こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
カテゴリ
全体
未分類
以前の記事
2017年 02月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
お気に入りブログ
最新のコメント
You ought to..
by parajumper at 15:36
Latin shema..
by williamyb4 at 13:25
louboutin pu..
by christian at 10:00
I blog frequ..
by ray ban ne at 13:12
Heya i'm for..
by canada goo at 09:04
http://silde..
by sildenafil buy at 23:40
Laterget htt..
by oripsojo at 20:23
http://www.g..
by nike roshe at 00:14
http://www.w..
by nike mercu at 11:58
Indelicate ..
by allanjy4 at 08:37
メモ帳

<   2012年 07月 ( 8 )   > この月の画像一覧

THE WALKING PEOPLE no8

この国で鬼たちを睥睨して、こき使った、それどころか、この国の神々をも使役した人は平安時代の役小角・エンノオズツが最初かもしれない。寺院で仏をまもる古代のガードマン達はみな、鬼を踏みつけている。
「役小角は、尊称されて役行者・エンノギョウジャなどと呼ばれる。7世紀から8世紀にかけて活躍する怪人物だが、実在の人物であることはまちがいない。[大和の国葛木の上の郡茅原の村の人なり]と、日本霊異記にある。その素姓については[賀茂役公・カモノエンノキミ、今の高賀茂の朝臣というものなり]というから、鴨族という神霊のことをつかさどるグループのなかでも筋目のいい出身であろう。司馬遼太郎 街道をゆく・葛城みち」
高賀茂は、奈良盆地の南西の葛城・金剛連山の東の麓の高賀茂神社のことだ。秋訪れたとき、黄金の田園の中に緑の大きな鎮守の森で池を抱えて鎮座されている神様だった。
「葛城の神々に対しては、[もはやわしは仏教を得た。おまえたちよりも上位である]と轟然と主としてのぞみ、神々をドレイのように、こきつかったらしい。かれは原体質というか、モトはといえば鴨族のシャーマンの出だけに、神霊を感応する能力をもっていたにちがいない。それを土台にしてみずから神仙になろうとした。司馬遼太郎」
東大寺のお水取りにすっかりはまってしまっていたころ、奈良で発行されるタウン誌にお水取りの仔細なスケジュールが掲載されていて、求めたことがある。そのなかに葛城の役行者の記事があった。役行者は葛城山中にすむ夫婦の鬼、前鬼と後鬼が里に降りて害をなすことから、彼らを捕獲して自分の援助者とした、とタウン誌(大和路ならら)にあった。司馬さんのおかげか、自分に中で役行者の印象がすっごく悪くて、葛城で役行者の墓にもいってみたけど、フーン状態、すっかりこの記事をわすれていた。
「鬼の木戸」の標識をみたとき、そして道の先に賀茂神社があることで、役行者も賀茂の一族だよな!と、なぜか、おもいだした。

道は江戸時代の浜田・三次往還(島根県歴史街道)をトレースしている。平四郎溜池のそばから判りづらい。ママヨ!おかあさん!で進むと道端にお地蔵様。これで旧街道だと安心。
幹線車道にでるまえ、ちいさな繁みに御幣で結界してある場所にでる。その結界の中は小さなストーンサークルみたいに石が円に並ぶ。奇妙な場所そして奇妙な気分。
d0089494_15453913.jpg
そこでまた旧街道の地図と目の前の道が分離の化学反応をはじめた。歴史街道についている地図から、往還道を探すのは難しかった。こうなれば、結界にそって、マジカルにゆくほかない。結界のそばを幾度もグルグル。
d0089494_15463583.jpg
小さな路地に入る。すると、小さな鳥居をくぐって賀茂神社境内に入る。
d0089494_1546195.jpg
そして境内を抜けてすすむのが往還になるようだ。
d0089494_15471292.jpg
これだと決めるには、道はほそくて心ぼそいけど、これだと、決め付けてしまうと、このやっと今に残った道が、幹線だったころの賑わいが感じられる。不思議!で、このラインに決定。あたりは、古びていえ、いい雰囲気。そのとき、この賀茂神社のある場所ちかくが茅原と気付いた。奈良・葛城の役行者の生家が茅原にある。同じじゃん。じゃんじゃん。
d0089494_1546536.jpg

d0089494_15473629.jpg

d0089494_15471685.jpg

「鴨族は正しくは鴨積・カモツミと書かねばならないだろう。積とは種族をさす。アズミ(安積)、イズモ(出雲)いずれもツミがつく。鴨族は葛城の大和山麓一帯に住んでいた種族で、葛城氏と印象が二重写しになっている。葛城王朝のころは葛城氏が政治をつかさどり、鴨族が祭祀をつかさどるという図式で考えていいのか、そのあたりはよくわからない。政治的には葛城氏は5世紀末にほろぶ。しかし鴨族は政治的存在ではなさそうだから、クッキリとはほろびず、ただ葛城の故郷にあっては次第に衰弱してゆく。それらは「鴨の神々」をかついで諸国に散る。司馬遼太郎・街道を行く/葛城道」
山城国風土記には、可茂・カモというのは、日向の曾峰・ソノタケに天降った賀茂建角身命・カモタケツノミノミコトが神武天皇の大和東征の先導(ヤタガラス)にお立ちになって、そののち大和葛城山に宿られた。そこから次第に移動し、山城の岡田に賀茂に到着され、また山代川(木津川)の流れに沿って下り、桂川と鴨川との合流点まで遡られた。そこから賀茂川上流を望んで[狭く小さいけれど、この石川は清川・スミカワだ]と仰った。それで鴨川のことを石川の瀬見の小川ともいった。建角命はそこをさらに遡り、久我国の北の山基におちつかれたので、その時から賀茂というようになった。とある。鴨の神がヤタガラスとは、おかしいようだけど、神話の奥深さがそこにあって、こちらがわかってないだけなんだろう。

「鴨族の末流は全国にひろがり、賀茂(加茂、賀毛)を郡名とするものだけでも、安芸、播磨、美濃、三河、佐渡の国々にみられ、郡名にいたってはさらに多い。神社では山城国の賀茂社が、朝廷の尊崇をうけて特に名高い。しかし、すべて源を葛城に発するものである。鳥越憲三郎 神々と天皇の間」

奈良のタウン誌に、役行者の賀茂家は出雲からきた一族だということが書いてあった。
出雲にもカモはあります。出雲国風土記には、賀茂・鴨は安来市にあってそこの社にはアジスキタカネヒコ命が鎮座とある。アジスキタカネヒコはそのほか、出雲市塩冶、平田・多久町、出雲市知井宮、仁多・三沢の記事に記載されている。オジスキカタネヒコ命は葛城ではアジシキタカヒコネ命として表れ、オオクニヌシと九州の宗像から嫁に来たタギリヒメとの間に生まれた長男だ。葛城の高賀茂神社の神様でもある。そしてその神社の関係者の役行者の実家は出雲からきたという。
「大量の銅鐸の出土した出雲の加茂岩倉遺跡は、カモ氏の祖先であるオオクニヌシの愛児アジスクタカヒコネのいたところで、この地にアジスキタカヒコネの住む宮殿があったと思われる。それゆえ国譲り後も生き残ったアジスキタカヒコネとその子孫たちは、持っていた銅鐸を全てこの丘に埋納して、ちちオオクニヌシに送り届けようとしたのではあるまいか。丁重に愛情をこめて埋納されていることが、オオクニヌシにたいする哀惜の心がこめられているのではないかと私は思ったのである。 梅原猛 葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」
梅原先生の暴走ともおもえる発言はスゴイ!出雲は当然大和より、ふるい国である。国譲りした側が出雲なんだから。
「鴨族とはなにかということにもっとも早く関心をもったひとりは、太田亮氏であろう。[鴨の語源は神である。カモ、カミ、カムはもともと同一語である]と、いわれるのは、考え方にむりがなさそうである。要するに鴨の人々は大和にあって強烈な土着神の神霊を感じうる体質の人々だったのであろう。司馬遼太郎」
そうなのです。梅原猛先生は日本の強烈な神霊を感じうる体質の人なのです。
「日本語のカミ(神)ということばは、川の名や社の名のカモ(鴨、加茂、賀茂)と同じことばである。・・最初の開拓者をカミ(神)として尊び、そのようなご先祖様が川をカミ(上)に遡って行って定住したことを共伴的に表現したことばと理解される。吉田金彦」

