こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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また、物部のこと

缶けり、という遊びがあった。かくれんぼだが、親(鬼?)が輪の中央に缶づめの空き缶をたてる。それを子がけってできるだけ遠くに飛ばす。その缶を親が輪の中央に拾っておく。その間に隠れていて、親がさがしにその輪からはなれると、全速力でとびだして缶をけりに走る。親はそうさせじと、帰ってきて缶を足でおさえる。そんな遊びだった。

週に一度ほど、遠くへ走っている。そして帰ってくる。その走る一番さきに、缶けりの缶があって、それを足でけって、やっとのことで帰ってくるほどの、遠くを選んでいる。いまは南河内、二上山や葛城山の裾に、その缶がある。

先日司馬遼太郎さんの「街道をゆく、河内みち」にある、葛城山の山麓の山寺「高貴寺」へ走った。高貴寺に缶を置いたことになる。つまり、くどくどいってるが、往復に精一杯の遠さにこの寺があった。
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「街道をゆく」は高貴寺を「高貴寺は真言宗の律院である。律院というのは、寺の建築に余分な装飾がなく、規模もちいさい。ただ境内が嵐気を帯び、ちりひとつとどめず、全体が凛然としていて、むろん観光料はとらない・・」
「嵐気」がなにか?知りたかった。もちろん観光料ナシも、動機にひとつだけど。
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この寺を紹介する文章の中に、「本堂の裏をまわって奥山に入った。わずかに登るだけで山壁にぶつかった。山壁は巨岩でできているらしく、そこに祠がある。磐船神社ということになっているのだが、・・」とつづけられていた。この日は祠へ向かわなかった。それより境内が雑草におおわれていて、それはそれで景色なのだけど、「嵐気」はみつからなかった。
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寺から帰って、また缶けりの缶を置く場所を南河内にさがしてみた。南河内へは四天王寺から南東へほとんど直線にむかうR25が距離としては短いが、とても車が多い。それと、南河内への古道は堺から二筋あって、一つが竹内街道で、もう一つが長尾街道。そして斜めに富田林へむかう富田林街道がある。道にはそれぞれ名があったようで、いまの番号にしたのは、郵便番号とおなじお上の発想だろう。便利のようで、まったく判別できない、と思う。
探す資料に大阪府の歴史散歩を繰ってみると、そこに磐船神社について「ニギハヤヒの命が天の磐船にのり、河内国河上のタケル峯に降臨した、という物部氏の聖地で」なんてある。

日本書紀は神武天皇が九州から大和へむかうことを決めた動機を記載している。「東によき国があるらしい。青山四方にめぐっている場所だという。そこに天の磐船に乗り飛びくだったものがあるという。その飛び下ったものは、どうおもニギハヤヒというものらしい。そこにぜひともいかなければならない」
神武天皇は大和に先住者がいることをしっていたことになる。その先住者たちをどうも「弥生人」というらしい。弥生人とか縄文人とか聞いていると、自分のことじゃないように思ってしまう。がまごうことなくご先祖さまのことだ。
司馬さんはお寺の本殿の裏すぐそこにある祠を磐船神社といっておられるが、地図ではとてもすぐの場所じゃない。
で、また行きました。物部って人々は、この河内におおきな古墳をぼこぼこ作った人たちの前の先住者で、神武天皇に征服され、服従していたが、蘇我氏と聖徳太子に滅ぼされる。ただ古代から武器庫であった大和の石上神社の神主であった物部の一部の人たちは、後日、石上と名を変えた。なんていわれる。生駒山にタケル峯はあと二つある。どこも巨石が鎮座している。
ここ平石の磐船神社へは平石の集落から登った。
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弥生の人々のなにか、があるわけじゃなくて、巨岩が点在する境内後でしっかり藪蚊にやられた。

