こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
カテゴリ
以前の記事
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
フォロー中のブログ
最新のコメント
You ought to..
by parajumper at 15:36
Latin shema..
by williamyb4 at 13:25
louboutin pu..
by christian at 10:00
I blog frequ..
by ray ban ne at 13:12
Heya i'm for..
by canada goo at 09:04
http://silde..
by sildenafil buy at 23:40
Laterget htt..
by oripsojo at 20:23
http://www.g..
by nike roshe at 00:14
http://www.w..
by nike mercu at 11:58
Indelicate ..
by allanjy4 at 08:37
メモ帳

<   2012年 03月 ( 5 )   > この月の画像一覧

d0089494_10145088.jpg
旧道の登りで自分を追い越せない車がブーンと、すこし広くなった場所で追い越していった。こちらは、まるで深海にもぐってしまったように、息苦しいばかりで酸素がほしい。そんなとき、自転車に乗っていた、ある人が、2輪の自転車は転倒するから、安定した4輪に、そしてブレーキングも倍にして、苦しい登りには酸素をエンジンにお渡しして、ガンバ!と、お願いって、考えて作ったにちがいないと、いつも確信するのだ。それに比べて、自転車って、キツイ!もんだ。自転車もタイヤ細くして、抵抗を軽減とか、フレームを軽量化とか、細部にわたって工夫もされたのだけど、車はブーンと、追い抜いてスケジュールどうりに走ってゆく。
 自転車は、ヌタヌタの路面からピカピカの舗装路になるからといって、タイヤを履き替えたりはできない。どこまでも道具でしかない。その道具をなだめすかして転がすと、時代のいちばん後の交通機関であることを知る。そうだけど、そのことが、なぜかうれしい。身体を動かしてたずねる土地の神々とであえる資格をもったように思える。その思いは、人の古代の生活の時間までさかのぼろうとする。

東大寺のお水取りが終わっても、気分の中に、まとわりつくモノがある。松明が二月堂で振られるのを二回もみた。二月堂にこもったお坊さんの祈りもみた。二月堂の格子戸から出した手のひらに“香水”もそそいでもらった。それで十分なのに、まだなにかまとわりつく。ゴリゴリ頭の中を引っ掻かれる、あの感じ。

「お堂のなかでおこなわれる儀式は、すごく音楽的、演劇的に構成されていて、相当できる人間が演出したんだろうという感じですよ。・・そんなお祭りが1200年以上一度も途切れることなく毎年続いていることにも驚いたんですけど、一番印象的だったのは、縄文に通じる土着信仰と、整備されつつあった神道、それから外来の仏教、その三つがキメラのように合体して、そのまま「凍結」されて千何百年も残っているということですね。古代の信仰が野生的なかたちのまま保存されている。・・いろんな要素が複雑に接ぎ木されているんだけど、融合はしていないんですよ。・・上から漆を塗ったり、金箔を貼るようにして。・・坂本龍一。  縄文聖地巡礼/VA中沢新一」

坂本龍一さんがいう“塗りこめられたモノ”が、まとわりつくのです。塗りこめられた縄文の時代が、お水取りの儀式に見えるっておっしゃっている。自転車で走ると感じることのある“土地の神々との出逢いの資格の獲得”が、本物なら、この東大寺で、縄文や古代神道や、奈良の土地に訪れたばかりの仏様たちをば、発見するかも??

自力で走り、のぼる、くだるって作業を、お水取りを始めた実忠和尚の足跡がのこる奈良の東山中、笠置山地にすすめて、お水取りを待っていました。お水取りは実忠和尚が東大寺の東へむかっていき、木津川と出会う位置にある笠置山の正月堂で見た観音浄土の再現だそうで、笠置山の奥の島ヶ原の正月堂がその浄土の位置にあたるのだといいます。この山中の縄文時代からの巨木、土地神が所有する鉱物、銅や水銀、黄金にメッキされた大仏をみがく酸は梅や山桃から、山中の柳生や月ヶ瀬には梅林や楊(ヤマモモ)があったといい、そのみがく道具の布は鹿の皮だと。それらすべてと人々が東大寺建設へむけられたのでしょう。笠置山地では、木津川にでる道は笠置の集落へすべて集まります。そこから物資を川へ流して、加茂から陸揚げして奈良坂をこえると、東大寺です。奈良坂は楽勝な坂道ですよ。時代はその後、東大寺の補修や再建の際に東大寺の物資調達のエリアである、板蝿杣が東へ広げられ、そこからの物資は笠置の東の島ヶ原へ集まります。あとはおなじく、加茂から奈良坂へのルートです。
笠置山地を走り回って、感じる東大寺建設の息吹を感じることはたのしいものでした。柳生の里は剣豪の里ですが、古代の楊/ヤマモモの里であったからでは?楊はヤナギって読めますよね。なんてこと空想したりして。が、坂本龍一のいう“塗りこめられたモノ”は、姿をあらわしませんね。まあ、当然といえば当然で、感性も知性もその能力が桁違いにちがっているのですから。でも、お水取りの儀式で、目の前に縄文の景色が繰り広げられているのなら、それを判りたいです。

