こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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隋、煬帝からの使者

難波宮の宮殿の完成は652年。その45年前に中国から使者が難波に上陸している。607年のこと、聖徳太子もこの使者に合っているだろう。その使者を迎えた迎賓館が大阪城の近くにあったという。船30艘で出向かえ、大和、飛鳥から騎馬200騎で警護したと中国の隋書にあるという。その騎馬たちは迎賓館をでて、大和、飛鳥へ向かった。そのルートはまず上町台地を南下し住吉神社から東へ向かう道をとっただろう。

その道は難波宮が建設されるとき、南北に直線にひかれた朱雀大道になる。これを難波大道と呼ぶ。そのルートは今残されてはいないが、その痕跡を拾うことが出来る。
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朝の大阪城は、きゅうに暖かくなったからか、湿った空気とあかるい朝日のなかにあって、やっときた春の朝だった。
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お城の西に大阪歴史博物館がある。手元には難波宮の中心から南北にひいた線を書き込んだ地図だけ。博物館にはきっと資料があるだろう、と9:30の開館をまっていた。そとには5世紀にここにあったという大きな倉庫が復元されている。これが十数軒も並んでいたという。なにが中に入っていたんだろうか。

博物館の展示は古代が10Fでそれから9F、8Fと下ると時代が各階ごとにかわるように展示してある。こちらは見たいのは10Fの古代だけ。難波宮の内部が再現という展示に入った。
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この時代より前にすでに法隆寺はできていた。四天王寺もできていた。なんて、・・・想像できない。10Fの東の窓から大阪城と難波宮跡が見わたせる。この二つの真ん中を通る阪神高速道はここで高架から地平へ下って、また高架になる。難波宮から大阪城が自動車道の高架に遮られず見える。特別な配慮になっている。
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が、しかし難波宮跡はひろい草原で、その南へ伸びていただろう朱雀大道もすぐある学校にさえぎられていた。高速道路はこの勾配のため渋滞するという。なかなか、うまくいかないね。
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その景色の向こう、生駒山系や二上山がくっきりと浮かび上がってるその中間の谷間に雲がグングンと広がって、地平へ流れ込んでいる。
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雲の流れがすごく神秘的で、その流れ出る場所が奈良盆地から大和川が大阪、河内へ入るところで、そこに風の神、竜田大社がある。そのすぐ東に法隆寺。この景色をきっと聖徳太子は見ていたにちがいない、と感動してしまった。奈良が神聖なところにみえた。この雲の滝は出雲でも、四国肱川でも。あの山の向こうに神が居られる、ってだれでも感じるだろうな。

推測の難波大道は途切れたり、曲がったりしていて、それに上町台地の道は幾分東へ振って南北に流れて、いったりきたり。
でもその痕跡が「大道」という地名にのこっている。そのそばに国分寺の跡のある国分の地名も。
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ここを隋からの使者と200騎もの警護が、607年に通過したのかとおもえなくもないような。そう思いたいだけのような。使者はこの国は本国、隋とかわらない、と皇帝に報告している。
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by forumhiroshima | 2011-02-25 16:12

道引

京都、平安京の羅生門から直線に南下する道を鳥羽作り道。この道は平城京の南北線をきめる起点になった船岡山から、生駒山系の石清水八幡宮の鎮座する男山の東、尾根にかこまれてある独立した嶺の甘南備山とを結んだ線を忠実にそってつくられている。今は宇治川との交叉の部分でゆがんでいるが、この道が徒然草にあることから平安京のつくられた794年にとおくない時期にはあったのだろうと推定されている。平城京の南の基本線が、国道R1がこのラインにほとんどそって走っているから、鳥羽から八幡へのストレートで走ると、たしかに確かめられる。
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「野のなかにある清水は、今の人の考えではほとんど発見する方法はないようであるが、この点にかけては未開の人民のほうが、はるかにすぐれた能力をもっていた。山中でも「ウジ」と称して、猪鹿の開いた通路は必ず清水から清水につながっている。たとえば日の反射、風の速度もしくは最もひそかなるせせらぎの音のごとき、野獣の感覚を刺激するに足るべきものは、古代人もこれを知っていたのであろう。柳田國男」
古道を走るとゆるやかにうねって進むのだが、古代に官道を引くとき、直線にひかれるのだという。もちろん平地であってのことだろうが。つまりけもの道を広げて、往還路としたのではなく、道引きされたものだという。

