こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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犬/棒

犬も歩けば、棒にあたる。この深いところの意味があるのか、どうか・わからないけど、戌年の自転車乗りが、立ち尽くした。棒になった。

その場所は奈良盆地の南西、葛城山のすそのに走りこんだときです。見わたす限りの黄金色の稲田をくっきりと区切る、真っ赤な彼岸花のお花畑。
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[昭和18年の晩秋、竹内へ登るべくこの長尾の在所までゆきついたとき、仰ぐと葛城山の山麓は裳/モスソをふくらませたように古墳状の丘陵がむくむくと幾重にもかさなりあい、空間を大きく占める葛城の本体こそ青々しくはあったが、そのスカートを飾る丘々がさまざまの落葉樹でいろづいていて、声をのむような美しさであるようにおもえる。・・・大和でこの角度からみた景色が一番うつくしい。司馬遼太郎/街道をゆく-竹内街道」

「くりかえしていうようだが、その葛城をあおぐ場所は、長尾村の北端であることがのぞましい。それも田のあぜから望まれよ。視界の左手に葛城山が大きく脊梁を隆起させ、そのむこうの河内金剛山がわずかに山頂だけを、大和葛城山の稜線の上にのぞかせている。正面の鞍部が竹内峠であり、右手は葛城山の稜線がひくくなって、大舞台の右袖をひきたてさせるように、二上山が雌岳を左に、雄岳を右手になだらかに隆起させ、そして大和盆地からみれば夕陽はこの山に落ちる。」

晩秋でなく、初秋にはとても暑い中、司馬さん指定の展望地へ向かった。古代のシルクロードの竹内峠は大阪のバックヤードであり、オシャレな住宅に浸蝕されて、古代は田んぼのすみの作業小屋のたたづまいにも、眼をこらしても見つからない。街道に面した長尾神社の裏側へまわって、辺りをみわたして、街道シリーズにある場所で、出会う街道ファンの姿もさがしてみたが、。

高速道路の高架の下をぬけて南下をつづけて走ると、田んぼの中の新興住宅地は消えてきた。それにかわって、その黄金の波とその波頭の赤いラインの中へ、沈み込んでしまった。「声をのむような美しさであるかのように思えた」

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by forumhiroshima | 2011-09-30 09:31

海の記憶

奈良盆地の南東のひなびた集落の太田にある神社へ、走ったのは、がんばってみようか?という気持ちからだけど、その神社の古い地名が、「海道」だったことにもよるのだ。
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ウイキペディアで纒向を調べると。「この遺跡には矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な巨大水路が2本あり、両溝の合流点は纒向小学校グランドにあり、推定距離は2600mにおよぶ。底から湧水がみられ、この溝は大和川とむすばれて遠く外海と結ばれている。」と記載されている。

この「遠く外海と結ばれている」と神社のある場所の地名「海道」とが、どうしても響きあっているのだ。ウイキペディアの編集者はここでナゼ、海を連想したのだろうか。

纒向から南へすぐに三輪神社の巨大な鳥居がそびえていて、そこからすこし町並みを南下するとえびす神社にでくわす。えべっさんはここに古代栄えたという海石榴市(つばいち)の守り神だ。これは、海のザクロと読める。それがツバイチと読まれる。訳わからん。
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奈良盆地は古墳周囲も、そして条里制のなかにもたくさんのため池がある。川の流れも、盆地全体に側溝や用水もふくめて、張り巡らされている。走っていると、水辺の景色が連続する。まるで海の中のようだ。出雲の中海にできた堤防道路走ったときを思い出した。
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「街道をゆく24/奈良散歩」で司馬さんが、海石榴市から南下して盆地の南の尾根にある多武峯の談山神社の社人を書いている。その人は六条篤、洋画家で歌人だと紹介されている。
その作品の詩集「六条篤詩選集」から
 
風景入りのスタンプの中の三等郵便局長R氏はいつも海ばかり見ている。
  どの異邦人/タビビト も
  どの異邦人/タビビト も
海へゆく方向/ミチ を尋ねる

六条篤は、山深い里の三等郵便局を守ってゆかねばならなかった。それだけに、外界への憧れがつよく、それが海に象徴されていたかと思われる。司馬遼太郎

この詩に「海原は 鷗立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は」と歌う万葉集の歌を自分はおもいだす。この盆地はずーっと昔、地質学者がいう、洪積期の終わりごろまで大阪湾の海湾であった。その記憶が、この土地にある、と言えまいか。六条篤はその景色を思い浮かべることのできた詩人だと、言えまいか。

図は現在の奈良盆地の水系と古代の道路です。
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by forumhiroshima | 2011-09-25 16:33

天文台か?

