こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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丹波・亀岡の女神

亀岡盆地の西端の山麓にのびる古山陰道を南下して宮川の神社を探して走った。この街道はとても古風で、点在する民家が柿シブのにぶい赤色がくすんでいるのに出逢ったりする。店仕舞いした家「しもた家」になった民家の窓ガラスのくもりもなくて、屋内があかるく見える。一仕事終えて、もうユックリで!いった風情があって、シャター街とよばれる吹きさらしの寒さがない。
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が、数度この道を京都から、能勢からと走ったが、探す宮川のお宮は旧街道のそのまた脇道にあって、そこへの分岐の記憶がなくて、幾度も地図をみた。旧街道がちいさな尾根を割って入っている場所は近くにはないから、道の東が開けている場所から森に囲まれるところが目印に、と探していた。雑然とふるい家電製品や古タイヤやらがひろがって置いてあって民家へ入る通路かとみえる道が、その脇道への分岐だった。柿シブの家の面影が飛び散ってしまう。
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じつは、向っている宮川神社には女神,京都下賀茂神社に祭られるカモタケツヌミの妻イカヤコヒメが鎮座しているはずだが、しかし女神に会えるのか?には二つの不安があった。
カモ族は奈良・葛城をでて、北上し木津川河畔にまず、岡田賀茂神社をのこして、そののち「久我国の北の山基にしずまり」上下賀茂神社に鎮座したという(山城国風土記)が、葛城でまつられていた神々とちがった神、カモタケツヌミとその孫のカモタケイカズチに変わる。
が、京都の古代開拓者の秦氏が建立の松尾神社にのこされた「本朝月令・秦氏本系帳」には、松尾神社の祭神オオヤマクイと秦の女子との間にうまれたのが、カモタケイカズチだとある。まったく摩り替わった伝承になっている「謎の渡来人・秦氏/水谷千秋」。そればかりか、「賀茂氏は秦氏の婿となり、今賀茂氏が松尾神社の禰宜として祭りをおこなっている」というのだ。秦氏は京都の開発をおこなっているから、そこに先住した賀茂の神も支配したということだろう。
また古事記の崇神記にある「ヒコイマス・丹波道主にクガミミノミカサを殺さしめる」とあって、このミミとカモタケツヌミのヌミは同じ言葉で、魏志倭人伝にある対馬国の王をミミとよぶことから、カモタケツヌミの後裔と思えるクガミミノミサカは、賀茂族が鎮座した久我国の王クガミミで、彼は崇神の軍勢に丹波のイカヤコヒメの出身地にまで逃げたが、そこで殺されたという説を見つけた。
向う宮川神社の女神ははたして、健在なのか?秦氏の女子になってはいないか?

ふるいサビのでている表示板に宮川神社とかかれているのに、やっと出逢った。一度見逃して一周している。
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田んぼの高いコンクリトの畔の間に金網のフェンスがあって、その向うの紅葉した木々にあいだに鳥居がみえた。フェンスはいのしいや鹿の防御だろうか。二つの取っ手があって、ふたつのフェンスが開くようになっている。すこし不思議だと思ったが、鳥居へ向かうフェンスをあけて、また閉めておいた。害獣防御壁に取り扱いのルール。平坦は参道は掃除が行き届いていて、参道に直角に本殿がある。
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うっそうとした森の中に大きなせせらぎの音がこだまして、日暮れにはまだ時間があるけど街灯がついている。表示板には八幡神社と神野神社との合祀で、そのときから宮川神社と呼ぶとあった。境内に賀茂神社になくてはならないアイテムの岩座のような大石が石垣に飲み込まれるようにある。
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地図には神社の森のある山が神尾山となっている。神野にしておいてほしかった。これでは、イカヤコヒメか、秦氏の女子かがわからない。
ちょっと思いいれが強すぎたね!と、どこか肩透かしの気分でフェンスにもどって、沢音がおおきなそばの、これが宮川だろうからと、隣のフェンスを開けてみた。
その景色はせせらぎに飛び石が伸びて白砂の小路が沢沿いにのびている。森は空に開いていて、道は明るい。
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「これって、すごい!」京都・上賀茂神社の曲水の宴が催されるあの公園のような疎水のながれとは、まったく違っている。先日の氷上の神野神社が「神の遊ぶ庭」ならここは「神の禊の沢」です。神は鎮座していた。
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by forumhiroshima | 2012-11-26 11:05

