こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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磐座・イワクラ 石の魂

君が代の歌詞で細石・サザレイシが巌・イハオとなるまで、という部分がある。サザレイシは結構いろいろな場所で、それも石屋さんの前などで見かける。京大の東の吉田山の吉田神社境内にもあった。その説明があって、石灰岩質角礫岩がその学名とある。
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「サザレ石がイハホになるという石成長譚・・それは、石や岩が植物のように大地から生じると見たものにもとづいているはずで、イハホにたいしイハネがあり、つまりイハにホ(穂)とネ(根)があるものと  石の魂/西郷信綱」
境内のサザレ石の下に根がないか?覗きこんでみた。
「私の外祖母を・・子供心にこんなに賢いひとはいないと思っていたが、それでも彼女は、地面からわずかに露呈している岩(ゴロンと地上にころがっている岩でなく)を見ると、“またぎなや(またいではいけないよ)”と、おごそかに警告した。万一神が宿っているかもしれないことを畏れたにちがいない。彼女の話では、岩は成長するのだということであった。はじめは細石・サザレイシのように小さい石でも地面にうずくまって何万年も経つと大きな岩になるというのである。私はむろんそれを信じていた。小学校にあがって“君が代”をならったとき“・・さざれ石のいはほとなりて苔のむすまで”という歌詞の解釈を先生からきいて、なるほど外祖母が教えてくれたとおりだとおもった。古代信仰にそれがあったにちがいない。 司馬遼太郎/街道をゆく1」
「石崇拝がかって日本では---あるいは日本でも---相当さかんであったのは間違いない。というより、国つ神とよばれたものたちの神体がすべて岩または石であったわがお国柄からすれば、この崇拝はほとんど記憶を絶する世にさかのぼり、しかも至らぬ隈なくゆきわたっていただろうと、推定される。 石の魂/西郷信綱」
「神話と歴史は途絶えることなく連続しており、神話と歴史は一体のものであった。---祭祀=信仰の形態、すなわち「磐座信仰」は、そのまま出雲系統の祭祀=信仰を表徴するものといってよいであろう。 出雲と大和 村井康彦」
村井康彦のいう磐座の神はオオクニヌシであり、君が代が歌上げる「君」は天皇ではないように思える。さあて?

司馬さんの外祖母が信じた石の成長は、もう過ぎ去った記憶になってしまうのか?そうなら、磐座信仰は、神社奥や山にある御幣で囲まれた磐座をみて、知識として理解するほかないのだろうか。なにか、今に“石や岩を感じる”手がかりはないものだろうか。

西郷信綱という大古典学者の「日本の古代語を語る」をここに引き出したのは、その中で、作庭記※作庭記(さくていき)とは平安時代に書かれた最古の庭園書 の引用があり、「磯しまは、たちあがりたる石をところどころに立てて、その石のこはんにしたがいて、浪うちの石を荒らかにたてわたして・・・ここに書かれる意味は、石を心あるものと見て、その石が要請するといった心持である。今日でも石を遣う/ツカウ場合に、そういった石の気持になって、石を配ることのあるのは、実際家の体験する所である。・・即ち主石が要請するだけのものを据える。余計にすることを戒めたものである。 石の魂/西郷信綱」

そうか、庭石が、古代出雲心であるのか!と東山で庭園拝観とカンバンにあった曼殊院門跡に600円かそこらを払って入ってみた。これで昼飯にはビールは付けられんなぁ。
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下鴨神社の神事のある御蔭神社には、期待した磐座は見られなかった。磐座がご神体であれば、その場所は動かせない。が、ご神体が鏡に変わると、ポータブルなご神体は移動されやすくなる。が、また鏡を祀る本殿が必要にもなる。出雲の神々の磐座はその拝殿がつくられ、本殿のない神社もある。下鴨神社は、神を降臨させる場所が馬の背中になっていて、すこし出雲神々のラインからずれてる感じだ。オモシロクない!