京都から南下し鳥羽作り道から淀川の湊の山崎へ、また直線の道があったという。久我畷道。ナワテは縄手とも書かれるように、紐を等間隔にむすんでつくったメジャーのことだそうで、地名にも残っている。この地名は設計された道があるってことになる。
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大正14年の地図では道は細い線になっている。つくられた当初、宇治作り道では幅27mほどの水路を平行してもつ20m以上の幅であったと推定されている。上田正昭・古代の道。久我畷もその半分の幅を予想されている。
この道の基準を鳥羽にあった鳥羽離宮の庭であった「秋のやま」とし、古代山崎駅、いまは離宮八幡宮のある天王山が淀川にながれこむその先、だから山崎の地名なのだけど、そことを結んだ直線を久我畷とした。金田章裕・大地へのまざなし。
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そして離宮八幡宮
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確かに家がなかたっら、見通せただろう。しかしいまの「秋の山」は低い。どうなんだろうか?
今も久我畷はけっこう残っている。が高速道路や上水道施設、下水処理場と分断されて、道全体を通して直線を感じるって、わけにはいかなかった。
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地図にこのあたりですぐに判別できる山のピーク、稲荷神社に山と石清水八幡の男山をむすぶ線と久我畷がパラレルであることに気付いた。このラインがしっかり判別できるけど、それと平行に道を引くってことになると、想像がつかない。「野獣の感覚を刺激するにたるもの」でももってこなきゃ!
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by forumhiroshima | 2011-02-22 11:37

薩摩隼人

大阪の東の生駒山山系の東の端が淀川になだれ込むところに男山があり、そこに石清水八幡宮が鎮座している。生駒を越えて下ったところに木津川が流れていて、八幡宮の南に大住という集落がある。そこは鹿児島の大隅半島にいた薩摩隼人が7世紀にここに移住さられたという。そのことが大住と地名に残っている。
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生駒の大阪側、西斜面にはこの国の統一権力、大和朝廷が生駒を越えて奈良の盆地へ向かう神話が残されている。
この神話の主人公神武天皇・ワケミケヌノミコトのお父さんは天津彦彦ナギサタケウカガヤフキアエズノミコト。長い名前ですね。そのお父さん、神武天皇のおじいさんが、山幸彦だ。兄貴の海幸彦の釣道具をかりて、海に遊んで、その際かりた道具、釣針をなくしてしまった。それを兄から責められた。海岸でおじいさんにであって相談。するとおじいさんが竹製の潜水艦をつくってくれて、それに野って海の神様に相談に。なくした釣針と、恋人トヨタマヒメをゲット!お土産に海の干満を自由にできる玉をもらって帰還。兄の海幸彦をこの玉の威力で粉砕して「これからはあなたの守護人になります。倭が子孫もすごい威力のあるおまじないの犬がほえる真似をして、あなたを護ります。」と約束する。海幸彦の子孫が隼人になる。隼人と神武天皇は親類ってことだ。

8世紀初頭に鹿児島、大隅半島の隼人たちは、神話のようには行動しなかった。反乱した。その反乱を押し込んだ神様が宇佐八幡の神様だ。いまも鹿児島に分霊が鎮座している。正八幡神社がそれだ。
石清水八幡の神は宇佐八幡から勧請された神で、そうなると木津川河畔の大住の隼人はえらいけったな場所に移住してきたことだ。

