こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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磨崖仏たち、古代のコピー技術!

「国道をさけて、奈良から裏山越しに瓶原へ向かった。この辺りは昔よく歩いたところで、途中に、浄瑠璃寺、岩船寺、燈明寺など、道ばたにも多くの石仏がみられる。今は車が楽に通うが、はじめて行ったときには、奈良から歩いた。白州正子/十一面観音巡礼-木津川にそって」
「一番に印象ぶかかったのは、奈良へ着いたすぐその朝、途中の山道に咲いていたタンポポやナズナのような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅人らしいき気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、ようやくたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見出したときだった。堀辰雄/浄瑠璃寺の春」
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二本の橋が国道と旧道とにV字にかけられたなら坂の登りは急坂からかぎの字にまがると、大きなお地蔵さまと目があってしまう。この設定がすごく気に入っている。コンチハ!
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「文人」という言葉ももう使うにはばかることになってしまったようだけど、浄瑠璃寺へは、文人二人がたどったであろうと想像して、旧道へむかった。その入口への分岐がなら坂のお地蔵様から下り始めた神社だった。
屋根がつらなる大団地のそばに、わすれられた風情で古道が、このあたりは砂地のようで砂が路面一杯にひろがって、やはり砂を畝にもりあげた畑の中に続いていた。団地としてあったほうがよかったのかも知れないが、文人たちのたどった道だろうと、彼らと同じ時間にいるようで、車輪が砂にとられる怖さの気分も、幾分か晴れやかだった。
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幹線道路に石仏の里という標識があって、矢印に「大門、ほとけ谷」とあった。吸い込まれるように登りへ。道端に矢印。その方向は小さな谷の向こうの斜面だった。青い磨崖仏がこちらを見ている。これ、気に入ったぞ。
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ここから、いくつも矢印が現れる。その先はどうみても墓標かとも思うけど、そうではないようだ。道を登りつめたところに浄瑠璃寺があった。お土産屋さんが、雪が舞うなかに開店してある。そばにおおきな駐車場。ここは観光バスのルートなんだと気付いた。そうだろうな!文人の寺です。
堀辰雄のいう馬酔木が一本だけ白い花をつけている。
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寺は改装中で、参拝のお客様?もおられない。有名な寺社はどんどんきれいになるけど、どこも似てくるようにおもう。郊外型ショッピングセンターと同じように。
寺からそばにある、岩船寺までの1.5kmにコースがあって、そこは磨崖仏が次々にあらわれる。どれもかわいいのだ。雪の中ではいっそう寒そうだ。
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コースも終盤に車道にでるところに、やはり磨崖仏がある。説明の案内に、笠置の磨崖仏を模写したものだとあった。笠置は高さ16m。ここは3mほどかな。でも似ている。
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笠置の磨崖仏が焼けて無くなったのは、1331年の後醍醐天皇の乱の際、天皇が笠置にこもったときの戦いの戦火だという。
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笠置のお寺では失われた磨崖仏を特殊な方法でおこした映像をおいてあったけど、ここにあるでは、ないですか。これも似てるってことなんだろうか。そりゃ言いすぎですね。っていうより、笠置の影響力ってすごい。が感想。
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by forumhiroshima | 2012-01-30 20:11