下りは高貴寺へむかう。りっぱな参道があった。寺の本堂の前からエンジン音が聞こえる。草刈機の音。わかい人が草を刈っておられた。「嵐気」を作り出しておられるようにも、見えた。
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寺から下って、富田林へ。ここに寺内町といって、浄土真宗の寺を中心に土塁た堀でかこまれた、自治をもったという集落が保存されている。ふるい民家や商家にいまも暮らしがあって、また町を説明する観光施設もつくられている。この「寺内町」は河内にたくさんのこっていて、奈良や宝塚、高槻などにもあって保存されている。
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富田林の寺内町の中核は「旧杉山住宅」だとあって、そこに有料!!だけど見学に入った。外が暑かったからだけど。
この寺内町をつくった人々に一人、杉山氏の住居で酒屋だったらしい。天井が高くて、涼しい風が通り抜けていく。この富田林の寺内町は16世紀に作られたとある。その杉山家から明治になって、女流歌人が生まれた。与謝野晶子などとならび称されたという石上露子がその人。でも自分にはまったくわからない世界だ。が、杉山のお嬢さんがナゼ「石上」と名乗ったのだろうか?そう「石上」は物部の生き残り策の名。住宅からでると、すぐ前にこの寺内町の案内所がある。パネルで石上露子さんの経歴が掲示されている。「エー!」って声でそうだった。彼女は、杉山家の菩提寺になる墓所にはいらず、高貴寺に埋葬されているという。

境内を移した写真を帰って、繰ってると、ちいさな歌碑を撮っていた。その歌碑は石上露子の歌の歌碑だった。
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by forumhiroshima | 2011-07-25 11:25

竹内街道

自転車で、はしってると、ほとんど車輪の前の路面だけをみてる。その路面にいろいろな表情を見つけたりする。ふと、この道はどうして、ここに造られたのか?と、おもったりするとき、この国で最初に造られたという、できれば、走っておきたいと思った道のことを思い出した。その道は獣道を人がたどって、踏み固められた道ではなくて、人為的につくられた「古代国道」のことだ。

司馬遼太郎さんが幼児期におかあさんの実家のあった奈良の南西部の大和、葛城山の山麓の竹内に、難波からの古代の幹線道路、竹内街道が通過していて、その様子を「街道を行く/竹内街道」の中で話している。その中に「村の中を、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は尾長という山麓の村から竹内村までは路幅も変わらず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来かわっていまい。それが竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾ー竹内間のほんの数丁の間は日本唯一の国宝に指定されるべきであろう。司馬遼太郎/街道をゆく・竹内街道」

この司馬遼太郎認定の国宝「道」はまだ走っていない。今の住居から奈良はすこし遠い。が、この大阪平野を縦横のはしっている電車の助けをかりて袋詰めに自転車をして同行させるのは、36年もののスコッチウイスキーを水割りで飲むようで、わるかないけど・・・したくない。が、自力で帰れるか?がまだ問題なのだ。(※おごりなら、スコッチも水割りでゴツァンです)

竹内街道が竹内とよばれるのは江戸期で、古代には「丹比道」って名であったらしい。日本書紀に、仁徳天皇の時代に「大道を京の中に作る。南の門より直に指して、丹比邑に至る」とあって仁徳天皇によってつくられた最初の難波京の朱雀大路をさすことといわれる。この道は発掘されている。道幅が18mもある大道で、難波大道と呼ばれる。
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この大道に連結して作られたとおもわれる大道が、下って推古天皇の時代613年に「難波より京に至るまでに大道を置く」と日本書紀に述べられます。この「京」はここでは奈良の飛鳥。この道が竹内街道(丹比道)だろうかと。
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この交差点が堺市の金岡にある金岡神社ではないか?といわれる。
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古代の大道はとてつもない幅の道で二十数メートルもあったと想像されて、また「直」道つまり直線で設計される。となると、この竹内街道も直線であったのでは・なんて考える人が当然ある。
いまの竹内街道はやっと二車線幅で、たしかに東西の大きな幅のなかにあるが、直線ではない。古代の丹比道を想像すると、どうなるか?