古代征服街道

古代の将軍のヒコイマスは、後に丹波道主命とよばれるから、征服事業は成功したってことか。ヒコイマスは日本海の久美浜まで到達したという。その道筋にあたる?駐屯地の多々奴比神社から、篠山の黒豆の発祥地といわれる富田川のながれる広い谷間をのぼって、栗柄峠をぬけ続くのぼりから峠に着いた。緩やかな登りでついた峠からのくだりはヘヤピンのコーナーもある急坂。この峠は鼓峠と地図にある。
先日篠山の黒豆の話を昼飯に立ち寄ったラーメン屋できいてたら、黒豆は江戸時代からの名産で、江戸時代、篠山藩の青山の殿様が、時の将軍徳川吉宗に黒豆を献上したら好評で、年貢を負けてもらったという話があるといっていた。幕府は各藩から年貢はとってないとおもうけど、みなさんそういう。がラーメン屋の親父はただものでなくて、黒豆は生薬として作られたといって、「豉」という名だと資料をみせてくれた。
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が、そこのラーメンには漢方の調理は期待できそうもないとおもったけど。とても汚い店だけど、おいしいと思った。JR篠山口のそばの旧道にある。
鼓峠の鼓は、この近くの池の堤か、また峠が境界にあたる標識をツクシともいう。海の境界の標示がミオツクシという、あのツクシだ。が、漢方薬の豉・シから字を違えて鼓になった。それほどこの谷の黒豆はよく知られていて、だから江戸の将軍にも献上できたのだ、との解釈に自分は落ち着いた。そうなると丹波道主命キホイマスの凱旋街道がここではない、ことになるなー!
峠のヘヤピンもおわる処に谷の沢筋に「つづみ峠旧街道」の標示をみつけた。それみろ、ここは街道だったと喜んだけど、“つづみ”の標示に、鼓の真ん中みたいにこの峠の両側の尾根がグッと絞られている景色からかな?と、確信は霧散してしまった。

このごろ自転車にのって7~80kmほどで、まったくヤルキなくなる。どこかおかしいのは、ガンテン、ご承知の介だけど、峠のしたあたりで、この無気力がむくむくと現れてきてしまった。そうなると、ビール、グビでそこらに寝転んで、半時間空みてたら、おいおいこれじゃいけん!という勇気がわいてくるのだけど、このあたりにはジュースの自販機も見当たらない。
これから峠四つで、丹波道主命がナンパした「丹波河之麻須郎女」さまが鎮座される園部の神社へむかって、彼の凱旋街道に道筋などと強弁しようか!とおもっていたが、どうもその気がでてこないようだ。

このサイクにもう一人?女神の宮を訪れようとしている。そちらには峠が二つである。尚且つこのコースは数度走っていて、このヘタレた心をやっと運べそうだ。

凱旋街道確定ツアー!?より、いまの関心は賀茂族にある。
奈良・葛城の賀茂族が、北上し木津川のそば岡田に鎮座しそののち京都に移ってきたと、山背国風土記にあるのだが、葛城の賀茂の宮に鎮座した、そしていまも鎮座する神々と、京都の上下賀茂神社の神々は違う。葛城の賀茂の神々は出雲のオオクニヌシの子供達で、京都の賀茂の神々は、ヤタガラスとして神武天皇に先導者だった神とその息子だ。このことにある人はもともと賀茂族には二系列あったと、わかったように書いてるし、葛城の神のなかにヤタガラスはすでにいたが、京都に鎮座したとき、賀茂族の支配権をにぎったと、見てきたかのごとく書いてる。「ツマラン!裏づけが説明されない」
賀茂族が葛城から移動を始めたのは雄略天皇の命令によると記紀にあるそうだから1500年前。その後300年たった764年に四国、高知に追われた神が帰還している。司馬さんはこのことを街道をゆく1葛城みちで述べている。その中で賀茂族のことを「神がシャーマンに憑き、その口をとおして霊異なことばを吐くというふしぎを演ずるのだが、そういう宗教的能力者は、鴨族にかぎるといわれ、大和朝廷のひとびとからそういう意味で畏敬されていた。」といっている。
が、一方「奈良時代以来、その祭祀がしばしば禁制の対象になってたのが賀茂神社である。榎村 寛之/古代の都と神々」との意見もある。葛城の賀茂の神でオオクニヌシの長男の事代主命は葛城山を西に越え難波の今宮戎神社に鎮座している。

向う女神の宮は亀岡の盆地の西の尾根、旧山陰道の谷間にある宮川神社、その昔の名は神野神社。そうあの丹波・氷上の神の舞う庭をもつ神野神社と同じ名をもっていた。
秋の午後の山のひだにいると、日陰は黒々と消えるが、ふと日差しがさしこんで、スポットライトが廻っているようだ。
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川阪、藤坂と峠の名の集落をぬけて篠山盆地の東の天引峠へ。下りはトンネルになるが、ひろい歩道がついていて、車を気にせず楽勝で下れる。降りると亀岡盆地の西端にかわる。
この盆地は亀山と江戸時代に言われていたが、明治政府の山陰鎮撫使に降伏し、亀山が伊勢にあることから改名だという。丹波道主命についでの敗北ってこと?

