こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
カテゴリ
以前の記事
2017年 05月
2017年 04月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
フォロー中のブログ
最新のコメント
You ought to..
by parajumper at 15:36
Latin shema..
by williamyb4 at 13:25
louboutin pu..
by christian at 10:00
I blog frequ..
by ray ban ne at 13:12
Heya i'm for..
by canada goo at 09:04
http://silde..
by sildenafil buy at 23:40
Laterget htt..
by oripsojo at 20:23
http://www.g..
by nike roshe at 00:14
http://www.w..
by nike mercu at 11:58
Indelicate ..
by allanjy4 at 08:37
メモ帳

<   2012年 04月 ( 4 )   > この月の画像一覧

鵜とねずみ

3月13日東大寺・二月堂の目の前の格子の向う、お堂の中で大きな松明が燃え盛る。格子越しにだした手のひらに冷たい水がそそがれて、いそいでこぼさぬように、口へ持っていった。“冷たい”。
d0089494_1150897.jpg

d0089494_11502180.jpg

3月12日に二月堂の前にある閼伽井屋の中の若狭井から汲む水の行法が、クライマックスとされ、お水取りといわれる。
d0089494_1154840.jpg

修行僧の朝の休憩の景色です。おつかれさま。
「言い伝えによると、昔々、岩盤が割れて白と黒の鵜が飛びだし、そこから水が湧き出した。それが若狭の鵜の瀬からきた水だそうです。坂本龍一/縄文聖地巡礼」「若狭・遠敷川に面した岩の上で、・・和上は、たぶん「奈良へ水を送ります。」といっているのであろう。祭文を読み終えると、それを川に流す。奈良へ流れ着くには一年かかるということだが。気の長い話である。 白州正子/若狭のお水おくり」「地下水の流れは非常に遅く、浅い地下水でも一日1m、深い地下水ともなれば年に1mの速度であり、降水が地下に浸透してから再び地表へ湧き出してくるその周期は、三百年、五百年とみられている。それゆえ私たちの使う水には、江戸時代の水も混ざっている。 富山和子/水の文化史」
d0089494_11504298.jpg

d0089494_11505797.jpg

d0089494_11511830.jpg

3月12日にまわりのシキミ?が交換される。
d0089494_11521217.jpg

若狭と奈良との地下水の関係は東大寺の若狭井だけではないようだ。「西鶴の“水の抜け道”という題で、・・越後屋という分限者の店にいた女中のヒサが親方の女房に恋愛を邪魔され、顔に焼け火箸をあてる折檻をうけたすえ、小浜の海に身を投げた。その事件があったころ奈良の秋篠の里で井戸を掘っていたが、いっこうに水脈にあたらない。それでもほり続けると、突然轟音とともに大量の水がふきあがった。水が落ち着くと、その池の中に遺骸が浮かんだ。そこへ東大寺のお水取りに参籠した旅人が通りかかり、その遺骸が若狭のものらしいと、持ち物をしらべると越後屋の女中のものだとわかり、丁重に弔って、若狭へ帰っていった。ヒサの恋人はこのことを知り出家して菩提を弔った。墓の前で読経していると二人の女が現れ、両人は争っていた。ヒサと越後屋の女房であった。ヒサが争いに勝ち女房に焼けた金をおしあて、“我が思いをかえした”と叫んで消えた。その日若狭で、越後屋の女房が、一声叫んで悶絶したという。 白州正子/若狭のお水送り」
秋篠の里の秋篠寺にも閼伽井がある。
d0089494_11531883.jpg

