こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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旧京めぐり-信楽京、大津宮③

恭仁京のある加茂から、信楽へ向かい長野とよばれる集落に入った。そこが信楽焼きの町だった。
「山道を降りて、やがて信楽の盆地に出た。“ここがあの信楽ですか”須田さんが、多少の不快さと戸惑いをみせていった。信楽焼の古陶をもって世間のイメージができあがっている、あの古拙(古風で素朴な味わい/ドイ)な気分というものはいまない。町の半ばは建築用や工業用の陶器をつくり、半ばは・・たぬき、がま、ほていさんといったものを焼き、・・観賞用の壺なども焼かれている。その壺に竜などがくねっていて、土地成金などに喜ばれるらしいが、およそ、室町期の茶人に愛されたような気分から程遠い。司馬遼太郎/街道をゆく7」
「はじめて信楽を訪ねたのは・・あの美しい壺がどんな所で生まれたのか知りたかった・・ちょうど秋の暮れのことで、山は紅葉に染まり、その間を陶土そのままの真白な道が、冴え冴えと通っていた・・いつしか信楽の焼き物と景色は重なり合い、鮮やかな紅葉の色も、自然釉の緑も、灰をかぶった所まで、なんとあの白々とした野中の道に似ていることか。それは信楽でしか生まれ得なかった焼き物であり、自然が造り出した傑作・・ 白州正子/紫香楽の宮」
このお二人とも、むかしの、きっと室町時代のころの信楽の焼き物を見ておられて、今の信楽がそこから遠く離れたように感じる司馬遼太郎と、そのころがきっと復活するだろうと、信楽をたずねる白州正子との違いがあるのだろうか。そのころの焼き物も今の焼き物も知らない自分は、この文にとまどって記憶していた。

長野の町はけっこう大きな集落で狸が整列する店のそば、町の中央に神社があって、陶器の狛犬が鎮座して、その後背地が丘になってそこにいくつものレンガ造りの煙突がたっている。
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坂道はすこしうねって登っている。そのそばにいくつものの窯がならんでいる。落ち着いた時間がひろがっていた。この時間のリズム、たとえば日曜日の正午の喉自慢のラジオの声ような気分のある場所は、どこもそこそこの豊かさの暮らし向きがあるようにおもっている。このままの営みで、それだけだ、子供たちが安心して成長できるという確信のある生活があるようにおもえた。
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「先日京都の骨董屋さんで、入江泰吉氏にお会いした。壺の写真を撮っておられた。入江さんは、仏像とか風景が主で、陶器の類はあまり手がけていられない。“はじめてやってみたんですが、日本の壺は風景とまったく同じです。そういうことがわかりました。焼きものを形容するのに『景色』ということをいいますね。あれは実にいい言葉だ。ほんとうに景色とちっとも変わりはないんで、今はおもしろくて仕方ない・・・” 白州正子/紫香楽の宮」

長野の集落の旧道が町外れで幹線道路に入るところの向うに橋がみえた。そこに細い道が河畔に伸びている。ここまでつきあった天平の東北古道のにおいがしてきた。まったく人家もなく、田の畔と川の間をゆくような道が、おおきな古木と弘法大師伝承の泉の寺が孤立する所をすぎ、急に現れた電車の軌道にそうように川下へのびて、ペダルもふまないラクチンルートが鳥居にぶつかる。日雲神社の神額が読める。古代、アマテラスの神を背負って、奈良から放浪の旅にでた皇女がいて、倭姫伝説になっている。甲賀、伊賀をめぐり伊勢のいまの神宮に鎮座するまでの物語。いつかはめぐり走りたい話の、その倭姫の、ある時、とどまった場所がここだと掲示してある。
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そこから赤松の森の丘に道ははいって、そこに紫香楽宮址の石柱があった。ちいさな広場にトイレがあった。「紫香楽宮址は赤土の台上にあり、まわりは森である。雨のせいか、森の中の小径にも宮址にも人影はなかった。・・礎石が点々と残っている。整理されているわりには、木々などすべて自生のままらしく、変に公園化されていないところがよかった。・・・台地のまわりには物寂びた田園の風景がよく残っていて、この土地に千二百年前、たとえ一時にせよ日本の帝都があったとはとても思えない。 司馬遼太郎/街道を行く7」
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この司馬さんの観察眼は証明されていて、ここにあるのは間違った紫香楽宮址の石碑だということになっている。北上して森をぬけると正面に高速道路の高い高架橋が真横の走っている。その下の、水を張ったばかりの田の中、杉が整列したようにならんだ、周囲にはっきりと隔絶されている繁み中央に隠れるように、小さな祠がある場所にでた。
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その繁みにここがあたらしく発掘された紫香楽宮とその都城の一画だと説明の表示板がしろく浮かび上がっていた。
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その標示にあった地形図にそって北上すると、高架下をぬけて、正面に三角形の独立峰がぞびえて、その尾根にかこまれた田園と中央を割ってながれる真直ぐの川の景色にぶつかった。高速道路建設の際に発見発掘された遺跡だそうで、その存在はだれも予想していなかったようだ。その全容を推測する地図に、正面の山の右手にまた独立峰がみえて、そこが飯道山とその前に峰にある飯道神社あると記載されていた。左にも独立峰があって、そこには金鐘寺が山頂あたりにあるとあった。
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東大寺のお水取りのおこなわれる二月堂の後ろに飯道神社があって、紫香楽からの勧請だという。金鐘寺は東大寺創設の責任者、良弁和尚の寺。大仏はここに造られようとして、その鋳造施設も発掘されている。
「このあたりにかけては“美し松”と呼ばれる原生林があり、みごとな赤松林がつづいている。土にめぐまれただけでなく、焚き物にも事欠かなかったのが、陶器を発達させたゆえんであろう。白州正子/紫香楽の宮」
松は燃える温度がずばぬけて高い。ここにながれる信楽川(大戸川)の川砂もきめ細かく鋳物の型造りに適していたともいわれる。良弁和尚の寺である、彼も金鐘、金青行者とも呼ばれる。「金青とよばれる鉱石は孔雀石、マラカイトともいい、銅鉱床の上部酸化帯または二次富鉱帯に産し、孔雀の尾のようなあざやかな緑青色を呈する。谷川健一/鷲にさらわれた子、良弁」彼が銅の鉱脈、その使用を知っていたともいえる。

