こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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アクターズ スタジオ

NHKのアーカイブスに、ニューヨークにある俳優養成所のアクターズスタジオでのインタビュウ番組があって、先日深夜に眺めていた。出演する俳優さんがどんな映画にでられているのかも、自分は知らないのだが、インタビューアーを担当しているこの養成所の教授だというジェームス・リプトン先生のインタビュー技術がすばらしく、楽しくてチャンネルを換えさせない魅力がある。
ジェームス先生は必ず、出演者の俳優さんの出身を尋ねる。と、みなさん祖先がアメリカに渡ってきた祖国から今を話してくれる。17世紀にイギリスからやってきたメイフラワー号の乗員だったアメリカ建国の人々の経歴とおなじように、祖先を話す。それをとても大切にされているのが伝わってくる。

民俗学者の宮本常一さんは、日本人はよく祖先を大切にするといわれるが、実は大半の人々は四代前ほどぐらいしか知っていないとよく話している。もう十数年も前にやはりアメリカにつれてこられた黒人奴隷を祖先にもつ女性がアフリカを尋ねて自分の祖先をさがす「ルーツ」という本が話題になった。奴隷とされた人々の多くがアフルカでは貴族階級だったことなど、興味深い内容だった。

奈良、平安時代に、系図を調べたものが残っていて、それには天津系、国津系、渡来系とあって、天皇家と同じ天津系はむりでも、国津系ならわからないだろうと、ほとんどの系図が作られているという。徳川家康も最初は藤原家の系図だったものを後に源家に変更していて、皆そのことを知っているというほどの系図の信頼性で、中世にはほとんでが、経歴詐称をしていたというから、調べてようもないのが、我祖先たちのなりたち、なのだろう。

3000年から2500年も前、この列島に稲の種(稲霊)をもった人々が、稲をそだてる適地を求め旅をした。「かって、民衆の先頭に立ち、新しい稲壺の地を求め、フロンティアの旅を続けていた呪者たちは、いま長となって、すでに老いた。彼はおとろえた身体の中に、本能的な次の旅への衝動を感じた。そして長い、長い旅の仕度がはじまった。藤森栄一/古道」
稲はインド原産で、種をおおきくインディカとジャポニカとに分けられる。古代の米は赤い種であったが、ジャポニカに変わる間に、円くなりモチモチとした食感になり、白くなったという。
その種を壺に入れ、海を渡ってきた一群も、我々の祖先の一端だろう。氷河期にマンモスを追って氷河を渡ってきた人々が、氷河が消えて列島にとりのこされた、その人々も祖先だろう。その古い、古い人々以後は、海を渡ってきた。

古事記に兄の海彦の鉤をなくした山彦が塩槌の神に教えられ、綿津見宮にゆき、そこでであった豊玉ヒメとむすばれウガヤフキアエズ命がうまれ、そのウガヤさんが豊玉ヒメの妹の玉ヨリヒメと結ばれ、うまれた息子が神武天皇という大和朝廷発祥伝説の姫君はみな海の女王だ。海を渡ってきた朝廷の主たちは、単身赴任ゆえに現地妻をもらったという。それより海を渡るには、舟とその船頭が必要で、そのことを現地妻どり、とあらわしたともいう。またこの姫君たちが、その姿はワニやヘビであることも、出雲大社の神有祭りの御神体が海へびであることを、連想させる。
出雲国風土記に「恋の山」の話で和邇が阿伊の玉日女・タマヒメの元に海から登るがそのルートに石を置いて遮り、会えない和邇が慕いそして震えたとあって、今その場所を鬼の舌ふるいといっている。肥前国風土記にも、海の神・鰐魚/ワニが川上の世田ヒメに通う話がある。どこかカワイイ話で、伸びやか。

