こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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石工たち

琵琶湖、湖西という美しい名のある土地に坂本がある。この「坂」は比叡山の延暦寺へ向う道のことで、比叡山の正門にあたっていて、比叡山へは京都から登ると思っていた自分には、京都は裏口になっていていることで、アレッ!という違和感がある。坂本は延暦寺の玄関だ。そこに美しい石垣が残っている。
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司馬遼太郎の街道をゆく1 湖西のみちに、坂本に入って「豪壮な石垣があらわれる。代々の天台座主の住まいであった志賀院である。
重苦しいほどの堅牢な門が石段の上にそびえ、仰ぐ者に威圧感をあたえる。・・それにしても、滋賀院の石垣こそ穴太衆・アノウシュウの傑作のひとつではないかと思える。ただ実用を超えて、権威の表情として組まれているあたり、こういう里坊に住むにはよほど神経を鈍感にしておく必要があるかもしれない。 司馬遼太郎 街道をゆく16比叡の諸道」
街道をゆくのシリーズでこの坂本と穴太衆のことは、「街道をゆく1湖西のみち」とで、二度登場している。めずらしい。司馬さんの著作の製作年次暦をたどってみた。というのは比叡山の天台宗の最澄と、高野山の真言宗の空海との対立が書かれた「空海の風景」が街道をゆくの1巻と16巻の間の作品ではないかとおもったからだ。「空海の風景」が1975年、街道をゆくの湖西のみちは1971年、叡山の諸道は1979-80年。当たっていた。司馬さんの平安時代に成立したこの巨大二宗派へ理解はすさまじい奥行きがあると思う。とても熱い資料との戦いだったと思う。その資料調べの拡がりの中で、「街道をゆく」で、二度も登場する、坂本の石垣と、それを作った穴太衆という坂本の南の湖西の集落の人々の記載となったのはどうしてだろうか。
「空海の風景」のあとがきの中で、
「その人物を見たこともないはるかな後世の人間が、あたかも見たようにして書くなどはできそうにないし、結局は、空海が生存した時代の事情、その身辺、その思想などといったものに外光をあててその起伏を浮かびあがらせ、筆者自身のための風景にしてゆくにつれてあるいは空海という実体に偶会できはしないかと期待した。・・結局はどうやら筆者の錯覚かもしれないが、空海の姿がこの稿の最後あたりで垣間見えたような、感じがするのだが、・・あるいはそれは筆者の幻視だろうということになるのかもしれない。」

坂本にある比叡山の守護神といわれる日枝神社への湖畔から直線ののぼる広い参道の両側に、近世、延暦寺の座主の住居ができ、また比叡山山頂の延暦寺で60歳を越えた僧たちが、許しを得て「ふもとに降りて里坊に住むという風ができた。 街道をゆく16」その里坊とよばれる寺院が豪壮な石垣の上につくられ、その多くの寺院の建物は今は失われ、その石垣だけが残っている。普通には石垣だけがのこった寺院の跡はさびしいものだが、ここの石垣の前に立つと、その感傷のような感情はうまれない。ギリシャの神殿が屋根や壁を失っても、その神殿の誇りは失わないように、この石垣もそれ自体で存在している。「穴太の里の歴史はおそろしく古い。千年以上前に成立した“延喜式”にも重要な駅として指定され、駅馬五頭がおかれていたというが、これでもまだ記録はあたらしい。それより古く、成務帝というその存在さえ、さだからぬ帝のころ、ここに都があり、“志賀高穴穂の宮・シガノタカアナホノミヤ”と称せられていたという。・・この宮をつくる土木技術は穴太人が担当しただろうし、のちの天智帝の滋賀大津宮がつくられるときも活躍したにちがいなく、その技術は農業灌漑にも活かされ、・・この古色を帯びた湖西・北小松の漁港施設た溝に生かされている。司馬遼太郎 街道をゆく-1」

古代の街道を開いた人々の記憶も残っている。
「約1600年前、元明天皇の和銅年間に、初めて木曽街道が開かれた。この街道の開削のとき、クマソギ・隈削という特殊土工がいた。後日この人々が木曽街道に捨て置かれた。のち彼らの出没があり、彼らをクモスケと呼んだ。ものと人間の歴史」道路建設の工人たちの歴史は岩を「削ぐ」石工の歴史でもある。「私は以前、中世後半にできた普請(土木)という言葉が流布するまでは、“土木”を“穴太”と呼んだのではないかと想像していた。が、どう詮索しても、その証拠がでてこない。司馬遼太郎」
古代に寺院建設がはじまったとき、その建築の土台を石組みでおこなった。それまでのこの国の家屋は掘立て、つまり地面に穴を掘って、そこに柱を埋め立てていた。新しい寺院の建設にその土台の製作の工人が必要で、彼らは渡来の技術者であることが当然に予想される。司馬さんは街道をゆくを始める訳の一つに、朝鮮半島からの渡来してきた人々の存在が、この国の創建にかかわった事実をさがしたいと、渡来人の集中して居住した「この紀行の手はじめに、日本列島の中央部にあたる近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである。」と書いている。穴太衆が渡来の技術者であることも、当然の予想になろう。湖西の西の比叡山の山中にある延暦寺の建設は、その土台の石垣を組むことでつくられる。平安時代この作業を穴太の人々が担っていた。そののちの時代のに、この人々が注目される事件がおこる。それは信長が琵琶湖湖畔に安土城の建設を始めたときのこと。この城は巨大な石垣の上に計画され、石垣の上の城の建設も史上初めての企てだった。城の建設の現場監督は羽柴秀吉で、彼は地元のこの穴太の人々に注目した。穴太の人々は、初めての大工事のために、この作業の協力者をさがした。

