こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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海鮮丼

この列島に住み始めた人々は誰も海を渡ってきた「海人」であった。が、魚を食ってるだけでは、生きてゆけない。炭水化物がどうしても欲しい。さしみだけでは、力がでない。飯にさしみの海鮮丼がうまい!。
「稲の種、イナダマ(稲霊)をもって海原の東の陸に到達した、後に弥生人と呼ばれる人々の乗った幾船の船隊のへさきにたつリーダーは、遥かに原始林のつづく海岸を望みながら、幾度となく海水をなめ、淡水にかわるのを待っただろう。
そうして選んだ豊な水のたゆとう川を、次第に上流へ上流へと遡上していった。その両岸には見わたす限りの原始林が続いていた。草むらからカワウソが水中に飛び込み、その音に驚いた水鳥がいっせいに羽ばたき、そのむこうに牡鹿の角がゆらぐのが見えた。
やがて、川の蛇行部に、新しい泥の干潟がみえた。イナダマが、新しい精霊の芽を出す場所である。藤森栄一 古道」

「道はすこしずつののぼり坂になり、一時間もゆくうちに、和泉のように開けた国にこれほどの深山があったのかと思えるほどの山林に入ってしまう。
登りがけわしくなり、足元の渓流を落ちてゆく水がはやくなるうちに、やがて槙尾山に入り込んでしまう。このような人界から離れた山中に寺をひらいた最初の人物はだれであったかということが疑わしくなるほどの場所だが、伝承されるところでは、空海のこの時代より数百年前に大和あたりの山中を駆け回っていたという役小角・エンノオズヌであるという。後世、役小角は雑密(非正統の密教)に憑かれた山林遊行者の草分けの人物のように説かれるが、その点はおそらく後世の行者たちがつくった伝説であろう。むしろ土俗の巫人のようでもあるが、峰々を飛ぶように駈けたといわれ、諸方で霊気のある山をさがしては、ひらいた。小角が開創した神聖地には一定の形象上の特徴があった。まわりが蓮の花びらのように峰々で囲まれた林間の小盆地のようなところを好んだようだが、空海もまた、元来が山林遊行の徒であったせいか、小角好みのそのような場所を好み、『小角がひらいた所を空海が再興した』といったふうな伝承-たとえば室生寺-をもつ山寺がおおい。司馬遼太郎 空海の風景」

「役小角は、尊称されて役優婆塞/エンノウバソクとか、役行者/エンノギョウジャなどと呼ばれる。七世紀から八世紀にかけて活躍する怪人物だが、実在の人物で4あることはまちがいない。『大和の国葛木の上の郡茅原の村の人なり』と“日本霊異記”にある。その素姓については『賀茂役君、今の高賀茂の朝臣というものなり』というから、鴨族という神霊のことをつかさどるグループのなかでも筋目にいい出身であろう。 司馬遼太郎 街道をゆく・葛城みち」

鴨族が川の流れをさかのぼってきて、その名をのこした広島県の賀茂郡いまの東広島市は、「林間の小盆地」であったのではないのだろうか。がしかし、その賀茂族の神をまつる賀茂神社が見つからなかった。東広島市のHPの観光地の案内に、新宮神社という神社に賀茂神社が合祀されているとあった。
ウイキペディアで、広島県賀茂郡では「かつてはこの地域が京都の賀茂神社の荘園であったことに由来する「賀茂」の名前は学校名(「広島県立賀茂高等学校」、「広島県立賀茂北高等学校」)この地域で作られる酒の名前「賀茂鶴」「賀茂輝」「賀茂泉」など地元企業名に残すのみとなった。」とある。

新宮神社は旧山陽道が丘にのぼり、大きなため池の中央に伸びる堰堤になり、そこから“苦ノ坂”と標示のある赤土の道をくだる、とても印象深い道の南、やはり小さな池のそばに古びてたたずんでいる神社で、狛犬は出雲タイプのお尻をあげてお守りを遂行している。とても気に入っている神社だ。
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HPで紹介されている記事に、ここの賀茂神社は下賀茂神社であったようで、上賀茂神社とおもわれる神社が、ここから北へはいった篠という集落に鎮座する岩蔵神社である、と書かれている。
その岩蔵神社は、その北にある虚空蔵山をご神体としており、山中にイワクラと泉があると、隣の志和の文化財の紹介にある。古代の信仰のラインが現れてきた。

