こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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神様の羅針盤は真東をさす

篠山城址から東を望むと、京都と亀岡との境、都の北西の愛宕山924Mの頂が見える、らしい。そこからすこしはずれると近郊の尾根に隠れてしまう。が日置の集落あたりで篠山-京街道の真東に愛宕山の頂があらわれるという。日置は古代測量と天体観測の専門技術者公務員集団の町で、全国各地に点在している。篠山-京街道は、古代の山陰道らしいが、今は国道9号山陰道線もjr山陰線もここを通らない。それどころか、福知山線も町外れ。町が鉄道を嫌ったといわれる。が、それについてはふくざつな感情があるらしい。
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こんな掲示をみつけた。
さてその東西というラインは、むつかしい。春分、秋分に太陽がおでましになるところが真東なんだけど、春分、秋分がいつかわ、わからないよね。それには暦がいる。その暦をつくる人は冬至と夏至に太陽が登る場所、つまり最北端と最南端とを観察してその中心になる日を見つけなくてはならない。それだけだなく、地球の芯のずれなど長く観察してきめる。先進国の中国のデーターも調べなきゃいけない。となると、野良仕事なんてできない。そこで、その専門家を食わせられるシステムがいる。そのためにしっかり税金とられる。でも暦なければ野良仕事できない。庶民はいつもつらいもんだね。

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この東西のラインは亀岡の愛宕山の西の出雲大神宮、篠山盆地に波々伯部神社と古代からの由緒正しい神々の鎮座される場所を通過している。約40KMさきの山陰をこの盆地の区分の中軸線に決定することで、街道もまた条里制という田んぼを区分して税金をきめるシステムが動き出したようだ。
はれればそのランドマークの愛宕山の山頂がみえるはず。
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けれども、今回は雷雨だった。禁煙していての雨宿りって、することないってわかった。
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もう一つ、見たいものがこの街道にあった。
家の屋根はヘの字で、その入口がどちらについているか?
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兵庫県の町作りの立案のスタッフのhpをみつけた。
篠山の街道について、「街道村のたたずまいはけっこういいでしょう。 篠山盆地は旧城下街の市街地を除けば、 ほぼ街道村と山裾集落に大別されますが、 篠山盆地を特徴付ける街道村では今もこうした民家が軒を連ねるように山陰旧街道沿いに残っています。 妻から入る「摂丹型民家」です。 伊勢の妻入り民家と同じ形ですが、 伊勢では参道でもある街道沿いにきるだけ多く商家を建ち並べたいため、 奥行き深く間口は狭い妻入りにしたということになっていますが、 「摂丹型」は、 片土間三間取りから田の字型の家の変革期に構成された民家ではないかという説がありますが、 詳しいことはよく分かっていません。 篠山の安口や、 八上、 大山といった街道村にこういう妻入り民家が多く残っています。 ・・・江戸時代に発展した宿場町では、 京町家と同じ平入り民家がよく見られます。 現在の丹波の家屋は昭和初期のものが大半ですが、 街道沿いは代々の敷地形状にあわせ建替えを繰り返し、 継承してきたため当時の面影をしのぶことができます。
 ですから、 平入りか妻入りかでいつ頃構成された集落なのかがほぼ見当がつきます。」
現代の都市設計の公務員さんの報告です。古代も負けてないほどスケールありますよね。

いつごろ目の前の集落が発生したのかは、走っていていつも、どうしてここにいるの?と思ってしまうぶん、切実な回答がほしい問題なんだけど、こんなにあっさり、いってほしくないのだけど。でも妻入りの家並みって中国地方では見なかったか?みのがしたか?。で、確認してみようと。
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すくない妻入りの家々だったけど、たしかに、ちがう!「風土」って言葉が浮かんできた。
お寺や神社はどうなんだろう?
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どちらも、よくお目にかかってるが、たしかに妻入りが並ぶと、自分には違和感がある。違和感がないってひともおられるだろう。その違いが狭い日本にもあるのだ。
街道沿いに苔むした藁屋根の民家が妻入りのシステムであった。
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これだけで、なにか感じるかってことは、むつかしいけど、並ぶと、たしかにつがって感じる。妻入りが入りやすいって思うけど?どうですか。
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by forumhiroshima | 2011-04-30 21:11