あおによし

「凍てついた河原に、風花が舞う」と書き出される白州正子の「十一面観音巡礼」と同じかとおもえる風のなか、なぜか、木津川の河畔を自転車を押して歩いている。
奈良時代、東大寺を創設の事務局長ほどの働きをしている実忠和尚さんが、東大寺から20km東、木津川河畔の笠置の山の修行中に岩の間に入り、そこから一里ほどの奥深い大地で観音さまの出現をみ、その再現を求め行としてはじめたのが二月堂のお水取り。実忠和尚に観音の出現の翌年に再度、観音さまが出現する。その姿を仏像に刻みこみ、笠置の山から木津川を約10kmあまりさかのぼった島ケ原という集落にその観音像を安置すした。それが観菩提寺・正月堂だと白州正子は「十一面観音巡礼・木津川にそって」で書いている。笠置から奥まった島ケ原が、観音出現の場所だという設定になるのか?
実忠和尚が大地へ入り込んだ距離は、一里じゃないのか?と、笠置から島ケ原は約10km。一里とは、かなり違う、そうして、この話マジな?とは思ったけど、昔の話はそんなもの、おもしろい、その話乗った!行って見ましょう!と笠置山の麓から向かった。細い谷筋の国道は自転車には車怖くって、いけません、と対岸に破線で地図に記載されている東海道自然歩道を選択。そこは道というよりゴロゴロの河原状態。そばすぐにJR関西線があって、ちょっと怖い。雪がちらつく。雪景色を風花といえるのは、お部屋で窓越しで見る人の感想ですよね、とトボトボ。こりゃ島ケ原まで時間かかるわい。
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お水取りは東大寺ができた752年から途絶えることなく、一年たりとも欠かさず続いているという。東大寺の756年の地図があるという。ネットでさがしてみると、奈良女子大のHPに掲載されていた。スゴイ!HPは。
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「天平勝宝(752)4年2月1日に難波の海に浮いて実忠和尚にとどいた観音像を東大寺の東、羂索院に安置し、十一面悔過の修法をおこなった。十一面観音巡礼、木津川にそって」
その羂索院が地図にちゃんと記載されてる。お水取りが、きっと実施されてる証拠にみえる。

実忠和尚の上司の良弁僧正も笠置で修行している。良弁僧正は琵琶湖湖畔で生まれたが、鷲にさらわれ、その鷲がいまの二月堂のところの大きな杉の木のしたに下ろした。良弁はそこで成長し、東大寺の創立の責任者になる。いまの二月堂の前に一本の杉がある。良弁杉といわれる。
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良弁は別名金鷲行者といわれる。東大寺が出来る前にこの場所にあったお寺が金鷲寺または金鐘寺、金勝寺ともいわれたという。「琵琶湖湖畔に金勝族とよばれる人々があって、その人々は青銅を業としていた。良弁僧正はこの集団を統率していたのではないか。かくれ里/白州正子」大仏にすさまじい銅が使われている。
大仏はまた金のメッキがされている。鍍金/メッキは金と水銀をまぜてできるアマルガムを造り、これを仏体の表面に塗る。そのあとで炭火で水銀を蒸発させてしまうと、純金が銅の肌にくいこむように、しっかりと付着する。(古代の朱/松田壽男)

この水銀の蒸気が猛毒で、大仏建立で奈良に公害が発生して、都を遷すことになる、という話もあるそうだ。地図をみてるとそんな施設もみあたらない。松田壽男によると、日本でも水銀と人の付き合いは縄文時代からで、古墳からもそのメッキ装置となる土器がたくさん発掘されているという。中国では紀元前3000年から使用していたとも。古代の技術はとてもバカにはできない、とも思うけど。大変な公害は出なかったのでは。でも、東大寺すぐそばのなら坂に、当時の病院施設の遺跡がいまもある。それはライ病の患者の施設であったというが?。
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青丹(あおに)よし・奈良の都は咲く花の・薫(にお)うがごとく・いま盛りなり

奈良の枕言葉が「あおによし」なんだけど、このあおには青と丹で青色と赤色でかざられる古代の宮殿や寺社のありさま、という意見。また岩緑青(マラカイトグリーン)と呼ばれる色の元となる青丹が奈良に産出したとの記録があるからだとするもの、これだと青色が奈良のテーマカラーってことになる。青と丹に分けて読めば、若々しく鮮やかな赤という色が浮かび上がってくる。中国では四季を色に分けるが青は春の若々しさを表す。青春にある青、“まっさかり-青”の真の赤という意見。

「東大寺を聖武天皇と共に作った良弁も、またその弟子で、お水取りを始めた実忠も、山林修行者であったらしい。山の精気を体一杯にみなぎらせる一方で、山林を伐り、鉱物を掘り当てる第一線の技術者でもあったようだ。青柳恵介」

