こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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水の流れ

丹波の国は小さな盆地がつながっている。篠山の食堂で見た丹波新聞に「篠山出身の歌人、 小畑庸子さんに、 「まとひたるものがばと解き湯に浸る丹波ささやま夜の底にて」 という歌がある。 古里の湯に浸り、 自分をおおっているものを振りほどき、 素の自分に戻る。 その心地よい開放感。 素の自分とは、 てらいや世のわずらわしさとは無縁の山家の猿かもしれない。(丹波新聞)」と記事があった。たしかに四方を山々に囲まれた盆地の底にいるように思える。

篠山から福知山へは幹線道はトンネルになっていて、トンナルはニガテでそこを回避したくて篠山の北にある栗柄峠にむかった。ここが篠山黒豆の発祥地の一つとあって、ゴルフ客ねらいか、道沿いに小さなテントで直売コーナーをお百姓さんが出している。賑わっていて、収穫の季節はあつい。
地図では栗柄峠からは細い道の標示で、険しくて、整備されてないのかと、ドキドキ。峠への分岐に「谷中分水界」のおおきなカンバンがさえぎった。そこには幅150mほどの谷間の田んぼの両端に川があって、南の川は瀬戸内海へ、北は日本海へ流れるのだと書いてあった。この地形を「谷中分水界」というのだともあった。
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篠山から尼崎へむかう武庫川と篠山川とはつながっている。武庫川の源流は田んぼの中の運河にある水門になっている。この運河は直線に造られていて、その北の尾根に稲荷神社があった。お稲荷さんは、このような工事がおこなわれた場所では、その測量に使用した縄をおさめる場所だという。町のビルの屋上のお稲荷さんもビル設計にかかわっているのかもしれない。
栗柄にも地図に神社とお寺のマークがあって、その神社をさがしたが見つからなかった。お寺は古いお堂で観音様がおられるようだ。ふるびていて、とてもいい。
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峠と地図にある栗柄峠は、この観音堂からいっきに下り始めた。ではあの谷がトップであったのだ。ラッキー!!

下り終えて、丹波市春日に入った。幹線道路R176を右にゆけば福知山になるが、左へもどるコースをとった。R176が水分・ミワカレ街道という標識と、「谷中分水界」の標示を見つけたからだ。それにここが「日本列島の最も低い中央分水嶺」だというカンバンもある。
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水分公園まで整備されていて、湧水のながれる溝が分岐されていて、「瀬戸内海へ日本海へ」と標識までたててある。すこしやりすぎですね。このあたりに降った雨はどちらにでも流れますって谷だってことで、ここの分岐だけじゃない、でしょうに。
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福知山からR9にはいって南丹市園部へとむかった。とても車が多くて、そても大型トラックの列。すっかりヤルキ失ってきた。福知山でさがしても食堂もなくて、腹も減ってしまって、R9をはずれてJR山陰本線のはしる谷間へ。路線ぞいに走れば、いつでもサドルの下の輪行袋のおでましさ!!ビールものめるぞよ!
路線にぶつかるとなぜか?ヤルキになってしまった。それは、実は道がすっかりフラットになってきたからだとは、後で気付いた。
じつは日吉町胡麻という場所も「谷中分水界」であったのだ。それも京都へながれる保津川(桂川)と丹後、天橋立に入る由良川との分水界だ。京都から日本海がつながった。
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ここから園部へは快調な下りだった。アットの間に園部の町へ入る。JR園部に立ち寄ってみる。列車の時刻表を見るだけ、のつもり。駅前にコンビニもある。軽食でもと、入ると正面にビールコーナー。次の列車は40分後。

ビール缶を持って、プラットホームでグビ。丹波は広いのう、じゃ。走るのこれくらいでいいのじゃ。グビ。
丹波の盆地は川でつながっている、とまで思ってしまう。江戸時代ここに7つの国と7人の、お殿様がいた。なぜだろう?
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by forumhiroshima | 2012-10-31 13:52

