こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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プロバンスの路地から-8 本物の石風呂へ、アツッ!

「山陽線三原駅で新幹線から呉線に乗りかえると、20分で忠海に着く。車窓からは芸予の島々が見え、その風景は美しくあきない。忠海の石風呂は、その芸予の島々をのぞむ竹原市忠海町床浦の宮床海水浴場のかたわらにあった。石風呂は海辺に建つ石風呂温泉旅館『岩乃屋』が経営し、正月を除き一年中営業している。……
石風呂は入口が二つあり、扉の前に『あつい方』、『ぬるい方』と書いた表札がかかっている。『ぬるい方』に入ってみたが、昨日の余熱で室内は思いのほか熱い。入口の料金表に『朝風呂』とあったのを思い出した。
二つの石風呂はもとは一室だったが、今は壁で仕切られていた。床には筵、その上に海草がひろげられていた。アマモが使われているのを目にしたのは、はじめてである。次いで『あつい方』に入ったが、あらかじめ扉はあけたままにしておいた。内部は隣と同じ大きさであった。……
10時すぎ、『岩乃屋』の主人稲村喬司さんが枝木を運びはじめる。枝木はかつては松と決まっていたが、現在松は全体の二割ほどで雑木が多い。枝木は近在の農家に冬の山掃除のとき束にしてもらい、喬司さんが車で集めてまわる。山の手入れをしなくなった近年は、入手が難しくなり、20キロも離れた山間の村まで集めに行くという。
さらに難しいのがアマモである。アマモは遠浅の海に繁茂し、魚の産卵や生息場所として欠かせない。戦後、瀬戸内海汚染によりアマモが少なくなると、漁民から容易に刈り取ることを許してもらえなくなった。今は最もアマモが大きく育つ夏に許可を得て、20キロも離れた所に刈りに行く。刈り取ったアマモは干して乾燥させて保存し、すこしずつつぎたして一年間使用するのだという。
 枝木は『あつい方』の石風呂で焚き、その熱を『ぬるい方』へまわして同時に両方を暖める。また、『あつい方』の中にドラムカンが壁際に並べてある。なかに真水と潮水が入っていて、余熱でわかし石風呂の前にある洗い場のカランと潮湯にパイプで引いている。こうした施設は昭和23年に父親が石風呂をはじめたときからのものである。そこには合理化経営により、通年営業をはかろうとした経営者としての強い意志が見てとれた。それでも喬司さんが話すように、金もうけを考えれば、続けられる仕事ではない。父親からうけついで20年間焚き続けた喬司さんの言葉だけに重みがある。
枝木に点火したのは、11時すこし前、枝木からの炎と黒煙が入口からたちのぼる。やがて白い煙に変わり煙がたたなくなる11時半頃から、燃え残りのおきを外から掻き出し、細かなおきは室内に入って箒で掃き集める。次に濡れ筵とアマモを敷きつめる。入口付近で見ているだけでも顔が熱くなるのに、喬司さんは作業中海水パンツ一つである。全身からは大粒の汗が吹き出していた。準備を終えた喬司さんは、『地獄に仏とはこのことよの、背中がにえくりかえりよる』と言いつつ、眼前の海に快さそうにつかった。石風呂が本当に好きで、その医療効果を信じているからこそ、苦しい作業もつづけられる、と私には思えた。
アマモを敷き終わったのは12時を少し過ぎていた。取りはずしていた『あつい方』の入口に木の扉を取りつけ、密閉すると『午後1時から』の木札を垂らす。約1時間密閉することで『あつい方』に熱気をため、90度くらいまで温度をあげていくのである。『あとはお客さんにまかせっきりよね』と言うと、喬司さんは旅館に帰っていった。……
準備がととのうと、待ち兼ねていた老人たちが順序よく『ぬるい方』へ入っていく。扉のガラス窓から内をのぞくと、壁に背を向けて足を前に投げ出し、円く整然と座っている。後で聞くと、この日は土曜日で平日に比べ混むので、だれがいうでもなく奥から順に座ったのだという。これが客の少ない火曜日などは、アマモの上に寝そべる。入浴者の自主管理にまかせられるのも、石風呂をよく知る常連客が多いからといえる。……
2回目は横になった入浴者が3人いるそばに横になったが、みな私と頭の方向が逆である。隣の老婆に尋ねると、『あつい方』との仕切りの壁に足を向けるのがきまりだという。『あつい方』でも同じように仕切りの壁側に足を向ける。直接ではないにしろ、他人の頭に足の裏を向けるのをさけるためで、結果的に方向が決まり、後から入った人が仕切りに沿って奥に行くとき他人の頭の上をまたがなくてすむのである。
入ったときから入口においてある大きな団扇が気になっていた。老婆に尋ねると、近くにいた老人が団扇を手に取り天井を、続いて私に向けてあおいでくれた。途端に熱い熱気が体をつつんだ。冬場はことに気温が下がり、扉をあけて出入りするだけでも室温が下がる。入った人は、中の人に迷惑がかからないよう天井に向けて団扇をあおぎ室温を上げるという。……
石風呂への入浴の仕方や作法を通してわかるように、人を思いやる気持ちは細やかで、さらに飾り気のないおおらかさがある。経験を積んだ老人から、生活の中で教わる機会の少なくなった今、この体験はわすれがたいものとなった。宮本常一とあるいた昭和の日本 印南敏秀」

