こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
カテゴリ
以前の記事
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
フォロー中のブログ
最新のコメント
You ought to..
by parajumper at 15:36
Latin shema..
by williamyb4 at 13:25
louboutin pu..
by christian at 10:00
I blog frequ..
by ray ban ne at 13:12
Heya i'm for..
by canada goo at 09:04
http://silde..
by sildenafil buy at 23:40
Laterget htt..
by oripsojo at 20:23
http://www.g..
by nike roshe at 00:14
http://www.w..
by nike mercu at 11:58
Indelicate ..
by allanjy4 at 08:37
メモ帳

<   2010年 12月 ( 11 )   > この月の画像一覧

これは遺跡か、今か

生駒山から奈良への峠道を北から一つづつ走っている。生駒山の大阪向きの斜面はここに断層があることで急峻だ。で、軟弱に低い北の峠から始めた。

枚方から天の川を遡る道に生駒山山麓まで京阪電車が入っている。生駒をぬいて奈良までの計画が頓挫して、山麓までとなったのだそうだ。その山麓に「河内森」駅がある。なにかきれいな森がそこにあるようで気になっていた。そこから急坂で傍示の集落へのぼる道がある。が、実は東側から登ってこの傍示からくだるコースをとった。これもけっこう厳しかったよ。
d0089494_9511966.jpg


傍示は棒を地面にさしこむこと、だそうでツクシはその形から呼ぶという。それは土地の境界を示す目印。縦の棒は傍示で、横に縄を張ると注連縄。是も結界、禁足地。現在の行政の区分ではここに生駒市と交野市の境界が走っている。

傍示から森への道はとってもきもちいい峠道で、一台のMTBとすれちがった。いい道知ってる人だ。
d0089494_9532918.jpg

しぶい民家もある。
d0089494_9541117.jpg

下り終えた森の集落はまだけっこうな高度のある台地にあって、展望がよくきく明るい場所だ。
d0089494_9553454.jpg

d0089494_956781.jpg

大正14年の地図ではこの道はなくて、北の寺の集落と傍示はつながっている。
d0089494_9581969.jpg

寺の集落の奥の峠道の入口をさがすと、そこに石の表示がある。
d0089494_9594892.jpg

「かいがけ道」とあるが意味がわからない。残念と、引き返すついでにこの寺の集落をまわってみた。軽四も無理です。とかかれた路地に、マジ!ってほどの大きな門構えのおおきな民家が、それこそ軒を重ねて、いや塀をかさねていた。塀むこうにおおきな茅葺の屋根もある。写真なんぞじゃ、伝えられないが、一応掲載しましょう。
d0089494_1041611.jpg

d0089494_1042786.jpg

d0089494_1044044.jpg

きりがないから、ここで傍示!。

このあたりは5世紀、古墳時代に鉄鍛冶工房がみつかっている。森遺跡とよばれる。こことここの南の生駒山が大和川で切断される柏原市の大県遺跡とがこれまでの最大級の鉄関連遺跡だという。
となると、この神戸・芦屋もあしもとにおよばないと、自分はおもってしまった家々の主たちは、古代製鉄会社の重役の面々であったかとも、思えた。
d0089494_10105212.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2010-12-28 10:10

饂飩

大阪を走っている。大阪の奥は東へは京都、河内。淀川を遡ることになる。見晴し、100%。でも芒洋とした広い空。
d0089494_20153041.jpg

大阪の案内を読む。マジ、淀川関連は、それもつやっぽい話。枚方、江口、神崎等々。遊女が現れる。うまい飯屋があらわれる。花にもみじ。それは和歌や西鶴や、知らない世界がわからないように案内は説明される。

案内されたところはいまはどこも、ただ自動車道路が延びているだけ。どこも同じ景色だ。
教育委員会の案内や石碑で終わるには、案内の文章に力はいってる。このギャップどうしてくれようか?

