こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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畿内  紀の国・兄山へ②

吉野川が紀ノ川と名を変えるのは地図では五條市の西端、奈良県と和歌山県の県境からのようだ。ここが畿内の南の端のはず、と思うのに畿内を定めた古代には五條からまだ下った場所にある。
紀ノ川の河口は古代に「紀の水門」とよばれた港であったという。「中世、紀ノ川下流の今の和歌山市域が雑賀・サイカと呼ばれた・・・。それ以前は[名草・ナクサ]と呼ばれた。名草は渚・ナギサだろう・・ 。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州日前宮の紀氏であるとされる。紀氏の遠祖は神武東征のとき従った天道根命・アメノミチネノミコトであるといい、またその家系に伝説の武内宿禰・タケウチスクネが入るといわれたりする。 司馬遼太郎 街道を行く 紀ノ川流域」司馬さんは街道をゆくの竹内街道では「叔父(司馬さんの叔父)はむろん葛城の竹内のひととして武内宿禰が竹内で暮らしていたことを信じていたし」と書いている。宿禰は神武天皇の水先案内人で紀の国の祖の宇豆比古・ウズヒコの妹と天皇の皇子との間に生まれた(日本書紀)とも書かれている。古代大和と紀の国の関係はとても濃いように思える。とても司馬さんのお母さんの実家のある竹内街道に住んでいたとは思えないが、でも実家があるのは、「竹内」なのだ。人々の記憶にも紀の国との関係を、濃く残している。

五條市の「標」をのこした神社が大和国と紀の国の境を示したのでは、と思い、川の名もここで変わることも合わせて思いながらも、どこか合点がいかない。ふと、古墳時代の道を記載した地図を思い浮かべた。そこには葛城から紀の水門へのルートと飛鳥からのルートが書いてあった。このルートは五條市と隣の和歌山県隅田街の境になる落合川あたりで合流するようで、「標」に神社よりもっと川下で、そこが阪合部橋で、川が落ち合ったり、坂道が合流したりという地名から、まだまだ、この辺りでは大和国は終わってないのでは?なんて妄想する。「大和街道」はゆるやかにくだり基調で伸びている。
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いくつかの街を通り過ぎて、大和街道が田植えの終わって水面がキラキラしている田んぼの中にのびるところで、新しい浄化センターで遮られた。その先の小山が「兄山」だ。
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兄山はセヤマと読み、地図には背ノ山と記載される。ここは両側から山が迫っていて、紀ノ川の流れが窮屈になっている。地図では川の中島のような船岡は、南側を開削されて島になったという碑文もあった。国道、旧道、JR路線が肩をならべて精一杯の幅。背ノ山を越えると穴伏川が紀ノ川に白い波をたてて合流している。支流が大河と合流する地点は水かさが増えると大河が支流をせき止める。支流の流れが大河に入り込めないし、水面も大河が高いからここで逆流する。洪水多発地帯。それに加えて、ここは紀ノ川が背ノ山で止められ、流れが強いエネルギーを持つ。ここで紀ノ川も氾濫する。それはここで地名に見られる。穴伏川に佃という地名、人と田でこの集落は田造りの専門家だと思う、佃・ツクダは淀川河口にあって、淀川にできる中州を農地に替えてきた。その技術で江戸に呼ばれ、ここの河口の開発を担った。佃煮はこの人々のお弁当のおかずだと。その南に名手がある。畷・ナワテとよく似ている。畷、縄手も湿地帯の開発地帯。背ノ山の東の窪は文字どうり窪んだ場所だろう。窪んだ低地に浄化センターができた、と。その対岸に渋田・シブタ。シブとかシオはシワで、ここもくぼみた低地。そばの島はそのままだろう。紀の水門へ、また大和へ、の道はここで遮断されてしまう。ここは道が失われる。自然の関所だと、おもったら、背ノ山に関所があったという。
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船岡は船のように真ん中が沈んだ形だろう、その沈んだところを開削したと考えた。すこし川下にある橋を渡って、船岡の南へ出てみた。そこに橋が架かっていて、その正面に厳島神社が鎮座しておられる。この神社があるから、開削の際に参道を橋でつくったといおうことだろう。神社に対して公共工事は実に丁寧だとおもおう。そういう法律でもあるのだろうか?COOL!
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JR和歌山線に列車が来た。万葉の四季と正面にマークされている。
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駅そばに万葉集の歌の石碑がある。背ノ山の対岸に妹山とある。歌の意味はわからない。背ノ山に登ると耕運機がゴトゴト急坂を下りてくる。道端で待っていると、運転しているおじいさんがニヤ!万葉集か?それならこの先に万葉桟敷をつくっとるからいってみろ、という。コンクリートの急坂で自転車降りたらおしまいなんですけど。と自転車そばに投げ出して、歩き。靴底のクリートがすべる。うっそうとした桃の林にバラバラと、さびた椅子がおいてあって木々に万葉集だろう歌をかいた木片がかけてある。妹背と合わして、恋愛の歌らしい。
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歌ではないが、柳田國男が境の場所は男女で表現されることが多い、といっている。峠や道の分岐点に二対のお地蔵様や祠、並んだ男女の石像などがある。また妹背とつく場所もいくつもある。紀ノ川の上流の吉野川にも川をはさんで対峙する山を妹背と名付けた場所もあった。
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駅そばの石碑に打橋渡すとあるけど、いかに紀ノ川がここで狭いといっても橋渡すのは大変だろうと、おもった。渡ってもそこは渋い湿地帯と山しかない。「打橋」って内側に関係あるのか?とおもっていたら、そばに解説があって、丸木橋だとあった。この洪水地帯に無理だとおもうよ!とその解説に話しかけた。ふと「ウジはよく知られたルート、うなずくほどわかっている道」だという解説を思い出した。でもやっぱりここで橋は無理!
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紀ノ川沿いの大和街道はたのしい!楽しすぎた!もう五時に近い。この二年和歌山に通うことが多かったけど、和歌山ラーメン食べてないのだ。と、大和街道をおっぽりだして、紀ノ川右岸の車のすくないだろう車道を走り出した。こうなると、ガンバ!!できるぞ。
和歌山市街にはいって、よく見ていたラーメン屋さんを探して、やっと見つけると、休業でした。すべての情熱をうしなって、もうJRで輪行、と和歌山駅へ。ビールしかないです。ふと閉まっているラーメン屋さんのそばに、神社の幟。宇治神社は足神さん、です。そうですね!ウジは道ですね。そこを皆さん歩いたのですね。
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by forumhiroshima | 2012-06-15 22:23

