こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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室 隠国

大和盆地の南東にある、三輪山は古代の大和の信仰の中心地で、とにかく何かにつけて歴史の関係では、よく耳にする所だ。三輪山の円錐形の姿を甘南備の典型だという。西の平野からこの山をみれば、優美ななだらかさで、神々しいと思えば思えるかな。住宅化されたことで、なかなかいい景色?ではない。
南の初瀬川の南から眺めると、三輪山は東からすすむ尾根の西端で、かまぼこの先端のように見える。この尾根が東に伸びて、途切れるところを初瀬川の流れが直角に北向きにかわって、山へ切り込んでいく。ここに長谷寺がある。三輪山への信仰をぶっちぎるように尾根がここで終わる。かまぼこ型でつながるだけに、長谷寺が三輪山への信仰との深いつながりがあるハズだ、におもえる景色。

「三輪山の裾をまわって、桜井から初瀬川を遡ると、程なく長谷寺の門前町へ入る。・・ハセは泊瀬、初瀬、長谷とも書くが、いずれも正しい。それは瀬の泊つる所であるとともに、はじまる所でもあり、長い谷を形つくってもいるからだ。が、古くは“三神の里”と呼ばれ、初瀬川を神河・カムカワといった。“河上約半里滝蔵山に天人所持の毘沙門天の像を祀る。天の霊神とよぶ。ある日雷神この像を奪って、天に昇る時、毘沙門天所持の宝塔が落ちて河の流れに漂って、山麓の三神の里の神河の瀬で泊った。”とあり、長谷寺からすこし登った川中に“落神・オチガミ”という巨岩を祀っている。・・おそらく長谷寺の元は、河上約半里の滝蔵山にあり、いつの時か大嵐があって、神の岩座が転落し、その泊った所が“泊瀬”と、呼ばれたのであろう。白州正子/こもりく 初瀬」この巨岩をさがしてみたけど、まだ見つけていない。

泊瀬にはこんな見解もある。「今からは想像もつかぬことだけど、この初瀬川までは、昔は舟がかよって来ていた。だから舟の泊つる所として“泊瀬”といったのであるらしい。西郷信綱/古代人の夢」
白州さんの見解は女性のマジカルな才能をみせてくれて、たのしいのだけど、西郷先生の見解が夢ないけど合理的?かも。

初瀬の枕詞が「こもりく」で、隠国と書かれる。「地形からいっても三輪山の奥の院と呼ぶにふさわしい場所で、“こもりく”は神の籠る国を示したものに、他ならない。白州正子・こもりく 初瀬」

初瀬川が北へ山を刻みだすように東から尾根が西にでて、その尾根が長谷寺を籠らすように見えるのだけど、それだけでなんとなく「隠国・コモリク」の雰囲気が出ている。がその突き出た尾根が初瀬川を北へおくりこむ場所に東から小さな川がはいりこんで、尾根の先で合流している。この川は吉隠川で、ヨナバリカワという。
吉はヨシで隠はナバリになる。まてよ?先日の東大寺の松明調進の人々は名張であった。
古代の東海道がわからないものか・と考えていて、ふと飛鳥時代の天皇・天武天皇が壬申の乱勃発のとき、吉野から名張へ抜けている記録をみていて、地名の中に、隠とあって、ナバリと読ましているのを見つけた。「ハリ」は開墾の地名だとばかり思っていて、「隠」がナバリそのものだとは!!
そうなると、と妄想は天空を走り出す。天武天皇は吉野脱出のときは、この長谷寺あたりを通過したわけじゃないけど、いまのR165にそって南下したのだろう。そのR165が古代ゼッタイにルート取れなかっただろうと思う場所が、吉隠から南下した大野の集落あたり。いまも国道はいくつかの橋をかけて走っている。その下の流れは細く、速く、深い。まるで大野あたりは壺の底みたいに思えた。そこら一体を、室生とよび、川の西側の山中に室生寺がある。ここにある大野も天皇脱出のルートとして記録されている。古代東海道だ。
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室生の大野の大野寺に、東大寺のお水取りを創設した実忠和尚がこもった笠置の岩室にある、磨崖仏をコピーした、縦14mほどの石仏がある。笠置の、磨崖仏のコピーは浄瑠璃寺そばとこれで二件。どちらも、すごいコピーだという。
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古代東海道なるものは、この大野から室生の集落を登坂して、尾根筋にでて、松明調進の道のルートで名張へ降りたとおもっている。笠間峠通過しか尾根筋から名張へのルートは現在ではない。
大野寺の、磨崖仏は丁度なべ底の中心のような位置で、室のように、と思えなくはない。

「“窟”をイワヤ、アナ、ムロ、イワムロ等とよませている。日本書紀は、室、房、窟、館などの字をムロとよんでいる。本来ムロは石器時代の棲みかとしての岩窟や洞穴のことをいっていたのが、さらにひろく家屋形式の部屋のことをさすようになった語であるらしいこと」
「ただ部屋のことをムロといっても、周りを塗り込めたり塞いだりして中が洞になっている感じが、このムロという語にはあくまでもつきまとっている。その点、そこでの生活が周囲から隔絶されている物忌屋つまり斎館は、まさにムロと呼ばれるにふさわしいものであったはずだ。僧房や庵室を主としてムロと呼ぶようになる、その語感ともそれは一致する。」西郷信綱・古代人の夢/古代人の死、より。

室を包むエリアが隠国。隠国の入口が長谷寺、そこから室生を中心に名張まで隠国。その中が室。室の中央に室生寺がおかれ、その入口で、室のもっとも低い底に磨崖仏がつくられた。そう考えると、古代人のスケールが現れてくる。そうだ、三輪山は別名・三室山だった。

それにしても、室生区の登坂は、蟻地獄からはいでる虫のようでした。
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by forumhiroshima | 2012-02-28 20:21