御蔭神社からでて、比叡山のロープウエー駅そばから、西へ走った。そこに岩倉という、うれしい地名の場所がある。
御蔭神社まで走るのなら、比叡山!!は無理無理!で、何かないかと調べていると「京都歴史散策マップ」をみつけた。そのマップのシリーズの中に八瀬・岩倉ルートというパンフがある。そこに石座神社を見つけた。もっとうれしかったのはパンフに石座神社境内に合祀されている一言主神社の紹介があるではないか。それと石座神社は元社があって今は山住神社に変わっているとある。
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山住神社は川に面していて、大きな磐座と祠がある。その横に集会所らしき建物があって子供達が遊んでいる。磐座まえにロープが張ってあって、なにか魂抜かれた感じ。「その石のこはんにしたがって・・」という言葉を思い出した。縛られては、「こはんにしたがいて」ようにはならないだろう。でもどうして、こうなったの。
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すぐに出て石座神社へ走る。今はこの神社の祭りの神輿は山住神社へでるという。お旅所が、元社なのだ。
石座神社の境内に小さな鳥居がある。石座神社の鳥居ではなくて、一言神社と神額がかかっている。本殿そばにかわいい狛犬は鎮座している。
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「一言主神についてである。・・“善きことも一言、悪しきことも一言”という託宣の神で、いかにも霊異おそるべき神のような気がする。むろん天孫民族の神ではなく土着神で、それも葛城山の土着神である。ひょっとすると、葛城国家の王であった者が神に化ったのかもしれない。・・“時ニ神、天皇ト相争ヒ、不遜ノ言アリ。天皇大イニ怒り、土佐ニ移シ奉る(釈日本紀)”・・一言主はそこで大奮戦すればいいのだが、すでに先住民族にそれだけの力がなく、むなしく土佐へ流されてゆくのである。・・日本歴史の面白さは・・土佐へ流された一言主の神社が高知県に現存することである。・・天皇が葛城の神を土佐へ追放したのかどうかはわからないにしても、葛城に先住していた(天皇より※土井)神々が大和から追い出されてしまったことだけはたしかであろう。しかし神を追い出すというのはちょっと困難な作業で、要するに人間そのものが追放されたのであろう。・・(追放された※土井)集団が土佐へゆくことについて氏族神である一言主命をかついで行ったに違いない。
・・一言主命がいなくなってから三百年後の764年、この葛城の鴨族の巫.人のひとりである高賀茂田守という人物が、奈良の朝廷に奏して、土佐から一言主命をよびかえしていただきたい、とたのんだ。・・それが許可された。・・一言主命は奈良時代になって葛城山にもどったのである。 司馬遼太郎 街道をゆく1/葛城みち」

山城の奥まった場所の岩倉に一言主命が鎮座されてるのは、「氏族神をかついで・・」鴨族はここにやってきた、と。とても懐かしい。葛城の山麓を走ってからもう2年がすぎる。
やっと、奈良盆地の西南の葛城山麓の痕跡がみつかったと、思った。京都の上下賀茂神社は、どこにも葛城の匂いがないのだ。
一言神社のちいさな鳥居のそばに説明板は立ててある。そこには、明治になって、岩倉の谷の奥にあったものを、ここに移した、とある。そして、秋の祭礼には早朝5時に子供神輿で、元あった北の場所へ向うのだとあった。
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書いてある子ども神輿のゆくここから北北東の村松の集落へ走った。
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「一言主命神を奉じていた葛城の遺民たちも、うるさい連中であっただろう。ひょっとすると百人以上も土佐へ流されたかもしれず、・・高知市の東北の台地をひろびろと開拓して、後世”土佐のいごっそう”といわれる特異な体質を遺伝させてゆく祖になったともいえるかもしれない。司馬遼太郎 街道をゆく1」はたして坂本竜馬は、一言主命とむすびつくかどうか?と司馬さんはおもっているようだ、と考えながら。
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by forumhiroshima | 2013-04-25 20:52

銅鐸の夢

京都に移住してきたという鴨族が定着した場所は、12000年とも7000年ともいわれる歴史のある縄文人の居住の痕跡がある。その痕跡として、発掘された北白川遺跡群の中心部の京都大学農学部キャンパスを徘徊して、ここで発見された古代埋没林と、農学部の関係について、などと妄想してみた。どうして古代埋没林の上に農学部が発生したか?の考察などなど。(バカです)

自分の職場での発掘を仔細にみてきた歴史学者の林屋辰三郎はこの縄文人の居住地に侵入してきた鴨族は、そののち大和族の文化と支配をここに持ち込むことになるとかたっており、鴨族発祥の地、奈良盆地の大和族よりふるい先住民の人々南西の葛城の鴨族と、京都の賀茂族の、どこか違うことをもどかしそうに、空白にしている。
その空白を自分の中で埋めてくれたのは、宮本常一のいう鴨族は狩猟の人でゆえに移動を繰り返してきたという説明だった。鴨族は縄文人だと断言している。(日本文化の形成)
縄文人であるならこの北白川遺跡が賀茂族の居住地であったのか?。古代賀茂族が京都大学最古参のOBであることになる。それも農学部生として。
京都盆地の縄文世界・北白川遺跡群によると、発掘された弥生時代の水田跡と縄文人の住居が「この地でみられた縄文から弥生への移り変わりは、文化の交替でなく変容であった」と報告される。
そうなると縄文人と弥生人は同じ人々で、いま携帯電話を使っている自分がスマホを使い出せば、携帯電話人からスマホ人に変容するってぐらいのこと、らしい。縄文人の大和・葛城の鴨族はここで弥生文化の担い手になり、今の賀茂の地名の命名者となって、上下賀茂神社に鎮座しているのか。