こんな文章にであいました。
「参籠とは、身体と魂との関係を逆転させ、身体の重みを次第に取り除き、魂のはたらきを旺盛ならしめようとする祭式である。一般に寝たとき夢や幻が訪れるのも、体を水平によこたえる結果、身体の重みが最小限になることと関係するはずである。そして参籠生活はむしろそのような状態を恒常化しようとするもので、したがってそれは夢幻をよびよせるのにこよなく適した心的状態であったといえる。この最小限という条件を逸してはなるまい。もし眠りやtranceにおいて身体の重みになってしまうなら、人はふたたび目覚めることができず、つまり死ぬことになる。眠りやtranceの状態が死とちがうのは、世界や現実との接触がなお失われずに保たれていることにあり、一方、それが覚醒や昼間の時間とちがうのは、その接触が最小限にしか保たれていない点にある。・・つまり祭式的にそのようなtranceの状態に入って他界を訪れ、そしてふたたびこの世にもどってきた、という夢幻を見ることがまさに修行のしるし、いいかえれば、身にあらたかな験のついたしるしであったのだ。他界への旅は死であり、帰還は文字どうりヨミガエリ、蘇生を意味した。」
「まるで見てきたような話が、たんなる観念でもって作られるはずがない。祭式的“頓死”という夢幻においてではあるけど、とにかくそれが“見てきた”話、古代人のそういった経験にもとづくところの話であることは、間違いあるまい。」西郷信綱/古代人と夢。

さきほど追い抜いた車に下りで追いつきました。ガードレールのないくねった古道は、車ではね!追い抜いて、フリーランです。右左とペダルを踏みかえるだけ。きっとすっごく自己満足な高速??ダウンヒル。でも、これって、どこか“tranceの状態”になってませんか。怖ろしくて、覚醒してるけど、夢見てる!。実忠和尚の夢幻とは比べられないけど、同じ時間がそこにあるような。もしかして、これって!○○、坂本教授!
[PR]
by forumhiroshima | 2012-03-31 10:15

古代からの道

霊亀元年/715年 6月10日大倭国都祁山ノ道ヲ開ク「続日本紀」 コノ道ハ今ノ櫟本ヨリ福住ニ達スル路ナルベシ「大和志料」
d0089494_13515344.jpg

大阪の河内から法隆寺を通り、東で直行する“北ノ横大路”が奈良盆地の東の山中にある都祁へ向かう道として官営とされた記事だ。この道は都祁村の小倉から室生村上笠間をとおり深野にぬけて、東大寺の領地であった板蝿杣という森林の南の境界ともなって、名張へ下る。伊勢神宮の斎宮となった女性たちの道、“斎宮登大道”にもなっている。東大寺のお水取りに使う松明を古代から調進する名張の人々のルートとも重なっている。古代から続く道だといえる。
d0089494_13514233.jpg

聖武天皇が、関東行幸を始めた740年に奈良・平城京から都祁村にあったという堀越頓宮に着いた記事では10月29日。その翌日に名張に入っている。総勢400名とも記録にあるご一行は約20kmを一日の行程としている。天皇は輿に担がれての移動であったろう。輿を担ぐ人々はその仕事に定められた人々であったようで、時代は下って1336年に京都を脱出し比叡山に登った後醍醐天皇の輿を担いだ人々の記憶があって、彼らは歴代の天皇の葬送の棺を担ぐひとびとでもあった。この人々は現在、八瀬童子会として組織されており、大正天皇の葬送にあたっても棺を担いだのだが、昭和天皇の葬送には、彼らは代表者のみの参加となったという。彼らは古代の比叡山の杣人であるという。奈良の聖武天皇の輿もこの東大寺の板蝿杣の杣人が担いだのであろうか。松明調進のルートに杣ノ川という集落がある。

