渦を巻く。進みたくても、渋滞高速道路状態。この渦が山を削る。そこに遊水地が水が引くと現れる。渦はそこにたくさんの土砂を残し、土地を出現させ、次の豪雨には消え去ってしまう。「神業」。ここに天神をまつり、墓標をたて、茂みにいくつかの石つくりの祠を設置する。そして、神々の怒りの訳を聞く。この神の声を聞くためにこの町は家々をその下流にさらけ出して、身をなげだし、耳をすましている、ようだ。
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渦巻く流れが留まる河原はひろく、その中央に中州をつくっている。戸河内の戸はトバのこと入口。吉和・ヨシワ、柴木・シバキと上流はシワ、シバがつく。複雑な地形が広がった山々への入口の川に出来た中州のところが戸河内ってことだろうか。山々の神への入口ってことかもしれない。
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この広い河原を「遊谷・アソウタニ」という。遊水地ほどの名だろうが、このふたつの遊水地がこの町を守っているのかもしれない。古代に魂の鎮魂を歌う人々がいた。彼らを遊部という。彼らの歌声をこの天神は聞こえてきそうだ。
この山中に「与一野」という伝承が残っている。吉和川を明神から10kmほど山へ登るとこにの那須の集落がある。民家一つ無い、森の中をのぼって一気に開けた小さな天空の盆地。いまは数軒ほど。ここに平家物語の弓の名手・那須与一が備中・小菅の城をでて、この山中へ。ここで生涯を終えたという。その伝承の墓標の場所を「与一野」という。彼ほどの名声も、この山々の神が呼ぶ声には打ち消されたようだ。
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by forumhiroshima | 2010-08-26 10:10

夏走り/補修・補給

お猿さんたちの遊び場の「砂ヶ瀬」の川沿いでプスーとフロントのパンク発生!
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神社の屋根にいるお猿さんの親子がみている。なんかイヤな気分。自転車やだったのにパンク修理はヘタです。見物人、いや見物猿もいるようなので、サッサとチューブ交換で切り抜けて、スタート。順調に戸河内の町へ。筒賀の分岐から轟橋(古いほう)から左岸へ。国道にでず、河畔の土手道を。そこでまたプスー。
よくみると、タイヤにちいさな亀裂がある。そこでチューブがはみ出したようだ。見逃してた。あの猿どもめ、あせったじゃないか!
ロードレーサーのタイヤは細くで軽い。その分しっかり空気をいれてパンパンにすると、軽く走ってくれる。自分は8気圧ほど。CO2ボンベをつかって、そのあとポンプでプッシュ。これが大変。タイヤの補修は、伸びないテーピングテープを持ってて、それで補強する。5mmぐらいまでなら、テューブ用のパッチとこのテープで切り抜けられる。スペアテューブは2本を使い切った。ポンププッシュも川岸では暑過ぎる。
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丁度戸河内の町が近い。穴のあいたチューブの補修はその穴をしっかり確認がいる。一ヶ所だけでないかもしれない。パンクした2本を補修して、空気プッシュもしておかないと。
そうなると、バケツと水がいる。場所がわるくて水場がないときは神社のお手洗水だけど、これ、すごっく肩身がせまい。いけないことやってるみたい。で、町へ走って、おおきな施設を探す。気軽に勝手させてもらえるのが、農協と郵便局。でも農協はなくなってる。
戸河内の郵便局の横の日陰にすわりこんで、裏にあったバケツ借りて、パンク修理。これやってると、必ず声がかかる。どこから来た?どこえゆく?「あっち、から、そっち」なんて言えないが、作業してると、無愛想になりがちで、いけないよ。とにかくパンクは不機嫌にさせる。
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ツール缶に二本のテューブが納まると,ホッとする。朝6時横川アンダーパスをでて11時前になってた。すこし時間かかってしまった。マックがいけねえ!通行止がジャマ!なんて言い訳さがしてボーと景色みている。そして、冷えたコーラを欲しがってる自分に気付いた。この症状ってヤバヤバ。これから30km標高差650m。ここからが本番なのに。
こんなとき、絶対だと、言い聞かせてる補給食をとりだした。紀州の梅干一個がしっかりパケージされて、持ち運びでつぶすことがない。それでいて、梅干そのまま。ロングライドは塩の補給が決め手といわれる。そうだと思う。夏はこの梅干がベストだけど、一個がパケージされたものは手に入らなかった。関西では普通に買えるからありがたい。が高価。一個315円。でもスーと気分変わる。変わらなきゃおこるよ。
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体調の低下にサインは、登りの曲がりで大きく右へ、すこしでも楽そうな勾配さがして、センターライン無視になる。とか、わけもなく日陰へむかってコース取りする、とか。いつ止めようかと、前後の判断なく迷ってる自分をみつけたら、塩と水とバナナってきめてる。きっと「復活」できる。疲れから失った、自分の身体の力って自分の気力だけでは、帰ってこない。梅干ほどでも、うまく行くことがある。これって面白い。
すっくと郵便局の駐車場に立ち上がった。さーて、遅れ、とりもどすとする、か?いや、ここから吉和まで自販機も飯屋もない。戸河内には昼定食¥600があるのだ。すこし早いけど、いってみよう。
と梅干の元気がでた。時間はまだまだある。??。
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by forumhiroshima | 2010-08-25 08:34