この北白川遺跡からは弥生時代を象徴しAC1世紀には消滅したといわれる銅鐸は発掘されていない。京都市内での発見例も報告されていない。が、梅原猛が(葬られた王朝・古代出雲の謎を解く)で、「下鴨神社の宮司。新木直人氏から聞いた話であるが、下鴨神社にも銅鐸があり、重要な神事、たとえば葵祭の神事を行なう時には必ずこの銅鐸を鳴らすという。・・銅鐸の起源をなす鈴もまた神事には必ず使われる。・・巫女は必ず鈴を持って舞う。この鈴の音は人の心を清々しくするが、神もいたくお気に入りの・・」と書いている。神のお気に入りということに、文句さしはさむと、「上賀茂神社の祭りの掲げられる(おすず)というものがあり、これは藤蔓・フジズルの皮でできた径三寸ばかりの円座様のもの 古代の鉄と神々/真弓常忠」で音はでないようだ。つまらないクレームだけど、上賀茂神社にはおかしなものがあるとおもって。
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この下鴨神社の銅鐸は北白川遺跡の時代から、神社に伝えられたものだとしたら、すごい。
その下鴨神社の祭礼に葵祭の前に行われる御蔭祭がある。神社の北西の比叡山の山麓になる八瀬の山中にある御蔭神社へ馬をつれて参拝し、馬がいななくと神が降臨されたとして馬に乗られた神を神社にお連れする。神社の説明板によると、紀元前581に始まるとあった。もしこの時代だとすると、銅鐸を鳴らさなくてもいいようだけど。
下鴨神社から東へはしる車道に御蔭通と命名されていて、けっこう周知のお祭りのようだ。
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下鴨神社の南の河合神社から京阪の出町柳駅へ走り、御蔭通の一つ北の道から東山の山麓へむかった。出町柳とはいきな地名だとおもって調べてみた。出町は鴨川の右岸、柳が左岸であわせた地名だという。出町は内裏から出たところ、柳は(弥な来)で人々の往来の多い良い場所だとある。(古代地名/吉田金彦)賀茂川と高野川の合流点でここから下流は鴨川と書かれる。縄文の神を語る中沢新一は「精霊たちは、ふだん柳の木の繁茂する気持ちの良い林を住処としている。」と平安時代の蹴鞠の名人が千日休むことなく蹴鞠を続け、その満願の日の夜に鞠の精霊の童子・顔は人で手足は猿が出現し、自分達は木々に住まいしており、そこから蹴鞠の上達の手助けをするから、木々を守るようにと伝えて消えた話を書いている。この柳の林の精霊がまさに縄文のこころだと力説している。オット、横道にはいってしまった。出町柳駅そばの河畔に柳がそよいでいた。このあたりは縄文の住宅地なのです。
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現在は、下鴨神社から御蔭神社へは馬でなく車でゆくのだそうで、それって神事られん。
その御蔭神社への御蔭道がどこなのかは、わからなくて、比叡山の千日回峰行の修験者が比叡山からおりてきて山麓へでる場所の赤山禅院がなにやらあやしくて、そこにまずよって、修学院の町を行き当たりばったりに北上した。峠にでると宝鐘寺という寺院のそばに御影道跡の石柱をみつけて、にんまり。
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その石柱の向うに比叡山がそびえている。そのとき、この景色は葛城・金剛山の景色と似ている!と気付いた。賀茂族はどうも円錐形の甘南備山がお好きのようだが、大和の鴨族は、この雄大な山が似合う。京の賀茂族も、鴨族であったころがあったのじゃないか、と予感がした。
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高野川・八瀬の河畔にでると車道が途切れて、細い道に変わった。道の先は森へ入っている。登山道でもなく林道でもない。軽四のトラックもはいれない幅の道。
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自転車は押しになって坂道を登ると、御蔭神社という小さな木板のカンバン。
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鳥居を木立の中にみつける。落ち葉のなかの石段をのぼると、赤い板塀のなかに祠があった。幣越しに覗き込むと、白い石で結界された空間が本殿まえに作られていた。ここで、神を向かえるのだろうが、馬のいななきは、どうするのだるうか、な。
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でも車ではあの道は入れないから遠回りするほかない。それほどまでして、尚且つ神を車にのせるのだろうか。それほどまでして、なにを守っているのだろうか。