風土記の二つの説話はワニが男になっている。川上にあがりたがる神々で賀茂族はその典型だと、小松左京はいっているが、上賀茂神社の神を生んだのが、玉依ヒメで、“玉は霊・タマ”だと説明される。この説明はわかったようで、納得させてくれない。玉と海の女神との関係ってなにだろうか。
ワニを海原にズラーとならべて、騙したのは因幡の白兎で、この話は因幡国風土記にある。ワニと海との関係に古代の人々のナニカ!があるのだろう。

津波があるからといって、巨大防波堤もつくってもダメだと、思案する我々はそれほど海と離れた在り様を選んでいるのだろう。が、そこらが、どうもモゾモゾする。落ち着かない。
我々の祖先たちが、残したメッセージが“ワニやタマ”にあるのでは。そこらに祖先のルーツの手がかりがあってもいいのだけど。
ところで、この古代の海を仕切った一族の幾つかが古事記にある。綿津見系、住吉系、そして宗像系がある。綿津見系は海神社に祭られ安曇系ともいわれ、住吉系は住吉神社に、宗像系は宗像系、安芸の厳島神社もこの系統。綿津見系の安曇族は川をさかのぼり信州の安曇野の開拓者となり、住吉系は瀬戸内海運輸。宗像系は半島との運輸担当だという。
安曇族に波頭を越えてやってきた古代の旅人って、感じる。住吉も宗像も操船技術者って感じをうける。

できれば、私の祖先は安曇系であってほしい。京都・上下賀茂神社の奥宮は京都北山の貴船神社だといい、葵をいただくのは水の神・貴船神社への道すがらの葵を摘むからと聞いた。海の旅人は水の在り処を占ったのだろうか。そして川上へ登ることになる。
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by forumhiroshima | 2012-12-16 15:20

海峡をわたるタンポポ

金達寿さんは、「わたしはひとりの文学者であっても、けっして歴史学者といえるようなものではない。しかしながら、私は朝鮮と日本とのそれに関するかぎり、これまでの伝統的な歴史学にたいして、ある疑問を持っていることも事実である。金達寿/日本古代史と朝鮮」
金達寿は自分にとって衝撃な人であった。自転車で通り過ぎる風景に神社の森はてごろなランドマークであり、パンクしたチューブの穴をさがす水のある場所でもあった。境内は開放されて、拝殿や本殿もふるびて、ほんとんど放置されている様子であっても、けっして廃墟ではなく、たまの、秋祭りや初詣ででかける場所であって、そこになにかしか小松左京のいう「なにか奇妙に気がかりな物がそこにある。」と思わせられる。しかし、神社の鳥居にかかがられた神額の神の名について関心がゆくことはなかった。ただ「奇妙な気がかり」を感じるだけだった。
その神社を金達寿は、神に名をつけ、その系統をかたるという形式は半島から古代もたらされたと力説するのだ。その主張は1975年中央公論社から発行された“日本の渡来文化”司馬遼太郎・上田正昭・金達寿編にまとめられる。
「在日朝鮮人である鄭貴文氏は私の近所の友人である。散歩を一緒にする友人で、同時に私にとって朝鮮の言語や風俗についての師匠でもある。・・貴文氏は職業が制限されている在日朝鮮人として、他の多くの人々がそうであるように、喫茶店や遊戯場のようなものを、経営しておられたのだが、それをいっそ整理したいという。弟の詔文氏と話し合われ、・・{朝鮮と日本の関係は、古代では計り知れぬほど大きかったと思うのです。そういう主題で半学術雑誌のようなものを出すというのは、考えられないでしょうか}といわれた。兄の貴文氏は商売をたたみ、弟の詔文氏はその雑誌の費用を出すという目的でさらに商売にはげむという。“三号まで、ともかく出されたらどうでしょうか”私は、ふつうその程度で刀折れ矢尽きるものだと思っていた・・『日本のなかの朝鮮文化』は1963年創刊、すでに24号を数えた。私は人間の志とか営為というものがどういうものであるかを、この兄弟に教えられた。私自身、この雑誌とかかわりを持つようになって、自分なりに、朝鮮文化の原型というものがおぼろげながら見えはじめたような感じがする。司馬遼太郎 街道をゆく7-砂鉄のみち」
金達寿氏はこの『日本のなかの朝鮮文化』に古代遺跡紀行シリーズを書き続け、その中で対馬をおとずれ、永留氏の『対馬の古蹟』をガイドに歩き、そして「『対馬の古蹟』をもとにしてもう一冊新たに書き上げることをすすめ、それを大和書房にとりついだ。古代史の鍵・対馬 はしがき」
この経緯が、対馬、厳原港の抱擁になったのだろうか。