「笠」って地名

東山中の南の端、三輪山の奥に、笠って地名を見つけていました。東大寺のある三笠山、春日大社の御蓋山のミカサヤマの笠を考えていたときです。
三輪山の奥のその笠に、こんな情報を見つけました。「隠国・コモリクの泊瀬の山の山の際に いさよう雲は妹にかもあらむ   これは土形娘子・ヒジカタノオトメを泊瀬山に火葬した時の柿本 人麻呂の歌である。ここ泊瀬は、終瀬・ハツセではないかといわれるほど死霊との関係が深く、昭和の初めに初瀬町の笠の地に上代の火葬集団墓地が発見されている。隠国の泊瀬の山は火葬の場所でもあり、死者の霊が雲となってただよっている場所でもあったようである。 樋口 忠彦/日本の景観」
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その場所は標高500mばかりの山頂に、地図に記載されている荒神社あたりかと、ねらいをつけた。が、死者の霊がただよってる・・処なんだよね。

都祁の集落をでて、笠へ向って走りだした道に一本の石柱があって、「元郷社 泊瀬明神上宮 式内 葛神社」とある。都祁の都祁水分神社は、東の木津川へ入る布目川と西へ大和川に入る初瀬川との分岐にあったのでは?なんて、素人のわかったゲにおもっていた。しかし、初瀬川の源流はこの都祁にはみあたらなかった。なのに、泊瀬明神上宮なのか?
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さっそく地図での神社マークに見当をつけて、向かってみた。神社手前に藁葺きのしぶいお寺がある。
青龍寺と石碑がたっている。龍ですよ、水の神様ですよ。その道が谷の奥まったところまでくると、宮前という池の辺に神社はあった。道にカンジョウ縄は張ってある。鳥居の前に、トウトウと流れがある。池にはその勢力をそぐかのように、水路がコの字に造られている。ここが初めての瀬、「初瀬」では。しかし、この流れは泊瀬へは流れない。
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引き返して、さきほどの石柱の道へ向かうと、左の民家の奥へ、細い道が下っている。その先に広い谷間がある。小さな水路がこの谷へ、宮前の池から続いている。「それみろ!!」と、大喜びです。こんな発見は自転車で楽な下りをやってないとわからんでしょう!。
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笠へ向かう。快適は車もこない広い車道のくだり。だが、なにやら古道との分岐があやしい。でっかく「笠明神」。しかし、目的の荒神社ではない。カンバンそばに石碑もある。笛吹なにやら!そして、ちいさな王子様がマント羽織っていらしゃる。こんにちは!
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下ると、両側に迫った尾根の向こうに、壁のように立ちはだかる明るい尾根がみえて、その上に民家が点在している。ハハーン、こんなところに住んでらっしゃる方もおられるのだ、移動は大変ですね。と、すすむと道は二又に分かれて、登りと下りになっている。その登り口にでっかく、「笠荒神」。アレー、―――移動たいへんです。この思い、自転車で登りやってないと、わからんでしょうね。でも、行きます。
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山頂の荒神さんには、東大寺創建に際して、責任者の良弁僧正が「笠山にのぼり祈誓をなすと、荒神、姿を顕わし、良弁その姿を板に写した。その板はいまもそばにある加佐寺(現在は竹林寺と称す)に奉安されており」と表示されていた。僧正がここで身を清めた池があって、「この池は奈良の猿沢の池に通じているとの伝承があり」とも案内してある。
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荒神さんから、引き返して、さきほどの笠明神カンバンの所に行き、笠明神をさがそうとした。
看板まで、登ってもどった。そこで、あれ!さきほどの王子様が消えている。「火葬され・・」なんてことないけど。かわいらしかった、な。
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日が落ちて、谷間は薄暗い。王子もいないし帰ろかな!ここからは下りだけだ。と、ここの位置を確認の地図読み。すると、ふと地図の下側の笠間の地名が眼に飛び込んできた。あれ、ここ先日の東大寺松明調進の道にあった峠の笠間じゃない。それに笠間川がそこにも、そしてあの峠そばにもある。笠って地名、けっこう沢山あるのだ。雲が漂ってるのかな?行ってみたいもんだ。
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by forumhiroshima | 2012-02-25 08:43

古代 東海道

畿内の地域が645年に定められ、その外を七道とよび、伊賀、伊勢から東への国々が東海道になった。その国々をむすぶ街道も東海道とよぶ。
645年大化元年に都は飛鳥にあったことで、この東海道の街道の出発点は、その飛鳥にあることになる。このあたりが、東海道とよばれてJR新幹線をイメージしてしまって、とてもピンとはこない。この街道は奈良盆地から南へと下って、伊賀に入っていた。
都が奈良・平城京に移っても、やはり東海道は南の伊賀へむかっていて、山城の国に平安京ができて、東海道は東へ、近江から鈴鹿峠へぬける道筋にかわった。このあたりで現代の道筋に近づいてくる。

古代の奈良盆地の古道でこの伊賀へぬける道は東山中の都祁を経由する「都祁山道」と桜井から初瀬を経由する「初瀬街道」があったといわれる。
古代「都祁山道」の東海道は、今の道の、どれか?なんだろうか。幾度か走ってみて、すっかりはまってしまった都祁の景色の中に「古代」をさがしてみたくなって、また訪れた。

「都祁 (つげ)という文字の並びが、目を惹く。日本書紀では「闘鶏」と書いてつげと読ませているが、その語源が古代朝鮮語のトキノ(都祈野)から来ており、その意味が日の出を意味するということからも、一種独特神秘的な印象がある。」