古代山陰街道はトンネル下の一部の新道改変をすぎると、すっかり懐かしい古道がゆらめいて伸びてゆく。これならいくらもいけまっせ!と、いいながら、造り酒屋の前の自販機で急停車だ。ビール発見!でも暗くなってきてない?
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by forumhiroshima | 2012-11-24 14:43

銀杏の落葉

の季節になると、必ずといっていいほど思い出す「銀杏」のポスターがあります。それに先日そのポスターの作者、横尾忠則の美術館が神戸に開館するのでは?と聞かれて、そういえばTVで言ってたなっと、そのこともあってすごい、「銀杏」を見たくなりました。
ポスターは昭和43年(1968)の東京大学の駒場祭のポスターで、当時火がついてきた全共闘運動とオーバーラップする衝撃的な、第一にあの東大が!というものでした。このポスターにはドキドキして人生変えられましたよ。駅弁大学(駅弁のある町には大学がある)というネーミングがそのころに出来ていて、田中文部科学大臣の今回の騒動なんて、半世紀まえからですよ!いまさら!といいたいです。その広島の駅弁大学にも、東大の風が舞い込んできたりしてました。そのポスターにかかれる銀杏の葉は東大生の襟につけられるバッチです。就職と運動の狭間の緊張感がポスターにはあふれていました。
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そんな「銀杏」を宮本常一さんは、あっさりと、“銀杏に葉は分厚くて、とても水分がおおい事から、防火壁になるという理由で、寺社とか学校に植えられたのだと、書いています。そうだろうけど、「銀杏」には実用性だけでなく、とても沢山の思い出がたくさんの人々に、あるように、思うけど。

そうそう賀茂族の追っかけで丹波国を走っています。その丹波の国を大和朝廷が征服するために軍隊を派遣しました。その大将がヒコイマスという人物で、親父といっしょだったという説もあります。大和から東方面へ派遣された将軍も親子でしたね。賀茂族はどうも神武天皇を案内したというヤタガラスの伝統からか、大和朝廷の先行偵察担当部隊って、感じを自分はもっているのです。
ヒコイマス大将が、そのころ(紀元6世紀間半)に、どんな道を通ってそしてどこまでいって丹波国を征服したのか?は、判らないのがあたりまえなんですが、「そこをなんとか」出来ないか、な。
そんなとき、将軍が篠山盆地の東端に陣屋をつくり、その跡が神社になってるのだ!、なんて、おいしい情報を「HP篠山の歴史・見処を訪ねる」で発見。そこに篠山盆地最古の樹齢千年の銀杏があると。行かなきゃ!11月は銀杏週間、なんです。

神社は若狭舞鶴自動車道のガードをくぐる場所にあります。古代幹線道と現代の高速道路は一致するとは地理学者の意見ですが、そしてこの神社・川内多々奴比神社・タタヌイが征服軍の駐屯地って、うまく符号します。神社裏の山並みを北へ越えると、春日の大道という場所になっているので、ヒコイマス将軍のルートを、妄想するのはもってこいです。でもここの山越えは大変そう、です。

境内はどうってこない、どこでも神社です。神社まえの池も枯れて、そのそばの民家に犬が、盛んに吼えています。ウルサイナ!。銀杏は、境内と高速道路の間にあって、檜にみえる(よく判らないのです)緑の針葉樹と抱き合ったようにそびえています。ヒコイマス将軍は丹波で彼女つくっています。丹波河上之麻須郎女とかかれていますが、読めません。その彼女は篠山の東の綾部に鎮座しているそうです。まだ訪れていません。
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この多々奴比神社はタタヌイとよんで、盾縫という武器をつくる人々がここに鎮座させたという解説があります。佐佐婆神社・ササバがこの西にあって、HPでは清められた庭でササバ、ここから篠山という地名ができた。とあります。どうなんでしょうか?ササバは笹の葉のような刀をいいます。盾があるから刀もあったりして。
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by forumhiroshima | 2012-11-23 20:02