古地図といえば、春日大社の地図もみつけた。建物が赤く塗りこめられている。青は緑色の青なんだけど、窓枠ほどに使用されている。
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春日山の峠を東に越えた集落の神社は、どれも真新しくペイントされている。それは赤い色でいっぱいだ。柳生の里でみた春日大社から移植したという本殿も赤と白い壁だった。「あおによし」は青春のような、まっすぐの赤と、ロマンチックに決めよう。
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観菩提寺をでて、関西本線の島ケ原の駅舎によってみた。一時間に一本の列車が、すぐにやってくる。雪がふる、列車はすぐくる!!と輪行バック引っ張り出し。ちゃんちゃんと店じまいです。木津川がここでは真東から真西へながれる。観音浄土のような夕焼けに山々がそまりだすと、雪雲は流れていった。列車に観菩提寺の修正会のポスターがゆれていた。
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東大寺より一ヶ月速い。だから正月堂。
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by forumhiroshima | 2012-01-27 19:44

日本のバーミヤン磨崖仏

また、東大寺だ。3月におこなわれるお水取りを752年の大仏開眼とおなじく始めた実忠和尚の「追っかけ?」のために訪れた。奈良盆地は霧がおりていてとても寒い。11時にちかい時刻の二月堂にもまだ日差しがなく寒々しいなかに、あかい服装の一団がみられるだけだった。旧正月を新年とする中国からの観光の一団のようだ。その一団に並んでみた、懸崖作りといわれるお堂の欄干からの景色は、TVでみる北京の古い町並みにみえた。彼らに、この景色どうですか?なんて、聞いてみたかったな。
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二月堂から春日のお宮をぬけて春日山の南斜面周り東へと走った。盆地から標高400m程度を登り、東へ木津川まで下る斜面は笠置山山地と呼ばれる。その名となった笠置山で実忠和尚が体験したあの世の出来事を再現するのが東大寺のお水取りだ。今回、笠置山の洞窟を目指したのだが、山地のその尾根の斜面や平野にちいさな集落がちらばっていて、それ大柳生だ、いや柳生だとうろうろして、洞窟についたのはもう3時をとうに回っていた。その洞窟への入口のそばに、見上げる巨岩に石仏が掘り込まれたあとがくっきりとのこっていた。ここにほられていた仏様の像は、その前につくられたお堂の3度も数えられる火災によって、崩壊したのだという。
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バーミヤンの磨崖仏をすぐに思い出した。アフガニスタンにある地名がなぜ、中華レストランなんて、いらんことも思い出した。消えた磨崖仏を写真にとって、眼に見えない過去の刻線を再現したものが、お堂に置かれている。すこし不気味だ。磨崖仏はもう一体がある。きれいな刻線であざやか。そばに案内の立て看板。北魏様式で、渡来の人々によって作られたと、あった。
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北魏は古代の中央アジアの騎馬民族国家で、
「4世紀末には鮮卑族の拓跋珪が魏(386~534)を興して、398年都を今日の大同におきました(平城京)。それから洛陽に遷都する494年までのおよそ1世紀、大同はその中心になったのです。最盛期には100万を超える人口を擁し、中国最大の繁栄した都市であったといわれます。」
「(北魏の)文成帝は仏教復興の方針をあきらかにし、西北インドのカシミールの王族の出身といわれる紗門師賢を道人統に任じ、まず五緞大寺内に父祖の五帝のために五体の釈迦立像を鋳造せしめた。その像は、それぞれ高さ一丈六尺で、赤銅二万五千斤を用いたという。・・そうしてこのような造像をさらに大規模に始めたのが、雲崗石窟の堀サクにほかならない。」
東大寺の大仏は銅/739,560斤、鉛と錫の合金/12618斤と記録が残っている。
「北魏は漢族をはじめとする諸民族の融和と支配のために仏教を重んじました。ユネスコの世界遺産に指定された雲崗の石窟(洛陽遷都により竜門の石窟に継続される)や北岳恒山の懸空寺はその遺産です。」
「このような文成帝の雲崗の石窟の開創は、聖武天皇の東大寺造営にも比すべきもの・・」
騎馬民族国家・江上波夫より

