こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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虎と猿と鷹と啄木鳥

竜田越えの道のとおる雁多尾畑の集落の北に河内から信貴山の朝護孫子寺への道がある。この河内の基点に恩智神社、奈良からの基点が法隆寺。大阪から恩智神社への基点が四天王寺。すべて、聖徳太子との伝承をもっている。
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太子が四天王寺と大和の飛鳥との間を、愛馬・甲斐の黒駒で通っているとき、亀の瀬で、笛を吹奏することを習慣としていると、いつも一匹の老いた猿が現れ、踊ったという。この猿は信貴山の神であった。太子はその踊る姿を四天王寺の祭りの舞とした。
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四天王寺は太子と蘇我氏一族と物部氏との争いの後、太子がその勝利を記念して建立という伝承がある。その時の物部氏の大将が守屋。この守屋の軍勢は守屋が死んだとき、奴婢の着る黒衣を身につけ、狩りの真似をしながら逃亡したという。物部氏の滅亡。その最後の場所は河内・八尾の渋川神社あたりという。そこに守屋の別荘があったと日本書紀にはある。
四天王寺に白い鷹がいる。鷹は金堂の東の止まり木にとまって、正面の太子堂の東奥にある守屋の墓、守屋堂を見ている。守屋は啄木鳥になって、寺に穴をあけようとする。それを監視しているのが白鷹で太子の魂だという。

物部氏は生駒の山に降臨したニギハヤヒを祖先として河内に古代展開した部族で、八尾はその弓矢をつくる部署があったという。矢を作る仕事を負うかたヤオという話もある。交野で物部の子孫が書く神社の由緒書を先日みたばかり。その物部氏の本流が恩智神社だという歴史学者がいる。
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恩智神社境内

この神社は今は物部氏の神ニギハヤヒを祭っていない。神社はおおきな境内と、その下に元の建立地とをもっていて、その以前の勢力の大きさが伝わってくる。この神社そばから高安山への道があるが、未舗装で急坂で、すぐにしっぽをまいて退散した。戌年なもんで。
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高安山へはあたらしい車道を登って、その山頂の東のピークの信貴山の朝護孫子寺へ。
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ここでこの寺の由来の表示を見つけた。
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聖徳太子は物部氏追討の祈願をここでおこなった。毘沙門天があらわれて秘法を授けられた。その日は虎の日で年も時刻も虎であったと。猿じゃなかった、ようだ。
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恩智神社の物部氏のにおいは抹殺されて、守屋は四天王寺で監視されている。明治になって八尾市内に守屋の墓がつくられたが、その正面に太子を戦いのとき、保護じた木をもつ寺がある。朝敵のレッテルがすさまじい。
信貴山から法隆寺へ。
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ここで太子の死後、一族が蘇我氏によって自決に追い込まれるという事件がある。6世紀から7世紀の出来事。すこし重い感傷があって、帰り道はへたってしまった。
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by forumhiroshima | 2011-01-30 12:29

大それた試みなんだけど?

この国の初めての政権ができた大和は大阪の東の生駒山系の東にある。大和朝廷はなぜ生駒を越えて奈良盆地を選んだのだろうか?
その神話の神武天皇の東征は九州から始まり瀬戸内海を東へすすみ、生駒のすそ野に到着する。先住者のナガスネヒコに追い出されて、紀伊半島へ。それでも大和をめざした。

その奈良盆地へ生駒をこえる峠を自転車ではしれそうなら挑戦することにした。パスハンターなんてかっこいいが、どうせ押してあがることになるだろう。峠に立ち奈良盆地・大和と大阪・難波を見わたせば、なにか心に古代ここをめざした人々に近づけるかも?