最初の人々

北極で亡くなった写真家で随筆家の星野道夫の「森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説をもとめて」に、『最初の人々』という章がある。カナダの先住民のハイダ族が、この世に太陽と月と星とを解き放ったワタリガラスを恐れて、貝殻のなかに隠れていた人々がやっと這い出した。それが最初のハイダ族、つまり人間の誕生だ、というワタリガラス伝説が書かれている。その章の最初にワタリガラスのおもちゃ(19世紀のもの)とカナダの先住民の文化の継承をした芸術家ビル・リード(1920-1998)の作品の写真がある。
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この“ワタリガラスと最初の人々”という彫刻はカナダドル紙幣になっているという。
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賀茂神を戴く人々がカラス、ヤタガラスとも、をトーテムとする一族だといったのは、林屋 辰三郎(京都大学教授)だ。しかし、賀茂の人々が遠くカナダの先住民族と同じトーテムの人々だとはご存知なかったろう。いや、この先生ならご存知だったかもしれない。

京都に人が居住し始めたのは7000~5000年前の北の山地から盆地への入口にあたる丘陵地帯、いまの北白川から上賀茂で、そのころの縄文時代の土器が発掘されている。「大和の吉野に住んだ縄文人は『古事記、日本書紀』の中で「国栖・クズ」や「尾生る・オナル人」などといわれたが、京都でもこの時代では「国栖」や「土蜘蛛」などとよばれるものと同類であったわけだ。林屋 辰三郎」
大和の葛城山の高天彦神社には、土蜘蛛の塚だといわれる蜘蛛塚があったりする。葛・カズラ、クズと国栖・クズと、なにやら、怪しい関係が・・?

「弥生時代の京都には、大阪湾がこの盆地まで広がっていたことや、また湖底的な地勢で遺跡などはほとんどみられない。この弥生時代の文化的停滞からあたらしく農耕文化を導きいれた人々は丹波をへて日本海からの南下があったと考えられそうだ。その人々が居住を定めたのは、下賀茂の一帯であったらしく、その名が奈良時代の計帳に名が残っている出雲郷はここに居住した弥生人の大集落で、いまの出雲路橋の西岸にその地は比定されている。林屋 辰三郎」
若狭から京都そして奈良に送られた水の秘密がここにあるのかも知れない。
「いったい賀茂族は、古典をみると、加毛・加茂・鴨などとも書かれ、わが国の古氏族中の一大集団であった。その祖はオオクニヌシと伝えられて、いわゆる出雲族の中核をなしていたのである。本来の中心地は大和国葛城郡の鴨地方であり、支族は早くから各地に移住した。大場 磐雄/まつり」