「日本の飛鳥時代から奈良時代初期の仏教は、朝鮮半島をへて、この北魏の仏教の影響をつよくうけたとみられ、のちに北魏様式と呼ばれるようになりました。奈良の都が平城と称されたのも、北魏の都・平城にちなんでのことと考えられています。」
奈良の北辺と京都との境界線近くのJRの駅に「ならやま」駅がある。この「なら」は平城と書かれる。この北辺の集落に押熊という集落がある。平城京の造営の責任者は坂上忌寸忍熊・サカノウエノイミキオシクマとある。この集落に関係あるのだろうか。この坂上はあのエゾ征服将軍の坂上田村麻呂一族でこの一族は渡来人で明日香の檜前・ヒノクマに移住してきている。
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江上波夫さんは騎馬民族の人々を「いったいに騎馬民族は、よい国があると聞けば、次から次ぎへと征服して、先へ先へとゆく性向を持っています。そのとき、王族の本家があたらしい征服地へ移っていくことが少なくなく、故郷の地はカラにしていくこともありますが、一部の者を、とくに末子など留守王として残してゆく場合があるのです。」と書いている。
このごろ、注目の大阪の新しい市長さんは、本体の大阪府をNO2にまかせて、あたらいい征服地へと乗り込んできたようにみえる。農耕民族のみなさんには、ビックリだろうかな、なんて想像してしまった。
いまから1300年も前に、新しい都市を出現させて、巨大な仏像を公開されては、みなビックリだったろう。石窟も造っちゃえ!って実忠和尚は考えたのかもしれない。これもビックリだったろう。が、江上さんは、騎馬民族は移動してしまう民族なので、基盤となる経済については、奪略いがいにからっきしダメだから、基盤となる被征服民・農耕民族にいつかは同化するともいってました。首ひっこめて、カメさんでもなってりゃイイ?。でもこうもいっている。同化には三世代ほどは掛かっただろう、って。どうしよう?。

ウロウロまたやってると、すでに日は陰りはじめてます。自転車乗りのカメさんとしては、西宮遠いよ、な。距離が短くなる、生駒越えの登り!か、長いけど、淀川ぞいの平地か?。どちらもヤメてJRか?。JRは一時間に一本の時刻表です。
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by forumhiroshima | 2012-01-24 11:47

どこかで、

東大で入学が秋に変更されることを考えていつことが報道されている。世界の215ケ国が9月始業で、日本はのこる7ケ国に入っているという。そういった数字の問題じゃなくて、アメリカが9月だから、それに準じることがグローバルだということだろう。

東大でも東大寺では(これって、けっこううまい?)二月堂でのお水取り、修二会は陰暦の二月、陽暦三月に行なわれる。正月で行なわれると修正会で、二月だから修二会だともいうが、それだと旧暦の二月に行なわれることがわからない。正月に行なえばいいはず。

司馬遼太郎の街道をゆくの奈良散歩で、「インドの年始はシナ・日本の二月にあたるので、シナ流に一月におこなう修正会をインドの模して行なった。と、伝えられる」と書かれる。「正月をインド暦のほうにあわせたあたり、修二会がはじまった時代、バラモン僧正センナがこの奈良に住んでいたことと、無縁ではあるまいと思われたりする。」
奈良時代もグローバルな時代であったと、いうことだろう、か。

このお水取りをはじめた実忠というお坊さんは、東大寺創建の雑務一般を「当時の律令官僚などは自分の人事は気にしても、身を挺して仕事をするという感覚には乏しく、」(と司馬さんが書いてるけど、今とおなじ・・・・、)こなした事務局長であったという。とにかく忙しい人だっだようだ。この実忠さんがある日、東大寺の建設が始まるころのことだけど、東大寺の建設場所から東へ、いまの春日山山塊をぬけて、木津川そのころは泉川とよばれたその河畔にそびえる笠置山の千手窟に入り、そこから一里ほどばかりゆくうちに、兜率天(トソツテン)の光あふれる中にでた。そこは弥勒菩薩の浄土であったという。そこで行なわれていた修行がすすむうちに観世音菩薩があらわれた。このことに実忠はおどろき、この行法を下界に持ち帰りたいと、その修行者に相談すると、それは無理で、下界での400年がここ兜率天では1日にあたる。人間世界でやれば数百年かかるから。といわれ、それはここの行法の動作がゆるやかで、「千べんの行法といえども、下界でそれをやるとき、走りさえすれば、数をみたすことができる。誠をつくしてやれば、観音もまた現出してくださいます」とやりとりし、すでにあった二月堂で始めた行法が修二会だという。走りさえすれば、観音が出現する。そのために、いそがしく修行僧たちは堂内を走り回る。