「あまりにも天気のいい日だったので、ゆうこく、といっても三時すこし過ぎたころからふとおもひたってそこらを歩きたくなった。谷崎潤一郎、蘆刈」このころといっても昭和7年ごろ9月、神戸の岡本に住んでいた谷崎が「蘆刈」にこう書いている。彼は歩きたくなって、といっても電車で、いまサントリーの工場で名高い大山崎にある水無瀬宮へでかけた。

「鳥羽院白河院なども修理させたまいて常にわたりすませ給へどなお水無瀬というといふ所にえもいわずおもしろき院つくりしてしばしば通いおはましつつ春秋の花もみじにつけても御心ゆくかぎり世をひびかしてあそびをのぞみたまふ。所がらもはるばると川にのぞめる眺望いとおもしろくなむ。見わたせば山もとかすむみなせ川ゆうべは秋となにおもいけむ」

鼻水たらしてよだれこいて、坂をのぼり、びっしょり汗かく自転車乗りが、土に足がついちゃダメ、汗かくなんて、どんなこった!という王朝文化の継承者の大、谷崎大先生を引き合いにだす資格はない。のだけど、申したように、この大阪には、彼等王侯人たちの興味をひくものがあったようだ。
谷崎先生はこうものたまう。「ほんとうの優美というものはたしなみの深い都会人でなければ理解できないものであるから平凡のうちにおもむきのあるここの風致もむかしの大宮人の雅懐がなければ詰らないというのが当然であるかもしれない。」などと労働者の楽しみをこきおろす立場を強調する。

大先生はこのあと後鳥羽院は「風流なうたげを催され、あわれいにしえの紫式部こそいみじくあれ、ただいまさようの料理つかまつりてやむ」などといいながら、懐中時計が六時を示していることにきずき、「もとより気の利いた料理屋なとのある町でないのはわかっていたから一時しのぎに身体をぬくまさへすればいいのであると饂飩屋の灯をみつけて酒を二合ばかり飲み狐うどんを二杯たべて出がけにもう一本正宗の壜を熱燗につけさせたのを手にさげながら」饂飩屋の亭主が教えてくれた渡し場へ。対岸の橋本へ渡ることより、その渡しが一度淀川の中洲にあがり、それから中洲を船頭ともども歩いて中州をよこぎり、用意してある別の舟で渡ることから、大先生はその中州で途中下車模様で、そこで月見をはじめる。.
d0089494_20574820.jpg

d0089494_2058671.jpg

これが「蘆刈」のイントロの場面だ。この小説には、淀川のたくさんの生活が案内されている。いま
この川がなければ仕事がない、という人は幾人もおられないとおもう。土手は芒洋としている。

西国街道と鳥羽とをむすぶ道をさがして大山崎へさしかかった。まだ11時まえの時間。ここにきれいな饂飩屋がある。鉄筋つくりでイタメシ屋とおもう感じ。ふと、大先生の饂飩屋の話を思い出した。熱燗二合を饂飩二杯がサカナ、おみやげに正宗熱燗。自転車これほってしまって、熱燗に吸い付きたいね。と大谷崎をきどってみたくなった。
イイデスカ?とのれん押すと、すこしバタバタがあって、いらっしゃい。
d0089494_2141745.jpg

きつねうどん、でなくかもなんば、おねがいします。
d0089494_2183554.jpg

まだ客は自分ひとり。壁に「蘆刈」の書がかかってる。
d0089494_2161542.jpg

蘆刈の饂飩屋さんって、ここってこと、じゃないですよね。と額をみながら、だれもいない店内でつぶやいた。だって「蘆刈」知ってますよ、って教養ある顔じゃないし、たまたま「あやしい淀川」を調べようってことでひっぱりだした小説だ。
と、調理場をしきるちいさなノレンをわけて「うちがその饂飩屋なんです」「ってあの小説昭和のはじめですよ。だったらここはそのころからの営業なんです?」「大正からです。ある日大学の先生がこられて、そうだってことに。そのころこのあたりは家もなかったようで、饂飩屋はうち一軒。谷崎潤一郎がうどんをたべたのは事実なんだそうです」
大正3年の地図です。
d0089494_2122935.jpg


「よわい五十にちかくなると、ただでも秋のうらがなしさが若いころには想像もしなかった不思議な力でせまってきて、・・しみじみとこたえるものがあるのをどうにも振り落としきれない・・」と熱燗の壜をラッパ飲みされるのである。いいのー!!・
[PR]
by forumhiroshima | 2010-12-27 21:30