都祁山ノ道は、都祁から南へのルートは今も松明調進の道であるとか伊勢街道であるとかと、表示も立ててあったりして、わかりやすい。都祁山ノ道は櫟本から福住といまもある集落をつなげているのだから、そのルートは決まっているように思っていたのだけど、都祁山口神社は、櫟本より南の天理の石上神社のそばにあることがややこしい。都祁にも都祁山口神社がある。杣人が山での作業の際に行なうのが“山口祭”だという。石上から都祁へのルートも福住を経由する。715年ごろ、この山々は巨木に覆われて、平城京の巨大建築物の資材を生み出していた。板蝿杣は板が生える森という意味に思える。
古代の街道と現代の高速道路はよく重なっているといわれる。古代の官道は直線をその設計思想としていて、その工事は巨大で大規模なものであったようだ。しだいに忘れられ、現代の高速道路としてルートが復活している。この古代“都祁山ノ道”と名阪国道とが重なっているとしたら、石上でなくて天理からのルートが都祁山ノ道となる。このルートには二つのルートがある。天理のすこし北の虚空蔵から山に取り付くルートとその南の岩屋をとおるルート。
さて、どれが、古代の“都祁山ノ道”であろうか?   ヒマなもんで、全部走ってみる。

走ってわかるのか?
古代よりもっともっと古く、この地球という惑星の海から陸へ上陸する生物たちが生まれてきた。その中に我々の祖先から五億年もかけて今の人間につながる生物もいた。その生物は自らの生命を維持するために、獲物をもとめて動かなくてはいけない。そして動くために働かせる筋肉などの運動機関を働かせる、エネルギーの燃焼はどうしても必要になる。そのうえこの燃焼をうまくすすめるために、団扇の手を休めることなく、あたらしい空気(酸素)を送り、けむり(炭酸ガス)を追い出す、自分のいのちのカマドにしっかりと息をさせてやらねばならない。このようなガス交換は下等な動物では個々の細胞がおのおの行なっているが、身体の構造がいりくんでくると、ひとつの秩序をもった動きが要求されてくる。それはまず口からすいこまれた酸素が、特定の身体の壁を通して血液に吸収され、そこから身体に運ばれる二段ロケット方式になっている。この特定の壁は魚では口からはいったすぐの大広間(エラあな)であるが、陸上にあがって空気を吸い込むようになると、エラはたちまち役立たなくなって、エラあなはつぶれてしまう。そのかわり一対の風船があらわれ、すいこまれた空気は漏れることなく風船をふくらませ、こんどはこの壁でガス交換がおこなわれる。
呼吸の場がエラから肺へ移ったとき、エラを動かしていた筋肉はバラバラに開散して、そのかわりこれまで呼吸とはなんの関係もなかった「胸の筋肉」が肺をうごかす筋肉として登場する。エラの筋肉は「内臓筋」とか「植物性筋肉」とよばれ、呼吸―循環―排出という流れ作業をおこなう。この筋肉の運動はのろいが、しかし疲れることをまったくしらない。心臓や血管、腸管、さらに膀胱や子宮壁の筋肉がこの仲間である。いっぽう肺呼吸を行なう筋肉は「骨格筋」とか「動物性筋肉」とか呼ばれ、その運動はすばやいが、しかしはなはだ疲れやすいものである。たえず休息を必要とする五体の筋肉とおなじものである。
水中で泳ぐことだけに専念してきた筋肉が、陸上では「肺の運動」すなわち「息の役目」まで引き受けねばならぬはめとなった。空中でははるかに水中より息がしやすいとはいえ、しかしそれは、心臓のような休みのない働きが要求されるもので、まして疲れやすいこの筋肉にとっては、およそ片手間にできる仕事ではない。つまり身体を動かす動作と呼吸とかけっして両立しえないもので、呼吸に専念しているときは、動作はすきだらけになっている。われわれが“一息つく”のはひとつの動作からつぎの動作へ移るその「間」だけにかぎられる。「動作」と「呼吸」とのリズム、つまり息があわなければ、「間」ちがいになってしまう。「間」があわなければ、「動作」か「呼吸」かにどちらかに合わせようとする。文字どおり“「間」にあわせ”るのである。  海・呼吸・古代形象/三木成夫。