神武天皇の軍が「徒歩・カチより竜田におもぶく。しこうしてその道せまく、険しく人が並んでゆくことができない。それで引き返して」とある。その竜田越えの道が生駒山系の一番南大和川が奈良盆地から大阪・河内へながれるところの北斜面にある。
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奈良盆地には古代、湖があった。6000年前には水深70m、2500年前には50mほどになり、その周辺に平野ができていた。神話の時代ここに弥生の稲作がはじまってきた。盆地にふる雨は大和川となって大阪へながれこむが、生駒山系に南斜面に大きな瀑布があったことは想像できるのだそうだ。その滝はいまは亀の瀬といわれる。大、地すべり地帯で、そこが浸蝕されていまの流れになった。昭和6,7年と40年代にも地すべりで川がせき止められている。大正12年地図
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万葉集に「海原はカモメ立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は」がある。このカモメは河内湖からとんできたのだろうか。ここ奈良にも大きな湖があったという歌になろう。
この亀の瀬をさける道が竜田越えの道。
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けこうな勾配がでてくる道は標高を上げて大きな集落・雁多尾畑・カリンドオバタに入る。まず読めない地名は、この集落の中央にある光徳寺にあった雁林堂・ガンリンドウが由来で峠・タオをつけてガンリンドウダオからだそうだ。
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この道が竜田越えと呼ばれるのは、生駒山系から降りるとある竜田大社による。風の神様だそうで、ひろい境内がある。この東の法隆寺のそばに竜田神社があって、一応若宮で支店ってことなんだが、この竜田神社は法隆寺の鎮守で、聖徳太子が竜田大社から勧請したといういわれ。竜田はこの地にカミナリの神様が落ちて、空に帰れなかった。その神様を祭っていたが、いつしか竜となって天に帰った。で、たった、だそう。
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生駒山系の峠の場所
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どれもけっこう面白い峠です。が、押しもありました。
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by forumhiroshima | 2011-01-29 18:01

東西線

大阪から奈良、平城京への最短距離の道は生駒山のピークの南の暗峠への道になる。このネーミングのすばらしさに、いまも沢山の登山者にであう。自転車はMTBしか通用しない!か?この峠への道が大阪城の南から東へ直進している。

この街道には幾つかのあたらしい表示がある。その一つにこんな標識をみつけた。
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「古人は陽ほ測り、星を測り、宮殿や都の方位を正しくととのえ、国の安泰と繁栄をねがった。あをによしならの都は咲く花の、のほうふがごとくいまさかりなり」こう表示に刻んであった。

大阪のスタート地点を古代難波宮におけば、真東に暗峠があり、平城京の春日大社の鳥居に行き着くという。このラインをたどる道が暗奈良街道。古代の河内湖が最後にのこした新開池のすぐ南を東へ走っている道になる。渚の道か堤があっての道か?。うねうねとして、そばより幾分高いと見えるから、堤の道だろうか。

生駒山系と奈良へむかう峠へのアタックの最終版になってきた。生駒山系の南端の信貴越は恩智神社へ奈良から朝護孫子寺から高安山を越えるルート。自転車だと恩智神社からすこし南下して南から朝護孫子寺へ。そこから北上して十三峠で生駒を越え河内へ降りるコース。この上りで眼下に広がる平野に点在する緑の山に眼がいった。そしてそれが古墳だと気付いた。そのずーっと向こうに同じように緑が町から浮き出ている。一番ながい緑がきっと仁徳天皇陵だろうか。この高安山と仁徳天皇陵の北の住吉の津・港と神社は東西のラインの上。このラインは奈良・法隆寺へとつづく。
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十三峠を下って、大竹という集落へ入ると、そこになにやら、なにがある。なに、は修復されて作られたばかりの姿の古墳。心合寺山古墳。
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十三峠で、若い人たちとであった。自転車ですか?とちょっと尊敬????の眼。ジャア、なんて気取って、見てないだろうけど、見てるかも、一人で、なんて盛り上がって、けっこう一生懸命下ってしまって、すこし余裕あったら、この整備された古墳の遠景みれたかも?この古墳北緯?東経?。
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by forumhiroshima | 2011-01-24 21:17

大阪湾を渡ると、

大阪は奈良、京都などの古代の都の入口。海外特に朝鮮半島との古代の往来の有り様がいくつもエピソードとしてのこされている。神武の東征は九州をスタートしているが、この難波の背後の生駒山系の麓へ船を進めている。