「都祁白石にひろがる水田の中に点々と樹叢がみえる。集落の東にそびえる野々神岳の麓に鎮座する雄神神社から、3ケ所の樹叢が続き、その先には鎮守の森に囲まれた白石国津神社が鎮座している。この樹叢は「やすんば」と呼ばれ、地元では野々神岳から国津神社に来訪する神の足跡といわれている。森 隆男」
「地元で“ののさん”と親しみこめて呼ぶ野々神岳は男神と女神の二つの峯よりなる。麓の雄神神社には本殿がなく、“ののさん”を神体としている。森 隆男」
「古代にあって稲の播種の時期を探るのに、神社のある場所から「やすんば」の叢林の並ぶ一線上に野々上岳の二つ峰の中間を見て、そこに太陽が上がる時を待ったという。・・まさに神迎えという言葉に相応しい素朴な野の風景が広がっている。」
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その樹叢の点在する景色に、実は気がつかなかった。帰宅して見つけた「大和路散歩ベスト10/小川光三」にこのことが記載してあった。そして当日の写真にラッキーにも一枚その景色がのこっていた。HPにもたくさんの方の掲載が、あった。ただの茂み程におもって見逃していたから、調べていくうち、北京オリンピックの開会式の会場へ向かう巨大な足跡の映像を連想。

国津神社がこの都祁のなかに3つも鎮座している。この奈良の東の山中から伊賀にかけて、国津神社はたくさんみられる。が、春日神社に多い尽くされたようなこの山中に、特別に思えて、この三箇所を訪れることに、気分が一杯だったのだ。雄神神社から白石国津神社を訪ねた際には、拝殿奥の巨大な杉をみつけて、これが御神体だ、スゴイ!と思って、それだけにしてしまった。当然御神体なんだろうが、雄神神社の神のお旅所でもあるとは!。うかつであった、よ。
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次に、二つ目の国津神社へ。そばに、小治田 安萬侶の火葬墓、先日訪れた都祁水分神社がある丘の東側の斜面にある。ここも巨木が林立してある鎮守の森の中に鎮座されて、参道は南へ開放されている。境内からみる鳥居の正面に、この土地の名を持つ都介野山が三角錐に現れている。その目線を田園に下ろすと、小さな森がもりあがっていて、地図でそこに三番目の国津神社が鎮座してある。都介野山の山頂と二つの国津神社は、一直線上にある。
この一直線に気付いたとき、最初に訪れた白石国津神社へまた走った。都介野山がそこでは、どう見えるか?。鳥居の枠には入ってはいなかったが、参道は野々神岳とはまったく違う方向にある。言い訳ですが、「やすんば」には・・気づかないよな。

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「もともと都祁氏は神祀りを主業とした多 (太)氏であり、そのためこの地に特異な祭祀遺跡が多いと云われる」「ここに人口が急増したのは2~3世紀頃で、都祁全域から弥生後期の遺物が、中国の前漢鏡、銅剣、銅戈といった舶載品をはじめ、東海や関東の土器類もあって、・・・都祁氏は神祀りをおこなった「多(太)オオ氏」の一族で、古墳時代初頭にこの山中から大和平野中心部へ下り、 小川光三」

多神社は盆地中央の「多」に鎮座していて、その場所が東の三輪山と西の二上山との真ん中にあること、そしてその結んだ直線が東西の方向であって、春分、秋分の太陽の通過ラインにあたるという。たしかに地図では、すこしずれるけど、そうかいな!なんて思ってしまう。古代の祭祀は、マジカルだが、その呪術にはまってしまうほうが、楽しいもんだ。都祁では呪術が大地に刻み込まれているのだ。
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古代の東海道は現代の名阪国道とほとんど同じラインで奈良から都祁まで登ってきている。
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by forumhiroshima | 2012-02-24 12:15

積み重ねられる神々

「近代文明にまったく毒されていないこの地方の風土に魅力をおぼえるようになった。石仏が多いことも私の興味をひいた。あらゆる村の入口、川のより合うところにお地蔵様がたっており、・・川を隔て向こう岸に、阿弥陀の磨崖仏がふとあらわれることもあった。 春日・ハルヒの春日・ガスガの国/白州正子」
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文明にまったく毒されていない、って文明って毒って、ことない、とは思うけど、この風土に魅力は自分もつかまってしまった。その奈良の「東山中」の集落に鎮座する神社は、どれもみごとに、フレッシュな赤にペイントされて、春日神社と名乗っているのだ。
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「奈良の御蓋山の麓に春日神社が建ったのは768年である。はるばる東国から、鹿島、香取の神を勧請し、藤原氏の祖先の天児屋根命・アメノコヤナと比売神を河内の枚岡からむかえて、四座一体として祭った。 白州正子」
「東山中の古代豪族といえば、春日氏をおいてない。・・古事記にも孝霊天皇が春日のチチハヤマワカヒメを娶り、・・開化天皇は春日のサホノオホクラミトメを娶して、・・このように春日氏から多くの后妃をだしたのは、大和朝廷に政略結婚によって、次第に征服されていったことを物語っている。」
一族の神の言葉をつたえる巫女が、他の神の取り込まれることで、その一族は服従することになってしまう、のが古代の政略結婚だという。
「この東山中の人々、とくに大柳生七か村の奉仕するのは、(春日大社の南にある)若宮のおんまつりの時だけで、春日大社とは関係ない。 白州正子」
この地域に春日神社が多いことは、春日大社と興福寺という藤原一族の荘園があったことによると、いわれるが、白州さんの言い分なら、ここの春日神社は一神信仰で、四座一体の春日大社とはちがうことになる。いいかえれば、この土地神の春日神に藤原氏の意向によって、三神が合体して、ここの春日神社の覆いかぶさったのだ、となる。
大柳生の山口神社(夜支布山口神社・ヤギフヤマグチ)の本殿は、御蓋山・春日大社の若宮の本殿を移したものだとあった。「若宮といっても、時代の新しさを示すのではなく、祖神が誕生したときのはじめの姿を、童子の形で現していることである。それは遠い昔の祖先の記憶をとどめているだけでなく、古い魂がよみがえることを意味する。白州正子」