中沢新一  「 諏訪は蛇の国。蛇は生と死、再生の象徴。」
坂本龍一  「あちこちにどくろが巻いてあった。葛井神社にいったとき、池に向かって女の人が何か唱えながら熱心に拝んでましたけど、あれも日頃から蛇神を目にしているからこそでしょう。」
中沢「あの池と遠州の池がつながっていて、龍神の通路になっているという伝承がある。その感覚をじつに素直に受け入れてますね。」
坂本「彼女の世界観になかに、それがはっきりと入っていることが外からみていてもわかる。現代の日本からみたら不思議だけど、そういう世界観のリアリティを感じます。」
中沢「漫画家のつげ義春さんんもこのあたり(諏訪)が好きで、よく温泉めぐりをしてましたねえ。つげさんの想像力のなかでは、温泉は地下でつながっていて、ひとつの温泉に入ると別の温泉に潜っていける。その想像力は同じですよね。」
坂本「温泉というのは、地球のマグマ、巨大な火のエネルギーが、僕たちにも触れられるかたちでそこにあるもので、温泉に浸かることは、その土地のエネルギーに直接肌で触れること。地下のエネルギーが根茎のようにつながっている。」
中沢「昔の貴族は温泉に入るとき、天皇の許可をとらなければいけなかった。温泉地にこもることは、死の世界からエネルギーをたくわえることで、反逆の疑いをもたれるとこまるから」    縄文聖地巡礼

長谷寺から登る初瀬に笠山の山頂の荒神にも、閼伽井がある。ここは東大寺創建の
責任者だった良弁和尚のやはり創建の伝承があり、この閼伽井は東大寺のそれと
水脈はつながっているという。

東大寺・二月堂へむかっていると、県庁の前の池で輝く光モノに気づいた。丸いガラス
玉がステンレスでできている。しばらく見ていて、気付いた。これはお松明のうちの籠
松明のモニュメントなんだと。商店街にも籠松明のモニュメントが竹でつくられてぶら下がって
いた。
d0089494_11524348.jpg

若狭井をつくった地中から飛び出した「鵜」。その鵜をいれる籠、と、鵜飼いとた
いまつと連想ゲーム。
「能登の七尾市に鵜浦町がある。・・ここは能登一ノ宮の気多神社の鵜祭につかう
鵜をとる場所である。・・鵜を捕らえて気多神社に送るために、鵜浦には古代から
二十一人の鵜取部がもうけられていた。当番にあたった鵜取部は毎年12月8日に
なると、マルいかごをつくって鵜浦の小西家にやってきて、鵜を取ってくれとたの
む。鵜祭のための荒鵜をとる役目は小西家に代々受け継がれ、その技術も一子相伝
である。 続 日本の地名/谷川健一」「鵜は滄溟の神の使者である。海底にある常
世の消息を反映していることを暗示する。こういった推定を証拠だてるものとして
山口県豊浦郡豊北町土井が浜で発掘された弥生の少女が鵜の骨をだいていたとい
うことを・・谷川健一/日本の地名」
d0089494_11534183.jpg

地下のことを考えることなど日常にはない。が、あの閼伽井の水の甘く冷たかった
ことが、刺激してならない。オオナムチが野に入っているとき、スサノオはその野に火をは
なつ。オオナムチが火に囲まれたとき、野鼠が現れ「内はホラホラ、外はスブスブ」といって
地中にさそう。穴でオオナムチは野火をやりすごす。ねずみは「根棲み」だという。
地下のことはねずみに聞くのがいいのだろう。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-04-23 11:55

室生

午後から雨模様の予報でも、どうしても今じゃなきゃ!と室生寺へ向かった。町では桜はすっかり散ってしまって、桜前線は北へ、そして高い山々へむかっている。山々のひろい展望の中、桜の白味がかったピンクが緑のなかから、ヌッ立ち上がっている、と見える日々は今しかない!。すぐに新緑のなかに同化してしまう。桜たちの晴れ舞台の季節は今、しかない。

「帰りがけに私は、お寺の南側の山へ登ってみた。室生村の一部で、段々畠がつづいており、そこからは室生の山の全景が手に取るように見わたされた。・・この大きな景色は、無言の中に室生の歴史を語っていた。そのなかに、室生山を日本の中心とする、広大な世界観が打ち立てられていった。昔の人のそういう想像力には驚くべきものがある。・・“自然は芸術を模倣する”というが、室生を軸として四方を取り巻く山々は、曼荼羅に描かれた須弥山の景色を彷彿とさせる。それは決して圧倒されるような風景ではなかったが、深く心打つものがあった。・・室生の周囲に、・・四至を定める寺が存在している・・ 白州正子/水神の里」