海図も羅針盤ももたない古代の航海は島伝いに次々と船をすすめてゆくことが、もっとも確かな方法だっただろう。
「船の位置をきめますわな、あれはな、体で知っとらんとな」そういうものらしい。・・船の場所は陸・オカを見てきめてゆくのだ、という。ふつう三点できめる。・・海岸の一点と、その上の山のある角度と、そして島の海岸線の一点を交叉させてきめる。司馬遼太郎、淡路みち」

この「地文航方」は、ただし初めての来航者には水先案内人が必要であったろう。神武一行も難波へ入るまえにそのような水先案内人をみいだしている。
”其の国より上りいでましし時、亀の甲に乗りて、釣しつつ打ち羽挙き来る人、速吸門に遭いき。・・汝海道を知れりや。と問いたまえば、よく知れり、と答えまおしき。また、みともに仕えまつらむや、と問いたまえば、仕えまつらむ、と答えまおしき。古事記。”

瀬戸内海を東へすすみ、明石海峡を抜けた船は正面の生駒山系の南端のピーク、高安山に向かい、その航路は後になる淡路島の松保浦の神社とをむすぶ直線上をすすめば、住吉の津へ入ることができる。
淀川、神崎川へ入るには、六甲の麻耶山と和歌山山系の葛城山との交点、もしくは西宮の甲山と和歌山山系の西端の飯盛山(お椀に丸いご飯の形)との交点で神崎川へは、千里丘陵の千里山、もしくはその向こうの天王山のラインへ、淀川へは生駒山系の北端になる、やはりお茶碗にご飯形の飯盛山へ、このラインに後に大阪城が出現する。
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この空想の航路も、もしかして?と思ったのは、この大阪湾中央にできる交差点が、いまの行政区分の交点に近いってことからだ。けっこういい線いってるのかもしれない。

大阪は大阪湾と河内湖へ川による土砂の堆積でできた町だから、自転車で山を目印に、なんてよほど生駒山にちかずかないと、ランドマークにならない。けれどちかごろ大阪へいくども走りにでかけると、あれほど同じにみえた高層建築が、すこしずつ区分できるようになってきた。河内では運河や川の流れの方向に素直であれば大阪城に多少南北しても到達するとわかってから、暗くなっても走って見たが、ビルの輪郭は判別できないし、川の流れの方向なんてむりだし、どpこもにぎやかでおなじみ見えて、いつも迷ってる。

古代には夜間の航海がどうだったのか?わからないが、淡路島の松保浦は「古来この海峡を往来する舟は、潮や風を待つために、この浦に群れた。松帆の松は、そのあたりの岩角にはえる松が美しいということもあるが、潮待ち風待ちの帆が岩陰に群れているという意味もふくまれているのに相違なく、ともかくも平安朝以来の歌の名所である。司馬遼太郎」
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この松帆の浦の明石側に兵庫県一の古墳が整備されて公園になっている。海岸から100mほどの高台に鎮座する。五色古墳という。
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古墳はいま見るような、樹木に覆われた小山ではなくて、墳丘全体が白い葺き石でおおわれたエッジの鋭い幾何学的な構造物だという。この五色の名も葺き石が五色に光ることからの名だという。対岸の淡路からこの石は運ばれている。この古墳を舟がすぎるとすぐに東の山並みの南側、二つのピークを持つ二上山に舳先をむけ、五色古墳と二上山の直線にそってすすむと、大阪湾の中ほどにくると、正面に大きなやはり白い葺き石の古墳が見え出す。仁徳天皇陵だ。ちょうどこの時点で後側の五色古墳は見つけずらくなる。仁徳天皇陵と二上山を合わせてすすめばよい。そこに大和へはいる古道の入口がある。
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水平線は「観測者から水平線までの距離をx、観測者の海面からの目の高さをh(単位はm)とすると、x(m)=3570×√h(m)で算出できる。例えば、海面からの距離20mの船の上にいる目の高さが1.6mの観測者から水平線までの距離は、3570×√21.6≒16591mとなり、約16.6kmである。しかし、水面に立つかたちで計算すると、約4.5kmとなり、意外に水平線は近いということが分かる。」ウイクペディアより。
大阪城の天守閣は33.4km先から確認できるという計算になる。生駒も葛城も二上もじつはよく雲にかかる。石山本願寺を立てた蓮如も、その場所を強奪した信長も、そしてそこにきらびやかな城を作った秀吉も家康も、航海者たちへのアピールはすばらしいものだったろう。城はすばらしいランドマーク。瀬戸内海にはいくつもの海へつきでた城がある。また、海から見える高さを用意して市中にある。
古墳も愛媛県最大古墳が来島海峡に、四国最大の古墳は香川県津田湾に面してある。神社もスケールはちいかくなるけど、たとえば厳島神社鳥居もみごとなランドマークだ。海岸の大きな岩や岸壁、おおきな樹木や神社の鳥居、寺などのお灯明は海の中の岩礁や浅瀬をしめす三角点の頂点、国土地理院の地図のちいさなピークに書きこまれる三角点の標高も、地元で聞き取ったヤマアテだったりするのだそうだ。赤提灯は三角点でなく目的点??
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by forumhiroshima | 2011-01-22 16:00