走る、ことに行法を見出した実忠さんに、どこかアスリートって言葉が自分に出現した。
この実忠さんを「東大寺建設の総責任者の良弁の一の弟子で、・・彼はバラモン僧正や菩提センナとともに、印度から渡来したともいわれ、一説には新羅(朝鮮半島)の僧であったともいわれる。自筆の署名を見ると、妙に曲がりくねった字で、漢字に馴れていないようなのは、或いは印度人であったかも知れない。白州正子」「彼にはこういう逸話もあった。或る時、光明皇后が、東大寺の地蔵菩薩を拝され、こんなにうつくしい紗門(お坊さん)がいたらあって見たいとおおせになったとき、宮人が実忠法師こそこの像よりひときわ優れて美しいとおしえた。皇后は彼を招き、風呂にいれ、ひそかに裸の姿をみて、恋慕の情を起した。白州正子」

実忠さん、なんだか今の韓流スターのようだ。
大スターですごい実務家で、なおかつ、アスリートっぽい実忠さんの行動を、なぞってみたくなった。まず、東大寺の二月堂から木津川河畔の笠置山へ、いってみよう。
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東大寺の南に春日大社のもりをぬけて、東海道自然歩道へ。柳生街道という古道で江戸時代に整備された石畳の道が春日山原始林の中に続いている。ここどこかと、同じ!としばし立ち止まる。自転車は単に邪魔者か、杖がわりでしかない。止まると杖だ。どこだったっけ?なんだ!そうだ!安芸の宮島の原始林と似てる。春日大社と厳島神社のあかい建築が、その情景をダブらせるのかもしれない。下草のない巨木が点在する森の地面はもみじの落ち葉で褐色にひろがって、そのなかに緑の馬酔木が点在する。宮島です。
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なんだか、うれしくなって、靴のクリートが石畳と喧嘩するのも、しかたないと受け止められる。夕陽、朝日の磨崖仏や石窟仏もおおきな地蔵像も、観音様の代わりにか、出現されてくる。地獄谷は古代埋葬地というより、風葬や鳥葬の場所だというが、石窟に阿弥陀様がおられる。こんな場所では三途の川の渡り賃の六文銭代わりに、60円をお供えしておく。阿弥陀様、僕の顔わすれないで、そのときにはよろしく。
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石畳の道がとぎれ、舗装路にかわるとそこに「峠の茶屋」があった。観光シーズンには営業されているようで、近鉄のハイキンギマップに案内があった。ここから細い舗装道。山村が冬の景色に沈んでいる。数軒の家があつまった誓多林/セタリン、登り返してであう小さな集落、大慈仙/ダイジセンの名は印度の釈迦の聖跡からとその案内にあった。実忠さん、韓流でなくて、印度人なんかな?この景色故郷の景色だったのだろうか。ここ似てましたか?実忠さん。
茶屋のある峠が石切峠だそうで、「アレ!」生駒の西山麓の石切の集落や暗峠の峠茶屋が浮かんでくる。にてるよ。!どこかでみた景色が重なってくる日だ。
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アンダーシャツはびっしょりになって、十年以上つかってるアンダーはこのぐらいが限界で、だんだん寒くなってきたりする。って言い訳をつくって、笠置の山への道をすてて奈良公園と表示されている国道へのった。いやに、やけに下ってくれる。寒いよ!。と前方に五重塔。そのそばに大屋根の大仏殿がみえる。春日山塊を一周したようだ。大屋根と塔が、よくしってる景色に見える。どこかであった景色のその三。えらくハラへった。
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by forumhiroshima | 2012-01-20 10:30

司馬遼太郎・推薦東大寺ルート

賑わいのある観光地へ自転車ではいると、どうもいけない。周辺への違和感を振りまいてるし、人ごみにであえば、自転車押すしかない。“奈良まち”の路地も人だかりもそこかしこにあって、こみあった路地の入口で引き返した。