石工には、「石採・イシドリ」「石彫(石削)・イシホリ」と「石積・イシツミ」の三種の石工があり、良い花崗岩を産出し、船という運搬手段もある瀬戸内の石工たちが「石積」の技術者として知られていた。穴太はこの石積石工を「浜筋の者」とよんで、多くを瀬戸内海から呼び寄せ、その監督になったという。周防、安芸の国の者が多かったという。この人々にも渡来技術の伝承の影がある。「田渕実男 石垣」

「山口県大島の久賀というところも石工の多いところである。ここの石工は山口県から北九州の海岸を稼ぎ場にしていたが、このごろ、高知県の山中を歩いてみると、あの山間部にも出向いて仕事をしている。宮本常一」いまも久賀の南の尾根には鎌倉時代の水道用疎水の石組みがある。久賀は常一さんの故郷の隣町だ。

穴太の人々はこの安土城の建設の際武士に取り立てられた。これ以降穴太の人々は石垣取りになり、「江戸時代になり、城普請は沙汰やみになったばかりか、多くの城が取り潰された。穴太石垣師の配下の石工たちは、里廻りの石垣師になって、地方の石垣師になるほかなかったが、親方たちはそれぞれ武家に雇われたという。彼らの石垣は、その石垣を上り詰めたとき、頭上に多いかぶさっって空が見えないほどの勾配をもっているような技術だった。武士となった彼らは、「下野、草野、野本、水野」など穴太・アノウの「野」の字をもって家名とした。「およそ名門名流の由緒については伝説がつきまとう。石垣・田渕実夫」
彼らは藩の領下の治水事業をになってゆくことになる。江戸時代の河川工事などの大工事は武士によっておこなわれている。水田を取れば、増やせば兵を食わせられる。藩の趨勢をになっていた。岡山藩は「備前積」という特殊な石組みの技術者を抱えていたし、熊本藩の臣下だった石組みの技術者の下野光俊は千石の高録で水戸藩にスカウトされている。現代のサッカーや野球のプロみたいだ。この人々は明治の時代になって、ゼネコンの創設にかかわる。ツールドフランス2010の繰上げられたチャンピオンのシュレック選手もツール出場選手二世だったっけ。ライディングスキルも伝承するのかな?
司馬さんはこのゼネコンがきらいなようだ。ビルを石灰岩の塊といい、この石灰岩をもって日本を覆い尽くす勢力と思っているふしがある。彼らに君たちの祖先がこの国をつくった精神の一端をこの坂本の石垣にみよ!と激を送ってるようにもおもえる。
動いて後にながれる景色の中で石垣はなにか異彩な光を放つことがある。
「故郷の米はうまいというが、送られてきた米を炊いても故郷の飯ほどの味わいはないという気がする。米はそれを産み出した土地の水で炊くとき、米と水とはよく思いあって風味をかもしだすのである。村の石垣にしても、村の山から切り取り、村の川から拾い上げた石で畳んでこそ、はじめて村の風土と調和するのである。田渕実夫」
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by forumhiroshima | 2012-08-27 09:50

若狭井(閼伽井・アカイ)

この3月の東大寺のお水取りで、深夜に閼伽井から汲まれた香水を本堂の格子越しに手のひらで受け止めることができ、その際の水のヒヤッとした感触がいまも残っている。それ以後、手のひらにマジックがかかってしまっているようだ。

夏になると無性に、青い日本海に行きたくなる。東大寺の二月堂の西にあるお水取りの水をくむ閼伽井戸の水は若狭から一年かけてやってくるという伝承がある。あのヒヤッの水は若狭を昨年旅立っていたことになる。お礼に、いってみようか。

「ワカサの語源については色々の諸説があるが、水はアイヌ語でワッカ、ラテン語ではアクア、梵語ではアーガャ、即ち閼伽の水で、いわば国際語といっていい。・・おそらくワカサの地名は、水の豊な国に、若々しい魂を想像し、その二つのイメージが重なって出来たものに相違ない。白州正子 若狭のお水送り」
「しかし、こうした地名詮索のたぐいにはキメ手がない。ひまつぶしにとどめておくほうがよい。司馬遼太郎 街道をゆく1」
しかし、地名はおもしろい。
奈良、東大寺から地図上を真北にのぼると、京都の東をぬけて若狭湾にとどく。
その京都の町の発生について
「昔の京都市内は町中、川が一面にながれていたようだ。元禄二年(1689)の「名所都鳥」によると、堀川、二股川、小川、更級川、耳敏川、京極川、中川など沢山の川名があがっている。・・堀川は源が若狭国から流れて来ている、としていることで、昔の賀茂川は西よりであり、それが遠く若狭からながれてくるといわれるほど、大川であるとおもわれていた当時、かっての京都市域は賀茂川の支流の大小が網状に南流していた。その一つに烏丸川があった。カラスマはカワラ(河原)ス(洲)マ(際)が語源で、河原の洲の上に発達した場所・・。 吉田金彦 古代地名を歩く」
「794年恒武天皇は低湿地の上に平安京をたてた。都を低湿地に建設するために、平地を流れる川を東にあつめて堤防を築き、南流させて宇治川に落とすようにした。これが賀茂川である。いまの三条から四条のあたりまで沼地があり、これが神泉苑で、この東南角を埋めてできたのが二条城であり、もとの神泉苑の周囲は10町をこえたというが、あるいはもっと広かったかもしれない。この西には低湿地がひろがってセリが生え、アシの穂が風になびいていた。大雨では大きな湖になってしまうことから、次第に右京の地は放棄されて、人々は朱雀大路から東側へうつってくるのである。宮本常一」
この神泉苑の辺にあったのが壬生の集落で、ミブは湿地を示す地名。ここに江戸時代末期に新撰組の駐屯地があった。非正規雇用の新撰組には厚生面での配慮もなく、湿地の上の宿舎が与えられたのだろう。「わたしの手元に豊玉発句集という無名俳人のおそろしく下手な句集がある。豊玉とは、土方義豊という剣客の雅号である。・・土方は故郷の兄から手ほどきをうけた発句をひねった。・・“水の北山の南や春の月”駄句愛すべし。 司馬遼太郎」新撰組が闊歩したころも、京都の北山は水の山であったのだろう。水の上の京都の町の冬は厳しい。そして壬生の湿気に包まれた寒さが終わる春の月として読めば、この歌、駄作なんなじゃないような?愛すべし、なんだよな。