もののふ

「もののけ」じゃなくて「モノノフ」です。武士と変換されるんですね。男前!ってことです。そのオトコマエが古代に天皇家よりまえに、この国に渡来した一族の「物部」って集団がその語源なんだそうで、「モノノベ」が「モノノフ」。だったら、日本精神って、感じ。街宣車がでてきそうです。

そんな「モノノベ」は3世紀以前に大阪、河内の山におりたったニギハヤヒが祖先といってます。この降臨が生駒の北部の岩船で、ニギハヤヒは磐船に乗って降臨してきたといいます。岩船神社があって、そのそばをながれる天の川が平野にでるところに「私市・サキイチ」があります。そこに若宮神社が山中の岩船神社に向かってだけ参道はあって、集落からいったん登りそして折り返すと神社、という設定です。
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若宮神社にある由緒書が、すばらしい、です。
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「この神社はいまは大阪の海岸に鎮座する海神の住吉神社の神々をまつるとなっているが、じつは上古、上古ですよ、天孫ニギハヤヒ命がこの地に降臨され、そののち大和に入られた。その子孫を中心として交野物部の強大な部族を形成したが、その後物部氏の衰退と、岩船という船のイメージから住吉の神々への信仰となった。」なんて書いてある。神社のいま祭られる神々を説明するのに実はちがってまして、ってことになる。
神社はちいさなグランドのような広場に大きな楠木の影がひろがっている。あかるい。
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司馬遼太郎がこんな文章を残している。「河内者が物部のつわものの子孫だとすると、私はとんでもない役回りになるな、といまさらながら恐れおののいたのである。」という。司馬さんが幼いころすごした大和国北葛城郡葛城村竹之内には、このニギハヤヒに妹を嫁がせたナガスネヒコがいて、河内湖を押して上陸したジンムテンオウと戦って勝利した。しかし神武天皇が熊野を経由してヤマトにはいると敗北してしまう。その敗北のひとつの原因が物部のニギハヤヒの離反にある。そのナガスネヒコの塚が竹之内にあって、「子孫が”そや”といってるのに、これほどたしかなことがあるかいな」と千数百年来相伝え相語り続けた、だれがなんといおうと、そう信じてるナガスネヒコの古墳がある。が、そのニギハヤヒはナガスネヒコの妹をもらいながら、神武天皇はヤマトへはいったとこ、うらぎって義兄をうってしまう。「われわれ温順高雅をほこるナガスネヒコの末流・・」と司馬さんはいっているのだ。司馬遼太郎はナガスネヒコの子孫一派となる。