忠海の岩乃屋石風呂は出雲式狛犬の二連の床浦神社の境内の西の細い道をあるいて岬の突端のちいさな小屋の奥にあった。印南さんの文章ですべてがわかります。
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5回は入るもんだよ、と先客がいってくれた。彼の髪の毛はぐっしょりしていて、拭くこともなく、熱くないという室の小さな扉を開けてくれた。5回入りました。というより5回ガマンできなかった、でしょうね。
こんな場所、まだあったんですね。11月にはNHKで紹介されるそうです。大変なことになりそうです。

私は再生されました。新生NEW名前が鳥居に名が刻まれていました。マイッタ!な。
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by forumhiroshima | 2013-09-20 09:23

プロバンスの路地から-7 湯治・丹那の夢

プロバンスの路地に石風呂という古来の蒸し風呂の湯治の宿が二軒あった。いまは閉鎖されている。

9/12の日経新聞に、「湯治、現代風に復活」の記事がでている。内容は本物志向のクアオルト、ドイツを手本のヘルスツーリズム等々。ウオーキングと温泉の組み合わせで、健康増進を図る。とある。
「湯治」をドイツ流って、おもしろそう。ひきかえ、プロバンスの路地の古来日本流の湯治の宿は閉店されている。

冬至の日に柚子湯に入ると、風邪ひかない、ヒビ、アカギレ治っちゃいます。いい香で温まります。ってことだけど、湯治には熱気をつかい海草の海水でむす風呂だった。湯気にあたることを「茹づ」といって、それ自体が湯治を示していた。その湯治・トウジから太陽がもっとも短くなる冬至・トウジに連想され「茹づ・ユヅ」が柚子となる(西郷信綱・古代語をさぐる)。柚子湯は駄洒落ってこと?らしい。

宮本常一さんが郷土周防大島の民話で岩風呂の話を書き留めている。「麦の穂がでるころになると、石風呂がひらかれる。土地、一字・アザに一つはある。そこへ村人たちが集う。リュウマチだとか肩がこる者だとか、仕事がすぎて身体を悪くしている村人たちが集うのである。活動期を前にして十分に身体を丈夫にしておかねがならぬ。そこで石風呂療法をやる。石風呂というのは、普通の風呂とはちがって石室である。石室というのが正しいのであろうが、このあたりでは石風呂とよんでいる。中を石でたたんでその外を土でおおう。その造られた洞の中へはたいてい五、六人がはいられる。初めこの室の中で火を焚く。すると周囲の石がやける。石がやけると中の火を消し、煙をだしてしまって、藻葉・モバを投げ込む。藻は海にあるのであるから塩分をふくんでいる。人々はもう着ることのできなくなったボロボロの着物を頭からかぶってこの石室へ這いりこむ。そして患部へ藻葉を当てて蒸すのである。その間ちいさな入口は密閉しておく。
室からでてきた人たちは、草の上か、敷かれた蓆のうえで、茶をのんだり、ソラマメをかんだり、あるいはかき餅をたべたりしながら雑談する。青空の下に、娯楽を持つことのすくない人たちにとっては実に楽しい会合なのである。 宮本常一/周防大島民俗誌」
麦のでるころは、冬至ではない。冬至に柚子湯の季節感とは隔たっている。とも思える。