京都の町並みをかえるほどの水が、東の山科の峠を東に越すと、三井寺とよばれる、名に井戸をつける園城寺がある。山科を東西に走る国道1号線の側道に旧1号線がわずかにのこって、迷路のような山科の古い町並みをぬけて、大津へ逢坂越えで続いている。逢坂は二つあって、南はいまの1号線の大幹線道路。北側は琵琶湖疏水の上にあって、白州正子 近江山河抄では「峠の上で、二つの坂道が合うところからでた名称・・」とあるが、旧道とおもって入った、それも一応近畿遊歩道・逢坂と標示も確認した道は合流する場所はなくて、「逢坂越のもう一つの道“小関越”と呼ばれる旧道は、たしかここへ通じているはずだが、もう私には探してみる気力はなかった・・白州正子」とあるほどで、そこには建設業者の仮倉庫が点在するだけだった。
峠越えから左へ、疎水を越えると三井寺の境内に入る。
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「“近江”というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国がすきである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。司馬遼太郎 街道をゆく1 湖西のみち」
街道をゆくのシリーズの巻頭のその始まりの一文だ。「私は不幸にして自動車の走る時代にうまれた。が気分だけは、ことさらそのころの大和人の距離感覚を心象のなかに押し込んで、湖西の道を歩いてみたい。」

三井寺の伽閼井屋を覗き込む。ボコボコと泉が湧き出す音が聞こえる。8世紀からとぎれることない水音。
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「叡山の山すそがゆるやかに湖水におちているあたりを走っていた。叡山という一大宗教都市の首都ともいうべき坂本のそばをとおり、湖西の道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけたようで、いかにも豊であり、古代人が大集落をつくる典型的な適地という感じがする。司馬遼太郎」
まるで動かない水面にうつった雲だけが風にながされるのか、動いてゆく。
「街道はなるほど空間的存在ではあるが、しかしひるがえって考えれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っている。司馬遼太郎 街道をゆく-1」

自転車で走っていると、路面や道の在り様が多様にかんじられることがあった。そんなころ、この一文にであった。道の多様さを感じることは、車輪を押さえるハンドルを通して、過去というぼう大な時間の世界に接しているのでは?と、気付いた。「日本民族はどこからきたのであろう。という想像は、わが身のことだからいかにも楽しいが、しかし空しくもある。考古学と文化人類学がいかに進もうとも、それが数学的解答ように明快になるということはまずない。司馬遼太郎」
湖畔の道のそばの神社に入った。日差しが強くて、すこしまいっている。すこし日陰ですごそう。そして自販機は、と見わたしても、残念みつからない。
このごろ、神社とそこに鎮座する神々は、あたりまえに当然に人間の創造物であることを実感しだした。神は人がつくった。しかし、神社の社が置かれた土地も、過去のぼう大な時間的存在であって、その時間の厚みが神のようで、なにかを、語りかけてくるのだけど、その意味はわからない。ましてや、「日本民族」となっては、なおさらなんだけど。

日差しから逃れてはいった、神社は小野神社で、この土地の名は和邇。これって奈良の和邇とおなじ。水の害がなく、水が使いやすく、稲をつくることが出来、神への奉げものもでき、燃料となる木々、家となる建築資材もちかくにあって、事あるときにげこむ高台がある場所が奈良の和邇だった。ここも小野神社の境内の田の稲に疎水が流れ込んでいた。まるで奈良の和邇の阪下神社だ。これが、ひとつの日本民族の形なんだろか。
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さて次の日本人さがしへスタート,スタート。若狭は遠い。
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by forumhiroshima | 2012-08-23 12:50