咲く麗(サクウラ)

畿内(近畿)できるだけ走って見たい!とおもっていて、先日は西端の明石へ。7世紀の記録にある畿内は道を基準のようで、国境ではない。この記録された畿内は難波を基点にされている。半径60kmほどのエリアのようだ。東西南北の地名が決められているが、北は大津手前の坂、琵琶湖のそばになっていて、東北になる。そうなら北はどこ?と北上してみるうち篠山盆地へ入ってしまった。ここは丹波の国、行き過ぎている。
が、この幅4km長さ、東西に12kmの盆地は、中心のお城跡の観光地をはずして、美しい。丁度田んぼに水は張られて、おおきな湖のような季節で、それが気に入ってしまった。
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古代ここが湖であったといわれるが、ちょうどその古代の景色のようだ。

古代の湖は西へ湖水をはきだして、盆地となって、そのころ人々がここにやってきた。6千年もまえのことらしい。が、繰り返すが、いまその景色がここにある。盆地も東の河上から干上がってきたはず、でその証拠に7世紀ともいわれる鎮座の神様の社が盆地中央東よりにある。波々伯部神社、ホウカベがそれ。
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鳥居のそばの掲示には、11世紀からのことを記載されている。
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中世はいいの!古代ですよ、古代。
それは波々伯・ホウカが波波迦・ハハカのことで、この波々伯部はこのハハカ、これは木のことなんだけど、このハハカに関係した部、つまり古代の役人たちってことのようだ。この近くの日置という地名も日置部という公務員の測量士たちの村ってことだ。このあたりは古代の合同庁舎か?
ハハカはウワズミサクラのことで、アマテラスが岩屋に隠れたとき、こまった神様が占いをした。その占いは思金神が担当して、大和の天の香具山でとったハハカの木で、男鹿の骨の裏に溝を掘って、そして焼いておこなった。闇夜のなかの炎ということだ。
天の香具山は古代朝廷の大切な山で、金属それも銅を産出していたのでは?なんていってる先生もある。思金神にも金属の影があるね。ハハカの木は銅を採取する道具の材料だったのだろうか。
のちにこの神社は掲示板のように、八坂神社となったのだろうが、スサノオを祭る神社と姉のアマテラスとの関係もどこかあったのかも。それに古代のハハカがなけれが、この波々伯の名は残らなかっただろう。

境内は杉の大木が林立している。そこに広い広場があって、本殿もその奥に追いやられている。これが、古代の「庭」だろうか、と思った。
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大木があって、庭があれば、神は祭りに降臨される。とりまく木々にサクラはないが、杉と檜。木肌が真っ赤になっているのが神々しい。
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社務所の窓ガラスにお祭りの写真がはってあった。
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ハハカの木はウラミゾサクラとよばれた。それは占いに鹿の骨の裏に溝をつけた形がこの木の木肌ににているからだといい、それがウワミズサクラと変わっていまよばれているのだそうだ。この裏た麗となり咲く麗からサクラなんて、シャレてますね。マジ、ですか?古代から、やっぱり「花はさくら木、・・」なんだね。

神社の社務所のお祭りの写真のとなりに、ここに春やってくるミミズクの写真があった。毎年らしい。神様のお使いにおもえる。
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見上げても、まだお使いはおいでになってないようだ。ぜひお会いしなきゃ。で、畿内走るの棚上げで、またここに走ってきます。
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by forumhiroshima | 2011-04-29 11:01

谷中分水界

分水嶺は山にあるものだけど、ときに平野にもある。

丹波篠山からでる水は西に流れて加古川にはいり、くだって瀬戸内海へ。だが篠山のJR篠山口付近に宝塚へながれる川筋がある。それが武庫川となる。この篠山で二つの川が合流している。それは古代に篠山は湖でそこから武庫川をとおって瀬戸内海へながれていたという痕跡ではない。人口の運河がつくられたのだという。
その運河はいまもつながっているのか?
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江戸時代に川舟運輸が加古川で発達し篠山まで登りだした。そこで明治になって加古川から篠山経由の三田行きの運輸水路が計画され明治7年に完成。しかし水量の不足等でわずか3年ほどで廃止された。その水路がいまものこっている。その水路はいまも北へも南へも水がながれるため、水門で調整されている。