風呂は温泉のように湯を張ったもので、湯は湯気を使ったものと区別される。石風呂は石室・イシムロだといえる。「室」についてはよくこんな風に語られる。「洞窟・室の信仰は、石器時代からの、人類の最初の住居であり、最後の住居である。・・そのことは、そこから人がもう一度生まれてくるための母胎であり、修業者では、あらたな宗教的・霊的再生を期する場であった。 西郷信綱/古代人と夢」
昼間がもっとも短い冬至は、それからの太陽の成長の初め、復活の日。だから「室」での再生を望む。冬至が湯治の日となり、柚子のお出ましになるともいえそうだ。駄洒落だともいえない。

 丹那の石風呂は「木造三階建てから、鉄筋コンクリートの近代建築に建替えた。二階に居酒屋をつくり、客待ちの便宜をはかった。曜日ごとの石風呂ファンの会は続くなど、大都市広島のオアシスとして継続するものと安心していた。ところが燃料になる枝木や藻葉のアマモを入手することが難しくなった。主人の岡本良雄さんはがんこで、一切偽物は使いたくないといって廃業した。 わきもと茂紀/瀬戸内海遺産・石風呂」
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丹那・石風呂の建物から南、仁保島の海岸線へむかう路地に小さな祠がある。日宇那の潮風呂ちかくの浜辺だった場所に神社がある。主人の「がんこさ」は伝統継続の困難さと、代替の素材での継続では、その伝統がもつ治療という神業の継続への不安があったのではと、そばの祠の佇まいが教えてくれた。治療にならないという評判はこわいだろう。
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神事を継続するような湯治屋のご主人の気持ちが、常一さんの書く大島の石風呂の有り様に、おかしな連想をわたしの中にひろがってきた。それは・・

いきなり古代の話へ。平安京遷都から数年後の716年、出雲大社の出雲国造の代替わりに、国造自ら、都にのぼり就任儀礼をおこなっている。その朝廷への祝詞に「厳・イツの真屋にアラ草を、厳のムシロと刈り敷きて、厳の瓮黒益し、天のミカワに斎みこもりて・・出雲子に造神賀詞/イズモコニノミヤッコ・マムヨゴト」・・厳の真屋とは忌みこもりの舎屋をさし、そのなかで質素に草を敷物にし、カマドを黒くするような暮らし・・西郷信綱/黄泉の国と根の国」
いやはや、訳の判らん祝詞である。この列島に上陸した多種の言葉の人々の生活圏がオーバーラーープしはじめた時代の言葉を、文字にすることが困難であったのではないだろうか。西郷信綱という大国語学者をもってして解明されても、その解明がもっとわからないのだが。
 想像いや妄想として、これは、大島の農民が石風呂のなかで、熱気にじっと我慢している景色ににてないだろうか。石風呂は神々がもたらした再生治療として、その忌み籠りの様子の再現ではなかろうかと、想像したのだ。そう、石風呂は人の治療というより、人の再生装置であると信じた人々がこの石風呂を残してきたのではなかろうか。そして、その再生装置は、当然に神々しい場所に置かれなくてはならない。

日宇那の住田さんちの潮風呂は、明治40年代。丹那はもっともっと古いといわれる。仁保島の明治31年の地図をみてほしい。丹那も日宇名にもプロバンスの路地は通っていないようだ。丹那も日宇那もその中央の楠那へも船でしか近づけない。仁保島の南海岸は秘境にみえませんか。この南海岸の集落には古代の劇薬、朱砂の採取族、ニホツヒメの神を掲げる人々がいた。そこに神々のあやつる人の再生装置が置かれたのは、神賀詞の読み上げたれた8世紀よりもっと古い此の地に、そのころの遺体保存薬で最大の殺菌薬で劇薬の朱砂をもとめてきたミホツヒメ神をいだく人々への畏れの記憶があったからではないか!あの浜にはむかし大変な妖術師たちがいたと伝承されていたからではないか。
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その時から2000年もたって、やっと人はIPS細胞を見つけた、のでは!

