こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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千日回峰行・京都切廻りコース-4 休憩場所

京都の街の観光どころは石畳の舗装がしてある。とても感じがいい。でも自転車にはちょっとつらい。行者さんの切周りで参拝されるとされている寺社も石畳がある。どれも同じデザインにみえる。参拝には自転車押してゆく。そのうち、ずっと押して歩いていたりしている自分に気付くと、あわてる。
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切廻りのコースは下鴨神社への参拝はあるが、上賀茂神社には立ち寄らない。下鴨神社には賀茂川を渡るのに出雲路橋をわたる。出雲路は古い地名だという。弥生時代にこのあたりに居住した出雲族からの名称なんていわれると、糺の森の景色がいきなりセピア色に変わる。
切回りのコースがここにでてくるのは、ここが賀茂川を渡るに都合よい地点だったからだろう。
賀茂川と高野川の合流地点は、氾濫がおきやすい。強い流れが弱い流れをせき止める。と、弱い流れはそこで運んでいた土砂を吐き出して、砂洲ができる。川底が浅くなる。渡りやすい。となる。そこに人の流れがあつまる。そして橋がかかる。出雲路と名づけられた訳になろうか。橋は賀茂川の左岸と右岸にひろがる土地の「端」にかかる。

出雲路橋を渡ると、切回りコースは曼殊院道になって武蔵の下り松で旧白川通にはいるから、コース探しは終了したようなもの。飯にしようと、コースを外れて上賀茂神社そばの今井食堂へ。サバ煮付けでよくしられた食堂で、すっごく汚いけど、すっごく人気がある。京産大の学生さんなら、ご承知だろう。先日の読売新聞の食堂シリーズで紹介されたから、もう長蛇の列かと、ビクビクで向ってみた。が、数人の列。すぐに二人が店へ。列に入って、すぐに店内へ。
何十年ぶりのサバ煮。サバの缶詰の上品な味、です。けっこうな量でもあっとのまに、消えますよ。
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店からでると十数人の列になっていて、ロードレーサーが立てかけてある。走ってくるのか!
行者さんの食事には当然サバは出ない。「朝と晩が大根葉を入れたお粥に生キャベツ、それに漬物、大根おろし、みそ汁。昼は普通のご飯にみそ汁、精進揚げのおかず少々。内海俊照」サバ食ってちゃ、自転車、速くはないよね。

下り松まで走って、下鴨神社へ折り返して、近くの高麗美術館へ。これで二回目の入館だが、小さい美術館だから、なんだか見知った展示品がならんで、そのぶんすごく落ち着く。
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創設の館長のチョンジョムンさんへのインタビューのビデオも画像がしらっ茶けてきている。
比叡山も、それを頂く京都も、古代渡来といわれる人々の開拓の歴史がびっしり。そこにこの美術館があるのだけど、チョウンさんはインタビューで、在日三世四世にこの美術品を伝えたいといっている。展示されている箪笥や机はとても素朴。たくさんの石像も微笑んでいる。
展示品のなかに木の鳥が幾羽もある。残念ながら、鴨ではなくて雁だった。
鴨族を追っかけているうちに、千日回峰行にひかっかって、“鴨族”忘れてました。
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このごろ自転車乗ってて、60~70kmあたりで、左腕はしびれだしてくる。すこしつらいから治療に。烏丸通を南下して四条通にでて大丸の横から高倉通へ左折。錦市場入口をすぎると、お酒の販売機のある酒屋さんへ入った。ここは夕方から立ち飲みやさんになる。ビールケースに四角のお盆のせて、各自かってに冷蔵庫や棚から好きにとりだす。つまみのパック入りの刺身は冷蔵庫。おでんが出来てることもある。清算はお盆ごと主人に見せると計算される。お酒は自販機と同じ値段。京都の観光地四条・烏丸のど真ん中、古い酒屋の倉庫で立ち飲みは、けっこう、「京都!」です。
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治療完了!こうなると大丸よこで自転車輪行バックへ。
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by forumhiroshima | 2013-05-10 09:19