難波宮大極殿は東経E135.31.23、金岡神社がE135.31.13(金岡神社に東の地名が大道)で、今の大阪市住吉区と東住吉区の境界線、大和川の南にある堺市と松原市の境界線は南北に一直線につながっていて、このラインはE135.31.20。これが難波大道の痕跡で発掘された大道もここにある。
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では東西は?金岡神社の東になる古代の寺院/野中寺旧伽藍が北緯N34.33.35。
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金岡神社N34.33.34。このラインは西へ伸びると仁徳天皇陵の一番南端N34.33.33.東へ伸びると応神天皇陵の南端の誉田八幡宮のN34.33.34。まじ一直線。ここに大道の設計がある??。
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古代の設計図をいま確認できるのは、鳥しかいないだろう。町並みをはしり、ちいさなコーナーでふらついて走っていては、とてもこのスケールを実感どころか、想像もできない。が、目の前の道は、どこか「古代設計」なんだよな。
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余談ですが、誉田八幡神社の手水鉢の柄杓に「吹石 一恵」とありました。奉納者の名の記載は珍しいなと、みてたら。もしや、あのNHKドラマ「フルスイング」の剣道の先生の!。
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野球のプロがサポートにまわって、草ぼうぼうのグランドをサブグランドにつくる場面は、およばずですが、もみのきの草ぼうぼうのサイクリングロードの草刈とオーバーラップして、いれこんでました。おもいだしました。ってことで、吹石さんのプロフィールをみると、丹比道、東西設計ラインが東の二上山へぶつかる西の山麓の香芝市の出身とあって、やはり、そうかな?。フルスイング、いいですよね。フルスイング!!スコッチ、いいですよね。スコッチ!
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by forumhiroshima | 2011-07-20 11:05

ダンジリ

大阪の南東、奈良との接点に「近し飛鳥」がある。堺市からこの飛鳥へ行く「最古の国道」をトレースしてみた。
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古代の最初の国道の竹内街道は、小野妹子の遣隋使によって中国との交流がはじまったことによって作られたという。が、もうすっかり古代も古風もない道だった。暑かった。

飛鳥の集落まで、堺市の百舌鳥古墳群、そして「飛鳥」近くの古市古墳群と、緑のあるところが、すべて古墳といってもいいほど、集積していた。
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街道は飛鳥から登りにはいり、奈良への国境にむかうが、その境の手前に中腹に「科長」の集落がある。ここには飛鳥時代の聖徳太子をはじめとする歴史上の天皇などの墓が点在する。古道にはいくつもの表示が作られていて、パンフレットをみながら散策する旅行者もおられた。

すっかり古代の景色をさがす気分のいいところに、えらく大きな声が響いてくる。リサイクル屋さんの回収車かいな、などとおもっていたら。その発生源にぶち当たった。ダンジリの一行だった。
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「宮造りのダンジリ(山車/ダシ)の屋根には五、六人の若衆が乗っている。それらが白ネルの腰巻をまいて絶叫し、足を踏み鳴らし、おのれのダンジリに神威をあたえるべく鼓舞し、対抗してやってくる相手方のダンジリをその狂態でもって圧倒しようとしている姿がぼうみても万葉言葉でいう醜男そのままであった。醜/シコというのは上代語ではミノクイというより、強悍という意味に使われるし、乙女らはのっぺりとした雅士/ミヤビオよりもあらくれた醜男のほうに、性的魅力を感じたりする。司馬遼太郎・街道をゆく。河内みち」

ダンジリは峠にかかる街道の集落の最終の場所の科長神社を基点として、傾斜地にいく筋もある、細い坂道がダンジリの巡航コースらしい。直角コーナーはダンジリの後が上がるように、若衆が前側を幾人もが押さえ込む。後が持ち上がると一気に回転させる。じつにバランスよくダンジリは造られている。
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科長神社にはこの街道の設置に動機となった小野妹子の墓もある。

ダンジリはその急坂の科長神社へむかって、ヘヤピンの急坂をのぼっていった。

今日の新聞の朝刊には、もちろん「ねでしこジャパン」の結果はでてなかったが、さっそくに広げてみた。そこに古墳の話がでている。古墳製作のイラストをみて、!!。あのダンジリの光景を重ねてしまった。
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朝日新聞のイラスト
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ダンジリ祭りは「昼、人がつくり、夜、神がつくった」といわれる古墳造りの記憶なんだ!と、思ったね。
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by forumhiroshima | 2011-07-18 20:33