「常世の国を、山中に想像するようになったのは。海岸の民が、山地に移動したからです。・・山の神の祝詞は、(海の民と山の民との)仲介者として仲間内の者に聞かせる、妥協を心にもった、対等の表現をとりました。これをイワイゴトといいます。・・あくまでも、山神の資格を以って、精霊をあいてとしての物言いなのです。・・大和では、山人の村があちこちにありました。・・山の上高く居て、(山の)神の暴威を牽制していたのです。山城加茂には、後ろに聳える比叡が其でしょう。この日吉(比叡山)の山の山人は、八瀬の村などを形つくったのでせう。(ここの住人は)社の神の服従者なるオニの子孫であるという考え方から、村の祖先を妖怪としています。が、唯、山人に対する世間の解釈を、我が村の由緒としたのです。この山村などから、宮廷や大社の祭りに参加する山人がでたのでしょう。・・(祭りなどに参加する)山人の形態の条件が、山かづら(髪飾り)にあった・・かづらが、里の物忌みの被り物とは変わっていたからでしょう。折口信夫/翁の発生」
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この列島に先住していた幾重の人々を新しく渡来した人々は、彼らの語りを「あまのさえずり」と表現してます。まるで小鳥のさえずりのように聞こえたのでしょう。同じ言葉を話しているが声高で聞きたくない、おばさん達の会話を“さえずり”とは表さないですよね。どこかあったかい表現です。葵祭の神主さんがつける葵の一枝にも、かづらの訳があるのかな。
昔々に、海はから川をさかのぼってきて一休みしている野営地に、流れてきたお椀で川上にいる人の気配を感じた話はたくさんあって、その代表が桃太郎なのでしょう。古代、2500年も前に稲作を携えててこの列島に上陸してきた海からの人と先住の人との出逢い情景を、神へのことほぎから読み取ろうとする折口信夫は「二夏、沖縄諸島を廻って得た、実感の学問としての成績は、翁成立の暗示でした。前日本を今日に止めたあの島人の伝承の上には、内地に於ける能芸化せられた翁の、まだ生活の古典として、半、現実感の中に、生きながら繰り返されていることを見てきたのです。」といっています。
「コトホギ」という言葉に古代の心感じることができるのですね。天才!ですね。

鴨川の氾濫源の芦原で暮らしていた人々に、新しい農具とイネの種が届けられたとき、彼らは、もう道具の改良や、植えつける田んぼの設計など、瞬時に浮かんでいたでしょうね。おお喜びでしょうね。その道具と種と届けた人々が「常世人」つまり、安心してながく生き抜ける人にとであったのでしょう。それを届けた人々と、“あまのさえずり”をスピードラーニング゙したのかな。「常世人」はその土地の危険情報や飲み水の情報が欲しかった。

今日4/23朝日新聞に「縄文・弥生文化の出会い」という記事がでてます。国内最古といわれる大阪府茨木市・東奈良遺跡で発掘された“小銅鐸”の文様が縄文土器につけられた文様と一致することから「縄文・弥生人がこの地で共存し、両方の文化を採り入れて共生の祭祀のシンボルとして銅鐸が生まれた」とかかれています。
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縄文人は毛深く、弥生人は薄毛だといわれてきて、薄毛どころかという自分の頭をみると弥生らしいが、こころは縄文が“いいね”といっている。その分裂さが、これで解消です
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by forumhiroshima | 2013-04-24 13:45

縄文の人々の軌跡・さけの水炊き?

今日11日の読売新聞朝刊に11000年から15000年前の土器に魚料理の痕跡を見つけたと報道されていた。「世界最古の調理跡(読売)」とか「料理に使った最古の土器(日経)」とかに題がつけられている。どうも魚料理らしいとのこと。水炊き、水炊き!!。
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昭和36年に京都の東北部白川の北から縄文時代の土瓶が発掘された。7000年前の土瓶だという。
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「京都盆地に人の居住し始めたのは北白川と賀茂川によってつくりだされた“谷口扇状地”とよばれる地域であった。林屋辰三郎・京都」
この縄文人と呼ばれる人々の生活の痕跡が三十数年にわたって追跡されている。その場所は林屋辰三郎が教授をしていた京都大学構内だ。大学構内で石器をみつけ、そののち縄文人の集落に発掘が大学の拡張にともなって続けられた。その遺跡群を「北白川遺跡群」とよぶ。
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大学構内にはその発掘を伝える標示もつくられている。
そのころの海面は今より近畿地方で約4mも高く(縄文の海と森・前田保夫)京都盆地の中央部は湖水と湿地帯であったという。大阪湾は枚方北方まで広がっていた。京大のキャンパスは白川のつくった扇状地の上にあり、そこに漁猟と木の実の採取や狩猟をする人々が居住していた。発掘によるとトチの実の貯蔵もみつかっている。また縄文時代の森が洪水に埋没林として発掘された場所が農学部というのもおもしろい。埋没林から発掘された巨木には斧の跡が残されていて、伐採されたものだと判別されている。5000年前に板が作り出されていた。
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縄文遺跡はよく一覧表が作られるが、彼らは移動する人々であるために、遺跡はある一群が移動した痕跡だともいわれる。この白川遺跡ではその移動する一群の単位は数名の家族であろうといわれる。このあたりに20人から50人が同時代に居住していたといわれ、縄文人の25~50人程度であれば集落から4km~10kmの広さの狩猟場が確保されると、十分なイノシイやシカが得られた、(考古地理学-4)という。
しかし天災や地震のより集落周囲の環境が崩れたことが縄文後期にあったことが遺跡をおおう土石流の痕跡でわかっており、そのころ比叡山をこえた琵琶湖の縄文遺跡で人口の増加による繁栄が見られていて、ここの人々は比叡山を越えて交流していたことのようだという。災害時に比叡山を越えて琵琶湖湖畔へ移動して居住していたことが考えられるという。また発掘された墓に赤く辰砂が塗られていてその辰砂鉱石は奈良南部からもたらされたことが証明されている。
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大学構内をぐるぐる廻ってみる。学生さんも特別賢そうにはみえないが、みな京大生だとおもうと、いきなり賢そうにみえる。とても古そうな木造があって、そこに石器発見の場所の標示が立てられて、その道路の反対側の駐車場にも標示が作られていた。石器は見つけたのが、京大に国内最初の考古学教室を開設した濱田青陵先生。石器発見場所の前、そこは縄文の住居跡の発掘現場で、いまは埋めれていると書いてある。その東の道路脇に銅像があった。湯川博士記念館とある。
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構内のすぐ西に弥生時代の田園の跡も発掘されている。ここで発掘された縄文時代とされる土器にはアワやコメの痕跡が見つかっていて、すでに米を作っていたことがわかっている。
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「この地で長期的定住生活をしてきた縄文人が小規模な稲作を始めていたことにゆきつく。縄文人は稲作の技術を身につけていた。灌漑のような高度な技術は新たに導入されたのであろうが、その導入にあたって集団が交替したというような事態を想定する必要はない。この地で見られた縄文から弥生への移り変わりは、文化の交替でなく、文化の変容であったと考えられる。千葉 豊・京都盆地の縄文文化」