賀茂神社はその背後に甘南備山といわれる円錐形の山をもっている。京都・上賀茂神社に円錐形の盛り土が印象的に思い出される。ここの虚空蔵山もその円錐形の佇まいで、賀茂盆地をはしる黒瀬川の源である並滝寺池にその姿を写している。
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賀茂神社を走ってきて、虚空蔵山をその側にもつ神社が、三田にもその北の氷上にもあった。それどころか古代に賀茂の名のさかのぼる土地の高知県土佐の賀茂にも、香川県さぬきの賀茂にも虚空蔵山がセットになっている。

「『学生よ、お前がそこまで仏法のことに熱心ならいい工夫をおしてやろう』とこの儒生(空海)に万巻の経典をたちまちに暗唱できるという秘法を教えたのである。・・要するにインドに伝わる記憶術であった。『虚空蔵求聞持法』という秘法がそれである。司馬遼太郎/空海の風景」

新宮神社のある小さな丘を塚の峠/タオという。塚とあるからここに古墳などがあったのかもしれない。峠をタオとよますが、トウゲもタオもタムケからでたという。神聖な場所であった記憶のようにおもえる。日当たりの良い静かな雑木林でおおわれている。
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ずっとずっと昔、ここに到達した賀茂族の人々は、この盆地をうるおす水の源を定め、そこを神聖な場所としてあがめ、そこから生まれる水を導くラインを想定したにちがいない、と確信するが、ウイキペディアにあるように、賀茂という地名は有史になって荘園という支配機構におかれた機能としての「神」であると、学者たちは語っている。
賀茂という地名がこの盆地から消え、西条という名がのこったその原因の条里制の復元図がある。条理の計測の基準線は神社と6世紀につくられたという三ツ城古墳をむすぶラインを南北線とし、この西に条理が、いまの地名となったという。
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新宮神社と岩蔵神社そして虚空蔵山をむすぶラインとは、相似されていない。

海から遡上してきた人々はその最終地点となった水源の山をみてすごす後、海からの記憶が、その山への降臨の記憶に変わったことが、「海」も「天」もアマとよぶことになったという。神が降臨する場所を岩蔵という。もちろんこれも学者たちの話なのだが。

塚の峠から黒瀬川をみながら古道をさがし、篠の集落の中央の岩蔵神社をとおり、古道を北上し池の堰堤で迂回されて車道にでるコースはどこか透明で深い印象があるのです。
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by forumhiroshima | 2013-02-24 22:47

渡来ということ

出雲の神在月に強風が吹き、神々が佐田神社からその風にのって大社へ巡行することを「お忌荒れ」という。厳冬期の日本海の波頭のうねる景色がうかんでくる。かもめ達はこの風に浮かぶように飛び上がり、またおりてくる。神々とオーバーラップする。

京都の上下賀茂神社には、おなじ発音ながら、初夏の五月十二日に「御阿礼神事-上賀茂神社」「御生神事-下賀茂神社」がおこなわれる。神が降臨する場所は上、下では全く違っていて、この二社が“上下”とくくるわけには行かないようにおもえる。
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ただ。出雲と京都で同じ神事があることは、この神々が同祖、同族ではないかの思いが強くなる。「出雲族」一派である。
古代京都盆地は大阪湾とつながった海であったといわれ、「この盆地への新しい文化は。当然大阪湾から淀川水系を通って流入したと考えられそうだが、はじめはこの方向が京都の湖底的・江湾的地勢からなおとざされていたとすると、丹波を経て日本海からの文化伝播が、いちおう考えられねばならないのである。・・丹波地方は日本海を通じて早く大陸の文化的影響をうけており、・・出雲の信仰をになった人々が、次第に南下してきたことを物語っている。・・そして彼らの居を定めたのは、下賀茂の一帯であったらしい。奈良時代にその名を残す出雲郷は、この地方に居住した出雲族の大集落であり、こんにち出雲路橋の西岸にその地を比定されている。・・彼らのいわゆる出雲路を通る流入路の歴史は、史前にもさかのぼるであろう。林屋辰三郎/京都」
賀茂族が大和からの移動ということと、この出雲族の集落とはどんな関係なのか。問題はおおきくなるばかり。