夏走り/通行止にしたい側、強行突破したい側

太田川から動物園への分岐をすこし遡上したところの集落・長沢の国道からの入口の橋に通行止の標識がかかっていて、急ブレーキ。でもその仔細の案内がないなーと、よく見ると「通行止、にしたい」標識で長沢自治会作成だった。
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ここは飯室へ動物園から抜ける道がこの集落へトンネルをつくって付け替えられて、すっかり車の通行量がふえて、ほそい古道はすっかり草がしげってしまっている。地元としてはえらい迷惑だろう。この通行止したいカンバンは、そんな気分を訴えてくる。

可部からこの長沢へは、太田川の左岸を登ってきた。柳瀬をすぎると、動物園へ川をわたる橋の通行止めの予告標識があった。
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通行止の標識にぶつかると、まず。車両だけか、人もダメかをよく読む。はっきりしなければ、強行におよぶ。歩いてぬけられないってことは「全面」ってなければ、ない。それにこのごろ、以前はかならず記載されていた行政機関の名称がきえて、工事の業者さんの表示だけになってる。責任はこの会社です、ってことだろう。そうなら、現場で交渉の余地あり。実際自転車でゆくと、同情されるのか、しょうがないが、通れ!ってことになる。
通行止の標識がある場所は工事現場だけではない。災害で復旧してない場所も表示される。今回は柳瀬をすぎたところにあった。
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ここで考えた。で、直進に決定。まず、いつもの強行突破をえらんだ。ただそれだけ。このあたりまでくると、川と山がまざって「青」にとけこんで、ここいいや!ってことになる。場所替えなくていいです、って感じ。これ続けたいね。
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いよいよ崩落現場です。
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それみろ、ちゃんと道ができてる。

通行に関係した標識は、道が細く、山や海の境にちかずくほど当然無くなってゆく。ここを通るのは「自己責任」ってことだけど、実際に標識に出会っておもうのは、道の管理者、というより維持する費用をもってる行政サイドからのメッセージで、いま直すよ、これから直すよ、ってこと。それを通ってなにかあったら、そりゃアンタの責任ってことじゃないようだ。そんな強い管理なら、道はどこも行政の管理になる。そんなこと、無理。旅してるなら、お前の頭で考えて、遠回りになってベソかいても、旅なんだろう。って思おうことにして、強行突破です。
太田川の右岸に長沢からもどって、遡上開始。吉山川が本流に入る川井から右岸は通行止。

これは完全な通行止で、突破なんてムダな考えはすぐに放棄。国道にでて「野冠」ノカズキの集落。橋を渡って右岸の古道にはいる分岐に「渡商店」。この集落は川舟が広島から加計へ帰る登りに一泊する船宿があった集落。どう見ても農家が川沿いに散らばっていて、宿だったのだろうか?と。それに渡し場もあって、「渡商店」もそんなところからの名前?ここに自販機があって、加計手前までで最後。古道、旧道は車来ない分、コンビニはもちろん自販機もないのだ。
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この右岸の道は「田之尻」の踏み切りで途切れていたのだけど、なぜか、延長された。おかげで戸河内まで右岸トレースの信号ナシでゆける。
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その延長された場所の「砂ケ瀬」はいつも猿に占領されている。民家の屋根を走っている。道路で群れに当たると、ヤツラは落ち着いてる。いったん振り向いて、チビどもを山へ追いやって、ゆっくり親が山側へ登る。これをすこし威嚇して自転車向かって走らすと、あわてて登るが、そのあと、道へつぎつぎに小石を落としだす。どうってことない量だから、また「ワー」なんて大声だしても、やってくる。だからさっさと走ったほうがいい。お互い無視しあって、それでいいようだ。
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by forumhiroshima | 2010-08-24 11:09