9/23の秋分の日を待っていたのだけど、それも好天の日を。その絶好の天気の日に走れなかった。なにか睡眠障害みたいなことになって、ウトウトすると、目の前でパチンと拍手される感覚で、つらい。翌日も好天、どうしても走らなきゃ!と出かけた。強い運動がきっと睡眠薬になってくれると。

9/24は大阪では日の出5:47、89.6度。日の入17:53、270.1度。つまり真東から真西に太陽が動く。奈良盆地の南東の巻向へ。ヒミコの邪馬台国の奈良盆地での候補地として名高い。そこへ、走った。そこにある「他田坐天照御魂神社」へ。グーグルの地図では春日神社。
この神社から見る三輪山の方向から立春と立冬の太陽が昇る。東の巻向山から春分・秋分の日の出がある。古代の日祀部の神社だという。すぐそばに石塚古墳があって、これは古墳ではなく祭祀の装置だという。「神社と古代王権祭祀・大和岩雄」
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やっと見つけた神社には鳥居もなくて、こんもりとした古木があつまっている。なにやら、なにやら。
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境内の茂みから三輪山を覗き込む。
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もうすっかり日が昇っている。今日のお日様は、どこから昇ったのだろうか、わからないね。

暦は、時間が経て、そしてこれから来ることを読む、から、経読みだとは柳田國男の解説。日を読むことを知ってる人を「日知り」でこれが「聖」となったという。なにかマジカルな力だと感じる。

近くの山辺の道をフラフラと歩いた。暑くなってきて汗がでるが、油っぽい。ボヤーとしている。そのとき、大変なことに気付いた。日没は18時すこし前。「行かなきゃ!」これが今日の目的。古代王権は、走る動機だ。

いきなり幹線道路へはいって、ひたすら西へ。奈良盆地をくだって河内へ入る頃、どうもお日様がスーっと下ってらっしゃるようだ。ちょっと、待ってください!と平清盛バージョン。R25は渋滞。それなら歩道走行。車用右折のラインを強引に入ってR25から四天王寺へ。あたりは薄暗きたそがれ。南門のそばから境内へ。お彼岸の人出ねらいのテントもすっかり店じまい。やっと、西門へ。

ビックリ!!人だかりはまとまって門の外を見ている。カメラがバシャバシャ。間に合った!
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お彼岸は夕日が門の正面に沈む。古代この門の西の坂のしたは海だったという。
まさに正面にお日様がうかんでいる。待っていてくれたのかも??
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だから、ここは夕陽丘。オシャレに付けられた地名じゃない、のだ。
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四天王寺の聖たちの、この夕日の設定が、古代王権の祭祀なんて本を開かせる。
日を知ることが、聖となったのは、マジカルな知識からではなくて、季節をしることが、身体にあるリズムをしることだと。植物は春芽吹いて、秋に実る。動物も産卵する季節は決まっている。そのリズムは人の体にもある。が、いまは忘れてしまった。いつも食事するから、新しい味を求める。明るいから寝ない。寒くてもあつくても、エヤコンが動いてくれる。時間も季節も携帯の画面にある。

ともあれ、今日は、しっかり走らされて、きっと寝れる。睡眠障害なんて言葉にとらわれないぞ。なんて。それに、ビールは後押ししてくれるのだ。
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by forumhiroshima | 2011-09-25 14:06

阡陌「センパク」

「倭・ヤマトは国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる倭うるわし」
四世紀以降、日本の古代国家は大和盆地にその中心をおいてきた。そして八世紀にいたるまで、大和は日本の中心であった。「日本に残る古代朝鮮。段熙麟」