鴨と石川のことから、エビスビールへ

柿本人麻呂と鴨と石川

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市島町梶原の鴨神社の境内で、下鴨神社を見つけて、本殿の裏にむかった。ここは上賀茂神社の神だいたい神社は本殿を周回できるように作られていて、お百度参りなどはこの周回路をつかう。向った森のなかの本殿にすぐ後正面に小さな神社があった。神額に柿本神社とある。その位置は鴨の神を後から監視しているように、なぜか思えた。薄暗い森に夕日が一部差し込んで、森は光のかすんでいるせいだったかもしれないけど。その中で柿本人麿と鴨でおもいついたことがあった。
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柿本人麿は石見の鴨山で死去していることは、その辞世の歌で知られる。死去した場所さがしが古来おこなわれてきた。探す手がかりに、人麿の死去に際して、妻の依羅娘子・ヨサミノオトメが作った歌があり、そこに鴨山のそばに石川が流れていると、歌われている。石見にはたくさんの柿本神社があるが、同じようにたくさんの人麿の死去した場所、つまり鴨山と石川のセットだという場所がある。そのなかで斉藤茂吉が特定した湯抱・ユガカイ温泉のそばの鴨山が決定打と、されていた。その説に梅原猛が反論したのが「水底の歌」で、第一回大仏次郎賞を受賞している。梅原説で決定かとおもっていた。が先日、旧石見町今の邑南町で、賀茂神社めぐりをしたとき、神社前をながれる矢上川が旧名は石川だったと、調べた町史にあった。町史の著者が、ここがもしや人麿の臨終の地ではないか、とあった。まだ、人麿終焉の地の論争は決着していないようだ。
京都の賀茂神社の紹介をしている歴史家の林屋辰三郎は「賀茂族が奈良、葛城からこの地へ着いたとき、“狭小くあれども、石川の清川・スミカワなり”と言い、この川をさかのぼって、京都にしずまった。と書いている。京都・岩波新書451」。
鴨と石川との対比は、川と野鳥との組み合わせで、どってことないのだが、何せ歌聖といわれる人麿のこととなれば、いろいろとかしましい。鴨と石川と人麿の組み合わせになにか、ナニカ、ありそうだ。と、思えませんか?ここ鴨神社に柿本神社があるってことは?
大阪の東、生駒の山並みの南にそびえる高安山の麓に「賀茂神社跡」の石柱がある。ここに鴨神社があったと古文書にあり、その場所は旧大和川と石川との合流地点すぐそばで、ここにも、鴨と石川との関係があるような、ないような?

四道将軍・ヨツノミチイクサキミの走った道「春日」
柿本氏の本貫は奈良、天理の櫟本だという。ここに古代の豪族の和邇氏の神を祭る和邇下神社と和邇坐赤阪比古神社が丘に鎮座して、その下に柿本寺遺跡と人麿の歌碑がある。和邇氏と柿本氏とのつながりがこの位置関連にみえるという。その和邇氏の祖といわれるヒコイマスが、日本書紀に、朝廷から四方に派遣された将軍の一人で、かれは丹波へむかった。
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市島の鴨神社から東へはいる谷を春日という。春日と聞くと奈良・春日神社と藤原氏を思い浮かべる。この谷にも春日神社が地図に記載されていたが、立ち寄っていない。どうもあの明るい朱色と緑のきらびやかさの佇まいが、にがてなのだ。
が、春日は奈良、三笠山山麓の春日神社だけを指すのではないようだ。三笠山を越えて東の山中、田原にある御陵を「春日宮と称したのは、この高原盆地一帯を古く“春日”といったからで、古代豪族春日氏の所領であった。万葉の「春日野」も田原あたりまで及んでいたという。白州正子 春日の春日の国」とある。田原は奈良盆地の櫟本の東の高原にある。此処でいわれる春日氏も和邇一族だという。春日の神は和邇一族の神であったが、後に藤原氏に乗っとられたとも、思える。田原の人々は三笠山、山麓にある春日神社の本宮でなく、奥宮といわれる山中腹の若宮の祭祀の奉仕をいまにつづけている。出雲で、国譲りをオオクニヌシに迫ったカケイカズチ、茨木の鹿島神社の神と大阪、河内の枚岡神社の神と合さったようにして、奈良・春日大社が鎮座している。