夏走り/休憩スポット

太田川の遡江は右岸を走っている。信号がないという条件にピッタリ。ならば、ノンストップで走るかといえば、とんでもなく休憩している。河畔は夏も木陰は涼しいコースだが、今年はお天道様の気合がはいったようで、ボトルの水を早くからかぶってしまった。

といっても、そこは川ぞいの道、いきなり冷房のかかってるスポットも用意されてたりする。そんな場所に出逢うとうれしくなる。可部から加計の太田川はたいへんな蛇行で、そのなかでもおおきな回転する場所に「やすの」がある。ここには元JR三段峡線の鹿の巣トンネルが川右岸、左岸に旧国道と新国道のトンネルがある。川の蛇行でそうなったのだろう。
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今廃線になって、JRトンネルは封鎖されたが、ここから冷風がいまも噴出している。といっても、道からすこし登ってやらなきゃこの風に出会えないが。廃線の鉄橋もいける。
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左岸の「やすの」地図では船場の旧国道トンネルも冷却スポット、ここは涼しい。入ると出たくなくなる。
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この冷却スポーットは可部と加計のすこし可部よりの中間地点、休憩ポイントかもしれない。
右岸を遡江すると津都見の集落をぬけて、程原に入る。ここに沈下橋がある。歩行者・自転車専用、おっと電動三輪もOK。橋からドボンと、泳ごうか?
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橋がある場所には河原へ下りる道が必ずある。橋は昔渡し場だった場所に、そのかわりに設置されたもので、いま可部のそばの柳瀬に橋がつくられてるが、明治時代の渡し場で現在、橋がかかってない場所はあまりないようで、ここも渡し場があった。でも、右岸からは河原には下りられない場所で、昔もあまり重要ではなかったと、見える。それに柳瀬の名はここに簗・ヤナが仕掛けられる場所だったとも思えるから、漁には渡し船はじゃま?? 可部に鵜飼があったそうだ。江戸時代のことだけど。川が豊かだったと、そのころが、うらやましい。
そんなことは、どうでもいいのだが、橋があったらすぐに泳げるよ!ってこと。ただしレーサーパンツは脱ぐこと。濡れたままサドルにまたがると、お猿のお尻になりますね。

加計の町を右岸からながめて、遡江すると自動車道の戸河内インターが対岸にみえてくる。ここに白いつり橋があるところの山側にちいさな滝とちいさな滝壺が道沿いにある。道にひざまづいて頭ドップリつけると、昇天する。いってまうよ。
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水から頭あげると、視線を感じた。すこしはなれた道のフェンス上に小猿。あいつも水浴びにきたのだろう。すぐに交代するよ。
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by forumhiroshima | 2010-08-23 09:49

夏走り

太田川の遡江コースを先日可部まで、戸河内まで、吉和までの三分割で走ってみたが、通しで走ってみたくなった。こんな猛暑に、おかしな身体でそれも年寄りが、と、春秋していたけど、学生時代の夏合宿がなつかしくて、これまでもお盆にはやってきてことだし、と。

朝6時。広島市内の朝の川面は美しい。
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横川のJR駅の西のガートのアンダーパスをくぐることからスタートした。目標は吉和の県境の峠まで、太田川本流をトレースする約100km/標高差約950m。先日、吉ケ瀬の中国電力土居発電所を眺めていて、尾根のトップからくだる送水管が100m、立ってる場所が標高130mだから、吉和の県境はこの送水管を7倍した高さか?なんて思ったりした。あるなー!。
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とはいっても、勾配は緩やかだ。この自転車と自分をそーっと、もちあげる、って感じでいこうか。そーっとだよ。
そうなると、走る障害物の一番が信号で、つい無視して交差点にはいってしまう。そして年寄りのイチガイさで、車の邪魔なになるのだ。いかに遅くしか走れないとしても・・ね。となるとコースを工夫する。
横川駅西にアンダーパスから祇園大橋までは信号なし。
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大橋を渡って、いったん左で大橋の下をくぐると古川水鳥緑地遊歩道。ここの途中に一つ信号。歩道が終わって、太田川河畔で高瀬堰の信号に。ここの西に小さな公園があって、ここに車道のアンダーパス。これをぬけておけば、広い歩道を走れる。
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歩道がなくなると、土手道に入って、右に土手を降りて直進すると、また下りのある分岐。そこを下って、細い「車通行不可」の道を直進。するとJR可部線のアンダーパス。このガード下ばかりか、線路にそって北上すると、もう一つアンダーパス。ここは昔太田川を渡る線路を付け替えたとき、それまであった駅舎を南へ移動した痕跡だ。
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最初のアンダーパスを抜けると旧国道。横切ると「八木用水」のそばの道を直進するとR54のガード下をぬけて、太田川橋の北へでている。
市内から十数キロ。スーっと走れば小一時間もかからない。が、しかし、古川歩道は一ヶ所ぶっつり切れてる。新R54とぶつかる場所はそばの信号を渡らなきゃけない。渡るとそこにマクドナルドだあるんだな。コーヒーとマフィンのセット¥200だって。よっていこうか?「あの送水管7セット延ばし」忘れてないかい。
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by forumhiroshima | 2010-08-22 11:06