上賀茂神社をでて、御薗橋を渡って賀茂川岸を下ると、「高麗美術館」がある。観光神社や観光寺にゆくと、それらが博物館におもえて、すなおでない性格が、渦巻きだす性格から、美術館や博物館にはあまり立ち寄らない。この美術館も、そんな気分で立ち寄った。大通りは美しい竹やぶで、高麗竹って、あったかな?と小さな陶器の表札で高麗美術館とある、小さな門をくぐった。
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入場されている方もけっこうあって、賑わっている。小さいだけに、人のジャマになりそうで、部屋の隅に並べられたスチールパイプの椅子がならんで、VTRが放映されているコーナーに座った。
いきなり画面から飛びこんできたにが、司馬遼太郎・街道をゆく/砂鉄のみち。美しい陶器の壺や、手のこんだ家具のならんだところに、砂鉄とは・・・鉄の親分・出雲の英雄/スサノオは新羅からだったかな?高麗時代よりもずっと古いはず・
次にこの美術館を創建した鄭詔文・チョンジョムン氏へのNHKのインタビューが放映されだした。

「在日朝鮮人である鄭詔文氏は京都に住んでおられる。その兄貴の鄭貴文氏は、私の近所の友人である。散歩をいっしょにする友人で、同時にわたしにとって朝鮮の言語や風俗についての師匠である。
散歩のなかで“朝鮮と日本の関係は、古代では計り知れぬほど大きかったと思うのです。そういう主題で半学術雑誌のようなものを出すというのは考えられないでしょうか”といわれた。・・“三号まで、ともかく出されたらどうでしょうか”わたしは、ふつうその程度で刀折れ矢尽きるものだとおもっていたから、最初から三号を目標とする覚悟でやるほうがいいのではないか、といった。・・それが、ちいさい存在ながらこんな大きな評価を得ている雑誌『日本のなかの朝鮮』なのである。司馬遼太郎・街道をゆく」雑誌は50号まで発刊されて。終わらされた。

この雑誌は同じ名の書籍として発行され、それは、すべてよんでいる。このなかで、投稿者の金達寿氏が日本の神社はすべて半島からの渡来いっても過言ではない、といいはなって、とてもビックリした。それから、彼らの主張にくらいついてみた。
鄭詔文氏も兄の貴文氏も雑誌の編集者である、スポンサーであること、韓国では名門に家だあったが没落し幼年期に日本に渡ってこられ、小学校も数年ほど通われただけで、「職業が制限されている在日朝鮮人として、他の多くの人々もそうであるように、喫茶店や遊技場のようなものを経営されていたが、それを整理され、兄弟で話し合われ、兄は商売をたたみ、弟はその雑誌の費用をだすという目的でさらに商売にはげむという・・司馬遼太郎」であったことをしっていて、美術館を造られていることはしらなかった。

古代を考えるということは「私の脳裏に今あることは多分に妄想であるかもしれず、どこまで現実の地上(私の脳裏にある地上とは、現代と上代が混沌としたふぃしぎなアジア地図なのである。これをかりに地上であるとして)その地上と私の想像がどう結びつくのか、自分でもよくわからないのである。司馬遼太郎」

自分かこれまで幾分か沢山の場所を走ってきた。どこも同じような郊外の商業施設とシャターの降りた町だが、どこも同じではないように思えてきた。

「広くて傾斜の緩やかな地域では地形図、空中写真、折れ尺などを手に、黙々とペダルを踏んだ。自転車は微起伏をとらえるのにとても都合よかった。地形からみた歴史・日下雅義」とある地形学者がかいている。

東京の「縄文海進期とよばれる時代にどんな地形をしていたのか、詳しいことまでわかっている。・・それを地図に描き直して、・・そこに縄文時代から弥生時代にかけての集落の跡をマッピングしてゆく・・そこに古くからの神社の位置を重ねて行く。さらに古墳と寺院のある場所も重ねて描く。こうして出来上がったアースダイバー用の地図と、現在の市街地地図をいっしょにザックに詰め込んで、街を歩くのである。中沢新一・アースダイバー」