水取

大阪と京都、奈良の間にのびる生駒山の峠を走っている。

飛鳥板葺宮や藤原京、平城京と古代の都は場所を替える。古代の神話に登場する難波や丹波、そして出雲とその移動する都との連絡の陸路は、それぞれの時代にこの生駒を越える峠をつくってきたようだ。

その峠の北の端ちかくにある峠へ、生駒の東をながれる木津川からの道に水取という名の集落がある。
d0089494_20531090.jpg

古代の道を紹介する本に大阪・河内道の項があって、「水取・モイトリ集落は井戸掘りの技術の伝統を永く満ち続けたことで知られる。」とあった。奈良東大寺の建立の中心にたった僧・良弁の高弟でお水取りを東大寺ではじめた実忠はこの集落のすぐ東の普賢寺を造っている。この水取の北の集落に二月堂の石灯籠があった。
d0089494_213574.jpg


東大寺のお水取りは3月1日から二週間だったか。「二月堂へは西のほうからやってきて、大湯屋や食堂のずしいりした建物のそばを通り、若狭井のそばを経二月堂を左に見つつ、三月堂と四月堂のあいだをぬけて観音院の前につきあたり、やがて谷を降りてゆくという道がすばらしい。司馬遼太郎」
「この二月堂の界隈で何百年も前から甘酒のたぐいを売る茶屋がある。下の茶屋という。司馬遼太郎・奈良散歩」この茶屋の屋根に鐘馗さんを司馬さんがみつける。仏教寺院に道教の神様。中国の魔よけだ。この大寺では国際色はあたりまえ、といっている。
d0089494_21141335.jpg

写真の鐘馗さんは大阪・住吉神社の東、熊野街道ぞいの古民家でみつけ、この「奈良散歩」を思い出した。

水取の集落はちいさな塊で川沿いにほそく伸びている。井戸ほりの痕跡は?と、家々を覗いてあるいた。井戸もあるが流水も疎水もない庭にちいさな囲みで水場がある。
d0089494_2118846.jpg

d0089494_2118292.jpg

d0089494_2119868.jpg


このあたりは古代には、宮内省主水司に所属する氷部・モヒトリベに関連した場所だという。この水取にある神社は朱智神社で、「渡来系集団の祀ったもの」だそうだ。地中の水流を読む技術がここにあったってことなんだ。

この国の成立する時代、平城京が奈良につくられた時代は「天皇をリーダーとする人々は、不余から朝鮮を通って辰王家・シンオウケとなり、さらに日本に入ってきて筑紫で倭国王になり、さらに瀬戸内を東行し、秦王国・シンオウコクになって、・・・天皇を選ぶときには、それまでに所在した土地の豪族たち・大臣・オオオミと、渡来時にいっしょにやってきた大連・オオムラジとが合議して決める、そういうことになっていた。江上波夫・騎馬民族は来た?こない?」
なんだか、不思議な集落を訪れると、そして不思議な技術・素手で水を掘り当てるって人々の存在がはるか昔をよみがえらせる。
[PR]
by forumhiroshima | 2010-12-24 21:38

岩船

大阪の東に壁になってそびえる生駒山の北ほどの山中に川が岩にすいこまれる場所があって、そこに岩船神社があるときいた。

生駒山から流れでて北上する川が「天の川」。その川が平野にでる場所に「私市・サキイチ」と読む集落がある。そこから山へはいり、奈良で通じる岩船街道となる。
d0089494_17435431.jpg


集落の古道に澄んだ小さな疎水がキラキラとふるい板壁そって流れる。古い壁がこの流れの跳ね返す光につつまれると、古さゆえに美しくなる。この集落のたたずまいがとてもイイ。
d0089494_1747013.jpg

d0089494_17471182.jpg


家並みにかこまれて大きな茂みがある。遠めにもクスの巨木。神社がある。
d0089494_17483783.jpg

d0089494_1748489.jpg
絵馬もふるびている。
大正14年の古地図
d0089494_17512310.jpg

今の地図
d0089494_17514612.jpg

集落はかわっていない。神社の由来が掲示してある。「上古、天孫ニギハヤヒ命が天磐船に乗りこの地に降臨され・・」。ここに古代の部族の物部氏がやってきて、そののち生駒を越えて大和にないったという神話がある。大和朝廷の成立以前の神話。だが、名だたる古代史の先生たちは、ここがその降臨の地だとは、資料を読む限り、おもってない。