木津川の堤防は自転車乗りでいっぱい。そんな景色がひろがる大住に大きな古墳がある。
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大住車塚古墳。車輪がつてる訳ではないが、古墳に車ってつくことはけっこう多い。ただクラと読むことが多いから、車輪だのチャリだのは関係ない。その古墳から緩やかな斜面をあがると、広々とした田園の風景がひろがって、あぜ道もゆるやかに曲がって、延びている。
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道のさきに森があって鳥居がみえる。どんな神社がまっているのか?まさか八幡さまじゃないよね。仇のような神様だもんね。と走って見た。「月読神社」とある。初めての名だ!
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境内の入口に、ドカンと石碑が立っている。
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この隼人舞は神話にある犬の鳴き声をすることから始まったという。現在も舞われているのだそうだ。
なんだか7世紀を堪能した気分になった。隼人は舞だけでなく竹細工をした人々という。竹は人が移植してひろがったという。それは堤防に植えて土塁を根っこがつよくて強化できるからだそうだ。木津川や宇治川、桂川と合流するこの場所に竹が植えられたのか、景色は竹林を背景としている。
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竹林はいまお産の準備の真っ只中。そろそろたけのこの季節。このころの竹林のみどりはあざやかだ。春に他の木々が新緑になるころ、黄色くなって落葉を始める。いまが見ごろだとおもっている。
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by forumhiroshima | 2011-02-21 19:57

洞ヶ峠

生駒山系の北の端は石清水八幡宮の鎮座する男山のなって、その先は淀川へ下りこむ。その手前に洞ヶ峠がある。
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1582年、時は今、雨が下知る五月かな、と明智光秀は歌ってすぐ本能寺へ攻め込んだ。敵は本能寺にあり。この事態に中国・岡山にいた秀吉はのちに中国返しといわれる退却をし、京都手前の大山崎で明智との決戦をする。ここの天王山が戦いの場となる。

男山の南に洞ヶ峠がある。天王山の決戦に大和の領主、筒井順慶はこの峠に秀吉側の軍として出陣しながら、動かなかったといわれ、日和見の代名詞がこの峠の名となった、といわれる。
今は
国道1号線で、ひろい車道が突き抜けている峠が、「日本百名峠」だときいた。選者は井出孫六。

この峠は坂ほどの勾配に国道1号とあって、車がビュンビュン峠。歴史には名を刻んだとしても、名峠ってことは・・。それはこの峠のトップがどうしても自分にはわからなかった。
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石清水八幡神社の参道から古道が南へ入っていて、その路の分岐に洞ヶ峠と刻んである。その路は国道とはちがったピークへでる。
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国道のピークより南に峠町とよばれる集落をぬける古道がやはりピークをもっていて西に路は下っている。
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[百名峠」には、モータリゼーションとアニバゼーションの波に呑まれて姿を消しているのだ。県境のあたりに峠という一軒のドライブインがあるのが、せめてものお慰み・・・
諦めきれぬ私はそこに車止めたままあたりを散策した。・・竹林をぬけて工事中のわきによじのぼってみると、眼下に広大なパノラマが・・。南軍と北軍の陣地が手に取るようにみえる。風にはためく数百の幡差しもの、天地をどよもす両軍の声・・・。

この戦いは大山崎から京都方面へ北上したすぐの小泉川に両軍相対したという。この場所はこの峠からは見ることはできない。日和見をきめこんだ筒井の軍は大和と地をはなれていなく、この峠に到着していないし、戦いの様子もここからでは見られない。

洞ヶ峠戦記がホラであるように「百名峠」も・・・?この名峠のラインアップに広島では可部の上根峠がはいっている。ウーン、百ねー?ウーン。認められんぞ!!
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by forumhiroshima | 2011-02-16 18:52