祇園祭

山手京街道の中間地点の篠山の波々伯部/ホウカベ神社に到着。先週もやってきていた。目的はここに来るというフクロウさんのアオバズク。大木のどこにもその姿がみえない。
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境内の社務所にパトカーと十台をこす軽トラックがならんでいる。社務所に人影がない。窓に昨年のアオバズクさんんと、ここのお祭り/祇園祭りの山車の写真がある。
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駐車している車はこのお祭りの打ち合わせだろうか?境内に日程の表示がある。
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この山手京街道を義経が疾走したのは1184年。そのずっと前に姫路のお城の真北の山の山頂にある、広峯神社からその時代の全国の国の数の66の鉾をたてて、群集が京都に上ってきた。876年の6月こと。神輿もくりだして、流行の疫病の退散を願った。これが京都の八坂神社の祇園祭の始まりという。広峯神社と八坂神社とは、どちらが本家かという争いがながくあって、いまも決着してないらしい。

祭りにくるだされる山車は近畿どこでも神社そばに車庫をおいてあって、それはそれはびっくりするほど、お祭りにはかかせないもののようだ。いまでもそこかしこに、新しくつくられたという横幕はみられる。

この波々伯部神社の北に篠山地方最大という古墳がある。「車塚」古墳とよばれる。古墳時代に車があったのだ。神戸の古墳から車輪が出土している。
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これだけで、自転車乗りにはうれしいのだけど、車塚はけっこう近畿にはある。
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篠山の車塚はきれいに保存されていて、そばの小山に展望所まで作られている。
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これは篠山市のHPからのパクリ。これぐらい朝霧のなかで美しい、らしい。篠山で停滞して、いっぱいやって、二日酔いで朝霧ツアー、やりたい!

亀山盆地にも車塚がある。これが丹波最大の古墳だという。
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草ぼうぼうだよね。車ってつくから、この名の古墳から車輪が発掘されるのじゃないようだ。前方後円墳をお団子みたいにおもって車輪が二つと見えたから、なんて考古学者さんはいってる。
義経さんんは車輪なんて知ってないだろうが、古代ローマも中国も馬車が戦車。大きな古墳の主は、高級戦車を持っていたにちがいない。そのメーカーは当然、カンパニヨロ!・・のはずない。マビックかな?

アオバズクさんには二度の峠越えで会いにいったけど、振られてしまってる。が、そばの小さな食堂のまえに、いました。
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by forumhiroshima | 2011-07-11 12:00

山手京街道

宮本常一「あたたかき土」は播磨の三木や小野近郊の釣針製造とその行商をになった人々を訪ねた旅のレポートで、でてくる地名を地図でたどりながら、読むと、どうしても走りたくなる。常一さんは大事な走るエネルギーの製造システムなのだ。

「この地方の行商は伝統はなかったが、その数は少なくはなかった。この地方は山間でありつつ、山手京街道に近いので京都との交渉は多かった。山手京街道は京都7条から西へ老ノ坂を越え、亀岡、篠山、鴨川、三草を経て加古川のほとりにで、それから姫路にて中国街道に合する。西国から京都に行く近道であった。そしてこの道の恩恵をうけたことは大きかったようである。すなわち、これがこの地方の人たちに京都の物産を行商させる原因の一つであった。」

先日三木にエベッサンが鯛を釣ってる絵はこの釣針の行商の人々のイメージキャラクターだったことで、三木の神社にある釣をしているエベッサンの絵馬をさがしに走ったとき、街角に街道の案内カンバンを見つけていた。
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このカンバンから姫路から三木までの、カンバンのいう姫路街道、常一さんのいう山手京街道が重なるように思える。