岡山県津山の中山神社の創建に、こんな話がある。美作国津山にいた物部肩野乙磨があるとき道端の老人とふとしたことからサイコロをする。勝負の賭け事に乙磨がもつ土地を賭けた。勝負はすべて負けで乙磨はその場所をあけわたし、勝った老人は中山の神と出現しそこに鎮座した。8世紀初頭の神話だ。
島根半島の北のい海岸線の小さな集落に物部を守護する石上神社にであった。この私市から生駒山系にのぼると傍示の集落がある。丁度大阪と奈良の国境。先日下った峠だけど、パスハンティングは峠の往復と、昔からなぜか?決めていて、先日の返しに昇った。
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古い峠らしい雰囲気で、地図にある集落の神社が石上神社であったら、なんとなく心が落ち着く、なんておもって登ってみた。
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神社は天神さんで思いはとげられなかったが、物部氏といわれる一団の渡来が3、4世紀なんだろうなんて、いわれると、いやまだ子孫たちはナガスネヒコをふくめて、健在ってことなんだろう。それにしても、すごい国だね、この国は。そうでしょう、司馬さん。
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by forumhiroshima | 2011-01-21 21:51

夕陽の丘

夕陽の丘って名が大阪の四天王寺周辺の名称だという。その名の学校もある。それは四天王寺の西の門からみる方向が浄土だという。寺は上町台地にあって、この門から西へ下り坂になって、古代にはそこまで海がきていたという。その海へ落ちる夕日が、ここに夕陽の丘と呼ばせたようだ。この門が極楽浄土の東門となる。
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11世紀に四天王寺の東門のもっと東も極楽浄土の東門になると、思った人がいたようだ。その人が生駒山の西斜面に四天王寺の真東の場所に庵をつくり、四天王寺の五重塔に彼岸におちる夕陽を拝んでいた。修行に夕陽を直視して浄土ての往生を願うことがあったようで、その修行の場が往生院としていまもある。
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四天王寺の西の坂をくだって、古代の波打ち際になる場所、四天王寺の真西に今宮戎神社がある。となると、この往生院と四天王寺と今宮戎神社は東西線上にきっちりならんでいる。往生院の急坂から四天王寺方面をながめると、高層ビルが二つ、難波の場所のランドマーク。五重塔はわからない。
四天王寺から彼岸の朝の日の出をみて、この場所をきめれるのだろうか?と思い出した。今宮戎神社は四天王寺の塔を基準にそのむこう正面に彼岸にのろる太陽から決められる。四天王寺は丘の上にあることも好都合。でも四天王寺と今宮戎神社はどちらがさきにこの大阪に鎮座したのだろうか?

大阪にはこの東西線の東に生駒山が南北にのびていて、これに平行して上町台地がやはり南北にのびている。その台地の西側が海でそこに難波御津、住吉津があったという。その港は中国や朝鮮半島との交易の港だったという。
では上町台地の西側の渚のある場所を港ときめて、そこに海外からの舟が入ってくるってことだから、ではその海図がいるのじゃないだろうか?なんて考える。

海外からの交易はここ大阪ばかりでなく生駒山を越えた奈良の都とのことだろう。では、どうして古代に生駒山を越えてこの国の朝廷ができたのだろうか?大阪がおきに召さない、ってことだけでもないだろうな。

古代「東に、よき地(クニ)あり。青山四周(アオヤマヨモニメグレリ)」と九州から進んできた人々が、この国の最初の支配者らしい。では、どうして青山四周の場所へたどり着いたのだろうか?
彼等が移動した生駒の峠を走ってみるしかない!と、考えてしまって、シマッタ!
がその前に海から上陸し無くちゃいけない。その上陸地点、難波御津と住吉津を地図に記載して真東の生駒の山中まで直線を引く。古代に西方浄土もないだろうが。
ところがびっくり!瀬戸内海を東へすすみ淡路島と本土との海峡、明石海峡をぬけて、真東の生駒山山中のピークの高安山をめざせば、住吉の津へ着いちゃうのだ。そのラインは大和・飛鳥の法隆寺をチェックする。
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難波御津は真東に生駒山主峰南の最初のピークになる。御津の場所は特定されてないようだ。が、一番有力だといわれる場所を地図に置いてみた。
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往生院-四天王寺-今宮戎神社のラインは、大阪湾の暗礁だったという天保山を経由して神戸の大輪田で、上陸してしまう。西方浄土も形無し、もっとロナンチックな壮大なラインを期待していた。
大輪田は古代の僧の行基の五泊という瀬戸内海の主要な港のひとつ。ここから生駒山をめざして出航すれば難波につける。波の下の暗礁の場所もわかる。救済事業をおこなった四天王寺や行基の福祉ラインともいえる、西方浄土って、そういうこと、なんだろう。
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by forumhiroshima | 2011-01-19 12:59