THE WALKING PEOPLE no12

阿須那の賀茂神社を円くとりまく川の流れの不思議さから。ここに神が置かれたのでは?とおもっていたら、万葉集の歌に「我が行く川の 川隅の八十隈・ヤソクマおちず 万たび・ヨロズタビ かへり見つつ ・・」があって、ここの八十隈・ヤソクマというのは、川が蛇行する様で、歌の解説に、このような図がつけてあった。川の流れの不思議さを古代の歌人は八十隈・ヤソクマと名をつけていたようだ。今と川を見つめる目の大きさがちがう。マジカルな場所だとおもった自分の目もすてたもんじゃない!!。
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神社から川沿いの車道を登ると、ガードマンが赤旗ふっている。そしてホテルのドアマンのようにお辞儀して右手を流して誘導する。ご丁寧でいたみいります、が、ここから山中の蛇行する登りになってるのですよ。河畔の道はだんだんの登りなんですけど!
この道、歴史街道であったようで、江戸時代には川沿いの道はなくて、だから新しい道、そこが壊れやすいのだろうと、ガードマンの職場の発生と自転車の登りについて考察してみた。ヒマです。

急坂にあえいで、やっと下るとすぐに出羽のひろい谷間にでた。そこの地名が「和田」という。出羽盆地を流れる出羽川の盆地からの出口の谷の東の斜面にひろがる田園の集落です。
「稲作はまず盆地に入っていった。日本で作られる短粒米は、揚子江の上流地帯あるいは西江の上流地帯、雲南省といった地方の山間部に源を発する稲の品種が海をこえて日本にやってきた。短粒米は水を落とせばかわいてゆく。水を溜めれば田になるという場所が必要で、そうすると盆地の傾斜面というのは、棚田として作れば正に一番適した土地だとなります。そういうようにして米が日本へ拡がってゆきます。宮本常一」
「古代の文献に伝えられる海人族はたくさんありまして、たとえば八太造・ハタノミヤッコがあり、文献によっては「太」が「木」という字になって、八木造・ヤギノミヤッコウとも読める・・倭太氏族という人たちが海人族であった。ヤマチノオオと読むのでなく、これは疑いなくワタと読むべきであろう。海原のことをワタハラといいます。ワタは本来日本語でなく外来語だろうと・・ともかくそれは海のことだと思われる。ワタといえば思い出されるのが和田です・・もともとこの読みでは和・ワは音で田・タは訓です。平安時代の学者はこれがおかしいとニキタとよんだりしたのですが、直らなくて和田という地名は引き継がれ、その地名が古代の海人族の一つである倭太氏族からきた地名ではないか・・。和田という地名はほうぼうにありますから、それらを海人族の足跡というふうに押さえていくことが可能になろうと思う・・黛 弘道 古代史と地名」
上代、古代の日本列島に到来した人々のなかに、稲を携えてやってきた人々を「中国大陸南部からインドシナ半島にかけてひろく散在していた苗族系も、はやくからこの列島にやってきている。彼らは「呉、越、楚」の民として知られているが、我が国で発掘された銅鐸は彼らが持ち来たったものであり、そこに描かれている高床式などの民俗はすべて苗族系のものである。 沖浦 和光 民俗の源流について」「中国南部からの移動のコースは揚子江の水にのることなんです。揚子江の押し出す水の流れにのって真直ぐに東へ行くと済州島に着きます。この済州島からさらに東へいくと北九州です。宮本常一 越人の移動」
この苗族系の越人、古代出雲なら古志の人になろうか、とは妄想するが、和田の地名を残した人々とこの越人が結びついてはいない。黛 学習院教授説も、このことは説明してはいないが、「「和田」は輪の田で、棚田のように水田で水を水平に保つためには等高線に畔をつくる。その畔は変形した輪の形になる。水田の水の管理ができる耕地は、まず等高線にそった輪をつくることになる。稲作が日本に到来したときに、すでにこの等高線にそう設計と、田植えをふくむ農耕技術は完成していた。 藤原 宏志 稲作の起源を探る」という説もあって、「和田」の地名には、引かれる。
常一さんがいうように、盆地で稲作の拡大がはじまったとしても、何故奈良盆地に大和朝廷が成立したのか?は、不思議だった。黛教授が、奈良盆地で大和朝廷発祥といわれる三輪山や、神武天皇の東征コースに和田やそのほかの海人族関連地名を表にあげている。この和田の地名の展開のすごさ。和田の集落がすべて、稲作をこの国に持ち込んだ海人の痕跡にみえる。この状態なら、後からやってきた侵略者にとって、垂涎の場所だったろうね。稲が高倉にぎっしりあって、その収穫の祭りの神の巫女を嫁にして、国ツ神々の祭祀の銅鐸を放棄させればよかったのだからね。と、思いますよ。天津神々の方々。
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司馬遼太郎の街道をゆくの24、奈良散歩のなかで、談山神社の神官、六条篤の詩
を書いている。「どの異邦人・タビビトも どの異邦人・タビビトも 海へゆく方向・ミチを尋ねる」。談山神社の坂を登ったことがある。六条家のおおきな屋敷の門は閉じられていた。かれはいま海にいっております。という札が風に泳いでいそうに、ふと思った。六条家は藤原鎌足の子孫にあたる。九州、中津からとも、千葉、鹿島からとも、その祖先は上陸してきたといわれる。彼らは海人だったのだろうか。天津神の祖先神がいるから、半島の人で、望郷の海なんだろうか。
そのことより、奈良・大和朝廷の発生源が「和田」の海人たちの邑だったとは、知らんかったなぁ。いま、走ったら、何かみえるだろうか。もう、時間の向こう側に消えてる海人なんだろうか。