畿内  紀の国・兄山へ1

王城の地が畿内だときかされて、内心ムッとして(広島育ちなもんで)それなら、どれほどのものか、なんでも見てやろう?と走り始めた。畿内とは、「646年に発せられた大化の改新の詔に、[東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす]という畿内の範囲に関する記述」があって、その四方に向かってみた。この場合の以来(こちら側)は飛鳥に置いてみた。図は難波京を基点としている。
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西の端は明石の櫛淵で、場所はわからないのだそうだが二地点に説があった。一つは明石の街の城跡の西、もう一つは河上に置かれていた。古代、六甲の山麓は海に洗われていたのでは?と、古代の有馬道を西にむかった場所、奇淵(クシフチ)に行ってみた。荘厳な空気が消えかかっているけど、なにかアル場所で、その景色に、けっこう満足!
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東は名張の横河。ここは東大寺のお水取りの松明調進に道でもあり、伊勢神宮の斎宮の道でもあって、古さ一杯!地元も古さを今の生活にとりいれていて、道端の地蔵さまもどこか生き生きしている。
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これら畿内の端の東西の場所は、川が山から野にでた場所で、氾濫源の様相、荒ぶる神々の舞台だった、と思えた。

北の逢坂山は下れば天智天皇造営の大津京。大化の改新の詔からわずか20年で畿内を飛び越えてその外、いってみれば畿外に造られた京は、近年発掘された礎石一つの空き地に掲示版、それもすっかり文字が消えていた。祠すらなかった。どうしてだろう。天智天皇みずから畿内を定めたのだろうに。
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大津京は、古代の飛鳥から大和盆地を北上して、平城山を越え、木津川、宇治川を渡り、大津から若狭へむかう北陸街道。そこへの道は2ルートがあって、宇治経由と宇治田原経由。宇治から逢坂越えに蝉丸神社、宇治田原からに猿丸神社とマルとつく名の神社が鎮座していて、なんでここにマルがあるのか?が、印象に残った。
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最後に南の兄山へ、飛鳥経由で向かった。灘波京から兄山へは河内から紀見峠越え。きつそうな峠登りに気持ちがもりあがらなくて、峠越えをするか、峠回避の飛鳥へ迂回するかで、なかなか走り出せない。飛鳥経由も距離が長い。