この春日の神を祖神とする古代の豪族の「彼らの勢力範囲を明確にしることは不可能だが、東の高原盆地から、春日山、佐保山へかけての広い地域に及んだことは、人名と地名から推察することができる。和爾も春日と同族だから、もっと南の方まで及んでいたかもしれない。 白州正子」
歴史学者の岸 俊男の古代の奈良盆地の豪族の分布が発表されている。ここでは春日氏でなく、和爾氏としてマッピングされている。
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いまも和爾という集落があり、丘の上の古墳をかこみ和爾坐赤阪比古神社・ワニニイマスアカサカヒコとすこしはなれて和爾下神社がある。
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このすぐそばに、櫟本・イチイモト町と楢・ナラ町の地名がみえる。この地名は薪などの燃料を採取する場所であったことを示しているといわれる。(柳田國男/地名の研究)

「防水排水の土工が進歩しなかった古代には、水ほど人の生活力に大いなる障害をあたえるものはなかった。氾濫の不愉快をさけるためには、人は所詮「朝日の直指す国、夕日の照る国」を選ばねばならなかった。しかも日本人は最初から稲を栽培する民族である。神を祭るに必要となるミキ(お酒)とミケ(米などの食料)を始めとし出来る限りは自分も米の飯と酒とをたべた故に、必ず水田の近きに邑落を作ることを要した。語を換えて言わば、能ふ限りの水の害を避けて、能ふ限り水の利に就くには、近く平野に臨める丘陵の傾斜地、即ち片平の地をもとめねばならなかったのである。・・さらに軍事上の理由が片平を重要ならしめた。平日の薪とりが十分で、ことあらば駆け登るべき険阻の要害山にもちかく、家人郎党を養うだけの田園があって、籠城の兵糧も集めやすく遠見と駆引きとに都合よい山城は、また片平平山に限ったのである。柳田國男/地名考説」

この和爾のすぐ北側に長い丘陵が東の山から流れてつながって、そこと和爾は平地にたいしてU字でつながっている。丘陵の先に帯解寺とすこし赤面しそうな寺がある。このオビトケの地名は帯のような峠だという。色気もない見解だ。
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帯解と和爾の集落のある丘は古代の不動産屋さんのような説明をする柳田國男の指摘する、片平どころか両平の集落好適地になる。そして和爾の神は、東大寺・お水取りで読み上げられる神名帳の筆頭の神名だ。土地神の威力は東大寺にも春日大社にもおよんで、すさまじものが感じられる。ここの地力、生産性は新参の豪族たちの垂涎の場所であったのだろう。和爾の集落から東の山へ入った場所に正暦寺があって、ここに日本酒発祥の伝承がある。コメもサケもある場所だ。
ちいさな丘の古い集落と一番の高台にある古墳とそれをまもる神社。古代の居住の場所と神社仏閣のある日当たりのよい、水のある丘、けっこうどこにもあったようで、これから新しい場所を尋ねるとき、どこかで見た、なにか感じた場所にここがなりそうだ。歴史の景観の私のスタンダードになりそうだ。
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もっと古代の人々が見つけた生活の場所を東山中の神々訪問にして、新しいルートを地図上でウロウロ探していると、山中の南東のもう端って場所に春日の地名をみつけた。神社マークもある。行かなくてもそこの神様は判るってものだけど、やはり、行こう!。

その春日の集落の北に、西波多の地名があるのを見つけた。大和朝廷の創設神話に神武天皇は九州から大和へむかう話があるのだけど、その神話のルートに、ワタ、ハタ、ワダ、アマ、ユラ、アカシ、タルミ、アズミが点在しているという研究があって、ハタといえば秦氏が著名だが、その古代の一族でなくて、ハタはパタで古い朝鮮半島や北九州の言葉で「海」のことだという。焼畑の技術もってこの日本へ海を渡ってきた人々の痕跡が、ハタに代表される地名で、いまにのこされた証拠だと。彼らは弥生人より古いと。瀬戸内にも熊野にもこの地名が列をなしてある。では、ここの地名にある西波多の神社の神は、何方でおわしますか?。グーグル地図ではこのあたりは道だけの表示なので名はわからないのです。後日、たずねてみました。なんと、春日の神でした。でも、こころもち、赤色のすくない神社だったな!
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いくつもの神々がここでは幾層かに重なってあってあって、ところどころで、古い地層から古い神が顔をみせているような、そのグラデーションが「近代文明の強さ」に覆いかぶされていない、「毒されて」いないと、感じさせる。
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by forumhiroshima | 2012-02-15 12:25

都祁というところ

東大寺のお水取りの関連を走っている。約1300年の途切れない連続が、なにかひきつける。その秘密は奈良盆地の東の切り立った標高500mから600mのきりたった斜面「東山」を東南へ斜行する峠道からいっきに下った「山中」のいくつもの伝承にありそうだと、ねらいをつけてる。

その斜行する峠道の中で、天理市の中央から山中へ登る行程で途中に出来た天理ダムの堰堤をこえるコースへ走った。平地から登りにあたる場所のすこし南に石上神社がある場所。そこに布留川が西に流れていて、その河畔にふるい木造のあけっぴろげの店内におおきなオデン鍋と、揚げたてのテンプラをつくる鍋が鎮座する鍋ばかりおおきな、ちいさな食堂がある。一度訪れてから、なんとかまた!と強くおもっているんです。
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そんなことは、さておき、「石上布留の早田・サワタを秀でずとも、縄だに延へよ守りつつ居やむ  万葉集7巻。・・早田は湿田に早稲・ワセを植える実際の反映であろう。・・石上神社拝殿の背後、斧も入ったこともなさそうな森の後には今はコンクリートの3,40cmほどの水路がとりまいて、川に向かう棚田を潤いしているが、これもかってはその地に湧くだけの水を用いる天水田・テンスイダであったであろう。・・・水路ぞいに森にむかって1mほど掘り下げた湧水がある。・・川にむかって開かれたゆるやかな沢田へ水が引かれていたのであろう。このような沢田を弥生時代の水田であるとおもう。 古島敏雄/土地に刻まれた歴史」