室生の四至は東西南北にそれぞれ門として寺が置かれている。そのうちの仏隆寺を経由してゆくことにした。榛原から伊勢本街道という標識がつづく。それに加えて仏隆寺の標示が加わって、道は細くなってくる。それに登りだ。車の往来が多い。離合できなくて、渋滞も出来てきた。道沿いに「桜祭り」のピンクののぼり。
d0089494_18482098.jpg

駐車場をさがして、車が右往左往している。そのむこうにでかい桜の木と、ほそい石段の上にお寺。有名な桜の木で「千年桜」だと表示があって、カメラの三脚がそこかしこに立っている。ここが仏隆寺。今日やっと満開です!とお寺の受付で話されていた。
d0089494_18475628.jpg

寺から室生寺への標識にしたがって地図にはない新しい車道をのぼる。というより押しで唐戸峠のお地蔵様へ。おおきな枝垂桜のお堂から展望が開ける。
d0089494_18485179.jpg

室生寺はかなり低い河原にあって、桜の木々に埋もれていた。これが“曼荼羅”ですか、と白州正子に聞く。深い山中の峠をこえて出逢う集落は、どこも桃源郷のようにみえる春の季節。室生の集落も美しい。室生は室生火山群とよばれる1500万年前頃活動していた火山の噴出物だという場所。集落を尾根が円く囲んでいる。これって、1500万年前の火口ではないのか?
d0089494_18491298.jpg

集落におりて室生寺へ。寺で配布するパンフレットの地図をみていて、室生寺の四至の寺々の位置の東西南北がちがっていることに気付いた。「東は田口の長楽寺、南は赤埴の仏隆寺、西は大野寺、北は名張の丈六寺を四門とよび、それぞれ峻険な山を越え、谷を渉って奥深い室生寺へと辿っていた。 パンフより」。これは寺の間違いではない。パンフにはしっかり北の方向も示されている。これは明治中期にかかれた大和志料の資料集からの引用で、この資料集からの引用をいろいろな文章のなかに、たくさんみる。信頼される資料のようだ。そこには「所謂東以田口長楽寺為大門、西以大野阿弥陀寺為大門、南以赤埴仏隆寺為大門、北以名張常勒寺為大門」とある。が、赤埴の仏隆寺はどう見ても西の位置。
d0089494_18494532.jpg

室生寺の参道の橋からの周囲の眺めはまるでおおきな穴の底にいるようだ。「日本書紀では、室、房、窟、館などの字をムロと訓んでいる。本来ムロは石器時代の棲みかとしての岩窟や洞穴のことをいっていたのが、さらにひろく家屋形式の部屋のことをもさすようになった語であるらしいこと・・さらに、洞窟は、人がそこからもう一度生まれてくるための母胎であり、修行者がそこを行場としてこもるのは、あらたな宗教的・霊的再生を期するためだあった。この洞窟信仰は、おそらく石器時代以来の古い伝説に根ざすもので、しかも日本にかぎらず世界の多くの民族の共有するところ   西郷信綱/古代人の夢」
仏隆寺に、9世紀、寺の創設の僧、堅恵が入定したという石室がのこされている。
d0089494_1850113.jpg

「室生寺の金堂へ登る右手の木立の中に、ささやかな鎮守社が建っている。人は気付かづにすぎてゆくが、これこそ室生の寺の前身で、その方角を東へ遡った室生川のほとりに“龍穴神社”が鎮座している。・・がこの神社も後に造られたもので、ほんとうの“龍穴”は、さらにその奥の谷間にある。・・みるからに龍が棲んでいそうな恐ろしげな洞窟で、室生の山の奥の院といった感じがする。・・土地の人々は、室生のことをムロと呼んでおり、昔から神がこもるミムロとして畏敬されていた。龍は東方の守護神とされ、・・ 白州正子/水神の里」
d0089494_18502062.jpg

室生寺から龍穴神社が東方だと、宗教的な理由でなるなら、大和志料がいう所の方位は東は田口・長楽寺になるだろう。そこが基点で四方が定まってくる。
d0089494_18503489.jpg

室生は古代、まだ人が地球に出現する前の1500万年前のできた火山帯だという。「この火山帯は1500万年前頃、西南日本・瀬戸内海が急速な時計回りの回転をおこし、それに伴って日本海が大きく拡大した。このことは西南日本内帯で1500万年前を境として、古地磁気方向が著しく変化することから確かめられた。・・西南日本の回転によって日本海が拡大し、同時に日本列島の部分は隆起し、古瀬戸内海が消滅したと考えられる。 日本の地形 6」