西日本に今唯一、この古方による石風呂があることを見つけた。そこは忠海・床浦神社そばの岩乃屋の石風呂。入ってみよう。いかずばなるまい、ぞ。
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by forumhiroshima | 2013-09-19 16:42

プロバンスの路地から-6 ブレックファーストはおでん

このごろ朝が早い。とてつもなく、早い。3時をすぎるとお目覚めになっている。薄明かりの朝になって、ごそごそ自転車をひきだす。新聞配達のバイクのおばさんと、「・・おはようございます。」まだおはよう!には、お早い時間だ。

仁保島周回を終えると、比治山へいったりするが、まだ肩から首が張り出す。ちょっとツライ。

仁保の町の南端、高速道路がマツダの南の海へ向うところ、高速の高架下と呼ぶのか、そこにテント造りのうどんやがある。隣にコンビニがあって、勝負してるって感じならまだしも、お客さんがいるのかな?と、覗き込む感じで、また外観のインパクトの強さともあいまって、気になって仕方ない。
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朝日が高架下に差し込むころ、テントの隣の日宇那の漁港の海がきらめきだす。フェンスの扉の鍵が開けられて、一人老人が船に降りていった。出航の写真でもいただこうか!と、テントのうどんやさんの横へ走った。
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テントの中の女性と眼があって、会釈された。テントの貼り付けられてるメニューや営業時間の字はおじさんがやってまっせ、風で、びっくり。会釈につられて(女性だからじゃない!)入店。目の前におでんの鍋がある。朝の6時すぎに、おでんの湯気が光の中でゆらめく。自分の頭もゆらめく。朝日の陽光がビール色だ。
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隣の漁港に面したカウンターと、店の中央に屋台。屋台は以前呉市の体育館の北においてあった、うどんや「一心」のと同じだ。「一心」は代替わりで屋台は撤去されて、普通の食堂にかわった。屋台のうどんはマリモみたいに丸めたトロロコブ、細く刻んだきつね、うすい、薄いかまぼこ、が細めんのうえにのっていた。なつかしい。

テントのうどんやさんも細めんと掲示してある。「あの、この屋台は」「それ、主人が作ったものですよ」そうか!あの呉の屋台じゃないんだ。
と、窓・・はない、テントの窓の向うの港から漁船が走り出した。カメラが間に合わない、よ。

しかたない、しょうがない。「おかあさん、こぶうどんとおでん、・・・ビールは壜で」
朝日の中のおでんとビールとうどん。やばいね。病み付きになりそう。次回は、メニューにある「全乗せ、800円」。
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でも、どうして営業時間が6:30~8:30、11:30~14:00の変則なんだろうか。この質問は次々回の宿題としよう。
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by forumhiroshima | 2013-09-12 16:55

プロバンスの路地より-5 海の記憶

仁保島の本通りの周回も、毎日では、ね。と、海を探してみた。マツダの工場に隔てられていて、わずかに大河や日宇那、仁保の漁協の港で海に近づける。
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 今日の朝日はきれいで、その陽光のなかにサギがスックと発泡スチロールの上にいた。
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「家のすぐ沖は埋め立てられ、新しく出来た大きな道路をへだてた南に漁港がつくられ、漁港の周囲も埋め立てられて、一本の水路を通って外海へでるようになっていた。朝起きて海辺へ出て沖をながめてその日の漁を考えるというような生活はもうここでは出来なくなっている。いずれは漁業をあきらめるほかに方法がなくなるだろう。それにもかかわらず、海への執着から、家の前面にわずかばかりの海をのこしてもらったのであろう。宮本常一/私の日本地図」
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「日宇那では海が全然なくなっている。下の写真は昭和36年にうつした。いかにも平和な漁村である。それが上図のように埋め立てられ  私の日本地図」
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丹那から楠那、日宇那そして仁保まで細い水路がのこされて、どよんでいる。“海への執着”でこれが残されていたのなら、望んだ皆さん、もっと掃除しているだろう。ひどい状態だ。

日宇那の漁港は高速道路の下となって、アーバンな景色のなかに、古風の彩りをそえている!のだろうが、朝、船で作業しているおじいさんは、天井があっていいわい、とアーバン逆手にとった話をしていた。アナゴ釣だといっていた。けっこう漁になるらしい。
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各々の漁港に船を係留するには、漁業権が必要だという話をきいた。レジャーボートを係留するために、その漁業権を買うひともおられるという。釣り人ニッポン!にちがいない。
が、ここの港にはそのレジャーボートはあまりないように見えた。いやすっごいレーダーのある船があったから、それがいまごろのレジャーボートかもしれない。