この景色はダムが作られ古道のそばに平行して建設用の道路がつくられ、すっかり「沢田」なる景色はなくなっている。この土地に海を渡ってきて、だいじにかかえてきた壺から米の種をつかみ出して、泉からの流水でしめった地面に撒いた人々の痕跡はみあたらないけど、この森の中に、注連縄でかこまれた結界があって、そこが石上の神の降臨するところと、いまも守られている。石上布留神社には本殿はいまもない。
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古道を登れば自動車に気遣うこともなく、ダム堰堤にたどりつける。堰堤へおおきく迂回してダム湖畔で3つに分岐して、それぞれ「東山」トップを道を引っかくようにして越える。そのひとつが尾根筋を南にトラバースしてひろい平地に入る。そこが都祁・ツゲとよばれる。
ツゲの名から、漫画家のつげ義春を思い出していた。わたし、“ガロ”世代なんです。リアリズムの旅、なんか読み直したいです。これもさておき、都祁に向かって尾根のトラバースしてきた道が広い平地から南へぬける道との交差点が地図では高塚とある。高く、塚ですから積み上げた場所って意味かと、古墳みたいなもの探して見回したのだが、当然わかりません。なら見るな!。平地へ入ると左手に森がみえます。そこへむかう。都祁水分神社・ツゲミクマリ。
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ミクマリは水配り・ミクバリ、だといわれる。「大和はいわゆる青垣山の傾斜面に、ほどよく分配せられた八箇所の水分神社なども・・田水配分の信仰を、思い浮かべることが出来るであろう。・・水を豊かに分かち与えたまう神を、年毎に祭り続けていくことが、全国普通の例であった。 柳田國男/海上の道」豊富な水が供給されれば、水争いなどは起こらない。神様たくさん水ください!って神社が水分神社ってこと、多すぎてもこまります、と都合のいいお願いをするってこともあっただろう。

長い参道とひろい境内が杉の森の中にあって、聖武天皇がここに400名もひきつれて行幸されたと、教育委員会のりっぱな案内がデーンとある。由緒正しい森閑とした神の降臨の場所。とても、とても百姓たちの水争いの仲介をされるようには思えない。拝殿の横の壁面に表示のカンバンがかかっている。そこには、この神社は此処より南の場所から移されたものとあった。
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そこはこの神社から真南の谷がせばまった尾根と平地の際にある。都祁山口神社とよばれる。山口神社は、大和にはいくつもある。この神社の平安時代の祝詞がのこされて、その祝詞を分析されている。「神々のいられる山々から下し落とされる水を、田畑がありがたくお受けさせていただき、われわれが稲を天候にまどわされることなく稔らせる幸いをお与えください。とか、宮殿の建設用材を切り出す山の口に祭られる。とも  青木紀元/祝詞全評釈」宮殿建設の促進と、稲による納税促進の神様みたいだ。祝詞は天皇・貴族の専任事項だったのだろうから。

「社殿の奥はため池になっていて、田に安定した水の供給をはかっているようである。ここから流れ出る水の音をききながら、社頭にたつと、なだらかな谷、田の眺望がわずか俯瞰気味にひらける。この景色は“古い土着の名残を留めた昔懐かしい景色”、 樋口忠彦/日本の景観」都祁山口神社からすぐ前の田の中に、一本の立ち木がのこされて、その足元にちいさな鳥居と祠がみえる。
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宮本常一が広島県芸北・八幡村について「石見の那賀郡の狩人がこのあたりにやってきて、試みに籾をまいておいてその冬やってきてみると立派に実っていた。これは稲をつくる人も住めるといって、家をたてて住んだ。その最初に籾をまいたところをサビラキ田といった。 宮本常一/中国山地民俗採訪録」
この話を田の中の鳥居をみて、思い出した。芸北ではそこに枝垂桜がうえてあった。

都祁から南の長谷方面に。先ほど通過した高塚をすぎると、道沿いに急流があらわれた。これだけの強い流れなら、すぐに上流を浸蝕する。都祁山口神社は北の木津川へ入る布目川のひとつの源流。そして現れた急流は南へながれ大和川に入る。
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急流が都祁の平地に浸蝕すれば、都祁の北側の集落ての流れがなくなる。溺れ谷になる。そこで古代人は高塚というダムを作った。水をためるのでなく、流れを阻止する堤だ。そのとき都祁水分神社は平地中央の小山に移転したのだ。水分神社は分水嶺の神社なのだ。と、妄想しながら、その思いつきに満足しながら、いっきに下りに入った。その堰堤の建設力が東大寺には必要だったのでは。そして、東大寺1300年の連続のお水取りより、稲作の田園風景が、もっともっと古くて、連続している、と。
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by forumhiroshima | 2012-02-13 11:00

東大寺 松明調進

東大寺のお水取りは1300年ちかく連続して行なわれている、そこで燃やされる松明を760年以上もつづけて調進している集落が三重県名張市の西にある。住所は赤目町一ノ井。そこにある極楽寺で毎年2月11日に松明の薪をつくる。

名張は古代近畿という地域が定められたとき、東の境としてその名をあげられている。ここまでが東の「畿内」だと。名張の張は墾と書かれる。開拓地を示す地名。そのころの開拓地だったのだろう。
自分が、西宮に越してきたとき、畿内という地域をすべて走れるくらいの体力が欲しいとおもっていた。畿内の西端の明石はすでに訪ねていた。もちろん古代飛鳥時代の話だから、推計でしかないのだけど。ここで二箇所目になる。名張は遠かった。まだまだ、身体は、出来ていない。
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自転車で距離を走ろうか!って思ったとき、なんといっても決断できる強いなにか?がいる。動機はイベント参加でもなんでもいいのだけど、自分にとっては、松明調進を走って見たい、が遠いと思う名張へ走る動機になった。