カモって神様のことが、わかったとして、さてここの賀茂の神様はどこから、おいでなすったのだろうか。賀茂神社前で東西南北にむかう古代の道が交差している。出雲か大和か???。川を遡ってきた?のかな。断魚渓は明治まで通行不能だったのだって。だとすると、この盆地に入る川沿いのコースはないことになる。さて?
[PR]
by forumhiroshima | 2012-07-29 15:48

THE WALKING PEOPLE no7

日和は平安時代に桜井郷という区分の中心で、後に今の桜江町あたり、江の川河畔が分離したという。この山上の盆地は古代に中心地であった、ことになる。木造の現役郵便局は、訪れる人はいないようだけど、明るい日差しを正面にうけていた。
郵便局から送電線の鉄塔をめざした大利峠をくだると分岐があって、横道が旧道らしい。路面に広がったスギの落ち枝にヒヤッとしながらお地蔵様の見てる田んぼへとでた。
d0089494_1522123.jpg

大利峠は日和の上り口、トップ、そして矢上への下り口とお地蔵様が鎮座されてる。この峠が昔の境界線であった記録だ。下り終えた場所が「別所」という地名のところだ。
d0089494_1511447.jpg

d0089494_1513775.jpg

この地名には古代の東北地方から連れてこられた人々、「俘囚」の移配地説(菊池山哉)があって、その説を受けて、柴田弘武さんが、全国のこの「別所」の地名、約250ヶ所を車でキャラバンして調査されており、その報告書「全国別所地名辞典、上下」が発刊されている。下巻だけで、¥9500+税なんだ。トホホ。でも買っちゃった。アマゾンの中古でね。
古代・大和朝廷が陸奥へ攻め込んで捕らえた人々を朝廷は全国に移送している。たとえば、坂上田村麻呂の軍勢は捕らえた捕虜は東広島市の志和の開墾に充てられている。捕虜だから、ひどい扱いだったろうが、その中で「俘囚の移籍には、冬の衣服として絹製のもの、一人当たり一町歩の田を与え、さらに新しくやってきたものに、絹一疋、綿一疋を給付しもてなす。799年」との記録も見えて、手厚い保護策もあったりして、その全貌は、防人説をはじめ、多彩に言われている。全国行脚の柴田さんは「別所に配置された俘囚は製鉄技術者で、この矢上盆地、中野にある賀茂神社の勧請は記録に783年とあるが、780年の蝦夷の反乱とその781年の鎮圧ののち、この地を開拓していた賀茂族の産鉄労働者として移配されたのだろうか、」といって、「この矢上にある地名で、本来石川といわれていた今の濁川はカンナ流しによる汚濁のことだろうし、その元の石川は「鋳物師川」の可能性もあり、地名の森実・モリザネの実は砂鉄のこと」とも書いている。自分もいろいろの地方を走っていてこの「別所」地名地には必ず、向っているが、どこも明るい場所だとの印象があるほどで、産鉄労働者の移住地なんてことは、当たり前にわからない。柴田さんによると別所には薬師堂があることが多いともいわれる。薬師堂には出逢うが、訪れた別所に必ずあったわけでもない。この矢上(中野)の別所には阿弥陀堂がぽつねんと建っていた。阿弥陀堂だったら、墓地であったことにならないだろうか?
d0089494_154958.jpg

 「尾先、谷口、堂の前」この三つの単語が表す場所に住居は建ててはならぬという戒めである。土地の隆起した尾根の先端、逆に水の流れで削られた谷のはじまりは、地面が崩れやすいから住居の敷地には相応しくなく、また小祠や寺社のある場所も、必ず以前になんらかの災禍が起きたところだから住居は建てないほうがよい、という言い伝えだと教えられた。私はその言葉に人間の知恵を感じた。
丘の上、崖の下は陽だまりのできる場所でもある。・・私は静かな陽だまりを求めているのかもしれない。松山 巌」という場所が別所であることが多いようにも思っている。「住まない方がいい」場所に、蝦夷の人々は移住させられたのだろうか。
 邑南山地といわれる矢上・出羽盆地の製鉄が作り上げた出羽鋼とならぶ名声をもっていた兵庫県の北部・中国山地の千種の千種鋼の集落は舞草という。ここにも「別所」がある。この舞草の地名は東北・一関にある刃物山地の舞草・モクサと同じだ。古代蝦夷の刀はそれまで直刀だった日本刀に反りをいれるほど影響を与えた。その舞草の地名が、出羽川の源流域の、千年もたやさない囲炉裏火の話をもつ江戸時代の大鍛冶屋・洲浜家のある「大草」の地名にだぶってくる。「洲浜氏は特に村内において特別の勢力を持っているということもきかぬ。村につくすということもないようである。宮本常一」常一さんが、けっこう冷たい視線で文章につづることは、とてもすくないから、自分はこの洲浜氏が気がかりになっている。蝦夷の子孫の伝承が、この家の伝承のどこかにあるかも?
この全国の鍛冶屋が注目するブランドとなった、この出羽の鋼は、時代が下ってくると、量産され、たとえば出雲・吉田、田部家の鋼につけられて出荷されていたりする。現在この二つの鋼の名は私企業に登録商標されていて、商品名になっている。ブランドののっとりは中国だけでもないようだ。ああ、そうだよヲ、イタリア・ロードレーサーも、どこか哀しいよ。
別所のそばに、鬼の木戸公園があるカンバンを見つけた。島根県名水百選のようだ。名水のカンバンには反応して走って向ったけど、やはりフレームにつけたペットボトルを飲んでいる。飲み水は買うものになったのは、たしかに自分たちに時代だろう。どうしてその選択をしたのだろうか?この清らかな水の国に住んでいて。
d0089494_1531279.jpg

鬼とあって、「別所」が蝦夷であるならと、連想してしまう。ナマハゲ出現だ。柴田さんもその連勝からだろうか、矢上・別所の訪問記に鬼の木戸の写真を掲載されている。が、場所はもうかなり別所から離れていて、鬼の住処は崩れやすい谷口であったからか、いや、大利峠のあの数箇所に鎮座する地蔵群が、なにかを遮るためのように、黙想している向うにいる鬼の住処の木戸なのかもしれない。
d0089494_1543135.jpg

d0089494_1544229.jpg

d0089494_1545284.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2012-07-29 15:05