巨木

「楠、井の上に生ひたりき。朝日には淡路島をかくし、夕日には大倭嶋根を陰しき」と播磨国風土記にある楠木は大阪、河内にあった。

大阪、河内は楠の巨木がおおい所だ。河内の北部寝屋川に大阪一の楠の巨木がある。東大寺の大仏殿の昭和の修理のとき、大仏様の頭の上の天井をささえる横の張木は鹿児島、霧島の山中の神社の神木2本。やく60mが約4ヶ月かけて運ばれた。これは赤松だという。いま日本では見つからないのだそうだ。古代河内に朝日があたるとその影が淡路島まで延びる巨木があったことが、真実に思える。この国に木々がどこも神様だ。

大阪・河内にこだわって、なぜかこだわって!地図にある古道を走っている。意味ないとおもっていても、意味をつけたい。すると走りたくなる。

物部氏は古代の弥生という時代を生き延び、大和朝廷時代にも武力の氏として歴史に記憶されている。その一族の中核の、朝廷での有力者であった物部守屋が蘇我氏と聖徳太子という古代のビッグネームに討伐という事件が今に語られる?いや、痕跡を残し、聖徳太子という人物の記憶にからむ物語をもっていることが不思議でその痕跡といわれる場所へ走った。

聖徳太子の戦勝祈願の寺には、戦時太子が逃げ込んだ木のむくろが再現されて、敵の大将、守屋の首を洗った池という場所がある。そのそばに守屋の墓もある。6世紀の古墳時代のすぐあとの墓が今の墓石の形というのもおかしいが、その墓を建立したのが全国の名だたる神社とその全国組織で戦後の設置というのも、いかがか??
その墓の南に守屋がうたれた弓と矢をうめたという場所、そしてまた首をあらったという池。守屋の基地であった稲城の場所という寺や神社。それがさび付いて町の片隅に残されている。
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遺跡は過去を失って、今の有り様にも無力だった。道路工事でのなにかの間違いで、消えてしまいそうだ。守屋は仏教の伝来を阻止しようとした仏敵だとしても、ここまで敵を意識させての仏教の教えってどうなん?
といっても、自転車でどこいこうかな、・という毎日サンデーライダーの動機付けにはしっかりなってる。感謝しかない。

物部氏の居住区だったといわれる(なぜ、わかるか?は知らない)八尾市木の本町には物部氏の信仰したフツヌシという出雲では国譲りをせまった神様の神社が三つ集まっている。そこはどれも樟本神社で、淡路島まで影をのばしたという巨木の記憶をもっている。

フツヌシの神様はタケイカズチの神と、あの平安時代の主人公、藤原氏の神様で、出雲ファンには感じ悪い神様。しかし、この神々は物部氏から藤原氏へ移行というか、のっとられたというか。
樟本神社は南北にならんで守屋の墓の場所もその延長線上にある。
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木々は巨木ではないが、元気に繁茂している。
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三つの樟本神社のうち、真ん中の神社に遥拝所がある。
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この丸い穴から東を見ると、そこは恩智神社になる。神社の上の生駒の稜線に先日やっと登ってみつけた仏舎利塔がある。それで恩智神社を思い出した。
恩智神社は物部氏の神様という先生たちはたくさんおられるが、神社は藤原氏の神、春日神社だといっている。恩智神社のお祭りに神が神輿にもって、二日の日程で真西の住吉神社の濱までゆかれる。その留守に河内の枚岡神社、奈良の春日神社の元宮の神主たちが恩智神社へきて留守番をするという。
島根の太田市にある物部神社も神輿が西の日本海の鳥居という集落まででかける。そこの集落の人々は神社の鳥居をいまも管理しているという。恩智神社と物部神社ここら、にてないかな。

この物部氏の神・フツヌシを祭る巨木の記憶のある樟木神社は恩智神社の住吉の濱からの標識で、恩智神社の神は守屋のあと、敵の蘇我も滅亡し、その後の藤原氏にのっとられたってことになりそうだ。守屋が戦いのとき作った基地を稲城というのだそうだが、その跡におおきな寺院があった。勝ったのは藤原氏か、仏教なのか。
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by forumhiroshima | 2011-02-14 19:17