室生寺の大門の方向は、またこの古代の日本の湾曲する土地の力とそこにおきたという磁力方向の変化とも考えると、白州正子氏のいう「室生山を日本の中心とする、広大な世界観」を石器時代の人々の記憶として、ここに伝承され、その場は室生火山帯の一つの火口であった記憶かもしれない。「火山活動をしていた時代が、人類さえ誕生していない約1500万年も前のことですし、長い間の浸食作用で地面が削り取られてしまったために、火口がどこにあったのかさえわかりません。ただ現在日本で活動中の火山よりも激しい火山活動であったことは間違いないことなのです。 室生火山群の魅力をもとめて/国立曽爾少年自然の家」

西の大門・大野寺の枝垂れです。
d0089494_18545998.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2012-04-20 18:55

御斎峠/オトギトウゲ

島ケ原のJRの駅周囲は倉庫と材木置き場で、閑散としている。列車は一時間に一本。倉庫は地元の窯業の会社のもので、昔、国鉄の貨物列車に製品を積み込んでいた、といった風情だ。
窯業の会社のカンバンをみて回りの山並みを見回した。どこでも訪れた鄙びた土地に窯元などを見つけると、その素材の土はこの近くなのだろう、と思う。登り窯などがあると、もうそこの土地がすきになる。土地のにおいが濃くただよってるように思ってしまう。地図をみて皿山とあったりすると、そこに窯元があって、その土は磁器用の特別なものにちがいない、などと想像する。皿はうすくて硬い。その皿を焼く土があるから皿山という。その素材の粘土はカオリン粘土で、これはどこにでもあるものではないと聞いている。カオリンの名は中国・景徳鎮のそばの高峰・カオリンの名をとって呼ばれた。景徳鎮は世界的な磁器の産地だ。ヨーロッパでは高級食器は銀だったのだが、磁器の食器が景徳鎮から入ってきて、美くしい絵つけと、スープは冷めないこととで、磁器は大ブレイクしたのだけど、現地では18世紀までつくれなかった。原料が見つからなくて、ドイツ・マイセンで18世紀初頭にやっと、みつかっている。
カオリン粘土が島ケ原から産出される。カオリン粘土は風化作用でつくられ、水の動きで層に形成される。そして大地の造山運動で地表に現れ、それを“誰か”がみつけ、窯がそこにつくられ、その製品がどこかに運ばれる。その動きの中心になる場所の一つが島ヶ原だ。
島ヶ原から、やはり窯業で有名な山むこうの信楽へむかうルートのある峠が「御斎峠/オトギトウゲ」。
d0089494_1659595.jpg

司馬遼太郎「街道をゆく/甲賀と伊賀みち」の中でこの峠が書かれる。司馬さんは実際にこの峠を歩いた様子。司馬さんが峠を歩くのって、「街道をゆく」の中ではめずらしい。そのことが印象に残って、「ここ、ぜったいに走らなきゃいけん、峠」になった。日本最古の道しるべ、町石(丁石)重要文化財が、のぼり応援するよと、まってるらしい。
d0089494_170953.jpg

奈良から伊賀へはいる景色を司馬さんがこう書いている。「地形は太古に無数の小噴火がおこなわれてできたものらしく、その無数の小噴火の火口が谷になり、火口壁が山になり、山から水がながれ、大小の渓々が相連なって、複雑な景色をつくっている。 街道をゆく/甲賀と伊賀みち」
カオリン粘土は火山活動で形成される花崗岩が造山活動で地上面に現れ風化したものだという。その土に微生物の活動によって有機酸が土地に加わり、さらに水によるイオン交換があって・・等々・・カオリン粘土が組成される。この火山活動が島ヶ原の窯業を存在させたか?