THE WALKING PEOPLE no6

日貫から日和への坂は広い谷間を上って行く。このブログで追っかけてる、上代に移動してきたツングース族やオロチョンたちはすべてが当然自給自足のキャンパーたちだ。日貫で食料にありつけなかったからといって、腹減ったといって、自転車降りておしてはいけない、ね。
「ツングース族のもっている本来の性質が、著しく移動性に富んでいたことであった。彼らはその故郷が忘れられるほど遠い昔から南方から北進し、或いは西し、或いは東し、或いは北して北氷洋にまで進出し、或いは南して中部支那にまで入ったという風に、移動をもってその生命となし、其の歓喜となす習慣があった。多くの民衆には移動は煩悩であり、厭苦であるのが常だけど、彼らにはそうは感ぜられないのみか、寧ろ非常に吸引力を持っていた。・・彼らはじっとして瞑想するのに不適切な性格を持っていた。・・彼らは活き、動き、はしゃぎ、騒いで、生活を享楽する性質を帯びていた。彼らは保守性に欠けている代わりに、濃厚な進取性に富んでいた。彼らの天分は、一ヶ所に定住してそこを死の場所とするよりは、よりよき場所を見出してそこに死なんことを願う動的性能に充たされていた。彼らは夢想家であった。つねにあこがれ、常に夢見て、片時もじっとしていることが出来なかった。・・それゆえに彼らは新しき天地を見出した時、そこに適応し、それに順当するように彼らの生活を改善し、そして過去を顧みて現在を倦むような回顧的気分を持たなかった。 西村真次(早稲田大学教授)大和時代(大正11年発行/早稲田出版部)」
西村博士はツングースの移動の動機が彼らのうちにあるという。だいだいに、時代の変化の要因がすべてが経済的なものとする歴史解説にウンザリしている。西村博士のご意見は大正時代の発表としても、とても新鮮だ。なにか、今のアメリカの人々の分析にも思える。アメリカって、片時もじっとしてない国だよね。じっとしてないことを、トレンドって神話にして撒き散らしてるよね。いそがしいね。
西村博士の著書に古代日本へ移動してきた民族のルート図がある。
d0089494_1954640.jpg
出雲族がツングース族の日本での名称であるとの主張は、ワクワクさせてくれるが、はたして、その手がかりがあるのか?
いくら走り回ってもわからないだろう。

実は、そうでもない、と思っているから走っているのですよ。上代に大陸から日本への移動には渡海の舟と操縦術が必要。ツングース族も、博士のいうように、順応する能力で操舟術を会得したかもしれないが、それには海を渡る人々がいないと、学習するにしても、乗せてもらうにしてもできない。
d0089494_200677.jpg

世の中には面白い博士たち沢山おられるもので、この海の人々を研究した黛 弘道博士(学習院大学)の説もおもしろいのです。「江上先生が騎馬民族国家説を立てるにあたり、扶余(ツングース族の中国大陸の国家)の祖先、東明が東方に逃れて川を渡るときに、魚ベツ(スッポンのような亀)が現れて、その背中にのって東方へ逃れた伝承と、神武天皇の東征神話に同じモチーフがあることを手がかりにされている。神武天皇の水先案内人は、亀の甲に乗りて釣しつつ羽ぶく人とあるからです。この水先案内人はシネツヒコという名の海人族で、海人族の存在なくて建国説話はできない。大陸からの水先案内があることが、大陸から渡航した人々の存在をしめしているのです。 黛 弘道/古代史と地名には「古代の文献に伝えられる海人族はたくさんありまして、たとえば八太造・ハタノミヤッコというのがあり、太が本のよっては木という字になって八木造・ヤギノミヤッコと読めるのもあります。また倭太という氏族があり、ヤマトノオオと読んだりしますが、ワタと読むべきです。海原をワタハラといいます。ワタというのは外来語で、それは海のことだと思われる。(古代朝鮮語で海はパタ)そうすると倭太はワタとよむことになります。ワタといえば和田です。和田という地名は、すなわち海人の足跡を物語るものであろうと考えます。もっともこの文字はおかしいのです。和・ワは音読で田・タは訓です。後世なんとなくワダと読んでいるわけです。これは重箱読みで理屈に合わない。そこで平安時代の学者は和田という字をニキタと読みました。熟田津・ニギタツ(道後温泉)のニキタなどと読んだのです。いまでも堺市の南のほうに美木多・ミキタという地名がある。平安時代に学者がそう読んだから、地元もそう読んで、今はなまってミキタになっています。この南にチャント、和田という地名があります。・・海人の一派が川をさかのぼってどんどん山のなかに入っていって、やがてそこの農耕民になることは珍しくないということです。たとえば、信州の安曇野というところがありますが、安曇は海人族です。安曇野にそびえる穂高という山の名は安曇の祖先神の穂高見命の名をとったものです。」
黛博士はワタのほかに、由良・ユラや福良・フクラ、明石・アカシ、垂水・タルミ、天津・アマツ、白水郎・アマ、八田・ハタ、畑・ハタ、飯田・ハンダ、海士・アマ、火田・ハタ、船木・フナキなどの地名が、海人族たちの記憶にある地名だといっている。
地図上で、この地名を見つけ、そこが古道の道筋だったりすると、頭はいきなり「黛博士助手」になってしまう。道は人々をつなぐものだし、その人々がそこに至った軌跡でもある。和田やハタはどこにも見出せる地名なのだ。そこが古代、この列島に渡航してきた海人の記憶の場所である、と思うことが移動してきたツングース族の手がかりになる、と思い込んでる。だって、楽しいじゃないですか。

日貫をとおる道を島根県の歴史街道では津和野奥筋・矢上往還と呼んでいる。その名称は江戸時代のものだそうだ。この道筋の西と、東の出羽の隣に和田の地名がみえる。この和田はオロチョン族の水先案内人たちの記憶なのだろうか?と、階段をあがるように、ヨイショとペダルを踏む登りの時間のお楽しみになってくれた。
水越峠をぬけると道は遮るもののない空の下をゆっくりと下りだす。
d0089494_2011599.jpg
小さな円錐形の山を背景に鎮座する神様は八重山神社とあった。この神社名は、出雲でもみた。どうもタタラの神様のようだが、背景の小山と美しさは、山から稲にそそぐ水をつくりだす神様におもえる。甘南備って言葉が浮かんでくる。
d0089494_2012420.jpg
この辺りに古木の根元に小さな祠のあるちいさな区分された場所が見つかる。これは、タタラ製鉄をおこなったタタラ小屋の神様で小屋がなくなっても神様は置いておくという。ここには、神々がうごめいておられる。
d0089494_201557.jpg

三次で広島県の三分の一ほどの流域から集めた水を一つにまとめて、江川になる。河口は江津で、日本海にそそぐ。江川は中国山地の南側・瀬戸内側にふった雨水を中国山地脊梁部をぶち抜いて流れている。川は中流域にも河口にも平野をつくらないことから、無能川なぞと呼ばれる。
d0089494_2022951.jpg
とても江川に、失礼でしょう。このことは山陽・山陰を遮る山地のなかで、特異の場所だといえる。「フィリピン海プレートの沈みこみによって南北圧縮が起こり、中国山地が隆起し、そののち東西に圧縮作用があって、西中国山地が曲隆して、ヘの字に変わり、その屈折点を江川が切れ込み、山地が隆起するスピードよりも山地を浸蝕するスピードが勝った(先行谷)。江川は結果、日本海へ流れ込んだ。そのため、中国山地はこの場所で分断され、そこを江川関門と呼ぶ。日本の地形6」
d0089494_2015834.jpg