良弁和尚は朝鮮半島からの渡来人に関係しているといわれる。「シガラキのキは、カキ(垣)、サキ(崎)、ノキ(軒)などからうかがわれるが、キは外敵から守るための防御を城(キ)、柵(キ)といって、キによって守られる土地もキといった。シガはその一帯では良く知られた場所のことでアソコほどの意味があって、アラはまが開拓されていない荒々しい、キは場所、土地で、“そこが未開拓の神々にまもられた土地”という意味であったが、聖武天皇のここへの紫香楽宮造営によって、天智天皇の大津宮の後に次ぐ、新しい砦という抱負の意味もこめられてシガ(志賀)アラキ(新城)の意味になっている。古田金彦/古代地名を歩く」

目の前の旧都の址の痕跡は掲げられた表示板だけにある。旧都はいまは東大寺にぬりこめられているのだろう。東大寺の戒壇院への参道に面しての、東大寺旧境内の一角に入江泰吉さんの家が残っている。東大寺の中で生活した彼に紫香楽宮の址の写真はあるのだろうか?彼はどんな“景色”をみただろうか?高速道路に塗りこめられた天平の時間をとりだしただろうか。
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by forumhiroshima | 2012-05-18 11:59

旧京めぐり-信楽京へ②

恭仁京遺跡の草むらのそばの疎水の河上へむけて古道を走り始めた。少しずつ高度をかせいで木津川の流れがキラキラ光ってくる。古道は傾斜をすこしおおきくしだした。疎水は古道と離れて、すこし下の先にみえる幹線道路とならぶ和束川から引かれているようで、尾根を巻いて視線から消える。その水路には細い土手道が続いて、その幹線道路に入る様子だが、急坂にみえる古道を選んだ。お茶畑に囲まれて、登ってゆく。「冗談は抜きにして、峠越えのない旅行は、正に餡のない饅頭である。昇りは苦しいと言っても、曲がり角から先の路の付け方を、想像するだけでも楽しみがある。 柳田國男/秋風帖」ましてや、耕して天まで届いたお茶の畑の幾何学模様のなかとなれば、昇りはいっそう楽しみになる、わきゃないけど。