シャトー

河内が湖から中州の拡大により自然の埋め立てがすすんで、その残された湖が江戸時代に人力の埋め立てが始まった。その中核が鴻池新田開発だという。鴻池家は大阪の船場の大金融商で、農地開発の現地事務所が現在保存されて新田会所として公開されている。
先日訪れた際にはお休みで、再度訊ねてみた。

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1850年ころの建物だという。維持作業をされている人二人、そのほか子供づれの家族。しんとしている。ふと、もちろんいったこともないのだが、フランスのワインのシャトーって言葉がうかんできた。日本のお城って印象。田畑がパンフレットに200haとある。どれほどものか、と手持ちの地図にあたりをつけて走ってみた。
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新田の北側が古堤街道といわれる大阪城の京橋から生駒を越える峠「中垣内越え」にむけて直進している道。
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西端は徳庵橋の道路が7つ水路が4つあつまって、混乱する場所。南は西堤。古堤街道は諸堤、横堤を通っている。
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新田として開発された場所はビッシリと住宅と工場。

新田の南に川俣という地名と路地のあるふるい集落に神社があった。そこに江戸時代のこのあたりの地図が掲示されている。
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パンフレットにこの新田の作物は綿花だっとある。この湿地帯での米作は出来ても品質が劣っていたといわれ、菜の花を作物としている畑もおおかったという。古堤街道をとおり、また寝屋川を舟でのぼる野崎観音まいりは5月の菜の花の中だという。川俣の掲示板には桃畑が記載してある。新田会所はすべて舟の輸送だったようで、この会所保存に道路の新設が必要だったという。会所は川と田んぼのなかにあったのだろう。
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どんな景色が広がっていたのだろうか。

いまその場所に工場がならんで、人工衛星もつくった東大阪の中小企業がある。どうも、あたらしい景色がここに立ち上がらなければいけない時代の予感があるような。
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by forumhiroshima | 2011-01-16 14:51

国境

大阪城のある上町台地とその東の生駒山との間は古代湖であったという。川が運ぶ土砂によって陸地に生駒山すそからの土地が河内国となり、上町台地周辺は東成、西成とよばれるあたらしい土地がなったということらしいです。

河内国と最初は呼ばれたものが、西を流れる淀川を中心とした摂津国とに分割され、後南側の堺を中心とした和泉国とにも分割。その分割がいまでは、連なる街となって区分を実感することはできません。道路地図には行政区分すら記入されてないことが多いようです。
淀川の右岸が攝津の国とはわかりやすいのですが、上町台地と生駒山のあいだの大阪平野ではこの国境は判別不能です。花博のあった鶴見緑地は大半が守口市なんだそうですが、その上に立つ施設は大阪市のもので、その住所は大阪市になってるのだそうです。飛び地ならぬ飛び施設ってことでしょうか。
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大阪市は摂津の国で守口、寝屋川、東大阪、大東などが河内の国だそうで、古代から川によって出現した砂州や扇状地など、広がる大地によって河内の国は拡大してきたのでしょうが、その場合攝津の国の立場がナイなーなんて考えていました。