昼前についた名張の町は、土曜日だというのに、シャーターがほとんどの店で閉まった町並みで、其の景色に「すごみ」まで感じた。もちろん食堂も見つからなくて、町外れのおおきなショッピングセンターのマックへ。

マックから奈良方面へ引き返して、古代の名墾の推定地といわれる中村へ。このあたりは四つの川の合流地点で、古代大変な氾濫原野だったろう。近畿の西端の役所とされた明石も川のそばの住吉神社だった。騎馬民族の後裔たちだと考える大和朝廷は、馬では渡川にこまって、川岸が印象深かっつたのかも、ね。中村は平野につきでた丘に小さくかたまって家々があった。中央にお寺と神社がならんで鎮座している。古代名張・横河には役所があったという。ここかな?
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東大寺のお水取りだけど、「取る」は「採る」だろうし、水なら「汲む」だろうに、なんてしょうもないこと思ってる。その修二会のクライマックスの大きな松明の竹は、「修二会に使用します竹は・・孟宗竹でなく全部真竹を使用します。信者さんたちの御寄進によってまかなっています。 街道をゆく/奈良散歩」今年の竹は滋賀県長浜市からだそうだ。長浜のキャリヤは、まだ二年目。
760年以上とも言われる名張からの、東大寺へ御寄進される松明の薪は檜で、その檜を地域の松明山から切り出して、薪の加工する2月11日にその加工場となっている赤目町一ノ井の極楽寺は、中村の集落隣の微高地にある集落の一番奥まった高台にあった。寺周囲は、広々とした空の下に広がる田、光っている眼前の川面のうえにも、ヒバリの鳴き声が広がっていた。
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薪作りのみなさんはハッピ姿。名張高校サッカー部のジャージもまざっている。昼ちょっと前の時間だが、すごく濃い時間におおわれて、昼飯どころではない様子。作業をとるアマティア写真家にも、訪れていたテレビのカメラにも皆さん気遣う反応はない。そこで、自分も狭い境内を勝手にウロウロ。
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調進の薪がこうなります。
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お寺から北側の尾根の中腹に民家がみえる。そこを登って尾根を越える峠から、ほとんど一直線に東大寺の南へむかうルートが松明調進のルートだと、この神事をサポートしている名張の青年会議所のHPに掲載されていた。あのシャターの閉まった商店街の構成員もおられるだろうか、この調進をサポートされている。力がある会議所だろう。
松明調進にこの徒歩で運ぶことは現在は峠越えまでで、ルートとは外れて、峠からバスで東大寺に3月12日にむかっている。それでも760年以上のご寄進に、お水取りのおこなわれる二月堂の堂内にこの一ノ井の皆さんが坐る場所がやはり昔と同じように今も用意されているという。
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このルートを自転車で走ってみる。峠の笠間には細い車道がのびているが、途中から峠手前の2kmで山道に入り、自転車のカツギになる。この旧道は黒田峠と表示された案内があった。車道の峠は地図では笠間峠県道781だそうだ。これを越して、奈良で言われる奈良盆地東の笠置高原「東山中」をぬける。アップダウンの繰り返すルートで、旧道、古道から広域農道や県道混在。このコース取りは青年会議所のHPの地図を地図に落とした物で、車道になっていて、現在調進で歩くことは行なわれていないので、違っている場所も多いのだろう、と思っている。コース上で、二車線の車道から、旧道にはいる場所で地図をたしかめて止まっていると、おじいさんに呼ばれた。どこへ?東大寺の松明道をさがしてまして、と、それならと、おじいさん急に地面に地図を書き始めた。わしらはあまり調進を見てないから、はっきりとはいえないけど、と記憶をたどられている様子。地面に示されるルートを見ると、ここから正面の草むらの細道を上っている。おじいさんは路面に書いた地図を修正しておられる。ここに入るのできそうにない。だから、もう聞かなかったことにして、おじいさんの写真そっと取らせてもらった。おじいさんの説明は尾根の向こうまでも続いている。そして、フット振り向かれて、じゃあ、とさっさと行かれた。アレ、そしてその姿が見えなくなって、車道をたどっている自分の地図をトレースした。が、いまもしかあのルートいってれば、よかったか、と反省している。なにか、あったかも!。
おじいさんがこのルートの神様であったとしたら!!!
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その古道のそばに、中世のこの辺りの豪族のお城の表示があった。そこには、二度目に焼け落ちた東大寺の復興にその豪族が協力したことが書いてある。東大寺の事件が、記憶にのこっているのだ。東大寺への信仰が、名張から波のようにコースを覆っている。
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お水取りでは、修行僧をサポートする「童子」が活躍するのだという。
「童子のもとの意味は、むろんこどものことである。・・僧の弟子になりつつも、少年であるため得度剃髪をせず、身の回りの世話などするものを童子とよんだが、しだいに言葉の意味がひろがり、大人になっても剃髪せず、雑用をつとめる者をさすようになった。・・ときに手が足りなくなると“山中”から臨時の童子がよばれる。  街道をゆく/奈良散歩」
きっとあのおじいさんのお父さんは「童子」に違いなかった、だろう。

ちょうど中間地点ほどのところに一台峠がある。静かな旧道の道がそこかしこで白く薄雪を午後になっても残している。杉林にときどき木漏れ日が差し込むがすぐに、消えてしまう。この峠にかかって、自分の身体ほどを持ち上げることにすら息を切らす。昔、名張の赤目の寺から、やく40kgほどの薪を天秤棒で担いで、早朝3時出立という、松明調進が、二月堂でつづく修二会とおなじ歩調の修行と同じにおもえた。東大寺のお水取りは、この地域と東大寺・二月堂が一体になること、に思えた。
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走ってみたい、畿内の境はまだ北と南にのこっているのだ。どうだい、いける?。どうかなーあ。
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by forumhiroshima | 2012-02-12 17:11