ついでに黛先生の製作図、広島湾の海人族地名も掲載しておこう。「和田」の地名の魅力がわかってもらえるだろう。
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「旅に見逃すな!和田の集落」さあ、いきましょうか。
と威勢はいいけど、あまりにどこの「和田」も普通すぎて、だから、稲作の景色は弥生時代の始まりからずっとこの間、日本人が見続けた「景色」なんだと、しばらく見とれてのち、気付くのです。その向うの「海」の景色も。

矢上、出羽の盆地の東に和田。そして西の原山を越えてミズホハイランドの西に和田がある。その西、有福温泉の西の跡市の地名がみえる。アトも海人のなごりだという。山麓に付けられる地名だ。広島にも安登、阿戸とあるね。
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by forumhiroshima | 2012-08-18 13:10

THE WALKING PEOPLE no11

矢上盆地の東端のちいさな丘にへばりつくような井原の集落には、普通、田舎には見られない路地があって、その昔の賑わいを感じさせてくれる。集落のなかの道を南へ走ると国道にはいる。そのすこし先の左におおきな祠が、目立って置かれている。
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その祠の下を左の谷からくる流れがあって、幹線道をくぐって井原川という主流に流れ込んでいる。その先の道の両側に丘があって、その丘を巻くように流れがある。地図をみると「ひ」の字に蛇行して、そのそばにおおきな民家二軒がならんでいる。民家への道は奥の家で行き止る。そばに農地もなくて、この二軒は、どこか?ただならないな!と、ここを過ぎるとき感じていた。井原からとは逆に、南から北上すると、この「ひ」の字の川の蛇行のうえに三角錐のおだやかな山が現れる。車のフロントガラス越しではこの三角形の美しさは視野が小さくて見えない。自転車の上からだと、ますます、ただならなく川の蛇行と円錐形の小山が、深く印象付ける。ここの地名を「仏市(仏一)」という。
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邑南町図書館でみつけた石見町誌ここ「仏市」の記事が記載されていて、ここの印象に訳があると、納得した。「邑智かがみに[仏市の奥に幸神あり。それより上へ登り岩井谷の奥の山上に大権現の御社あり。この御社は人も知らぬ山中におわしまし候らえども、北海の舟人方角を失いし時、この御神に願立て候へば、燈明を大いに御照しなされ御教えなされ候由、命ひろい喜び喜び御礼に参詣の人これある承り候]とある。邑智がアジア大陸から日本海沿岸に渡来したツングース族のオロチ一族という妄想が、北海の記載で、爆発しそうになる。また江戸時代に記述された「石見八重葎」には、[岩井谷権現祭神八上姫鎮座なりという人あり。オオナモチ命御妻因幡の八上姫]と記してある。・・岩井谷はおそらく斎谷、すなわち祭祀を行なう場という意味であろう。」と岩見町誌は記述している。つづけて、八上姫と矢上が関連するのなら、矢上の地名もまたふるいのではあるまいか。と続けている。
先日、京都亀岡の盆地で豪雨があり、その水のはけ口の保津川に巨岩が流れ出して、保津川下りの舟遊びが出来なくなった。この仏一の流れも豪雨出水にはここでせき止められて、だから仏一からの河上にはひろい河原がひろがっているように見える。井原の住民にとっては砂防ダムにみえるだろう。そこに神が居られるのも、当然になろうか。
矢上盆地の中央の諏訪神社のよこ、濁川にもおおきな岩が突き出ている。東の出羽の盆地から流れでる出羽川の中流に鎮座する賀茂神社のある阿須那も川をせき止めるように伸びた尾根の先に鎮座している。江戸時代の邑智郡誌によると、「阿須那の河原で、矢筈に白き鴨の尾羽を加え柏の葉にのり川上より流れ来て岩根にかかる新しい矢があった。山の丘崎にありける榊のもとに立て置くと、その夜神のお告げがあって、この山の底津岩根に斎ひ奉りて氏神とせよ、と聞いた」とある。白羽の矢がたったということだ。岩をかむ濁流の白い波頭を連想する。
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「歴史という死者の国の旅人」とは司馬遼太郎の小説にある言葉だが、なにか、見過ごせない景色というものに出逢うことが自転車では多い。それは、たしかに、歴史という死者の国への旅の始まりになるのだが、・・。死者の国のとどのつまりが、今じゃないか!と居直ってしまうのです。いつのまにか、死者たちとつながってしまってるのです。

神話は、八上姫が、大国主との間に生まれたばかりの子供を木の俣・マタに刺し挟んだという。この子供を木俣神といい、別名「波波木・ハハキ」ともいう。このあと八上姫は大国主があたらしい妻をもったために身を隠す。
京都・三条の橋の西のたもとに、繁華街には不釣合いの古民家がポツネンとたっていて、その店先で箒を売っている。江戸時代、離縁された嫁とその親族が、新しい妻の実家に箒をたてて乗り込むという、風習があったという。「波波木」は二又の木のことで、木の俣は出産の祈願のト占の道具で、その名ハハキからホウキになったという。新しい妻の懐妊を別れた一族が祈念した、わけないよね。木の俣で思い出すのは、水源を木の二又の枝でさがすダウジングだ。木の俣のように、二つの川が合流して、そこで流れが遅くなる。そうしてそこに砂がたまり砂洲ができる。木の俣と出産、豊穣、大地の出現、水脈の変化・・・どれなのか、わからん!