逢坂

17世紀1689年に貝原益軒という先生で旅行家が生駒山から大阪へくだった紀行があった。先日河内の私市から磐船神社へあがって、そこから国道163のとおる清滝街道で河内へくだるという、峠越えとはいえないほどのサイクリングをしたコースがこの江戸時代の先生の紀行と同じだった。
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「磐船より入りて、おくの谷中七八町東に行けば、谷の内が広がっていた。そこ里を田原という。その中を天の川がながれる。川の東を東田原といい、大和国なり。川の西を西田原といい、河内国なり。一谷のなかに両国わかれて、川を境とし名を同じくする。」
ここに奈良県の道路標識があった。とても印象的だった。
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[これより大和へゆかずして、西田原より西の山を越えて、飯盛山の下に出。これを大阪越という。山道十八町行て、清滝峠の茶屋一宇あり。ここ大阪越の嶺なり。この嶺高からざる故に、路険しからず。」
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この大阪越と先生が書いた峠を越すと、道端の巨岩にはさまれた石仏があった。
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国道はトンネルになっていて、旧道は広いが車はこない。自転車乗りが上がってくる。この坂、チョット楽すぎないかい!なんていえる資格ない。低いのに展望がいい。ここチョットいいかもね。
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下ってそのまま古道をたどって、できるだけ真直ぐにすすむと守口駅につく。守口街道。
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ここから淀川をこえる高瀬橋が古代にあったという。8世紀初頭の行基の仕事だという。峠すぐ下に新しい国道1号になるのか防音壁のある高架の道が作られている。この路のしたそばに自転車・歩行専用道がつけられている。河内の湖だったという湿地帯を貫通する道はけっこうなのぼりくだりの高低差があるのだ。けっこうなストレス用意されてる。逢坂がやさしく思える。
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by forumhiroshima | 2011-02-12 11:36

峠の表、裏?

大阪と奈良を分ける生駒山の峠道で、この国の生い立ちの最重要な神話がある。

九州から広島にも立ち寄った神武天皇一行がそのころ湖だった河内へ船をよせた。その場所は草香江だという。ここに上陸して奈良へと進行し始めた。この生駒を越さなければならない。その峠を「孔舎衛坂・クサカサカ」といった。この峠がどこか?

江戸時代の大学者、本居宣長は「暗峠」をクラサカと呼んでクサカにあてている。生駒の山麓に日下とかいてクサカと読む場所があって、ここからだという意見もある。神武天皇一行はここで敗北して撤退することになるが、その敗北の原因を自分たちは日の御子であるのに、ここでは日に向かってのぼったからだ、といった。そうして紀伊半島を回るこのになるのだが、この逸話から日下がその場所だともいう。
所詮神話よ!と投げ出せばそれだけの話で、チャンチャンだが、そんな神話の場所を自転車で登ってるなんて思うと、マジ元気になったりして。峠のトップはがらりと雰囲気がかわる。いままでとちがった風がくる。視界が両側の高さの違いを見出すと、そこの暮らし、高ければ景色いいけど寒かろう、などと想像する。その高さを自分が自転車と作ってきたとおもうだけで楽しいのだが、その峠の歴史などが刻まれているとなると、その過ぎ去った時間までも想像できる。こころ膨らんでくる。

大阪と奈良とを結ぶ峠の国道に阪奈道路がある。大阪側が登りと下りがまったく別のルート。
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その自動車道の騒音がきこえるそばに春日神社が鎮座している。ちいさいけど古社。そこにここが孔舎衛坂とある石柱を見つけた。
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阪奈道路のそばに旧道が登っていて、広いけどアスファルトの荒れた国道を行かなくても上がってゆける。途中の龍間の集落で国道を信号で横切ると、その古道がもっと古びて、高速で飛んでゆく車どもの風を忘れさせてくれる。自分の登りの速度で、第一、国道を車と併走するのは冷や汗だ。