日本海から瀬戸内へ、またその逆に移動する際、この江川関門が低い場所になる。「古代の江川流域の地域交通は江川の水運によっているものでなく、むしろ江川は南北交通の障害にもなったと思われる。地域はいずれも峠越えの交通路で結びついていたものとおもわれる。江川は沖積平野を形成せず、流域の開発がすすんでいなかった。流域をたどる歴史6江川」

日和は、その関門の頂上に開けている小さな天上の平地だ。この列島に加わったエネルギーの集中するパワースポットだ。なのに、矢上へのトンネルができるまでは冬季の積雪で孤立することもあったという。それだけに、集落は、田園風景の中に沈んでいる。島根県の田舎の古い郵便局は、かわいらしいのだが、ここはまだ現役で、とても、かわいい。ここを走ると、どうしてもこの局の写真をいつも撮って帰るのだ。いま地中のエネルギーはこの郵便局に貯蓄されているにちがいない。
d0089494_2024627.jpg

パワー郵便局は江戸時代の浜田藩領地視察の道に面していて、局前の四つ角は、ここが要所であったことになるが、北へ入り江川・川越に下る道は通行止になっていた。川戸へくだる道も杉の小枝で、自転車ゆっくりおろします、状態で、おおかれこの江川への道は閉鎖されるのでは?郵便局前の交差点もお役目ゴメンになろか?パワーのガス欠なんだろうか。
d0089494_203193.jpg

局から東のおおきな送電線の鉄塔の立つ尾根が、矢上盆地の東の中野へむかう大利峠。峠のトップに送電線の足場がある。トンネルができたので、この峠もお役目ごめんになるかも。いや自転車専用路状態です。しかし、木々の繁みから見え隠れする送電線の鉄塔がなんだか見るたびに遠くなるような、登りです。だれか、行くな!って引き込んでるのです。強いパワーのバリアがこの峠にあるようです。
d0089494_2032527.jpg

[PR]
by forumhiroshima | 2012-07-17 20:04

THE WALKING PEOPLE no5

矢上ある盆地を邑智・オウチ盆地といって、オウチがオロチではないか?といったことはよく言われる。「こんにち、満州の興安山脈の山中にあって狩猟生活を営むオロチョンという少数民族も、西村博士が指摘する出雲民族がツングースの一派であるというツングースに属する。・・出雲の郷土史家たちは、ヤマタノオロチ伝説のオロチはオロチョンであるという説をもっている。中国山脈にはいまも昔も砂鉄が多いが出雲王朝が有史以前においてナカツクニを支配しえた力は鉄器にあった。そのの鉄器文明はオロチョンがもちこんだというのである。・・話の解釈はどうでもよい。いずれにせよツングース人種である出雲民族は、鉄器文明を背景として出雲に強大な帝国をたて、トヨアシハラナカツクニを制覇した。その何代目かの帝王がオオナムチ(オオクニヌシ・大国主命)であった。・・とw氏はいうのである。 司馬遼太郎/街道をゆく夜話」
出雲の郷土史家どころか石見の郷土史家たちは、スサノオの出雲神話は、この石見だと信じている節が感じられる。石見の海岸にスサノオ一家が上陸した伝承がある。石見伝説が乗っ取られたとおもっているようだ。
そのオロチがいたかもしれない邑智盆地が、この石見の山中の古代の中心地であった。矢上の諏訪神社のすこし東に郡山という地名がみえる。「郡家とは古代の郡という行政領域の中心地である。その立地点は交通の中心をなす。そこで邑智郡家の所在を比定してみると、[島根県史]も足利健亮氏(京都大学・歴史地理)も石見町大字矢上小字郡山の地に求めている。流域をたどる歴史/江の川」

d0089494_12225754.jpg

郡山の場所をさがしてみたけど、郡家の跡の標識などなくて、わからなかった。だだそばに今の行政機関の邑南町役場がデーンと建っていて、歴史の長い継続なんだ、とおもうよね。

「中国山地には製鉄業にしたがうために早くより多くの人々が住み、高い文化を持っていた。それは広島県三次盆地の周辺山麓に2,000以上の古墳が散在していることによってもうかがわれる。山中に多くの人が住み、高い文化が発達したということは、そこが農耕に適し、また人間が住むのにもっともふさわしい土地であったからではない。多くの人間が農耕生産のために最も必要とする鉄をとるためであったと考える。・・伝承が正しいならば、江戸時代の中ごろまでは大半が畑であり、アワやキビがつくられていたのである。そしてそこに住む人々は、田や畑をつくるということを主要な目的にするものより、砂鉄を掘ったり、炭を焼いたり、またそういうものを製鉄場に運んだりするような仕事にしたがっている者が多かった。そういう物資の運搬に、古くはこの地方でウシが多く利用せられ、したがってウシの飼育も盛んで、放牧地も多かった。宮本常一/開拓の歴史」

邑智盆地に、今は西の原山にトンネルができて、また江戸時代まで通行できなかったという断魚渓に幹線道路ができているが、外から入る道は四つだったようだ。その一つの西へ盆地から出るコースの峠の原から日貫・ヒヌイへ向った。オロチョン族の時代はもとより、ずっと後の時代の石見の国にはその歴史の残した資料がすくないのだそうで、郡家どころか、県庁にあたる国府の場所も決まっていない。そのなかで、飛鳥時代の歌人、柿本人麻呂の万葉集にのこる歌が、有力な歴史の手がかりにされている。人麻呂は石見で生まれ、宮廷歌人ののち石見へかえってここで亡くなったということは、石見では疑うことなき石見神話でもあるだ。人麻呂のお母さんの実家が、石見国の西端の戸田にある戸田柿本神社だという。人麻呂は石見の国府に赴任した下級役人で、老いてまたここに赴任したのは、数少ない資料の中でとりあげられている。その人麻呂が、のこした歌から、彼が都の飛鳥に向ったコースを推理されていて、コースは出雲へ、また周防へといわれてるが、石見国府推定地の浜田の北の下府から、この邑智盆地の郡家を経由して安芸の国へのコースも推定に一つにある。その安芸へのコース途中に日貫の町がある。
d0089494_12324966.jpg