するとこんな資料を見つけました。
「川岸には芦が生えます。芦は中等潮位付近から満潮線のやや上まで生育します。芦の生える地帯より上位には、砂浜の地帯があって、芝やチガヤなどが分布します。この地帯が開墾されて農業が営まれる場所となります。いわゆる河内国です。ここには河内の守が国を治めます。」摂津という名は港すなわち津を治める(摂政)ということだそうです。「難波は朝廷の海に面した玄関口であり、また水軍(軍隊)の根拠地でもありました。その地をつかさどる者は河内、大和をつかさどる者より、上級のもので、国守以外に、大きい港の行政官もかねていました。」「満潮線までの水のあるところは、港の司政官である摂津職の治めるところになります。だから古い時代の国境は、だいたい満潮線付近にあったと考えてよいと思います。(大阪平野のおいたち)」
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この資料のなかに明治時代の地図におとしこんだ国境の線を見つけました。
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古代の想定図に落とすと、こんな感じでしょうか。
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この海岸線だった国境がいまも道路としてのこっています。きっと堤防などが設置されてその上にできた道でしょうか。剣街道と江戸時代にはよばれていたようです。剣は鶴見として土地の名としてのこっているという説もあるようです。えらいお坊さんが、なにかしでかして剣をもった人々に追われて逃げた道なんて説もみつけました。
走ってみると、そう思ってるからかもしれませんが、渚みたいで、いい感じ。
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摂津の長官に、道鏡事件で有名な和気清麻呂がいます。大変優秀な人のようで、道鏡事件以後九州へ流され、呼びもどされて大宰府の長官もやってます。そのとき、足をヘビにかまれて立てなくなったことがあったそうで、それが治癒して足立と名乗ったのだそうで、その子孫が河内、善根寺町にいたそうです。
豊臣と徳川の大阪城の普請に生駒山中から建設資材の石などを供給する石奉行だったそうで、その足立家屋敷跡ものこっていて、そばに城の送られず残った石もあります。
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その足立家のあった善根寺の集落にある、元善根寺はふるびて、崩れかけた土塀がいい感じの寺です。
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山門にはこんなハリガミ。いいでしょ!ふるーいしわくちゃな時間が冷凍されてますよね。
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by forumhiroshima | 2011-01-11 10:24

昭和10年のヒット歌謡曲

野崎参りは 屋形船でまいろ
どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んで見ようか 土手の人

東海林 太郎/ショウジ タロウのヒット曲だとNHKの番組で昭和40年代まではなつかしの曲扱いだった。TVでも放映されていたのを覚えている。大阪を走り始めて、この野崎参りがこの町の行事だったことを知った。いまの寝屋川を屋形船で観音まいりする。歩いて参るひととが、おたがいにひやかしの掛け合いをやったということから、呼んでみようか、となったのだそうだ。知らないどうしの交流ってところか?

大阪は南、北との繁華街が強烈な印象でその東の河内は、音頭ぐらいの知識だった。大阪城のある上町台地と東の屏風のようにひろがる生駒山地との間はそのむかし海だったという。梅田は「ウメタ」ってことの地名だというが、マジ?。花博があった鶴見緑地は地下鉄工事ででた土砂を湿地帯だった鶴見の埋め立てにつかったあとの公園だという。この地帯でおこなわれる工事現場にでむいて、その地層の中にのこる貝などをしらべつくして、古代大阪を復元したひとがいる。郵便局の局長さんと大学の地理の先生。
その地図に野崎参りを落とし込んでみた。
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いまはすっかり大地となり、川はたかいコンクリートの壁にかこまれて「この川に落ちると、岸がたかくてあがってこれない」といわれる。が高層ビルの大阪のコンクリートの川も半端じゃない。
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野崎参りの目的地は慈眼寺・ジュゲンジという禅寺。ここの開闢は8世紀東大寺の大仏建立の立役者で堺の出身、朝鮮半島からの渡来の家の出だという行基。この行基に大仏開眼の導師として中国からやってきたインド人のバラモン・ホジセンナが「野崎は釈迦がはじめて仏法を説いたサルナート・鹿野苑に似てる」と語ったので、ここに行基が十一面観音を刻み安置した、という伝説。「バラモン・ホジセンナが来日して難波に到着したとき、聖武天皇の命により、行基が迎えにいった。行基さんは言葉が通じなかったはず。日本の渡来文化」