この春日の谷で郵便局を通り過ぎたとき、春日大道局のカンバン。「大道」は古代の幹線道路の地名だ。古代の幹線道路は、奈良、山辺の道が最初だといわれる。そののち盆地を南北に直線ではしる、上、中、下ツ道。そして難波から葛城の山をこえる竹内街道がつくられたのだと聞くが、特にこの難波宮から飛鳥へ走る街道には、大道の地名がいくつも残っている。
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その「大道」の名がここの郵便局に残っている。古代幹線道の特徴のストレートラインで道はのびている。「“道”という漢字の原義は、異族の首を携えて、未知の地に赴くときの道の修祓を意味する。白川 静/漢字百話」ヒコイマスは同族の春日の若者を引き連れてここを疾走し、柿本氏に勝利の歌を歌わせ、そののち彼らを鴨神社に駐屯させた記憶の地名だとは、ちょっと、妄想すぎるか、な。

奈良・天理にある丹波市という地名
櫟本の和邇の神々の鎮座する丘から、飛鳥にむけてストレートに古代上ツ道が伸びている。その道に丹波市という場所がある。奈良盆地にはたくさんの全国の地名が残っていて、「小字名を入れると、全国に国名が全部あるといっていい、 池田末則・大和の地名」とあって、この盆地では珍しくないことらしいが、ここに恵比寿といわれる市座神社がある。この恵比寿神は、あの葛城の下鴨神社の祭神コトシロヌシ、出雲・美保神社で海中に消えてしまうコトシロヌシだといわれ、また丹波姫も祭られているという。
四道将軍の一人、ヒコイマスは、鴨神社におられたコトシロヌシを恵比寿としてひきつれ、そのあとに京都の賀茂神社のカモワケイカズチを鎮座させ、また丹波の王の女を引き剥がし、奈良へ帰還した。とは、巨大妄想か、いや少々気狂いの様相になってきたようだ。
エビスビールで、ちょっと頭、冷やそうぜ。どんどんもってこい!!だ。
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by forumhiroshima | 2012-11-15 09:54

徹底的にやりますよ!

丹波武田の町
TVのコマーシャルでいってますよね、パブリーズ!!。そんな気分でまた丹波市の氷上回廊へ。徹底的に「賀茂」神を探し出そうと、いつも西宮に近い場所からはじめる古道ツアーを遠い奥まった町へ。丹波武田という町からUターンして幹線道をはずれると、JR路線の向うに鎮守の森がみえます。小高い丘の石段であがると武田の町が広がっています。神社の裏山を越えると福知山の町。けっこういけそうな峠道が地図にあるのだ。今日は置いといて!パブリーズ。でも篠山、福知山、その西に和田山と山がつく地名も気になるのだ。
それはさておき、「JRたんばたけだ駅」が旧道に面してあって、そこの広場へ。張り出された時刻表には一時間に一本の記載。ピーと列車が通り過ぎてゆき、ここには停車しないようで、快速列車の通過駅です。
町の玄関口という表現が列車の駅には使われるが、ここはもう玄関とはいえないです。一時間に一本では、お客さんに失礼でしょ、ね。だけど自転車で駅を訪れると、自分がそのお客さんというか、旅人みたいに思えるのです。旅だよな!って。ここでは“想い出のグリーングラス オブ ホーム”が聞こえますよね。
その玄関口に町の観光案内の地図がありました。けっこう新しい。けどわかりづらい、と良くみてみると、加茂神社が「上」と「中」と二つの記載されて、「みいつけた!」
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それからが大変。地図にはたくさんの鳥居マークがあって、駅の案内地図とあわせても、まったくどの鳥居が「加茂」かわからない。で、パブリーズ!
うろうろ、うろうろ、時々自分の居場所がわからなくなる。だって国土地理院の五万は改訂がここの地図では遅れていて、新しい幹線道や高速道路が記載されていない。おおきな建造物の記載がないって、地図から、その建造物を加えるという高等技術はこの頭には無理、無理。
でもヤット「中加茂神社」らしきお宮を発見。というのは神社には「中加茂」の標示はしてない。
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その南の「上加茂神社」は鎮座する谷と川でやっと発見。そこにも大きな道と旧道とがあるけど、地図には一本のみ。発見までヘトヘト。すっかり武田の町案内できるまで、勉強しました。
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賀茂の神々の身辺
京都の賀茂神社は、上と下。賀茂族の聖地、奈良の葛城山麓には高鴨神社、中鴨神社、下鴨神社と、縦軸で神社が鎮座する。この武田も同様だ。
九州の宗像神社は沖津、中津、辺津宮と水平。住吉の神々は底、中、表の神々で垂直。水平線から寄り付く神は出雲大社の神あり月神事で、知られてる。が、境内の本殿の奥に鎮座するスサノオは、天から降臨する。賀茂神も日向の山へ降臨するし、上賀茂神社の葵祭では、境内の木に降臨するという。空間全てが神々のものであった時代のイブキを感じる。

