こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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古代は省エネ

奈良盆地にいくつも、集落の周囲を水で囲った、きっと涼しいにちがいない生活が室町時代からつづいている場所がある。その一つが西ノ京から近い、稗田だ。この集落から古事記を口述した稗田阿礼がでたという。古事記が書かれたという8世紀の記憶のある集落は水の中にあった。きっとクーラーは要らない?だろう、かな。
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ここの写真を入江さんが残している。
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環濠集落というのだそうで、その説明の標識のそばに、下ツ道という表示も立てられていた。
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奈良盆地をこれで数回走ることになるが、すっかり?とはいかないけど、盆地にどこに、いまいるのか?がすごく判りやすい事に気付いた。それは道路が格子になっていて、それも東西南北にきっちり向いている。たとえば入江さんの写真も、その影と午前、午後の判別ができれば写真を写した方向が推理できる。撮影場所のだいたいの検討が写真についているから、その方向からうろつけば、ぶち当たる可能性が高い。

奈良は古代「青垣山四周」だといった。西、東に特徴のある山々があって、その形を覚えれば、東西南北の道からわかる方向とで、自分の大体の位置がわかる。ナビは必要ないのだ。その中心線をなす道が稗田の西端に残っている。この道は飛鳥時代に設置された可能性があるのだという。その下ツ道は平城京の中心線の朱雀大路でもある。
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この平城京の朱雀大路を南下すると「多」という場所に至る。ここが古事記で稗田阿礼の口述を筆記して完成させた太安麻呂の誕生地で、いまの安麻呂をまつる神社がある。古事記スッタフラインですね。
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この「多」とう場所は奈良盆地の東の三輪山と西の二上山とを結ぶ線のあって、東西をこの線が示しという。
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この図は「神社の系譜/なぜ、そこにあるか」からの図。でも地図からこの三輪、二ライン線をおこすと東西からずれてるし、鏡作神社はこの周囲に幾つかあって、この図からはその鏡作神社がどれか特定できない。古代のことだから、すこしぐらいオオザッパ、ってこと?そんなことはないのだ。

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この図にある、上、中、下の道は南北に平行で、その間隔は等間隔で、2118m。これが古代規格の高麗尺で正確に1000歩という距離になっているという。端数なし。「日本の古代9/岸 俊男」
古事記のすぐ後にできた日本書紀に、飛鳥の南西の地に定着した朝鮮半島からの渡来の一族。倭漢氏に沙門智由/サモンチユウという人物が測量に必要な指南車を作ったとある。指南車は、車の上に作られた人形がどう動かしても同じ方向を示すメカニズムがある。もちろん電動なんかじゃない。
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古代の設計は緻密なものだ。

それでも、その測量の基点は山だったと思える。中ツ道が大和三山の天の香具山の山頂を通っていることも、そんなふうに思わせる。これが基点だという話もある。
それにしても、この設計をした人々はここまで整然とした設計と施工をナゼしたのだろうかと、おもう。

故郷で、ナビはいらない。道路が方形に重ねられて、その場所を瞬時に判別することもいらない。ウネウネとした畑の道や、等高線をそのまま見せる畦道が美しいとおもっている。なにか故郷って言葉はその景色だとも思う。どんなに曲がっていても、細くても、どこも知ってる古里。

「奈良から竹内峠を越えれば、大阪湾がひろがっており、さらに瀬戸内海の水路を通じて九州から海外へつながっている。大和盆地のひとびとの暮らしのなかに、突如、数百人のグループが(この海の道を通って)鉄製の武器をたずさえてやってくれば、たちまち大和に彼らによる王朝が成立することは確かである。街道をゆく-竹内峠/司馬遼太郎」

この王朝は、この大和盆地のすみずみまで、知ってはいなかった。瀬戸内海では、ウズ彦。伊勢ではサルタ彦という案内が必要な海のむこうからきたグループだった。大和盆地も地元のナガスネヒコが支配していた。渡来の王朝の大和盆地の支配はこの方形、直線の道が必要だっただろう。反乱にすぐに出動できる。まるでピンポイントでミサイルを撃つように。
そういえば、ナビって軍用システムなんだよな。
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by forumhiroshima | 2011-08-23 10:59