東大寺もすごい観光拠点で、自転車は連れて行けない、とおもっていたが、けっこう自動車が入っている。自転車は東大寺の西端の転害門そばにおいてきた。それは、司馬遼太郎の「街道をゆく24/奈良散歩」に、
「私はこの(東大寺境内)境域のどの一角もすきである。
 とくに一ヶ所をあげよといわれれば、二月堂のあたりほどいい界隈はない。立ち止まってながめるというより、そこを通り過ぎてゆくときの気分がいい。・・・・・・・・
二月堂へは、西のほうからやってきて、大湯屋(オオユヤ)や食堂(ジキドウ)のずっしりした建物のそばを通り、若狭井のそばを経、二月堂を左に見つつ、三月堂と四月堂のあいだをぬけて観音院の前につきあたり、やがて谷を降りてゆくという道がすばらしい。」
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大仏殿一画をのぞいて境内は自動車が通行しているし、駐車もある。「ここは町方がとけている」と司馬さんが書くように、普通に道路だけど、やはり境内って感じがする。うっかり、走ればそれなりにプレッシャーがありそうだ。それって、楽しくない。司馬推薦ルートは歩き出なきゃ、いかんでしょうね。
司馬さん推薦の二月堂への道は、大仏殿からはじまる境内巡行の方向から逆方向のようで、下ってこられる人が多い。
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二月堂への「屋根をもつひとすじの石段」を上がると、二月堂とそのそばの二月堂茶所にでる。ふるいガラス戸をひいて、すぐそばの、今年のお水取りの参加修行僧リストのA4のハリガミがフワッとゆれた。お水取りをみたい、と思った。
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街道をゆくに、二月堂にきた司馬さん一行が、下ノ茶屋へ移動するときに、この下ノ茶屋の「茶屋でありながらも、古文化財のように本瓦でふかれた重い屋根をもっている。いつごろの建築かわわからない。・・・一度この茶屋に入ってみたかったのである。軒下にたって・・・望遠レンズありますか、ときいた。“ある、”という。私は、下ノ茶屋を指差し、“あの屋根の上の中どころに、瓦焼きに焼いた小さな鐘馗さんが立っています。望遠なら見えるでしょう”肉眼だと、古瓦のあいだに指一本が立っているほどにしかみえない。」

二月堂の欄干から、この下ノ茶屋を探して、古瓦の建物の屋根を見わたしてみる。下ノ茶屋じたいが東大寺の境内地図に書いてない。眼をこらしてみても、どうにも発見できなかった。

帰宅してHPで、東大寺の鐘馗さんを検索。どうもみなさんご苦労されている様子。未発見のようだ。こんな写真もあった。
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この下ノ茶屋は、改築されたらしい。1261年つづくお水取りのある世界遺産の中でも、いろいろ変わっているようだ。
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by forumhiroshima | 2012-01-17 09:00

「どこか遠くの知らない町へゆきたい」

「どこか遠くの知らない町へゆきたい」それも自分の足で自転車のペダル廻して。しらない町のドアをそうして開けると、その町が身近に感じられる。そこに、初めてのような「なにか」があったりすると、また、新しい、知らない町を探したくなる。

なんてことは、なかなかありゃせん!のですが。フッと訪れた町に「なにか」をみつけられる幸せって、なかなかナイけど、手がかりをさがしてみたりしてます。

生駒の峠で、冬眠しているちいさなチョウチョを。起きたらいけんよ!。
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白州正子さんが1975年に発表した十一面観音巡礼に、ちょうと奈良の盆地の北端の秋篠町や佐紀町の記載があった。この文章をなぞって走ってみた。
「秋篠川の源の押熊をたずねた。山一つ越えれば京都府で、開発のすすんだ奈良県も、ここまでくると静寂そのものの山村である。田植えが終わった水田の中に、古墳が二つ三つ浮び、まわりえお青垣山がとり巻いている。オシクマとは、一番奥の狭い土地という意味だろうか。・・」
住宅地のなか幹線道路の信号で、押熊という表示をみつけて、路沿いの側溝よりひろい水路が秋篠川だと気付いたのは地図を確認したときだった。古い家並みの集落がすっかり、住宅地にかこまれて、息をつめているようだ。道沿いに南下すると秋篠寺。駐車場にはガードマンがたっていて、境内がすこし熱っぽい。