千日回峰行・京都切廻りコースへ3-「御霊・疫神」

京都は平坦な土地だといっても、切廻りのコースに小さなのぼりがある。旧白川通からの勝軍地蔵の尾根、そのあとの真如堂と黒谷も盛り上がっている。黒谷の光明寺は明治維新のときの会津藩の駐屯地で新撰組の番所もあった。それはここから大阪城が望めるほどの展望であったからだという。会津藩士墓所もある。どうみても要塞っぽい。
そこから直線に南下して粟田口の青蓮院にむかう。ここは中世の東海道の出発点で山科を越えて琵琶湖に。

回峰行をおこなう比叡山・延暦寺を開いた最澄は、「漢氏」という渡来系の子孫。回峰行をはじめた相応の師匠・円仁は中国・道教の寺、赤山禅院の創建を望んだといい、そこへの回峰行が行われる。最澄、円仁、相応ともに近江の人。
最澄の一族の長とされる「三津首は中国の後漢の苗裔で、応神朝に渡来したという伝承を持っているのだが、最澄のうまれたころとは五百年の隔たりがあり、現在。室町時代の先祖の話をもちだすようなもので・・雲と風と/永井路子」
「滋賀は最澄の氏族だけでなく、漢人が圧倒的に多かったらしい・・・近江国志賀郡はざっと漢人のくにであったと考えていい。・・最澄が生きている時代/桓武天皇のころ/・・畿内に住む人々の約三割が(外国系)であった。・・積極的に(外国系)という出目が称された時代である。 司馬遼太郎」
2001年今上天皇は、桓武天皇の母・高野新笠が渡来系であり、半島・百済王族の遠縁であることを“韓国とのゆかり”があると発言されている。
アメリカ・ケネディ家の曾孫の娘を嫁にした総理大臣とでも、いまにたとえられるのかな?実はアメリカ人なんだと、思っている若い人は多いとおもえるのだが、最澄の時代はその対象が中国であったのだろうか。

コースは行者橋を渡る。橋のたもとの説明板によれば、“ここから京都に入る”ということらしい。東大和通で八坂神社へ。そこから下河原通、八坂通、産寧坂と清水寺へ。
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八坂神社の祭神は牛頭大王、スサノオともいわれる。スサノオは新羅からの渡来神。清水寺では、渡来の東漢人を祖先とする坂上田村麻呂を本願(望んでできた)と位置づけている。

中世の京都都市図(寺社勢力の中世/伊藤正敏)がある。この頃の鴨川の川底は高く、氾濫源をひろくもっていて、そこに町がひろがっていた。文字どおり河原町だ。その氾濫源は徒渡りで、いまもそうだけど、歩いて渡れた。一ヶ所だけ橋がかかっていた。それがいまの松原橋。これは中世の五条橋で松原通が平安京の五条通になる。
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「五条橋は鴨川を一っ飛びに越えるのではなく、中洲に一旦着地して川を越える。この五条中島には洪水があるたびに流されては再建される法城寺という寺があった。飢餓で死んだ人々の死骸が埋められていた。寺社勢力の中世/伊藤正敏」
その松原通を西へ向かい、堀川通から三条通にはいり、祇園御旅所へ。いまは祇園社の神輿はやってこないが、中世にはここに向っていた。境内に掲げられたちょうちんには祇園祭発祥の地とあった。そして神泉苑へ。ここに祇園社から出た三基の神輿が各々の方向に向かいここに集まってきていた。神泉苑は平城京造営時につくられて、天竺の善女龍王を勧請している。
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ルートは二条城を巻くようにして千本通・平安京/朱雀大道を北上する。東西にはしる丸太通との交差点あたりが、平城京・大極殿になる。
回峰行者が満行すると、御所にわらじ履きのままで宮中の御殿にあがる“土足参内”をするが、回峰行をはじめた相応が清和天皇からゆるされたという伝承があるから、9世紀後半のことだろう。今の土足参内は東の御所でおこなわれる。切廻りのルートが大極殿に真直ぐ入るから、その記憶が残っているのだろうか。
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ここから五番町、七本松通とこまかく曲がる。そして北野天満宮へ。
天満宮は10世紀半ばの創建で相応の時代にはおおきく遅れる。天満宮は菅原道真が祭神。
天満宮も祇園社・八坂神社も、流行病防止の神様。この2社に加えて、比叡山の東の日吉神社が、「御霊」からおこる災害や疾病から守ってくれるお祭りがあった。5月日吉神社、6月祇園祭、8月北野祭。この3つの祭りのスタートは日吉神社での日吉小五月会で、四つがセットになっていた。
この祭りのスタートを日吉神社がにぎっていて、その日吉神社を比叡山・延暦寺が握っている。
そしてこの祭りは中世順当にはおこなわれなくて、祇園祭が真冬ということもあった。それは比叡山が、幕府に要求することがあって、その処置がなされない場合にそうなった。人々は「御霊」から守ってくれるのは、この神々でしかなかった。不満は幕府へむかった。
幕府に強い圧力が比叡山からかけられた。日吉も祇園社も天満宮もすべて中世には延暦寺の末寺だった。
天満宮をでて、東へむかう。ここでも上御霊神社に参拝する。そののち下鴨神社を経由して赤禅院へ。