薬師寺

「小さい裏門をはいると、そこに講堂がある。埃まみれの扉が壊れかかっている。古びた池のむこうには金堂の背面が廃墟のような姿を見せている。まわりの広場は雑草の繁にまかせてあって、いかにも荒廃した古寺らしい気分を味あわせる。和辻哲郎/古寺巡礼 大正7年の訪問の印象記事」

その約20年後の昭和14年
「薬師寺は由緒深い寺であるにも拘らず、法隆寺などと比べて荒廃の感がふかい。当事者もこの寺の保存については何故か無関心であるらしい。金堂内部の背後の壁は崩れたままになっているし、講堂にいたっては更に腐朽がはなはだしい。・・周囲にめぐらした土塀も崩れ、山門も傾き、そこに蔦がからみついて蒼然たる落魄の有様である。大和古寺風物誌/亀井勝一郎」

その奈良の西ノ京の薬師寺へ走った。有名な寺社へゆくと、なぜか自分は周囲との違和感を感じる。汗いっぱいかいて、息弾ませて、参拝ってことでもない、っておもってるのだろう。

 和辻、亀井の古都の巨頭の文章に感じることがあって、平城京の景色を写真にし続けたという、入江泰吉さんの写真集をウエストバックに入れて、いつか写真集はバックの中でバラバラになるだろうと、すこし重いから、その時をまってるように、そうなったら必要なページだけにして、と。その写真の場所をさがす奈良での旅にして、あの違和感からぬげだそうとしてる。景色の中での奈良を見たいと思っている。

 いまの薬師寺は古寺ではなかった。荒廃の感がふかいどころか、まったく新しいのだ。講堂も金堂も回廊も新しく、そして西塔も建立されている。保存に無関心ではなかった。それどころか天平の薬師寺を出現させようとしている。古代の信仰を出現させようとしているようにも。

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昭和30年代
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いま
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次の写真の場所はお寺の人に尋ねた。ぐるっと周囲を回ってみたけど、検討がつかなかった。日当たりから、そして柿の実もみえるから、塔の東からのアングルで、それも正午前後。そんな時間にまわってみたが、あいにく雨模様。お寺の年配に方はすぐにこの路地を教えてくれた。入江さんの・・。よくおいでになりましたよ。
これも昭和30年代、とある。
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撮影場所は薬師寺周辺だから、写真集にあったあと2枚の場所は特定できなかった。狭いエリアの中だから、簡単だとおもっていた。路地は自転車のテリトリー。が、見つけられない。それほどこの入江泰吉は薬師寺の細部もみのがしてはいない、ってことを思い知らされた。

「私が東大寺(の、お水取り・修二会)をたずねたころは、世の中があれていて、修二会といっても、私どもをふくめて十余人ほどの野次馬がいた。・・(その日の行が終わる)午前二時すぎ練行衆(修行僧)は二月堂から、いっせいに駆け下りる。その連行衆を見るために、いちはやく野次馬たちは堂からおりて、石段のしたで待機した。四、五人は写真機をもっていたうえに、フラッシュまで装備していた。すでにそこに入江さんがおられることを仲間の一人が教えてくれた。そのころすでに入江さんは奈良の写真家として高名であったが、半生もお水取りを撮り続けていたひとでも、まだ撮るのだろうかと、素人くさい驚きを覚えた。ところが練行衆が駆け下りてくると、四、五人のアマチアが入江さんの前面をふさいでしまった。フラッシュがたかれ、手松明の炎までが褪せた。その瞬間、紳士の典型のような入江さんが、仁王立ちになって「あっちへ行け!」と叫んだ。アマチアタチはきな粉のようにちった。街道を行く/奈良散歩・司馬遼太郎」