太田川・自転車遡江記-7

⑦筏と電力完全一貫開発
 山の木を山師が買うと、広島の材木商との話し合いで出荷の日程がきまる。山師はまず、杣と木挽きで組む「さき山」を現地へ送り込む。杣は木を切り倒し、枝をはつる。それを木挽きが板に挽く。これが終わると、現場(木場)から川に流せる場所(土場)まで搬出する。これを「木出し」という。木場から土場まで数キロにもなることもあった。木馬(キンマ)に乗せたり、木々を並べた滑木路で運び出す。この作業の担い手を木出しという。二十人ほどで泊まりこみで、秋までに二ヶ月ほどをかける。
 秋の出水や、春の雪解けの時期に木材を川へ入れる。これを「木流し」という。吉和の中津谷の奥に、葉が小さくて積雪に枝が雪でしなることの少ない八郎杉と呼ばれる名産がある深い森があって、そこからたくさんの木が伐採され、吉和川へ流された。この川を八郎川というが、国土地理院では主川と記載される。この川の水量がすくないところでは、堰がつくられ、水がたまると堰をきって一気に流す。川幅が広がってくると、モンピと呼ぶ堰をつくりその端にウツと呼ぶ水路に木を導き流す。今の立岩ダム堰堤の下流の打梨あたりから一本の木に前後に二人、また細ければ一人が乗って、岩をさけるように流す。
 これらの作業のために、川沿いに宿が民家をかりてつくられる。吉和では中津谷入口、花原、田尻、駄荷など、立岩ダムに沈んだ集落にも宿が設定されていた。ここまでは、一本バラバラに流される、管流しで、吉和郷の須床で筏に組まれた。中津谷奥からここまで30kmを秋で40日、春の雪しる水で30日かかった。筏は幅3m長さ30mほどであった。
中津谷奥の八郎川(主川)と八郎杉林、ここを木材を一本流しした。
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中津谷から立岩ダムを経由して見える川はとても筏を流すことが出来るとはおもえない。
戸河内の筏の浜
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吉和郷河畔の須床
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筏乗りは太田川筋で大正11年調べによると約140人
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轟浜上流左岸の筏組みの写真(山県郡写真帳)
戸河内を下って、戸河内インタチェンジ手前にある橋が轟橋。このそばが轟浜で、水流がうずまいてとどろくことからの地名。筏流しの難所という。この写真はそのそばの箕角浜。
 筏乗りは普通は、戸河内から加計、筒賀松原からなら向光石で交代して乗り継ぐ方法だったそうだが、向光石の人たちは「むかわ衆」とよばれ、卓越した技術で特別あつかいを受けていたという。向光石は川下にむかってなだらかな斜面があって、ここが筏置き場か?と想像した。 この筏流しも大正14年(1925)に久地・間野平への発電所の設置で、廃業が出始め減少をつづけた。
向光石の川岸のスロープ
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轟岩と轟橋
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 太田川流域の水力発電は中国山地脊梁の上流の高原に作られたダムから、長い水路を引き、
中流部に作られた発電所でおおきな落差を利用して発電する。地形の高度差をむだなく利用する巧みな設計がなされている。
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発電所は大正末期から昭和初期の第一次大戦を機に拡大された海軍工廠とその関連施設用のための建設、次に第二次世界大戦を前にした軍拡時期に作られたもの、そして戦後の昭和30年代の高度成長期に作られ、それは国土総合開発法の指定にもよる、発電に特化された建設だった。そのため川の流れは自然にながれる水量にくらべ、推計で加計で十分の一、飯室で十六分の一しか流されていないという計算もある。
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太田川の水流が送水管を経由して、川に現れない。
先日の8月1日に中国新聞にこの「水力」用取水が取り上げられていた。電力発電に取りすぎだという記事だ。これまで、幾度も浮上してくる流水量問題だ。
古くはこの問題は森林伐採と水量減少ととらえられていたこともあった。「加計町より木炭を輸送する荷船は、今より30年前は平水(標準水位)で2,6tの積荷積載と二、三人の船客を乗せて下りしものが、今日ではわずかに2tになり、2週間も降雨なければ、直ちに下り船を中止する有様」と森林伐採を非難している。森林伐採が大正元年から9年の間に、三倍に。薪炭林の伐採量も2倍と増加して。“杉の電柱百本を得んとするも困難”と、芸備日々新聞/大正12年2月8日にある。 昭和3年に山県郡木炭同業組合へ「近来における炭材の乱伐採はそのこれ最高潮にたっし、今だ伐採樹齢にならざるも炭材として使用せられ、このまま放置すれが数年ならずして欠乏せり」と訴える意見も残っている。
筏の写真(大正15年)を掲示しているが、その水量おおいよね?。今の状態では考えられない流れが写っている。これでも、下り中止する有様なんだ。
筏を組んだという須床で、鮎釣の竿師にであった。立岩ダムからの流れはおりからの雨ですこし濁っているようで、どうですか?と声かけてみた。「うーん大丈夫だろう。去年よりここまでずっといい」と流れに入っていった。後姿に、ダムの水でもいいんですか?「うーん、鮎も生きにゃいけんけーのー」。鮎も適応する???。
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鮎師たちの川の上流、筏師たちが、管流しで丸太一本に載ってここから誘導したという、打梨の小学校跡は静寂の雨の中だった。「・・遊学のための送金は各県とも50億円を下らないんですね。これを東京、大阪へもちだして、そこで消費している。しかも遊学した者は帰ってこない。結婚して都会の人間に吸収されてしまうんです。村の中学、町の高校で教育した子供たちも都会に出ていってますよね。つまり、これらの何兆円という金が都会に流れてる。しかも反対給付はないんですよね。宮本常一対談集から」常一さん怒ってる。
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by forumhiroshima | 2010-08-10 09:39