ウーン、奈良盆地から鴨族は辰砂の真っ赤な塗料をひっさげて、この白川にやってきたという事件は縄文から弥生の移行期、2500年前ではなかったってことらしい。鴨族の影も見えない・・よ。

農学部の並木道をでて本部キャンパスを通って吉田山へ走った。時計台の北川に文学部がある。
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本部キャンパスの正面の道は吉田山の吉田神社の参道だ。江戸時代、全国の神社を差配した吉田神道。古代卜占の系列に連なるという。山を降りて白川の流れが見たくなった。縄文時代には吉田山方面の西へ流れていたが、いまは南へ方向を変えている。
えらく人出がある。聞こえるのは外国語、どうも中国語のようだ。銀閣寺がそうだここにあった。そうだ!ここに哲学の道がある。西田幾太郎の思索の道として売り出され、整備されたコース。道が行き着くところは若王子神社。そして新島八重の墓、おっと同志社大学設立の新島襄夫妻の墓。どうも京都は、人の油っぽくって、いけねえ、いけねえ。
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観光地走って、ご機嫌わるいのは、自分のせいです。すべて自転車は自己責任ですから。と、若王子神社から坂道を下ると琵琶湖疏水の綺麗な流れにでくわした。この景色の京都は大好き!とここは、ご機嫌です。石の一本橋に出くわすと、そうだ、この橋は比叡山の千日回峰行の阿闍梨さんが、渡る橋。行者さんも縄文の土地を踏んでるんだ。そしてTVドラマのつかわれる。
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by forumhiroshima | 2013-04-11 21:38

KAMO族の国 リスト

播磨国の鴨神をたずねてきたが、姫路市飾磨区加茂にある加茂神社が残っている。また出動したい。KAMO族の今、西日本のカモのつく土地と神社をリストアップしてみた。いってみたい場所のリストでもある、KAMO族って、なに?
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「古典をみると、加毛・加茂・鴨などと書かれ、わが国の古氏出雲族中の一大集団であった。・・中心地は大和国葛城郡の鴨地方であり、支族は早くから各地に移住した。  大場 磐雄・まつり」といわれるのが、どうも一般的らしい。
山城国風土記に「賀茂建角身命・ヤタガラスは、神武天皇の先導となって大和に入り、自ら大和の葛木山の峰に宿り、そこより漸次に遷って山城国岡田の賀茂に至り、木津川をくだって、葛野川(桂川)と賀茂川の合流地点からさかのぼって北の山基にしずまった。林屋辰三郎・京都」。京都上下賀茂神社はこうして出現したらしい。
この移住が引き金になったのか全国各地へ鴨族は散って行ったのでは、といわれる。そのリストを掲載したってことだ。
「鴨族は出雲から海岸線を北上して、久美浜湾---丹後---丹波---山城へと続くルートは、出雲から大和へ至る大動脈を・・村井康彦 出雲と大和」と鴨族は出雲発生そして大和への意見もある。大和の鴨族は出雲からの、意見。
「出雲から丹波・伊勢へぬける山岳山間をつらねた漠然たる領域は・・・瀬戸内海から淀川のさかのぼり琵琶湖に達する日本の表ベルトの平野定着性の集約農耕文明、その定着性が巨大でコンクリートな都市にまで変貌してゆく平野文明に対して、・・・各地を放浪して行く移動性文化がそこにある。すくなくとも出雲=伊勢ベルトのなかに、山岳が多いだけに、この移動漂泊型の裏文化が色こく影を落としていないか?  小松左京・探検の思想」
移動漂白の人々、いいですね!さすが左京さん、ファンタジーいっぱいです。これも出雲から大和へ、そして京都に、という意見のようだ。