入江・写真の景色を探していると、薬師寺の正門は北隣にある唐招提寺に向かった北門ではなくて、南門であることに気付いた。というのは、南門の南にある休み岡八幡宮で、一度こころを洗う(洗心)をして、薬師寺へ向かう道筋が、由緒正しいルートだと書いてあった。この八幡宮は、古色でとても古い形の境内を残していた。オレって、やっぱり神社がいいのだ。
このルートは古風で、信仰の風があった。南門のそばの土塀は、和辻、亀井両巨頭のみた荒廃した薬師寺がある。天平をここに出現させるこの寺の理想はまだまだ続くようだ。たんなる観光寺でないことは、この八幡宮が教えてくれた。
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by forumhiroshima | 2011-08-21 17:56

斑鳩 三塔

「中宮寺界隈の小さな村落を過ぎて北へ二丁ほど歩いてゆくと、広々とした田畑が開け始める。法隆寺の北裏に連なる丘陵を背にして、遥かに三笠山の麓にいたる、いにしえの平城京をふくめた大和平野の一端が展望される。大和国原という言葉のもつ豊かな感じは、この辺りまで来てはじめて実感されるように思う。大和古寺風物詩/亀井勝一郎」

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入江泰吉(昭和の奈良大和路)
 亀井の風物詩は昭和17年に書かれている。入江の写真は昭和20年代とある。

続いて「風物詩」から

「夢殿や中宮寺へまいる折は、私はいつもここまで来て春秋の景色を眺める。平原の豊かさもいいが、しかし法隆寺の北裏から東方へきれぎれに連なる丘陵の側も、また別の趣があって捨てがたい。丘陵の間には白壁の映ゆる古風な民家が点在し、それをめぐってちいさな森が点在している。法輪寺と法起寺の三重の塔がその森のあいだに望見される。大和国原を右手に眺めつつ、この丘陵の間をつたわって、次第に平城京址へ近づいて行く途中の風光は実に和やかで美しい。法隆寺から夢殿へ、それから中宮寺を巡って法輪寺へ、法起寺を過ぎて慈光院に至り、石川の茶室でお茶をご馳走になってから小泉の駅へでる道は、西ノ京から薬師寺と唐招提寺へ行く道とともに、私の最も好ましく思ったところである。しばしば法輪寺を訪れるようになったのも、ひとつにはこうした道筋の美しさのためであるらしい。法隆寺に群がる参詣人たちも、中宮寺を過ぎると全く途絶えて、ここばかりは斑鳩の址にふさわしくひっそりと静まり返っている。」

大正14年のこのあたりの地図
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現在の地図
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入江泰吉の写真から
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この景色は昭和20年代後半とあるから、亀井の風物詩にある景色にちかいのでは?この写真を写した場所をさがしてみた。ゴルフ場になってしまった丘陵の先端に辺りと、登ってみたが夏草で遠望がきかない。まわってそばの池の堰堤から
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風物詩が書く斑鳩3塔を一点で眺めることができる場所もうろうろ探してみたが、家々の間にチラチラとみえる塔をまとめて一挙に、なんて場所は見つからなかった。

法隆寺の塔
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法輪寺の山門
入江泰吉の写真(昭和20年代)
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現在
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亀井がこの「風物詩」を書いた昭和17年ごろの法輪寺は荒廃していたとある。「法輪寺の御堂をみてまわると、・・気力をうしなたごとく惨敗の姿である。案内の寺僧に問うと「いづれなんとかしなくてはなるまいと思っては居りますけれども、どうも・・・」という返事であった。・・しかし、私のひそかな願いは、この寺はこのままで静かに荒廃して行ってほしいということである。・・荒廃して廃寺となることはまあるまいが、・・・」
「荒廃に対するこうした思いは、感傷にちがいないが、しかし古寺を巡る最初の心はこれを経なければならぬのではなかろうか。完備された美術館や仏閣でみる仏像をみるのは、初心にとって邪道であろう。・・・・法隆寺に参るたびに、年々この寺が見世物式に整備され、もったいぶっている様を眺め、またそれゆえについに安易な気持ちで見物しがちな自分を省みて、私はことさら法輪寺の貧しい荒廃を慕うのである。」