「雑誌“文芸の四月号(1975)金達寿氏が、ひさしぶりに『対馬まで』という題の短編を書いている。中年と初老の年配の在日朝鮮人が何人かで対馬まで旅をする話である。・・(※当時の在日朝鮮人は日本の国籍政策で北朝鮮籍になっており、当時の大韓民国は、北朝鮮籍での入国を認めていなかった-ドイ)ともかくも人生を十分に生き、思慮も教養も申し分のない在日朝鮮人たちが対馬の北端の千俵蒔山に立って海峡のかなたを見るということの重さが主題になっている。
・・もし故郷に帰ることができれば、とそれを夢想でしかない仮定として話す、ソウルの鐘路の裏のうすぎたないマッコルジブ(濁酒飲み屋)で一杯やりたい、それができれば死んでしまってもいい、というのである。
海はガスで閉じ込められていた。かれらは釜山までわずか50kmあまりにすぎないことを知って、標高287mの千俵蒔山にのぼるのである。強い風がふいたことからその朝は海が晴れていた。やがて釜山の絶影島が見え、他の島々も見えた。その帰路、急に車を止めハンドルに顔を伏せて泣くのである。司馬遼太郎 街道をゆく7-砂鉄のみち」

金達寿氏のこの旅も対馬在の考古学者の永留久恵氏が案内している。
金達寿氏と永留久恵氏との出逢いと抱擁を出版に関してかもしれないと、してはいけないのかもしれない。「晩春の野辺に遊ぶ子供たちが、タンポポの白い花を摘んで、青空に向ってフッーと吹くと、白い穂が風に舞って飛んでゆく。“遠くとべ、朝鮮までとべ、朝鮮まで行って米持って来い”と唱えた俗言が遺っている。古代の鍵・対馬 永留久恵」

このタンポポの話を読んで、海峡を渡る蝶を思い出した。広島の芸北高原にいる蝶・アサギマダラは瀬戸内海の姫島に集まり、台湾まで海をわたり、また夏に渡ってくる。臥龍の林道の終点の水場あたりに乱舞している夏にであったことがあった。もう雪に覆われているだろうか。
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タンポポもチョウチョも海峡を渡るのに・・・。
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by forumhiroshima | 2012-12-09 15:14

神社に捕われてしまった訳。そして、どうしても自転車はそこへむかう。

「棟瓦の両端に、鴟尾に似て、やや趣きを異にする細長い突出部をピンとつくだす屋根の様式は、丹波から山陰路へかけてきわめて多く見られるものであるが、これが伊賀盆地から大和東部にかけても分布しているのを見て、何となく奇異の念にうたれたこともあった。・・出雲から丹波、伊勢へとぬける山岳山間をつらねた漠然たる領域は、いわば呪術的、といってわるければ原信仰的な、クロスベルトを形づくっているのではなかろうか?元伊勢といわれる宮が丹波にあり、さらにあの奇怪なものの渦巻く紀州、熊野が出雲族のコロニーであり、木の国にスサノオの弟イソタケルが木の種を植え、熊野神社の本社が、出雲国意宇郡、現在でいえば島根県八束郡八雲村大字熊野にあると,ならば・・・。琵琶湖、大阪湾をつなぐ淀川水系を折り目にして、近畿を二つに折りたためば、伊勢は丹波と、紀州・熊野は出雲とおりかさなる・・これがどう、ということはない。しかし、なにか奇妙に気がかりな物がそこにある。
・・瀬戸内海を通り東海道へぬけるメガロポリスが、日本の表文化ベルトとするならば、西日本の裏ベルトというべきものが、表文化ベルトに畿内でクロスする形で走っているのではないだろうか?平野定着型の集約農耕文明、その定着が巨大でコンクリートな都市にまで変貌してゆく平野性文明に対して、山間より発し、各地を放浪してゆく移動性文化が、裏ベルトであるといえないだろうか? 小松左京/探検の思想・出雲」