いつもの往復は大阪側は古道だが、生駒市に入ると団地の道にかわり、それらしき古道は峠のトップには見出せなかった。展望はすごい。
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神武一行が日下だからと、コース変更だというが、ここは明るい日差しの中の道だ。大阪からの登り口に道標があった。
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このルートはどうも生駒山頂の東の山腹の宝山寺への参道のようだ。メインルートに昇格したのは阪奈道路という国道の開設かららしい。でもここが古堤街道(中垣内越え)という掲示もあった。
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峠に裏と表があるといったのは、民俗学者の柳田國男だ。峠道ができるのは、人は峠を歩くとき不安だからだという。「行く人に追いつき、来る人に山中の峠道では出会おうとする。それゆえ踏み跡をたどる。それのみならず、この山を越えようとする気持ちは、山中での日暮れなど避けたくて、最短に山尾根が低くなっている谷をたどる。下りは沢筋の危険になる滝やガレも避けたいし、麓に目印を見つけて、それを頼りに下る、その便利さをえらぶ。」
登りは水音のある道で頂上付近から急に険しくなり、下りは水音から離れる道で麓が険しくなる。それゆえ、登り側が表になる。

いつも峠ではどちらが表かなんて考える。が、車道はどちらも車が通れる勾配と広さが用意されて、この裏表の判別の楽しみはなくなる。古道では馬の通れる道は勾配が7寸、荷車が3寸とあったようだ。どれだけの長さにたいしての7寸かどうか、わからないのだけど、いまの自動車道路は7%が基本だという。この孔舎衛坂の裏表は、どうだったのだろうか?大正14年の地図がこれだ。
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いまの地図がこれだ。
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by forumhiroshima | 2011-02-11 13:37

春日の神

奈良の春日山と難波宮跡は北緯34.40.50あたりにあって東西のラインにならぶ。この二つを結ぶ古道が生駒山をこえて暗越奈良街道とよばれ、難波から生駒へはほぼ一直線で暗峠へ登ってゆく。
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この直線の道が平城京三条通へ入ることから三条通ともいう。こんな標識も設置されていた。
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暗峠・クラガリトウゲというネーミングは、とても印象的で、それに山道の国道ってこともあるのか沢山の人が登っている。駐車場もない場所に峠の茶屋がある。とても珍しい。
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この道は当然奈良の平城京がつくられて、それまで奈良盆地の南にあった飛鳥宮や藤原京への難波からの道がその役割を代わって担ったということになろうか。
春日山に春日大社がつくられたのは、平城京となってのことで、春日にまつられる神々はそれまでこの暗峠の生駒の西の麓にある枚岡神社に祭られていたのが遷座されたという。枚岡神社の北にある善根寺の集落にある春日神社はこの遷座に関わった25人の人々が故あって帰郷したときに勧請した神社という。枚岡神社にはここが春日神社の元宮だと掲示してある。
その枚岡神社へ春日の神を遷座させた元の元が生駒山の南の高安山の麓の恩智神社だと、恩智神社に表示がある。はたして、春日のおお元は?。

昨年の秋に暗峠に徒歩でのぼって、まいった!けど、東の奈良側からは入ってない。それに自転車なしで峠やってはいけんじゃろう?と不思議な動機で十三峠をくだってから回った。
生駒山頂のテレビ塔を見ながら、けっこうありそうと登りはじめる。
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生駒山系は大阪側に活断層があって、西向きの斜面は急峻な登り勾配になっているから、暗峠へは徒歩になった。だから今度は自転車で。と思ってたがとんでもなかった。
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自転車担ぎはしなかったけど、押しの連続。登山者の集団の前はつらかった。生駒の尾根は有料自動車専用路で、この暗峠はその下のトンネルになる。これは興ざめだよ。
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大正の古地図と今もルートがまったく変わってないのだけど、ネーミングもすごい!のだけど、な。
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京都祇園のお茶屋さんに入るには紹介してもらって、そしてまた訊ねて、これを裏を返すってゆうらしい。そしてもう一度訊ねるとお「ナジミ」さんになって、やっとお客様ってことも昔はあったらしい。峠のパスハンも必ず往復ってルール自分はつくってるのだけど、この暗峠さんには、ナジミさんにはなれそうもない。
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by forumhiroshima | 2011-02-06 14:01