賀茂神は縄文時代からの神だともいわれるが、この国の神々の区分で行なわれる「天ツ神」と「国ツ神」との区分ではどちらなのだろうか?
京都の賀茂神は、山城の国風土記に奈良の葛城からやってきて、葛野-葛城の野という地名を残したとある。が、奈良・葛城と京都では神の名が違うのだ。
京都の賀茂神社の神は、日向から神武天皇の案内のヤタガラスといわれるカモタケツヌミ命とその子のカモワケイカズチ命。葛城の高鴨神社はアジスキタカヒコネ命、この神は出雲・オオクニヌシの子、下鴨神社はカモツミハコトシロヌシ命、この神もオオクニヌシの子。
カモツミハコトシロヌシ命は、出雲の国譲りの際に、オオクニヌシからどうするか決めよと言われ、譲ることを承諾したのち、海に身を沈める。この事件は、いまに続く出雲・美保神社の青柴垣神事で再現されている。アジスキタカヒコネ命は出雲国風土記では数箇所にいまも鎮座されているが、ヤマトの神話ではいつのまにか消えてしまった神。オオクニヌシは「この世のことは、皇孫・スメミマにお任せする。わたしは幽・カクれたることをいたします」といい、今も出雲大社では拝殿から横に、西を向いて鎮座している。

カモ神は、オオクニヌシの系統から、京都ではヤタガラスに変身する。ここ丹波のカモ神たちは、ここにカモタケツヌミ命を生んだ母親の生れた土地だけに、ヤタガラスに変わったカモ神たちの鎮座する土地なのだろう。ここの「上、中」の加茂神は境内にその標示はなかったが、京都の賀茂神社と同じ葵の神紋を境内にかかげていた。
氷上回廊の鴨神社
地図の鳥居マークに赤丸をつけて、パブリーズしようという意気込みも、お日様がだんだん低くなるにつれて、薄れてしまった。ならば、ここのどう見ても中核と思える先日尋ねた梶原の鴨神社へ向った。小富士山の円錐形がくっきり空を区切っていて、そこへ走ればいい。地図改訂どうこうってここにはないのが、うれしい。
鴨神社は広い境内が森に囲まれて、遠くからもすぐにわかる。この景色が、葛城の高鴨神社の森とにてることに気付いた。
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神社の森は田んぼの広がる平地にあって、日本海へ流れる由良川の上流にあたり、そこに鴨庄川が流れ込む、川合の近くだ。京都下賀茂神社も川の合流地点に鎮座する。高鴨神社は葛城山の山麓にあって、古い石垣でかこまれた池のほとりにある。
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水鳥の鴨をトーテムとする鴨族の神は当然水辺に鎮座していないわけがないが、武田の上、中加茂神社は、そうではなかった。神社の名も加茂と鴨とで、すごく近いのに違う。
出雲の神々におきた不幸、その伝説が、葛城の、出雲の景色を彩って、引き込まれてきた。ここの鴨神社の正面の小冨士山。全国の富士と名づく山は、駿河の富士山と似てるからだろうが、この富士とよばれる訳のひとつにカモ神、ひいては出雲の神々とのかかわりが隠されてはいないだろうか。縄文から弥生の時代の神々のにおいなそこにないだろうか。

鴨神社の境内は、先日とおなじく無人で夕日が差し込んで静かだ。日差しの差込にさそわれて境内の西端の祠に参拝してみると、そこに下鴨神社とちいさくかかれた木片がかかっていた。ここに鎮座する神をコトシロヌシ命としてみたいな。

神社の側の小富士山山麓に石器時代から続くという「梶原遺跡群」の標識があって、そこに古代の牛の引く鋤の図があった。
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ここから西に峠を抜けると、円山川の流域、和田山へはいる。その河口にコウノトリたちが飛び交っている。
鳥達のすむ河原
ある写真をこの遺跡の標示から連想した。コウノトリと牛のいる河原の写真。この中にカモがいたかと、取り出してみた。
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by forumhiroshima | 2012-11-13 10:38