峠にはいる。二車線の車道が谷に蛇行しながら登っている。と、道の側に二基の石灯籠が茂みにあって、そばに「私市をはじめとする交野は弥生時代、稲作をし、この上の磐船神社をお祭りしており、ここは私市の若宮神社に祭礼に磐船の神霊を神輿にのせ、お迎えし村々を一巡したあと、お帰りになる途中、ここで神様と人々との休息の場所としてしぐれの里とよび、お旅所としてきた」とある。
古代、神々と共に歌い踊ることを歌垣といっていたという。
2kmばかりで、眼前におおきなトンネルが道よりそうとう高く口をひらいて、そこからヨダレほどの流れが落ちている。そのトンネルを回り込むと、巨岩がビッシとかたまって、そこに神社があった。
d0089494_18112045.jpg

d0089494_188462.jpg

d0089494_1893312.jpg

川の水量が大きくなると巨岩にさえぎられて災害がおこるのだろうか、トンネルはその流れのバイパスのようだ。

川が磐に消えるという設定がすばらしいのだが、・・・。岩場に神社の告知があった。磐のしたをくぐる道を見たければ、社務所へ申し出て拝観料を・・・。
マア、神話ってこんなものなんだろう。でも私市ではいまも歌垣があるような、イイヨナ私市。
[PR]
by forumhiroshima | 2010-12-20 18:15

行基

摂津から河内にかけて、といったら今の大阪の東から北の地域で7世紀の人「行基」の名をとにかくたくさん見る。その行基が橋を山崎にかけたのが725年といわれる。

37歳まで山林に修行し、そののち巷にでて道場、道、池、橋、救護所を次々とつくって、道場とよばれる寺が49におよぶという。「日本改造」の先駆者ともいえる。

京街道がいいよ岩清水八幡のある男山にかかるところ、正面に大山崎、天王山かサントリーの工場か?と問われる場所にかかると、急に道が消える
d0089494_22194611.jpg

むかしの街道をいまの現状に合わせること事態が困難なことで、古地図などから想像していまに古」街道と設定されている。自分は大阪府の古街道にそってはしってるが、「上方史跡散策の会」発行の「京街道」とちがってる場所がある。
それは淀川が桂・宇治・木津の合流地点の淀のすこし下流の川下になる。豊臣秀吉の築いた文禄土手の上が街道になるが、大阪から街道はその土手の上をすべて通ってるのではないようだ。

その街道のなかであやふやなルートがいくつかあるなかで、自分としては、これが古街道とかってに感じ入る場所がこのルートが消える場所だ。消えるといっても車道や整備された土手の道でなく畑のあぜ道になる場所だ。
これが古街道ならとても素敵だ。
d0089494_22201170.jpg

行基はここに山崎橋とセットで久修院を建立。その寺が街道のあぜ道にそって再建されてのこっている。
d0089494_22351381.jpg

d0089494_22402613.jpg


10世紀初頭に紀貫之という歌人がいて、彼は赴任していいた土佐から京都へかえる船旅の道中の日記が「土佐日記」。土佐を12月21日出立、2月中旬に久修院対岸の山崎へ着いている。「やまさきのはしみゆ。うれしきことかきりなし。ここに相応寺のほとろにふねをとめて、とにかくさたむることあり」
このころの山崎の地図
d0089494_2247944.jpg

相応寺はいまはない。そばに離宮がある今の地図。
d0089494_22472167.jpg

離宮八幡宮
d0089494_22421813.jpg

千三百年も前の景色が今広がってくる。あの行基さんが現れてくる。
サイクリングの神様(仏様?)からのプレゼントだ。
[PR]
by forumhiroshima | 2010-12-18 22:43

花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る

これは森重久弥が死去した向田邦子の墓標におくった言葉だ。うつくしい、心ある言葉だとおもう。

大阪から京都への京街道の中間地点の茨木の宿に、森繁久弥の生家があると聞いた。
d0089494_21512115.jpg

受験勉強を強いられていたころ、日曜日の夜ラジオから流れる「日曜名作座」の森繁と加藤道子がかたる作品を勉強だからいいのだ!と自分に言い聞かせてかかさず聞いていた。その森繁の生家は大阪府の指定天然記念物のなったムクの木のそばだったという。巨木のある家か・・。