太田川・自転車遡江記-6

⑥横切るもの、流れるもの
「川は上下する者にとっては大切な交通路であったが、これを横切ろうとするものにとっては障害になることが多かった。その障害は今日では橋が架けられて多くは解消しているが、もとは、渡船を利用したところが多い。江戸時代は防御のためであったか、橋はきわめて少なく、・・・渡船によって対岸に結ばれていた。・・・その舟には土地によっては丸木舟や簡単な箱形の舟の使われているものもあった。
もとはこうした舟を利用して川漁なども行なっていたものもあるであろうが、そうした人たちが後には、渡し守などになったものか、渡し守をするような人たちは、百姓をするものがほとんどなく、川漁が、上手であったり、客のいないときは、竹細工や藁細工などをして、暮らしをたてるものが多かった。しかもその技術に巧妙をきわめたものは少なくなかったのは、その伝統の古さをうかがうに足りた。宮本常一」
この太田川河畔で渡し守が、どの集落の渡りにいたのかは、記録を見つけてないのだが、戸河内で、明治の中期に、郡家に「革田共、渡し来たり候」と記録がある。これは、渡し守のストライキの記事で、革田は川田のことで、広島市内で福島川の以前の名称が川田だった。ここも川の専門の人たちであったろう。渡しは川舟と区別されて横渡しと記載されている。
澄合の渡し場跡か?
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安野は表示があります
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上段は澄合、下段は安野の渡し場のあとです。澄合はここでは?って、ところです。
安野は渡し場としては、大きな場所ではなかったようだが、渡し場とされているところは表示もされて、わかりやすい。その川浜へでる場所に石垣で組まれた民家の跡があり、そこに大きな柿木が二本のこっている。まだ青い実の渋柿はそのまま貯蔵されて、醗酵すると、「柿渋」となる。これは防水剤で紙や木材にぬると、エンジ色にそまって、美しい。
紙が雨カッパにもなるほどのウオータープルーフ機能がある。この柿木があれば、それも川にむかって二本も育っていれば、ここに渡し守の家があったろう、と。想像できる。渡し守がいたとわかる、珍しい場所だ。大きな柿木は渡し守のここの時間の長さをしめす記録のようだ。
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渡し場は当然流れの穏やかな場所で、対岸との交流のある場所にできる。いまは、すっかり橋ができているが、古い橋ほど、早く作られて、それだけに、きっと必要性が大きかったのだろうが、それがいまは細く狭くなってしまって、車の走行も難しいものになってる。改修されることもないようだ。
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程原の沈下橋と戸河内インターチェンジ裏のつり橋
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太田川の上流は沢山の渡し場があって、いまはすべてといいっていいほど橋が架けられている。対岸との交流の厚さが伝わってくる。というより。川を感じさせないほど、対岸がちかい。島根と広島との県境になる江の川は、対岸へどうしたら行けるのか?って考えるほど、橋がない。そんな場所が普通なんだ。対岸と強くつながった場所だ。