その痕跡をさがしに、すっかり水の張られた田んぼの畦を歩いてみた。桜の古木から西へ真直ぐに小さな水路がのびていて、しばらくゆくといきなり立派な水路に変わる。
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さくらの花びらの浮かぶ水面は、田にはられた水がながれこむからか、すっかり濁っていた。そのそばに小さな道が南へとのびている。三田まで30kmで50cmの勾配のルート。ほとんどに桜並木があって、向かい風にけっこう足つかわされた。桜の花びらが口にはいってくる。
物好きでないと、こんな走りしないだろうな、って自分をあきらめた。すぐに巨大な住宅地と、広い幹線道路とひろい駐車場の町へはいってしまた。はやく走り抜けよう。
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by forumhiroshima | 2011-04-23 09:56

古代は湖水

奈良の明日香は奈良が湖水におおわれていたころの、湖岸だという。2500年以前にはまだ中央には水深50mの湖がひろがっていたが、その後さらに水が西の亀裂の亀の瀬をひろげて大阪の河内へと水は流れ、干上がってきた。この湖岸に稲作が発達した。明日香にも稲が豊かに実った。ここにこの国にあとからやってきた人たちが最初の政権を樹立、と。大和朝廷とよばれる人たちは、この豊かな実り、いただきで、いいとこ取りだ。でも、朝鮮半島から九州に上陸したこの朝廷を構成した人々は、なぜ奈良盆地の南奥に、いいところあることをしっていたのだろうか。

住吉神社にも、八幡神社にも、この二つでこの国の神社の大半となる神社に祭られる神功皇后にタケウチノクスネって家来がいて、このおやじさんが、旅行の添乗員さんみたいに、案内している。このクスネおやじさんの国が丹波だという。

この国の大地が3万年まえごろからおおきな地殻変動をおこなって、たくさんのくぼ地が山の中にできたらしい。くぼ地はいつか水をため、湖水となった。その湖水があふれ出す。そうして大地をけずる川がながれだす。
丹波のクスネのおやじさんの国の南の山中、篠山に大きな湖があった。その水は武庫川と名づけられ瀬戸内海へ流れ込んでいた。篠山へ南の三国山の峠を越してくだると、まるでそこは湖だった。
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ところが、その流域の細くせまいところを堆積物ためて、流れが止まってしまった。その場所が当野から古森だという。
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波賀野は流れを羽交い絞めした場所で、当野はストップかけた、トビラの戸野だ、なんて、私の説ですが。そのとき、湖の水は出場所をさがしていた。湖の西に二つの川が流れ込んでいる場所が戸野よりすこし低いところだった。ここをふたつの川が、コツコツとノック。そして水が溢れ出した。そこは細い谷間で、高低さが大きく流れ出す勢いが強く、いつしかここに深い渓流ができ、湖はきえてしまった。そして湖底に蓄積したたくさんの栄養分をもった豊かな台地が出現した。「くろまめも、栗もうまいよ!」
大山川と宮田川と篠山川の合流地点。
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※兵庫県は瀬戸内海と日本海とを桜並木でむすぶ事業をおこなっていたので、河畔は桜並木です。

いまも武庫川と篠山川は地図ではつながっている。
湖が流れだした川代渓谷の入口に川代ダムと名がつけられた水門があった。
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ここで採取された水は篠山川が加古川へながれだしていたのを、取り戻すように武庫川の河畔の三田市へ送られる。古代の約束にしたがって・・なんて。