都祁山ノ道を探して走っていると、岩屋から大きく左へターンして米谷の小さな集落をぬけていると、なんだかペダルが軽い。フッフと進んで、速くなったもんだ?なんて感じる。坂の登りであっても自転車の慣性モーメントは幾分かのこっているもので、ペダルを止めてもすぐには、自転車は止まらない。そのモーメントの減少カーブと、虚弱ではあってもペダリングのトルクのカーブとの呼吸「間」があうことがある。それは古道が人や牛に踏みしめられて出来た動く物に優しい斜度や曲面であったりすることからではないだろうか。杣人たちが輿を担いだ道は岩屋の道としよう。石上のダムコースにも虚空蔵の集落のコースにも、「間」は現れなかった、と、おもった。
d0089494_13522039.jpg

古道のヒルクライムは、歴史を重ねた厚い時間の蓄積と、たえだえのわたしの心肺との、「間ごころ」の交流なんですね。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-03-25 13:52

化粧

三輪神社のある桜井から初瀬川(三輪川)をさかのぼると、初瀬の手前で北からの支流・白河川・シラガカワとの合流点にであう。白河川をさかのぼると分岐があってそこを左に入ると、頭上の向こうの奥の斜面に鎮守の森がみえて、そこに秉田・ヒキタ神社があった。見上げる場所だ。この神社は三輪山山頂の真東に鎮座するという。(ヤマト 古代祭祀の謎/小川光三)HPのカシミールの地図みてみると、まさに、同じ北緯のラインにある。
d0089494_1011917.jpg

その神社は訪れる人は、まれだろうといった風情、集落とも離れている。神社の拝殿のよこに、引田部赤猪子の話がチラシにして、置いてあった。作者はこの神社の宮司と書かれていた。
雄略天皇が三輪川で洗濯していた引田部赤猪子・ヒキタベ・アカイコという美人に会い、“ちかいうちに宮中に召し上げてやる”といってその場を去った。赤猪子はいわれたとおりに待っていて80年がすぎた。赤猪子は“私はもう痩せしぼんでしまった。もはやお召しの希望もなくなった。しかし、それでは気がすまない”と宮中に参上した。天皇は約束をわすれていたことに気付いて、代わりに歌を詠んだ。この話が古事記にある。この赤猪子は三輪川の水神の巫女で、神の妻として、貞操を守ったことを讃えたという話だと解説されている。(黛弘道/古代人の謎)
水神の巫女の神社といわれても、そばには水の流れはない。背景の山中が初瀬川の一つの源流だろうけど。そこから離れ、初瀬川にむいてくだり、長谷寺の門前町の通りにはいった。「ふつう門前町はお寺に直接みちびいてくれるが、ここだけはちょっと違う。いったん与喜天満宮につきあたり、そこから左折して山門にいたる。・・天満宮は元からの天神と“天神様”の菅原道真信仰が結びついた・・この地はよき地よき山との瀧蔵権現(長谷寺から数キロさかのぼった瀧蔵にある)のお告げがあり、菅公に贈られたという。・・長谷寺の裏山から巻向、竜王へかけての全体を“初瀬山”と呼ぶ。・・一口に“初瀬”といっても、その歴史がこみあっているように、奥行は想像もつかぬほど広いのである。・・ 白州正子/こくもり 泊瀬」
「天満宮の石段の途中を右へ曲がると“化粧坂”という峠があり、登ってゆくと、与喜浦に出る。ここが初瀬から伊勢へ通じる古い街道で、峠の手前に雲をつくような巨巌がそびえて、泊瀬の斎宮跡と伝えている。・・倭姫はここに八年籠った後、伊勢へ向かわれた。白州正子/こくもり 泊瀬」「化粧・ケハイというのは大祭の日の舞女を意味する。化粧は普通の女は滅多にもしなかったのである。其の化粧すなわち白粉を塗り紅をつける女性の給興のために特に一区画の神田があったのであって、いかに昔は化粧が大切であったかが知れる。女郎免・傾城屋敷などというと人はすぐに艶かしい伝説を想像したがるが、これも本来はまた神に仕えて舞う女性の名であった。柳田國男/地名の研究」
d0089494_1023086.jpg