「流れの緩やかで、そして広くて、なおかつ、都合がいい、って場所があったら、それは必ず筏流しの集木場で、筏を組む場所になっている。筏が組めて、下流へ安全に流して送れることで、その山中の林業は発達してくる。森があって川が流れ、筏が流され、筏があって、森が再生させられる。人の営みが自然にかかわることがこうして出来る。
近畿山地を中心にして発達した杣は斧一本で大木を伐り倒すのを得意とし、その技術はきわめて高いものであったが、それは主としてスギ、ヒノキまたは広葉樹の広径木に用いられた。ところが、鋸を用いての伐採はむしろ瀬戸内海地方に発達していったようである。
中世末に船の船材は、木を挽き割って板にしたものが用いられるようになる。そうしたことから、造船にかかわる木挽たちが次第に山中に船材をもとめて働くようになったものと思われる。家を建てるための用材をとる場合にも鋸をもちいることはなかったという。それが、この木挽によって鋸利用がもたらされたのである。この船材をもとめて山中へ入った木挽は安芸、備後のものたちであった。この鋸の歯の立て方を安芸地方のたて方にならい、これをゲイシュウ・(芸州)といったという。こうして海岸地方の技術が山間に入って定着を見た。宮本常一」
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追崎の集落・小田という船大工の師匠の作業場があったという
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大正時代の話だが、「山中のそれこそ人跡まれなところの山がかなり広く伐り荒らされることがあった。伐られる木の多くは広葉樹で、ブナ・トチのようなものであった。伐採せられてしばらくして気がつくのだが、小屋掛けしてしばらく住んだ形跡があり、木屑がおびただしく残されている。里人は“それは木地屋の仕業だろう”ということで、木地屋は大変気がつよい人たちで、近づこうものなら生きてかえられないと信じられており、官林のみならず、私有林も伐り荒らすことがあった。それをなじると仕返しされると、だまって見過ごしたりした。しかしそのままでは捨てておけないのであるが、容易に彼等に会うことができなかった。或る時、小屋掛けしていることがわかって、しらべに決死のかくごではいった。山中の一つの所の木を伐る倒し小屋掛けして作業している。素材をちいさく伐り、それを椀や盆のおおきさに割り、あらましの形をつくったものをろくろにかけて椀・盆の木地をつくりあげている。この人々はおそろしい者でもなければ、無知蒙昧な者でもない。古文書を大切に保管し、それに山七合目から上の木は自由に伐ってよいことになっている。小野宮親王の家来の太政大臣小椋実秀の子孫と称し誇りさえもっている。古くからの伝統にしたがって生きてきているので、明治政府ができて大名がいなくなったくらいのことは知っているが、彼らの生活に何一つさしさわりのあることはなかった。だから安心してどこの山の木でも伐って木地ものを挽いていたのである。」宮本常一が林野庁の技師から聞いた話だ。この木地屋が戸河内にあると聞いてた。あるとあった吉和郷の小さな集落を回って、といっての数軒の軒を覗き込んだ。特別なこともなく、無住とおもわれる家もあった。集落をでて立岩ダムへとはしりはじめると、木地師とあるカンバン。おどろいたよ。すぐに入ってみた。
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この工房にびっくりです。横畠工芸/安芸大田町吉和郷335、伝承で200年前から。
ここから宮島の門前市へ木工品が古くから、送られていた。それは筏にのせておくった。この吉和郷は筏を組みあげる浜だった。宮島の木工師が、送られる製品の素材の良さに、ここへ上がってきて技術が伝わったと、話しされてた。刳りもの師でロクロをつかう木地師は、この川上に那須の人たちだとも。
 江波の櫂伝馬船が、厳島神社の管弦祭にでかける神事の川上りが、ここで繋がった。横畠さんは、お玉をつくり、「幸運を浮上させる、浮上お玉」と名をつけていた。お玉の半球形は古代この宇宙の形としておもわれていて、そこへかかる橋が虹。神様へ水をささげる神器だという。結婚式での三々九度のお神酒を器に注ぐ柄杓だ。女神の道具だ。