湖が裂けて川が流れ出すという、地変は神業。そうなると、その神様がどこかにおられると。6000年前の出来事なら縄文の人々は目撃者。その記憶は神話となっているはず。なんてそこかしこの神社回ってみたが、判らなかった。この土地を支配しようとした、クスネおじさんやらどなたかの痕跡もみつからなかった。
またダムの水門にもどってみると、そこに笹がたてられて、アマテラスオオカミの神名の御幣がつけられているのを見つけた。この御幣を立てた人には、古代の天変地異の記憶が続いているようだ。
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川風に桜の花が舞い上がった。東日本にも、きっと「今回の神業」が記憶に変わって、桜の中に舞う日々がやってくる。そう思ってみた。思いたかった。
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by forumhiroshima | 2011-04-22 15:09

街道の関所

三木市街地は、しっぶい。見たこと無いけど、大正って時代の景色がそこかしこ?と。
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酒蔵の杉玉もブラリブラリと風にゆれてる。パンフレットも「街道をゆく」
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このパンフは旧市街から川を渡った旧道のちいさな店の軒先でヒラヒラしていた。ギャラリー湯ノ山みち。おじいさんが奥の民家から覗かれた。パンフいただきます!そこに名前書いておいて!
あのー、湯ノ山みちって。昔の有間郡湯ノ山がいまの有馬温泉で、そこへの街道の名、だそうです。
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手招きされてギャラリーの奥に。そこには三木市の旧街道の仔細な地図がずらり。このギャラリーのある湯ノ山みち沿いの民家の名もすべて江戸時代のものは判別されていると、話される。本能寺の変の際に秀吉はこの道を駆け、尼崎そして山崎の天王山へ。兵たちがここを走った日時もバッチリ、おさえて、「ここが攝津と播磨の国境よ」
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あれ?明石川の上流の押部谷じゃ?。ここはおとなしく聞いてた。このおじいさんは、きっと学校の歴史の先生だった、のじゃないかな。だったら、話ながくなってしまいそう。帰りの時間と、この脚力がテンビンにかかって、時間のお皿がふーっと降りてくる。
帰宅して、すこし調べると、この湯ノ山みちがとおる淡河は加古川水系だが、摂津だったらしい。古代に湖だったから、かな?

おまえは自転車だよな、だったらそこの坂道は押したのか?失礼な!!乗りましたよ。だったら気付かないだろうな。あそこはバテレン寺なんじゃよ。ここが攝津との国境なら、バテレン大名高山右近もここまで。ばかやろう、ここまできとらん。寺の境内に十字架の紋の石造がたっとる、顔は削られてしまってるが。それが、証拠じゃよ。
ギャラリーのパンフには、そんなことちっとも載ってないけど。わしの新説じゃ。

すぐに見に行きます!!と、脱出。お寺へ。
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ギャラリーの前をとおると、おじいさん先生は見えなかった。関所をぬけられた。時間あったら杉玉の酒屋の酒一升持参で、訊ねたいね。こんなじいさんに、オレきっとなるだろうな。こんなとき自転車、じゃやま(すこしだけだけど)。
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by forumhiroshima | 2011-04-19 08:48

春は野原よ!