d0089494_1025749.jpg

d0089494_1035276.jpg

“奥行は想像もつかぬほど広い”といわれる初瀬の山へ、ゆらゆらと登る。広い車道がダム湖へのぼっていくだけの道。つまらん!!。ダムの湖畔に新しい鳥居をみつけた。寄り道!!ダム湖にしずんだ祠が移転されている。天落神社と鳥居にあった。「大嵐があって、神の岩座が転落し、その留まったところ、泊ったところが“泊瀬”と呼ばれたのであろう。白州正子」とかかれるころがった岩座はダムの底に鎮座している。そのミニチアが御神体として祭られている。移すは“写す”ともいうから、これがいまは御神体なのだろう。などと、いっても納得できない気分がひろがる。
d0089494_1043241.jpg

ダムをつめると旧道がでてきて、そのにはふるい石碑などがみえる。ここはきっとすごいマジカルな道だったのだろう、とおもう。長谷参りは瀧蔵参りをくわえて、ご利益があることになっていたのだという。ここを行き交った人は多かっただろう。
広い車道の横にとぎれながらある旧道の先の尾根に瓦屋根の祠が見えた。そこにはセメント舗装の急坂があって、その祠は鳥居地蔵とかかれて石のおじぞうさまが鎮座している。その奥に尾根をたどる道が暗がりにみえる。
d0089494_105498.jpg

d0089494_1052263.jpg

これをつめる道が瀧蔵権現の参道になっている。自転車はカツギになる。一間幅のよく踏まれた道で、ところどころに塚や観音の説明板もおかれた、信仰の道。繁みをぬけると瀧蔵神社にでた。彩色された本殿はあたらしい。先年遷宮があったようだ。奈良東山中のお宮はどこも彩色されている。
d0089494_1054534.jpg

いきなり「ゴーン」と鐘が聞こえた。ひとり参拝の人がそのあと現れた。鐘楼から初瀬の山の尾根道へむかうまえにすこし下って、小夫・オウブという集落にある天神へむかった。ここが大来皇女・オオクニヒメミコの斎宮跡だといわれる。天神の境内そばに“化粧淵”というカンバンを見つけた。矢印があってそこをたどると、薄雪がまだ解けずにシロジロとしている開拓地にはいって、ちいさな流れにいきついた。田んぼの横のどよみに結界の注連縄と、化粧淵のカンバンがすこし傾いてたっていた。
d0089494_1062196.jpg

d0089494_10765.jpg

川沿いに細い農道をくだり、また瀧蔵神社のある尾根にとりついた。
ここから初瀬の山々へむかう。新しい標識に「伊勢街道」とある。
d0089494_1075271.jpg

この街道は松坂市の斎宮へむかったという。斎宮の跡と、与喜天満宮のある与喜山とが北緯34.32の同じ緯度にあるという(小川光三,こんなこと調べるのはこの人しかいない)。斎宮伝説はみな東向・日出の方むきのようだ。
d0089494_1084628.jpg


この伊勢街道をたどると、お地蔵様の見守る道を行き、都祁の葛神社で平地にでるが、初瀬の山中の集落を回る道をとった。
d0089494_10101269.jpg

d0089494_10103766.jpg

d0089494_10104854.jpg

集落はある高さに家々が並ぶようにかたまっていて、神社はその入口、出口にある。道は杉の森の中の暗がりから集落にはいるといっきに明るくなって、ひろい展望がまっている。雲がながれ、光は風に混ぜかえされる。禊を終え、川の流れからあがった斎宮は、光の中で、神に舞うという、舞台がそこにあった。
d0089494_1093763.jpg

d0089494_10114583.jpg

山を詰めてゆくと道は細く荒れてきて、路面に枯れた杉の小枝がひろがる。交差した道は、もう自分の位置を教えてはくれない。道はほとんど地図にはないのだから。すすむには「神頼み」しかない。エィ!いってしまえ。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-03-14 10:12