大場 磐雄氏の経歴は戦前に内務省神社局勤務という神社の格付けにかかわったもので、それこそ皇国日本の神話を標榜した部署だと思えるが、変わった人で「神社の起源は非常に古い。だから神社の始源をさぐるのには文献だけではわからない。考古学的調査や任俗学的証拠等、いわゆる神社局で邪道とよぶ学問から、そういった点を開拓できないものであろうか。こういう疑問が胸中を走るのである。」と書いている。その大場氏が考古学的な側面から、『賀茂族』に出会った話を残している。その場所は伊豆半島の下田の町の西の賀茂郡朝日村吉佐美小字洗田を流れる青野川の河畔の弥生時代の祭祀遺跡の調査からだった。ここは古代の伊豆国賀茂郡賀茂郷で上下の賀茂の地名があり、加畑加茂神社が鎮座している。そばの大賀茂川の流域には大賀茂の地名もある。洗田の古代祭祀遺跡はここに居住した賀茂族の祭礼の遺跡だと結論付けている。
丹波・篠山に入る丹波と摂津の国境にある日出坂へ攝津・三田側の武庫川河畔の遊歩道を走っていた。気付くと支流の青野川の河畔に入っていた。武庫川との合流地点で青野川へそって走っていたことに気付かず、途中で川幅の小さいことで、ルートをはずしたことに気付いた。そこからすこしうろうろしていると、広い参道の向うに鳥居がみえた。
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拝殿に張ってある幕に梅鉢の神紋があって、天神さんだと進んでゆくと、加茂神社で、賀茂は葵だからと境内の神社案内をみると、ここにいた殿様が天神さんにしてしまったが、加茂にもどったとあった。ここは「加茂」という土地で、神社はすこし小高くなった台地に鎮座していた。
大場氏の伊豆の賀茂神社の話に青野川が出てきて、「賀茂氏は出雲神族であるために、崇拝の対象を三輪山のような円錐形の小山にもとめたらしい。ここ伊豆・下田の三倉山の容姿が三輪山に酷似していることを考えると、この地に上陸した賀茂一族が、三倉山を拝してその神霊の依ります標的として、これに祈願をこめてまつりをおこなったことは当然といえよう。 大場 磐雄」
三田の加茂神社の周囲は住宅にかこまれて展望は利かないが、そばに有馬冨士とよばれる円錐形の山がある。その隣にも小さなやはり円錐形の小山がある。とても伊豆の賀茂神社に似ている。さらに、加茂神社の北西のそびえる丹波との国境の虚空蔵山はその下の峠が日出坂と呼ばれるように、元旦の太陽の遥拝所としてあるそうだし、虚空蔵山は雨乞いの山の名だという。古代の祈りの空間が、現在の景色のどこかのほころびから顔をだしてくる。
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篠山盆地をぬけて、丹波国の西端へ向った。丹波市市島町にも賀茂神社がある。ここも川の合流地点だ。由良川となって日本海にそそぐ上流の川、武田川とそれに流れ込む支流の賀茂庄川の合流地点のすこし川上の平野に鎮座している。神社は荘厳な建築で、平野をヘイゲイしている。門の前に営業とみえる自動車がとまり、運転手はぐっすり眠っていた。そうなんです、こんな平安な神様の鎮座する場所があるのです。神社の南に春日、小冨士山が円錐形な山様で見える。この山に神霊は依りましたのだろうか
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賀茂の一族がこの国の最初の人々であるかどうか?彼らが稲作をもって渡来した人々のなかでもっとも成功した一団だとは思える。その人々の古代の景色が、神社という形でいま現存していると、おもえることに、なにか力が生まれてくる。
先日カナダからのお土産に“THE EAGLE AND FROGというカードをもらった。その作者がRill Reidだった。ワタリガラスの彫刻の作者リードの息子さんだろうか。鷲と蛙は、熊野神社の烏に重なってみえる。時空は越えられる。
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by forumhiroshima | 2012-10-18 20:57

神の一族

篠山盆地の西部の南へ篠山川へむけて流れ込んだ尾根の端の森に、どこにもある景色の中の鳥居をくぐる石段の奥に古い石垣が積まれていた。そのうえに神社の小さな本殿があった。正面に取り付けられた注連縄がブラリと垂れ下がっている。石段には掃除の跡もなかった。
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すこしドキドキして、本殿の階段に土足であがって、注連縄を結びなおした。そしてあたりに人影がないと確認して、そうそうに階段を下りた。
ここは篠山盆地の歴史・見処のHPでみつけて尋ねた加茂神社だ。拝殿の正面に古代の絵巻物にあるような、男と馬の絵馬がもう消えそうな線で輪郭されていた。その古さが、ここに来て良かったと思わせてくれた。
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東大寺のお水取り,若狭のお水送りと今につづく、1300年も途切れなかった祭祀の場所、その間を自転車で走るとそこには、キッツイ登りがまっていた。京都北山、丹波の山が深い谷をつくって、分水嶺となって、水はその頂から北の若狭へ流れ、南へは、京都の賀茂川、そして木津川を合わせて淀川が瀬戸内海へ流れ込んでいる。水が若狭から奈良へ流れるわけないのに、水を送り、水を取る、その訳がどうしても気がかりなことになった。古代人のあの不思議な洞察から、地下水でも考えたのかとも思ってみたりした。

「『名所都鳥』(1690年発行の京都の名所案内と歌の紹介※ドイ)の記述でおもしろいのは、堀川は源が若狭国から流れて来ている、としていることである。旧賀茂川は堀川だとされるように、昔の賀茂川は西よりであり、それが遠く北の若狭から流れてくるといわれるほど、大川であると思われていた当時、かっての京都市域は賀茂川(堀川)の支流の大小が網状に南流していた・・古代地名を歩く・吉田金彦」という記述を見つけた。京都の町の中心から賀茂川をさかのぼると川は二つの流れの合流地点にとりつく。そこから川上をみて右が高野川、左が鴨川と名を変える。合流地点に賀茂御祖神社(下賀茂)。そこから鴨川を遡ると賀茂別雷神社(上賀茂)が鎮座している。
ここにも若狭から流れ来る水の伝承があるようだ。