矢上から日貫へむかう。
d0089494_1223591.jpg

人麻呂の朝廷への安芸の国経由コースだ。片道二十日ほどかかったといわれる。峠は峠・タオの原と呼ばれていて、そこに集会所と広場があって、峠のお地蔵さんが六座、鎮座されていた。矢上側の上り口にも、そして峠をくだったところにもお地蔵さんがおられる。ビューンと車は走っていくが、お地蔵とその背景の緑の野原と田んぼは、別世界のバリアの中にあるようだ。
d0089494_12242151.jpg


d0089494_12303978.jpg
日貫の町の交差点で右折して、古の推定・柿本人麻呂赴任コースをはずれる。江戸時代に日貫には石見の西端の津和野藩の領地だったそうで、峠の原付近に津和野藩と浜田藩との関所があったという。神社が正面にある次の交差点は左へは江の川の河畔にある川戸の集落へくだり、神社の左の急坂をたどれば、北の山越えで日和の集落へむかう。「エ」の次に道は交差し、そこに神社が鎮座する場所にはお寺と郵便局と、パターンはこの集落が街道沿いにできたことを示している。ここから日和へあがるので、水と食べ物を探してみた。江戸時代の豪壮な民家や、立派な代官所跡の建物もあるのだけど、お店はみつけられなかった。
d0089494_12332773.jpg

d0089494_12334188.jpg

神社あたりの地名は桜井といい、古代の桜井郷で、現在の桜江の地名の元になる。このあたり古代桜井郷の中心の場所でもあったのだろうか。官庁街には、トンカツ屋さんとウナギ屋さんは必ずあるものだそうで、考える人たちには脂肪補給がかかせないのだそうだ。だったら、トンカツがいいけど、ここでは無理みたいだ。
交差点にある大原神社の右の登りから水越峠へ向う。神社から尾根を回ると正面に高い尾根があらわれ、その頂上付近に筋が走っている。もしかして?あれに入るの、あれが、ルートなの?といそいで地図をみると峠からの分岐された林道らしい。その尾根はすぐそこに、高くそそり立ってるのだ。ファイト!!おなかすいてるよ。

なぜ?日貫から日和と、「日」のつく地名がここに固まってるのかと考える。登りになると何かを考えないと、自転車を降りたくなる。ヒは遠来の神様のことだという(吉田金彦・古代の地名)説が気に入っている。地名ってそこに住んでる人には「ここ」ですむことだ。つまりそこの人でない人たちが呼ぶ名だろう。この山上の谷間に来て、畑もそこそこに、そこらを掘り返して、黒い粉あつめて、大きな焚き火して、それでできた固まりをカンカンと叩いて、そして木もけずれる、石も砕ける金を作り出す人々の住む場所に「ヒ」って始まる地名にしたのでは、ないか。神様っておもったのではないか?

何かを考えて、登りのペダルを回すという単純作業の紛らわしに、地名の出来た訳なぞ、考えるのって、可笑しいって、気付いているんですが。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-07-16 12:34

THE WALKING PEOPLE no4

峠を越えて、小さなトンネルをでると、展望台があった。眼下に矢上盆地が、名前のとおりにお盆のように台地がえぐれて見える。此処にある展望台は、グッドアイデア!この展望はグッド!この展望台に案内板があって、「この景観は砂鉄採取のための鉄穴・カンナ流しで台地をとことん削ったあとに、田畑をつくったからだ」とある。カンナ流しで、田んぼの緑の中に小さく残された丘が点在して、その丘を巻くように道が太陽光にしろく照らされて、そのところどころに、石見赤瓦の家が、デザインされて置かれているように見える。中国山地脊梁の南に東にむけて点在する、三次や庄原、東城、新見、津山、と吉備の国の盆地はどこも美しい。このなかで、この矢上は図抜けて綺麗だ。その盆地を展望するポイントは当然グッドビュー!。
d0089494_9442316.jpg

d0089494_9445561.jpg

d0089494_9451829.jpg

カンナ流しの跡の地図がある。
d0089494_9471883.jpg

d0089494_9474753.jpg

この矢上は江戸時代の鉄生産の中心だあった奥出雲や道後山南山麓にまけないほど、掘り込まれている。ここで採取された砂鉄は、やはりこの盆地周辺でタタラ製鉄がおこなわれて、その製品は出羽の町の市にでも並べられたのか、出羽包丁の名はここの刃物に付けられたといわれる。もっと時代がさかのぼって、鎌倉時代にここで生産されたハガネを出羽鋼と呼ばれ、京都の粟田口の刀鍛冶師たちによって「正宗」におとらない刀の「吉光」として鍛えられ、後の時代の豊臣秀吉、織田信長に蒐集され、大阪城落城の際に徳川家康が焼け跡から探し出し、鍛えなおしたという。その刀はいまは国宝!!なんですって。美しい景観からは、とてつもない物が生まれる、のでしょうか。
その景観にむけて下り始めると、すぐに都会的な交差点にでる。香木の森公園で、そこはオガーニックレストランとか、地元の牛乳からできたアイスとか、温泉とかが点在する。ここを鹿の子原と地図にある。カノコはカンナでカンナ原がカノコ原になったのは、当たっているだろう。香木の森公園の敷地も明治34年の地図では池にみえる。この水をながして砂鉄を採取したのだろうか?
d0089494_9454199.jpg

d0089494_9455281.jpg

以前この矢上を走り回ったことがあって、その時昭和38年発行の島根県下30地区の民俗-山陰民俗学会発行にある、鹿の子原の民俗のコピーを見ていた。鹿の子原の民具リストに「鉄穴鍬」のある家(土居惣一所蔵)とある。「鉄穴鍬」に興味がでたのでなくて、所有者の土居家を探してみたかった。探したからといってドイ(ドッテ)ってことないのだけど。その鍬が、学生時代に発表された「カムイ外伝」の「黒鍬」を思い出させたのです。
桑田の地名はそこが鍬をつかって開くほどの荒地であって、その鍬は鉄製でなければ、開拓できなかったという記憶があるといわれる。よく古墳時代にその土地の豪族は農具それも鉄製のものを貸し出していたと解説される。作業が終わるとその農具は回収されるから、豪族ってレンタル屋さんで、たしかにレンタルできるってことは道具持ち・お金持ちってことだとすれば、わかりやすい。
が、鍬を沢山もっていても使えなきゃ、いけない。どんな道具も・自転車も、使いこなすってことで、最終の機能が決まる。鍬ももっていない、もしくは、かっぱらってきたとする人たちでも、その鍬の使い方が優れていて、名を成した人たちがいた。琵琶湖の西岸の穴太・穴穂・アノウの集落には古代からの「土木請負に従う人夫」がいて「滋賀高穴穂の宮をつくる土木技術は穴太人が担当しただろうし、のちに天智天皇の滋賀大津宮がつくられるときも活躍したにちがいなく、その技術は地元の農業灌漑にも生かされて、戦国期にはふたたび活躍の時代に入って諸国の城造りにやとわれ・・穴太の黒鍬といわれた。司馬遼太郎・街道をゆく・湖西の道」黒鍬は広くておおきな鍬だそうで、オオグワともいったという。この鍬は尾張の木曽・長良川流域の治水作業からできたものだといわれる。当然カンナ流しには必要だったのではないか。探していた土居家はわからなかったが、鉄穴鍬は尾張の黒鍬だっただろう。自分もここ鹿の子原の土居家に触れてみて、黒鍬のように自在に道具(自分には自転車)使いこなせないかな、と思ったのです。

矢上盆地にはカンナ流しで残された丘がいくつもある。そのなかで、大きな杉がつきでた丘が中央にある。どこにでもある鎮守の森だが、そのそばの矢上高校の校舎より高いから、わかりやすい場所でそこに諏訪神社が鎮座されている。
天明の頃の飢餓がこの矢上にあった記録に、八神村とかかれている。江戸時代には「八神」であったのかも。その八神はオオナムチ(オオクニヌシ)の嫁さんで因幡のヤガミヒメだろうといわれる。この二人の間に生まれたのが、タケミナカタで信州・諏訪湖の辺の諏訪神社の神様で、出雲の国譲りでタケミナカタに負けた神様でもある。諏訪神社を研究した藤森栄一氏は、タケミナカタは製鉄の神ではないといっている。信州には古代の製鉄の跡はみつかっていないのだそうだ。