小学の低学年までの期間の居住だったそうだが、樹齢500年以上、高さ30mが丘に張り出して、そのたもとに生家があるという。
茨木の宿は淀川にはりだした丘陵にあって、古い川の湊だ。古くからの船宿を改装した記念館や街道の古民家、商家も整備されている。その記念館が発行した地図に巨木が記載されてあった。私鉄の踏み切りからの登りも上をみながら巨木の姿をさがした。地図もイラスト程度の精度だが、巨木だからすぶに現れる、と。
が、見つからない。丘陵を一応走って見たが、ダメ。ウネウネとつづく尾根にはマンションと住宅でうまっている。マンションにさえぎられているのかと、訊ねてみたが、ダメだ。最初に入ろうとした道にママヨ!と登ってみると、すぐにあった。この木、すっごい!
d0089494_224188.jpg

近づくともっとすごい。幹がふっとい。
d0089494_2252051.jpg

この木の下が生家だときいた。丘のトップで明るい。森繁久弥は、はやく父をなくし、森繁家に養子にでた人。その出世作が織田作之助の夫婦善哉。
「年中謝金取りが出入りした。節季はむろんまるで毎日のことで・・」ではじまる小説の映画化の主人公は、自分は見てないが、よく知ってるって思ってるほど。
d0089494_22104289.jpg

大阪はわからないが、その雰囲気は大阪のようにおもってしまう。そう、日曜名作座でやっていたのだ。そして主人公が森繁久弥自身のように、おもってしまってる。

幹の下にベンチが置かれていた。そのベンチは・・。
d0089494_22124871.jpg


この指定席に座って、空を仰いで、そして歌をうたって、「知床の岬に・・」。そう聞こえた。
大阪ってすぐに歌や詩や映像や小説がでてくる町なんだな。
[PR]
by forumhiroshima | 2010-12-16 22:21

大阪以前

京街道が守口の駅から北上して淀川にでる。ここから現在の堤防と重なって登ってゆく。その堤防の上から街道がはなれて集落に入ると、すぐに大きな寺院にでた。
d0089494_17395222.jpg

お寺の屋根はでかくてランドマークになるが、それも真宗のお寺がそのように思っている。その屋根がこの寺は半端なくデカイ。大きな楠の木が幾本もあってやはり大きな銀杏の木の紅葉はおわっている。この寺は1475年に蓮如上人が北陸から丹波をぬけてこの攝津の出口へ京都に帰る途中たちよった。
d0089494_1739236.jpg

d0089494_17393513.jpg

京街道は1596年からの完成だから、上人がここにやってきたときには堤はなかったことになる。この寺は「淵埋山、善光寺」ここに伝説がある。上人がここに立ち寄り幾日かの説法がおこなわれた。その説法をきいていた人々のなかに一人の美しい娘がいた。その娘は上人に「私はこの川の淵に住む竜だが、説法のおかげで成仏できた。お礼にこの淵を差し上げるから、ここを埋てお寺を建立してほしい、」といって、大蛇のすがたで雲にのってきえてしまった。
上人は京都へ向かわず、ここに堂を建てた。川と戦うことで、自分のあり場をつくることができた。
布教の基地の創設はいつもその場所の選定で結果がきまることをこの蓮如上人はしっていた。

この蓮如上人が晩年に以前より「この所在を見そめしより・・」といって1496年にいまの大阪城の場所(かNHKだろう?といわれる)に石山本願寺(大阪御防)を建立した。

大阪について司馬遼太郎は「このあたりはよし・あしのはえるにまかせたただの磯臭い田舎で、近畿の他の地帯にくらべても人家が多かったわけではなかった。平安から鎌倉期にかけては現在の大阪市の都心あたりはワタナベとよばれていた。大阪のもとのよびなは渡辺であった。・・河口で網をうったり、湿田をはいずりまわって田植えをしていた半農半漁の地帯で、どういう権力者もここを天下統治の根拠地として考えたことはない。そういう種類の地政的頭脳はまだ歴史に出現してなかった。
最初に出現するのは中世末期である。本願寺興隆の基礎をひらいた蓮如がそれであった。・・親鸞から数えて八世の孫にあたり、貧窮のなかで成人した。
・・・蓮如のころ「大阪」という地名はあったらしいが、どの記録にも見えないほど微小であった。ちなみに蓮如は「大坂」と書いたが、本来なら小坂という文字があたえられるべきであった。となれば大坂という地名は蓮如ということになる。(歴史を紀行する)」
オオサカが「大阪」に統一されたのは明治になってからのことらしい。