法輪寺の三重塔はこの風物詩の書かれた昭和17年のすぐあとに落雷で焼失した。住職二代の悲願達成のための浄財集めと、文学者・幸田文の協力によって、宮大工・西岡常一によって昭和50年落慶している。
のみ跡もくっきりとしたエンタシスの柱が白壁にうまって、歳月のフィルターをそぎとった飛鳥の時が再現されているようだ。
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法起寺を遠望したゴルフ場のなかの緑の木陰からでると、くらっとするほど「暑い!」盆地だからか、また開発されつくしてきた大和国原は木陰もない。「風物詩」にある慈光院の庭園なら涼しかろうと。が、拝観料1000円に足が止まった。法隆寺も1000円でパス、法輪寺も法起寺もパスしてきた。自転車置き場がないから、なんていって。でも、打ち水のしてある石畳と木陰に引かれて拝観場所へ。お茶と菓子が出された。あとからこられた参拝の方がすこしオシャベリ。オレじゃないよ。で、はなれた本堂の陰の柱によりかかって、風にふかれてウトウトしてると、しずかにそばの石に打ち水してもらっていた。戦前からおなじサービスなんだと、亀井先生が立ち寄った庭をボーと見ていた。
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by forumhiroshima | 2011-08-18 11:27

四天王寺から法隆寺へ

 13日、大阪・四天王寺に朝走った。このお寺は境内は開放されていて、いつも6:30から読経はじまる。お参りの人々はお盆とあって、もう境内の縁日や高野まきの屋台は始まっていた。
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 東門から朝日を正面にうけて、R25を東へ。ロードの大集団とであう。ノーヘルの裸眼の自分を通りすがりに、すこし痛い視線が、つぎつぎに。「テメーらが生まれる前からコッチトラ走ってんだよ!」と、言いたいけど、そのころはランドナーなるものに乗っていた。大いに古すぎ!でしょうね。
 
 摂津の国、河内の国と走ってきて、これから大和の国へ。そんなことになってきた。「国のまほどば」「あおによし」などとここはランドナーよりもっと古い。そして、大和はわたしに呪縛をかけている。「古寺巡礼」という呪縛を。
 その呪縛は中学の修学旅行からはじまる。そのうろ覚えの寺の名と学生時代に再会することになった。浪人生活のはじまった4月。外はやけに明るいのだが、その明るさのなかに出てゆかれなかった。そのころ受験に出る「本」なんてシリーズがO社からでていた。その中に「古寺巡礼/和辻哲郎」と「大和古寺風物詩/亀井勝一郎」があって、すこし大人びた読書スタイルのように思ってしまって、えらく気合いれてよんだ。文庫本を後ポケットに入れておくと、どこかワクワクしていた。まじ、呪縛にかかっていた。浪人人生が、かっこいいように、思えたから不思議だ。オヤジは泣いていただろうけど?

 自転車は斑鳩の里へ向かっている。「法隆寺の停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく胸の躍りだすような、刻々と幸福の高まってゆくような、愉快な心持であった。古寺巡礼/和辻哲郎」

 生駒山と二上山の間の大和川河畔に入ったばかりなのに、もうすぎ法隆寺だと、「愉快な心持」になっていた。
 奈良盆地が古代、湖であったころ、ここに亀裂がはいって盆地の水が南に流れ出した。斑鳩の里の南斜面にはまだおおくの湿地や池があったか?といわれる。この古代の景観の想像をするといつも「海原は 鷗立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は」の万葉集の歌を思い出す。この歌の鷗と斑鳩とがかさなってくる。斑鳩は、まだらはと、なんだそうだ。
 大和川の河畔の道から、ねこ坂の旧道にはいると正面遠く、民家のすきまから松の並木が見え始める。法隆寺はその左端に。
 
 「海岸を思わせる白砂と青松、そのあいだを明瞭に区切っている法隆寺の土塀、この整然たる秩序を保った風光のうちに、千三百年のいにしえ、あたらしい信仰をめぐっての混迷と苦悩と、また法悦が飛鳥人をとらえたか。亀井勝一郎/大和古寺風物詩」
 この参道の松並木を海岸からの道と感じた亀井の直感は、古代のこの地が、「生駒山、二上山、金剛山を越えればすぐ湿地であり海でもあったから、鷗も大和と河内を容易にゆききしていたのだろう。奈良盆地の景観と変遷/千田正美」という地理歴史学者の見解で証明されることになる。
 