矢上の諏訪神社に杉の並木は樹齢千年ともいわれる杉木立。出雲も石見も山中に入れば、神社の鎮守がこういった杉の古木で覆われる。その下にいると、千年どころか万年といわれても、信じてしまいそうだ。ふと、古事記に諏訪の神を洲羽と書いてあったことに気付いた。因幡は稲羽だ。口羽、阿須那(足羽)、出羽、洲羽と、文字遊びは、楽しいもんだろ!って杉の木立がざわめいた。エ!あなたはタケミナカタ様?いえ見えなかった。
d0089494_9462437.jpg

神社を出て、のぼりで西へ向う。家並みがつづく旧道の家々は閉まっているのだけど、どこか明るくて、人々のざわめきがあるのだ。家の戸の前の、ちいさな花壇のつつじが数輪のこっていた。とても空がひろい町だ。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-07-12 09:50

THE WALKING PEOPLE no3

田所の集落の古道を南下するとR261に合流する。直進すると、中三坂トンネルをぬけて大朝の町、広島県に入る。トンネル手前の幹線道に小さな分岐があって、そこを入ると登りになって大草という数軒の集落で、舗装路は行き止る。「田所村を中心として一帯に洲浜という家が多い。二十戸ぐらいはあろう。その本家は大草の洲浜家だといわれる。この姓の一族は皆財産家である。そして本家は特に尊敬せられている。この家はいろりにずっと火を焚いていて飯や茶を煮てるが、この家ではヒドメとて、火のついている木の一つを夜は灰の中に埋けておいて、朝はこれにて火を燃やすことにしている。この火は秀吉の頃から続いているといわれる。・・丁度秀吉の朝鮮征伐の時、人夫にあてられた。一人の旅僧がこの家を訪ねて托鉢すると、一家が沈んでいるので、その訳を聞くと、徴兵のことを答えた。僧侶は身代わりにゆくが、代わりに帰えれたら、寺を建てていただきたいと言った。僧は無事帰還できたとき、同家では矢上村へ安楽寺という寺を建てた。宮本常一/中国山地民俗採訪録」
この安楽寺はいまもあって、大草の集落へ向って、ヒドメの家はどれかいな?と。ちょうどワラ屋根からトタン屋根に換えている家があったので、尋ねたが知らないとのこと、犬に吼えられながら、引き返したことがあった。昭和47年発行の石見町史にはこの大草に落人伝説があると記載されていた。
d0089494_1457339.jpg

田所の西の市木の谷、大野にも落人伝説があるという。田所の旧道からR261に出ずに、西にひらける谷をつめて越す谷が大野の谷になる。安芸、備後、石見の国の最深部になるのだろう。しかし、宮本常一はこうも書いている。「中国山地には多くの古風を存しているも、他地方と異なり交易交通ともに非常に発達していたと思われる。・・人の動きは相当のものであると見ねばならぬ。たとえば出羽の牛市のように、国にして備後、安芸、周防、出雲、石見、長門の六国の人の集まってくるようなものもある。大森の銀山は江戸へ通ずる道を持っていた。したがってそういう人たちの通る道というものは相当よく発達していた。・・邑智郡から安芸へ越えるにも三つの峠があった。西を市木、中を中三坂、東を亀谷といい、この三つを称して三坂といった。いまは市木から大朝へでるものを三坂峠と通称するようになっているが、中三坂の北麓にはいまも三坂という部落がある。宮本常一」
d0089494_1457324.jpg

d0089494_14574543.jpg

三坂峠とは坂と峠と二重にかさなって、Wですから、すっごく厳しそうだけど、中国山地越えの峠としての難易度ランキングでは、上位ってこともないだろう。備北や東中国山地脊梁部には、もっと長くてキツイ峠がひかえている。しかし、ミサカには訳がある。「峠は古くは坂(サカ)といわれますが、これは古いですよ。万葉集にはたくさんのミサカ・神坂がでてきます。・・地方から都へ向ってゆく場合、地方の人はこれを「ミサカ」といったんですね。地名と日本史/谷川健一VS一志茂樹」「古代の道になりますと、その土地の地形に合うように、あせらずに道がたをつけていますし、水のあるところ、とくに清水のあるところとか、南側の陽あたりのいい、冬も通れるようなところを選んで悠々と通じています。したがって道がたをさがし、そのあたりに残っている細かい地名とあわせて考えれば、この道は新しいかが半ばとけてくるものです。 地名と日本史」「トウゲという字は山を上がる下がるで日本で作った文字で鎌倉時代の初めころまではなかったと思うのです。・・碓氷峠にある熊野皇太神社の鐘に1292年の銘があるのですが、到下(トウゲ)と書いていることから。まだこの頃には峠の文字は定着してなかった」
そうなんですよ、到着!ここから下り!が峠なんですよね。到下って、トップについた感情がこもってますよね。また峠は「手向、タムケ」で鎌倉時代ごろからある言い方だそうで、峠の鞍部には、荒ぶる神がおるので、その神に祈る、手向けする場所といいます。この解釈はよく聞きます。

田所のR261との分岐を西へ入る。この谷をこえると市木の大野だといったけど、明治34年の地図にはまだ整備された道は山越えしてない。西への峠はまだなかった。今は市木から急坂の道で、峠で分岐されて、高水という集落から北の矢上へ下るルートがある。ここに「いこいの村しまね」ができている。
d0089494_1571077.jpg

d0089494_1572113.jpg

田所から高水への道にはいるとすぐに、水場ができている。蛇口が用意されて、そのそばにお地蔵様が鎮座されている。その奥に小さな公園があってサクラの並木とその向うに清流がながれている。空気がしっけて冷たくて気持ちいい。建てカンバンに「サクラ地蔵」とある。そこに「1851年にこの道は川向こうに造られた。ここに追いはぎがでたりすることから、人々がお地蔵様を祭った。それからは追いはぎも出ず、ここが村の共有地で夏草を刈る場所であったりしていた。がそののち道は付け替えられ、向こう岸への橋も落ち、まつられた地蔵さまへ参るものもいなくなった。新世紀になった2001年に荒れたお堂からお地蔵様をこちらにお迎えした。それまでの石造りのお堂は記念にそのまま保存して祖先の大切な遺跡とした後世につたえる。」ここはほんとうに石見ですね。本物の石見人がいますね。
d0089494_14584750.jpg

d0089494_14583385.jpg

d0089494_1459236.jpg

d0089494_1459312.jpg

となると。明治34年の地図で破線だった市木への峠越えは江戸末期の1851年、ペリーは下田に現れた頃ですね。風雲急な時代だったのですかね。
このお地蔵様が「サクラ地蔵」ってよばれるのは、「サクラってサ・クラで「クラ(谷)に接頭語のサを冠したもので、クラ(谷)を越えるのが峠  地名の話/谷川健一」からでしょうか。石見人の仕事ですから、こんな風に考えました。この谷をつめると高水の部落にでますが、峠越えは難しいルートでした。そのルートが改修され峠越えができるようになったので、そのお知らせとして、ここにサクラ地蔵をお祭りしました。これを見れば、わかりますよね、この谷をつめて峠越えできるって。田所から市木への最短距離ですよ!。