畿内をうろうろと走って、いま丹波へむかっているが、屋根の様式には気付かなかった。見落としたのか。それを見落とすようでは、なってない、のです。が、それともコンクリートから変貌したプレハブ型の住宅にかくれて、消えてしまったのだろうか。小松左京はこの文を1966年に発表しているから、もうウウーー年だもんね。いいわけしてます。

「山地という場所が古代に成立した“国”の境界の中に入ってくるためには、そこに川上信仰がなければ、ならないだろう。水田耕作民の間の(※下流での水をたえまなく与えてくれる)田の神の信仰に、(※その水の湧き出る)山神や水分神信仰が、融合して成立したとおもわれる。水田耕作民に、なにか別個の(※山間の)種族との融合によって成立したと考える方がよさそうだ。なにしろ、やたらに川上へ行きたがる種族がいたことはたしかで、呪術にたけた賀茂族などはその典型的なものだが、彼らによって、平野社会の領域に、そこへ流れ込む川の上流、流域全体がはいってきたのではあるまいか?そこで国境界は、単なる高山稜線よりも分水嶺をたどってひかれることになるだろう。 小松左京」(※印はドイ記入)

その放浪する賀茂族は、カムヤマトイワレヒコ命(神武天皇)がつくった奈良盆地の東南に葛城山の麓の秋津嶋の国にいた。イワレヒコを九州からこの大和に先導したのが賀茂族のヤタガラス。その後賀茂族は北上をして京都に移住したといわれる。が、葛城に鎮座している賀茂の神々と京都に賀茂神社の神は違う。ヤタガサスは葛城に痕跡はないようにおもっていた。葛城の賀茂の神は、事代という宣託の神、そしてアジスキという農業の切れ味するどい鍬を名とする農耕の神だという。それが、京都ではヤタガラスの孫の水の神・雷/イカズチにかわる。そこになぜか引っかかる、そこに魅力が感じられる。カモイカズチの母を祭るといわれる亀岡・宮川神社では、清流のほとりの参道という舞台装置で、葛城の、京都の、多重な神々のご託宣がかさなって、そのせせらぎが、ボヘミアン・ラプソディ/クイーンのように聞こえた、ような?。

大和・葛城方面の雷神と京の賀茂の雷神が、対馬の神であって、のち大和に遷祀され、また京に分祀されたという説が「“永留久恵・神と王と卜官”」にあった。永留久恵の代表作だという「海童と天童」を購入して、もっとこの説を知りたいと読み始めてみた。賀茂の神々は古代の卜占の神だという。小松左京のいうところの「呪術にたけた」賀茂族ということ、はどんなことだろうか?をこの著作にもとめてみた。
「海童と天童」中に「卜占については司馬遼太郎との話のなかで・・」とある。エッツ!!である。司馬さん呼び捨て、ですよ!永留さんと司馬さんの関係って?