常一さんは対馬に出稼ぎにきていた、仁保島の漁民たちや、その子孫たちを以前に調べている。その思いが「もともと地元の海がせまかったから他所の海でかせがねばならなかった。しかしその海も今はほとんどうばわれている。話をしてくれた老人はいまはどうしているのであろうか。あのたくましい生活力は、いまは何にむかって爆発しているのであろうか。彼らの乗った船は小さかった。とくに対馬行をやめてからはたいして改造することもなかった。渕崎の海岸につながれた船は動力化したものすらほとんどなかった。 私の日本地図」
この現実がこの国の食料自給率の低下をもたらしているのだろう。

プロバンスの路地に窓がいっぱいあって明るいお好み焼きやさんがある。店内の明るさがすき。関西では食事のお店も午後2時すぎると休憩時間で閉店されるが、広島のお好み焼きは休憩などない。いや、だいたい休憩してるようなもんだ。とは、そこのおかあさんの発言です。そのお店でそば入りを食べてると、おばさんがやってこられて、明後日に太刀魚一本たのむ、といって帰られた。おかあさんに、いまの注文はなんです。太刀魚一本いるから用意しとけよね。それって・・。この店は以前は魚屋していたけど、お父さんの体の不調でやめた。でもここ丹那や楠那の住人は魚にうるさいから、さっきのような注文がくる。うちでは、煮付けも刺身もつくれるんよ。それも市場からその日に配達してもらってね。
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そこにドヤドヤとおばさんたちが来店。月末のヨーロッパ旅行の話でもりあがってる。おこのみのおかあさん、そうそう二週間ほど休むけ。わたしも行くんよ。
今度のパリのホテルはどうこう・・バスローブついてなかったら、旅行会社に文句いってやる!!等々。常一さん、おばさんたちは、爆発してますよ。海外旅行にですよ。対馬じゃなくてバスローブつきホテルですよ。
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by forumhiroshima | 2013-09-11 17:47

プロバンスの路地より-4   海苔

仁保島を一周する細い古風な、路地よりは広いが車の離合は難しい道を、本通りと昔はよんでいたらしい。その道の外側はその昔は瀬戸内の波にあらわれていた。
 道沿いに家々は、蔵付きの白壁の家や、あたらしいプレハブと混ざり合って続く。その中にバラックの作業場のような、軒の低いクモリガラス戸の作業小屋らしい、ちいさな空き地のある家のちいさな白いカンバンが眼にはいってきた、海苔をあつかっていた家らしい。
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 そのカンバンが出雲の平田から北上し、峠を越え短いトンネルを抜けると、断崖の上に飛びだし、日本海に飛び込む景色につつまれる場所の神社を思い出させた。その峠を越す手前に暗いスギの林の鎮守のなかに野呂志神社と、その隣に出雲では「横屋」とよばれる神職の自宅、それは玄関に張られた注連縄でわかるのだけど、があった。横屋は低い生垣で縁側の籐椅子に坐る老人がみえる。会釈をすると、白髪がゆれた。
 ノロシと読める神社のおおきな石柱から、その奥の森の上の山並みを見上げた。そこのどこかで、ノロシを焚いたことが、この神社の由来かと。
 が、後で「出雲国風土記・注釈」をみると、風土記には乃利斬・ノリシ社と書かれていて、それは海苔石からの名とあった。峠の向うの海岸は海苔の生産地であったという。風土記では海苔を「紫菜」と書く。中国語やしいが、古代8世紀には海苔は神様であった、となる。海苔からの出雲への連想。
 白い海苔のカンバンは出雲の島根半島のサイクリングの時間を呼び戻してくれた。あれ、楽しかった!

 カンバンの作業場のある場所の南は、日宇那という集落で、古い家並みの頭上の尾根に団地ができて、クロサワの天国と地獄の景色。この仁保島を歩いた宮本常一は、こう書き残す。「そこで見たものは、漁村らしからぬ部落であった。家は密集していたし、道は狭かったけれども、一戸一戸の家は大きく堂々としたものが多かった。そして白壁を持っていた。白壁の家というのは富裕であることを示しているようなものであった。白壁の家ばかりでなく土蔵も多かった。決してまずしい漁村ではない。そしてかってこの浦々がめざましい活動をしたことを物語っている。 宮本常一/私の日本地図」このあと仁保島の漁民たちが壱岐対馬へ出かけていたことを述べている。“天国と地獄”の構図ではないのだ。