谷は広く明るいのです。そうして、なにより緩やかなのぼりです。ヤギさんもいます。
d0089494_14595926.jpg

d0089494_14593810.jpg

峠の分岐で右へはいり、小さなトンネルを抜けると、いきなり矢上の町が眼下にひろがってます。こんなにラクチンで440mの標高ゲット。「田所は山ひとつ南へ越えるともう広島県になる島根県最奥の村で、脊梁山脈は目の前にあるのだが、それは低い丘としか見えない。谷はひろく明るくゆるやかで水田がよく発達している。峠の上まで何回も休まねばならぬというような坂がすくない。 宮本常一」
矢上からもう一つ高度をあげて走ろうかな。なんて、いいのかな。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-07-07 15:01

THE WALKING PEOPLE no2

阿須那から折り返して工事中の河畔の道を行けずに、山中の広域農道を出羽へもどる。新道はきつい。
山中から出羽川ぞいにゆくと郵便局があって、その前の空き地に「中国三大牛馬市開催地跡」の石碑がある。
d0089494_1315157.jpg

d0089494_131731100.jpg

d0089494_13172377.jpg

宮本常一の中国山地民俗採訪録にこの牛馬市の報告(昭和14年ごろ)がある。「ここの牛市はもと中国一といわれるほど賑わったもので、6000頭の牛がでたこともある。博労は石見を中心に出雲、備後、安芸、周防、長門から集まってきたものである。この市の起こったのは不明であるが、このあたりは浜田藩に属し、藩の奨励によって盛んになったと言われている。・・今は香具師が多いが、昔は金物屋が主であり、反物屋も多かった。娘たちはこの牛市に出て晴れ着を買ったものである。そのほかには菓子棚も多くでたし、一時は料理屋が盛んだったこともある。」
この市の発生については、島根県教育委員会の歴史道調査報告書が「延喜年間(901~922」阿須那の賀茂神社に牛馬をひいて安全を祈願することが始まり、やがて市へ発展していったという。」とある。出羽の中央に橋があって其の北の丘に七神社があって、住吉の神と宗像の神が祭られていて、このあたりに川舟の港でもあったのだろうか?と思う。それに「歴史街道地図」によると、大森・出羽、出羽新庄、浜田・三次の往還の交差点でもあって、賀茂神社の市より発展したのかもしれない。
d0089494_13194143.jpg

開催地跡の石碑そばに恵比須の小さな祠もあって、6千頭もの牛が「モー」ってうなっていた景色を想像してみたりする。
d0089494_13154110.jpg

「百姓たちは牛の飼料の草を刈って持ってゆく。たいてい二里の範囲からでかける。博労へ直接に売るのだが博労は思い切って値切って買う。・・市が盛んになるにつれて女も多く出るようになってきた。初めは恥ずかしがっていたが、儲けがよいので、こずかい儲けにでかける。宮本常一」出羽の中央の橋の欄干に河童の像がそれぞれに置いてある。清水昆さんのマンガのカッパに似ている。色っぽい!。
d0089494_13161120.jpg

カッパが、馬を川の淵へ引きこもとすると、馬ががんぱってそうさせないとしたした時、カッパの腕がぬけて、その腕をカッパが取り戻そうとするとき、腕をもとどうりにする薬や秘術を教えてくれる話がたくさんあるのだけど、ここもそうだろうとおもった。乗馬での落馬には、その施術があるそうで、それは相撲の施術と似ていると聞いたことがある。接骨や整体の一分野だ。牛や馬があつまる市にそんな施術の先生が居られると、市の人気もでるだろう。それになんといっても池月伝説だとおもう。出羽のちかくに馬場とか馬野原の地名も見えて、古代の騎馬民族到来地帯!なぞと妄想してしまう。
d0089494_13182944.jpg

出羽川沿いに河上へ進むと旧道は小さな登りで河畔から離れる。ひろい台地にでると集落に入る。鱒淵という地名だ。鮭も鱒も遡上する魚類で、出羽がツングースの鮭だという話がだぶって、うれしいのだ。
d0089494_1319781.jpg

宮本常一の名作「忘れられた日本人」は「土佐源氏」で知られるが、その中に「文字をもつ伝承者(一)」の田中梅治翁の家のある集落だ。宮本常一は「文字をもつものは、文字で読んだ知識が伝承の中へ混入していき、口頭のみの伝承の訂正がくわえられるものである。それはいままでの伝承とはくい違いがある、村全体のものになることは少なく、・・村人はその人をただえらい人とのみ記憶している。文字をもつ人々は文字を通じて外部からの刺激にきわめて敏感であった。村人として生きつつ、外の世界がたえず気になり、またその歯車に自分の生活をあわせていこうとする気持が強かった。そうした中の一人として、田中梅治翁の印象はいまもあざやかである。」
旧道の平行して台地に二本の細い道はのびていて、その三段の道にそって集落はまとまっていて、その一軒一軒の表札を覗いてみた。がほとんど表札がみえなきか、前庭がひろくて、侵入できなかく、発見できなかった。
宮本常一はここに二回訪れている。二回目の訪問記が「忘れられた・・」に掲載されている。その訪問時は渋沢栄一とそして石見の郷土史家4名であった。渋沢は訪問後に「あの人はね、いま挨拶するのに、普通の人なら手のひらを畳につけて挨拶するだろう、手のひらを内側に向けて手をついていたよ。律儀で古風なひとの証拠だよ。あの人の頭の中には古い知識が正確にしかもギッシリつまっているよ。引き出して記録しておきたいものだ。」
この出羽の西の旭に温泉があって、地元の人たち用みたいな古びた入浴料金が300円の温泉に入ったとき、体を洗っていると両隣のおじいさんが、洗い終わったのか、二人とも坐っていた座椅子とおけを石鹸で洗い出した。とても丁寧なもので、カラスの行水の自分は終わっても、爺さんたちの作業がおわるまで動けなかった。爺さんたちは、終わると椅子とおけを入口にきちんと重ねられた。宮本常一たちの訪問から何年たったのだろうか。変わらないのだ、石見の人は。
増渕から古道は下って新道と合流して田所へむかう。道の駅のある交差点の手前に図書館があって、ここに町の歴史の資料があるか、立ち寄ってみた。木造の一階建てで、明るくて、会議室は畳じきだ。読書用のテーブルが3つ。そこに、これが正規中学生といえる女の子が勉強していた。実に新鮮だ。沢山の郷土資料を確認して、田所の町へ入った。

宮本常一一行は田中翁との会合をこの田所の旅館で行なっている。町のHPで宿泊のリストでは二軒の民宿で、町の中には一軒ほどだった。その民宿は大きな民家に併設されたような二階建の木造で、きっとここなんだろうと、かってに宮本常一のこの町への訪問を想像して、ホンワカな気分になってしまった。AKBより常一なもんで。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-07-05 13:21