京都がすっぽり石垣で囲まれたことがある。秀吉がつくった聚楽第を守る“お土居”で、江戸時代にさっさと取り除かれたが、天満宮などに残っている。大きなもので、その上の大木の茂りに時を感じる。その“お土居”は7口といって7箇所しか開けられていなかった。
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信長に徹底して焼き討ちされた延暦寺の京都切廻りは、この“お土居”をどうしただろうか?と考えて、ルートと“お土居”の関係を調べてみた。もちろん、オドイだったからなんだけど。“お土居”がコースにかぶさる場所が清水寺をくだった松尾橋だった。中世の地図をみつけて、五条通が松尾通だとわかって、すくなくとも、このコースは比叡山焼き討ちを乗り越えたと思えた。

「お山」とよばれた比叡山は中世の京都を支配したのだろうが、やはり、京都守護「御霊」を祈祷することだと感じた。
一方、京都の町人は「御霊・疫神」を退治する方法をみつけた。彼らはキラキラするもの、また賑やかな楽や音曲をすごくよろこんで集まってくる。山鉾はその集合させる装置で、町中をまわって、ねこそぎバブリーズ。そして山を一気に解体して、捨ててしまう。少将井とか大宮にあった井戸とか神泉苑の池にほっぽりだす、お祭りで、「お山」が信長にふみつぶされても、しぶとく存続されている。
「お山」比叡山の元三大師が捕まえた、いや比叡のお坊さんが疫病神を追い払った姿だとも、いわれる魔よけのお札がこれです。いまも配られていますよ。
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by forumhiroshima | 2013-05-09 17:16

千日回峰行・京都切廻りコースへ2-「花」

千一回峰行の行者さんが京都を巡行する切廻りは比叡山の西の山麓の赤山禅院へ下ってから始まる。

赤山禅院は延暦寺の座主「円仁が平安初期838年に入唐したとき、山東半島の赤山の地で居留新羅人たちに、実に世話になって・・“赤山の神をまつらねばならぬ”と、つねづね言っていたが、経費がないままに過ぎ、ついに遷化した。死後、その遺志が遂げられていないことに一山の大衆がふるいたち、・・喜捨があつまって建立にこぎつけた。司馬遼太郎/街道をゆく 16」
山麓西にこの赤山禅院がつくられたわけを「叡山東麓の坂本にある日吉山王権現が一山の守護神であるのに対して、この赤山明神は西麓をまもりつつ、日吉とあわせて一宗の守護神とされた。司馬遼太郎」といっている。
この赤山明神は中国の道教の神で、「円仁が亡くなって二十余年たった888年、現在地に赤山禅院が建てられた。ではなぜ、赤山明神をまつるのに円仁ゆかりの横川でなく、わざわざ山を下りたこの地を選んだのであろうか。・・じつは初代遣隋使として有名な小野妹子を祖先とする小野一族のゆかりの地がここである。・・この遣隋使として持ち帰った道教の神々を小野一族はよく理解しており・・赤山明神を受け入れられる土地がここであった・・。日本の道教遺跡を歩く/福永光司」