蓮如が陸路、摂津を抜け京へ帰ろうとしていて、この出口にナゼ立ち寄ったのだろうか・なんて考えた。大阪の渡辺は海に南から北へつきでた半島でその東西は海であったと思われる。出口の対岸には三島江という砂州ができていて、そこに三嶋鴨神社が鎮座していた。三嶋神社はここと伊豆の三嶋と瀬戸内海の伊予大三島にあって三・三嶋と「伊予国風土記」にあるから8世紀には出現していたことになる。伊豆の三嶋は伊豆諸島の大島との渡しの神、伊予大三島は朝鮮半島との渡しの神だという。
出口のすぐ南には香里丘陵がある。この写真は対岸の三島江からのもの。ここが奈良への街道にもなる。
d0089494_18225053.jpg

ここに渡し場があった。
d0089494_18234976.jpg

昔の渡し場は淀川にはのこってはいないが、その痕跡は旧街道とおなじようにある。集落から川へでた場所には道が行き止っている。そして土手にあがる石段た歩道がのこる。渡し場が消滅していても。
d0089494_18275645.jpg

この三島江と出口にも。
三島江の土手の風景
d0089494_18283863.jpg

その土手から神社の杜をみる。
d0089494_1830274.jpg

出口の集落の風景。一番奥に階段がみえる。
d0089494_18292684.jpg


蓮如上人が三島江でみた丘陵にふと、渡ろうと思って、そしてのちの、大阪・石山本願寺御堂ができて、さらに、そののちにできた中心部の南北御堂がある御堂筋が残されたとしたら・・・。それが大坂の動脈になってる。この水におおかぶさられる大阪の地霊の爆発のさけびのような・・爆発、そのことを蓮如上人は確信していた、としたら。ここから「大坂」が始まったのだから、ここはすごい。
[PR]
by forumhiroshima | 2010-12-08 18:30

文禄時代そのまま?

大阪から京都へ、京街道ができたのは文禄時代。秀吉が毛利・吉川・小早川という広島の御三家に作らせた淀川の左岸堤防の上の道からだという。文禄5年1596のこと。
d0089494_12221325.jpg


大阪の河内は、その言葉どうりに川の氾濫源でいまでも海抜1m。その湿地帯に松下幸之助が工場をつくったとき、地元はその勇気に感謝したという。秀吉の堤は文禄堤とよばれ、この堤ができてから河内の干拓がはじまったのだそうだ。そこに工場をつくった幸之助さんが「今太閤」と成功して呼ばれたのも、うなずける。
湖だった河内と淀川とを分離させる堤防のどこかこころぼそい、自然の猛威にはとんと抵抗できないような、そんなイメージで走り始めた。街道の基点は大阪城の西、天神橋のそばの高麗橋にある。やはり基点に挨拶しておいた。
d0089494_12305129.jpg


街道そばに京阪電鉄の路線が平行にのびていて、京街道にとってかわった国道R1はすっかりはなれてある。街道は長い細い商店街の連続で、京阪電鉄の駅を商店街でつないでいるほど。
d0089494_1235134.jpg

d0089494_12351818.jpg


その様相がR1号線と重なる守口の駅あたりから街道と町並みの道との判別に苦労しだした。いまの行政が設置した京街道の石碑も見えなくなって、うろうろ。すると殴り書きのような表示が民家の塀に発見。といっても道の幅もせまい、そして小高い場所へあがってゆく。
d0089494_12394431.jpg

すると道にはちいさな橋が車道の上にかけられて、そこから駅前のロータリーやおおきな商業施設が俯瞰できる。すぐしたの車道にはほそい石段の道が降りている。
d0089494_12412467.jpg

d0089494_1241365.jpg


道側の民家は古風でもあるし、あたらしいオシャレなものでもある。そこに小さな標識があった。この道が「文禄堤」。なるほど、これが堤の上の街道なんだ。
d0089494_12434631.jpg