一方、マルの神社への強い印象が、ふと宇治って地名にマルって関係ないのか?と調べてみた。「ウジという地名で、一番多く古くから使われたのは菟道で音読みでトドウとも読まれる。・・この文字が示すように、ウジにはミチ(道)の意味がある。・・ウ(諾、宣)なる道、すなわち、一番宜(ヨロシイ)道、皆がうなずく(諾)道というのが語源であろう。吉田金彦」
この金田先生が、こう付け加えていた。「大和から紀州に抜ける、今の五条市北部をやはり万葉時代にウジ(宇智)といった。・・そこに人が住むようになると、ソト(外9よりもウチ(内)が良いとの意識が発達してくるけれども、ウジ(宇治・宇智)の起源はどうも交通上適当な道という意にあったようだ。」宇智へのルートに丸山古墳がある。
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この文章で畿内・兄山へは、帰り和歌山から輪行として、登り回避し飛鳥経由に決定!ヨワムシ!!

飛鳥の橿原市市役所前に下ツ道という石碑がたっている。石碑の前のR24が古代の下ツ道になるからだろうが、知名度ナイとおもうけど。この下ツ道は南の丸山古墳を南端の標識として使われているという。ここにマルがあるけど、関係ないだろうな!でかい古墳だ。

ここからは近鉄吉野線と平行してゆるい登りコース。「つぼさかやま」駅すぎでR26にわかれ近鉄線沿いに南下。JR和歌山線があらわれ鉄道が平行して走る。ここのJR「よしのぐち」駅にある柿の葉寿司はおいしい。創業100年以上といわれ、これが売り子のおかあさんの口上なんだ。一個づつ売ってくれる。ここは三度目で、自転車さんね!と憶えてもらっていた。
このあたりで近鉄線は吉野へむかい、JRと平行して南下。鉄道との併走ラインはラクチンコースだ。
重阪(ヘイサカ)を越えると五條市街地。いきなり大和街道の標識が現れた。そして同じく宇智神社の石柱。
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五條市に宇智の地名はなくて、川があるだけとおもっていたから、神社の出現にはびっくり。その示す神社へゆくと、そこは荒木神社で万葉集にある浮田の社と掲示してある。宇智神社との掲示はどこにもない。掲示は万葉集の中の歌「かくしてや なほやなりなむ 大荒木 浮田の社の標にあらなくに」が書いてあった。大荒木は死者を埋葬するまで遺体を置いておくモガリの場所のことで、注連縄の囲いの中は神聖な場所で、この神社の北の峠が荒阪でそのあたりまでの標だという解釈がしてあった。沖縄など南の島々の埋葬を連想する。天武天皇のもがりも長い期間おこなわれたという。大海人皇子という名にある海と飛鳥がつながってみえる。
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畿内は河内から和泉の国が分離するまでの摂津・大和・山背の四カ国で、この五條市が大和の最南端になるのだが、「畿内」では紀の国になる「兄山」が南限だとする。浮田の社の標は、もがりの場所であったことも、また大和の国の南端の標であったとも、思えるのだけど。浮田の社の前に宇智社であったかも、があの標識だろうか。
大和街道をたどるといっても標識はバラバラと置いてあるって設置で、まじめさがない!なんておこってもしょうがない。が、うれしいことに、地図に書き込んでいた兄山までの古道とおもわれるコースにピッタンコ!。古道フェチとしては鼻高々で、次の橋本で中華料理屋さんに。古びた商店街でゼッタイに存在しているのが、散髪屋さん。つぎが中華料理屋さん。ラーメン屋さんではなくて、どんぶりもちゃんとある店。あとはどこもシャッター閉まってるといえる。
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古道トレースの旅は時間がいくらあってもたりない。そこかしこ、あそこ、ここここ。このあたりの紀の川は上流で奈良市や和歌山市に水をとられて、河原はすっかり小川だ。でも広い谷の向うの山々は、紀の国らしく濃い緑で、それが川の湿気の向うにあって、ちょうどレンズ越しの風情。ひろくて明るい。ぼーとしてると、オットもう2時すぎです。
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by forumhiroshima | 2012-06-12 11:35