この回峰行を始めたとおもわれる僧を近江の人で円仁の弟子の相応と司馬遼太郎は街道をゆく16 比叡の諸道で述べている。「相応が・・暮らしていたのは東塔の定心院であった。毎日山中で花をみつけては根本中堂へゆき、薬師如来に供えた。山中を歩くことと花を見ることが、並外れて好きだったにちがいない。」「相応は学問よりも行をする人となり、無動寺谷に草庵をむすんで・・、やがて叡山のひだを舐めるように歩いた。歩けば何になるのか、・・そのことに悩んだにちがいない。・・彼の夢に薬師如来があらわれて、その“毎日遊行の苦行”を肯認し、“是レ、常不軽菩薩ノ行ナリ”と教えたという。・・常不軽とはいかなる人も軽んじず、・・会うごとに拝んでまわる行をいう。・・相応は生涯ふしぎの験をあらわしたために、かれに金穀を寄進する者が多く、これを比叡のなかの建物の建立につかった。・・建立大師とよばれたりする。司馬遼太郎 街道を行く・叡山の諸道」9
世紀中ごろのことだという。
叡山の東に花摘堂があったという。西に花折峠がある。比叡には「花」がちらばっている。
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小野妹子にも花の逸話がある。聖徳太子創建の六角堂に入堂し、太子が沐浴した池の畔に僧坊をしつらえ仏道に精進し、日々佛前に花を供えた。そのことが華道の池坊の名となったという。

赤山禅院の南のの修学院離宮のそばに相応の建立とされる禅華院というお寺があって、先日ここを尋ねてみた。江戸時代に再建されたという風変わりな山門の寺院は、回峰行の切回りのは行者は立ち寄らないそうで、「華」と相応和尚さんとの因縁から、きっとルートだとおもっていたから、調子ヌケの感じだった。

切回りは「昔比叡山が誇っていた勢力範囲で、その結界を行者が歩くことで王城守護していたのだろう。そして残る京都南西四分の一の地域は、東寺の勢力下にあった・・北嶺の人/はやし たかし」という見解がある。
ふと自分に浮かんだのは、コースを判別することは、とても難しいのじゃないか?という思いだった。だいちに、仔細なコース図がなかなか見つからないこと。回峰行の関係の本にある、コースの概要にでてくる通りの名と参拝する寺社のリストからはでは確かな実際の道は浮かんでこないこと。そして回峰行の写真にでてくる景色からみえる道が、手に入ったコース概要図とは違っていること。たとえば、昭和50年代に行われた内海俊照師の切回りの写真にある久保田美簾堂の位置はコース概要から外れている。などなど。
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「切廻りは年一回だけど、だから楽しい。道順は師匠のお供をしていた小僧時代にずいぶん歩いたから覚えています・・足はきんきんにはり、手洗いで坐れなくて困ったときもありました。清水寺の裏にある水洗便所に入ったときは、黒便が出ていることに気づきました。けれど新幹線のように時間を違えず歩くのです。 大勢の人がお加持を待っていてくださるのです。これが行者には励みになり、力以上の力が出てくる感じでした。 内海俊照師」
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なんだか、自転車のってるのに似てる??わけないけど、まあ、走ってみよう!と。
赤山禅院からでて旧白川通りを下ると、松が植えられた塚のような四辻にでる。宮本武蔵の決闘の場・下り松だと、標示されている。そばに詩仙堂があって、観光客を乗せたタクシーがバンバンきます。大きな漬物屋さんに白いベンツが入って若い奥さんらしき人が店にはいって行った。なぜか京都!を感じた。町外れのお店で、お気に入りのお漬物でしょうか。
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そばの八大神社境内に映画のスチール写真。健さん若い!!
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回峰行の本の道順にある勝軍地蔵は、広い白川通にでて、すぐの小さな尾根上にあって石段で登る。と、幼稚園がその側にある。チビッコ足腰鍛えられるだろうな。お堂は朽ちそうで、寂れている。が、その前に立派な石畳。このアンバランスが印象的だった。
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そこからは、コースはどこかと、うろうろ、きょろきょろして走っている。 “勝軍地蔵”の石柱をみつけてにんまり。ここから神楽岡通から真如堂、黒谷の巨大な伽藍をとおって、平安神宮から青蓮院。青蓮院自体の参拝でなく、そばの尊勝院への参拝という情報もあったりする。登りの奥まった尾根に尊勝院はあった。さがしたよ。