 吉和郷で刳り師に出会えたのなら、那須で木地師が待ってるかも、と向かった。太田川、ここでは吉和川とよばれる。その支流の那須川は、ながれる水がミネラルウオター。これペットボトルにつめたら、・・・。
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林野庁はこの木地師たちのどこでも伐採できるという言い分にしたがうわけにいかなかった。世の中はすっかり変わったことに納得をもらい、定住をすすめた。那須は谷の流れがひろくなったところに、広がってあった。古い地図には二十数軒が書き込まれている。しかし、ほとんどが無住の様子。広い道が集落の中と回りを走っていて、ここが、中心の場所であったことを残している。
数年前に最後の木地師が亡くなったことを教えてもらった。
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by forumhiroshima | 2010-08-09 09:54

太田川・自転車遡江記-5

⑤鉄山師とお殿様
「広島県加計町に加計という家がある。もとは屋号を隅屋といい、久しく鉄山経営をしてきた家である。この家は古い落人の家であった。その家に残るおびただしい古文書によってもこの家の古さとかって大きな勢力を持っていたことがわかるが、「国郡志御用に付しらべ書出帳(文政二年)」によると、加計家はもと隠岐の守護佐々木氏の子孫だという。佐々木氏は鎌倉の末までここに守護としていたが、元弘2年(1332年)後醍醐天皇が北条高時をほろぼそうと兵をおこし。かえって捕らえられて隠岐へ移されたときこれを監視警備したのである。ところが天皇はその翌年ひそかに隠岐を脱出して伯耆の名和長年をたよって船上山により、まもなく京都に還幸して帝位に復した。佐々木氏は当然天皇の敵として守護の地位を奪われ、元弘三年(1333年)佐々木富貴丸というものが家臣二人に守られ隠岐をのがれ出雲に渡り、石見をへて、山口にしばらく足をとめていたが、のちに安芸に移り、加計村のうち香草・遅越・寺尾の地をひらいて百姓になったという。そして近世初期までは佐々木を称していたが、近世にはいって隅屋を称した。そこにおちついて、この家は寺尾山で銀山を掘り当て、銀を出していた。それがこの家の地位と経済を安定させたようであったが、坑内の出水がひどくて、一時は廃坑になっていた。ところが元和、寛永(1630年代)横貫穴を掘って排水に成功し、また銀の採掘をはじめ、しばらくさかんに銀を掘った。が、それも水が出てついにやまなければならなくなった。
その前後のころにこの家は鉄山経営をはじめるのである。・・・・安芸北部から石見山中にかけて砂鉄採掘をおこない、たたら二ヶ所、鍛冶屋11軒を持ち、またたたら、鍛冶屋につとめるものの家498をたて、その家族2103人をかぞえる経営をおこなうにいたったのである。こうした鉄山経営のほか酒造を営み、大阪への廻船二艘、川船18艘を所持していた。まれにみる大経営であったということができる。(宮本常一)」
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西正寺
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鉱山はここだけでなく、太田川河畔にたくさんあったようだ。安佐町久地は太田川から沼田町へぬける分岐がある。太田川と吉山川の合流地点・川井の側の金山に西正寺がある。ここに金山があって、千人が作業していた坑内が崩壊し下敷きになってなくなったという過去帳があるという。西正寺の山号は紫金山で、この金山の繁栄時に建立された伝承がる。隅屋が加計の町に残した名園「吉水園」の名が浮かんできた。「吉」の勢力があったのでは?鉄山開発の原動力はこの「吉」と呼ばれる人々では?
「加計の隅屋鉄山は、原料である小鉄(砂鉄)は石見の井野村、鍋石、後になると大坪、鼠原、雲月などの鉄穴場から脊梁山地を越えて戸河内のタタラ場まで、その道筋の農民によって縦送りに運ばれた。そして出来上がった鉄は一駄(25貫100kg)ずつ馬につけ、て、加計の鉄蔵に運び、加計から太田川を舟で広島まで下ろし、海路大阪に運ばれた。逆にタタラ場で使用する米、塩、粘土、縄、狸皮、芋、ゴザなどが運び込まれるので、文政二年(1819年)には戸河内に駄賃馬が267頭いた。加計家の当主隅屋八右衛門は483頭の持ち馬があった。宮本常一」
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 この砂鉄の運送費がたたら製鉄の費用の23.7%であったという。「でも我が家は、精錬した鉄を川舟で広島へ送っています。川舟は馬に比べると大量に安く運べたから、奥出雲などより有利だったのでは?」加計家当主の加計慎太郎さんの談話。(鉄学の旅/中国新聞社)
 加計-広島の往復に二泊三日が必要だった。広島での宿泊と、帰りは太田川と沼田から流れる吉山川の合流地点の川井の上の集落だったようだ。すべて右岸、川ののぼりでは左側の集落だ。発電所が建設された野間平、野冠、鹿之巣がその集落(広島市郷土資料館)
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 また、流れにさからって船を進めるために、激しい流れの瀬の通過に加勢する「ムカエ」という仕事もあった。曳き綱で船を曳く仕事で、あらかじめ場所をきめておいて、早朝にそこへ出向く。この場所は野冠、追崎、澄合などであったという。20才までの若者の賃かせぎになった。
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明治になって加計の隅屋が佐々木を変えて、加計という地名を名乗った。広島藩なきあとの、新しいお殿様の誕生だっただろう。「わしに任せよ」って、明治の活とした気分を感じる。
加計から太田川右岸、国道の対岸の古道を走ると、正面に殿河内の集落が三段に平行に石垣の上を尾根に向かって伸びている。この景色を川越しに見渡す、高下は「栗栖」さんの集落で、表札ウオッチングが楽しい。そこかしこ「栗栖」さん。11世紀にここに紀州から「栗栖氏」がきて、太田郷を支配していたという。ふるーいお殿様だった。
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上流・大田郷の名であった「太田川」が、きっと佐々木や栗栖という人々によって、河口までの名と発展したのだろう。