奈良盆地は空がひろくおおきく、そしてその空間を囲む山々は青い。そのしたにひろがる台地に6世紀とも7世紀後半にははいらないとその発生をいわれる、南北にパラレルにのびる直線の道がいまに残っているという。東から、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる。
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そのなかで、すべてが現存する中ツ道について

「下ツ道は、奈良盆地の中央を南北に縦走する直線道路で、南端は橿原市五条野(見瀬)丸山古墳、北端は平城宮太極殿付近、総延長は約26kmにも及ぶ。このみちの名前は、古くは、『日本書紀』「天武紀上巻」すなわち、「壬申の乱」の記事に見え、平安~鎌倉時代の文献にも、下津道あるいは下津路の名が見える。また、この頃には、中ツ道、上ツ道、横大路とともに、聖徳太子によってつくられた道路であると伝承されていたようだ。

また、下ツ道は奈良盆地の条里地割りの基準線になっていることが知られている。つまり、奈良盆地に見られる方位に則った整然とした水田区画は、いつの時代かに下ツ道を基準につくられたのだ。
近江俊秀」

掲示した地図には平城京が記載されて、古代最初の政治の中心、飛鳥との関連があるようにおもえるが、この三つの道が設置された時代には平城京は存在していない。

この三つの古代道路は「この三つの道が相互に等間隔をたもちながら、奈良盆地の中央を走る下ツ道より東に設定!!され、天香久山を越えて飛鳥の中心部を通っている事実である。つまり上・中・下三道は、飛鳥を中心として設定された可能性がつよい、岸 俊男」
「三道は等間隔をなすが、図上計測では道の間隔は2118mである。これを当時の測量単位である高麗尺=一尺が35.3ないし35.5cmに換算すると、ほぼ6000尺の完数を得る。大宝律令の規定された高麗尺5尺=1歩、300歩=1里とする側地法にしたがえば、6000尺は1200歩=4里ということになる。しかし高麗尺5尺=1歩は大宝律令施行後のもので、この道の設定期間である律令以前では高麗尺6尺を1歩とすることにより、三道間は4里というべきでなく、1000歩という完数をもって等間隔に設定されたのである」

この三道が古代に設計され設置されたことは、
「平成15年(2003)の6月の出来事を思い起こしていた。その年、橿原市の教育委員会は市内出合町にある藤原京跡で、近くの店舗増築工事に伴う発掘調査を実施していた。そして、藤原京の条坊道路網の中でもひときわ重要な東四坊大路が見つかった、とマスコミに発表した。6月16日のことである。5日後の現地説明会に参加して、その巨大な道路遺構に唖然とさせられた。
発掘調査では、南北70メートルの長さの溝が4本見つかった。溝はそれぞれ、道路わきを流れる下水路と排水路を兼ねた側溝だった。この4本の側溝の存在は、当初は路面幅14・5mの道路が造られたが、藤原京建設の際に25m幅に拡張されたことを示している。

■現在の高速道路の一車線の幅は約3mだそうだ。中ツ道を現代の道路に例えれば、当初は5車線幅の高速道路で、後に8車線以上に拡幅されたことになる。現在の名神高速道路は、最大箇所でも6車線にすぎない。実際に縦位置から発掘跡を見下ろしてみた時、その道幅は圧倒されるような広さだった。大型のジェット機でも十分に離着陸できるのでは・・・と思った。2007古代奈良盆地の水陸交通謎を追う」
この発掘で確かめられている。ではナゼ?この道は作られたのか?
この設置された道路が巨大であるだけに、その設置の理由はいろいろにかたられるが、道がどこから始まって、どこまでかよっていたのか、はわかっていないようだ。