HPに2008年の切回りに同行されたブログがあった。それにはこの尊勝院へは記載されてない。粟田神社から山道をということだが、フェンスがあって、一度もどったりした。ブログにかかれないってことは、ここは立ち寄ってない?。情報は交錯する。
つぎに、行者橋。八坂神社から清水寺。ここの坂に名が標示されている。沢山ある。それで八坂なのだと、かってに納得。産寧坂と三年坂との区別はつかなかった。清水坂をくだって松原通。堀川通を三条通で左折。祇園御旅所参拝して右折、大宮通で神泉苑。二条城のお濠にそって北上。千本通の出世稲荷参拝。となる予定が、出世稲荷がどうしてもわからない。昭文社都市図京都市内には大きく記載されているのに、見つからない。
コース道順が間違っていたのだろうか?でも地図にはあると、ウロウロ。
帰宅して、Googleで検索。千日回峰行・出世稲荷の場所!と。ヒット、なんと“稲荷は伏見へ移転しました”。これも京都か!いくらでも遺跡、寺社はありますから、でしょうか。

千本通は平安京の中心の朱雀大路。千本通を左へ。仁和寺街道へ入って、七本松通との交差点で右折。北野天満宮へ向う。天満宮東門からでて西方尼寺に参拝。左折して五辻通から智恵光院通との辻を左折し上立売通を右折し新町通の辻で左折。烏丸通を抜けて上御霊神社をでてから出雲路橋を渡り下鴨神社、河合神社と参拝。高野川をわたり大原通を北上。無動寺への道しるべ。で右折直進して旧白川通で赤山禅院へ。
この案内で京都の人は判るのでしょうか。京都の町は道路に対面してある場所両側を同じ町としているのだそうで、町名は道になってしまう。両側町といわれる。それで通りと通りの交差点になる辻とで標示されるのでしょう。この感覚はここで暮らして見なきゃわからない、だよな。
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切回りで行者さんが参拝する場所には、どうも広い石畳が、それもおなじデザインで設置してあるように思えてきた。でもどこでもある石畳でもあって、すこし自信ないけど、こんな場所にもこの石畳か!とおもえることが多かった。

妄想の入ったコース探しだったけど、すごく変化があって、とても面白い。というより、修行の一端を自走することを感じて、この回峰行は信仰だとすごく実感した。そして自転車使ってるとはいえ、一応自力だとおもえば、ちょっと行者さん気分であった。
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by forumhiroshima | 2013-05-08 20:22

千日回峰行・京都切廻りコースへ、「思い立つ-1」

下鴨神社では流鏑馬の祭りの運行の準備が始まっている。河合神社の境内は入れなくなっていた。心のどこかで、流鏑馬のあとの祭り・御生祭にむかう御蔭神社へは古来そうであった馬でなく、今は車なのだろうけど、と。前回にも文句いってました。ちょっとしつこいね。でも残念!馬で行ってほしい。
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御蔭神社のある八瀬には比叡山へのロープウエーの駅がある。そのそばの神社入口に小野毛人墓があると標示され「慶長18(1613)年,ここ崇道神社裏山の石室から短冊形の墓誌が発見され、その銘文 から,遣隋使として有名な小野妹子(生没年未詳)の子小野毛人朝臣(?~677)の墓と 判明した。墓誌はのちに国宝に指定された。」とあった。そしてこのあたりは古代の小野郷である。とも記載されていた。
小野妹子と毛人親子と、蘇我馬子と毛人(蝦夷)この二つの飛鳥時代の親子の名の相似は、なぜだろうか。