でもここからはじまった、幾つもの尾根をできるだけ同じ高度で越えてゆく道は、尾根越えの度にモザイク模様の茶畑が万華鏡の中といっても、大げさではないといえる。新茶の畑は若緑が光って、ある場所では刈り入れられたカッターの刃の角度ですこし黒ずんでラインになっていたり、刈り入れがこれからの畑だろうか、シートでおおわれていたり、景色は新緑一色ではない。
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天平14年(744年)に恭仁京から信楽京へ道が定められたと日本書紀にあるそうで、その道がもしかすると、あの恭仁京跡からこのルートへのつながり方の自然さからすると、この道が、もしかする。尾根から道は下りだすところから、広く新しくなる。和束の町へくだってゆく。
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ここに安積親王墓・アサカノミコがある。「紫香楽の宮の造営ははかどらず、しばしば火災に見舞われた。安積親王が亡くなったのはそのころである。藤原仲麻呂が毒殺したともいうが、聖武天皇の長子で十七歳であった。・・恭仁京と信楽との往復の途上、天皇はどのような思いで眺められたことか。 白州正子/紫香楽の宮」
大伴家持の皇子への挽歌がこの墓を歌っているとその本にあるが、この古道が天平の古道であるようだ。
和束川は細い谷間をながれる。幾つもの支流が流れ込む。それだけ氾濫も起こりそうだ。古道はまた尾根へむかい、その尾根の集落は茶畑を営んでいる。その事業の最大の稼ぎ時が、この新茶の季節。コメはKg単位だが、お茶は100g単位だ。どこもかしこもお茶の畑に造られて、緑に光っている。道はいったん河畔へおりると、湯船という集落に入った。
信楽への道路標識にしたがって、すこしの昇りの車道を走る。自転車にもちょいちょい出逢う。後からの自転車にスーと抜かれる。
小さな分岐があって、そこに標識がある。車道をはずれて谷間へはいるコンクリートで舗装された道が、古道だとあって、この先の峠が「柞峠」だとあった。フリガナはついてない。
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白州正子/紫香楽の宮にこの読めない字の峠が書かれていて、「はじまていった時は、恭仁京かた木津川伝いに入り、和束と朝宮の間で迷ってしまい、信楽へついたのは夕方になった。今から思うと、そこが廃道となった天平時代の信楽道で、柞峠・ハハソトウゲというらしい。柞という木を私は知らないが、柏の別名であるようで、紅葉の美しい山道であった。昔はここに柞の大木があって、志賀・栗太・甲賀の土民が、畑に日が当たらなくて困ったので、伐ることにしたという伝説も残っている。それにしても聖武天皇は、なぜこんな辺鄙な所に都を造ろうとされたのか。」

古道は沢沿いに伸びて、尾根にかかり急登坂になる。
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あたりはここも茶畑。展望のある尾根のピークをぬけてくだりはじめて、また高度をとりだした。峠道には表と裏があると、峠が好き?らしい柳田國男が書いている。「麓から頂上までの路は色々屈折していても、結局甲乙に二種類に分類することができる。甲種は水の音に近い山道、乙種は水の音に遠い山路である。前者は頂上に近くなって急に険しくなる路、後者は麓に近い部分がより険しい路である。 柳田國男/峠の裏と表」「表口は登りに開いた路で、裏口というのは降りに開いた乙類の路である。初めて山越えを企てる者は、眼界の展望すべき相応の高さに達する迄は、川筋に離れては路に迷うは故に、出来るだけその岸を行くわけであるが、いざ此処から降りとなれば、麓の平地に目標を付けて置いて、それを見ながら下りる方が便利である。」
つまり、登りは直登で鞍部へ。降りはつづらに沢筋を避けて。ということになる。
自転車での登りはマジ路面しか見てない。ホッとしてもその道先ほどの展望だろう。降りはただただ、曲がりのアウトサイドのペダルを踏みつけるだけだ。路はまず意志を持ったものによって、始められる。そこは荒野だ。車輪は回らないのだ。
しかし、路面しか見てない登坂の時間に、自分はこの道をつけた先人はどちらからのぼったのだろうか?などと、この峠の裏表の説を読んで以来考える。そうして、耐えしのぶ。
それでも、峠のないサイクは餡子のない御座候なのだ。

峠の下りは茶畑のあぜ道になってしまった。廃道は、畔となっていた。
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峠から集落へ着く。朝宮という場所。そこに古道の地図があった。そこには、峠はホソ峠と記入されていた。芭蕉の奥のホソ道は細でなくこのホソで、このホソにはもっとちがった意味があるような。そう思う峠だった。はて、どちらが表だっけ?
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東北道と記載されている。先日登ったオトギ峠への道が、東海道とあった。天平の幹線道が復活している。
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by forumhiroshima | 2012-05-16 12:37

旧京めぐり-恭仁京/クニ京へ

7世紀、畿内と定められたその四方へ。北の果ては琵琶湖の湖畔、逢坂山。
そこへのルートを奈良・平城京から奈良坂を下った場所、加茂に聖武天皇がつくった恭仁京を経由して、その次に信楽京、そして琵琶湖の大津京へと決めて走り出す。
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聖武天皇は741年に加茂へ恭仁京を作り出し、すぐの743年に加茂から和束の川をさかのぼった信楽に紫香楽京を計画し建設開始。ここで大仏建造をはじめるが、中止して744年灘波宮へ移動。その翌年平城京に帰還し東大寺建設とめまぐるしい。
逢坂山の山麓の大津宮は聖武天皇のおばあさん、元明天皇のお父さん天智天皇が667年につくった場所。672年に焼け落ちている。そのあたりをグルリと回ってみようか、という計画。