歴史は、わからないものほど、古い、という。いよいよ死者の国がせまってくる。
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by forumhiroshima | 2012-08-16 10:18

THE WALKING PEOPLE no10

矢上盆地の賀茂神社そばに小原迫の地名が見える。「迫」は稲作の水を都合よく受けられる適地に付けられる古代の地名だという。また稲作のお祭りの祭器の銅鐸がうめられていた仮屋という地名は、稲穂が実りだすころ、鳥や獣の害を見張る田の小屋、田屋のある場所の古名だという。その地域を見下ろす丘に墳墓が展開されている。丘の上の墓の建設作業などは、稲作にとって、必要な作業ではないのだから、よほどヒマな王達がこの土地に出現した証になろう。この石見の山中の高地の盆地に、その墳墓の時代がなぜ、あらわれたのだろうか。
古墳と銅鐸の里から東へ古道をたどって、井原の町をぬけた。少々おなかはすいていた。古道や旧街道などと、人通りをさけて走るのだから、ましてや田園と森のなかだから、メシにありつけない。
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が、井原の町外れに、それも旧道の古民家のうどん屋を発見した。さっそく飛び込む。自家製麺のカンバン通りにシコシコのうどんがでた。手つくりの、腰があるっていうのだろが、四国、讃岐のうどんは、腰があるというより、のどコシ!がちがうと思うのだけど、実は自分は麺類はそれほどのファンじゃない。イリコ出汁で、麺がよく湯がかれて熱い、そしてやわらかい広島駅のうどんで十分満足するのです。
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「弥生時代の水田耕作は、たとえば河内国なども古墳時代ぐらいまでは、生駒山系のふもとに張りついたようにしてムラをつくっていて、平地には容易に降りようとせず、古墳その他の先史的痕跡なども山麓に集中している。山麓時代は、これは独断かもしれないが、農耕は段々畑の形式しか、しかたなかったのであろう。山中から落ちてくる水を、階段式につくられた水田によってダンダンに受けてゆく。・・弥生式のいつほどか、人々は平地にムラをつくる能力を徐々にもった。農業用水をつくるという知恵と技術を身につけたからである。・・もっとも、この私設はあまりあてにならない。弥生式の土器の出土状態からみると、湿地帯のほうが古く、非湿地帯のようが新しいという説があるからである。弥生式農村の歴史は、出土品から推定して湿地帯からだんだん山寄りの山麓地帯に移っていったというもので、いわば定説にちかいが、どうも私にはうなずきにくい。 司馬遼太郎 葛城みち」
この司馬さんがうなずきにくいという定説の一つに「弥生集落は最初湿地中の微高地にあり、河川の氾濫によってしばしば水害を受ける不安定地であった。耕地だけでなく集落も大出水にさいしては土砂によって埋められ、竪穴式住居の再建をはからなければならなかった。これらの土地の再建はくりかえされたが、この地から分かれて山麓部に移り、新しく山麓斜面の湿地を稲作地として開いた原居住地人の分派をなす人々は、そこに安定した居住地をえて、やがて次代の人々もその地を居住地として、古墳時代へと発展してゆく蓄積を可能としたものであろう。古い弥生集落は、その地の洪水防御を完成し、新しい灌漑様式を発見するという方向にむかわなかった。古墳時代(前期)には新しい遺跡を平野地帯に作らなかった。古島敏雄 土地に刻まれた歴史(岩波新書657)」がある。

自転車での谷間の渓流そばの登り出会う、すこしの平地にも田んぼが作つられていて、そこが、安全安心などの夢の空間じゃないことなど、わかる。新しい洪水防御も灌漑様式もみつからないまま、人々は山麓を登っていったと思う。そして、渓流の先や谷の入口神々を鎮座させている。この神を鎮座させた御祖をカモの神としたのでは。

司馬さんがうなずかなかった理由も、人々がやたら河上へそして天上の盆地へと向ったその訳が土木技術の未熟さ、でなくて、ほかになにかあるはずだと思ったからではないだろうか。またカミは荒ぶるもので、都合よく安心安全を約束しないことなども、人々はご承知だったと思う。カミにも全部は頼ってはいなように見える。何故危険承知で川を上ったのか?

自転車での登りから峠をぬけて田園風景に飛び込むときの、あの開放感、安心感が、この景色としてつくりあげた人々を想像させる。彼らはなぜ、ここに着たのか?彼らは土木建築屋でなく、農業の百姓なのです。そして開拓者です。
この設問はもうずっと昔から峠にかかると、尾根の向うの景色への期待とともに湧き出すのです。そこにはそこの神々が鎮座し、そこだけの山が神々の社となっていて、澄み切った流れがそこから湧き出しているのです。峠の向うのそこだけの景色が、この国には無数にあって、自転車の上でハーハーと息継ぎしている私を、待っていてくれてるのです。その訳をしりたい。