 「愉快な心持」で着いた法隆寺の境内に、四天王寺のお盆の景色はなかった。
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[多数の仏像を祀って、幾千万の人間が祈って、更にまた苦しんでゆく。仏様の数が多いだけ、それだけ人間の苦しみも多かったのであろう。一軀の像、一基の塔、その礎にはすべて人間の悲痛が白骨と化して埋もれているのであろう。亀井勝一郎」

 信仰の寺/四天王寺とすれば、法隆寺は観光の寺となろうが、その区分を拒絶することで、和辻や亀井の「古寺巡礼」が、戦後のこの国の精神の柱ともなっていたのでは、と思っている。腰のウエストバックに亀井をしのばせておいた。

その二人の著述から一人の写真家がうまれた。大阪での写真屋さんであったが、戦災で焼け出され、故郷に帰って終戦になり、仏像などの文化財がアメリカに接収されると聞いて、写真で記録することを決意し、自力で開始した、入江泰吉。彼も「大和古寺風物詩」が復活の導きになった。
その残された写真のなかから、今回「昭和の奈良大和路」が出版された。風景のスナップ写真だ。

 
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法隆寺の参道の松並木。昭和20年代
 
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法隆寺の西門の近くの路地
 
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この写真集もバックに入れている。が、重くてずれてくるのだ。本みてるぐらいなら、もっと走れ!!ですよね。むかしランドナーさん。 
 
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by forumhiroshima | 2011-08-15 10:07

空気販売機

 堺の町には自転車関連の工場がたくさんあった。いまは幾つかのメーカーのみ。
町並みに自転車店をみつけた。店頭にきっと自分の記憶では初期の店頭での自転車への空気をいれるコンプレサーでコインをいれると動き出すもの、が赤いペイントで鎮座していた。前田、吉貝、杉野など漢字表記だった自転車関連のいまは存在しないメーカーの人々が浮かんできた。おかしな人がおおかった。自動車免許の更新をせずに自転車にしましたよ、ワハッハ、ってぐらいで収まらず、自転車置き場がなくなったから、建て増ししましたよ、ワッハッハなんて。自転車乗って、直せて、そして部品あつめて、それではじめて、自転車の営業って顔だ、ということでもあった。
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「堺」は境のことで、てっきり大和川が大阪との境だから、とおもっていた。境はその存在がどちらにつくかというあいまいさで、おかしな人種があつまって、新しい文化ができる場所だという。自転車やってみようか!と明治時代に思った人たちは、その昔、火縄銃をつくった人たちの血統濃い後継者だったのだろう。そのぶん、おかしい?人がごろごろ、いた。

堺には南海の東堺駅とJRの堺市駅とがあって、堺って駅名はない。その二つの駅の中間に方違神社が古墳のそばにある。
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その辺りを三国と呼ぶ。この名は、摂津-河内-和泉の国の接点のことだそうで、それがあって「堺」だとしった。それを教えてくれた表示が神社前にある。
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説明にはおまじないのような事だとあるが、この神社と古墳は和歌山へむかう熊野古道と、大和へむかう大津道との交差点で、ここが方向転換の場所だと、おもった。巻寿司を食べる方向を恵方なんてはじまったおかしな占いと同じじゃない。大津道は正確に東西に走っていて、それもほとんど直線だ。ただし地図での直線で、走るとそうなか?って程だけど。
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古代(飛鳥時代)の大和・河内の古道の推定地図
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「わが国の古代幹線道路は、平野を通過する区間では、アッピラ街道やフラミニア街道で代表される古代ローマの諸街道と同じように、測量に基づく直線の大道として建設されたのだという考えが芽生えます。京都大学の岸俊男氏は日本書紀にみえる壬申の乱の記事の大和の上ツ道、中ツ道、下ツ道の三つの道が、当時の距離で正確に四里(2120m)の間隔をもって並行に南北走する大道として作られたものであること、大阪平野の南部を東西方向に並行走する長尾街道と竹内街道も、壬申の乱の記事にみえる大津道、丹比道にあたるもので、しかも計画性をもった直線の大道であったことなどを、はじめて明確にせつめいした。足立健亮/景観から歴史を読む」