不思議なことに、司馬さんはこの「街道を行く、甲賀と伊賀みち」の表題にかかわらず、伊賀から直接甲賀へむかわずに、この峠にむかっている。峠の入口の分岐を右が伊賀市、左が峠を経由して信楽へ。この不思議な選択を、どうしてだろうと考えた。もちろんわかる訳ない。司馬さんの書くものは、どこか歴史の秘密が隠されていて、深読みしたくなる人だ。面影とは表/オモに隠れた後/カゲだと、どこかでいっていた。ここでは、なにがカゲなのか。
島ヶ原は奈良から入ると行き止まりのような場所で、古道としてあげられる和銅の道は、峠越えで甲賀へ。大和街道とよばれる伊賀への道は島ヶ原から木津川をはずれて南下する。
その向うに伊賀盆地・甲賀丘陵とつながって琵琶湖の東湖畔へなだらかな平地がつづく。
琵琶湖は古代に伊賀の盆地にあって、その後甲賀へ移り、そして琵琶湖になったという。伊賀から甲賀がその古代琵琶湖の通った跡ってことだ。琵琶湖が、ちょうどハスの葉の上にころがる水玉のイメージが浮かぶ。ハスの葉は東からゆっくりとめくれて、その上の水玉の移動速度は年間2cm。いつか日本海へ転がり落ちるというのだ。○○原発、あぶない!?
d0089494_171134.gif

d0089494_1711382.jpg

この古代琵琶湖の周囲にカオリン粘土が見つかる。火山と琵琶湖の作品ということになる。
この古代琵琶湖の隣、いまの名古屋を中心としたあたりに古代東海湖があり、カオリン粘土層がその古代湖の湖畔の位置になる瀬戸の町に露出する。大地と水との深い関係がみえる。
「街道をゆく 甲賀と伊賀のみち」のルートはこの古代琵琶湖の湖畔の丘陵をぬけている。

御斎峠を登っている。つらい。振り返ると時々見えるこれまで来た坂道に、一台の自転車が登ってきている。ハーハー息吐きながら、どうしようなか?と悩む。悩みは、抜かれるときの自分の反応のこと。ヨッ!、とこちらから挨拶かな。ムツ!!で、下向いて無視、かな。なんて思っているうちになんと街道をゆくの中にあった「御斎峠跡」の大きな碑にでた。司馬さんこの○○跡が気に入っていた。跡なんてふつう書かないと感心していた。後方の自転車、ここまでくれば、トップまでこのまま、かな?。
d0089494_1715774.jpg

「伊賀の御斎峠のむこう側の道がゆるやかな降りになりはじめると、そこは近江国甲賀である。・・峰すそにはシダなどがびっしり生え、その下を水が湧くように流れている。・・この山水の豊富さが、中世この甲賀郡に数多くの小豪族を発生させた。・・忍術などでは伊賀流、甲賀流などというが、・・中世末期のころ武家としての規模がもともと甲賀衆のほうが大きかったのか、それともたまたま将器をもつ人物が伊賀衆より多くでたのか、・・甲賀衆と伊賀衆とははっきり明暗がある。甲賀衆のほうが伊賀衆よりもはるかに時勢の中での立ち回りが上手のようであった。・・時勢のなかでうまく立ち回わるにしても、ある程度の規模がなければ泳ぎきれるものではなかったらしいことが、・・この峠を越えてみると、わかるような気がした。   街道をゆく 甲賀と伊賀のみち」
d0089494_1713973.jpg

伊賀にあった古代琵琶湖(大山田湖)から、奈良盆地に水か供給されていてたという説もある。峠を下りだすと「ゆるやかな降り」で、ヒマ。ペダルも回さずに、伊賀の古代湖から奈良盆地への川のルートを考え始めた。これは楽しい。あそこだろか?あそこしかない。なにせ大地はハスの葉だから。
“オッス、オツカレ”と、ピユーと自転車が追い越していった。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-04-17 17:03

奈良から東へ山中という笠置山地をぬけて木津川にでると、正面に壁のような尾根が川向こうにあらわれる。その壁は南へ木津川と平行にさかのぼって、島ケ原の集落で木津川を止めるように回り込んできて、おおいかぶさる。尾根で行きとまった集落、島ケ原に正月堂と呼ばれる戦前は国宝で、現在は重要文化財というりっぱな寺院がある。
d0089494_9582938.jpg