表示された古地図と今の地図とくらべると、400年の時間がピッタリと重なってしまう。
d0089494_12451628.jpg


旧道だ、街道だといっても、それはルートとして残っていて、その勾配た曲がりなどの有り様を自転車をとおして感じる程のことだとは、いかに古道大好き人間でも、クールなもんさ!だ。
が、ここは、そのままなホット!。それもきっとこの町・守口の主要な繁華街のド、真ん中ってことが、とても痛快だった。
脆弱な堤なんかじゃなかった。この堤をつくる費用も労力も強制剥奪された御三家に、乾杯!です。
[PR]
by forumhiroshima | 2010-12-07 12:51

冬の星座

冬の星座といえばオリオン座になろうか。この星座の三つ星を祭る神様がある。大阪・住之江の住吉大社だ。
d0089494_1652968.jpg

ここに鎮座する神様は筒男という三兄弟。上、中、底の筒雄とよばれる。この三神に女神を合わせ祭神とする。

夕刻に輝く金星を「ユウヅツ」と呼んでいた。(そういえば、そうだったかな?)このヅツから星を連想した先生たちがいて、この住吉大社のツツオたちをオリオンの三つ星として考えた。そのように考えなくてはいけないのが、このツツオたちとヒメ神のそれぞれの神殿がふつうじゃないことからだ。
d0089494_1649492.jpg

住之江競艇のある西から神社へ向かう。帳面におおきな太鼓橋があって、それを越えると正面縦方向だから東西に一列に三神の屋代、その右側にヒメ神の屋代がある。三ツ星は東から登ってくるときは上下一筋にならんでいる。それがこの配列だと。
神社は大都市で有名なだけにけっこう観光化さtれてるかと、思ってきたが、とんでもない。神が降臨するところの神聖さがあった。お守りを売ってる巫女さんがとても変わった髪飾りをされてる。どうしてか聞こうとはおもったが、はずかしかった。写真は影から。
神社に熊野街道が入っている。大阪の天神橋からスタートしてきた街道は古代からの熊野参詣の道だという。
d0089494_1651305.jpg

神社の前にその古代のこのあたりの地図があった。海の渚にあって、きっと美しいものだっただろう。
d0089494_16563778.jpg


島根県・出雲にある、熊野・美保・須佐・速玉・伊達・加多・日御碕・比田・出雲郷がこの熊野にも、熊野・美穂・須佐・速玉・伊達・加太・日ノ御崎・日高・出雲村・出雲崎とある。
古代にイズモの人たちは西日本の各地に広がっていた。そこにあとからやってきた騎馬民族といっていい人々が近畿地方に侵入することで分断された、という人もある。その遠い記憶の場所がイズモとクマノにあって、そこイズモ・クマノに入ることによってあたらしくおおいかぶさった気分をぬぎすてることで、神々を発見することができる、と信じクマノへむかった。
このツツオたちは、対馬に豆酘・ツツにその名を残す、なんていう。

古代の大阪は大阪城のある上山台地が海にあるだけのところだという。その台地の西の渚に神社が鎮座して古代を語る。その台地の西側の渚をとおってクマノへ向かうみちが熊野街道になる。
d0089494_1734493.jpg

住吉大社から東の街道にでると古風な町並みがすこし残されている。古い味噌やがある。
d0089494_17194568.jpg

熊野参りはルートの厳しさもさることながら、食料の調達がはなはだ困難な旅だと。天皇や上皇が熊野へ詣でる御幸には千人ちかくのお供と一日の食料が16から49石に及んだなんて記録もあるそうで、1石が一人あたり一年分の米というからな・・。「熊野へ参らんと思えど、徒歩より参れば道遠し。馬にて参れば苦行ならず。・・」なんてことだったようだ。
熊野街道を北上する。阿倍野にはいるとおかあさんがキツネだったという阿倍の清明さんの神社もある。
d0089494_17264293.jpg

そして四天王寺にでる。
d0089494_17271766.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2010-12-06 17:28

下町、山の手

知らない町でまず探すのが路地。車は少ないし、町の暮らしぶりが直接つたわってくるような、自分がその空気の外にはっきりといて「旅人」みたいな気分につつまれるのかお気に入りなのです。