先日若狭から京都へぬけるコースに京都北部・北山から丹波山地にある朽木谷の道を走った。そこにながれている川は安曇川の上流で葛川とあった。安曇川が琵琶湖に入る高野には賀茂川がながれている。葛はカズラ、クズ、つづらといろいろ読める。京都の北は葛野カドノと呼ばれ、桂川が流れる。賀茂神社と葛は深い関係がある。
「『山城国風土記』によると、日向の曾の峯(ソノタケ)に天降りした賀茂建角身命カモノタケツヌミノミコトが神武天皇の先導となって大和に入り、みずから大和の葛木山カズラギヤマの峯に宿り、そこよりしだいに遷って山城国岡田の賀茂すなわち相楽郡加茂町に至り、木津川を下って、葛野河カドノガワすなわち桂川と賀茂河の合う場所に至り、賀茂河を見はるかして「狭小くあれども、石川の清川スミカワなり」と言い、この川をさかのぼって、久我の国の北の山基にしずまったというのである。この清川は石川の瀬見の小川と名づけられたので、いま下鴨神社境内の小川を蝉の小川とよんでいるわけだが、これはもとより付会の説であろう。そして久我の国の北の山基は、その後賀茂とよばれたというのだが、それは賀茂川の上流、西賀茂の大宮の森で、これこそ下鴨神社の旧社地だと、伝えている。林屋辰三郎・京都」

大和・葛城山から京都へむけて、移動した賀茂の人々のあとを追うように藤原京、平城京、恭仁京、長岡京、そして平安京がつくられる。神武天皇の先導をしたヤタガラス、そのカラスを祖先とする烏のトーテム族が賀茂族だといわれる。まるで大和朝廷一派は賀茂族を先導させたのでなく、鴨のおっかけ族に見える。賀茂神社の葵祭りは京都御所から派遣されるお役人の行列の再現だという。賀茂の神に頭あがらない。
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賀茂族の旅は大和奈良盆地の南西の端から、ひたすら北上するように見える。そして京都盆地の北端で留まっている。東大寺のお水取りは若狭から送られる水をくむ。若狭から水は南下してくるのだ。さて、どうする?なにを、どうするの?
だって、若狭から、どうしても水は送られてくる。賀茂川の水は若狭からという伝承もあるじゃないか!賀茂族は北上している。北上か、南下か?それに東大寺は賀茂族と関わっているのか。

若狭は東大寺の荘園だった、だから、お水送りをしてくるのだ、ということもよく書かれる。ですがね、荘園だった時代はとっくに過ぎ去って、もう1300年もすぎて、経済的な関係なんてとっくにないのですよ。なににでも経済原則って、古代の人々を見ようって、してないようにおもいますけど。それじゃこのお水取りを語れないでしょうに。1300年お水送ってくる人々とその神様がいまもいるのですから。経済原則、そんな話、「ツマラン!」。

その釣にいって東大寺の集会に遅れた遠敷明神は、そのお詫びにお水送ってくるのだが、その神様は、若狭・小浜の若狭彦で、また火明命ホアカリノミコト、別名彦火々出見命ヒコホホデミノミコトで、じつは京都・上賀茂神社の祭神、別雷命ワケイカズチノミコトだという。これは丹後国の天橋立にある籠神社コノジンジャにのこされた日本最古の系図・古代海部氏系図・国宝に記載されている。やっと、つながったじゃないか!やはり水の神は丹後、若狭から南下したにちがいない。