怪鳥

生駒山を越えて奈良盆地に入るいちばん楽な峠は磐船越。天の川を遡って、田原という平坦な場所にでると、南下する竜田川の側を下ると斑鳩の里。
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峠のトップに巨岩の下に川が入ってしまう場所に磐船神社がある。
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[旧事本紀」というふるい本があって、それにこの神社が現れる。
「ニギハヤヒの神が天磐船にのって、河内国の河上、イカルガ峰に降臨した。そして大ヤマトの国の鳥見の白庭山に移った。ニギハヤヒの神はこの鳥見にいた豪族ナガスネヒコの妹のミカシキヤ姫と結婚した。姫は妊娠したが、子が生まれる前に亡くなってしまった。」神も亡くなるのだ。
このニギハヤヒの神が、蘇我氏と聖徳太子によって滅亡させられる物部氏の祖先となる。

大阪の四天王寺はその物部氏との戦いに勝って、太子が建立した寺という。ここに怪奇な伝承がある。「四天王寺の堂塔は、合戦で敗死した物部守屋の怨魂が悪禽となって襲来し、そのために多大な損傷をうけるという被害に悩まされた。そこで太子が白い鷹になって、悪鳥を追い払うことになった。谷川健一/四天王寺の鷹」
四天王寺の太子殿の東に守屋の祠がある。ここへは塀があって入れないし、寺の建物の案内にも表示されてない。
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そしてこの祠を臨む金堂の東の軒先だけに止まり木がある。ここへ白い鷹がとまっており、祠を見張っているのだという。
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この話がすごく好きで、古代の人々の感情がもろに、今にあるようで、四天王寺にゆくと必ず写真にとってしまう。

物部氏の祖のニギハヤヒの墓所へ走って見た。磐船越は山麓の私市/サキイチからの上り。ここに若宮があって、この集落を気に入っている。物部氏は弥生時代の渡来した弥生人の一団で九州から瀬戸内海を東進してこの私市へ。ここに定着した物部氏一派を交野物部という。ってことなら、この私市はそんな昔からの集落ってことになる。古代の風の中、自転車をころがすってことなんだ。
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磐船神社からは奈良県生駒市。大阪のベットタウンで発展しているという。奈良県下三番目の人口。そのため密集した住宅地と古い集落とがすこしはなれて点在している。中国地方とその集落の景観はちがっていて、山沿いに長く点在する民家の中国山地と、神社とお寺を中核に集合してここではある。その集合の中に古道がとてもなつかしい景色を見せてくれる。

ニギハヤヒの神が移り住んだ白庭山という地名は開発された団地についている。鳥見も地名で残っている。そして鳥見小川/トミオガワがいまは冨雄川/トミオガワとアクサントがかわって残っている。このあたりでそれらしいものは、?

物部氏を追いかけれいる歴史家はたくさん居られる。なにせモノノフなんだから。
谷川健一氏は白鳥伝説のなかで、この白庭山を冨雄川上流の左岸にある長弓寺の真弓塚をこのニギハヤヒの塚としている。ニギハヤヒの塚に天羽羽弓と矢を埋めたという伝承があるという。
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長弓寺前に大きな鳥居があって、それに負けないように寺の表示の石柱が鎮座している。その奥に山門があって、長い参道の突き当たりにはなにもない。寺本殿はここで左へ直角にまがった丘の上にあった。国宝と建物だとある。
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境内をうろついてみたが、物部のモノもみつからない。寺の由来に「この地の豪族の真弓長弓/マユミタケユミと息子が天皇にしたがってこの地にあたわれる怪鳥を追っていた。鳥を弓で射ようと放した矢がはからずも長弓に当たってしまった。天皇はこれを悲しみここに寺をつくった」とある。この由来を谷川健一氏はいかがわしい付会の説とかるく一蹴して、「ミギハヤヒ自体が神話の人物であるからその墓をさだめるに無理がある。白鳥伝説」と。アレ・・・。