この方違神社はこの大道の設計の標識のあった場所ってことなんだろう、と妄想している。竹内街道も二つの古墳の南端をつないで正確に東西のラインとなっている。大道は幅が十数mとされる。それに古墳だ。この時代に古墳だ、道路だと動員された人々と、福島の原発の現場で働いている人とがだぶった。

直線の道といっても、述べたようにウネウネとしながら直線って感じだ。勾配もほとんど感じない。道は車の離合には気を使うほどの幅で、おかげで、事故の可能性はひくい。だから自転車がバンバン走っている。きっとオランダにまけてないよ。
でも、どこか威圧感というか、人為的な作為というか、すなおな風は流れてこない。どこか、上から目線ってういのかな。そんな街道。


この暑いさなかに、街中の風向きのよくない道を走るって、だから、自転車乗りなんだろうか?と、イヤだな。
もうこうなったら、大和の盆地にドカンと、それも平行に設計されて、それも、いま1500年後に、走れるのだから、いっくかナイ、カイ。天平の甍ならぬ、天平の道、なんだよな。でも、遠いし、暑いし。

店頭の赤い空気販売機は近寄ると、コトゴトブーン、って歌っていた。まだ生きてるよ。オレだって。
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by forumhiroshima | 2011-08-10 10:25

ノリス

もみのきのレースの準備をしていた早朝、トップから下りヘヤピンをぬけたところで、強い視線を感じた。歩いての作業で立ち止まると、おおきな羽がゆっくり羽ばたいて、フワーと1.5mもあろうかという翼で飛び立った。ノスリという鷹だときいた。この谷に定住しているらしい。であったのは一羽、つがいでいるのだろうか。
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この森の食物連鎖の頂点にこの鷹がいるってことは、この森の豊かさだろう。この鳥にむかってこの森の食料となる生物がむかってゆく。この列島の人もおなじく食物連鎖の頂点にいて、食料として生物が集まってくる。放射能の汚染はどうしようもなく集まってくる。ふと、そんな気分につつまれたけど、この森でいっぱい空気吸い込めば、生きて戦う気力もわいてくるにちがいなかろう。森の空気はそれを助けてくれるだろう。酸素は汚染されない。自転車はその空気いっぱい集めるヤツが必ず速い!

大阪、四天王寺に「寺に異相あるとき、鷹来たり。あるいは、御塔上、あるいは金堂上に居り、あるいは講堂の長押に夜な夜な宿すという。これ言語道断不思議の勝事なり。寺住の人、一度に非ず、二度ならず、悉くこれを見るという。聖徳太子伝暦」
金堂の東の屋根の下にこの鷹のとまる止まり木が作ってある。その正面に太子殿があって、そこへ入る西門のうえにネコの彫刻がある。このネコいつも夜遊びで昼間眠っているという。先日訪れた際には鷹はいなかったし、ネコも寝ていた。これほどの緊張した時間の日々でも、どうも、まだまだお出ましではないようだ。
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6~7世紀の奈良に藤原京がつくられたころ、その宮殿や飛鳥に斑鳩の里から聖徳太子が通った道「太子道」がいまにあるときいて、走りに。
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「斑鳩から飛鳥までは直線にして16km、太子はこの道のりを騎馬で通ったようだ。騎馬の並足で2時間あまり、速足をくわえると1時間半ほどの行程だろう。推古6年(598)太子は広く良馬をもとめた。数百騎の中から甲斐の国の献上馬・黒駒という足の白い馬をえらび、寵愛した。太子はこの馬とともに3日で甲斐の国を往復したという。道・武部健一」

太子道のそばにこの表示があった。
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太子道はいたって普通に道だった。
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聖徳太子は存在していなかった!という学者はたくさんおられるようだ。近年の論評では大山誠一
さんが注目されている。「聖徳太子と日本人」ってのをかじってみたが、文献批判というえらく複雑な手法なもんで、むつかしいし・・・。ゼッタイに太子は虚像だといっていること、は判った。だけど、ですが、