大阪はその路地道にこまらない大都市。発達し交差した鉄道のたくさんのステーションには必ず商店街がながく伸びていて、それを路地がかこんでいる。この町には巨大な駐車スペースを持つ郊外型商業施設の土地がないようだ。なるほど、だからステーションにある巨大な百貨店が競うのだろう。その敗者のスペースにあたらしい業態のお店がすべりこむのだ。

そんな大阪の路地町で、由緒正しいお墨付きが「泥の河」の舞台の西の福島・野田の町だという。
d0089494_9205385.jpg


さっそくワクワクで走った。路地の入口の祠からなにか覗いている。近づくとタヌキさんだった。
d0089494_9203438.jpg

「昔、野田村は北前船や樽廻船なども町続きの安治川岸から出入りしていて、荷揚げ人夫も多かった。明治になって倉庫や工場ができてそこに勤める工員さんがどっと入ってきた。そこに軍艦とか蜂の巣とかいわれる長屋の集合住宅もでき・・・町は石畳の路地、長屋、狸の置物、重たいタイル張りの家、貸本屋、とまるで映画のセットのように戦前の町が・・。森まゆみ/大阪不案内」
d0089494_9355727.jpg

ほんとうに現役の貸本屋がありまっせ。
d0089494_9303112.jpg

d0089494_9304814.jpg

路地は曲線や三角や斜線で構成される。
d0089494_9314456.jpg

「井路川の水路がはりめぐらされ、蛇行する川で町ができたから。その町は戦災にあわずに残っている。四つ角は必ず隅切りになってる。それは「当てられたらソンやからな」。東京なら「曲がりやすいように、土地提供してます」というところ。大阪不案内」
d0089494_9353096.jpg


野田から南下して住吉神社へ。神社から北上する熊野街道へはいった。すぐに帝塚山の幾分かの登り勾配に道がなると、なるほどここは「山」なんだと感心する。でも、これで山かね?。
d0089494_9545322.jpg

森まゆみさんの「大阪不案内」に案内してもらおう。
「明治18年阪堺鉄道のちの南海電鉄や上町線ができて、船場辺りで成功した人が別荘を建て始めた。何千坪という邸宅もあったという。大正時代に業者の土地開発で邸宅がふえていった。そして戦後、やっぱり阪神間だと、お金持ちは芦屋、夙川へ越していった。・・・新築の家が多い。祖先伝来の古い家にほこりをもって残す方もあるが、それは例外で、お金さえあればこの国では機能的であたらしい家を建ててしまう・・」

正確に四角形に刻まれた土地を回ってみる。すごく静か。その家々の玄関はそれぞれに工夫されている。「どこに住んでいるかと聞かれて帝塚山とは答えないですね。すると必ず、お、豪邸ですな、とくるでしょ。だから住吉区と答えます。すると、そうですか、でおしまい。大阪不案内」
d0089494_953685.jpg

d0089494_9531823.jpg


高級住宅街がすさまじいスピードで建替えられることは経済効果がおおきい、ってことだ。では路地の建替えは?
これには二つの法律がある。路地に面した家の立替は道路の中心から2mほど下がって行なわれなければいけない。建築基準法42項。ならば、家は狭くなる。だれも建替えない。またどこかの家が建て変わると、そこが広くなって、路地が変形してヘビが飲んだ卵状態になってしまう。
路地も歴史的景観があるなら、路地を道でなく通路と考えて2.7mを残せばOKって法律もある。難波の法善寺横町の火事からの再建はこの考えが適用された。
この野田の路地が歴史的かどうか?は誰がきめるのだろうか?やはり機能的な家が高級住宅街だけでなく増えるだろう。
町は変身して時代が重層する。なら、たくさん路地の町を走っておかなきゃ!いけんね。
[PR]
by forumhiroshima | 2010-12-04 10:09


最新のトラックバック
presiden jok..
from plus.google.com
venuscozy.com
from venuscozy.com
whilelimitle..
from whilelimitless..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
fashion mich..
from www.mikaelkors..
biber hapi
from biberhapisipar..
iphone 7 cas..
from myiphone7cases..
máy xay cầm ..
from goo.gl
ultimate testo
from ultimate testo
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