西宮のJR駅を始発で姫路へ。この間の2号線は、幾度か走ったが、カンベンしてもらった。道幅がせまいのに車しっかり。自転車は車道ってことは・・・??
8時に工事中の姫路城をスタート。加古川河畔へ。このあたりから、幾つもあるおおきな池の湖面に真っ青の空と真っ白の雲がキラキラしだしてきた。こんなに急激に太陽光線が強くなると、水分の多い場所、川や湖や盆地の上空に新しい雲が点々と湧きだして、午後には山際に入道雲の出現となる。ならば、地平線の向こう、山尾根の向こうの水分が予想できる。鳥たちはのどが渇けば、そちらに向かって飛び出すだろう。などと、いってるうちはよかったが、すぐに真夏サキクの症状、自販機の旅がはじまった。いつもコーラ。そしてコンビンがあったら「お茶」の時間になる。
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カルピスウオーターとグラス入りの氷、水、そして持参の梅干。氷のカップをまずしっかり両手でだきしめて、そこにカルピス。グイッツ。これを水にしないのは、水だとおなかピーピーになりやすい。すこしでも味があると、胃袋にすこしの間滞在してくれて、そこから水分を吸収する小腸へ、なんてゴタクだけど、信じてる。水はカルピスが濃いとおもったら調整。これがお茶の時間。コンビンの店の横の日陰がお茶室。ここでよく寝てしまうのだ。

山中にはコンビニも自販機もなくなってくる。あったかいお水を飲むよりシャワーにつかってしまう。やっとJRの踏み切りに到達。古市。この集落は国道から外れて、自転車乗りにはいい感じ。ここに小さな峠がある。「不来坂」。
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ここに伝承があるのだそうだ。源平合戦のとき義経は京都をでて、山手京街道を馬で駆け抜け、六甲の山並みの西端のひよどり越えへ走った。このとき義経はこの峠には来なかったという。だから「不来坂」。マジ??

馬は一日平均35kmほど走らせる。緊急には100kmを越えるという。いや、複数の馬を連れて向かい、交代させながら駆け抜けたとも。
姫路-京都の距離は山手も海岸線もやく140km。やっと篠山だけど、暑い!
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by forumhiroshima | 2011-07-10 17:58

倶会一処/クエイッショ

篠山盆地の東の端へ北摂の山々が競りあがってくる。その700mをこす尾根の鞍部に峠がつづいて、そして一挙に山王峠からくだる。
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出雲と備後との国境にある王貫峠の名を思い出す。奥山に王の名はそこの山並みの気高さを伝えてくるようだ。摂津と丹波の国境の山王峠にはトンネルがあって、どうもトンネルがきらいで、地図て確認した古道へ入ろうとすると、すぐに通行止めになっている。トンネルに入る前にフラっと小さいけど小学校がある集落を回ってみた。田んぼはすっかり緑のじゅうたん。この標高のある谷間にこの田んぼの景色がつくられる時間はどんなものだったろうか?
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またトンネルの入口にもどってみた。かわらず自動車がすいこまれてゆく。まだ覚悟ができなくて、手前のちいさな旧道に入ってみた。生垣にかこまれて、石柱に「倶会」と「一処」とくざまれた入口を覗いてみる。ちいさなゲートボール場ほどの芝生の広場中央に二筋に卒塔婆が立てられている。
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入口には石仏が集められて、ちいさなドーム状に重ねられている。六地蔵も隅に鎮座されている。広場の向こうはおおきなスギの森になって、空間をきっぱりと区切っている。
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[倶会一処」は仏典の言葉で、この世の命がおわると、その命は浄土に生まれ変わる。そこにはすでに往生した人がいて、浄土世界の仏・菩薩たちと交じり合えること。ここは、この集落の墓地なのだろうが、それにしても墓石がない。

やはり北摂の尾根のすきまにある集落で、磨崖仏にであった。かわいらしい世界が刻まれていた。
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そばの説明の板に、逆修仏で、この世があまりに厳しいから、来世への望みとして。自分自身を刻み仏の前においた、とあった。農民たちの作品だとある。

この山王の墓所?にはいって、墓所は各々の家の墓標を集めたところで、その場所がかたまりととてあるだけ、とこれまで思っていたことが、違うと気付いた。
この世にいた時間、時代も、この世とあの世の空間も、ここでは一体の場所なんだろう。ここのみなさんはそう思っている。あの磨崖仏も、浄土で共にいる景色を写したバーチャルだけど、確実なものを刻んだのだ。

広場にたくさんの人々がつどっているようで、なんだかあったかい芝生に坐ってみた。この気分でトンネルゆこうか!
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by forumhiroshima | 2011-07-04 11:52


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