四天王寺
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そして斑鳩の里の法隆寺
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これが、日本です!1500年以上ここにあります。がんばれ!日本!    ですよね。

大阪はもっと濃い聖徳太子の町。河内には河内三太子ってお寺がある。
四天王寺の東南に下之太子・大聖勝軍寺
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この南に野中寺。ここの半島移入の石人像。中之太子。
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太子の墓所の叡福寺。野中寺の東。近し飛鳥(河内飛鳥)の隣の太子町にある。ここには太子とともに母と妻も合祀されている。ここが上之太子。
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山門の神像はうつくしかった。
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どこも、どこも凛として、そこにあった。うらうらと、自転車でたどり着いてみて、太子はそこにある、と。
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by forumhiroshima | 2011-08-09 09:54

古代街道

奈良盆地の南西から大阪・河内への峠が竹内峠でその奈良側に竹内の集落がある。
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「竹内峠を越えれば、河内国である。そのむこうに大阪湾がひろがっており、さらに瀬戸内海の水路を通じて九州から海外へつながっている。このルートをつたわって、鉄製の武器を「細戈千足・クワシホコチタル」ほどにふんだんに--といってもせいぜい数百本?--もってきた連中が大和を制して古墳時代の王朝を樹立したにちがいない。司馬遼太郎/街道をゆく・竹内街道」

こう司馬さんが予想する1500年のまえの歴史にこの街道があった。「村のなかを、車1台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内までは路幅もかわらず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変わっていまい。それが竹内街道であり、もし文化庁にその気があって、道路をもって文化財指定の対象にするなら、長尾--竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定されるべき道であろう。司馬遼太郎/竹内街道」

河内国柏原の国分から大和川にそった竜田道をのぼり、奈良盆地を南下して橿原市街地で右折して、やはり古代の横大道を西にむかってきた。二上山は大小の峰二つが印象的で、この山を中心に円をえがくようにルートしてきたことになる。国道とかさなった横大路と長尾神社まえの分岐でわかれ、いよいよ「古代街道・司馬遼太郎指定国宝」があじまる。神社まえに標識があって、すでに文化庁の歴史街道指定とあった。
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日本書紀の推古天皇21年に「難波至京置大道」とあってこの竹内街道をさしている。
明治2年(1869)の住民調査帳に家が130戸、人口761人とある。ここに水車を利用した粉引き屋が7軒、旅館3軒、煮売り屋(食堂)6軒などなど、綿打屋もあって、1684年にここを訪れた松尾芭蕉は「わた弓や琵琶に慰む竹の内」と歌っている。
峠の道へはいった荷車は肩で引いていた綱を牛にひかせる、牛の鼻引きという商売も記録されている。

峠へのみちは、明るい黄土色でカラー舗装。びっくり!仰天!マジ、ですか!
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1500年の歳月が、薄汚れた白粉?(こんなのもうナイか)で厚化粧です。勾配のきつい大和屋根もみえない。オレこんな証拠写真もってる。
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昭和48年発行「飛鳥と難波」

この道を鉄の武器ジャラジャラで駆け抜けた一団の神話は、この道でなくて大和川の右岸にある。神武天皇は奈良へむかおうとしたが、この細い川岸に道では軍隊が一列にしかなれないことから、撤退していると。これが道路情報最古のものだろうか。
その道を竜田道という。
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※この写真は川沿いのJRの路線にそった道で、古代道路かどうかは、しらない。けど、いい感じでしょ。

竹内街道の惨状にがっくりと首うなだれて、峠越です。思うことは一つ{ビール!!}
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峠の下りにはいって、思い出した。
「大和で、この角度からみた景色がいちばんうつくしい」と司馬さんは丁重に長尾の集落のはずれからみる景色を案内していた。それを、すっかり忘れてしまっていた。観てなかった。こころの傷は深いですよ。
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by forumhiroshima | 2011-08-08 09:44


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