都祁の神の道

都祁は日本書紀では闘鶏と書かれて、同じくツゲと読み、またトキとも読むのだそうです。「古事記に“兔寸河・トキカワの西に、一つ大樹があった。その樹の影は朝日があたれば淡路島にいたり、夕日には高安山(生駒連山)にとどく”とあって、その樹は今の堺の南の高石市の等之伎・トノキ神社にあった大樹だろうといわれる“このトキは都祁とも、また刀我とも、また鬨ともかかれ、大和岩雄/神々の考古学」「このトキが古代朝鮮語では日の出の意味であり、韓国の古典の“三国遺事”には“迎日・都祁”と書かれている。・・“三国史記”に、(韓国)迎日県・浦項は海をひかえた港で、・・日の出る聖処だと書かれている。大和岩雄」この迎日・トキは今の慶尚北道 迎日郡のことで、どうやら、古代韓国、この場合は新羅ってことなんでしょうが、トキは日の出を示すこと、のようですね。都祁は闘鶏、刀我、兔寸でも、鬨でもあるって、どうしてなのか?です。でも、どうやら、全部が、ニワトリの“鬨・トキの声”日の出のことらしい。古代の都祁の人々は、時刻の決め方や太陽の動きを知っていた、と説明される。

その都祁にまた、また訪問です。先日神様が雄神神社と国津神社の間を往来する足跡が田んぼに残っているって聞いて、この目で、確かめたくて、訪問した。雄神神社と白石国津神社の間に「ヤスンバ」という茂みが直線に三ケ所あって、そこを移動する神様が休むといいます。
d0089494_9565585.jpg

四、五十メートルほどの距離で茂みがあり、えらくたびたび、お休みになる神様だとおもいますね。またその先に斜めに神社の鳥居あたりへの方向に二ヶ所の茂みがあって、道しるべみたい。直線のラインは春先の苗床つくりの時期にこの線上に太陽が上がるという伝承です。
d0089494_9574961.jpg

d0089494_958390.jpg

古代の都祁人は「日の出の鬨の声」を知る人々らしいですが、白石国津神社は、じつはそのラインにそっぽを向いています。「ヤスンバ」ラインは東から伸びてますが、神社は南面しています。「ヤスンバ」ラインは境内では横にあるトイレにぶつかります。これって、いいのですかね?白石国津神社の白石はここに白い石があったことからといいますが、一抱えの石がたしかに神様ラインにすこしはずれてますが、ころっと置いてあります。
d0089494_9582447.jpg

本殿のよこに自然石の標柱があって、三つの神様の名が刻まれていて、このうちどれかが、神様ラインを示す神様だったのでは?なんて、思ってしまうほど「ヤスンバ」ラインとははなれた感じの境内の有り様です。
d0089494_9584393.jpg

白石国津神社は、10世紀の半ばに南にある南之庄国津神社から分祀されたそうで、遅れてきた神様だそうです。雄神神社の神様はスサノオって説明されています。(日本の神々4)白石国津神社のそばに八坂神社がありました。そこはもちろんスサノオですね。「ヤスンバ」ライン、この八坂神社へ行くつもりが、間違ってしまったのですかね。
ぐるぐる、この一帯を回っていると、だんだんと田んぼの中の「ヤスンバ」茂みがくっきりと眼に浮かび上がってきました。すごい神様の道というステージに見える。今年の寒さで長野・諏訪湖にひさしぶりの御神渡りがあったそうです。その御神渡りが年中いつもここでは見れるってことです。
d0089494_9591778.jpg

都祁にもう一つの神の道があるのです。都祁の中央に都祁水分神社があって、この神社は南の都祁山口神社の場所にあったのが、ここに遷されたといい、祭礼にこの神様が山口神社へ往復するといいます(大和路散歩)。
d0089494_1015260.jpg

都祁って神様が移動される所ですね。
d0089494_1002816.jpg

この神の道を走りました。都祁水分神社の参道を真直ぐにすすんで、並松池で右へはいって、そのまま小学校の横をぬ、裏側のグランドのそばをのぼって、尾根道へ。これってガイドブックがあってもわかりづらいルート。また、ここからすごいブッシュで、カヤとイバラの道でした。自転車を、ひこずって、ゴリゴリ。これは、正しいルートかいな?どうかいな?とおもっていると、ぶんぶんと、車が走っている車道の上にかけられた、カヤの茂みの向こうに陸橋を発見!間違いなくここは「道」でした。ルートはこれでOK!のはずですが、橋はサビだらけ。渡っても大丈夫??。
d0089494_1004834.jpg