出雲の国譲りの神話で、高天原からやってきた使者が国譲りをオオクヌヌシにもとめる。オオクニヌシは長男のコトシロヌシに返事をさせようとする。コトシロヌシは釣をしていたが、海中へ隠れた。抵抗しないという意志標示をした。「このコトシロヌシを、後世の人はエビス神としてまつっている。とくにこれを祀るのは、古くは漁民が多い。・・・コトシロヌシという神は奈良の山中、葛城に祀られていた。そのあたりはもと鴨とよばれる部族が住んでいた。のちに山城に移って賀茂と書くようになるが、もとはその字のごとく鴨をはじめとして鳥類を捕らえることを生業としたもので、やはり狩猟民であったとおもわれる。その人たちのまつった神にコトシロヌシがあり、土地の人は今日エビスとして祭っている。
このようなことを考えあわせてみると、古くから日本列島に住んでいて、狩猟や漁労にしたがっている人々がエビスといわれたのではなかったかと思う。そしてこの人々は縄文文化の流れを汲む人々であったと考える。・・・早くから土着していた者を、国樔・クズまたは土蜘蛛といっているが、竪穴住居に住んでいたためではないかと思う。・・・日本列島は古くはエビスや土蜘蛛たちの世界であり、土蜘蛛もまた自らをエビスとして意識し、その祭る神をエビス神とよんだものであろう。縄文の土器は作らなくても縄文式の生産・生活様式はなお持続されていたものであろう。・・・しかし四世紀あたり、仁徳天皇の頃、大陸文化に支配されるようになり、エビス・エミシの生活も大きく変わり始めたと・・・。 宮本常一 日本文化の形成」

カモ地名の場所に銅鐸が出土することが多く、鴨族と銅鐸の近しい関係をよくいわれる。銅鐸は弥生時代の祭器とされていて、常一さんの鴨族=縄文文化継承者たちの図式は、すっごく新鮮に感じる。ある時期にいっせいに(紀元1世紀あたりとも)といわれるが、銅鐸は姿を消す。翡翠の勾玉も姿を消す。京都の下賀茂神社では、銅鐸はいまも祭器であると梅原猛先生の報告もある。移動漂白の自由さが、縄文の人々の生活であれば、銅鐸をフワーっと鳴らしているような、なにかを恐れて隠したり、無視したりしないような、そして国譲りして身投げしても、人々から祭られるような、そんな人々だった・のかも。

昭和13年千葉県外房の扇状地の発掘をしていた角田さん親子が地中から丸木舟と櫂などを発掘した。十数mのおおきな舟と6本の櫂であった。その場所は加茂。近くに加茂川がながれる賀茂市のある古代の長狭郡賀茂郷。この舟が学術調査されたのは終戦の翌年。調査した慶応義塾大学は実年齢5100年前とラジオ・カーボン測定結果を発表している。日本最古の縄文の舟。
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宮本常一は27歳のとき、加古川の別府の港から帆船に乗っている。九州・佐賀関までの航海。「由来この国の民にはいろいろな系統があったようで、海で暮らすものは海ばかりで生活をたて、陸に住むものはたとえ渚に家をたてていても、海に背をむけていた。山中にはまた狩ばかりして農耕は知らぬような仲間もいた。・・・この帆船の旅は、出来ればそうした事に対して、少しでも眼をひらいて見たかった・・・宮本常一 瀬戸内海—日天丸帆行記」
常一さんは鴨族と古代の海の民の居住した「海部」との関連を重視していた。「瀬戸内海を航行する帆船の船員生活を体験することで、小学校の教員をしながら民俗学研究への志を深めていた若き日の旺盛な好奇心と行動力がうかがえる。 田村善次郎 忘れえぬ歳月・宮本常一/あとがき」
古代の海でくらす人々の有り様にせまろうとする際、まず船、それも帆船に乗るってことを考える宮本常一のその姿勢は、ある時代の人の気持ちのさまざまな有り様から、一つの方向を探り、その時代をひも解いていて、判りやすい。ある時代によりそう方法は文献や発掘された品々だけではないことを示してくれる。常一さんは、その時代の人々の生き生きとした生活を自分の中に再現することができたのだと思う。

そういった常一さんののこした文章が、とんでもないことを思っているのかもしれないけど、自分が自分でペダルを回す、自転車の上から感じる景色を、解説してくれるようで、とてもありがたい。
鴨族のいた各地の有り様を自転車で尋ねていたら、そのうち縄文の人々の居住する場所の選択の動機や、その場所を守ろうとする用意、例えば信仰や地形の有様に気付くかもしれない。などと、このごろ、考えているのです。常一さんは徒歩と船、私は自転車で。
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by forumhiroshima | 2013-04-07 13:26