ここから奈良歴史の道をたどる。このごろの観光ガイドの歩くルートはおもしろいコースにできている。ここのは、歩くというよりレンタサイクルがいいです、って距離で自転車専用道もある。この歴史の道はここでは古墳のなかをぬうようにはしっている。
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大きな古墳の間の道はたしかに静寂で神聖な空間。よく手入れされていて、さすが宮内庁?。
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秋篠って一族は古代の土師氏といわれた焼き物の集団。この佐紀にある日葉酢姫塚には、生贄になる従者を墓に埋めることをやめて、埴輪にしては?と、土師氏の祖先のノミノクスネが提案したという逸話があって、この古墳以後は埴輪になったという。その埴輪と葬儀一般の役目だあった土師の人々が、葬儀屋というイメージを変えたくて、秋篠とか菅原とか大江とかに名前を変えている。その秋篠と菅原がこのちかくにあるのは、そういったことからなんだろうか。

歴史の道からはずれて自転車道へ。おどろくほど静かな野原の中にのびている。ここ、いいです。
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そこから奈良坂という古い峠道を下ると東大寺へ。
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東大寺のそばの古い町並みにカレーやさんがあった。店構えが、おいでおいでしている。ドアを押すと老夫婦が、いらっしゃい!。カレーしかないそうで、それも大盛り、でした。
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カレー食べたくなったでしょう?
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by forumhiroshima | 2012-01-14 11:54

伝説を追うゾ!

年初めも、奈良へ。奈良盆地の北端、佐紀、佐保と呼ばれるナラ山一帯をぬけて東大寺をめざした。大阪から取り付く生駒の峠は龍間、ことしの干支にあわせて選んで、まずその古道を登って、まず長弓寺へむかった。ここは国宝の桧皮葺の本堂も調子いい美しい建築だが、ここが古代豪族の物部の拠点である伝承の地で、朝鮮半島から生駒に降臨した物部の祖先・ニギハヤヒの墓所だという。長弓寺は真弓山・長弓寺とよばれ、創立は聖武天皇と行基のコンビだという。墓のあり場所は、境内地図には記載があるが、ここにはなくて、ここからすこし東の住宅街の小山にある。
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長弓寺のかまえは普通とちがっていて、まず寺の惣門のまえに大鳥居がある。そこを真直ぐにすすんで、ちいさな池の辺から右へ直角に方向をかえると正面階段奥に檜皮の本堂の屋根がみえる。
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ニギハヤヒの墓、真弓塚は右に曲がらずにむいた方向約500mほどにある。墓所は新興住宅の大きなタンクのそばのコンクリートの階段をのぼった薮に小山とそれをかこむ杭のなかに、石柱がたてられて、そこに真弓塚と掘られていることで判別できる。この石柱は大正時代に大阪の歴史同好会がたてたものだという。墓にニギハヤヒの伝説にある、天羽羽弓を埋めたことから、真弓とよばれるのだと聞く。だから長弓寺に真弓山とつく。阪神球団にはもう真弓さんはいないな。
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この弓からはなたれる矢も伝説がある。長弓寺の前をながれる富雄川を下ると矢田という場所にでる。ここに矢田坐久志玉比古神社がある。ニギハヤヒが生駒に降臨したとき、住まいを決めるのに、三本の矢を空に放ち、その落ちた場所のなかできめたのがこの神社だという。三本の矢ってどこかできいたような、サンフレッチェ、がんばれ!!
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この神社正面の山門にプロペラがついている。大空から降臨したことで、航空の神様になられたらしい。この神社は二本目の矢が落ちた場所に立っている。
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ニギハヤヒの墓はまだあって、生駒の山中にもその比定地がある。そこも戦前に歴史同好会のよって認定され石柱が建っている。
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神武天皇とニギハヤヒとナガスネヒコの連合軍が戦った場所も生駒の西斜面だとされるが、ここの川の富雄川は以前は鳥見川で、鳥見はトビで神武天皇の弓にとまった黄金のトビが生息した場所だとも。いやはや。

物部氏はのちに神武天皇と結び古代大和朝廷の豪族となるが、まだのち聖徳太子と蘇我馬子の連合物部守屋が敗れ、その戦勝に四天王寺ができたという。物部は廃仏派で、仏像を難波の海にすてたとつたえられ、それが敗れる原因となった。これで物部一族はいったん消滅する。守屋の首を洗った池が大阪の八尾にあるが、そのすぐそばに全国の神社の寄進によって、親神派、守屋の墓がつくられているのも、いやはや。
明日香の豊浦寺のそばに小さな池があって難波池とあった。ここに守屋は仏像を捨てたと案内してある。
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坂口安吾という戦後すぐのベストセラーの作家がいる。歴史探偵だと自称している。「物部守屋が像をすてたというナニワ{難波}の堀江は美濃の武儀郡と稲葉郡のあたり、入江が各務ヶ原まできていた頃のその海近い堀江だろうと、思うしだいで・・。飛騨の顔」
飛騨よりもっと東の信濃・善光寺へ、仏像は行ってるそうだけど。探偵そこらあたりは、どうして?