そこからは幾分か茂みがすくなくなって、足裏の感覚はたしかに硬い路面です。すこし手入れもしてあって、だんだんと林間の道になって、ポンと、古道の舗装路にでました。そこから、もう三度目の都祁山口神社へは、小さな車道を左へ、です。

この車道への出口を右へゆくと、葛神社へ。どちらかというと、葛神社への道が直線です。古代の道ってこれまでの経験からすると、ストレートなんです。葛神社の神様は出雲武雄・スサノオです。山口神社はスサノオの子供のオオキニヌシ。どちらも水があふれるように流れている境内に鎮座していますが、どちらに都祁・水分の神様はお尋ねになったのでしょうか、なんて、記録では山口神社への道ですが、そう思いつくほど、自然に葛神社にでます。出雲・大東町にも葛を頭にまいてスサノオが踊ったと風土記に書かれる神社がありました。ここ都祁でもスサノオは葛を冠にして踊ったようです。出雲では、スサノオは新羅からきた神様でした。
d0089494_1011452.jpg

d0089494_1012716.jpg

この神の道の祭事を伝えてきた人々の歴史に、「この人々は古く来迎寺を墓寺とし都祁水分神社に参拝して祭礼を壮行した。・・北氏もこの人々の中にみられるが、北氏は中世には都祁郷の武士の小山戸氏の末裔にあたり、古代豪族の都祁氏の流れをくむ。1338年に北畠氏より「北」の字を拝領して「北氏」を名乗ったとされ、・・星野直哉/中世都祁を歩く」と述べられている。その来迎寺へ。
d0089494_1023353.jpg

本堂は壊れそうで、近寄るな!のハリガミ。その奥に中世武士の五輪塔が苔むして林立している。
d0089494_1025798.jpg

とつぜん婦人があらわれて、びっくり。お墓参りらしい。そのむこうの墓にせんこうの煙。その墓標は「北」とあった。
d0089494_1031336.jpg



寺からくだってあたりの民家に表札を探して走って見た。「北」家はどこか!千数百年の連続を探してみた。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-03-08 10:04

美しい風景

「私たちの環境世界に風景が傷だらけになっていること、風景が欠乏していること、すでに無くなっていることを、誰しも感じている。・・風景の旅をしたいと思うのは、安らぎや喜びを与えてくれる風景との出会いを願うからです。美しい風景に出会ってこころに感動する体験を求めているからに相違ない。風景の発見/内田芳明-朝日選書675 」

都祁という奈良の東山中の中心位置の山村は、美しい風景のなかに、「安らぎや喜び」と出逢える、貴重な場所だとおもっている。その都祁の集落が古代にこの都祁のなかでもっとも早く開墾されたといわれる場所に都祁山口神社が鎮座してある。ここが、その貴重な「安らぎや喜び」場所のひとつだ。杉の巨木の林立する森の奥にあるこぶりな白い拝殿は両側と左後ろに池をかまえて、木漏れ日がときに差し込んでくる湖面の反射のなかに浮かんでいる。ふと、宇治平等院を思い浮かべたが、浄土という人の夢を現実としてデザインしつくされた寺の佇まいとは、真逆に自然そのものが包み込んだデザインというより、それは神の意志がこころみた果ての形ではないか・などと、思い弾んでしまう。とうとうと流れだす水、その音が巨木の森に木霊する。
d0089494_153204.jpg

d0089494_1522292.jpg

d0089494_1524885.jpg

「防水排水の土工が進歩しなかった古代には、水ほど人の生活力に大いなる障害をあたえるものはなかった。氾濫の不愉快をさけるためには、人は所詮「朝日の直指す国、夕日の照る国」を選ばねばならなかった。しかも日本人は最初から稲を栽培する民族である。神を祭るに必要となるミキ(お酒)とミケ(米などの食料)を始めとし出来る限りは自分も米の飯と酒とをたべた故に、必ず水田の近きに邑落を作ることを要した。語を換えて言わば、能ふ限りの水の害を避けて、能ふ限り水の利に就くには、近く平野に臨める丘陵の傾斜地、即ち片平の地をもとめねばならなかったのである。」柳田國男