空家になった賀茂-2

東条川と加古川の合流地点の北に社町がある。佐保神社という大きな神社を道が丸く囲んでいて、そこから八方に道がのびる。車輪みたいで、ちょっと古代ローマみたいな道路の有り様だ。ここには鴨の神々はいないようだ。そこから加古川を渡ると滝野の町。ここには春日神社が鎮座していて、ここも通過して、広い道ののぼりに入った。ここから10km西に鴨谷という地名の場所がある。そこへ。

鴨谷は加古川の河畔、古代賀茂郡のなかで唯一の鴨のつく地名だという。その側を流れる万願寺川は播磨風土記には「鴨川」とある。賀茂の郡・コオリに現存する地名は上下鴨川とこの鴨谷だけだという。東条川河畔と万願寺川河畔の神社マークをグーグル地図から名をひらっておいた。鴨谷の神社は大歳神社。出雲系統の神様だという。祠は平地に一本の桜をそえて、ポツ然とたっていた。鴨谷の集落を廻ってみても、どうってことない。東に見える飯盛山という円錐形の山も本殿から振り返ってみても、鳥居の正面に入ってこない。
ウス曇の空がすこし暗くなってきて、さむい。いそいで唯一神社マークに名称し調べていて見つけた神社へ向った。ここはややこしい。というのは小山の山頂付近にある神社マークがその目的地。山登りすることになる。不安なのは山中の神社にはたいてい神額も鳥居にかかっていないことが多い。ただのちいさな祠だったら、鴨の神だと確かめられない。それって、哀しいね。だってここまであの上鴨川の集落からけっこうな距離をやってきたのだから。
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池の辺の公園の中にその登山道の入口があった。というより、ここだろう!と。繁みに自転車押し込んで、のぼり始める。山のつつじがもう満開になっている。今年は一斉の春です。急坂に轍が残っていて、ここまで車で上がる人がいるんだ、と思っていたら、まだ新しい拝殿と本殿という、普通だけど、山中の尾根上の神社としては、りっぱ。そこに着いた。鳥居に神額がない。建物は新しいから、寄付された名簿をさがした。それにはだいたい神社の名が入っている。それを探すと、あった。「鴨国魂神社」。神社からすこし登ると古墳があると標示されている。道も整備された跡がのこっていて、けっこうな奉仕が見える。山頂に石柱がたっていて「亀山古墳」とある。そして石の祠が南をむいて鎮座していた。
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どうして人が神々のランクをつけ得るのかは、新興住宅の名称権よりもっと不遜だとはおもうが、鴨から賀茂とかわって都に鎮座された神は名神大社にランクされている繁栄にくらべて、この土地の鴨神は、ひろく古代鴨国を展望できる場所におられるが、とてもとてもさびしすぎる。
というより、鴨神を祭る人々は消えてしまったのだろう。
播磨風土記に、「国内の多くの村同士が争いをつづけていたことから、応神天皇が、村々の村君をすべてをあつめて、皆殺しにした。この遺体がくさいことからその場所を臭江と呼び、血が黒くなって流れたから黒川となった」という話があった。

尾根上から見える南に、玉丘古墳がまるくみえる。5世紀中ごろと説明される。このあとにはこのクラス以上の古墳はこの地域には作られなくなったという。
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山を降りて西へ向う。加西市の市街地の西の谷間の吸谷へ。ここにも風土記で不思議な記述がある。「井戸から水汲みをしていた女が、その井戸に吸い込まれていなくなった」というのだ。奈良東大寺の西の秋篠寺の側で掘られていた井戸から若狭の海に身をなげた女が水といっしょに吹き出たという話をおみだした。東大寺の若狭井は若狭から送られる水を汲む。ここ播磨の鴨では吸い込まれる話。その井戸が“ふんじ井戸”といわれて現役だというのだ。

もう4時をすぎてきた。加古川のJR駅まで30km。吸い込まれて、駅前にポン!って、井戸にお願いしよう、っと。
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by forumhiroshima | 2013-04-06 11:40