ネットでサルナートをさがすと、さすがネット、写真をヒット。
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この塔は行基が堺につくった土塔ににている。この土塔って、なぜこの形か、よくわかっていない。行基さんがバラモン、ホジセナに教えてもらったと、空想してしまった。
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刑務所の壁のような川面がみえない川筋を走っていると、距離感も失って、そこで地図みたって、目印もない。
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これって、「どこをむいても、壁ばかり」なんてうなってしまう。が東の生駒山方面にはしってるのにいっこうに登りがこない。いやこれ下ってるよ。だってペダルまわしてない。
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戦後の成長期に大阪は地下水をすいあげて、そのために地盤がおおきく沈下。そのもっとも大きく沈下したのが、野崎観音さんの水路。場所によるが10mも沈んだ。がいまは地下水の使用が規制されて、沈下しなくなったが、地盤がすっかりゆるんでしまって、危険だという。むかし湖だった、ってことからなんだろうか。

観音さまは生駒の山すそのすこし小高い。ここからの景色がインドを思い出させたのかも?なんて。
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バラモン、ホジセナは瀬戸内海を東進し、生駒山の麓に到着。そこで待つこの国の僧侶にいちばんさきに伝えたかったことは、この国が母国とにてる、ってことだったようだとおもう。すごい安心を行基は伝えたのだろう。彼はだれにも慕われたといわれる。そして、そのバラモンの道筋をなぞって、野崎参りがあったのでは?
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いま菜の花の中を舟でゆらりと観音様へ会いに、なんてことできたら、どうなんだろうか。
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by forumhiroshima | 2011-01-07 18:40

川施餓鬼

川施餓鬼は「川辺や船を用いて行われ、施餓鬼法要の後に、水死者の法名を記した経木(きょうぎ)や供物(くもつ)などを川に流す」行事らしい。航海中の死去の葬儀は水葬だという。その写真を見つけた。1990年発行「おおさか、街、人」西浦宏己。
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その写真の今の船溜の景色
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ほとんどレジャーボート。祭りの写真に「毎年船の調達がたいへんでねェ。」祭り役員談とある。

いまも行なわれていて、伝法の川施餓鬼といい、此花区の正蓮寺の祭り、過去天神祭をしのいだ規模という。
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いま正蓮寺川(伝法川)は埋め立てられた。
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大正時代の地図
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ここに右大阪、左尼崎の道しるべがある。
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大正時代の地図には作られた淀川に渡し場が記載されていて、いま予想もつかない街道があったとわかる。この渡しに乗ってみたい!。

江戸時代、大阪最強の豪商「鴻池」の本店の建物があった。船場の本店は豪勢なつくりだったというが、いまはない。なのにここに本店がある。廻船業でもあったというから、廻船部門の本店かな。
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正蓮寺にはその鴻池家の墓がそびえている。
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鴻池は伊丹市にあった鴻池のそばが発祥だというが、祖先は広瀬の尼子の家臣、山中鹿之助だという。鹿之助の首は鞆の浦の首塚にある。が備後・東城の寺にひそかに運び込まれた伝承もある。「われに難関八苦あたえよ!」と神に祈ったひとだけに、死しても走っている。
ならオレも、大阪・鶴見緑地そばの鴻池本町にある鴻池家へ。
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休館日だったがグルーまわってもすごい豪邸。開発された田んぼは200ヘクタールにおよんだとも。
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企業家の農業経営って、いまごろいわれるけど、むかしからそうだったのだよな。戦後の開放があって、また昔へもどる、ってことなんだろうか。世界市場と戦うために!だって、なんだって。国産の自転車ってほとんどなくなったよな。残念。すっごくわかりやすかったのだけど。
施餓鬼、です。
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by forumhiroshima | 2011-01-05 22:07


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