この文章は先日奈良盆地の東にある、古代豪族の名をもつ和爾の集落の有り様に引用したものだが、この片平の地が、都祁では幾重に並んで広がっている。家は小高い丘陵を背景に平地との際に立てられ、家前の田畑は、丘陵から流れ出る水をうけて実り、裏の丘陵には、薪用の落葉広葉樹と家畜用の草刈場、そして家の建前や補修用の杉の林と、ホームセンターの倉庫に匹敵する構えを用意してある。ここでの生活は途切れずにめぐりくる四季と、また、途切れない湧水があれば、子供たちを育て上げられる「安らぎや喜び」がある。このことが、景色として旅人に伝わってゆく。美しい風景が完成する。
d0089494_1534261.jpg

都祁山口神社は都祁の村々の間をぬって東へ流れる川の源流。ここでうまれる水と、家々の湧水を神として祭っている。古代人たちは、その水たちがうまれ出ることは山に鎮座する磐座とおもっていたようで、神社そばから登る参道で「御社尾」とよばれる磐座の前にでる。この磐座は、都祁の中央部にある都祁水分神社の由来に関係している。
「土地では、水分の神が山口神社の背後の山に降臨したという伝承から、これを水分の神の降臨した磐座とし、“大和志料”にも“比ノ辺一様ニ粗造ナル土器ノ破片散布シ時々茶臼玉曲玉ヲ出スコトアリ”とあるから、古い祭祀の名残も止めていたようだ。小川光三」
d0089494_1541038.jpg

d0089494_154222.jpg

d0089494_1543316.jpg

小川は「ヤマト 古代祭祀の謎」で、この長さ14mほどの磐座は人工的に加工されていて、一部欠損しているが、前方後円墳の形で、この磐座から登った山頂に小さな小山があって「ハッチョウサン」と地元で呼ばれており、「人工的に造成されたと思えるこの台地は、おそらく山頂部を祭祀した遺跡で」という。「この祭祀形態を大和平野に移し巨大化すると、草創期の巨大古墳として知られる、箸墓古墳と、その中心線上にある穴師山の斎槻岳の関係と同様」
という。「あしひきの 山川の瀬の響るなべに 斉槻岳に雲立ち渡る、柿本人麻呂」を引用して、斎槻岳と箸墓の中心線をむすんだラインが、この「ハッチョウサン」を通るという。前方後円墳の設計図がこの磐座だという。
d0089494_155661.jpg

d0089494_1552711.jpg

d0089494_1554164.jpg

こうなると、景色は「安らぎや喜び」から、マジカルな古代祭祀の幻影の奥行きをもってくる。いまの社会では、神を想像し祭祀を作り出す人々の多くは、「新興宗教」とくくられて、なかなか、息苦しいだろう。小川理論も「太陽の道・北緯34度32分」で注目されていた。この同じ北緯にある神社は、偶然そうなったのか?意図されたのか?は興味があって、この「太陽の道」をいろいろ、かなり追っかけたのだけど、「太陽の道」の中で、指摘される神社と山と太陽との関係が、たとえば神社からの位置とその前にある尾根をこえた向こうの「太陽の道」の指摘する山が見わたせないために、自分には、説得力がないように思ったことが多かった。でもすっごく夢のある「太陽の道」なんだけど。

小川ラインには該当しないが、都祁にある雄神神社の祭神が、大和平野の石上神社の正面にある出雲建雄神社と同じで、そのそばに都祁山口神社という、同じ名の神社がある。大和平野にはたくさんの山口神社はあるが、すべてそのある土地の名である。なのに石上の山口神社は「都祁」なんだろうか???
d0089494_8565686.jpg

マジカルな古代祭祀の幻影に、あまり強く引きこまないでください。都祁の神々どの。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-03-04 15:07


最新のトラックバック
presiden jok..
from plus.google.com
venuscozy.com
from venuscozy.com
whilelimitle..
from whilelimitless..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
fashion mich..
from www.mikaelkors..
biber hapi
from biberhapisipar..
iphone 7 cas..
from myiphone7cases..
máy xay cầm ..
from goo.gl
ultimate testo
from ultimate testo
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