中ツ道はその設定にすごく特徴がある。それは大和三山といわれる天香久山の山頂を設定が通っていることだ。そこに古代の人々の設計の思想をよみとる人がいる。

「東西線と南北線が直行し、その線でかこまれた空間は、正方形か長方形の空間となり、整然とつらなることになる。その空間で稲がつくられれば、それが条里制の水田である。阡は東西を、陌は南北をいうことで、この四方の空間で耕すこと、その方形の空間こそ文明であり、美しいとする。王城は方形であるばかりでなく、その空間もまた方形にひろがる。王城の方千里以内を「畿内」といい、その外500里を候服・コウフクという。斉藤晃/日本的風景」
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天香久山を中心に中ツ道の写真です。
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飛鳥から天香久山へ水路脇の農道を走る。これが古代飛行場ほどのみちであったか!そんな標識があるのかと、一本の石柱にぶつかった。そこには飛鳥時代の大官大寺があったと表記してある。この中ツ道は、平城京にこの大官大寺が移転して大安寺となっていると、大安寺に表示してあった。どちらも強大な塔をもっていたようだ。その塔の場所がほとんと、ピッタリ天香久山の山頂東経135.48.5にあるのです。これって、なに?
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by forumhiroshima | 2011-09-16 20:12

奈良盆地

「奈良盆地の景観と変遷/千田 正美s54」という本を見つけて、奈良を回っている。大阪城の場所は古代海に囲まれていた、という研究を郵便局の局長さんが、おこなっておられたり、河内や堺の古墳の位置が大阪城を頂点とした直角三角形だという研究をタクシードライバーがされていたり、さすが!古代からの中心地、興味は尽きないのだ。

奈良に自転車で登りだすと、大阪からの入口は生駒山越えか二上山越え。峠アタック!。だが、その山々の間に大和川が流れ出る竜田には坂があるだけ。古代の竜田道で奈良盆地に上がった場所に法隆寺がある。斑鳩の里だ。

千田先生はれっきとした歴史地理の学者さんで、その著書に「奈良盆地は地質時代には山城方面に口を開いた海湾であったが、洪積期の終わりごろから、湾口にできた奈良丘陵の堆積によって大阪湾から孤立し、大和湖を形成するにいたった。その後、亀の瀬付近で断層による陥没ができて、水は大阪湾に向かって排水されるようになった。」
この亀の瀬の陥没が、竜田道になっている。亀の瀬は今も陥没と崩落を続けていて、おおきな工事がつづいている。
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盆地から西を眺めると、生駒と二上の山脈が切れ込んで二重に重なって見える。こ
こに二つ並んだ山頂が現れる。
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信貴山で、「今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。」信貴山・朝護孫子寺のHPから。
信貴山の南の二上山もふたつの山頂をもっている。休火山かと、思われていたが、今では1400万年前の火砕流堆積物だといわれ、この火砕流の噴出源はわからない「日本の地形6」という。

二上山も信貴山もよく目立つ。黄昏だした奈良盆地から大阪への脱出ルートは、このランドマークへみかって走っている。

法隆寺から信貴山がみえたら、聖徳太子がここに祈願した気分がつたわってこないだろうか、と。法隆寺の参道の松並木から、しっかり二つのピークがみえて、ほくそ笑んだ。そばで寝そべっていたネコが、ゆっくり立ち上がって、背伸びして、向へ。バカにされた。

「京都・奈良盆地には自然の営みによってつくられた景観(地形)はほとんど存在しない。そこには、歴史時代において人間の営力(人為)もしくは人間と自然との両方の働きによって生じた地形がひろく展開する。日本の地形6」
「大和湖の水面は、6000年ほど前には70mのあたりであったが、その後だんだん低下して2500年前には50mあたりまで低下するにいたった。そして湖岸平野が形成され、弥生文化の時代になって、稲作がこの地域に発生することになる。一方、湖岸はさらに干上がって現在のような盆地底となったのである。奈良盆地の景観と変遷」

奈良は九州で始まった稲作の適地で、それがこの国を統一する勢力が現れた原因だということなんだろう。聖徳太子の6世紀に斑鳩の里は緑の田園が広がっていたのだろうか。その台地を出現させた亀の瀬の陥没は、神業として、記憶が紡がれていたのかも。

古代大和湖が流れ込んでいた北方の平城山の一帯のなかで、一番標高の低い場所を探してみた。ここに古代の流れの痕跡が、いかに?
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奈良は「ならす」からきた言葉ということは、この盆地の実感だ。平たいのだ。平城京はナラのシロの都。その北に佐保と佐紀の町がある。この佐紀は「サケ/亀裂」にちがいなかろう!と、平坂へ。
ただ車の列だけ。奈良には自然のままの景観はない!
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by forumhiroshima | 2011-09-02 10:02


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