河畔は、石垣がきれいだ。殿河内は、石工の里とも聞いている。
太田川右岸は、とても古びた道で、地元の軽トラックか、介護の車ほどが通過してゆく。田んぼの石垣もすぐそばを走っている。家の築地の石垣もさまざま。
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井伏鱒二が故郷の福山市加茂に疎開していたときに書いた「石垣」から。
 「私のいる村には石垣が多い。ことに私の住んでいる家の付近には、ほとんど奇怪だと思われるほどたくさんの石垣がある。ここは私の生まれ故郷だが、昨年からここに疎開定住するようになって、今さらのようにそのことに気づいた。どこの家でも石垣なしに敷地を区切っていない家はない。畑もみな石垣をひかえた段々畑である。水田もみな石垣をひかえた棚田である。細い道も往還も左右に石垣をひかえ、谷川も溝川も両岸を石垣で工事されている。川の底さえも或る部分は石畳になっている。
一昨日、私が谷川へ鮠・ハヤ釣りに出かけると、橋のたもとのところで、一人の老人が石垣の崩れをなおしていた。同じ部落の石工屋の隠居である。石をすわりのいいように据えてみて、また向きを変えて据えなおしてみて、また向きを変えて据えなおしている。「案外、骨の折れる仕事ですなあ」と私が驚くと「いやあどうも」と石工屋の隠居がいった。「石垣をとるにも、上手と下手があるでしょう。どんなのが、上手というのですか」とたずねると「そりゃ、出来上がりが早くて、みる目に調子よくて、頑丈にしあげることですな」と隠居は答えた。隠居の説明によると「みる目に調子よい」石垣というものは、必ずしも石の表面を滑らかに削ってあるものとはかぎらない。また石と石の接触部分に隙間がないように仕上げてあるのものが、調子よいとは限らない。石垣は古ければ古いほど滋味があるが、どういうものか諸所方々のお城の石垣には、滋味の感じられるものは割合いに少ないような気持ちがする。これは「みてくれ」があるからかもわからない。たまたま見ず知らずの村へ・・出かけたときに、何ともいえない調子のよい石垣を見ることがある。ひっそりとしているようで、朝露にまだ濡れているようにも見え、いつかどこかでこの石垣はみたことがあるような気持ちもする。じっくりとした風采の古めかしい石垣である。こういう石垣は、ほんの通りすがりに見るだけでも、いつまでも忘れられないものだと石工屋の隠居はいった。」
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「石垣」にはこんなエピソードも書いてある。村で唯一のおおきな石垣で表面を滑らかに削って、石と石は隙間がないように組上げてあるもので、そこの当主は「石ひとつ築くのに米一俵の代金をかけた」といっていたが、完成しないうちに家は滅びた。村では「バカ石垣」と呼ぶのだそうだ。加計に入る手前の中国道の高い高架橋のしたの右岸に道が出来ている。これで、右岸は戸河内インターチェンジまで完走でしる。ただし通行止はしょっちゅうだけど。
 その道が加計のバイパスにでるところのお屋敷の写真。りっぱなお屋敷の石垣を「バカ石垣」といっては失礼だが、それに近い。井伏が書く、すっごい石垣はこれ↓です。
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津和野・堀家住宅石垣
[PR]
by forumhiroshima | 2010-08-08 09:03


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