そうだ!司馬遼太郎・街道をゆく13、“壱岐・対馬の道”があった!。街道をゆくシリーズでは、めずらしくこの旅一編が一冊になっている。司馬さん、この旅に、力が入っている。この旅を現地で迎えたのが、対馬の考古学者の永留久恵だった。

この旅の一行(司馬さんをはじめ数人)が対馬の厳原港に船で入った。「同行の金達寿、キム・ダルス氏らはさきに降りた。かれは埠頭に足をつけると、飛び出してきた人と抱きあった。やがて私も紹介されたのだが、その人は、対馬の古代史を研究している永留久恵氏であった。私は氏を著書を通してしか知らない。街道をゆく13」
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by forumhiroshima | 2012-12-09 15:09

古代のチューエン展開

コンビニではあるまし、神々の鎮座する神社の連鎖をチェーン展開とは、バチアタリではあるが、“賀茂族”の展開する賀茂・鴨・加茂神社の所在は、現代のコンビニより、すごい。というのは、その設置の数ではなくて景色が設置条件になっていると思えるところがすごい。円錐形・富士山型といわれる甘南備山とイワクラと川が用意されている、と思うしかないほど神社そばに存在している。神社の名だけでなく、景色に共通なものを感じる。立ち寄ったカモ関係の神社の各々の鳥居の、下から周囲の景観を眺めるようになってしまった。甘南備の山、そして川をさがしてみている。

そのうえ地図でみると、甘南備の山と神社との位置関係が、もう一点山とか岩倉とか、また近隣の神社とかとの直線に上にのる。これをレイラインといって、けっこう古代史ロマンで、かしましい。自分もレイラインを見つけるのが、嫌いじゃないのだ。

レイライン
「レイライン(ley line)は、古代の遺跡には直線的に並ぶよう建造されたものがあるという仮説のなかで、その遺跡群が描く直線をさす(ウイキペヂィアより)」
国内では、出雲・日御崎神社と琵琶湖の竹生島と冨士山頂を通る直線とか、出雲大社と伊勢神宮と平城京・大極殿を結ぶ直線とか、長野の諏訪神社と茨木の鹿島神宮の北緯35度58分の線上の所在がいわれる。
HP検索してみつけた近畿付近のレイラインの図に場所の東経の数値を添えてみた図がこれだけど、結構誤差があって、すべて直線にありますと、納得です!とははいかない。経度は10分の違いで1.5kmほどの距離差がある。それでもそれくらいは、誤差の内ともいえるし、その誤差の範囲っていっていいのか?
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数多のレイラインが言われる中で、NHKスペシャルとして放映された「謎の北緯34度32分をゆく、知られざる古代。1980年2月放映」がよく知られている。奈良・東大寺参道横の写真館の主で写真家小川光三氏の「大和の原像」「ヤマト古代祭祀の謎」などで示された、ヒミコの墓といわれる箸墓古墳と伊勢の伊勢斎宮遺跡とが同じ北緯34:32の線上にあって、それを西の淡路島まで延ばすと、淡路島・伊勢久留麻神社が近くに見つけられる。この東西線をNHKのプロデューサーの水谷慶一さんがとりあげ、放映しまた出版された。司馬遼太郎や松本清張もこれに助言している。そして、のちにこれが太陽の道とよばれるほどに注目された。奈良のサイクリスト達はこの奈良-斎宮の往復140kmをよく走るらしい、と聞いていた。このレイラィン上に長谷寺や室生寺、堺・大鳥神社などもあって、その不思議さを強く感じさせる。

奈良盆地を走ろうって思って、まずこの有名なレイラインへ向って竹内峠から三輪山への古道を走った。三輪山は古代史での主役とおもえるほど古代史での注目度はすさまじいが、独立峰ではないからか、期待ほどの円錐形ではないな、が感想だった。太陽の道という春分・秋分線の中でここに限定するには、それが日本最初の前方後円墳で、記紀に昼人が造り、夜神が造ったと書かれる箸墓を通るとしても、なにか、そこにしなきゃいけない決定的な理由が伝わってこないな、とも感じた。東西線はどこにも無数にあるのだから。