「人間が穀類を集めて食べるということはなんでもないふつうのことのように考えがちだが、これは実は人類史上の大発見なのである。だいたいサル類は禾本類(イネ科)の穂を集めて食べることはないし、草食獣のウマやウシでもワラや芽は食べるが、穂は好かない。もっともイノシシやクマは穂を食べるかもしれないが、ふつうの草食獣の食べない禾本類(イネ科)の穂はサバンナ地帯では残された食料源であった。穀粒を食用にしていたのはノネズミ、コトリ、昆虫類ぐらいで、つまりアフリカ・サバンナ地帯の天然の雑穀畑はほかの獣に利用されなかった豊富な資源であったといえる。・・アワの原産地でヒエも栽培化していたインドとの間に、寄せては繰り返す波のように数千年にわたって、相互伝播しながら、だんだん採取と栽培は進歩発展していった。・・サバンナ地帯から禾本類(イネ科)植物の穀粒を食用とすることをしった人々が、インドの雨量の多い地帯にはいってゆくと、そこで多くの湿気の多い場所で成長する禾本類(イネ科)植物の自然の群生に出逢うことになる。それらの植物の中でとくにすぐれていて、人間によって選び出され、水田とい新しい栽培地で栽培されるようになった雑穀が、すなわち稲であるというわけである。中尾佐助 栽培植物と農耕の起源」アフリカの草原で野獣たちが見向きもしなかった落穂の発見の中に稲があり、その稲の存在をしったアフリカに人が、湿気のおおいインドでみつけたインドの稲が水田での栽培の初めだという。その初めは、アフリカからの一人の旅人の発見からはじまったようにおもえる。物語が始まっている。
「アジア原産にイネの原産地はインド東部であると私は述べた。この原産地についてはそうとうな異説がある。シナ起源説、インドシナ半島起源説、インド起源説などいろいろだ。これらの各説の起源地の中で、湿地に生ずる野性の雑穀を現在まで採取利用しているという、イネ食用化の起源と直接結びつくものを求めてみると、それはだんぜんインドである。中尾佐助」

その稲がヒマラヤの谷を登りだす。「米の籾殻には長粒米のもと、短粒米のものがあるのですが、それぞれが同じ場所で存在することはないのです。年代的にみて長粒米になったところが多い。ガンジス川の流域だったところを調べてみると、川と同じ高さの平地、いわゆる氾濫原ではほんとんどが長粒米なんですが、その河岸段丘の上で作られてる米はほとんど短粒米なのです。低地にしだいに多くの長粒米が作られるようになり、これに対して短粒米というのはずうっと川をさかのぼっていった。そしてヒマラヤの山系の谷へみなはいってしまうのです。・・稲はしょっちゅう水の留っている所につくる稲と、ある時期には乾いていなければならない所につくる稲とは種類が違うのです。湿田地帯でつくられている稲はたいていは長粒米です。乾いている所に作る米は短粒米、粒の短い米で、日本で作られている米はこれが一番多いのです。これは水を溜めなければ作れないけれども、実るころには水を落としてしまわなければならない米です。・・ヒマラヤの東北から東南にかけての谷々へ行ってみますとそこはすごいような階段状の水田ができています。ということはつまり、階段状の水田で短粒米が最初につくられて、それぞれ谷を下っていったものとみて差し支えないとおもうのです。宮本常一 日本文化の形成」
「日本に渡ってきた最初の米というのも、おそらくヒマラヤの東の谷を下ってきたとみてよい。そしてそれが棚田である。棚田は水を落とせば乾くのです。そういうところでつくられた米がだんだん谷を下って、そして揚子江一帯が大きな短粒米の稲作地になったのです。ここから日本へ米が渡ってきたのだはないか。宮本常一 日本文化の形成-1」

ヒマラヤの東南部を中尾佐助は照葉樹林文化地帯とよぶ。「インドのアッサムから中国の雲南、湖南にかけての山岳地帯で、最初の栽培イネができたという説・・突然変異してできたイネをうまいと思う人、その地域にいて、その人たちが粘りの強いモチモチしたデンプン食への嗜好という現象が、そこを特徴づけるというわけです。 続・照葉樹林文化」
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長粒米はパサパサした味で、弥生時代に持ち込まれた米がモチモチの短粒米であったこともあるのか、作られなかった。長粒米は湿地で直播でもできる簡便なものだというが、われらが祖先たちは、その味のために川を遡り、棚田を広げ続けたということになるのだろう。
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by forumhiroshima | 2012-08-09 14:07