それは、お水取りから。

「鴨・賀茂・加茂」族の追っかけ。

東大寺の二月堂のお水取りの「水」は若狭の遠敷川の鵜ノ瀬から、お水送りされる。その送り主は鵜ノ瀬の遠敷明神。この神様は二月堂の松明の火の粉がふりそそぐ西斜面に小さな祠にも居られる。そのそばに東大寺の初代別当の良弁和尚が子供のころに鷲にさらわれ、落とされ、ひかっかたとされる杉がある。お水取りの松明見物には、じゃまで不評だ。
「水」はその杉のしたにある若狭井で汲まれる。

遠敷明神が二月堂での修二会に遅参したことをわびて、「水」がおくられることになったのだそうだが、「水」は地下を流れて一年ほどかかって若狭井に届く。この「水」を1300年ほども欠かさず汲んできた修二会。「水」はなぜ若狭の川からなのか?若狭では「水」を送る神事も欠かさず執り行われている。この連携の深さはどうだ!不思議だ。良弁和尚は琵琶湖湖畔に渡来人の子として生まれたといわれるが、鵜ノ瀬ではここが誕生の地とあった。そうでも思わなきゃ、トレンドなんて言ってる自分達に1300年の連続は理解できない。

遠敷明神は鵜ノ瀬のすこし川下に鎮座する若狭彦神社の神、ワカサヒコノミコトの別名だという。
若狭のとなりの丹後の天橋立に籠神社にある日本最古で国宝の海部氏系図にはワカサヒコミコトは、この神社の祭神・ホアカリノミコトであり、京都の下鴨神社の祭神のワケイカズチミコトと異名同神であるとなっている。

京都の賀茂川は若狭から流れてくるといわれていたという。遠敷川-賀茂川-木津川と流れが東大寺につながってくる。若狭井の水が東大寺の建設場所の決め手、といったら、いけないだろうな。このつながりのキーワードが「カモ」じゃろうて!と決めた。カモなら、どこでも行ってみよう。

霧散する「カモ」族
「出雲神族の先三輪、葛城両氏が没落し、その祭祀集団の「カモ」氏が、信仰と反河内王朝の傾向をひめて、全国へ散っていった。 山田宗睦」
「政治的には葛城氏は5世紀末にほろぶ。しかし鴨族は政治的存在ではなさそうだからクッキリとはほろびず、ただ葛城の故郷にあってはしだいに衰弱してゆく。それらは、「鴨の神々」をかついで諸国に散る。 司馬遼太郎 街道をゆく1・葛城道」
「和名抄」(平安時代の辞典)を見ても・・カモを地名とするところも少なくない。・・賀茂郡が5、賀茂郷15、鴨部4となっており東北と九州にはない。荘園の賀茂神社への寄進が進んだ中世には勧請され、おびただしい数になってゆく。・・古い地名の賀茂の地には鴨部が住んでいたようだ。鴨部は鳥をとることを業とする部民であったとおもわれるが、鳥ばかりでなく魚猟もおこなっていたことは瀬戸内海の漁民の中に信奉するものが少なくない。宮本常一」

丹波・柏原の加茂
古代山陰道はいまのR9とちがって、亀岡から篠山へはいって柏原・氷上とをとおて和田山へぬけていたといわれる。古代幹線道の設計思想の直線設計にちかくて、説得される。が、篠山から柏原への道はトンネルで鐘ケ峠には旧道はないようだった。これまで幾度か篠山から氷上へ抜けたが、トンネル嫌いとパスしてきたのだけど、短いこのトンネルのコースを走ることにした。が、驚きモモノキ、トンネルには自転車・歩行者専用の道が1車線ほどのひろさで、明るい照明のなかにあった。
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柏原でR176をはずれて、西へ。柏原町鴨野の集落へむかった。
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十軒ほどの固まりが峠の入口にある。道のそばに土手がでてきて、その池への登り道の向こうに鳥居がみえた。ドキドキしながら鳥居の神額をみると、加茂神社!!ピンポン!!
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合祀された小さな祠にも、神木とおもえる杉の幹にも真新しい御幣がつけられて、境内の一角にある岩には結界の御幣で囲まれていた。神社の背景に円錐の山があり、境内に円錐の砂山がつくられ、神社前の池の御幣はこの池をつくった神だと示しているようだ。
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京都・上賀茂神社にせせらぎのそばに葵祭りには神主が上にのって,そばの神が降臨する依代になる巨木に祈る岩がある。どこのカモ神社には、同じような岩があるような、憶えてないようね。円錐の砂山は京都・上賀茂神社にある。この加茂神社の社家は、円錐に砂にサカキをつっこんでいる。新しい感じだ。
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カモ神の在り場
「日本は渡り鳥の多い国である。ガン・カモ・ツバメ・ツグミ・ツル・サギ・ムクドリなど。それらをとって食料にあて、またこれを職業とする者も少なくなかった。オトリをつかい、また網を用いてこれをとるので、野獣を採るものとはその仲間を異にするようである。しかも狩猟の方法に網を用いることが多いということで、海部の民とも深いかかわりあいをもっていたのではないだろうか。・・賀茂神社の背後にはまだ解明されていない日本の民族文化の重要な一面がひそんでいるように思う。宮本常一」
「土器がつくられる前、旧石器時代から編み籠・編む技術は相当発達していたはずなんですね。・・モンタージュってことがどこから来たかってこと、それは狩猟と編みの技術だ。狩猟というのは動物の軌跡を追っかけていって、森という統一体のなかに断片をとらえる技術。一方、編みというのは、断片を組み合わせて統一体をつくっていく技術。モンタージュはこの二つをあわせた技術。ハンターとギャザラー(狩猟者と採取者)の精神は旧石器から縄文の精神だ。  坂本龍一、中沢新一/縄文文化巡礼」