どこのカモの神社も訪れたくなった。それで篠山の加茂神社に来ている。
「天智天皇の白鳳二年(662)、唐・新羅連合軍が高句麗を攻撃、天皇は同盟国の百済と高句麗を支援するため兵二万七千を新羅に派遣した。出陣に際して軍は大和高市に集められ前・中・後の三軍にわかれ、後将軍の一人である阿部引田比羅夫の部下に当地出身の兵士が二人いた。二人は迦毛大神に祈り、将軍に従って百済国に渡海した。戦いは白村江の海戦で日本軍が惨敗、百済は滅亡、日本軍は命からがら逃げ帰った。いわゆる古代史上に名高い「白村江の戦」である。命を長らえた二人は、帰途、比羅夫将軍に申し出、朝廷の許しを受けて迦毛大神を故郷に祀ったのだという。その後、天承二年(1132)に至って、村人たちの手で社殿が創建された。慶長十年(1605)、八上領主前田主膳正茂勝が神社を修造し、寛政元年(1789)に再度の修理が加えられ、現在に至ったと伝えている。
ところで、加茂神社といえば、京都の上賀茂神社と下鴨神社が有名だ。いずれも大和から山城の葛野に移り住んだ鴨族が祀ったものだが、葛城の高鴨社とは別系の神社という。丹波という立地から、当社は京都の賀茂社を分祀したように思われる。しかし、この地から遥か遠く朝鮮半島に出征した兵士がいて、かれらが帰国に験のあった味鋤高彦根神を遠く大和国から勧請したものなのである。見たところ村の小さな神社に過ぎないが、その歴史は遥か古代に発しているといえよう」と、篠山の歴史ガイドの加茂神社紹介のHPに掲載されていた。

古代言語学者の先生はこう述べている。「奈良時代に中央では、神・カミと鴨・カモと上・カミの三語は別な言葉にわかれたが、それより古い時代には同一の起源をもつ言葉だった。神も鴨も上も同じく、土地の開拓者を神・カミとして尊び、その祖先は川を上・カミに遡って定住した。そういった土地の水辺に渡ってくる鳥、鴨・カモを祖先の霊魂とみた。吉田金彦」
海を渡ってきた我々の祖先の映像が、古代海部氏の系図に写されている。海から上陸して、水をみつけ開拓した人々の姿がみえるようだ。
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by forumhiroshima | 2012-10-16 09:13

丹波国/摂津国 国境

三田と篠山との境は虚空蔵山で、JR福知山線の日出坂トンネルが通っている。そばに武庫川がながれていて、車道はふつうに河畔を走っている。日出坂は古丹波道と標示があって、旧道から分岐して細い山道が登っている。ここに入るとすぐに頭上を走る舞鶴若狭自動車道の側道になって、古道らしさは失われていた。
SF作家の小松左京が、1965年に朝日放送の雑誌に「エリアを行く」という紀行の掲載をはじまった。自分がすごく好きな紀行の、宮本常一の「私の日本地図」が1967年、司馬遼太郎の「街道をゆく」が1971年からの連載・発刊になっている。60年代から70年代初頭は、自分にはすばらしい紀行が連続して書かれた時代になる。いまもこの紀行をたどって自転車走らせている。
左京さんは紀行の発刊にさいして「日本の社会と国土の変わり方にはげしさは、一種悪夢にちかいものを感じさせるほどである。しかし、そういった時代であればこそ、かえって、とんでもない過去と未来をまぜこぜにした“SFルポ”や“イメージの旅”といったものが、かえってある意味での耐久性を持つのではないか」と書いている。自分の学生時代のころになる。あのころ「一種悪夢」を感じていたのかな?

丹波国と攝津国との国境・虚空蔵山にかかった小松左京は「そこはすでに、表日本の海洋と平野のそれとは、かなりことなった、内陸山地のクリマ(細分化された区画/ブドウ畑?ドイ)が醸成する、盆地文化、丹波文化の領域が始まっていることが、皮膚に感じられるのだった。山々は、時に高くはあるが、のしかかるような急峻ではなく、老年期山脈特有のなだらかな稜線が、かさなりあいながらつづいている。山と山との間の、屈折した平地もよく発達し、周囲はこのあたりの特有の、のどかな吸収性の静寂にみたされていた。 小松左京/探検の思想・出雲」
いまも開発がつづいている三田から、この山のせまった隘路にはいると、静かだ。吸収性の静寂って、わからんけど、これなのかなぁ。
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篠山にはいった場所のJRの駅はくさの。篠山の盆地の南端から武庫川がながれてきて、この旧国境でおおきく蛇行して三田へでてゆく。古代篠山盆地に流れ出た水はすべて武庫川で瀬戸内海へ流れ出ていた。いまは盆地に西端へでる篠山川が加古川に合流して、瀬戸内海へはいっている。「篠山盆地は長く武庫川を通じて排水され、盆地に礫層を推積させた。その推積は最終氷期まで続いた。その間、地形的に水はけの悪い盆地底では推積が続いていた。最終氷期末期、武庫川沿いの当野、古森、草野付近で麓屑面(ロクセツメン){地形の崩落や水流による運搬、マスムーブメント、凍結破砕などの諸作用によって大量の岩屑が生産され、堆積することによってできた斜面。ウイクペディア}の形成が進行し、武庫川を何度か一時せき止めた。篠山盆地は湖水化を繰り返し、盆地底にはシルトや粘土層が推積した。湖水は次第に埋まり、水位は上昇し、その水は加古川の支流にあふれ出て、篠山川が誕生した。 田中眞吾/兵庫の地理」