日宇那は、というより仁保島の周囲は海苔養殖の干潟であった。広島の海苔屋さんのHPに、明治時代にはここでの海苔の生産量は日本一であったとあり、味付け海苔の量産化は仁保の海苔屋によって開発されたとあった。東京の日比谷の日比はこの海苔養殖の竹を埋めるヒビだという。日宇那の日宇はどこかひびににてないかな。
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仁保島の西の大河の集落の奥に黄幡神社が巨木の楠を繁らせて鎮座している。本殿の隣に石碑がある。江戸時代19世紀初頭の江戸で将軍のお出ましのある相撲の御前試合で勝利した広島藩の三代十郎という力士が、その勝利により広島湾の干潟での海苔等の海上権を授与された。その功績碑が、それだ。
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 後にこの海上権は江波の漁民との争論が起こった。そのころから海苔養殖が漁民活動にひろがったのだろう。大河郷土史会によると、幾度も係争になって、広島藩により裁定がでたことで、落着したとあった。
その裁定で、新しく江波と仁保との境界の設定が行われ、その境界線が新しく佐伯郡と安芸郡との境界になったとある。その境界線が「六番の八重ひび西袖の鼻より潟上のまゝ真っ直ぐに見通し、向う沼田郡八木村の内、あぶ山峠を目標に刺し、それにより西手は明潟としておき」とあった。
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朝恒例の自転車散歩、これをプロバンスのプロムナードサイクリングと呼ぶ。ゆらゆらと黄金山を時計回りに走って日宇那に入ったとき、この海人たちの争いから陸地に刻まれた彼らの境界線を確認しようか!と思い立った。そして、思い立ってすぐに体が動くようになったのか!と。気付いた。うれしかった。ここ一ヶ月たくさんの物が壊れたけれど、この自転車以外はもう壊れる物はないことにも気付いた。自転車ガンバ!!。

海人たちの山アテとか山標とかは、山頂を指すのかとおもっていた。が峠は山頂より確定しやすい目印にちがいない。境界線となる本川にかかる橋の欄干から、あぶ山の峠をさがした。期待していたほど明確ではない。この場所ではないのかもしれない。あぶ山をみていて、この山が象山とよばれていても、象に似てないとおもっていたが、橋の欄干からは、峠のちいさなくぼみが象の耳の端にみえる。花祭りのお釈迦様の乗った象の置物が想像できた。漁人たちの係争の裁きは神様でなく、仏様にお願いしたのだろうか。
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出雲の白髪の老人のお守りする野呂志神社も“海苔のついた石”とうような難解なことでなくて、日本海の海人たちの魚場の境界ののろし山カモシレンナー!と思いつきにほくそ笑んだ。
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by forumhiroshima | 2013-09-11 06:02

プロバンスの路地より-3  人は神をつくり、かつぐ

仁保島の地名は、古代の水銀・朱砂の産出であろうことは、ここに爾保津姫・ニホツヒメ が鎮座されていて、その女神が朱砂の生産の神であることから推測される。この瀬戸内の島へ上陸したのは採取鉱石の人々であったということになろうか。(いろいろある中の一説だけど。匂う島とか、鳥の名とかあるが、女神の島が、いいじゃないですか)

島の南に丹那という集落がある。「丹」は水銀化合物の朱砂を示すことばで、鉄化合物のベニガラや鉛化合物の鉛丹などの朱色とはちがって、発色の強い赤色をいう。朱色はいまは鉛丹やベンガラのオレンギレッド、バーミリオンになっているが、それは赭と書かれ、丹は真赭・マソホとよばれた。「丹」を「に」と呼んで、他と区別したのは古代中国人でよほど朱砂の特性を習得していた人々だという。(古代の朱・松田壽男)仁保島に丹那という地名をのこしたのは、渡来の中国人だと、妄想もできる。「ニンハオ!」
738年に山口県(周防国)から朱砂(埴土)が税金として納められた記録があり、また出雲大社だろうか、それを「八百丹杵築宮」と出雲国風土記にあり、1999年に大社境内で発見された巨柱には朱がぬられていた。朱砂は高価な換金商品だったことになる。この高級職人集団は朱砂が採り尽されると移動しなければならない。放浪する人々になる。仁保島にいま彼らの痕跡はない。
では行き先はどこか?となると、あたりまえに「わからない」。だた、江戸時代の芸藩通志に「久代村高野権現山を“にひつ山”とも称するよしなれば、此の山に爾保都比売神社の鎮座ありしやとおもはるれど、外に跡あらず」とあるのを見つけて、東城町の南の八代の地図の神社マークへ府中市から走った。仁保島から舟で府中へ、という想定です。登りの旧道へ入ると、水銀採取の放浪する人々の一員になったような気分で、自転車よく走ってくれた。急坂で上がる尾根の数軒の山里で神社の場所を聞いて、自転車を押してウロウロして、やっとその神社をみつけた。杉木立におおいかぶされて、朽ちそうに存在していた。拝殿には新しい榊が御幣をつけていけてあった。場所を聞いたあのおじいさんが、もしやして古代朱砂採取の人々の末裔だったのだろうか、ね。こんあ遊びは、ほかにはナイでしょう、・・・か?