水鳥の集う水辺に結界をつくり銅鐸をならした人々の、今は、かすかになった影を見つけられたら、いいのにな。カモの宮はいくつも、待っていてくれる。
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by forumhiroshima | 2012-11-06 11:45

神の気配、女神の薄化粧

賀茂の母の社
賀茂族の神社をマークしている。それで丹波国の賀茂族にかかわる神社の情報をさがしていた。ネットで「カモ」で検索すると、鹿児島の大隅史談会のHP「鴨着く島へようこそ」にゆきあたった。そこに、丹波国にある「神野神社」が紹介されていた。

先日やはり丹波国の丹波市に賀茂神社へむかって走っていると、とても美しい石垣の神社があった。野づら積とでもいうのか、雑多なそれも形も大きさもふぞろいな石を正確に組上げてあって、ちょっと現代アートとでもいえそうな、ふしぎな景色の石垣だった。
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大隅史談会のHPに記載された神野神社の地図が石垣の神社だった。たしか鳥居にも神額もなかったのか写真が残っていない。とても小さな神社が、九州のHPにでていることと、あの石垣を思い出して、すこし動揺した。神がよんでいるのでは??
神武天皇が九州・日向から東征をはじめたとき、賀茂建角身命・カモタケズノミコトは案内役として大和へ来て、葛城に留まっていたが、後に山城の岡田賀茂を経由していまの京都に居を定めた。このカモタケズノミコトがヤタガラスといわれ、その妻は丹波国の神野の神伊可古夜日女・カムイカコヤヒメで、玉依日子、玉依日売を産み、娘の玉依日売が可茂別雷命・カモワケイカズチを産む。この神様が下鴨神社の祭神になる。カムイカコヤヒメは賀茂族の御祖にあたる。大隅史談会のHPもこの神武天皇の東征の出発点にこだわっておられるようで、その先導のカモも当然その視野にはいっているということだろう。

氷上に神野の地名はみつからなかったが、神野神社は御油にあることがわかった。その側に賀茂という地名や氷上町中央を京都の嵯峨あたりの古地名のカドノと同じ葛野川・カドノカワが流れている。この賀茂には賀茂神社も見える。また近くに鴨内、鴨阪の地名がある。
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神野神社
油断して、旧道からそれて御油を通り過ぎたりして、神野神社の谷に入ったころ日差しがすっかり傾いていた。谷奥への道の正面にすこし紅葉をはじめた鎮守森とおもえる木々のもりあがりが、すこし暗くなったなかに、際立っていて、あそこにちがいないとホットした。暗がりでの地図読みが、このごろむつかしくなってきている。
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森に入って御手洗の石桶にむかって鳥居に入ろうとして、「ハッ」として、足が止まった。神の気配を感じた。境内へ入ることが、すこしの間できなかった。ここに今、神が居られる、と確信する自分がいることがとても不思議だった。
興奮したのか、写真がブレてしまいました。でも写真を貼り付けます。うまく伝わりますか。
本殿の前のカエデが薄化粧です。
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神社をでると、正面に夕日のあたる二つの峯が輝いていた。あの峯を正面にして神社は置かれたのだろうか。
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by forumhiroshima | 2012-11-05 15:18


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