かくれ里-高尾

畿内の範囲は北は大津の京の西、逢坂までといわれる。奈良・平城京の出現する前の時代(646年。飛鳥時代)の政令で定められた範囲のことだけど。その畿内を自転車でめぐって、西の明石、東の名張、北の大津に到達した。《「畿内」はウチツクニであってナカツクニではない。「内」に対するのは「外」。「中」は「上」と「下」に対する語である。したがって「葦原中国」は天上の高天の原、地下の黄泉の国や根の国に対しその中間にある国を指す名とする説に従うべきである。西郷信綱》垂直の神話の時代から水平な国造りの時代への変わる様子が、畿内という言葉に残っているように感じる。畿内の畿は京、城ともいわれる。畿内はこの時代の天皇たちが頻繁に京を移動して定めたウチツクニの範囲であるようだ。

奈良時代 総理大臣が皇族にたいしてクーデターを企て、ばれて逃亡するとい事件がおこった。その首謀者は恵美押勝という藤原家の長男。その逃亡劇は大和から山代、そして近江の大津へのルートだった。それを追う軍勢は逃亡者が宇治を経由するのに対し、手前の山岳コースの宇治田原経由をとったという。「昔から大和と近江、そして京都をむすぶ要害の地であった。壬申の乱に、天武天皇が、大津から逃れて吉野へ落ちて行かれたのも、田原道であったし、恵美押勝の乱に、官軍がいち早く先回りして、勢多(瀬田)で迎え撃ったのも、この近江路の間道であった。すこし下って、南北朝の戦いに、後醍醐天皇が笠置へ入る道も、やはり宇治田原を経て、南下されたのである。それはまさに歴史が交錯する地点であり、落ち人が潜む絶好の場所であった。本能寺の変に、徳川家康があわてて国(三河)へ帰った時も、ここを通ったといい、 白州正子/田原の古道」
667年に天智天皇は畿内の北端、逢坂山の東の大津に京を定めている。この京が畿内をとびこえて造られていることになる。古代の間道を通って、王城の域を飛び越えた大津京に走るのもおもしろい?

平城京址から北上して歌姫街道を下る。この道は平城京建設の資材とくに大木を木津川から運び上げたルートだという。歌姫坂の東にある奈良坂は東大寺の建設資材運搬路、恵美押勝の乱は丁度東大寺建設途中で、この建設従業員も動員されたという。
巨大な団地を抜ける街道は古道の装いをはがされてしまっていて広い車道、木津の町周辺までくだると、周囲は水を引かれた田園風景の中に、高速道路が頭上に延びてくる。
木津で木津川を渡ると、道路そばに「山城の文化財」の標示のカンバンが設置されて、古道も記載されている。手元の地図にその古道を落とし込んでトレースして走る。幹線道路から離れ、古道らしく尾根と平地の接点に道はのびて、寺社が点在してある。
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「京都から奈良街道を南下すると、宇治をすぎるあたりから、左の方にあまり高くない岡がつづいている。これを綴喜の岡というが、麓には・・旧跡があり、木津川の右岸にも・・筒木の宮跡などがあり、非常に古くから開けていた地方である。
だが、綴喜の岡は、表から見るのと違って、実際にははるかに奥深い。・・一歩踏み込むと重畳とした山つづきで、宇治田原の町はその真中にぽっかり開けた盆地の中にある。白州正子」山城の文化財のルートを満喫し、山城町域をると、道路は新しくなって車も多く往来し、新しい住宅地をに入った。この変わり方に自分に位置をうしなって、道路標識を探したが、どこにも大津とも宇治田原とも記載されていない。街は同じような景色の連続で、しかたなくJRの路線にそって走って、駅をさがした。見つけた駅は「じょうよう」。もうすぐ宇治の町ちかくに来ている。引返して間違った分岐点にむかう。そこは川沿いなのだけど土手がひどく高くて、橋であるより坂道だと、どうも思ったらしい。景色より路面をみていた。その高い土手路の県道を東へ登る。川面なぞ見えない。道の勾配はそれほどでもないが、真直ぐで、しんどい。対抗してくる車のナンバープレートが路面より下になると峠のトップだからと、そのシーンを探しながら、ペダルをふむ。時々スーっと自転車に抜かれる。声掛けもない。彼も対向車のナンバープレートの位置を見つめてるにちがいない。