THE WALKING PEOPLE no9

中野の賀茂神社から東に古道をゆく。そばに幹線道があるのを避けて走る。旧街道は幹線道のなかに溶け込んでしまっている。
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古道がその幹線道と交差するところに大きな看板がたっている。銅鐸の里と書かれている。
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梅原説によれば、出雲大国の存在証明が、出雲「荒神谷/加茂岩倉遺跡」の銅剣・銅鐸・銅矛などの銅の総量の存在だという。オオクニヌシやこの子供のアジスキタカヒコネの時代に、これだけの銅をもち、その加工ができるところを王国ではないとすることは出来ないだろう、という。
この出雲の両遺跡が発見されるまえには、出雲での銅鐸の発見はなくて、中野の隣のここ仮屋からの発見が一番西の遺跡だった。大正3年のことだという。この大きな看板は、出雲での昭和59年発見のころに、ここもそうです、銅鐸あります!ってことでできたのだろうか、カンバンの立ち姿、力入ってる。
銅鐸は667年、琵琶記湖畔の大津京の建設現場で発見されたという記録が一番古い。そのころすでに、いまと同じようにこの銅鐸が何に使われてのか、知られていなかった。それでも、荒神谷/加茂岩倉遺跡からみつかった銅鐸は国宝に指定されている。オオクニヌシの王国の国宝でもあるってことでもある。だれにとっても、とても興味深いと思わす、マジカルな古代の遺品なのだろう。
「私は[そもそも銅鐸の起源は鈴である]という説を支持するものである。鈴も鐸もその音が神秘的であり、神を喜ばせる音を響かせるものであろう。梅原猛」そののち銅鐸は巨大化して「聞く銅鐸から見る銅鐸への変化 梅原猛」があり、大津で見つかった銅鐸は5尺5寸(166cm)もあったという。ここ仮屋の銅鐸は二つ見つかっていて、40cmほどで、東京国立博物館にいってしまっている。銅鐸の初期のもの、のようだ。
銅鐸の音色については、「銅鐸をみていきますと、あれがひとつのお祭りをするために使ったものだったとはいえますけど、これが本当にりっぱな鋳物であったかどうかということは、どうもそうじゃない。あの鋳物を叩いてみるとわかるのです。銅のなかに錫とか鉛とかがうまく合金されますと、それはたいへん良い音を出すのです。しかし銅鐸を叩いてみるとボコンボコンと音がして、あまり良い音はしないのです。だから楽器としてはほとんど意味をなさないほど・・宮本常一」という評価もある。銅鐸の材料の青銅はその時代には大陸からの青銅でできたものを鋳直してつかっており、合金の正しい配合はできていなかったことを強調している。それに、常一さんぐらいのたくさんの経験のある人なら、どこかで銅鐸ボコボコやったにちがいないと、思うけど。巨大化したのも、音がよくなかった、からか?
が、梅原猛は「最近、下鴨神社(京都)の宮司、新木直人氏から聞いた話であるが、下鴨神社にも銅鐸があり、重要な神事、たとえば葵祭の神事を行なう時には必ずこの銅鐸を鳴らすというのである。」常一さんが叩いた銅鐸は不調だっただけなのだろうか、な。
銅鐸の意味はさておき(これってすごく面白いのだけど、さておき、です)ここの賀茂神社のすぐそばに銅鐸があったということ、そして667年に銅鐸は何に使われたのかの記憶が失われていたということ、このことは、島根県誌や邑智郡誌にある、この賀茂神社が783年に京都から勧請、の記載が危うくおもえる。この賀茂神社の神事にも、銅鐸が使われていたとすると、この神社の建立は銅鐸が2世紀ごろの祭器といわれるのだから、7世紀よりずっと以前のことになりそうだ。そう思うことは、この矢上盆地の古代の時間が、あふれるように自分にむかって流れ出てくると思うのだが、銅鐸の音色はボコボコなのか澄んだ音色なのか、どっちでもいい、聞こえてきそうなのだが、これって・・やはり病気だろうかな。
アジスキタカヒコネの神を祭る鴨族の人々は、移動する人々であったようだ。出雲の加茂岩倉遺跡でみつかった銅鐸の同じ型から作った銅鐸が和歌山の大田で見つかっている。和歌山の大田から「たまちゃん列車の貴志川線」の沿線にはオオクニヌシやイソタケなど出雲の神々が鎮座している。紀ノ川をさかのぼれば、葛城の高鴨神社におられるアジスキタカヒコネにあえる。出雲国風土記にも島根半島と奥出雲にその姿が記載されている。

「平安時代以前から成立し、鴨県主のいたところは狩猟に関係した人々が多く住んでいたようである。宮本常一」
奈良時代、この石東とよばれる邑智郡に賀茂麻呂という役人がいたことを「石見町誌」が述べている。そのことと平安時代にここが京都の賀茂神社の神領となるなど、この土地と賀茂とが「時代を重ねて関係が継続している」ことを述べている。その賀茂の人々は移動しながらこの地に現れたとなれば、狩猟と焼畑農業を営んでいたことなる。彼らが、どこからおいでになったか?は、さておき。

石東の出羽、矢上盆地の東に、同じく古くから人々が居住した三次盆地の、いまの中国道三次インタチェンジの信号の東側の工業団地でみつかった遺跡がある。1982年この工業団地の造成工事で北をながれる馬洗川を見下ろす丘の上に直径4mのちいさな竪穴住居跡(高蜂遺跡)がみつかった。ここには、すでに縄文時代の住居跡がみつかっており、それによく似た住居跡であったのだが、その住居跡になかに、縄文土器と弥生土器が同じ地面に混在して発見された。「縄文時代の料理は深い鉢で材料を煮る、煮詰まれば水をたし、また食材を投入する煮炊き方法であったと、推測される。弥生時代になって米を食べる方法は、壺の口をゆるやかに外反させ、それに蓋をのせて、[米を炊く]方法になった。(この料理方法で出来るのがメシ。蒸してできるのが飯・イイ。)この二種類の土器があることから、この遺跡で暮らしていた縄文の人々が稲作をおこなう弥生の人になろうとしていた・・。三次市誌」
彼らが、稲作を学ぶ対象となる弥生人たちが、稲作の祭りに銅鐸を使っていたことは、その銅鐸に刻まれた絵柄によって推測されている。だとすれば、賀茂の人々、鴨族の人々ってことになるのじゃないか。三次の縄文の住居に住んでいた夫婦は、どちらかが縄文ビトで片方が鴨族の弥生ビトで、混血のチビが遊んでいたり、ってこともありえるよね。
どんどん妄想が、銅鐸の地のカンバンの横でふくらんでくる。銅鐸発見の地の真東の丘に、銅鐸の時代の後に墳墓と古墳の集積地が見つかっている。このあたりは、古い。
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by forumhiroshima | 2012-08-08 19:49


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