日出坂に三田から入る場所に古びた酒垂神社が鎮座していた。丹波に三社あるとネットにはあり、丹波杜氏の信仰する神様だともいう。酒の名からの信仰とも推測するが、ここに旧国境がおかれたことを考え、そしてここが湖水の出口であり、たびたびせき止められたというなら、その自然のダムが決壊することを、「蹴裂・ケサキ」伝説として、各地に記憶されていて、酒神社とか境神社となの名でのこっている場所にはこのケサキ伝説がけっこうある。信州の佐久地方は諏訪湖が決壊した、サケた記憶の地名だという。古代の旅人が湖水によって行き止った場所がここでは国境になったのではないだろうか。左京さんのいう吸収性の静寂は過去ここで大音響に崩壊した自然の堰堤の後にきた静寂の記憶かもしれない。
虚空蔵山という名はこの山中に聖徳太子伝説のある虚空蔵寺があることによるが、その存在も古代の災害の記憶からかもしれない。日出坂の名称はこの山頂でいまも元旦の日の出を拝む習慣があることによるようだ。

道側に「丹波の森街道」という標識やモニュメントがでてくる。行政が名付け親のようだ。カンバンも丹波とかかれだして、すこし登り勾配になると、古市という集落に入る。ここには源平の戦いのとき、義経一団が駆け抜けた伝承があるが、古代の戦は河原での合戦になる。それは騎馬戦をするには広場が必要で、その最適地が河原だからだという。義経かここを抜けたということは、そのころ篠山湖は乾いてきていて、騎馬で駆け抜けることのできるルートであったということか?
北上を続けると、牛ケ瀬という信号がある。
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道路は直線でアットの間に抜けてしまう場所。信号を東へ入る疎水がながれている。
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この疎水は武庫川。そばを北上すると小さな水門はしこし離れて二つ。その先はちいさな溝に変わってながれている。
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この溝はその先で小川に流れ落ちる。その側に小さな水の神様の弁天様の祠があり、信号機に丹南弁天とある。流れ落ちた小川はそのまま北上して、篠山川に流れ込んでいる。ルートだけみれば武庫川と篠山川、そのさきの加古川はつながっていることになる。
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その分岐が牛ケ瀬で、きっと牛の背中のようにひくい盛り上がりがそこにあって、篠山川と武庫川の分水嶺になるのだろう。江戸から明治にかけてこの篠山川と武庫川とをつないで舟の水路をつくろうという計画があった。とても舟が浮かぶような水量ではないようで、頓挫したようだ。
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by forumhiroshima | 2012-10-07 11:59