THE WALKING PEOPLE no1

司馬遼太郎の「街道をゆく 夜話」に、生きている出雲王朝という短編がある。
「出雲民族はいまの民族分類でいえば何民族であったのか。  西村真次博士の著[大和時代]のなかの一文を借用する。  今の黒龍江省のウイスリーあたりに占拠していたツングース族の中、最も勇敢にして進取の気性に富んでいたものは、夏季の風浪静かなる日を選んで、船を間宮海峡あるいや日本海に浮べて、勇ましい南下の航海を試みた。カラフトは最初に見舞った土地であったろう。彼らの船は更に蝦夷島(北海道)を発見して、高島付近に門番(otoli/オトリ-小樽)を置き、一部はそこに上陸し、他は尚も南下して海獺/モト(ラッコのこと)(moto/モト-陸奥)と命名し、海岸伝いに航海を続けて、入海多く河川多き秋田地方に出たものは、そこに天幕を張って仮住し、鮭の大漁に喜んだであろう。そこを彼らは鮭(dawa/ダワ-出羽)と呼び慣らしたので、遂に長く其の土地の地名となった。陸奥、出羽はしかしながら、ツングース族の最後の住地ではなかった。彼らは日本海に沿うて南下し、或いは直接に母国から日本海を横切って、佐渡を経て越後の海岸にいたり、そこに上陸し、或いは更に南西方に航行して出雲付近までも進んでいったであろう。こうした移動を私はツングース族の第一移住と呼んでいる。これは紀元前1800年から千年位の間に行なわれたとおもわれる。
  私(司馬)はこの論文を借りて、私の論旨に援用しようというつもりはない。ただ読者の空想の手助けになれば、それですむ。」

出羽がツングース語で鮭であることが、すごく印象に残った。それは、いま江の川で鮭が遡上しているという事実に、自分は感動していて、その遡上する三次市川根のすこし江の川川下に流れ込む川が出羽川といい、その中流に出羽(イズハと呼ばれる)の小さな集落があるかということも、その感動を強く補強してくる。

アマゾンのブックセールで探すとこの西村博士の[大和時代]があって、ロードレーサーを¥29800で販売するドナッテルノダ!!アマゾンに、大急ぎでオダーした。しかし、しばらく大和の畿内を走ることにいそがしくて、ページも開いていなかった。
畿内はどこもびっしりと連なる家並みの中を走るだけで、少々ウンザリしていたのだけど、ガンバッて、畿内をきめた四方の境を尋ね終わると、ただただホットしている自分をみつけた。そして走るの義務みたいだったのだと、気付いた。
そうしているうち、この[大和時代]が目に入った。大和が終わって、大和時代に気付いたってことだ。おかしいね。

島根県邑南町出羽を地図でみていると、その出羽川が江の川に流れ込む場所が口羽という集落で、ここも○○羽の地名なんだと、川沿いの小さな集落を思い出して、出口に羽は振ってあるな!と思ったりしていた。その二つの羽の中央に阿須那という集落がある。
d0089494_20414165.jpg

とても小さな集落だけど、ここに賀茂神社というとてもりっぱな神社がある。鎌倉時代にこの神社の牛馬市で売買された軍馬・池月に伝承がある。こうである。
「池月の母馬は池に落ちて亡くなってしまう。池月は月夜に池の湖面に映る自分の姿を母馬とおもって、飛び込んでしまう。しかし湖面の波紋は自分の影を消してしまう。池月は月夜になると池に幾度も飛び込んでしまう。そのおかげか、池月はとても水に強い馬になって、その噂が源頼朝にとどき、阿須那の賀茂神社の牛馬市で、買われた。その池月は宇治川の合戦では、家来の佐々木四郎高綱が拝領し、身の丈ほどの流れを走るように泳ぎ、先陣を切ったという。」
賀茂神社の神様を調べてみると、賀茂一族の神ではなく、阿須波の神が古くから鎮座する神様で、この神様は福井市の「足羽神社・アスハ」に居られたという。ここに、「羽」が出てきたぞ。日本海から、この土地へ移動してこられたのか!西村博士のいうところのツングース族の記憶がこの地名となって残っているのか!!

カムチャッカ半島で亡くなられた写真家で随筆家の星野道夫さんが、クリンギットインディアンの歴史の伝承を書き残されている。「森と氷河と鯨」といい書籍だ。ワタリガラスの伝説を求めてという副題がつけられているように、彼らの祖先のワタリガラスの物語を伝承し口述する若者の話だ。
d0089494_20432577.jpg

この本にかれらのトーテムポールが森の中で朽ちている美しい写真がある。若者ボブと著者が尋ねてゆく森の中のトーテムポールの話は、ふと、この国で古代の伝承をのこす私たちのトーテムポールが神社の森、鎮守の森ではないのかと、思ったりした。
d0089494_20425597.jpg

ここの賀茂神社はその思いを裏切らない森とその隣に名馬・池月の名を冠した清酒の酒造家がある。そして鳥の羽の地名。
d0089494_204461.jpg

d0089494_2044431.jpg

ワタリガラスの物語を思い出すと、すぐに、「ネイティブアメリカンの口承史 一万年の旅路」が浮かんできた。アメリカのネイティブアメリカンのイロコイ族という艶のある種族の伝承は出版されている。彼らがアジアの土地を旅立つところから、話ははじまる。彼らは東へと向かい大きな海にでた。「南へゆくと緑の丘陵地帯が明るい海岸と出逢い、土地はどこまでもゆるやかな起伏がつづいて険しい山がなく、・・高台で遠くに大海を眺めることができ、海まで歩いてもそれほどかからない。・・むこうには二本足であるくほかの者たちの姿が見えた。さて、驚いたのは、・・そこと向うとをへだてる急な流れの面を、その一行は歩いて渡った。といっても、彼らが川に近づくと足が水中に隠れた訳ではない。坐らないものたちは水上に立ったまま、我らが陸で使うような一種の台に乗って、水面を進んだのである。・・彼らの台は内側に曲がっており、中の足はまったく見えなかったという。」舟に出逢った記憶なのだ。これで海が渡れる。オレには舟の代わりが自転車!いや舟はいらない、自転車でいい。
d0089494_2045142.jpg

出羽の郵便局の前にひろい空き地があって、そこから出羽川を下れば、十数キロで阿須那の集落と、スタート。いつものように幹線のそばの旧道をうろうろ、集落の中のかなりいい感じの辻にでて、快調とおもいきや、通行止の標識とガードマン。工事現場のそばをチョチョット行けませんかね?「ダメ!」引返して、山岳コース。けっこうきますし、心の準備もなしで、失意倍増です。阿須那の町は小さな町とひろい学校。川沿いの小山の向うに神社があって、隣の池月酒造の小さなお店も開店している。奥に老人がおられる。この冬の酒が小瓶でならんで、超辛口!出羽への帰りの山岳コースがなければ、せせらぎがとおりぬける路地にへたりこんで、グイーとやって、自転車枕にスヤスヤ、できるのに、とその場に座り込んで空を見上げると杉の高い木立に空が二つに割られて、ピュウーとツバメです。
d0089494_20452148.jpg

新聞紙面に土地公示価が踊っている。ネットで阿須那の価格をみてみた。
d0089494_20455578.jpg

d0089494_20461421.jpg

公示価格って、なんなの?せめて美味し酒と鎮守の森ぐらい評価できないの?できねーだろうな。
阿須那 5500/1㎡ 東京・丸の内 27,000,000/1㎡
価値の基準はちがってるのだから、ヤイヤイ、いわないの、です。
[PR]
by forumhiroshima | 2012-07-03 20:50


最新のトラックバック
presiden jok..
from plus.google.com
venuscozy.com
from venuscozy.com
whilelimitle..
from whilelimitless..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
fashion mich..
from www.mikaelkors..
biber hapi
from biberhapisipar..
iphone 7 cas..
from myiphone7cases..
máy xay cầm ..
from goo.gl
ultimate testo
from ultimate testo
ライフログ
検索
タグ
人気ジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