畿内の西端の谷へ走っている。有馬の温泉街から一つ峠を越すと、明石川の流域と加古川の流域の谷が西にのびてて、川の流れは西へむかう。有馬からの流れは武庫川に入っていて、一度流れが北上するから、流域の違いが西への流れと鮮明なのだけど、明石と加古川の流域に古代の摂津と播磨の国境があったとなっているが、国境という境界線が判りにくい。
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谷は低い尾根に区切られていても、その尾根もすっかり開拓されて、とても広い空を広げている。ときどき強い南風がふきぬける。春がぶつかってくる。春は野を走るしかない!
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淡河の谷には古代ここが湖であったという伝承もある。谷の出口に大きな森の神社が鎮座して、そこを神様が蹴破って水を流し、耕作地へと替えた、と。その神社から登ると新しいダムが出来ている。歴史は繰り返す?。この高度のある水面からの採水のちからが尾根の上まで灌漑できるのだろう。
そのダムの建設により移転移築された「千年家」がある。千年とはいけないが700年以上の民家で日本最古の民家建築だとあった。この国造りの最は、にイザナミ、イザナギの神様によってできたのが淡路島、この谷が淡河、なんで、なんて?
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この谷間の家々も、この「千年家」と変わらないようなつくりだ。
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谷間が西に延びて平野にひろがる場所に三木市がある。ここに「旧小河家別邸」という文化財がたまたま公開されていた。大正の建築が、「千年家」の屋根と同じだった。
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三木市の戎神社の絵馬に、えべっさんが鯛を釣るものがあって、それはこの三木が金物造りの中心地で、大工道具ばかりか、釣針もここから作られたということからの図柄で、えべっさんのトレードマークになったという。神社は建替えられて、戦後の混乱期に神社自体が排斥されることがあって、そのあたりに、その絵馬は失われたのだろうと、いわれる。神社にはその代わりかどうか?新しい絵馬が一つだけかけてあった。
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三木市のお城跡の高台に三木市立金物資料館がある。その玄関に文部省唱歌「村の鍛冶屋」に記念碑があって、いきなり歌いだしたのにはビックリ。その資料館のパンフレットに「播州金物の発祥には、在来の倭鍛冶の系統と、新しく大陸から渡来した韓鍛冶の系統とが合流して・・」とある。
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天皇の後継となったオケ、ヲケの兄弟の伝承が押部と志染の谷にあることを書いたが、兄弟が働いた忍海部造細目・オシミベノミヤッコホソメの一族は、神功皇后が朝鮮半島の新羅に遠征したとき、俘人・トリコになって奈良へ連れてこられたという。この一族から東大寺建設のときの大仏鋳造の責任者がでている。その一族がここに移住してその谷の名が忍海部かた押部となったのだと。その谷は古代大和朝廷の屯倉、つまり領地とされ、鉄製品を朝廷に納める仕事だったと。

きっとこの鉄の職人たちは、明石の海の鯛の味にとりこになって、すばらしい釣針をつくってのだろう。この谷に桜鯛が生きたまま明石の漁師たちから運ばれたにちがいない。鯛茶漬け、くいたい!
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by forumhiroshima | 2011-04-18 11:46

オケ・ヲケの兄弟

畿内の西端へと走ってると、真新しい神社にでくわした。すべて新品だ。仁賢・顕宗神社とある。ここに神社の説明が掲示してある。
「安康天皇3年10月1日(456年11月14日)父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石に住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年(481年)11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年(482年)2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。ウィキペディア」

古事記、書紀、播磨国風土記と古代の有数な記録すべてに掲載されている話で、古代がどうこう?なんてやっていると、どこかで出逢う話だ。その主人公たちが神社になっているとは!
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絵馬も新しく、説話の場面がきれいに描かれている。
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このふたりの天皇がここで神様として神社に鎮座するわけ?って、この場所にいただけなのに、なんでだろうか、と走り出した。
すると次の集落の小さな神社にでくわした。そこがこの兄弟が身分をかくしていた、この地方の有力者の忍海部造細目の住居跡だという。5世紀の話なのに。この丁寧さが、たまらない。
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この忍海部からここの地名の押部谷になったと、資料にあった。この忍海部一派は奈良にいた渡来の人々で、このあたりが古代の製の生産地で、ここに大和朝廷の屯倉がおかれたのだという。その屯倉は志深・シジミ郷という。押部谷は明石川の流域だが、忍海部造細目の統治した場所は北の志染になるという。そこに、この兄弟が隠れ住んだ巌屋があるのだと。
自分でも好きだな??と思うけど、再び有馬温泉へ登って、志染の谷へ走った。
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巌屋はとてもその中に住めるようなものじゃないが、ここに二人は住み着いたのだ。そうなのだ!
そう思わなきゃ、楽しくない。その巌屋への小路に、この兄弟をみつけて、都へ連れ帰った人の石碑まである。
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「伝承者として、歌舞を業として畿内を巡遊する芸能集団の存在が窺われ、物語素材も史実とはかけ離れた芸能的世界の所産であろうという。ウィキペディア」
この谷の北の山中に兵庫県で一番古い村の歌舞伎の舞台が残っている。藁葺きの神社や舞台もけっこう各所に点在していて、その演劇の題目が天皇の話で、かつ自分たちの故郷のことだとすれば、きっと盛り上がっただろう。その伝統がいまに息づいている、ってことのようだ。
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現在この話は史実であろうとする大学の先生たちが多いのだそうだ。まさに歌舞伎の舞台が強力な説得力をもっているってことだろう。よかったね。
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by forumhiroshima | 2011-04-08 18:13