こんなたのしいエピソードを追っかけて、今年もなんとか自転車ころがそう!
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by forumhiroshima | 2012-01-12 13:15

人のこころが、年の初めに届く国

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年末年始に郵便局が配達人を臨時採用することをしって、年甲斐もなく応募してみた。約2週間、一日5時間の時給900円とのこと、帰りにどこかで一杯やるの、どうでしょうか?という条件だ。と、条件を語るより採用してもらえるか、が大問題。
そこで、自転車の修理もできます!って売り込んでみた。が、そんな修理の道具は局にはおいてないよ!とつれない返事だった。
それでも後日の説明会の案内がきたのだ。合格!!

いきなり担当ですよという町を案内されて、配達のルートや手順を口頭で説明され、じゃあ昼から配達してください!。地図にルートを記載した紙切れだけが頼り。郵便受けに名前が記載されてないのは、あたりまえ。同じ名前のマンションが並んでいて、○○1と○○2だけの区別。そこに同じ地番が被っていて、つまり同じ部屋が二つあることになる。郵便受けに名前が記載されている親切が、しかしその名前が以前に住人のようで、配達する手紙をもったまま、しばし呆然。ほうりこめない。ビリビリと携帯が鳴って、もう時間だから帰ってきなさい。と連絡。まだまだ自転車の後の箱には束が残っている。
判別不明のあて先を局で配達の方に尋ねると、みなさんスイスイと説明してくれる。彼らの頭の中には同居人をふくめて、リストが入っている。ネコや犬まで知ってるじゃないか、な。

年賀状は12月25日までに投函されていれば、元旦の昼までに配達、が約束らしい。年賀状は一年に一回のことで、相手が移転されていても、おくられていることが多い。それをその頭に内臓されたリストで区分けして、つぎつぎにあて先不明で返送されている。
ふと、これって同じ料金ですよね。と気付いた。ちょうど同じ頃、どこかの携帯メール会社で、あて先がちがって送られたケースがあると報道されていた。これ、すべて正しいあて先に直されたのだろうな。デジタルはそれがきっと簡単にできるけど、はがきはアナログ。すべて手作業。そしてそのうえあて先が不完全でも、なんと届くのだ。で、残ったはがきが再度区分されて、返送される。

話は変わるけど、今走っている奈良盆地から京都へあて先を変えようか、などとおもっていて、できれば、比叡山の回峰行の中で、京都の市街地を回るコースでも走ろうか?と調べていた。司馬遼太郎さんの街道をゆく16の比叡のなかに回峰行を二度もおこなった光永澄道師に、なぜこの行を行なおうとされたかという質問に「伝統ですから」と答えている。

郵便配達のうちで直接お届けすることがある。ピンポン!郵便局です。郵便受けに入らないお届け物です。印鑑はいりません。と。が留守に思えて、郵便物を持ち帰ると、配達員の一人が、そうか、あそこはドアをドンドンって強く叩くとおばあさんが出てきてくれるよ。って教えてくれた。
そこまで、よく出来ますね。     きっと「伝統ですから」というに違いない。この人たちが「人のこころを、年の初めに強い意志をもって届けている。」

自転車のこと。赤い郵便自転車は実用車というカテゴリーなんだけど、一番の特徴はタイヤにあって、これって、チューブをタイヤがまるく抱き込んでいて、いわゆるリム打パンクがない。いってみればチューブラー。郵便局のコンプレッサーで6.5気圧まであげて、ガンガンに空気突っ込んで走った。よく走るね。すごく気に入った。でもね、隣から隣へゆに配達はインターバルトレーニングみたいで、自転車乗るより押していました。
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by forumhiroshima | 2012-01-06 12:00


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