トップには団地の標示があって、下りの先にちいさなビルとちいさくかたまってる屋根の街がみえた。下り始めてすぐに大きな交差点に。ここから大津へのルートを外れて、登りのコースへ入った。
「宇治川に支流の田原川にぶつかり、その川にそって山へ入る。とたんに山国の景色となり、とても京都から車で二、三十分で来られるところとは思えない。そこはもう宇治田原の入口で、川をへだてた山の天辺を高尾/コウノオといい、それこそ正真正銘の[かくれ里]であることを、私は人からきいて知っていた。最近は辛うじて車も通うらしいが、・・・織田信長に攻められた近江の佐々木氏も田原の奥へ逃げ込んだ。先に書いた高尾という村は、その佐々木氏一族が住んだかくれ里で、平家の落人部落として知られるが、実は源氏の末裔だったのである。・・人家は十四、五軒しかなく、みな佐々木の子孫と称しているが、寒村であるのに、生活はわりあい豊かであるらしい。 白州正子/田原の古道」
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その高尾へ。白州正子がこのかくれ里を書いたのは1969年だとあるからもう四十年も昔の紀行になる。車道は広くて谷間を九十九に登ってゆく。けっこう足にくるけど、まあ、いつもの自転車押しのぼりでもするかい!と、ヒーヒーいっていると、チリチリと妙な音が降りてくる。路面から顔をあげると、九十九の向うのコーナーからママチャリが飛んできた。少女がとばして降りてくる。アリャ!!。チョット、横目でガンつけられて、おもわず会釈なんぞしてしまったけど、その時少女はもう後姿だった。ピンクの自転車がすごく印象的で目に焼きついた。アッとの間の時間からまた路面との対話の登りへ。まだかいな!と人家をさがす。けっこうの登りとおもった時間で分岐に到着。正面にきれいな井戸が現れる。「村の入口には[一ツ井、黄金井]といって、まんまんと水をたたえた泉があり、例によって弘法大師が掘ったと伝えている。これは高尾唯一の飲料水ということだが、わたしには弘法大師よりはるかに古い霊泉のように思えた。場所もちょうど宇治川と田原川が落ち合う地点にあり、はじめは旅人たちのみそぎの場であったのではないか。高尾は神尾と書くのが正しいような気もする。白州正子」
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その井戸のある三叉路はじつは四つ角であった。というのは、井戸の正面に標識がたててあって、林の中へ下る登山道のような道がズッと下の宇治川と田原川の合流地点にあるバス停への標示だった。
ピンクのママチャリ少女はもしかすると、この村の鎮守社の巫女では?と、集落をぬける道をこりずにのぼりはじめた。道の先にスポーツランドがあるようにカンバンがあって、二台のバイクの騒音に追い抜かれた。杉の森がはじまって、巨木のたちなかに鳥居をみつけた。明神社とあった。神社の参道を自転車を担いで、くだりへ歩く。家々の表札をのぞきこむ。佐々木って家はなかった。
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井戸の分岐まで帰って、また自転車かついでバス停へ下る。「最高頂上に人家見えて高の尾村といふ。汲鮎を業とするやよし。茅屋雲に架し、段橋水にのぞむ。かかる絶地にもすむ人ありやと、そぞろに客魂をひやす。鮎落ちていよいよ高き尾上かな 蕪村」
1783年に蕪村がここをたずねた紀行にある。汲鮎という言葉がわからなくて、調べると鮎を採ることで、この高尾の人々は井戸からこの道を往復して宇治川で鮎をとることを生業としていたことになる。すべりそうな路面と枝にひっかかる自転車でもって、まったく、参ってしまった。森の中で立ち止まって、オレ!何してるの?なんて思ったとき、ママチャリ少女を思い出した。彼女帰り、登ってくるのか?きっと、ダンシングで上がるのだろうな。鮎をビクいっぱいにして、ここを通った祖先のように、ね。
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by forumhiroshima | 2012-06-05 10:35


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