でも“太陽の道レイライン”は沢山の墳墓や寺社やイワクラをその直線状に置いているのだから、これを設計した古代の人々がいるにちがいないと思ったりする。そうなると、これを観測し決定した、その人々は誰か?は気になるところで、水谷さんはその著書で、設計者は古代日置氏だと語っている。このレイライン上に日置という地名やその名がたくさん発見される。日置という地名は全国にある。日を測り、時を決め置くことに携わった人々の記憶が地名や神社に刻まれているという。そして、太陽の道のレイラインが伊勢斎宮を通ることが、後日に伊勢神宮発行の伊勢暦が日本の標準の「こよみ」としてひろまったこともこのラインの存在をうかがわせる。国土地理院の日本基準点の東京・日本橋の三角点のように、太陽の道が古代の基準ラインとされた、思えなくはない。

太陽の道の東西線と交差する南北線で、直線とされるレイラインとはいえないかもしれないすこし振れるラインがある。古代の都の藤原・平城・平安と時代を追って北上した都の設計は、奈良盆地に南北にひかれた三つの古代幹線道の西端の下ツ道が関わっている、という説である。そして、この南北の上を移動した都の先に賀茂族が移動している、思えるが、賀茂族はこの南北線を示したのだろうか。
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賀茂族は東へも移動しているといわれる。伊豆国の賀茂郡賀茂には古代の祭祀の場所が昭和初期に発掘調査されていて、そこに甘南備山とされる三倉山、祭祀場とされる洗田遺跡がある。この二つを結ぶ線が祭祀場の後方の神尾山の山頂に行き着く。小さなレイラインだ。亀岡の宮川神社と同じ神尾山の地名が印象深い。京都、上賀茂神社の甘南備山はほぼ真北の位置に甘南備山とされる神山がある。
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レイラインの設計と思わせる、古代に天体観測の技術を確立した人々が、日置あるいは賀茂の人々であるのかどうか?

司馬遼太郎の街道をゆく13・壱岐対馬に「卜占は古代世界の科学であった。専門の神道者・カムナギがこの術を用いたが、彼らの奇妙さは壱岐・対馬に集中的にいたことである。大和の王朝がわざわざ玄界灘の洋上からかれらをよんで宮廷の科学を担当させた。・・本来、日本というこの地にはるかな昔のヒョウビョウとしてさだかならぬ神聖感覚(原始神道)には卜占の科学などは入っていなかった。」と述べられる。

「古代中国の書、「周礼」で、柱を立て夏至にその陰が一尺五寸になる所に王国を立てると書かれる。都城はこの地中とよばれる場所に建てるといわれる。その場所は北緯34度26分。この位置に古代中国の首都、殷の商丘、周の洛陽、秦の咸陽、漢の長安がこの北緯前後に並ぶ。古代大和朝廷の最初の王と呼ばれる、神武天皇の時代の橿原、そののち、やはり最初の王の称号をもつ崇神の磯城がこのラインにある。緯度が同じくすれば、太陽や星の運行がおなじになり、天測の術が発揮できる。“天祭の古俗」はまさに古代神道であり、卜占の存在”なくして理解できない。この卜占をおこなった氏族に賀茂族の存在は欠かせない。神と王と卜官/永留久恵」

太陽の道は、日本国内の東西線ではなくて、古代中国の統治の基本線の延長であること、そして、その卜占は壱岐対馬からもたらされたということ、になってくる。
賀茂神社にみられるその設計も、卜占の技術としてされたのかも知れない。
永留久恵は対馬在住の考古学者だが、その著述のなかで、「卜占の術の人々として大和の葛城の雷神と京の賀茂の雷神がうかびあがる。賀茂の神事の“ミアレ”儀式は対馬の雷命が鎮る阿礼(対馬にある集落)の地名と関係がありそうだ。神と王と卜官/永留久恵」

国内にひろがる賀茂、鴨、加茂などの地名と神社。日置という土地。どこも、おいで、おいで、している。
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by forumhiroshima | 2012-12-03 08:41


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