「毛人・エミシと名乗る人に蘇我毛人がおり、平安京をつくるにあたって功績のあった佐伯今毛人・サエキノイマエミシがある。また7世紀の墓誌をのこす小野毛人がある。いずれも身分の高い人で畏敬の念をもって見られていた人たちではなかったかと思う。・・もともとこの列島に住んでいた人たちは毛深かったのではなかろうか。そして毛の深いような人はたくましく力も強く、多くの人々にも畏敬され、信頼もされていたのではなかろうか。 宮本常一」
もともとこの列島にすんでいた人々は縄文人とよばれる。
「食料を採取している人々の中では、世界的に見ても縄文人ほど豊な暮らしをしていた人は少ないでしょうね。奈良国立文化財研究所・佐原真氏がいう。・・縄文時代の最適地だった東北地方の大部分のひとびとは、そのような(米作りという)新来のものに魅力を感じなく、・・縄文のよい暮らしをすてて泥田を這い回る気になれなかったのかもしれない。 街道をゆく38司馬遼太郎」
考古学教室が国内で最初に設置された京都大学の構内で発掘された縄文の人々の暮らしのすぐ500mほどの場所で同じ頃、縄文末期の田んぼが見つかっており、縄文人と弥生人との差はないものと考えられると、京都大学考古学教室の報告書はむすんでいた。京都の縄文人たちは、稲作と結びつくことが早かったのだろうか。

八瀬から比叡山を越えた東、琵琶湖に面した湖畔に小野の地があり、清んだ流れが走る境内の小野神社があったことを思い出した。そうなると小野という地は比叡山をおおきく包むようにあることになる。
京都白川の縄文の人々は比叡山をその採取の庭としていたようで、白川で災害があったのか、白川の遺跡が消える時代に比叡山の東の山麓の縄文人の人口がふえていることから、白川や八瀬の人々が移動したと考えると京都大学の発掘調査報告にある。
古代の人々は山からの採取は日常であったこと。比叡山の細部までこの地の人々、麓に神の屋代をおく賀茂とか、墓地をもつ小野となどには知られていたのだ。山は生きる糧の場所。採取する人々は、縄文人であろう。

「今の黒竜江、烏蘇里(ウスリー)あたりに占拠していたツングース族の中、最も勇敢にして進取の気性に富んでいたもの(オロッコ)は、夏季の風浪静かなる日を選んで、船を間宮海峡或いは日本海にうかべて、勇ましい南下の航海を 試みた。・・樺太は最初に見舞った土地であったろう。彼等の船は更に蝦夷島を発見して、高島付近に門番(オトリ・・・小樽)を置き、一部は上陸し、 西村真次“大和時代”より。 司馬遼太郎・歴史の中の日本」北方民族がこの列島に北から渡来してきた話である。縄文人の一部の人々だろう。

このオロッコの人を司馬遼太郎は現代に発見している。「北川アイ子さんは、日本における最後のウィルタ語の語り手である。・・ウィルタ(旧称オロッコ)の北川アイ子さんは、網走市の大曲に住んでいる。・・この季節(司馬さんが尋ねた季節※ドイ)前夜に雨がふると、アイ子さんは必ず森に入る。落葉松のまわりにきのこがあがっているはずだからである。・・アイ子さんは川に入ることもある。シジミを採るためだそうで・・。アイ子さんは民族の故郷であるカラフト南部でうまれ成人した。そのころ日本の敗戦をむかえ日本人の引き揚げを手伝いつつ、結局は彼女も両親や兄たちとともに海をわたって網走に来、ここがついの棲家になった。・・ある時車にのって札幌に向った。・・走っていて、あたらしい山に出くわすと、アイ子さんは車を止めさせる。ゆっくりと下車し、あたらしい山のために菓子そなえる。 司馬遼太郎 街道をゆく38 オフォーツク街道」