東大寺の創建時代のスタッフで東大寺二月堂のお水取りをはじめた実忠和尚がつくったというここ正月堂との関連の伝承と、また聖武天皇の行宮としてつくられたという伝承もある。
d0089494_9574524.jpg

木津川は急流になって川底をけずり深くなって、その山と河との細い隙間の場所に、一時間に一本の列車の走る単線のJR関西本線と、一本の国道だけが外部との連絡ルートという鄙びた集落の輝かしい古代のそれは記憶だと、そこかしこに「正月堂へ」の表示が立てかけてある。
山際の西斜面の裾地の集落をぬう古道に、ちいさな真新しい「和銅の道」とある標識をみつけた。都が飛鳥の藤原京から奈良・平城京に遷都された和銅年間に、島ケ原をぬけて伊勢へ向かう奈良時代のあたらしく設置された、「東海道」だと書かれてあった。集落の名は島ケ原・大道。「大道」はそこの道が都へつながる官製ルートである、由緒正しい正規ルートという場所の地名だという。「大道」の地名は大阪・四天王寺の西にもある。古代難波京の朱雀大路の痕跡がそこにみつかっている。
d0089494_95899.jpg

d0089494_9593389.jpg

「和銅の道」の標識を追って走ってみると、民家の軒先から金網のフェンスにさえぎられる。そこに標識も立っている。はて?と立ち止まると、民家から駆け足でおじいさんが現れて、しばし待て!という。なにごと?と成り行きを見る。おじいさんヒョッコイとフェンスを引っ張り出した。さあ、お待たせ!猪がでよるから。フェンスの向こうには細い地道が竹藪の中に入っていた。ここが「奈良時代・東海道」らしい。おじいさん、「気をつけろ」と、胸張って見送ってくれた。おじいさん「和銅の道」の関守さん?ですか。古代「東海道」もここの新しい“古代の誇り”に追加されているようだ。
d0089494_9584664.jpg

「基本の方向を示す東西南北のうち「東」という漢字にだけアズマとヒガシの訓読みがある。だからといって、アズマとヒガシが同義語であるわけでは、むろんない。太陽がアズマから昇るなどというもののいいかたは、どだいなりたたぬ。・・ではなぜ「東」と書いてアズマと訓んだりヒガシと訓だりするのかといえば、古代にアズマと呼ばれた地方が、たまたま大和からみて東方にあっていたからであって、それ以上でもなければ以下でもない。 西郷信綱/古代の声」
西もニシの訓よみのほかにイリがあることは、西郷先生ご承知だが、イリは沖縄の言葉だといってる。西表島のイリオモテだ。四方向のうち「東」のみが二つの訓がある。
古代から、飛鳥・藤原・平城・平安などと同じ南北軸で北上してきた近畿のこの国の中枢軸からすると、東京は東北の方向になる。明治政府以後に京都から東京に遷都したという法律的な処置はされてなくて、京都からすれば、天皇はまだ出先におられるという感覚があると聞く。東京は、アズマの武士どもの都であって、この国の中枢の都は、京の都にまだあるらしい。東京は、アズマの都で、東海道は奈良、京都から伊勢の海へむかう道をさすことになる。となると、和銅の道が「東海道」ならヒガシカイドウと訓むことになる。京都から琵琶湖の湖畔を北上し米原から東へ、関が原を越え、箱根の峠をこえた場所が、関東はセキのむこうのアズマであり、坂東は箱根の坂のむこうのアズマだとなる。なるほど、だから宮崎県前知事、東国原さんはアズマコクバルとは訓まないわけだ。

「東海道」はどうしても東北方向へむかってる。東じゃない、と思うんだよね。アズマへ向かってる。方向感覚ではなくて、政治感覚なんだろう。そこらが、私には難しい。つい、東じゃないだろう!と。だって、方向間違えると、自転車で急坂くだって、これちがう!って、登り返す、なんて怖ろしいことおきかねないのだよ。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-04-14 10:00


最新のトラックバック
presiden jok..
from plus.google.com
venuscozy.com
from venuscozy.com
whilelimitle..
from whilelimitless..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
fashion mich..
from www.mikaelkors..
biber hapi
from biberhapisipar..
iphone 7 cas..
from myiphone7cases..
máy xay cầm ..
from goo.gl
ultimate testo
from ultimate testo
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