鵜の目鷹の目

目をこらして探し物をすることと、説明されるが、「硫黄を採取する場合、その色が黄色くて赤みをおびているものを“鵜の目”とよび、深黄色をしているものを“鷹の目”と呼んだ。なお、青みを帯びた物を“ヒグチ”とよび、 四天王寺の鷹/谷川健一」の解説が納得しやすい。天然の硫黄で水銀と化合したものが、赤色で辰砂として採取される。鉛との化合物が、黄色みがかった赤で鉛丹。

8世紀初頭から中ごろまで、平城京は巨大寺院建設ラッシュであったようで、そのすべてが、青丹よし、と真っ赤にペイントされている。その塗料になる辰砂の量も半端ではないと思えた。どこから、運んできたのだろうか?
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その辰砂の生産地は丹生とよばれる場所もしくは丹生神社のあるところだという。古代の朱/松田壽男。松田氏は全国の丹生神社を歩いて、その場所の土を採取して分析されている。その丹生神社が奈良盆地の東の東山中のど真ん中にあった。ここも古代朱生産地として松田氏のリストに入っている。そこへ。
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奈良から峠越えで日笠の集落をぬけその東の沓掛から南への水間峠越えを走った。沓掛の地名は長野県だけでも4,50箇所あるそうで、関東方面の地名に思っていたから、奈良のこの地名を、ぜひ一度走りたかった。沓掛は「いまは賑やかな町になっていても、昔はさびしいところの地名です。たとえば4キロも5キロも続く曠野の入口とか、大きな川の岸で集落のないところとか、・・・宿場と宿場との間がおおきな場合にその中間的な小さな休み場所がないと、体をこわしたとか、馬の食料がなくなったとか、長雨にであったとき、中継ぎ的な場所がないと用をはたすことができないわけで、・・そこは人家はほんのわずかで、それにいい水が出ているところ、陽あたりのいいところに、この地名がのこっている。 一志茂樹/地名の話」
国道のトンネルの上を抜ける旧道は路面が白く雪にうっすらとおおわれて、自転車を降りてあるくには好都合の言い訳状態だった。地名の話にあるようには長い峠道ではなかったけど、さびしい細い道が続いていた。
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峠を下ると水間の集落の旧道との分岐に入った。地図に神社が記載されている。水間はミマと呼ぶようだけど、ミツマと九州では読まれたりしていて、水の妻、つまり水の妖精のいるところだと、折口信夫は書いている。「いい水がでているところ」かな?と神社の神様を知りたかったが、八幡神社だ。どこにでもある、なんていったらヤバいかもしれないけど、すこし落胆。ミマって発音が軽やかでいいのに。

川沿いの国道をすこし下って、小さな峠へと右折した。下りのカーブをぬけると集落の田畑があらわれ、その手前に、きっと此処だろうとおもった濃い緑の尾根が左から伸びていた。
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その尾根を回ると、きれいな赤の鳥居があって、そばに国宝の表示の石柱がすえられている。国宝だったのは戦前のことで、いまは重要文化財と、石段になっている参道正面に表示されて、かえでの細い枝が幾重にも交差した下を上る石段も拝殿の砂も、いきとどいて掃除されている。その砂をすこし払って、土が赤いかな?なんておもったけど、別に!状態。またそっと砂を広げもとにもどした。本殿は小さな祠で15世紀の建立。鎮座する神様は、罔象女命/ミズハメノミコトとある。アレ!丹生津比売命/ニュウツヒメミコじゃない。のか?。
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長い時間ののち、辰砂の採掘が終わって、ここの生活が農耕になって、ミマとおな
じく水の神様の罔象女命/ミズハメノミコトになった、ときっとこれを歴史学者は解説されるのだろう。
「丹生という地名に、私は前から関心をもっていた。それはお能と関係があるだけでなく、朱沙の産地で、高野山の鎮守でもあるからだ。神主さんに伺うと、この丹生神社も高野とつながりがあり、しかもその高野山はこの近くの神野山を指すという。コウヤサンとよめる。 道/白州正子」この神社に白州正子氏が立ち寄ったときの紀行だ。

ここから、さて、と東へ下るか、白州正子が「社家の裏山へ登ってみると、・・ひと目でそれとわかる神体山があらわれた。・・それは紀州の丹生津比売神社から、高野山を遠望した時の景色によく似ていた。・・正しくそれは自然に託された歴史の形である。あるいは言葉といってもよい。私は不思議な感動におそわれて・・白州正子/道」感動の登りへ入るか?。
地図に水越神社とメモしていたことを見つけた。「水越神社という美しい社があって、 白州正子/道」。そうだ!ここの川くだると、水越神社前、なんだよね。でも奈良の町から遠くなるけど?。でも、とりあえず下るゾ!
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すぐに、下りだから、水越神社が河畔にあらわれた。おおきな杉などの森、この地域の極相林だと表示された奥にふるびた灰色の木目がきれいな拝殿が鎮座されている。ここまでの神社は見事に塗りたてのように、青丹よし、の景色だったのと対照的で、いっそう古風だとおもえた。
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(沓掛)の信州を駆けずり回って発掘した、在野の考古学者/藤森栄一は「私には奈良王朝の仏や寺の背後にあるものがみえだした。生まの朱と緑、あるいは金ぴかの、つくられたばかりの伽藍と、けばけばしい極彩色の壁画や、チンドンやのようにぬりたてられた塑像仏は本当に美しかったのだろうか。われわれの美しいと感じてるエレメントのすべては、本当に当初の造られた精神ではなく、廃頽からくる郷愁の中の美しさではないだろうか。とすると、本物は何だ。そこには、色と形と大きさからくる民衆への威嚇だけが残るのではないか。銅鐸/藤森栄一」
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by forumhiroshima | 2012-02-07 11:37