加茂の恭仁京跡あたりは、ふるびて、ちいさくかたまりになった集落が緑の野原におおわれて、其の中を流れる疎水は日差しを底までうけてきらめいている。春の野はおもいきり背伸びして、家々に屋根をかくしている。うららかさに、ふと、自転車なんぞいらない!弁当があったら、冷えたカンビールがあったら、・・。
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背伸びした緑の中の木津川の堤防のそばに黒い繁みがある。鎮守の森にちがいない。
スタート前、このルートを地図で見ているうち、この神社は木津川の対岸にある勝手神社と同じ南北線の上に鎮座することに気付いた。そうすると、恭仁京の大極殿といわれる場所とそのそばの小学校の校門から南下する、恭仁京朱雀大路跡の道は北側の海住山寺とJR加茂駅の南の中山の集落とをむすぶ南北線の上にあることに気付いた。中山って地名は境界のある場所であることが多いそうだが、ここでは大和と山背の国境??
そうなると、いつもの病気で、地図上の神社や古墳をバリバリ直線でむすびたくなる。
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地図が直線で真っ赤になると、混乱を鎮めるために専門家の資料を漁りだす。恭仁京についての話はその存在期間が短いからか、すくなくて、岸俊夫、足立健亮お二人の話がみつかった。
古代の測量技術は、それはそれは、すばらしいもので、条里制などの田園の区分や都の大道の設計など、そのレベルへの賛辞はことかかない。その設計の基準点は、いまの三角点の標石ではなくて、神社と古墳などの宗教施設であることが多くて、この土地設計のために神社がおかれ、その土地神への敬意を表すようで、奥深い。あたりまえなんだけど、神社は人が設置したもの。そう思うと、ありがたみが・・・。

「ここ加茂に恭仁京がおかれたのは、天平12年(741年)から15年までの短い期間で、海住山寺もそのころ造られたようである。寺伝によると、天平7年、良弁僧正の建立で、はじめは藤尾山観音寺と称した。 木津川にそって/白州正子」東大寺の建設責任者の良弁和尚がここに顔をだしている。
恭仁京の配置については、岸、足立両氏の見解はその中心線でことなっているようだ。岸先生は設計基準のラインを加茂の南、平城山のある元明、聖武天皇の陵墓基点として南北にひく。足立先生は椿井大塚山古墳をその基準点にされているようにおもえる。ただ岸説では宗教的な意味合い、元明天皇がこの恭仁京をつくった聖武天皇のおばあさん、そして聖武天皇はその発願者で、説得力あるのだけど、じつは木津の町からは陵墓は見えない。GPSがあったのか?。

鎮守の森の中へとはいってゆくと、先客がおられ境内を掃除されている。神額に恵比須神社とあった。すぐにカメラと三脚をもった方が入られてくる。境内がざわめいているようだ。境内に標示がある。
「当社はいちど流され、西宮に流れ着いた。そのとき住民にエビス様から、向かえにくるようにご信託があり、舟をだして西宮へ行き、まず対岸の勝手神社について、そののちここに鎮座された。」とある。いまも御座船の神事がおこなわれているという。
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「海住山寺には補陀落山と山号がある。本尊の両側には補陀落渡海の図が描かれている。時代はずっと降って室町中期の作であるが、この寺の信仰がうかがわれて興味がある。・・補陀落山とは、いうまでもなく観音の住む浄土で、入水することによって成仏するという信仰は、熊野の那智の海で起こった。こういう壁画が描かれたのは、この山号と無関係ではあるまい。してみると木津川を熊野の海になぞらえたのであろうか。 白州正子」
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引き返して、対岸の勝手神社に走った。道路と平行にある参道の入口は数台の軽四トラックでうまっている。鳥居のそばの社務所に礼服のおじいさんが座っていて、そのそばをこれも正装の数人が三方をささげて、神社本殿への石段をのぼっている。参拝は遠慮した。というより、社務所前を通り抜ける勇気がでなかった。勝手は後ろ側、とか弓を引く右手とか、補助の言葉だろうが、その呼び名が神社に付いていて、そこに正装の男どもが静々と進む場面があって、見てるだけでも、迫力ありましたよ。彼らはまごうことなき恭仁京の住人で、廃墟の番人で、あろうよ。勝手神社は観音寺という土地にあります。
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by forumhiroshima | 2012-05-15 11:57


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