「歳暮・初春その他の行事に村里へ下って山のことほぎを行うものは・・思いの外に深い山中に住んだ者が多かったのです。これが隠れ里の伝説の起源であって、そうした生活法を受け継ぐことに、不思議も、屈託も感じない者が多かったのです。・・みな山人として祝言職を持っていたのです。この山人の中、飛鳥末から奈良初めにかけて・・長期の隔離生活に耐え、山の神自体としての力を保有しようとした山人の生活に、仏教・小乗式の苦行の理想と、人間身を離脱して神仙となるとする道教の理想をとりこんだ・・折口信夫/翁の発生-山伏」
比叡山・延暦寺の修行僧・光永澄道師は「青春から中年にかけての12年間、比叡山にこもっていた。この間、延べにしておよそ地球上一周ほどの距離を歩いた。千日回峰という。文字どおり千日のあいだ、一日30キロから84キロの行場を歩く。84キロになると一日中歩きづめに歩いている。まったく意識モウロウであり、・・回峰行は人間が人間としての特権である文明を拒否して、原始人に立ち戻らねばできぬ行であり、  “ただの人となれ”」に書いている。

785年まだ京都・平安京ができていないころ、19歳の最澄が比叡山に籠った。その山中での生活はどのようなものだったのだろうか?と、ご飯の心配をしてしまう。
最澄は東大寺での修行の末、僧としての国家資格を取得している。国家公務員だった。その職をすてての山篭りではあるが、「従来の仏教のあり方を全部否定して、山林に逃れたのではないのであって、当時は彼ら官僧たちも、その身分そのまま、山林での修行を許されていた。・・現在の大学教授が、ある期間教務を離れて、在宅研究、あるいは内地留学、外国留学を許されるのと同じようなものである。永井路子 雲と風と」
「最澄の草庵の地といわれるところに建つ本願堂は・・叡山の唯一の水源も近い。・・古代人は、風道を見分け、巧にそれを避ける勘にかけては現代人の及ばないものをもっている。最澄み鋭い勘で嗅ぎ分けたか、案外それ以前から付近に似たような山林修行者がいたか・・雲と風と」
公務員給与でていた、のかな?振込みできないよな。誰かに助けられたのか?。
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比叡山というフィールドを7000年前から生活の場としていた狩猟の縄文人の経験を弥生人をいわれる稲作農耕人が受けつがなくて、その土地の“雲と風と”水はわからない。その山人の弥生人の集落への“ことほぎ”が、千日回峰行のなかで84キロをあるく京都切廻りではないかと、フト!思いついた。走ってみよう!!か。

この切廻りのコースに情報を集めたが、どれも細かい情報がない、けっこう大雑把なものばかり。それを一応都市地図に落としてみた。が、コースを決められない。けっこう詳しそうな地図でも、細部がすごく違う。
そうなりゃ、走ってみるしかない。古道、古道!とこれまで叫んできた行きがかりからも、ここでは引けない!!ぞ。
コースに賀茂波爾神社を見つけた。京都でまだ知らない賀茂さんがおられる。まだおられるの!そこにも行ってみたい。
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※京都切廻り「京都が初夏を迎える頃、比叡山から白装束の一行が下りてくる。毎年、この時期に繰りかえされる光景は、回峰行者が一日だけ京の町をめぐる「切廻り」だ。
行者の行く先々の道端には人々がひざまづいて待っている。回峰行者は不動明王の化身と信じられ、京の人々は回峰行者を通して不動明王を拝み、その呪力によって加持を受けようとしているのだ。
行者は、比叡山を未明に出発し、雲母坂から赤山禅院に下りてくる。
赤山禅院から、真如堂-行者橋-八坂神社-清水寺-六波羅密寺-因幡薬師-神泉苑-北野天満宮-西方尼寺-上御霊神社-下鴨神社-河合神社とめぐり、赤山禅院から雲母坂をのぼり比叡山にもどる。切廻りが終わると、京は夏の準備がはじまる。」比叡山・千日回峰行HPから
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by forumhiroshima | 2013-05-04 13:18


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