丹波国・若狭国

若狭のお水送りの神事のある「鵜の瀬」がすっかりコンクリートの固められた瀬で,そのそばにおおきな車道が通って、これなに?と思ってからすっかり気分は盛り下がってしまっていた。
そこに原発問題も重なって見えて、京都の北山の山中の古道の上にのびる送電線が、若狭のエネルギーを吸い取って都市へ送り、神々の伝説の場所も、かろうじてコンクリートで固めてしまうことで、つなぎ留めているようになってると、おもえた。
ふと若狭の国の隣の丹波の国の天ノ橋立にある籠神社(コノジンジャ)に伝わる神社の宮司の海部家の系図の本が目についた。この系図は昭和51年に公開されたもので、その翌年に国宝に指定されている。その系図には海部家が天皇家とおなじ祖先をもつことがかかれており、海部家ではそのためにこれまで公開できなかったといういわれもあって、またその系図にヒミコではといわれる古代の姫の名もあって大反響をよんだ。関西都市圏にエネルギーを吸い取られるように送る若狭の国に、送るだけのエネルギーがあるってことだから、その秘密の一つがこの国宝系図にあるかもしれない、と。エネルギーを誕生させる秘密があっていいはず。
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この系図に倭宿祢命(ヤマトタケルミコト)も記載されていて「倭宿祢命が丹波から大和に入った道順として、次のように想定される。丹波の舞鶴より若狭の北川・遠敷川へ出、近江の安曇川・鴨川に沿って山城国の高野川・賀茂川へ、これより木津川、やがて大和川と川岸にそって大和国へ入った。この道順の付近には倭宿祢命に関係の深い古社がのこされている。若狭では倭宿祢命の祖父、火明命の別名、彦火々出見命を若狭彦神とたたえまつる若狭彦神社・・・、・・また彦火々出見命は京都の賀茂神社の祭神、別雷命(ワケイカズチノミコト)と異名同神であると、海部家の秘伝として伝えられ・・・古代海部氏の系図・金久与市」
ちなみに若狭彦命は遠敷明神として東大寺二月堂に祭られている。この神様がお水送りをしてくれる神様だ。お水取りへお水送りするルートと重なっている。こりゃ、大変だよ。

若狭から東大寺のお水取りへおくられる水は、京都でも水は若狭からくるという伝承に、そのありようをどうしても見たくて、若狭まではしって、まあ、つまり夜は居酒屋であったが、がんばってみた。若狭と奈良をむすぶ水のルート。そのふしぎな伝承に一端が見つかったような、ワキワクしてくる気分になれた。

「はるか二千年も前、弥生中期にさかのぼる(BC100~200)。稲霊・イナダマの壺をもった一群の人々が、旅にでた。この人々の目的は、さらに稲を育てる適地をもとめることにあった。川をさかのぼり峠を越えた。さらに水のある平地をもとめて旅はつづく。こうしていくつもの坂と峠をこえ、はじめて川の流れの悠久の蛇行をみた人々の感激はとんなものだったろうか。彼らは歓声をあげて、急坂を駆け下ったにちがいない。 藤森栄一/古道」
「水田耕作民の間には、山ノ神への信仰、水を分ける神への信仰、そういった川上信仰と、田の神の信仰が両輪としてあったのだろう。この川上信仰は、もともと水田耕作民固有のものというより、何かそういうものをもっていた個別の種族との融合によってなりたった、と考える方がよさそうだ。--なにしろやたらに川上へ行きたがる種族がいたことはたしかで、呪術にたけた賀茂族などはその典型的なものだが、彼らによって、平野社会の領域に、そこに流れ込む川の川上、流域全体のイメージができあがってきたのではあるまいか?そこで国境界は、単なる高山稜線よりも、分水嶺をたどってひかれることになるのだろう。 小松左京/探検の思想」
お水送りされて奈良・東大寺で湧き出る若狭井には黒と白の鵜がいるのだが、賀茂族は「山城国風土記では、日向の曾の峯に天降りした賀茂建角身命・カモタケツノミノミコトが神倭石余比古・カムヤマトイワレヒコすなわち神武天皇の先導となって大和に入り・・」とあって、つまりヤタガラスが賀茂族になる。カラスでもウでもカモ族になるのかな。

なにか急に籠神社のある丹波の国に引き込まれる気分になった。ヤタガラスの賀茂族は大和へ南から入ったという神話で、一方籠神社伝来の系図からはヤマトタケルこそカモタケミチニノミコトだという。そして北の丹波、若狭の国から大和へ、となる。古事記と、国宝の系図、この二つのコースがクロスする訳が判るわけないけど、けど、なぜか?丹波国へ行かなきゃ、と思った。

丹波の国へは、今居住する摂津の国の西宮からは三田へ出て、武庫川ぞいに北上すると、丹波・篠山へ。
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by forumhiroshima | 2012-10-07 11:43


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