京都の上下賀茂神社あたりを走っていて、ふと空を見上げた。何かの視線を感じた。きっと、山中で感じることのある、鷹や隼の視線。いや賀茂神社だから烏??。
各地の賀茂神社の幾つかへ、はしって行くと、その場所のどこにも濃厚な湿気を感じた。たとえば京都。上下賀茂神社境内のうつくしい苔が示すように。そして、そこらあたりに、豊な命の気配を感じる。濃い湿気は自転車を走らせる肺には、とても敏感にその存在を表してくる。。
その命をはぐくむ場所に上代の人々は集い、その人々の営みの永続性は農耕の持続できる場所の発見からでしかなかった。その上代の人々の場所の発見が、農耕をする弥生の人々の本能であり、そこに神の存在をおいたとかんがえられないだろうか。

「日本のなかの朝鮮」という雑誌はそんな感慨をもたせてくれた、古代へのパイロットをしてくれたように思っている。もう美術館は苦手だとはおもわない。ここだったら、いつも坐っていたい。坐らせてほしい。美術館のパイプイスにすわって、こみ上げてくるものがある。

インタビューは鄭詔文氏がいまの在日韓国人の子供達に呼びかけるように、君たちへの力添えのためにこの美術館を残すのだといい、この場所で命を終えたいと伝えていた。
美術館の門につけられた陶器つくりの表札の裏に司馬遼太郎揮毫とあった。

美術館から西へ、5世紀に渡来した秦という氏の人々の見つけ作り上げた紫野にある広隆寺へいった。暗い堂内に、細くて小さな仏様がおられる。6世紀初頭にこの紫野・太秦へ渡来されたという。鄭詔文氏のずっとずっと遠い祖先を映した像だろうか。
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1400年この国は、この像を守り続けている。戦後の国宝第一号でもある。
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by forumhiroshima | 2013-02-17 16:20

宮崎駿監督の出雲風土記か?

奈良・葛城山麓の鴨の神が北上して京都に鎮座したのは、そこが行き止まりであったからだ、という。でもその北の山中にも加茂神社があり鴨神は鎮座していたし、それどころか北上して日本海へ出、与謝の海をのぞむ天橋立にある籠神社にも鴨神が鎮座する。鴨族はいったいどんなルートで、どこからやってきて、どのルートで旅したのだろうか。近畿の地形図に古代の街道ルートを記入してみて、そしてこの道これまで走ってきたのだが、鴨族の気持ち、わかんねぇ。でもよく走った、ね。
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鴨族は奈良からの北上運動のうちに、鴨神の主神の名を変える。

奈良・葛城の鴨神は鴨と書かれ、アジスキタカヒコネとコトシロヌシの兄弟であったが、京都・山城ではカモワケイカズチと雷神になり賀茂と書かれる。
それどころか、父親がアジスキ・コトシロはオオクニヌシで出雲神の大親分だが、京都では神武天皇の道案内をしたヤタガラスを祖父とし、その孫として鴨神は誕生する。

オオクニヌシは支配した豊葦原の国を長男のコトシロヌシに相談しその結果、アマテラスに譲る。アマテラスから6代目が神武天皇・ヤマト・イワレヒコになる。コトシロヌシは国譲りの後に島根半島の東端の美保関の海に身をなげる。後に、出雲神たちは出雲の国に逼塞して永らえることになる。オオクニヌシはいま本殿の入口のある南をさけて、西向きに鎮座しているという。だから西の海に沈んだのだともいわれる。
賀茂神は、自分達の御祖オオクニヌシに離反したのか?見捨てたのか!

ヤマト・イワレヒコの遠征からのち、彼らが支配する地域を畿内とよぶ。その中心が飛鳥から藤原京へと移り(694年)そののちの710年に平城京遷都。その二年後712年に「古事記」が完成し、出雲国譲りが記載される。713年に各国の風土記作成が命ぜられ、鴨族の京都・山城への移住の記事は山城国風土記に残される。
出雲国風土記の完成は遅れた733年になるが、そこには国譲りの直接の記載は見られない。それどころかコトシロヌシは一度も風土記にあらわれない。