畿内

西宮に暮らし始めて、もう1年。いろいろ走ってみたけど、ここが畿内、つまり王城から1000里やく60kmのなかにあるってことが、中国地方との一番の違いだと思った。
どこも云われがある、二千年の歴史を持っていて、それだけに、どこも歴史に形作られた景観だと、思い知らされている。人力の及ばざるところナシ。すこし、うっとおしい。

その王権のおよぼす地域を大化の改新646年にこのように規定している。
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この大化の改新のとき、その王城は難波宮にあったことになる。そして古代幹線は西へは、有馬(有間)へ向かっている。
有馬へ宝塚からは船坂へ5kmほどの峠道を向かって、そこから尾根をこして温泉へと登る。船坂への登りは車も少なくて、へばっても、車の運転手さんから冷たい視線とジャマ!って空気を浴びなくてすむ、お気に入りのパスハンになってる。これは631年舒名天皇が有馬へいっている記録があるから、このルートが古代幹線ルートになるのだろう。
有馬温泉のメイン交差点の神戸電鉄有馬温泉駅から西の、カタ越峠をこすと、唐櫃・カラトからちいさな古々山峠へ。大新興住宅地の中を志染川ぞいに下ってゆく。このまま川沿いに走ればダム湖をすぎて三木市へ。ダム手前から峠へとりついた。

これが古代幹線かどうかはわからないのだけど、この峠をぬけると押部谷という明石川上流の広い谷へでる。

畿内を政令できめたとき、その畿外との境で、いまの地形に比定されてないのが、明石の櫛淵。ウイケディアでも櫛淵は明石の海岸がリアス式の櫛の歯のようだから、櫛淵が明石の海際にあるといっている。しかし、ここに掲載した畿内の地図を推定した木下良という先生は、「当時の山陽道は海岸線沿いでなく、有馬温泉を経由するルートであり、赤石の櫛淵は現在の神戸市西区押部谷町細田の明石川に奇淵または櫛淵と呼ばれた場所があり」そこに比定している。
このことから、有馬温泉をぬけて、明石へと、このルートを走った。明石川一帯は5世紀ごろは赤石郡とよばれ、その後7世紀中葉から明石郡と美嚢郡とに別れているらしい。だから畿内の西端がここにあるのでは。だったら確認でしょうね。
もう一つ、兵庫県立考古博物館が、古代山陽道を発掘されている。H23/3.6に古代山陽道の駅家の邑美駅家の説明会がネットに発表されていた。
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この図の右下に破線で古代ルートが記載されてる。海岸にそってるのか、山越えなのか?。
その合流地点から西については、かなりの発掘調査がすすんでいるようだ。
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もう一つ明石川の中流域の櫛淵あたりといわれる細田の山億に近衛寺がある。この寺は、7世紀中ごろ近江の国琵琶湖のそばに、光り輝く一本の桜があった。これを霊木だからこれを刻んで観音像をつくり安置しようと播磨の国へ送ろうとしたら、木は空を飛んでこの押部についた。安置する場所をさがしていると、ひとりの老人があらわれ、安置する場所に案内し、わたしはスサノオである。仏を守護してやるといって消えた。その場所にできたのが近江寺だという。キンコウジと呼ぶらしい。畿内の東の合坂山は琵琶湖のほとりにあって、この話はどこか畿内を国の羅列でなく道の端としてきめたことと、なんだか共通するように思えた。

近江寺は、広い境内とたくさんの石仏、点在するお堂、古木の巨木、苔むした石垣。
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明石川の河畔に住吉神社を見つけた。川にガンギがつくられて、船付き場のようだ。
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そこに神社の説明があって、やぶれている場所にここが奇淵だとあった。
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いやはや、木下良という先生、しっかり現地調査されてる。ぼくも確認しました。ここが古代の畿内の西端なのでしょう。ここが、です。
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by forumhiroshima | 2011-04-02 16:17


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