空家になった賀茂-1

播磨国の中央をながれる加古川へ東から流れこむ支流・東条川の流域が古代の播磨国賀茂郡であったと聞いた。東条川の源流部は賀茂川と呼ばれている。
東条川に一羽の鵜が流れの中の岩の上でたたずんでいる。
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東大寺のお水取りにはまって昨年は通った。夜半の二月堂で講堂の格子越しに、くばられる若狭井からくまれた香水を手のひらで受けたとき、ビックと身体に電気がはしった。若狭井に日本海の若狭から水が送られ、それを汲み取る「行」がお水取り。その水は地中を黒白の鵜によって運ばれる伝承。そしてその水の送り主の遠敷明神は若狭彦命であり、また山城国に鎮座する上賀茂神社の祭神だという。
賀茂の神々を祭る人々は大和盆地の南の葛城山麓から山城国いまの京都の賀茂川のそばに移ったと8世紀にかかれた山城風土記にある。その移住は4世紀ごろであり、賀茂一族は山城国だけでなく、四方へ散って、各地にその痕跡をのこしたというのだ。
それから、賀茂一族の居住地探しを始めてしまった。調べるとあるはあるは、各地に賀茂族の地がある。すっかり、大変なことになってしまった!と、川面を見るでなく、なにか遠くをみている鵜につぶやいてしまった。賀茂族は遠いよ。
って訳で、播磨の最北端の鴨川へ。まず摂津国の西端の三田の加茂の加茂神社へ。
地名はその場所へいってしまえば、足元ってことで消えてしまう。それどころか、新しい住宅地に命名されたりする。どうして開発業者に地名の命名権がいってしまったのか?と疑問におもっているが。
賀茂族たちがここにある訳って、なんだろうか?若狭から奈良盆地の北端の東大寺まで地中経由で水を送るなんて、けっこうマジカルな作業をする人々だから、そこに落ち着いた訳はその土地にあるのだろうからと、周囲を見わたす。これまでの経験から円錐形の低山がかれらのお気に入りらしいことは、強く思っている。
三田の加茂神社は丘陵の上にあるのだけど、そばの家々で見通しをよくない。加茂神社から播磨国との国境の三本峠を抜けると水源地に降りる。次の尾根を越えると鴨川の谷に入る。郵便局は社賀茂局とあった。
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緩やかな流れのそばを川上へゆくと、円錐形の山が正面に現れ、そこに住吉神社が鎮座していた。
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椿の花が足元にちらばっている石段をのぼると、朝日のなかに茅葺屋根の建物が二軒現れた。その奥に朱の彩りも鮮やかな桧皮葺の重要文化財とかかれた掲示のある本殿が鎮座していて、茅葺の拝殿や神楽殿とも溶け込んで、異次元の世界に入っていた。
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なにせ日本海から奈良盆地へ地中をとおして水を送るという連中だから、ここに古代とも中世ともと感じさせる景色を出現させても、可笑しくはない。が、この神社は住吉神社。海の神様がこの山中までおいでになっている。
このことは、このあたりが古代から舟の材料を送りだした場所で住吉神社との関連がいわれる。のだが、面白くない。この境内の佇まいは・・というより、そばの円錐のあの山は住吉の神のお好みなのか?どうか。と機嫌よくない。先日大阪の住吉神社の宮司さんの書かれた古代の鉄の本が面白くなかったことで、いま住吉って言葉に反応よくないのだ。

目の前の鴨川が東条川と名を変え流れ込む加古川の加古は昔の言葉の船乗りを示す言葉からだと思っていた。その川の西にあるのが加西市。そして東の滝野と社とが合併してついた地名が加東市。まあ安易な命名だけど○○ウッディタウンなどと横文字でないのが幸いとおもっていた。播磨・鴨川を走るまえに資料パラパラしてると、加西・加東は昔からの郡の名で、賀茂郡が分けられて付けられたという。加古川も河口付近にある小山が鹿の子供に見えるので(これってわからないです。見にいったけど、鹿には・・とても)鹿児の丘でカコ。それを賀古となって、後の江戸時代に加古と書かれたそうだ。7世紀ごろの日本語って、各部族の集合体のコミュニケーションだったため、今では判別できないのがあたりまえ。だそうです。

住吉神社の佇まいがすっかりお気に入りです。石垣もいいですよ。森もつばきの花をさかせて、いいですよ。と合祀してある祠も巡回。すると、上、中、下筒男の祠。いま修理中でビニールシートのかけられて祠を明けてみると、神功皇后の祠。これって住吉神社の祭神の四柱です。ってことは本殿の中にはいったいだれ?それとも祠は陰の内閣?
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もしやもしや?賀茂の神々が・・・

神社をでると、日差しがあったかい。緩やかな流れはキラキラ。春の小川の歌詞そのもの。賀茂神は川のゆるやかなところがそういえば好きなご様子でもあったっけ。と下賀茂川の集落の神社へ。ここも住吉さん。合祀の祠もチェックしてみたが祭神の名はかかれてなかった。

ゆらゆらと下る川の小さな谷間はとても気分にいい景色。おじいさんが川遊びしている。見ていると目があった。カメラだしておじいさん狙っていたのに、おじいさん「よう咲いてるだろう」と丘の桜を見あげた。「いいですね」と、おじいさんの佇まいを、桜のかわりに伝えた。
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東条湖湖畔の別荘地帯のなんともいてない、油っぽさをぬけると、秋津という広い田園の場所にでた。葛城の鴨族の古代の痕跡が発掘された場所が秋津。神武天皇が喜んだという葛城山麓の秋津国・アキツシマの秋津だ。ここの神社に鴨神社の期待をふくらませて走った。稲荷神社だとはしらべていたが、上鴨川の住吉神社のように、なにか!。なかった。
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by forumhiroshima | 2013-04-05 15:20


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