出雲国風土記を編集した出雲国造・果安、広嶋親子は、古事記を読んでないとはいえない。それは国造果安は716年、息子の広嶋は724年に上京し、天皇を祝福する「神賀詞」を奏上している。そこには「皇御孫の命の静まりまさむ大ヤマト国」その国の四方を、三輪の大神、葛城の高鴨のアジスキタカヒコネ、雲テナ(橿原市)のコトシロヌシ、飛鳥のカヤナルミに守らせると彼ら自ら奏上している。彼らはコトシロヌシを知っていたが、出雲国風土記には受け入れなかった。
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都は平安京に遷都されると、朝廷は神々を分別しだし、「天神とは伊勢・山城の鴨・住吉・出雲の熊野の神なり。地祇とは大神・大倭・葛城の鴨・出雲のオオクニヌシ」になっている(令義解833年)。神々に位をつけた平安貴族達らしい振る舞いだ。このころ決定的に鴨族の神は分裂してしまう。朝廷サイドと反サイドへ。

出雲国造がみだらな振る舞いにより、熊野神社のある意宇郡の領地を朝廷に取り上げられ解任される798年から12年後、京都・賀茂神社に朝廷は賀茂斎王を設ける。この後いつごろか、島根半島美保関にコトシロヌシが降臨することになる。青柴垣神事を始めた人々はいったい誰で、いつごろからのことだろうか。その時の出雲国造はどう思っていたのだろう。
「明治以後“記紀”の国譲り神話におけるコトシロヌシの役割に基づいて、これを美保神社はミホススミ命からコトシロヌシに主神を換えた(土屋 寛)」という意見もあるが、4月3日の美保神社の青柴垣神事を見たら、そんなこといえんだろ。と強く強く思う。今から100年余り前にこの神事ができたとはおもえない。見ていて足が震えるほどだった。神代の神事とはこれのことか!と。
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コトシロヌシについて、ふと思いついたことがある。宮崎駿監督の“もののけ姫”にでてくる鎮西の大猪の「乙事主」だ。この名は監督の山荘ちかくの地名だということのようだが、サンのオオカミ・大神といい、アシタカのヤックルという鹿といい、鴨の神々、いや出雲の神々の苦闘と見えなくもない。コトシロヌシは事代主と書かれる。監督の中では美保の海に沈んだコトシロヌシにちがいない。ただただ、全国の鴨の神々の社は鎮西、九州にはないようで、乙事主は鎮西からやってきている。が、ですよ、コトシロヌシのお母さんは九州・宗像の女神であるのですよ。
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宍道湖の南岸に穴道・シンジという小さな古い宿場があって、そこから南へ入る古道そばに「石宮」という神社がある。この神社は田園のなかにぽつんとそびえる小山の麓に鎮座していて、石段の取り付きにある鳥居の両側に大きな岩がある。神社の拝殿の奥に玉垣でかこまれた石があって、これがご神体だ。鳥居の岩が巨大猪で、オオクヌシが狩りに連れて行ったのがご神体の犬だといい。猪・シシを追った道がそこにあるから、シシ道で宍道・シンジだと風土記はいっている。狛犬のように境内を守護するシシたちでもある。ここにもなにか、神事があったのではないか。

出雲族は弥生時代を形成した人々総体の名称におもっている。鴨族も物部族も海部族も安曇族もそういった人々の一部をさすのだろう。彼らは稲作の技術そしてそれを実現する道具や高床の建築物も習得していた人々だろう。その彼らの道具のなかで最も重要なもの、が鉄であった。鉄は森を切り倒すことからエネルギーを生みだし、森をかき分けてその原材料を得なければならない。

北国の縄文の人と思われるアシタカも、狩猟の不安よりも農耕の安定を望むことは「森を失わせるタタリ」として感じたのかもしれない。そのタタリはとても強い力をもっていた。その力をもたらすものは「人間」であること、それに抵抗するオオカミとシシ。それを助けるアシタカ。
が、乙事主・コトシロヌシはこのタタリを抱きしめて玉砕し、また海に沈んだのかもしれない。そして海にただようようなシシ神。その首をとりもどしたシシ神がみせたラストシーンの緑の風は、美しかった。まさに神事だ。そして神話。宮崎駿は現代にあたらしい青柴垣神事を再現しようとしたのかもしれない。
だから二代目コトシロヌシは「乙事主」という名なんだ、ろうか。
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by forumhiroshima | 2013-02-07 14:47


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