物部氏敗北後、物部本家の守屋一派は敗走し姿を替え名も変えたというが、本家以外では一部その後の歴史に名を残す人たちがいて、その人たちを内物部、消えた物部やしき人物を外物部といったという。なにはすさまじさ、が物部にはつきまとっている。
長弓寺を出るとき、ふと、後を振り返った。参道の向こうは雑木林の丘があるだけ。国宝の寺もこの配置はいかんともしがたい、なにかをもっているのだろうか。山門に止まり木をさがしてみた。
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by forumhiroshima | 2011-02-05 10:33

十三

大阪梅田から阪急電車の特急の最初の停車駅は十三/ジュウソウ。本州の最果ての青森の港は十三/トサ。生駒山に十三峠がある。ならば十三とは?ってことになるが。
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「大和途方には鎌倉の時代から村の墓場えお一ヶ所にもうけることがはじまった。六地蔵や十三仏が祭られる。それはそこにに共同体が発生したことを意味する。これは生駒の各地に見られる。宮本常一」墓所の形からもわかることがあるってこと。
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河内の物部氏をながく調べた鳥越憲三郎氏の昭和48年発行の「飛鳥と難波」にこの峠の石仏の写真があった。
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河内平野から大阪湾、振り返れば奈良盆地という峠にたつ石仏に遭いたいとおもった。600年も前の地蔵が峠に立っている。そこにいってみたい!
自転車で峠を上りだすと、不思議な感情にとらわれる、こんなこときつくておかしい!。とても自分ってわからせる!こんなことほかにない!。そんな自分を考えていてもトップにたつと、上がってきた道筋よりも峠という境界線に気付く。上りきって終わったのじゃなくて、ここからあたらしい場所へ下ってゆくという、未来がそこにある。はっきりとした区分がわかる。もしかすいると、「自分が変われるのじゃないか?」という可能性すら感じる。

峠へのアタックは必ず往復でパスハンといつからか決めてしまって、この実行がけっこううっとおしいのだけど、忠実にそのルールをまもっている。この十三峠も二日がかり。
生駒山系は登山とか自転車族にはつまらない山だ。その訳は尾根に自動車の有料道路が走っていて、やっと取り付いたトップに自動車がブーンと。この十三峠はその名はここに十三の古墳がならんであることからという。
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昔の聖地ってことだ。が、この自動車有料道路の下にトンネルがあって、お地蔵様も古墳も見逃してしまう。どうしてこんなことしてしまったのだろう?

この峠へ東から、つまり大阪側からは東から入るルートをとっていると、古道になって、尾根になっても自動車道とはなれて山道が続いた。西からは自動車道の下のトンネルでいっきに下りになって、石仏も見つけられなくて。東からの道も古道をたどらなければ、このふるい峠のトップには行き当たらなかった。

大阪の十三はツツミとも言っていたらしくて堤のこと、淀川と陸地の境界。青森の十三は蝦夷と北海道の境界。どうも十三はそんな場所らしい。十二支がおわるとはじまりだが、それは十三でもある、ってことらしい。トンネルが十二でそのうえの自動車専用道が十三、なんだろうかね。


峠の東斜面に弘法大師が見つけたという泉がある。
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峠のはじまりの道側に自転車乗りがいた。若くてほそい足と腰。とても速そう。追い抜くのに躊躇して、スタートしてくれるのをゆっくり進んで待っていたが、スタートしそうにない。年寄りをもてあそんでは、いけないよ!なんてブツブツ。その前をすぎてつぎのカーブで、吾ながらおかしいほどダッシュ。でもすぐにヘロヘロ、ちょうど弘法大師の泉への分岐。よかった!とそこへ入った。やはり、弘法大師さまさま!!ですよ。
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by forumhiroshima | 2011-02-02 20:12


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