仁保島から爾保都比売神・ニホツヒメガミを担いだ人々がさってしまって、その集団へ食品等を納めていた人々は、のこされて、水銀を水カネと呼ぶことからか、自分達の神、水の女神・弥都波能売神・ミツハメノカミを担ぐ。此の女神が、丹那の鎮守の穴神社に鎮座している。としよう。

丹那の集落の中央、車道のそばに「清水の井戸」がいまも生きている。蛇口から甘い水がでてくる。水の神さまはヘビだという。それで、蛇口??
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清水の井戸の側の車道を真直ぐにのぼり峠をこえて降りると、爾保姫神社の森がみえる。この女神はすでにどこかにいってしまった、のでは。
神社の由来の書かれた掲示に、この神社はもと「正八幡宮」であったとある。正八幡宮の祭神の神功皇后が朝鮮半島に“御征伐”にゆかれ、お帰りにこの島に立ち寄ったとき(390年ごろ)、爾保都比売神が出現し“鎮護綏撫”(意味わからん)された。その返礼に白羽の征矢を邪気払いのために放たれた。その矢がこの山上に落ち、そこに爾保都比売神の社を造られた。それがこの爾保都姫神社とあった。
その後885年に神功皇后をまつる正八幡宮を造り、1288年には黄金山に城を作った武将から社領30石を贈られた。と由来は続いている。
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爾保都比売神がいなくなった仁保島に正八幡宮を祭るひとびとがやってくる。そして、丹那から山越えしていまの本浦に「白羽の矢」が落ちた場所だとして正八幡宮を建立した。本浦の前の海は猿候川によって砂洲になり、そこを開拓して、13世紀には神社に武将がおすそ分けできるほどの農地が出現した。
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この由来から、こんなふうに読めないかな。それにしても、「神功皇后が朝鮮半島に“御征伐”」のおり、は播磨国風土記では先日書いた、兵も舟も真っ赤にして乗り込んだとある。それとちがう「白羽の矢」の話もどこかにあるのだろう。
爾保都比売神と神功皇后との出場場面の伝承が、いまもこの地に爾保都比売神をかかげている訳なんだろうが、山は仁保山から黄金山に変わってしまった。放浪する人々に担がれていってしまった爾保都比売神に遠慮しているのかもしれない。

一方、水の女神・弥都波能売神・ミツハメノカミは稲作の水の神様だといわれる。丹那の清水の井戸程度ではないスケールがこの神様には必要じゃないか。おおきな農地があったような、この仁保島で一番おおきな大河の谷へ走った。神社のすぐそばなんだけど、走った。

背景の山はすっかり住宅地になって、流れはほそい溝にチョロチョロ。道端に井戸の跡もみられる。谷は西にひろがってビッシリ住宅がたてこんでいる。水田であった証の石垣はみられないから、畑だったのだろう。尾根には、ため池もある。谷の行き止まりは墓地になっている。そこに真紅の大師堂がたっていた。真っ赤なお堂には、たまげた。爾保都比売神の御神託での真っ赤か?爾保都比売の御神託である真っ赤な舟の再現か!それにしても、オレ以に、はまっているな。これ造った人。その奥に朽ちた鳥居がみえる。丁度朝の散歩にでてこられたおじいさんにたずねると、草のしげった参道を教えられた。あがって、戸を開くと、そこは丸に金の金光教になっていた。もう一度外にでて、朽ちそうな鳥居をみた。
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神は人がつくり、人が担ぐものだと、しっかり確認できた。


このごろ次々に近くで、いろいろ”壊れてゆく”。携帯、パソコン、車、等々。
ひさしぶりでおみくじをひいた。自分は大吉か凶か、が多いのだが、今回は大吉だった。
「転居 いそがぬほうが良し」。もう、遅いよ。
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by forumhiroshima | 2013-09-03 18:16


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