春日の春日、ハルヒのカスガ

東大寺が建立されたころの地図で、大仏殿の南に四角の囲みが描かれていて「神地」と示されている。いまの春日大社の位置になる。ここが発掘されたことがあって、この囲の上に拝殿ができていることが確認されている。神地はあたらしい拝殿に押さえ込まれたように思える。春日大社の神々は四神。東国から勧請された神々はくわわっている。創建は768年、東大寺の創建に遅れること16年。藤原氏の守護として祭られたという。この「神地」は東に同じく記載されている「御蓋山」を拝するように東面してみえる。現在の大社は南面している。「神地」の主はいまの春日の神とは違ってみえるのだけど。
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東大寺の東の頂きも若草山ともいわれるが、三笠山で、発音はおなじミカサだ。どうしてなんだろうか。

このごろおおきな商業施設の入口に鍵付きの傘立てがなくなって、ビニールの袋が置かれる。建物にはいったときの傘はジャマで持ち歩く不便を感じるけど、出るときに開く傘からくる、どこからか開放感を感じたりする。

傘は柄がある笠だそうだ。日本書紀にスサノオが追放されるとき、笠と蓑をつけたという。
「世に笠・蓑を著け他人(ひと)の屋の内に入るを諱(い)む、又、束草(つかくさ)を負いて他人の家の内に入るを諱む此を犯す者有れば、必ず解除(はらえ)を債(おわ)す、此れ太古(いにしえ)の遺(のこ)れる法(のり)也」
笠をつけたものは、家に入れない。このときのスサノオには、保護される家がなかった。笠と蓑が自分を守るものだった。古代には笠って、どうやらマジカルなものだったようだ。神の存在の証明か?どうか。古墳からでた鏡に笠をたてる家が刻まれている。この家にはだれがきているのだろうか?。神がいるところに笠が立てられるものだろうか。
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釈迦の姿は死後、その姿は表現されなくて、菩提樹にかけられた傘が、その下におられる釈迦を暗示していたと聞いて、その図をさがしてみたが、見つからなかった。東大寺の大仏殿の北に菩提樹があって、花は下向きに咲く。それが、笠にみえるともいうが、釈迦が坐っていた菩提樹はこの菩提樹ではないのだそうだ。
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御蓋山の蓋・ガイはキヌガサのことで、この蓋を重ねると塔・・だそうだ。笠がますますミステリアアスになってゆく。春日と笠を春日山山塊の東に求めてみた。
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「奈良に東には、春日山から高円へかけて、四、五百メートルの連山がつづいている。峠をこえる道は何本も通じているが、その向うは高原盆地で、大和の人々は平野部を“国中”
に対して、“東山中”と呼ぶ。そこの住人も“山中の人”といって区別しており、いくらか古代の山びとといった観念があるらしい。白州正子/春日の春日」

自分のクセみたいなもので、ある地域を走り出すと、とことん地域すべての道をカバーしたくなって、その結果、そこいらの峠にぶちあたる。自転車を押してもいいからと、登り始めては後悔して、そして押している。
この“東山中”へはいるには、奈良盆地からは6つの峠がある。近畿地方では、峠を坂と言ったりして、タオ(峠)とよんでいた中国地方との違いに、どんな坂?とひきよせられる。坂って峠より楽そうなんだ。その結果トボトボと自転車の押しになる。
東山中への峠道のひとつ、名阪国道が天理市街地の北からおおきく円を描きながらのぼってゆく「外輪坂」へむかった。まったくの直線コースで、後半はただただ、ゼーゼー。でも、山中への峠一つ終わった。
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くだりに入ると、いかに高く登ったことかと思った。長いダウンヒルで、寒い。それでも飛ばして、向かったのは、矢田原の春日神社。この近くに春日宮天皇陵がある。ここに埋葬されているといわれる施基皇子の葬儀が行なわれたところにあった神社をここに移転させた、と表示されている。葬儀の場所が後日、神社となるらしい。
矢田原から東へ。日笠という集落へくだる。
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ここに「田原東陵」がある。施基皇子の子息の光仁天皇陵。「笠」が、御陵との関係を考えさす。なにか関連ありそう。「(古代の春日一族)の勢力範囲を明確にしることは不可能だが、東の高原盆地から、春日山・佐保山へかけての広い地域に及んだことは、人名と地名から推察することはできる。白州正子」自分はとても推察できそうにない。春日山を越えてこの辺りまで春日といえば神社や御陵からそうだろうと思えるけど、春日山とこのあたりの間にはあの峠がある。あの峠がねえ。
一括で春日豪族の支配地域ってくくれるのだろうか。そのキーワードが笠なんだろうか?
光仁天皇御陵のそばを白砂川がながれて、この川がやはり笠の笠置で木津川に合流する。笠がここにもある。
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ふるぼけた地図の案内板がぽつんと一軒だけある民家のそばの分岐にあった。川沿いの道は手元の地図では細線。この分岐で川をこすと、上る急勾配とおもえる道が太線の国道につながっている。当然、もう登らない、を選択。これで笠置へいっきの下り。

1kmも進んだろうか、河原そばの道の上に御幣をつけた榊の枝が渡されている。
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「勧請神事」とよばれるものだとおもう。明日香の稲淵や栢森では川にかけられる。境を示していて、魔物退散の結界の標。これも、古代の山人の東山中の一つ、ってことなんだろう。一つの発見!。うれしいかった。
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そこをすぐぎてすぐに、魔物がいました。結界から約1km。道は小さな橋をわたって対岸にないると、カンバン。通行不能、ガケくずれ、だって。引き返して、地図の案内板をコツンと蹴って、登りへ。きっつい!
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春日の春日、ハルヒのカスガ。飛鳥がアスカ。平城はナラ。なにか隠されているようでは、ありませんか!。
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by forumhiroshima | 2012-02-01 19:52


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